六月五日 火曜日 A市立病院 個室

 目が覚めると病院だった。それは分かる。お昼前? 左手首の時計を見る。十時半。午前中の一番いい風。窓が少し開いていてカーテンが揺れていて、白が基調の部屋。風が気持ちよかった。
 すっきりしていた。

 実際は高熱を出し続け、大切なひと達に多大な迷惑を掛け続けていたのだけど、手放した意識の中には、ひょっとしたらそれらすら含まれていたかもしれなくて、気分は中学へ上がる直前のようだった。
 もう小学校みたいに虐められなくて済むのかな。淡い期待を抱いた春休み。違ったけど、ちゃんと生まれて初めて嬉しいことがあったから。
 けど今の気分はそうじゃなくて、まっさらというか、ほんとうになにもなかった。
 開放感。
 すっきりして、なにも考えなくてよくて、まっさらで、気持ちがいい。風を感じる。
 わたしは本来そういう人間だった。ひとりで。それはそれで気が楽で。別に誰かの目なんて気にしてなくて。本当は、ひとと接することが苦手で。真っ赤になることも、泣くことも照れることも、どきどきすることも、まっくろになることも、なにもなかった子供のころ。すこし大人になれるのかなと思った、雪解けの時期のあの気持ちよさ。
 まだ春先は風が冷たいものだけど、あのときだけは今みたいにあたたかかった。
 今は陽の光すらあたたかい。
 窓の外をずっと見ていた。

 意識を取り戻したわたしは看護師さんに髪を洗ってもらって、体を拭いてもらった。なんだかくすぐったい。お食事、出るみたい。病人食だけど、食べるのは久し振り。
 なんだかとっても気が楽で。
 あんまり楽だったので、まだ食事前だというのにうとうとしかけた頃、病室の扉ががらっと開いた。その人は長身眼鏡で長めの黒髪。下は学生服、上は白い半袖の開襟シャツ。ああ、衣替えがあったんだ。なんだか眩しい。脚長ーい……格好いい……。かつかつと靴の音を鳴らして入って来る短い間、そのひとにときめいていた。
 そのひとはわたしに一直線に向かって来ると、乱暴だろうにうんと色っぽい仕種で眼鏡を外して、とにかくわたしに向かって来て、あれ、そのままだとぶつかるんじゃ、と思っていたら顔に迫った。
 熱い息。
 におい。
 どきどき。風を巻いて。迫力、男っぽさ。自然に瞳を閉じる。ぼけっとしていたから、口は少し開いていて、そこを貪られる。強引で、熱くて、入って来て、蹂躙されて、その直前の表情。瞳を閉じる前に見た一瞬の表情。
 もう──いてもたってもいられない──わたしを──求めていた。
 キス、されるがまま。唾液を飲み干す。腕を回す余裕はない。けど、わたしの両ほほはおっきな手でやわらかく押さえられてて。熱い。力強い。何度も貪られて、けど応える余裕はない。
 ずっとずっとずっと、息が切れると思うまでそうしていて。
 ん……とお互い声を思わず出す。ちゅ、と思わず音を漏らす。糸を引いて離れる。うるんだ瞳でわたしを見る。
 好きだ。
 そう口が動いて、穏やかに笑って、そのひとはこころを置いて病室を出て行った。大股の、その後ろ姿すら格好よかった。

 わたしは惚けていたのだけど、この一部始終は看護師さん数人にしっかり見られていたらしく、さんざん冷やかされて、真っ赤になって、気分は退院が少し延びたって感じ。

六月六日 水曜日

 昼過ぎに退院して家へ戻る。そういえば衣替えなんだなあ。晴れで、うんと気分がいい。風がやわらかくて心地いい。
 体が軽かった。

 家へ戻ると、母ちゃんが制服の夏服を出して来た。上がベストにブラウス、下はプリーツのスカート。けどこの時間だと、もう今から学校へは行けない。まだぼけているし。
「母ちゃん、今から学校へ行くの?」
「違うよ、ちょっとこれ着てみなさい。あーああ、ちょとこれはねえ。父ちゃーん、車出してー」
 なぜか母ちゃんはわたしに夏服を押し付け父ちゃんを呼んでいる。どこかへ出かけるのかな。
 入院なんて随分心配させちゃったし、夏服は初めて着るし、明日の予行演習ってことで着てみよう。
 だぼだぼの普段着を脱ぐ。病院生活、の~ぶらです。らくちん。
 一応、たんすからちゃんと下着を出す。上に下にくつした。靴は履かなくていいよねえ。
 ぶらをしましたら、かっぽり。
 ……すかすか……。
 わー……どうしよう。ひょっとしてー……痩せちゃった?
 わーいわーい。胸がでかいやつはバカだ現象から脱出だー。
 嬉しくなって、ぶらは止め。
 パンツ、は伸縮性があるからこれはよしとして……あれ、これ、ゆるい。
 待てよ、ぱんつはゆるい、ぶらはすかすか……ひょっとして……下着類、買い替えなくちゃ、いけない……? また? そ、それはいやだーーーー。
 気を取り直し、とりあえず引っ掛かるぱんつはなんとか穿きまして。ぱんつぶらなしで制服はないだろう。
 スリップ……ぶっっかぶか……横があまっている。これはまずい。全滅だ。
 気を取り直して。……でも駄目だろうきっとと思ったブラウス。はいダメです。布が余っています。
 それでも根性で着まして。なんかもう不格好を通り越してコメディアン?
 スカートを履いて、左横のチャックを上げて、けどもうその時点で分かっているんだけど、とにかく止めたら。
 腰のところでギリギリ、止まった。
 まー間抜け……。
 このスカートはベルトで締めるタイプじゃないし、ましてゴムでもないので。体の線どおりのサイズでないと駄目なんです。
 ベストはもう諦めた。なんだこれ。

 母ちゃんが、部屋のドアをノックした。
「梅子、着た?」
「着た……駄目だった、全滅……どうしよう」
「普段着に着替えて、今から買いに行くよ。あー、また全部何枚も……」
 それを言いたいのはわたし、だー。大体、つまりなに? わたしの体、いままで服を……骨、なんかじゃなくて、にく、で支えていたというか、ということ? ということは、こーんなぼんれすはむみたいな体をー……。よく、……みみみみられるどころかなおひとは……。

 病院で目が覚めたときの、あの夢のような開放感はどこへやら。財布を握り締めながらぶつぶつ言う母ちゃん、仕事を中断した父ちゃんをよそに、わたしはひとり絶望に打ち拉がれておりまして……。

 女の買い物は長いと文句を小声で言いまくった父ちゃんは、わたしたち二人を二番駅付近へ車から下ろした後さっさと帰って行った。こういう事は何度もあったけど、今回はまじめに時間が掛かるでしょう。
「梅子、まあ……女の子だからねえ一応……ちょっとぽっちゃりよりはいいだろうけど……梅子、お前体重戻りそう?」
 う。なんて答えづらいことを言う。
 いやだ。戻したくない。これから夏になるし海でがんがん泳いでやる。
「か、母ちゃん。はっきり言って、今の方が、さっき自分の体を見たけど、す、スリムっていうかで、いいんだけど」
「やっぱりねえ……あーああ、財布のヒモが……」
 うう、ごめんなさい母ちゃん。びんぼーな我が家なのに、今更下着とブラウス制服一式買い替えなんて……夏服、今日の一回しか着ていない。
 以前もこんなことがあった。けどそれはブラのみで。ぱんつ等々はゆっくりサイズが変化したからあんまり、なかったんだけど。
 しょうがない、と女同士溜め息を付きながらの買い物行脚。お店を何件か回って。ブラはサイズがひとつ落ち、ぱんつもスリップも規定のサイズの中間らしくて、お金が……。わたしは身長は高いってわけじゃないし低くもない。ブラウス、これは毎度胸にあわせて困っていた。母ちゃんに泣いていただいて、ちょっと学校指定のものは無理でして、似たような外見の、ちょっとその……お値段高くて、サイズを合わせたものを。本当に泣かせてしまったァー。
 下着の色はなんとなく、全部白にした。なんとなく……。
 そして制服。下はすぐ決まる。問題は上。学校指定の制服店のひとは、最近の若い子はねえ、と言って、さっさか直してくれた。これまたお金が吹っ飛んだー。
「梅子……絶対太っちゃ駄目だからね……これで元に戻りましたなんて言ったら今日の出費、夏休みにバイトしただけじゃ全然間に合わないんだからね……」
 うう。ごめんなさい。
 そうです、普通の服ももう合わないんです!!
 ぶっかぶかでいいなら、ズボンとかはいいけど、スカート類は全滅だ! わっはっはー。泣きのついでにジーンズを買う。はっははは。ジーンズは知っての通り、細かくサイズが選べていい。もう店員さんに、入院して体重落ちて、今自分がどのサイズかよく分からない、と正直に言い、丁度いいサイズを見繕ってもらった。色は、なんかちょと緑の入った、一見黒っぽくて。あ、でもこれ、おなか結構見えますよ。なに、流行り……あ、そう……。
 何本か、買いまして。
「梅子……今度の休み、家手伝ってもらうからね……最近よく出たり入ったりだけど……友達と遊ぶのいいことだと思っていたけど……もぉ働いてもらおうか」
 あ、土曜日だけは勘弁を……。
 買い物はこれで止めにした。そうでないとそうでないと……。