五月三十一日 木曜日 朝

 朝、母ちゃんに起こされる。はっとして左手首を見ると、もうかなり遅かった。わ! と思って躯を起こそうとして頭がぐらついた。母ちゃんは早く起きなさい、もう間に合わないから父ちゃんと一緒に、と言いながら部屋を出て行った。その背中が霞んで見えた。何度もごくんと唾を飲み込んで、吐き気を抑える。駄目だ、分かる。
 時間がないから朝ご飯なんて到底無理だったのがありがたい。急いで起きて洗面所へ。冷たい水が気持ちいいけどそれは吐く体勢だった。自然胃液が出た。歯を磨く。
 みんなとお揃いの上下を。合同用のジャージで、ジャージと言ってもちゃんとしたスポーツウェア。街に着て行ってもいいようなもの。組ごとに色が違うだけでみんなお揃い。三年生はいい記念になると思う。二年生は来年も使用。一年生は、これまた記念品になる。それに運動靴を合わせて。中のTシャツは組ごとにデザインしたもの。ハチマキもある。組の名前と同じ白。女の子の中にはめいめい組の色のリボンをする人もいる。わたしもそのひとり。あすみがこういうのが得意で、肩より少し伸びた髪をポニーテールにしてそれにリボンを、という予定だったのだけど。
 もうそんな余裕はなかった。

 お弁当は持って行かない。今日から三日間は、梅子と一緒にお弁当食べる。そう言って、二人分準備してくれるひとがいるから。期待してて、って言っていた。
 けどこれは駄目かもしれない。電話、しなきゃ……。
 そう考えていた時には、もう車の中だった。助手席にではなく後部座席に。わたしが、ガラスに寄り掛かっていたのを父ちゃんはまだ眠いからだと思ってくれたらしかった。
 ボタンに手を掛けても無理だった。霞んで、ぼけて見える携帯。鳴っているか震えているかも分からない。どうしようもないだるさ。寒い。発汗を感じる。車が揺れると吐き気がした。吐き気……前もしたけど、あれは気持ちが悪かったけど、今回は純粋に吐き気。気持ちの吐き気じゃなくて、体の吐き気。どっちにしろ止められない。
 とても我慢出来なくて、目を瞑って、両手をだらんと落として、携帯は座席に置いて、そのまま学校へと向った。

五月三十一日 木曜日 A高 運営テント下

 ここ運営テント下には、現在執行部は四名しかいない。他の役員や運営は全員トランシーバーを備えて各自の受け持ちポイントへ散っている。
 遼太郎が、心配顔で携帯を切る斉志に訊いた。
「どうだってお前の」
「朝寝坊して、飯も食わずにおやじさんの車で向ったそうだ。時間は間に合う」
「そうか。お前の、前の日キンチョーして眠れなかったんじゃねェの? 今頃車の中で寝ているんだろ」
 明美はA高へは何度か来ていても、校庭へは本日初めて足を踏み入れた。人、人、人でごった返す景色を目前に、斉志へ尋ねた。
「まったくウメコらしいといっちゃらしいけど。あいついつもこうなのか?」
「梅子のクラスのやつが言うには、いつも遅刻ギリギリだそうだ。俺のせいで」
 斉志の言う“クラスのやつ”とは、斉志が羨まし過ぎて殴りたいブラックリスト上位の坂崎哲也のことである。間違ってもサッカー部くんではない。
「それは最初の二週間だけだろ? これが済めば処分はパァ。ちゃんと話付けたじゃないかここの校長とよ」
 明美は、まさかこの先なにが起こるか、いや、今なにが梅子の身に起こっているかなど考えず気楽に答えた。なにせ先日、この学校内であれだけ元気な姿を目にしている。
「それにしても斉、お前よくこんなこっ恥ずかしい競技を考えついたなァ」
 遼太郎の言う“こっ恥ずかしい競技”とは、後に“ラス前の競技”と呼ばれる競技のことを指す。お楽しみというからには、本来は直前に皆へ通達した方がお楽しみ度は増すのだが、人によっては事前に準備が必要な競技であるので、先日の放課後に全生徒へ文書で通達してある。ただ、梅子はそれには参加しないので、我関せずとばかりにその書類は見ていない。
 見ていたら、ただ倒れるなどしなかっただろう。まさかあ~んな競技だとは。いや、競技と言えるのか?
「お前達が使えない競技ばかり言って来るからだ」
 斉志がドンと座って言った。さっきの心配顔がふっ飛んで、余裕綽々ないつもの表情へと戻っている。きっとラス前の競技のことで頭がいっぱいなのだろう。
「っかー!! オンナが出来るとヨユーだな!」
 明美があきれて言った。後で書くのもなんだから今記すがラス前の競技とは、
“恋人同士が一緒にいちゃつきながら歩く。外野で見守る管内の高校生全員に見せつけながら一番遅くゴールへ到着した者達が勝ち”
 というものなのだ。これのどこが競技だ、である。
 この詳細を知らぬは梅子ひとり。当然斉志は問答無用、参加しないと書いていようがいまいが無理矢理一緒に出場することは、思い付いたその瞬間から決定されていた。
「早く来ないかな梅子。遼、俺パンかなにか買って来る」
 しかしその梅子がまだ来ない。いくら遅刻ギリギリが常と言ったって、それは罰を受けている通常の登校日だからだ。こんな日はいつもきちんと来ると思っていた。なにせ先日は遅く来るどころかあれだけ早く来てくれた。斉志が梅子を遅刻させたことはあっても、梅子が時間にルーズだとは到底思えない。
「その内来るだろ過保護。そんなことは役員にさせろ、お前は競技以外動くな」
「明美さん……なに油を売っているの? 開会宣言の草稿……出来ているんでしょうね?」
 この場に残る運営の一人、森下和子である。さっきから三人の会話をそれとはなしに耳に入れていたが、誰がどうであるかは、和子ならでは察し取れていた。
「女史ィ、あたしにそんなもん似合うわきゃないだろうが! あたしはいつも出たとこ勝負!」
「ふ……そうだったわね」

五月三十一日 木曜日 A高 正門前

 そこは多分、すっごい人だかりだった。と思う。
 父ちゃんに、正門そばの茶店隣の駐車場まで車で送ってもらう。そこからは歩き。
 父ちゃんに心配かけたくないから、後部座席からするりと降りて、じゃね、とだけ言った。父ちゃんはすぐ帰った。
 あとはすぐそこの正門を通って、坂を上って、F組へ行かないで途中で左に曲がって校庭へ。白一年は運営テント前、つまりグラウンドの真ん中、一番前がわたしの集合場所。行かなきゃ。けどその前に、このきつい坂、上らなきゃ。
 もう、目の前は白く霞んでいた。われながらフラフラ。
 正門までは辿り着けたけど、坂を上がるために少し足に力を入れただけで、もう一歩も動けないと思った。もう、ここで倒れることが出来たらどんなに楽だろう。車の後部座席に携帯と靴入れ、つまり荷物を全部置きっぱなしなどということはもう忘れている。意識にない。
 意識にあったのは少しだけ視線の先に、トランシーバーでなにかを話していたE高二年、藤代りうの姿があったこと。それで、知っているひとの姿を目に入れられただけで意識を手放した。
 ──もう、倒れていいんだ。