五月十二日 土曜 斉志 自宅

 早朝から、ずっとシャワーを浴びていた。酒気を抜くために。
 期待していた。梅子が土曜日、つまり今日ここに、家へ来てくれることを。

 先週あんなことがあったにも拘らず梅子は言ってくれた。望外の言葉を、自分すら言っていなかった言葉を。そして昨日も。
 そうは思っても気が気でない。成り行きとしてはあまりの展開につい浮かれたが、冷静に考えてみればあれでハイ仲直り、などと甘い展開になる筈が無い。あんなことをして、どの面下げて。
 それでも時間が気になって仕方がない。いつもならば、あと三十分すると自宅近くの三番駅へ行く。電車で二番駅へ、そこで梅子を待つ。自分の家で朝食をとった梅子が二番駅までバスでやって来る。梅子がA高から三番駅まで自転車で来てから、二人で逢う時は必ずバスを使ってもらうよう言ってある。しかしそれも梅子の誕生日まで。それまではチンタラで癪だがここまで来てもらうことにしている。
 その時間はあと三十分。行ってもいいのだろうか。
 二番駅まで行って、梅子が来なかったら自分は一体どうすればいい? 遼と佐々木へは触れるのを謹慎すると言ってはある。けれどもう、せめて週に一度の逢瀬がなければいろいろ不味い躯になっていた。学校で梅子のクラスへ行くことは禁じられている。自分のクラスには絶対に来て欲しくない。放課後の部活は、梅子は本当に興味を持っていて熱心だ。邪魔はしたくない。
 もし今日来なかったら? 確かに来週でもよかった。さすがに先週のことだ。だがそれをなんと言えばいい?
 今週はいいから? じゃ来週は来いってか、下心が見え見えだ。
 来たい時に来ればいい? 本当に来なかったらどうする。そんな判断を梅子にさせるのか。
 もう来なくていい? 死んでも言うか。
 お預け喰らうのか。また?
 梅子の意志だ、それは分かっている。だが今週来なくて、だからもう来なくなって、そしたら……そんな状況はもうこの身に耐えられない。ひとりで? 冗談じゃない……。
 もうあと二十分。行ってもいいだろうか。今日来いと電話をすればよかった? 出来るか、どの面下げて。あんなことのあった次の週、躯目的じゃあるまいし、逢って抱きたいから来い、なんて。

 もうあと何分……、柱の古い時計を睨んでいると、玄関の呼び鈴が鳴った。

斉志宅前 梅子

 朝ご飯も食べないで来てしまった。
 昨日は、たくさんの女の子にきゃーきゃー囲まれていて、ほとんど声だけしか聞けなかった。同じ場所にいるのに電話したけど、ちゃんと聞こえていたかな? 反応がなかった。
 躯はもう、大丈夫。
 これでも駅でパンを買って食べたけど。なんだかもう喉を通らなかった。気が気でなくて。いつもより早い便で来てしまった。成田くん起きているかな。起きているといいな、ひょっとしたら朝早くから勉強しているのかもしれない。
 成田くんはうんと頭がよくて、そんなひとの貴重な時間を週に一度、割かせている。こんなこと言ったら怒られるかもしれないけど、それは事実。駅まで送り迎えしてもらって、お昼ご飯をつくって貰って、あんな瞳でわたしを見る。
 成田くんの家の呼び鈴を鳴らすのはこれで二回目。一度目は息が切れていて整えながら押した。あの時みたいに疲れてはいないけど、今日も同じ。居てくれる、かな?

斉志 玄関

 驚いた。
 そりゃあ……驚いた。当人流に言うなら、うんと驚いた。
 目の前に待ち人がいる。
「おはようございます。斉藤、です。本日は成田くんちを訪問しに参りました」
「……斉志」
 ぺっこり頭を下げる、肩までの黒髪の──梅子。玄関先ではいつも抱き締めた。だが今はどうすればいいか分からなくて、相も変わらず頭が真っ白になって、梅子が俺の横を通り過ぎても、その場に突っ立ったままだった。

梅子 斉志宅

 成田くんちをご紹介しましょう。まず、平屋です。
 玄関から廊下。その左側手前に居間。奥に台所。台所の隣に浴室。お手洗い。
 廊下右の手前が神棚かなにかがある畳の部屋。その右隣も畳の部屋。どちらも八畳くらい。その奥が成田くんの部屋。
 成田くんの部屋はフローリング。浴室からはノブの扉、畳の部屋からは引き戸、どちらからも入れるようになっている。ベッド、ベッドサイドの小さなテーブル、勉強机。ズラっと並んだ書庫、分厚い本。どれも使い込まれてある。押し入れ。たんす。勉強机の椅子には成田くんの鞄。
 整理整頓、お掃除の行き届いたこの家にひとりで住んでいる。
 この構造は実はたった今、今日分かった。いつもその……あんまり、そういうところに目が、行かないもので……。
 成田くんはわたしが屋内探検をしている間中、なぜか玄関にずっといた。そこで遠慮も礼儀も欠片なく、こうしてぐるぐる見てまわっている。

斉志

 間抜けなことに、梅子のとてとてとした足音で我に返った。いつもこの音を聞いていたいと、聞き続けていたいと思った。出掛ける時、帰った時、この音が俺を送り迎えてくれたなら。
 夢のような音が無味乾燥の家を充たす。
 このままずっと聞いていたかった。

梅子

「あの」
 さすがにひとさまの家をじーじー見て回るのもなにかな、と今更ながら思ったし、探検もあらかた終了したので、立ち尽くす成田くんに声を掛ける。あっそうだ、訊かなきゃ。
「わたし勝手に来てしまって、その、勉強の邪魔とかじゃ」
「そんなことはない」
 そ、そお?
 その割になんだか、……集中しているのかな? 考え事をしているようだったけれど。
 ずっと玄関先を動かない成田くん。けどわたしの方は見ていて……なんだろう、やっぱりまじまじと家の中を見ちゃったのは失礼だったかな、一度やってみたかったんだけどな。朝も早かったし……。
 成田くんは、もうガーゼとかしていなかった。けど、口は切れているのがそのまんま。他にも顔に痣が残っているのが分かる。
 なんだか、とにかく……近寄り難かったから、勝手に居間のソファへ座った。成田くんがあの時座っていたように。成田くんの部屋から出る時背を向けていたように。……なんとなく、そうやって座ってみたかった。
「あの、成田くん」

斉志

 またしても惚けていると梅子が俺の名を呼んだ。やわらかい声。俺を呼んでくれるなら、もうこの際名前でも苗字でもなんでもいい。……だがいつもは駄目だ。必ず同じ苗字にする。居間のソファへ梅子はもう座っていた。時間がいつもよりかなり早い。……飯は?
「梅子、朝飯どうした。食べたのか」
「う、うん」
 かくいうこっちも飯どころじゃなかったから、大した準備をしていなかった。
 今の返事。食っていない。
「梅子、俺ももう少し食べたいんだ。ちょっと待ってくれないか、すぐに出す」
「あ、えっと、大丈夫、食べてきたし……」
「いいから」
 梅子はこの一週間でまた痩せた。最初に出逢ったあの時から、再逢した時もそう思ったが、今回は短期間ではっきり分かった。抱き止められた時実感した。俺がそうした。
 抱き心地がよくて、いいにおいがして、いつもこのまま朝を迎えられたらどんなにいいかと思う。ガキの俺では今は無理、やった後はなるべく一緒のベッドにいないようにした。とても帰せなくなる。
 ……は、またろくでもないこと考えた。飯、飯。

梅子

 やっぱりばれちゃったのかな。駅でちょっとは食べて来たけど……。
 成田くんのつくる料理はうんと美味しい。いつもここでは遠慮なくはい・あ~ん、で、お味噌汁すら口移しで……いつもそれで押し倒されて……ここで食べる食事はおいしい。成田くんのお箸で。口で。わたしは料理出来ないから……あっそうだ、お手伝いしよう。
「成田くん」

斉志

 梅子が隣にいる。
 包丁を繰る手付きはあやしくない。きちんと家で教わっているようだ。ただ、これは希望的観測で……つくりたい相手がいなかったから、レシピなど思い付かんのだと思いたい。
 ただし今、考えているのは別だ。隣にいる。体温が分かる。
 梅子、裸エプロンとかしてくれないかな。
 ……いかんいかん。

梅子

 どうやったらこんなメニューが思い付くんだろう。即興でに違いないのに。なにかわたし、かなりお邪魔なような。しょうがないから工夫とかの要らない食器の出し入れとかだけすることにした。な、情けない。
 他にすることない? って聞いたら、もうすぐおわるからソファに座ってて、とのこと。……ハイ、そうします……。
 情けなくソファで待つ。成田くんが座っていた位置で待つ。いいにおい……あんまり今週、食べなかった。

斉志

 適当に、のわけもなく、つい凝ってしまった朝食を持って行く。テレビかなにか点ければよかったか? 梅子はあまりテレビを観ない、と言う。下らないのが多いからそれはそれでいい。
 テーブルに皿を並べる。梅子が飯をよそう。やはりエプロンが要るな、なににするか。似合いそうなやつ……そうだな、梅子は白、あとシンプルなフリルが合うからそれにしよう。

 そして食事を。
 いつもはい・あ~ん、で。
 今日もそうして……。
 もう止まらなかった。

 咀嚼する。口の中を咀嚼する。音がする。ふたりで立てる音。一緒の味、お互いを食べあう。うっすらと両目を開けながら、舌の位置を確認し合って。箸を置く。乱暴に……ただ取り落として。飲み下すと、あとは唾液と甘い味が口を充たすだけ。チロチロと、お互いの口元をさかんに舐めあう。切れた口元。

「梅子……」
「なに……」
「駄目だ……」
「どうして……」
「俺、梅子に……酷いこと……」
 あのときしたのと同じように口を塞がれる。咬まれることなどなく、小さなやわらかい唇で。
「わたしのこと、嫌い?」
「わけないだろ……」
「……好き?」
「好きだ」
「ほんとに?」
「本当に……こころから」
「……よかった」
「……駄目だ。俺、梅子に……」
「……言わないで」
「謝らせて……くれない?」
「……」
「俺のこと……嫌い?」
「好き……」
 もう、脱がせる服はない……。
「わたし……」
「……」
「逢いたくて……」
「……」
「斉志もそうなら……」
「……」
「来て……」
 理性も無い……。

 結局いつもの通りになってしまった。間違いなくこれは一回目、そして遅い朝食をとる。温め直しただけ、俺は新しくつくり直したいが梅子は食べ物を粗末にしない。
 今度は二人、きっちり箸を二膳使う。そうでないと午後、持たない。
 梅子の躯。あの時は唇、乳首、あとは我ながら一点集中で……梅子の、……誰にも絶対触れて欲しくない部分を痛めつけて他の致命傷はない……全部治っていた。胸がでかいから擦れるかと思っていたが、化膿もしていない。知り合いの医者に訊いて、……あの時梅子は自力で歩いた、この期間で治ることは知っていた。

 けど、さ。
 いいのか? こんなこと。梅子がいいと言ったって……また甘えて……絶対つらい筈なのに。忍耐力無いな、俺。そんな生き方して来なかったんだけどな……。

梅子

 多分、こんなふうに。
 ゆっくり、焦らし過ぎる程。怯えて。震えて。いいの? って遠慮して。
 こんなのは後にも先にもこれっきり。
 だってこんなの成田くんじゃない。

斉志

 食べおわると梅子が誘ってくる。……買ったパジャマの上を羽織るだけ、躯のラインがよく見える。こんな体勢で、前ガラ空きで首に腕を回して来る。梅子、見えているの上だけだと思っているだろ、……下だって、見えているんだよ……欲しいって、言って、る……。サイズが小さいから……パジャマ全部はだけて……丸見え、で……俺の躯の痣、全部舐めてくれた。
 やさしく、ゆっくり、温かくて。白い……尻がふりふりふるえていて……これで飛ばない理性は無い。

梅子

 また腕枕をしてもらう。左の薬指──必ず弄られる薬指。
 成田くんの腕、引き締まってて逞しい。このあいだは怖いだけだったのに。そういえば全然、わたし震えていないや……。成田くんもあきれたかな、あんなことあったのに。結局朝からわたし、誘ってばっかり。
 その朝から、どうしても訊きたいことがあった。どうしても。
 多分今日なら訊けると思う。嫌われる、かもしれない。けど。
「……成田くん」
「斉志」
「あの、……あの、胸のおおきいひと、すき?」
「梅子が好きだ」
 ──泣いてしまった。

斉志

 泣かれてしまった。
 また俺なにかヘマしたか。待て、待て俺の理性。毎度俺を置いてどこかへ行くな。どうして他はつっかえたことないのに梅子のことだと真っ白になるんだこの頭。なにが秀才だ馬鹿野郎。
「泣くな……」
「──」
「泣かないで……また俺なにかした? 梅子」
「──」
「梅子……俺梅子に泣かれるとどうしたらいいか分からない。もう誤解なんかしたくないんだ、梅子、言って、俺、なにした……?」
「──」
「……っの、俺が、怖いなら離れる……」
「──」
 怖いのか。誘ってくれたからといって、簡単にあの日のことを忘れられる筈がない。
 腕を頭の下から抜こうとすると止められた。抱き止められたあの時のように。
「──せい、じ……」
「うん……?」
「さいしょ、に……」
「うん……」
「こう、したとき、言った、……」
 最初こうした時。生理の時か? 待て、胸がと言ったな?
(サーチ完了)
 ──あ。
「梅子!! 違うぞ、あのな、違う!」
「……どこが?」
 ──また誤解! 俺の馬鹿野郎。
「梅子、あの日……その、俺を……」
 徹底的に避けて。梅子の隣の席のやつ、羨ましいやつが言った。
“あんたのことを避けている。可哀想だ、もう来ない方がいい”
 ……いかん、理性が飛ぶ。
「とにかく、梅子うつむいただろ? その、つい視線を追って……そしたら、顔の下にその、胸があったって……それだけだ! その……その時初めて思ったよ、こうしたいって! 抱きたい、って……」
「……」
「それだけだ、梅子、頼む、信じてくれ……俺じゃ、……信じてくれない?」
「……おっぱい星人」
「はァ!!??」
 何語だ。
「せいじのすけべ」
 そりゃそうだが。
「な、慣れている」
 なんだそりゃ。この俺の歴状、どこを取ったら慣れているんだ。ガキ以下だろうが。
「なにが慣れている」
「……全部」
「全部って、なに」
「わ、わたし、は、慣れて、もいないし」
 そうでないと困る。もし中学のときにもう、そうだったらこの島国ごと焼き尽くしてやる。とどめは俺だ。
「は、はじめて、だ、ったし」
 そうでなかったらこの星ごと……って。待てよ。
「……梅子。俺は梅子が最初で最後だ」
「……え?」
「初めて! あの時童貞!! ……言わせるなこんなこと」
「……ほ、ほんと、に……?」
「本当だ」
 なんで慣れているだの、そういう比較が出来るんだのと言いたかったが。言ったら血まみれ二号で二人仲良く墓の中だ。
「で。誰が、なに星人だと?」
「う。ぅ、ぅ……斉志、が」
 ……耐えろ俺。
「梅子が好きだ。そう言ったぞ。誰が一部分だけ……そりゃ俺は信用ないけどな……いくらなんでもな……」
 うつむいてやった。

梅子

 う、嘘。って言いたかった。
 それならどうして、ひ、ひにんとか、ブラの着け方とか知っているのー。
 ……。
 けど、そういえばこのひとは成田くんだった……。わたしとは違うのよね、根本的に……。焦ってなにも出来なくなる成田くん、なんて想像もつかない。
 それにその……遠慮がち、とか。沈んでる、とか。しおらしい、とか。
 そういう言葉に全っっっっっ然、縁がなくて似合わない成田くんが、目の前で、落ち込んでいる。
 ……ひどいこと言った、わたし。
「……ごめんなさい……」

斉志

 なんとか成功。これが聞けなきゃ、悪いけどな梅子。……またどうなったか分からんぞ……。
「じゃあ梅子……」
「……」
 どうすればいいか……分かるよな?

五月十二日 土曜 夜 携帯電話にて

「許してくれたよ梅子、俺のこと」
 そんな惚気電話に、遼太郎が答える筈はなかった。
「今日、来てくれるかどうかも分からなかったのに朝イチで来てくれた。時間あったからな、指折り数えて今日が最高記録だ。もう全部、梅子が誘って……凄かった。最後はタクシーで家まで送った。おい、聴いているのか」
 改造携帯はほとんど最初から切れていた。

五月十二日 土曜 夜 携帯電話にて

「斉から今すぐに惚気電話が来る。悪いことは言わん、出るな」
 遼太郎の、短いが適切な指示に明美は無言で従った。
「まったく途中で切りやがって。佐々木にも連絡するか」
 斉志が掛けた改造携帯での呼び出し音は一回で切れた。
「まったくあの二人はどうなっているんだ。これがどういう電話か分かっているだろうが。こうなったら殺されるわけにはいかん、明日朝イチで運営会議だ。雁首揃ったところできっちり話を付けてやる」