五月七日 月曜日

 朝をとうに過ぎて起きる。無理。すぐに分かる。
 母ちゃんがもう学校に連絡してくれていた。
 ゴールデンウィーク休みの後また欠席、か。首が涼しい身分のわたし。主担、副担の二人の顔……吐き気がした。
 母ちゃんが部屋に置いて行ってくれた食事は簡素なものだった。病人食。朝、わたしは起きもせず真っ青な顔をして眠っていたという。
 掛け布団、直されていた。考えもせずなにも着ないで眠って……口と乳首の傷、痣、見られた? 乳房の下、お腹と脚の付け根の間、というかほとんどもう、そこ、に付けられた痣。着替える時、少なくとも下着で隠れるところにある痣。よほど寝相が悪くない限り、見られることはない。体育で着替える時は、別に下着まで脱ぐわけじゃないし……。
 ご飯に手を付けないで、枕に顔を沈めて、声も出せずに泣いた。

五月八日 火曜日

 顔のハレは少し残っていた。なにせ疲れて夕方前にはもう眠ったから。それで朝。
 乳首の傷、カットバンを付け直してブラを着ける。口の端の傷はまだ少し塞がっていない。バスの中でカットバンを貼ることにする。テープの部分を切り落として。ショーツにナプキンを取り付ける。血はもう出ていない。さすがに生理と違って流れ続け凝固もされないものではないらしい。それでも念のためしておく。
 自転車で学校へ行くことは出来なかった。
 バスで行く。家の近くの公衆電話脇のバス停から学校へ。はやく家を出た。定期は使わず。いつもよりも早く学校のバス停に着いても、普通に歩くことが出来ないからゆっくり歩くことになったけど、中央階段下に着く時間はいつもよりそれでも少しは早かった。
 ただ、怯えた。
 背の高い男子に。あのくらいの髪の長さの男子に。誰ひとりとっても、顔など見られない。睨み下ろされるかと思うと恐い。いつも自転車で通る、バス停から正門、それから中央階段下までの坂。すれ違う男子全てに怯えた。

 職員室へ行く。休みをひとり長くとってしまったわたし。またお詫びしに。
 タバコの臭い、大人の臭い。酷く吐き気がする。いい思い出のないここを、間違いなく今侮蔑した。
「おはようございます、先生。昨日は休んでしまって申し訳ありませんでした」
 切れた口元が喋りづらかったけど、言った。このくらいなんともない。
 歳の若い副担は朝の茶を飲んでいて、こう切り出すわたしに顔も合わせない。そりゃあ見たくもないでしょう、成績も態度も悪い問題児な生徒のことなど。
「全く、少し見直したと思ったらこうだ。いい度胸だな、斉藤……」
 こちらに渋々視線を向ける。ようやっと会話になるかと思った。さあこれから説教です、という口調の副担。
 けれど、次の言葉がない。
 こっちは具合も気分も体調も全部よくないんだから、嫌味は早く終わらせて欲しい。視線など当然合わせない。
 副担は座って、わたしは立っていたから、しばらく、わたしは下から覗き見られる格好になっていた。こんな状況、続けたくない。
「すいませんが、授業なので……本当に申し訳ありませんでした。ひとり長く休んでしまって。こんなこともうないようにしますから」
 副担は持っていた湯飲みを置きもしなかった。余程呆れているんだろう。もう一度ぺこりと頭を下げ、教室へ。階段を上る時はまだいい、けど下りるのは怖かった。

 1Fへ。教室の前扉から入る。いつもの遅刻ギリギリより早い。
「ウメコさん、チ……」
 コク、この突っ込みはいつも阿っちゃん。けど、次の句がない。副担みたい。へんなの。チコクじゃないよーん、と言って横を通り過ぎた。阿部の阿っちゃんは一番前の席。
 前の人、こと柊子ちゃん。わたしを見て、固まっている。そりゃひとり長いバカンスやっちゃったもんね。けどどしたのかな。
「おはよう、柊子ちゃん」
 柊子ちゃんに至っては一言もなかった。ちゃんと挨拶をしたというのに、そんなにあきれた反応をしなくても……。
 這々の体で自席に着いたというのに、あんまりだなー、と思わないでもないけど。まあみんな、昨日で長い休みボケをなんとかしたんだろうし。
 隣の人。このひとすら恐かった。このひとならば、わたしがいつも隣の人から体を引きぎみに座ると知っている。それでも震え、このひとには知られないといいのだけど。
 ひとまず、ぺこ、と小さく黙礼。するとなにを思ったのか、やつはわたしに話し掛けて来た。
「おい」
 え。
 え。まっさっかー、……隣の人の声? 今の。
 隣の人はわたしになんかはっきり話し掛けて来ない。1Fでわたしのアッパラパ~ぶりを直接知っている一番の人物。小テストでは必ず、ぷっと笑われる。ふんだ、と思っていた。もし会話をするとなると、席はこの通りの距離だけど、必ず前の人・柊子ちゃんを介して行われる。もうこれは必ず。毎度その度仲を邪魔しててごめんと思っているのよこれでも。
 そんな隣の人が前の人に、おい、なんて言わない。わたしに声を掛けたんだ。視線は前を向いたままだったけど、……初めてだ。
「……え?」
 思わず訊き返してしまった。いまのは本当に隣の人だったの?
「あんた帰れ。スゲー顔色だ」
 間違いなく本当だった。けど言葉を咀嚼する暇もなく、一限目、生物の熊谷先生がやって来た。
 ……あ、そういえば。
「おーい黒板汚いぞー」
 ひーえー、忘れていた!
「は、はいただ今」
 とは言え、黒板まで駆け寄ることは出来ない。なんとか、それでも急いで、黒板前まで到達。先生にすいませんと謝って、なんとなく久々に我が腕、特技とは言えないけど黒板消しを披露した。
「次は忘れるなよー」
「は、ハイ」
 うう……せっかくこのあいだの日曜日に手伝って、なんとか株を上げたかと思ったのに……しくしく。
 これしきでも怒られたのは事実。失意に鼻をすすって席へ戻った。みんなに笑われるかな、と思ったけど、誰もそんなことはしなかった。ぅぅ、いいクラス……。

 授業開始時、みんなが席を立つ時が恐かった。一斉に立ち上がる光景に恐怖を感じた。

 授業のおわりには小テスト。ハッキリ言ってこのために、わたしの一日分の集中力は使い果たしたと言っていい。電話番号とかは覚えられるんだけど、カタカナの横文字は駄目なんだってば。つくづく文系な自分。
 答案をなんとか根性で解答、隣の人へ渡す。隣の人、相変わらず満点。ぅぅ……。
 そして隣の人の答案用紙を前の人へ渡す。前の人は必ず、一旦その用紙の裏側を見つめてから、さらに前の人へ回す。生物の授業はいつもだけど、早めにおわった。隣の人は授業おわりのチャイムを待たずすぐさま後ろの扉を出てどこかへ行った。
「あの、ウメコちゃん……今日はもう、帰った方がいいんじゃあ……」
 前の人、柊子ちゃんがわたしを振り返った。
「え?」
 そういや隣の人もそんなことを言ったな。
「ううん、でも昨日もわたし休んじゃったし、ひとり長々ゴールデンウィークって感じで……。先生にも睨まれちゃったし、出るよ」
 そんなことを言っていると阿っちゃんも寄って来た。
「ウメコさん、帰んなよ。すごいよ、顔真っ青で」
 そうかな。
「大丈夫だよ、別に」
 痛いのは躯だけ──それだけあればいいんでしょう──
 確かに、吐き気はあるけれど。

 二限目は副担、数学の授業。いつぞやサボってD高まで行ってしまった因縁の時間割り。
 けれど副担は休憩時間十分が半分も過ぎないうちに、もうF組まで来た。お陰で生徒全員焦る焦る。隣の人なんかまだ戻っていない。
 そりゃないでしょ、と思って、思わず前の人を差し置き隣の人の弁護をしようと思ったら、副担が開口一発。
「斉藤。荷物を持って来い」
 だそうだ。またわたしなにかやったかな。退学? いいよ別に……
 わたしは鞄を持って隣の人が出て行った後ろ扉から誰にもなにも言わず教室を出た。
 ──バイバイ。

 副担はわたしを、しかし職員室へは連れて行かず、その手前の中央階段下の下駄箱で足を止めわたしを振り返った。
「タクシーを呼んだ。もうすぐここまで来るから、それで帰りなさい」
「もう学校に来なくていいっていうことですか」
 すると職員室から、熊谷先生が出て来るのが見えた。
「いや。……すまん。朝、てっきりサボリだと思っていた。あんまり斉藤が真っ青だったもんで、なにも言えなかった。申し訳ない。……この通り」
 そう言って。
 熊谷先生が腕を組んで、まるで睨み付けるように背後から見据えるその前で。両手をズボン脇の縫い目の上に置いて。
 副担はわたしに深々と頭を下げた。

 副担がタクシーの運転手さんにお札を渡して、わたしはそれに乗り込んだ。驚いたことに、坂の下の正門ではなく、坂を上がってここ、中央階段下の下駄箱までタクシーは来た。先生、まして生徒が車で通勤・通学するとしても、それは正門前まで。ここまで車を上げるのは相当な理由が必要になる。けどわたしはもう、なにも言わずタクシーへ乗り込んだ。

 早々に帰って来てしまったわたしを、父母は驚きもせず、もう寝ろや、とだけ言う。その通りに眠った。

五月九日 水曜日

 今日はもう大丈夫。まず、吐き気がない。朝ご飯も食べられた。久し振りに食料をかきこむので、ちょっと、たくさんは食べられなかったけど、とにかくその日のお米の炊きあがり具合がわたしの好みにぴったりだった。お味噌汁も丁度いい具合で、梅干しは勿論バツだけどっ。とにかくご飯とお味噌汁、ちゃんと一杯ずつ食べられた。
 父ちゃんに車で送ってもらう。正門前まで。帰りはちゃんと部活に出るから、バスで帰るからいいから、と言って。父ちゃんは朝夕忙しい。朝送ってもらうだけでも申し訳なかった。

 正門前から坂を上がる。痛みは大分引いた。あとは心の問題だけ、だと思う。
 昨日朝から、ちょっとスッキリすることがあって、それもいい効果だったと思う。阿っちゃんも柊子ちゃんも心配してくれて。あの隣の人から話し掛けられた。ブッキラボーだったけど、心配、なぞしてくれたではないか。そして副担のおわび。それにも驚いたけど、副担の背後に立った熊谷先生が、メっ、といった感じで歳若い副担を背中から叱っていたような気がした。
 あとは心の問題。
 解決、しなきゃ。

 学校の、男子の姿にはやっぱりまだ吐き気を覚えるので、なるべく近寄らない。すれ違うひとにびくついた。ただもう、隣の人は例外になっていた。このひとが隣でなければわたしは授業を受け続けられなかった。今日はもういつものやつに戻って、間違っても親しく会話を交わすようなことはないけれど。
 朝、柊子ちゃんや阿っちゃんに具合は大丈夫かと訊ねられる。見ての通り、顔色は普通に戻った。顔は……ぅぅ。唇のカットバンを見止められたけど、ニキビを潰してしまって、と言った。
 ここには来ないと分かっていたので、休憩時間は机に顔を伏せてボケっとしていた。
 お昼休み。お弁当はちょっと余す。今日は部活をどうしようかと思った。指折り数えたけど、はっきり言って少ししか出ていない。いくら試験をはさんだとはいえ、まともに出たのは通算で一週間もないのでは……入部から一ヶ月も経っているのに。
 部活なら、椅子に座っていればいいだけだ。躯に負担はない。日没前に帰される。西川なら、……西川なら大丈夫。こわくない。そう信じたい。

五月九日 水曜日 放課後 部室

 目の前でカタカタとキーボードを鳴らす男のひと。
 普段はモニター一杯のウィンドウを注視することの多い西川は、今日は徹底的に打ち込み作業に終止していた。すべて横文字、一バイトのそれを怒濤のように打って行く。わたしのように、本を読みながら試しにサンプルソースをその通り指でぽんぽんゆっくりキーを押すのとは全く違う。手元も見ず、ただモニターを見つめながらガンガン打っていた。凄い。いつかこうなれればいい。
 部室へ来た時にはすでに集中しているようだったので、月曜、昨日と休んでしまったことすら言えない。こういう時はただ見つめるだけしか出来ない。
 西川にはうんとお世話になった。明美に、マコに、環に、……。
 いけない、涙が出る。
 知られたくないので、しゃくりあげたりしなかった。ハンカチで涙をふいて、ティッシュで鼻をかむ。
「きたねえな」
「ッ!」
「風邪か?」
「あ、違う……ごめん、続けて」
 西川はこちらを振り向いて言ったのではなかった。画面を見続けたまま、両手はせわしなく動いたまま。なのに今気付いてしまった。西川、体格が似ている。背中の大きさ、腕の長さ、手の、血管の浮き具合。脚、この姿勢からじゃ分かりづらいけど、多分同じ長さ。脚、長い。
 バカなわたしは、前までのわたしなら今ふざけて抱きついて、同じかどうか調べてしまったかもしれない。けど、もう無理。
 西川のいつもの口調に震える。びくつく。怯える。分かられた、かもしれない。
 部室の椅子。わたしの指定席。先輩達はいない。目の前に西川。おおきな背中。長い茶髪、組章も校章もつけない襟、学校指定のものではない内履き。
 モニター画面に、流れるように文字が出てくる。手は速く、吐き出されるソースはとても覚えられたものではない。もし覚えられたとしても、わたしは頭の中で理解していないのでただの意味のない文字列としかならない。
「おい」
「! は、い」
「邪魔だ。帰れ」
「え」
「集中していない。分かるぞ。帰れ」
「……はい」
 西川はわたしを振り返らず、やはり手を止めずに言った。時間は三十分も経っていない。左手首のものは、触れたくもなかったので、ずっとしたままだ。シャワーを浴びた時も、うちに帰ってお風呂に入った時も。眠る時も。もう腕になじんだ。じっとりとした重みはいつも、薬指を弄られる時軽くなって──
「失礼、します」
 部室の扉を閉めて、ゆっくり帰った。もちろん、C組は見ない。

五月九日 水曜日 放課後

 遼太郎はとある人物に電話した。
 いつもならばこのタイミング、梅子が部室を出て行ったなら改造電話を取り出していた。それが今日は違った。
「ちぃーっす。俺、西川」
「って……ああ、西川? どうしたのさ」
「悪ィ佐々木、今大丈夫か」
 電話の先は佐々木明美。遼太郎は彼女と、合同というお祭りを準備する会合でしか接点を持ったことはない。それでもあの場に出席する者同士、電話番号の交換だけはしている。
「なにを言っているんだよお互い運営だろ。で、なに?」
 明美はすでに、お祭り騒ぎの話ではないと分かっていたが、それでもそれ系で来るかもしれない、と思って訊いた。
「梅子のことだ。今日やっと学校に出て来たぜ」
「へー、休んでいたんだ」
 通り一辺倒に答えた。それが明美の義務だった。
「佐々木、俺は事情を知っている。多分全部」
 やっぱりかと思ったので、明美は言葉で返事が出来なかった。それで返事をしたことになってしまった。
「金曜日、三番駅まで来たな? そして日曜午後、斉を自宅近所へ呼び出した」
「……そう、知っているんだ。あんた」
 おそらく本当だろう。ならばこの場は出たとこ勝負。明美の最も得意とする分野である。
「ああ。そこで明日放課後、斉の馬鹿野郎の家に殴り込みをかける。都合は?」
「あんな野郎なんざもう見たかないね。なにも言わないしさ」
 明美は探りを入れるかのように、慎重に言葉を選んだ。事が事だ。
「俺もそう思ったんだが、斉の野郎、今頃梅の字に土下座でもしている筈だ。今夜一杯は絶望を独り味わって戴き、明日追い討ちを掛ける。どうだ?」
 これで完璧、ご名答。この男は全てを熟知している。
 完全に判断出来た明美は、こちらも持っているカードで出せるものは全て出そうと決意した。出せないものは梅子との信義、それだけだ。
「了解、いい案だ。場所はどこだい、成田の家」
「三番駅の近くだ。ああ、言っておくが電車で来いよ」
「は? 当然だろ。時間は?」

五月九日 水曜日 放課後

 中央階段下を出て、坂を下りながら自転車置き場横を通り過ぎる。
 上るよりも下りる方が、坂はこわい。歩く時つい早足になる。もう帰りだし、時間をいくら掛けてもよかったから、ひともまばらだったしゆっくりと意識して下りた。
 下り坂は正門のところでおわり。そこに、西川とおなじ体格のひとがいた。
 足がすくんだ。