五月四日 金曜日

 午前中といっても早く行かないといけないことがよく分かりました。
 躯で。
 ……。
 一回目(……)、背中でイかされて(……)、その後。ベッドの上で二人とも裸──わたしが腕時計をしているだけ──の、まま。細めの、けれど筋肉の引き締まった左腕がわたしの頭の後ろにある。腕枕。それにわたしが左手を搦める。必ず、必ず弄られる薬指。この体勢のまま、成田くんはわたしの話を聞きたがった。
 わたしのこと。生い立ちとか。血液型とか(Oです。成田くんはAB。輸血が、とか言っていた)。身長体重スリーサイズは知られていました。
「それは言わなくていい。他の誰にも言うな」
 子供のころのこと。一人っ子であること。名前で虐められたこと(ブラックリストがどうのと言っていました)。
 中三で出来たはじめての友達のことは、
「それはいい。梅子を占領したやつのことなど聞きたくない」
 で済まされる。けどわたしは頭が悪くて、その子がいなかったら今頃A高にはいなかった、と言ったら無言だった。一日、環に言ったのって、それすら言えなかった。
 高校に上がって。つい最近だけど……入学してからのことを言おうとすると、
「俺、その三日間バカなことばかりした」
 そう言って。
 入学式の日、わたしの襟首を掴んだこと、なのにわたしだけが処分を受けたこと、入学二日目、F組でわたしが非難されていたとき庇えなかったこと、入学三日目、部活へ向うのを遅らせてしまったことを詫びた。確かこれは前にも、自転車置き場で話をしたあの時聞いたような……。
 別にそれはもういいと思う。まわりまわって、巡り巡って、こうしていま、成田くんとここにいる。
「斉志」
「あの、もうそれはいいから、それにわたしだって」
 嫌いなんて言ってしまって。その言葉は、
「二度と言うな」
 だからふたりで、もう使う必要のない言葉を奪い合う。からめとって、のみくだして。
「みんな嘘、あんなことみんな嘘。もう最初から……好き」
「……知っている……」
「ん……」
 腕枕を解いて、右側から成田くんが、わたしの乳房を揉んで、吸う。口をあけられているから、もっと訊きたいことがあるんだ……。
「梅子」
「なに……?」
「その……」
 なぜか途中で、胸から唇を離して。なにか言い渋っているような。
 わたしは上半身だけ起こして、成田くんの首に腕を回す。
「なに……訊いて、躯じゃなくてわたしに」
 こんなことしても、成田くんは言い出そうとしない。
「斉志……?」
「……その、梅子」
「なに……?」
「その……入学式のあった日の……放課後」
 放課後……なんだっけ……
「……誰か……と会って、いただろ……」
「え、っと……うんと、……にしかわ?」
「あ……いや、その……違う」
 なんだろう。そもそももう覚えていない。ここ一ヶ月のことなんだけどな。けど、こんな状態で、成田くん以外のことなんて考えていないのに。
 成田くんそういうの、嫌いな筈なのにな……なにを訊たいんだろう。
 わたしは、だから油断していた。西川とは言え、他のひとのことを言っても成田くんがいつもの反応だったから。うんと安心し切ってしまっていて、躯もなにもかももうとろけていたし、それは成田くんもそうだと思っていたから。
 うんと気持ちよかったから、目を瞑ってうとうとしていたようなものだった。
 成田くんがつばを飲み込むのが聞こえる。
「……あの日の放課後、梅子……俺のクラスで、誰かと会っていただろ……」
 ああ。思い出した。
「真木のこと? あのひと、わたしの」
 くちびるの端を咬み切られた。
 ──え。
 成田くんが迫って来て、唇を──吸わず、噛み裂かれた。
 ぐり、って。
 口のなかに流れ出るもの。体温の同じ液。甘い唾液と違うもの。どくどくと湧いて出てくる体液のうち、一番恐怖心を煽るもの。
 血。
 口を充たす。あごを伝う。
 ──そんな。こんなことって。
 血は、流したてだと鉄の味はしない。まだ舌と同じ成分だから。
 少し時間が経ったものを舐めて、初めてそうと気付く。だから今、味を感じない。
 わたしのことなぜか手招きしてわざわざC組まで連れてって、成田くんのこと言っていた。謎のひとって感じだった。そういえば全然会っていないや。
 そう言うつもりで。
 目を開けて成田くんを見た。
 ──怖い。
 一瞥、それだけでわたしの躯は固くなる。怯える。逃げ出した。
「や、や……こ、来ない、で……」
 背中を見せて逃げることはない。突き放して後ろずさる。最初にやったこと。あのときはけどやさしくて、とろけた瞳でわたしを見て──いまは違った。
 腰を引き戻される。もうその表情を見ていることなんて出来ない。怖くて、暗闇があって、とても覗き込むなんて出来ない。目を瞑って両手両足、躯中で無茶苦茶抗った。けど全然効かなくて、少しの間黙ってそれを受け止める成田くんが、さらに恐ろしかった。
 押し倒される。暴れさせた両腕をパジャマで頭上に縛り上げられる。もうなにも出来ない。
 驚愕でもう暴れることすら出来ないわたしの、こんどは心臓の上にある突起を。いつも甘く噛まれるそれも、一部だけれど、……噛み千切られる。
 ──嘘。
 覆い被さっているこのひとは誰。
 震え出す。目の前で、なにかを付けている。猛々しいそれに、付けている。
 そしてわたしは貫かれた。
「きゃぁあああああああああああああ!!!!!」
 もうなにも、どこも濡れていない。恐怖で固まるだけのわたしの躯。なかに深い亀裂が一気に何本も入ったのが分かる。
「痛、いたい、い、やああああああ!!! い・や、や、やぁああああああああ!!!! 」
 相手はなにも聞いてくれない。構わず猛り狂ったおおきなそれをわたしの躯に捩じ込む。裂かれて犯されるだけ。聞いてもくれない。止まってもくれない。背中も触れられないで、あんな瞳で見てもくれない。
「止めて、止め、痛、いたいいたいいたい! 止めて、厭、止めて、止めて止めてせ」
 拒否の言葉しか言わないわたしの口になにかが捩じ込まれる。
 ……タオル。一回目のおわり、わたしを拭ったもの。汗と……わたしのがこびりついたもの……それがわたしの口を塞ぐ。
 名前も呼ばせて貰えない。
 血だらけの口で、鮮血を飛び散らせながら叫んでも止めてはくれない。
「──! ──!! ──」
 泣きじゃくっても、もうその声は届かない。相手の顔がまるで見えない。それでもわたしは拒否拒絶の言葉を言い続け、その度唾液と血がタオルを湿らせる。
 首を振って、涙と汗が顔から飛んでも口に突っ込まれたタオルは振り解けてはくれなかった。
 わたしのからだ。間違いなく血がどくどく流れている。生傷に塩ではなく兇暴なそれを塗り込まれる。両脚を開いて、それでも開けばひとは真ん中から裂かれるよりも酷く。
 わたしはただ躯を揺さぶらるだけの血噴きマシン。
 痛みは増えるだけで消えない。なんの興奮もなく。抵抗する気力も萎えて。
 抵抗するということが、こんなに空しいとは知らなかった、どれだけ暴れてもびくともしない、男のひと。恐怖を感じるよりも諦めを感じた。なにをしても駄目なんだ。なにをしても敵わない。体力で、暴力で腕力でわたしの意志は押し込められるのか。どんなに強くあろうと思っても意味はなかったことを知る。諦めで知る。
 わたしを組み伏せたひとは、突き上げ続けただけのひとは、なにも聞いてくれないひとはようやっと、わたしから引き抜いて、なにも言わずに部屋を出た。
 やっと終わってくれた……

 いつもなら、眠りから目が醒める。起きる時はうんと気持ちがよかった。目が醒めると隣にいてくれたり、集中して机に向かっていたり、扉の向こうから氷水と、濡れタオル……
 濡れタオル……口からいつの間にか抜け落ちていた。途中で確か息が持たなくて、意識が一瞬飛んだけれど、痛みでそれは引き戻されていた。頭の上のパジャマも解けていた。
 起き上がれないのなら死ぬだけだ。だから即座に身を起こした。
 血がこびりつくタオルで、構わず拭った。血を。唾液でちょうどいい具合に濡れていたから。血も汗も唾液でべとべとになっていたけど、ないよりまし。よく拭った。それでも血は完全に取れることはない。内腿についた薄く固まった血を取るのは諦めた。
 口も拭う。止まっていた。多分今鏡を見ると、わたしはそれは恐ろしい外見をしていたに違いない。顔全体拭ったので、血が薄く顔全部についた。血だけじゃないけど。躯のあちこち全部そう。
 服を身に着けようとして、落ちていたパジャマを見つけた。この際だと思って、これも使って拭う。固く薄くこびり付いた体中の血を、凝固する液をしつこく取る。顔も拭う。布は乾いて痛かった。ティッシュは使い切った。持っていたハンカチは、汚したくない。
 下着は、これはいつも、濡れないように最初かならず剥ぎ取られていたので無事。ただしショーツだけ。ブラは着けられなかった。左の乳首に切れ目が入っていて、これにブラがこすれるともげそうで恐かった。これは置いていく。焼いてくれればいい。
 スカートも無事。上着も身に着けて。
 くつしたをはくとき、ベッドに腰掛けて屈んでするのだけれど、これが一番、なかに堪えた。
 ここを自力で出られなければ死ぬだけだ。
 立ってもいいのだろうか。自分の体に訊いてみた。立っても死なないだろうか。
 ああ、死ぬんだ。ここを出なければ死ぬ。
 出れば死なない。だから立った。そのまま歩く。傷が揉みしだかれて痛い。それでも歩かなくてはならない。女の子はいつも、そこから血を流し続けてなお歩かなくてはいけない。それを悟られるのは恥。だからそれを隠し歩く術を知っている。けれど今はそれとはまったく異質な状況。
 駄目だと思って、小さな手提げカバンから予備のナプキンを取り出す。どういう状況で今日この部屋に入ったのかもう忘れたけど、手提げのカバンがここにあってよかった。生理の時と同じようにナプキンをショーツに取り付けて、もう一度衣を整えカバンを持って扉を開ける。
 居間に誰かがいた。
 そのひとの後ろを通り過ぎる。そこがひりついていたけど、それでも歩く。それでも歩かなくてはならない。そういう躯のつくりだから。ただ迎え入れさせられるだけ。躯だけあればいいんでしょう、胸のこと言っていた……
 玄関で靴を履く。かかとは、つま先をトントンとすることしか出来なかった。屈むのは不可能。あとは家を出た。

 人間を見たくない。だから駅へ向かう足は鈍る。それでも行かなくてはいけない。三番駅へ。電車を待つ。待ち合い室の端っこで。時間……何時?
 左手首を見て吐き気がした。それごと斬って捨てたかった。
 右手で顔を覆って泣いた。他の誰かが見ていたとしてもどうしようもなかった。携帯電話が鳴る。
 厭だ、出たくない。
 厭、厭って言葉が嫌い。
 止まって、また鳴る。もう電源ごと切ろうと思って、目に入った画面には“佐々木明美”とあった。
 即座に出た。
「あ゛け゛み゛!!」
 ああ、どうしよう。名前の発音になっていない。
「さっさと出ろウメコ。なんだよ、また泣いているな? しょうがない、行ってやるか」
「あ、あの……わた゛し、いま゛……うちに、居な、……」
「どこだよ。おーい父ちゃん! 車出せー」
「あああのごめ゛ん、わ、わたし、ね……」
「ああごめんごめん。で、どこウメコ」
「さ、さん、ばん゛……駅の、な、……」
「三番駅ねー。ここからだとー。よし父ちゃん十五分だ! オンボロ車の性能に挑戦!」
「あ、あ゛け゛み゛、ちょっと゛……」
「んじゃねっ!」

五月四日 金曜日

 遼太郎は今度のゴールデンウィーク中、斉志の家には決して近付かないようにしていた。
 近海漁業を営む父親の手伝いをしたりして、昼さえ自宅に戻らない。父と船着き場付近の作業場で握り飯をかっ喰らうの日。
 夕日もとっぷりと落ちて夜。なんとなくカンで、惚気電話でも来るかな? などと思っていた。
「遼ー。斉ちゃんにこれ持って行ってやれー」
「またオヤジ、お握り作り過ぎたんかい」
「このくらい食えるべー」
 斉志は中学校に入って突然料理をし出した。それまでは遼太郎の父が作るものをただ食っていただけだった。遼太郎はもっと小さなときから作っていたので、後からやりだしてめきめき上達して行った斉志には正直、焦った。最近は食わせる相手が出来たからか、ガキのくせして嬉しそうに、包丁を操る手さばきは確かに前より上達していた。だから別に、昔みたいにメシの心配をしなくてもよくなってはいた。
 オヤジはそれでもたまに多く作ってしまう。そういう時、不肖のドラ息子二人は必ず食べるのだ、残さず食べるのだ、どんなにもう腹が一杯だったとしても。そしていつも、その後西川家で三人はザコ寝した。
「しゃあねェなァ、ちょっくら行ってくらァ」
 改造までした電話も、黒電話も使うことなく、遼太郎は斉志の家へ向った。三軒先なだけ、行き来し慣れた道。子供の頃、電力は要らなかった。逢っていたわけでもなかった。いつもお互いそこにいた。
 ちょっくら歩いただけで着く斉志の家には、電気が点いていなかった。
「あれー……いねえのかよ」
 ──梅の字とどこかへ行ったとか……まさか。一軒家にひとり住まいな男の欲望、間違っても爽やかおデート外へお出掛けなんざ有り得ねェ。斉の野郎はやばい金ならたっぷり持っているが、梅の字のことだ、それを知ったところで豪遊なんざ考えもすまい。
 家にいるこたァ分かっている。
 さては一緒にいて電気も点けず……ちと考えづらい。お互い夕方五時のサイレンで遊ぶのを止めた日々の延長で、日暮れ後は家に居るのが絶対条件であるから、なんてわけじゃなく、斉は梅の字を日暮れ前に帰すことに固執していた。将来梅の字の親父さんに挨拶しやすくする為、だ。下心ありありなやつめ。
 まあいいや、と、これもエチケット、と思い、家の前で玄関を開けず改造携帯を取り出す。
 鳴らすが一向に出ない。
「おっかしいなー……」
 この電話は周波数帯、衛星回線、さらに防災無線までちょろまかした。盗聴対策に抜かりは無い。天下の大企業に接続料金など払っていない。この番号は、一般には他人の番号と認識されている。普段は許可を与えた者から掛かって来た場合のみ震える。だからこれが震えたら“必ず出る”。その為の専用回線。
 ──梅の字は知らねェだろうけどな。
「うーん。さてどうするか……。邪魔するっていうのもなー。音聞くっていうのもなー……」
 部室奥を思い出す。激情に駆られた先輩達。
 ──恋に狂うとそんなに周りが見えないもんかね?
 苦笑して、玄関の呼び鈴を鳴らした。
「おーい斉。入るぞ、邪魔するぜ、恨むなよー」
 玄関を鍵を使って開ける。一見普通に見える鍵であるが、当然遼太郎と斉志のスペシャル。持っているのは二人と遼太郎の父のみ、この世に三本しかない。それを鍵穴にさしてさらに押してひねるのだが、抵抗がない。
「なんだ、開いて……」
 いるわけがない。
 斉志が鍵を掛けない筈がない。
 斉の父親が、もはや持っているかそうでないか不明の以前の鍵ではこの家はもう決して開かない。そうしたのだ、斉志が。だから鍵が掛かっていない筈はない。それでも斉志は電話に出ない。
「斉! いるのか!?」
 なんとも間抜けな問いだとは思った。玄関脇のスイッチで室内に明かりを灯すと、居間に人陰がある。斉だ。
「なんだいるじゃねェか。なにをしているんだ、鳴らしたんだぞ携帯」
 ドカドカと、握り飯の乗った皿を持ちながら居間に近寄る。
 ──やべェ。

 男は血に縁がない。
 毎月決まって止まらぬ血を流す女と違って、本来、どくどく流れる血になどあまり見ることはない。毎月大流血の喧嘩をするわけでもない。
 現在は状況がかなり変化したものの、やはり男性が包丁を握ることは多くない。その職に就く者を除く。夫婦がマジ喧嘩する場合、主婦はよく自制しなくてはならない。いつも使い慣れているから、自分は非力だからと包丁を握りしめ、亭主に詰め寄った場合。これが裁判となると圧倒的に亭主側に有利な状況となってしまうのだ。亭主が全面的に悪いのなら、とにかく凶器は持たないことだ。
 だから、男はその場で流される大量の血に、血の臭いと包丁の刃先に慣れている女よりも戸惑う。鉄の臭いにより敏感だ。自分が流すことはないからかもしれない。それを流させているだけだからかも知れない。
 厭な予感がする。多分、最悪だ。必然と咽が鳴る。
「……斉」
 斉志は居間のソファに座っていた。視点はどれにも定まっていない。上半身裸、下半身は見なれたパジャマだが下腹部より下に血が滲み出ているのが見えた。腹にもよく見れば血があった。その右手にどす黒い布と、パジャマの上と思われる、くしゃくしゃの血染め。左手に散血のシーツ。どちらも、握っているというよりかろうじて手に残されているようで、両手はすでに力なくだらんと下げられていただけだった。膝の上に、それだけは無事なブラがある。
「……なにをした」
「血まみれにした」
「避妊は」
「狂っても、するさ。約束だ──梅子と」
 遼太郎は左フックで斉志の横面をあらん限り殴った。
 二人とも両手利きだ。鷹揚な遼太郎の父はそれを直すことをしなかった。斉志はどちらも同じに扱うが、遼太郎はもう左利きに近付いていた。フックがもっとも力を伝える。それでも斉志は奥歯を噛み締めていた。それにカっと来て、さらに数発、遼太郎は殴り続ける。
 もう子供と呼べなくなった歳のころから、いくら喧嘩をして殴り合っても顔は止めていた。力が強くなり過ぎて、すぐに殴り合ったと分かる痣が浮く。
 斉志は一発だけ返して来た。それを遼太郎は余裕で避けると、腹に左で一発入れる。腹筋の出方も握力も、体力に関することならお互いどっこいどっこい、持つ段の合計数も一緒だ。これだけやってもすぐに復活する。そのタイミングを見計らって、遼太郎は口を開く。
「……どうした」
「佐々木に連絡した」
 遼太郎は散らばった握り飯を一粒残らずかき集めて、玄関先に置いて帰った。