四月十二日 木曜日 A高

 今日は朝からまともな一日だった。援団の説教を風に柳にと受け流し、柊子ちゃんと阿っちゃんとお弁当を囲む。うんと嬉しかった。
 もし戻れるなら今日、という日が増えるのは悪くない。
 お昼、あの宣言どおり合同の要綱が配付された。とんでもなく速い……昨日確定したばかりなのに。
 今日から明日にかけてじっくり説明書を読んで、参加希望競技を明日放課後までに決めること、組み分けも明日。その結果は来週月曜日朝一番で出す、とあった。
 なんだか……凄いや。明美、そんな忙しかったのに電話してくれて。もっとちゃんとお礼言わなきゃ。

四月十二日 木曜日

 校舎のどこかで生徒から、声が聞こえた。こんな内容だった。
「うわー……。凄いよこれ。本当に出ている」
「速過ぎ……」
「あー、やっぱり成田君の名前あるよ」
「あの校内放送で呼ばれていたの、これだって」
「もう事前に成田君がやるように、校長と生徒会長から直接言われたって」
「午後の授業なしにしたのも成田君だって」
「スゲー……」
「そういや、結局成田って誰とも付き合っていないんだろ」
「だってな」
「人気スゲーだろうなあ」
「でも二度と近付くなってC組で言っていたって」
「恐い……」
「硬派堅物」
「C組、あれ以来もう異様だって」
「え、なんで」
「成田君、本当にすっごい集中して勉強してるって」
「学校の勉強をか?」
「まさか」
「もう先生も全然、成田君が何の本を読んでいるのか分からないって」
「スゲー……」
「ホントに高校生かよ」

 校舎のどこかで生徒から、声が聞こえた。こんな内容だった。
「C組、あれ以来もう異様だって」
「成田君の周りの生徒、何人も来ていないって」
「え? なにそれ」
「なんかね」
「このあいだの、あの騒ぎで叫んだ人、が……」
 誰もが畏怖を込めて言った。
「成田君が恐くて、学校に来られないって……」
『……』

四月十二日 木曜日 放課後

 阿部の阿っちゃんが六限目には既に記入し終えた日誌を取りに行くと、今日こそは誰がなんだってという気合いでダッシュ一発廊下を駆け降り、開け慣れた職員室扉を開いて副担に文句も言わさず押し付ける。隣の熊谷先生が、日曜、忘れるなー、と言って来た。ええすっかり忘れていました。ので、「勿論です!」と言いおいて職員室を後にする。またここで捕まってはかなわんからと中央階段は上がらず一階をそのまま突っ切って、一昨日マコを引っ張った右階段を上がって行く。運動神経がないのに二段抜かし。いい思い出のない渡り廊下をまたもダッシュで通る時、真木の姿が横目を掠めた。やあ、斉藤さん、どうしたの? という感じで世間話が始まりそうな雰囲気の真木を「じゃ!」の一言でやりすごす。これまたいい思い出のない図書室隣の、絶対正式名称ではないであろうマイコン部の扉を開けると既に昨日の屋上のひとがパソコンを前にキーボードを叩いていた。
「あ、あの! 今、ち・チコクですか??」
 がーはー荒れる息を整えながら、今朝を思い出した。ぅぅ……これで遅刻ならわたしはいつも遅刻魔さんだ。
「いや」
 と屋上のひとは言うと、昨日お情けで書かせて貰った、手書きで「(仮)」の入った入部希望用紙を取り出す。視線はモニターへ向いたまま、右腕をにょきっと伸ばしてわたしの眼前でそれを晒した。
「なんて読む」
「え。えっと、かり入部きぼう。一年えふ組さいとううめこ」
 他にも書いたが言うのは省略した。
「本人か」
「はいそうです」
「ちなみに出身校は」
「五中です」
「あっそ」
 それきり黙って、入部届けを脇に置き、作業を再開する。一見してVBだけではない言語と分かるウィンドウが複数。多才な人だこと……。
「テメェ」
 この部屋には昨日の先輩二人の姿は今日は見かけられないので、確実に自分がテメェ扱い。ぅぅ、もうなにも言うまい。
「はい」
「おととい騒ぎを起こしたやつだな」
 う。
「はい」
「なんでD高の彼女を連れて行った」
「え」
「そんなことをすりゃ、テメェがどうなるか分かっているだろ」
「テメェはどうなったっていいです」
「アホか」
「はい」
「昨日はなんで遅れて来た」
「遅れたからです。他に理由はありません」
「昨日もそんなことを言ったな」
「はい」
「で。また、遅れたらそんなことを言うのか」
「言いません。次はないでしょう」
「ない」
「もう遅れません」
 すると屋上のひとは作業を止める。マシンの電源を落とした。それでもまだ、モニターを見据えたまま。
「次はない」
「はい」
 何度目かな。これ言われるの。
「ただし、きちんと理由と経緯を言った場合は、遅れても休んでも構わん。言うのは事後でいい」
「は?」
 屋上のひとは立ち上がって、きちんとわたしと話し合う恰好となった。
「テメェの耳は飾りか」
「それは納得行きません」
「じゃなんだ。どうしても、って場合でも来るのか。オヤジオカンが危篤とか。友達が死んでも来いとか。彼氏がどうとか」
 ラストはないが、あとは確かにあるかも知れない。
「もっともです。分かりました、納得します」
「ほ、カレシいるのか」
「いません」
「あっそ」
「ですけど、わたしが昨日遅れに遅れたのは事実です」
「なにか罰でも欲しいか」
「いえ」
「それクリアしたら自分は許されるとでも思っているのか」
「卒業までに必ず」
 そう、わたしは言って目の前の人物をまっすぐ指差した。これをやっても、まだわたしの指先と相手の喉元には距離があった。
 あんたの、
「腕前をブチ抜いてみせます」
 相手は目をしばたかせたがわたしは大真面目の大本気である。多少お祭りの熱気にあてられた可能性は否定しない。
 しかし言ってしまってちょっと失敗と思った。このひと三年生だったらどうしよう。
「電源入れないんですか」
 相手はまだなにも言わない。構わないよーんだ。こっちはあんたの腕前を見ていられればそれでいいんだ。
「邪魔はしません。問題も起こさない。後ろで技見て、盗みますから」
 相手がいい加減動かないので、指差した右手をパソコンに向けなおした。
「早く」
 相手はわたしを押し退けるように椅子に座りなおし、マシンに火を入れた。ぶォん、モニターの音が鈍く入る。大きなモニターだった。これだと主電源を本体のサービスコンセントからは取れまい。
 顔がお互い向き合った開始画面が出、画面下のアイコンパレードが映る。しかし、各言語を走らせはしない。アイコンをマウスでパコパコ、ファインダーを開け閉めしたりするだけである。
 ……。こ、この男。ひとをナメているだろ。
「ちょっと」
「あァ?」
 そりゃわたしが悪いけど。顔をひとに向けないやつだよとことんこいつは。
「わたしは斉藤梅子と申します」
「さっき聞いた」
「さーいーとーう、うーめーこー、ですー!」
「聞いたって」「自己紹介しろと言っているんだよ聞いてんのかこのクソ野郎!!!」
 やつの口元がはっきりと引きつくのが分かった。なおわたしの両手はやつの首にあり、世間一般ではこれを「首締めの刑」などと言うかも知れないが実はちょっと違う。だって首を絞めた上、左右上下に揺さぶっているもの。
「テェーーーメぇーーーーえええええええ!!!」

 やつは西川というそうだ。
 何年生であろうと呼び捨てにしてやる。やつは、暴力女は今直ぐ帰れと言った。わたしは、実はその後も少々取っ組み合ったので売り言葉に買い言葉、おう、帰ってやらァと叫んで新校舎をドカドカ後にした。

四月十二日 木曜日 放課後

「今帰った。正門へ向かっている筈だ。住所からしてバスか自転車、実際の通学手段がなんだかは知っているな」
 少々首をさすった彼、西川遼太郎がそう告げた相手は、呼び出し音を確認する間もなく速攻で電話に出た。他になんの作業をしていようとも無理矢理全部捨て置きこの改造携帯一本に出たに違いない。
「安心しろ、カレシなんぞいねェとよ。ヘマすんな。余裕もて。自分の名前くらい言え」
「……分かった」
 彼の言葉に相手は頷いた。即、今いる部屋から飛び出して行く。

 頷いた相手こと成田斉志が出て行った生徒会室に残された人物達は、管内各校生徒会長が五名、副会長が一名の計六名。今回の合同祭の運営メンバーである。昨日に引き続き、ここA高生徒会室で会議が行われていた。全員、学校の授業がおわってからここへ来ていた。提案者の明美がいるD高ではないここへ、命令通り。
 そもそも昨日の運営会議ですでに話は終了かと思っていた程だった。だが、まだまだ成田の服従話はおわっていなかった。今日はそれでも意見を言えた範疇には入るだろう、昨日に較べれば。会議自体はこれからもあるという。あの時のような、全て服従話でもないらしい。少しは仕事を残してくれているようだ。確かに、明日は組分け、希望競技記入もある。昨日に較べればここにいる六名は口を差し挟むことが出来た。
 六名は、生徒会役員ですらない運営中心人物、成田斉志が、憔悴し切った表情で美しいシンプルなデザインの携帯を眼前に置き、決してそれから視線をはずさぬ姿を、本日の会議がはじまってよりずっと目撃させられ続けていた。はっきり異常だった。
 こんな状況ですら、その仕事振りは常に変わらず大胆にして細心。携帯電話計五台を所有しすべてフル活用する幅広い人脈。視野が広く、着眼点は細部に及び、必ず有効な対論をたててくる。そしてそれが決定事項となった。詳細な資料には目を通すこともなく、すべての必須情報を暗記しているのではないかと思わせた。そして実際、その通りだった。
 鋭い指示が上の空の表情から飛ぶ。それが今日のA高生徒会室内の内状だった。
 彼ら六名は、成田が「俗界のブツはさっきの携帯以外自分達も含めてすべてそっちのけ」とばかりに生徒会室を出て行ったので、やっと一息つくことが出来た。確かに昨日も二度出ては行った。一度目はわけも分らずただ待ちぼうけ、二度目は理解も出来ず待ちぼうけた。しかしいくらなんでも異常だった。発せられる言葉と態度がまるで別物だった。あの男の頭脳はどういう構造をしているのか、誰にも見当がつかなかった。なにか別世界の、まるであり得ぬ錯覚を、六人はずっと見続けていた。
 なにか別に考えるべき重大事項があるのか。今自分達のやっていることは、この男にとってはついでなのか。どうやったら上の空な表情の口から、あんな命令話が出続けるのか。

四月十二日 木曜日 放課後

 少々興奮してはしまったものの、とりあえず入部拒否は逃れたからよしとしよう。なんかそれどころではない会話をしたような気もしたけど考えるのはやめた。
 今日は一刻も早く家へ帰ろう。あのパソコンに付いて来ているもの以外、なにも付け足したくはなかった。壊すんだから、増やしてどうするの。
 なんて弱音吐いたりして。
 自転車置き場は正門への坂の途中、ふたつの校庭の脇にある。坂を下りる場合の向かって右、第一校庭脇の奥の方が一年F組の置く指定席。まだ桜も舞い散らぬこの場所は、丁度F組の窓際から見ると桜のじゅうたんのように見えて美しい。そこへ行くのは、ちょっと距離があるけど好きだ。
 自転車のカギを差し込み、少し後ろに動かして、あとは乗って帰るだけ。
 そう思って振り返ると昨日のひとがいた。
 そのとき、わたしはすぐ隣の校庭で、サッカー部が部活に勤しんでいることなど完全に頭から吹っ飛んだ。
「梅子」
「……」
「俺は成田斉志」
「なりたくん」
「斉志」
 つばをのみこむ。ごくんと鳴った。
「あ、の」
「うん」
「わたしはさいとううめこ。です」
「うん、梅子」
 なにをいえばいいというの。足がとけてなくなった。下、地面じゃない、い、いたい。いたい。ひだりがいたい。これが心臓なはずない。こんなんだったら死んじゃうよ。
「梅子」
「は、い」
「梅子」
「は、い」
「梅子」
 多分、これは会話と言うんだと思う。
 昨日に較べたら。

四月十二日 木曜日 放課後

「梅子と話をしたかった。そのつもりで、焦って携帯ごと渡してしまった」
 なにかテレているようだった。他にもなにか言っていた。どうも、謝っていたらしい。けど。
 わたしはこれを聞いた途端に真っ黒けになった。体中うんとまっくろけ。ひだりがいたいのがぴたりと止む。そっちの方が痛い。
 はなし。なに。わたし、そんなの。誰ともない。
 知らないひとと話すことなんてなにもない。
 そう思い続けた一年とおとといまで。
 それは十五年と今日も? それともずっと?
「なんのはなしですか」
 すると相手は言うのを躊躇う。わたしから目を逸らす。「いつもの話」を切り出されるパターン。厭だ。今だけは、今このときだけ、あの話なんてなしにして。
 目の前のひとはわたしに、ようやっと、といった感じで伝えて来た。
「梅子の話を」
 この後どうやって家に戻ったのかわたしはなにも覚えていない。

四月十二日 木曜日 夜 梅子自宅

 わたしは普通に自転車で戻って来たそうだ。コケてもケガをしてもいなかったそうだ。ご飯もこぼさず食べたそうだ。どうもフロまで丁寧に入ったらしい。
 こんなことに意識を向けてはいられなかった。
 学生鞄の、一度も使っていなかったポケットのチャックを開ける。
 一片の紙切れ。あのひとが渡してくれたもの。
 あのひとはあれから、これを書き、わたしに持たせて学校のあの場所で別れた。やさしい声で。今日は遅いからもう帰って、危ないから、途中でへんな目に遭ったりしたら大変だから、もしそういうことがあったらすぐ掛けて、って。陽がそろそろ暮れかかっていた。
 今までひとりで大丈夫だった? って訊かれたから、うん、なんともなかったよって応えたけど、危ないから、帰って、って。
 さらさらと書かれた綺麗な字の「成田斉志」という名前、住所、090から始まる電話番号。
 ぜろきゅーぜろ。携帯だ。このあいだからわたしは家の電話を使いまくっている。もっぱら受けていることが多いけど。あんまり、占領するのもなんだし、電話代をかさませてはいつまでたっても携帯購入許可がおりないと思って貰いものや余り物のテレホンカードを掻き集め、家から五十メートルと離れていない公衆電話ボックスへと向った。
 学校の、中央階段下のとほとんど同じ型の、ガラス張りの電話ボックス。テレホンカードを緑色の公衆電話の挿入口へ。入れようとするとカードはぐにゃっと曲がって一度で上手く入ってはくれなかった。緊張する。ぜろ・きゅう・ぜろ。
 相手は何コールかして出た。
「あ」「梅子!!」
 あの、の「あ」しか言っていないんですけど……。
「は、はい。そうです。こんばんは、成田くん」
「斉志」
「あ、はい。あの、えっと……こんばんは」
「うん、梅子」
 大分、緊張はおさまった。このひとはわたしと話をしてくれている。
 いま、うんと安心している。
 けどどうしよう。電話は繋がったし名乗ったしこんばんはも言ったし……
「……よかった」
「え」
「梅子、電話掛けて来てくれた」
「あ、はい。その、番号、教えてもらいましたし」
「ああ……梅子、俺は一年なんだ。梅子と同じ。C組」
「あ、えっとわたしはF組です」
「うん。だから敬語なんて使わないでくれ」
「あ、はい」
「梅子」
「え、と。……うん」
「斉志」
「え」
「呼んで」
「……。……せいじ、くん」
「梅子、くんは要らない」
 えっと昨日が初めましてのひと、なんですけど……。
 なんですけど……。
「……斉志」
「……よかった」
 成田くん──名前を呼び捨ては恥ずかしいのでこころの中ではこう呼ぶ──はそう言ったっきり、静かになった。
「あ、あの……?」
「梅子」
「はい」
「その……」
「はい、どうしたんで……どうしたの?」
「……」
 厭だな、どがんばくんと心臓がいたくていたくて困る、こんな沈黙は。
「……せいじ……?」
「梅子!! その……梅子、……梅子の電話番号、教えてくれないか」
「え?」
「差し支え、なければ」
「え、うん。えっと」
 最近は自己紹介と電話番号を言いまくっているような。中学時代にはまるでないことで、とにかく嬉しかった。
「掛けて、いい?」
 こっちから。そう成田くんは言っている。このひとは強引で自己中でなにを考えているか理解出来ない行動をとるときもあれば、今みたいにうんと下手にも出て来て……よく分からない。
「……うん」
「よかった……!」
「ああ、でも」
「え……?」
「えっと、無理にとかは言わないので」
「ああそうじゃない。梅子いま公衆から掛けて来ただろ」
「え?」
 公衆って、公衆電話? そうだけど、どうして分かるのかな。
「だからその、……俺に番号を教えたくないのかと思っ……」
 不意に、成田くんは一旦言葉を切った。
「どこにいる!!」
 えっ……
「どこをほっつき歩いて、今何時だと!! ッ、そこを動くな、今どこにいる!!」
 いきなり大声。とても驚く。
「え、あ、あの、おおおうちから、五十メートルもないところ……」
「え?」
「さんじゅう……メートル、くらいかな? ここからおうち、見えます。家へ帰って、それからここへ来たの」
「……なん、で」
「え、と……」
 理由が大変しみったれたものだったので、ちょっと……張らなくてもいいミエを。
「ふたりっきりで話がしたかったから」
「……」
「あの……」
「……」
 ミエではあるけれど……。ひょっとしたらこれは、嘘ではないのかもしれない。
 ばくばくという心臓音が止まなかった。なにかの警告音のように。
「……梅子。携帯に公衆電話から掛かってくると、単に“公衆電話着信”とだけ出て、相手の番号は判らない」
 ふうん、そうなんだ。
「公衆電話だけじゃない。自分の番号を相手に知らせたくない場合“184”を先にダイヤルして掛けると、受ける人の携帯には“番号非通知”と出て、同じく番号は判らない。だから」
 詳しいんだなあ。って、わたしが知らな過ぎるだけか。
「だから梅子は……俺に番号、知られたくないのかと思って」
 えっ……。
「……その」
 わたしがイヤイヤ掛けて来たと思ったの?
「そ、そんなことない!」
「……本当に?」
「う、うん! そんなことない、うん、そんなことない」
 警告音が鳴り続けている。今、自分は、まったく経験していなかったことに、暴走している。
「そんなことない。でなきゃ」
 暴走をとめられるのは、わたしでは無理だった。
「電話掛けたりしない、番号……教えてくれて嬉しかった」
「……梅子」
「ほんとに……」
「梅子」
「うん……」
「梅子」
「うん……」
「梅子……」
 どうして、このままでいいと思ったの。会話になんかなっていなかったのに。このままでいいと思ったの。
「……梅子! 公衆、電話代!!」
「え?」
「こっちから掛ける! 家戻れ!! ……戻ってくれ」
「……」
「頼む」
「あ、あのでもうち黒電話で……」
「ああ、俺の家もそうだ」
「え? そうなの、珍しい……」
 このとき、警告の意味をハレーションのように理解した。
 黒電話──環──
「あ、でも携帯とか持って……」
 声が震える。
「ああ、こっちだといつでも出るけど、梅子、頼む、家に戻ってくれ。危ないから」
「え、でも、家は近いし……」
「いいから。頼む。梅子……頼む」
「う、うん。じゃあ」
 公衆電話の受話器を置いてガラス張りの電話ボックスを出る。わたしは来た時とはまったく違った気分で、家に戻った。とぼとぼ、だった。これがとぼとぼって言うんだ。
 あんなやさしい声で。次になにを言うの?
 うちへ戻りたくなかった。もうなにも聞きたくない。あの言葉までにしたかった。して欲しかった。けれどもしもその先、あの話が出たら?
 高校生になって何度もそう思ったけど、今ほど戻りたくないと思ったことはない。いやだ──いやだ──いやだ──

 我が家は情けないくらい近所にあって、黒電話はもう鳴っていた。
「誰もいないのー?」
 しかし当然父母はいた。
「どうせお前だー」
「梅子、今日もさっきから何回もいろんなひとから電話が来ているよ」
「お前、出ろー」
 居間の黒電話に出ると、成田くんからだった。
「は」「梅子!! やっぱり遠い所からだったな!?」
 はい、斉藤ですと言おうと思ったんだけど、一文字しか口に出せなかった。
「えっ……ああ、あの、違う、本当に近いところから」
「……とにかく、よっぽどのことがない限りもう公衆からは掛けるな。掛けないでくれ。あと、家に帰るの遅くならないで。真直ぐ帰って」
「え、でも部活とかあるし……」
「それおわったら真直ぐ帰って。出来れば日が暮れる前に」
「あの、……う、うん」
「俺の黒電話の番号、メモして」
「う、うん」
「梅子?」
「……はい」
「元気、ない。……怒った?」
「え、……なにに?」
「俺に。つい、その……命令口調で」
「……ううん、そんなことない。何番?」
 成田くんのうちの黒電話。同じ市内局番。
 環──
「じゃあ、うん、じゃあね」
「おやすみ。梅子」
「おやすみなさい」

 このあとパソコンの本を開いた。忘れたかったので、いろいろ忘れたいことがありすぎて、深夜遅くまで机にかじりついた。
 あの一片の番号だけ、それに書いたおなじ市内局番の番号だけ、わたしは記憶することが出来なかった。
 机の、一番下の引き出しの奥に、それを仕舞った。
 もう出さない。

四月十二日 木曜日 夜

 A市内のとある場所で、またしても電話でのやり取りがあった。二人の距離は三軒と離れていなかったが、それでも携帯電話でのやり取りだった。こんな会話だった。
「で」
 西川遼太郎の一文字な問いに、斉志はやっぱりなにも言わなかった。今度は答えられない、ではなかったが。
「なに、昼のまだ根に持ってんの」
「うん」
 斉志と遼太郎は今日の午前中、ちょっとしたやりとりを休憩時間ごとにしていた。仔細は後で記述しよう。
「あっそ」
「首を絞めてやりたい」
 遼太郎は、今日のやり取りを見られたかと思って首がスースーした。
「そいつァ後でいいから」
 言いながら、こういう場合は間接首締めとでも言うのかも、あ、フロに入ってクビ洗ったら駄目だったかななどと思った。
「どうだった」
「ちゃんと名前言えたよ。謝った、ちゃんと全部。電話掛かって来た」
「チューボーかお前」
「遼、お前もう黒電話に掛けて来るな」
「どうして」
「梅子から電話が来る。改造のも番号教えたからな。梅子の家近所の公衆、弄るぞ。そこから掛かったら分かるように。あと梅子からの電話代は全部こっち持ちにするようにして」
「あっそ……」
「梅子、俺のこと呼んでくれた。けど最後、ヘマした」
「なにをした」
「元気なくなった」
「なにを言った」
「つい……命令口調で」
「口調じゃなくてメーレーだろ。お前はいつもそうだ。悪い癖だ。改めろ。毎回コキ使いやがって。俺様を敬え」
「……」
「まー話通じてよかったなァ。ところでチューのひとつもしたか?」
「……」
「おーい」
「……」
「おーーい」
「……」
「おーーーい……」
 遼太郎は少々首を捻った後、ガキかと呟いて切った。