四月十日 火曜日 A高 午前

 生徒達の声は校舎中、喧々轟々堂々と交わされた。その内容は、もはや誰もが知っていた。
「なによ一体、どうなっているの?」
「あ、あんたも聞いた?」
「聞いたどころじゃないよ、どうなっているのよ」
『成田君と西園寺さんが付き合ってもいないってどういうこと?』
 声は期せず重なった。
「邪魔者に別れさせられたと違うの?」
「だってどう見てもお似合いじゃん!」
「その話マジなの?」
「なんか、成田君へ玉砕しに行ったコ達が訊いたって」
 声は、一瞬押し黙り、そしてから絞り上げるように出た。
「……ウソ、なんじゃない?」
 ああ、と我が意を得たとばかりに声が続く。
「その子達ってさ、結局振られたんでしょ?」
「ああ、ムカついて嘘を流したとか」
「そうなんじゃないの? 振られるなんて当然なのに」
「だよねー、あんなお似合いなんだから最初から諦めろって。顔よし頭よし、確かスポーツとかも」
「うん、運動神経も抜群だって」
「じゃ嘘だよソレ」
「そうだよ」
 その声は旧校舎二階のあちらこちらで密やかに交わされた。決して、決して当事者の耳には届かなかった。誰もが声を大にはしない。その姿をチラチラ見はするものの、誰も当事者のそばに寄れもしなかった。

 当事者のそばとは言わずとも、その近くに寄った者達の声は一様にひそめられた。
「え、うわー、ちょっとあれ見て……」
「わ、わ、あれ……成田君?」
「そうだよ……」
「F組の廊下にいるよ……」
「わー……」
「こっわー……」
「なんか、教室を睨んでいる……」
「邪魔をするなって、言いに行っているんだよ……」
「じゃやっぱ、昨日の話が大嘘でー……」
「だよ、だってホラ当人が行っているじゃん……」
「きっとさー、昨日邪魔されたからいよいよお出ましなんだよ……」
「そうだよ……」
「ボクのオンナとの仲を邪魔するな、とか……?」
「うっわー……」
「違うって、昨日も行ったって、成田君F組へ……」
「え、そうなの……?」
「そう、昨日邪魔されたから次の授業の合間にすぐ行ったって……」
「その女、恐くて授業をさぼったんだって……」
「当然じゃんそんなの……」
「まだそいつ来ないの……?」
「気配察知して、今日も逃げているとか……」
「ぷぷぷ……」
「けどさ、授業には出るんじゃない? だから次の休憩時間……」
「見に行こうか……」
「見ものだよこれは……」
「結構楽しそうじゃん……」

四月十日 火曜日 A高 午前

 入学して二日目の一限目を、わたしはきっと忘れない。
 この日この授業までは、わたしはそれでもまだましなどうでもいい普通の高校一年生だった。もし元に戻れるのなら、この時間でと、そのときに戻ると言う。そのくらい、平平凡凡のどかな一時間は生物といって、昨日さぼった熊谷先生の授業だった。よりによって一限目から生物。
「あ、お前お前。お前、黒板消しな。俺の授業の前は必ず黒板をキレイさっぱり拭き取ること。お前、その係」
 熊谷先生は授業の開口一番そう言ってわたしを人差し指で指名した。
「なんだこの黒板汚いな。俺の授業を受けたければキレイにするもんだ普通」
 一応は消してある黒板に向かって教壇から、なっとらん、などと言う。なんて教師。
「なにをボケっとしているんだ、さっさと拭け。お前」
 ご指名をありがとうございます、などとは言えない昨日の今日。文句も言えず、またしても教室を長々と突っ切り最前列までよろよろと行って、力を入れて黒板を拭き出した。運悪く、わたしは実は黒板消しがベラボーに上手い。なんの自慢にもならないし、実社会の役には絶対立たないけど。履歴書に書けないなんて特技じゃない、下らない。
「おー、まあマシだな。忘れるなよこれから」
 確か罪は日曜日に償えばよろしいんじゃなかったのかしら。とも言えず、ひと仕事をおえたわたしはかなしい気分を引きながら最後列の席まで戻る。昨日から、クラス全員に注目されながら歩くことばっかりやっているなあ、と自分にあきれた。
 授業の内容は全然分からなかった。わたしは基本的に文系のひと。どうして生物なんてやらなきゃならないのかなあ。二年に進級すると文系と理系とにクラスが分かれるから、理系の選択科目にして一年でなんかやらなきゃいいのに。
 と思っていたのはわたしひとり。みんなヤケに真剣に、授業を拝聴している。そういえば黒板をきれいにしろと先生が言っても誰も文句を言わなかった。何故?
「はい、授業おわり。小テストね。教科書ノート仕舞え」
 へ?
 ひとり、わけの分からない顔のわたしを尻目に、他の全員はさっさと言われるまま教科書ノートを仕舞った。前の席の小松さんから一片の紙キレが渡される。名前と、空欄の番号欄があるだけの小さな白紙。
 熊谷先生はその紙が前の席から後ろの席まで渡される間に、黒板へ問題を書き綴った。答えるべき箇所を空欄にして、その場で即興の問いを書いている。
「この空欄に入る言葉を書きなさい。時間、十分ね」
 教壇うしろの黒板の、右斜め上にある時計を見ると授業時間はあと十五分。
 空欄は全部で八つだった。わたしに分かったのは、埋めるべき言葉は今日の授業で生まれて初めて聞いた横文字の専門用語だろう、ということだけだった。

 十分経った。
「じゃ、隣の人と答案用紙交換して採点」
とは熊谷先生。隣の人って、とふと右を見ると、坂崎君がいた。
 こいつは目つきは変だしなんか嫌味ったらしいし、そういや昨日、揶揄ちっくな視線を頂いたような気もする。へんに色白というか、唇がへんに鮮やかで、その割になんか背筋がしゃきっとしているというか、まゆ毛はきりっとしているし、睫毛も濃いし、鼻筋は通っている。だから、ちゃんとお顔が整っているのは認めてやるから、そんなヤな顔するなよな。
 言葉も交わさず答案用紙を渡し、受け取る。熊谷先生は黒板の自分で設けた空欄に答えを書き込んだ。
 うわ、合っているよ隣の人。答え全部。満点。おまけに字が結構几帳面だ。わたし? こんな綺麗なわけはない。
「はい、そのまま回収」
 へたくそな字の答案用紙を隣の人から受け取れもせず、隣の人の答案用紙をそのまま前の人に託す。そうやって全員分が熊谷先生のいる教卓に集められた。
「ほー……」
 と、ぱらぱら回答用紙をめくった。
「こんな点のやつ、あとでちゃんと復習しておけー」
 そう言って、熊谷先生の頭上でヒラヒラと上げられたのはどう見てもわたしの答案用紙だった。視力両眼合わせて三.〇のこの眼が恨めしい。答えが二つも合っていたんだからいいじゃないか……。
 だからさ隣の人。そんなね、ニヤニヤひとを盗み見てぷっとわざとらしく吹き出すの止めなさい。

 一限目が早めにおわると、わたしは溜め息の余り机につっぷした。
「あんなのがあるのかー……」
 すると前の人、小松さんが余程見かねたのか、ちょっとだけ教えてくれた。
「うん、昨日もあったよああいう小テスト。いつもやるんだって。だからみんな、結構真剣に授業を聞いていたでしょ」
 そうだね。そうみたいだね。
 そんな説明を事前に小松さんから聞けないくらい、遅刻ギリギリに朝滑り込んできた自分が全部悪いんです。だってこうでもしないと環、ここのクラスに来てお話しようとか言ってくる。中学三年からの、これがわたしの習慣。
「昨日は、坂崎君の答案、私が添削したんだよ」
 へえ。
「昨日はどうもね。トーコちゃん」
 ちょっと隣の人。昨日は、に力を入れて言うなァ! まるで昨日は答えが全部合っている答案用紙で楽だったが、今日はハズレばかしでつまらなかったと言いたげじゃないか! きっとそうだ! 他に想像も出来ん、我ながら。それと!
 トーコちゃん??
 ト・ぉ・コ、ちゃん? この男が。
 こーのイヤミったらしい男が? 高校生ともなると男子はちゃん付けなんかで女子を呼びはしないものを。それをよりにもよって、あのさかざきてつや(推定十五歳)が。
 とーこちゃん。
 ボケなわたしを尻目に、前の人と隣の人は楽しそうに会話を続けていた。隣の人の表情に、ニヤニヤもイヤミも浮かんではいなかった。
 あ。そうか。
 隣の人こと坂崎は別にはっきり言って嫌いだが、前の人こと小松さんは嫌いじゃない。はあ、分かった。これはわたし、お邪魔虫ね。もしわたしの視力が悪ければ、センセーイ視力が悪いんで前の席に行きまーす、とか言ったのにな。そうすれば前の人と隣の人はめでたく隣同士となれるのに。身体測定とかでバレるだろうからやらないけど。
 けどまあ、応援はしないけど。なるべく邪魔もしないでおこう。

 大人しくしています宣言をこころのなかでちゃんとしたのに、余人はわたしをほうっておいてはくれなかった。
 わたしが近隣席の相関関係を確認し、一限目のおわりを告げるチャイムが鳴った、直後。
「ちょっと! 斉藤梅子とかいうやつ、いる!?」
 え。