四月九日 月曜日 朝

 こんな日はいつもより早く目が覚める。今日からわたしは高校生。
 生まれてこの方、新鮮、という日はあまりなかった。毎日ただ単に、昨日を手書きで写し取っただけのような、単調な日々だったから。
 それでも、今日のような日は少し特別で、そういう気分が少し新鮮。
 A高の女子制服はネクタイ。ビジネスマンがぴっと締める、あのネクタイと同じ。これを締めることに憧れていた。
 夕べ寝る前に準備しておいた制服を手に取って、ぴっと締める。締め方は母ちゃんにではなく、父ちゃんに教わった。
 姿見で確認する。こんなお顔にこんな体重ではあるけれど……。
 今日からわたしは高校生。

 先月末ではっきり確認した通学時間。指定された時間の三分前に着くよう家を出た。
 四月の朝は、三月の朝とは確実に違う。それは気持ち的にも、季節的にも。もうあのときと違って、風のやわらかさも、樹々の枝振りも、今はもう春だった。そんななか。
 朝日を浴びながら、風を受けながら、バスではなく自転車で。花と緑のにおい。その空気を思いっきり吸う。海と山の青緑を眺めながら、初めて着る制服で、これから三年間通う学校へ向かった。

 わたしが着いた時間はもう、あと少しで入学式が始まる、そんな時間。だから自転車置き場に新入生なんかもう誰もいなかった。
 あの時はまだ、蕾も芽吹いていなかったというのに。
 いまはもう、桜、満開!
 花びらを浴びて、それから。荷物を置きに教室へと向かった。

四月九日 月曜日 A高 午前

 一年F組の決められた通りの席次に荷物を置いた後、第一体育館で入学式が行われた。ひな壇に最も近い一番前にA組男子、次はA組女子、その後ろにB組男子と続く。左から苗字五十音順に着席していて、各々担当の先生から名を呼ばれる度、ひとりひとり立ち上がってはいと返事をする。F組まで呼ばれる時は結構時間がかかり、立ち上がる時へんな音をたてないように、とだけ気をつけて、短く返事をして座った。
 さすがに高校生ともなると、誰も「うめこ」では笑わないんだなあ。それが第一印象。なにせこの名だけで充分いじめられ尽くした。物心ついた時から日の丸弁当を食べられたことがない。苗字で即座に個を認識されない自信はあるのに、名前だけでどうしてこうも損するんだろう。そう両親に食って掛かりたかったけど、ここまでこの身が育つのにどれだけお金が掛かったかを思えば、家庭崩壊に繋がりかねない言葉をぐっと飲み下し続けてきた。家は自営の漁業で細々と食い繋いでいたけれど、父はわたしに家業を継がせようとか、積極的に手伝わせようとかはしなかった。
 この日、ひとりだけ、入試の順位が分かるひとがいた。式で挨拶をする一年総代、つまり一番頭のいい生徒。それは環ではなかった。驚いたけど、だからこそ決意を新たにした。わたしの順位は一学年三百二十名中、三百番台だった。

 入学式当日も、終業式にも授業はある。第一体育館での入学式がおわると各自教室へ戻り、早速授業が開始された。三限目に相当する。
 先生は最初だからと、生徒に簡単な自己紹介をさせた。さいとううめこ、五中から来ました、以上。わたしの前の席のひとは小松柊子さんという。斉藤のさの前が小松のこ、こまつとうこ。第三中学校出身のひと。ひとまず挨拶を、と思いぺこりと頭を下げた。小松の柊子さんは複数いる同じ出身中学の友人とそのあと楽しそうにお話ししていた。
 最初の授業、三限目は主担の古典、次が四限目、副担の数学。
 教室を移動することもなく、担当との顔見せという意味もあるだろう午前中の妥当な授業の時間割り。あとはお昼はどこで食べようか、と漠然と考えていた。午後の授業は生物だけで、六限目はホームルームとあった。
 一文も理解できない四限目の数学がおわったので、さっそく屋上あたりへ行ってみようかと思ったら、今どきその格好をするのかというような出で立ちの先輩男子複数がどかどかと教室へ入ってきて、これから校歌の練習をするぅ! と濁声を張り上げて言った。応援団というものらしかった。お陰でお昼ご飯もろくに食べられない。この、応援歌練習なるものは新入生相手に一週間続くという。
 はやくおわってくれと詛うしかない、意味無し練習がお開きとなると、昼の時間はあと十五分程度しか残っていなかった。これには困ったけど、逆に言うとひとりでお弁当を食べていても目立たない。
 お昼を五分で食べおわると、もうすることがないから、生物・生物ねと真面目に教科書を机に出す。
 ふ、とその机に影が出来、見上げると三人と三人づつの男女合計六名が、間違いだろうけどわたしの机を囲んでいた。
「ちょっと、いい?」
 とは代表らしき女子。鈴木さんだ。五十音順からいけばわたしの後ろの席となりそうだけど、わたしは一番後ろの席。列ふたつ左の一番前に座るひと。
 クラスのひとは今日の授業で全員席を立ち名前を言った。全員を後ろから見ることになるので顔はあまり見えないけど大体分かる。鈴木さんの手招きでわたしは立ち上がった。このひと達もお昼の時間なんか少ないのに。女子なら食べおわるにしては早すぎる。ひょっとして食べていないのかな。ちょっと同情しつつ、とはいえ話の内容は大体予想がついていたから、五分で済むな、と思い言われるままついて行った。

四月九日 月曜日 A高 午前

 新校舎のあちらこちらで声が聞こえた。こんな内容だった。
「C組は?」
「すっごい囲まれているよ!」
「さっすが~、もてるんだ成田君!」
「そんなもんじゃないよ、総代だよ?」
「ちょっと見て来たけど、すごい美形!」
「全国模試の順位二桁なんでしょう?」
「とんでもないよね」
「別世界」

 新校舎のあちらこちらで声が聞こえた。こんな内容だった。
「D組は?」
「ちらっと見たけど、とんでもない美人、西園寺さん」
「西園寺さんもみんなに囲まれているの?」
「ううん、みんな誰も声掛けられないみたいで」
「なんか、近寄り難いって言うか……」
「結構そういう噂あるよね……」
「でもさ、実物見ると魂抜かれるって、もう見蕩れたもん」
「じゃあの、泥棒猫とか床上手なんてヘンな噂は?」
「違うんじゃない? もう、清楚っていうか」
「へー……」

 新校舎のあちらこちらで声が聞こえた。こんな内容だった。
「じゃあ」
「いつ逢うのかな、成田君と西園寺さん」
『待っているんじゃない?』
 複数の声が重なった。
「教室でデート?」
「わー……」
「とっても近付けないよね……」
「確かにお似合いだよ、あれはもう」
「別次元だって、あそこまで行くと」

 その声は、対象者の耳へ聞こえよがしに交わされた。そして新旧どちらの校舎でも盛んに交わされた。
「聞いたー?」
「聞いた聞いた」
「成田君と西園寺さんの仲を邪魔しに、わざと同じ学校に入って来た人いたってホントだったんだ!」
「えー、ホント?」
「ホントホント、聞いたもん、あのヘンな名前!」
「え、どこどこクラス」
「F組」
「へー……」
「じゃ、成田君と西園寺さんが別れたって、ひょっとして」
「そう、その人が邪魔してたんだって」
「しかも一年間ずっと!」
『えー!?』
『ひっどー……』
 賛同者が多ければ多い程、その声は大きくなり、新旧どちらの校舎でも交わされるようになった。けれどまだ、対象者の耳には届いていなかった。

四月九日 月曜日 A高 昼休み

 一年F組の教室を出たすぐの廊下の窓側へ立った。鈴木さん以下計六名はわたしの周りを取り囲む。
「なんでしょう」
 尋ねると、正確に想像通りの言葉が来た。
「多分D組だと思うんだけど、西園寺さんって知っている? もし知り合いなら、ちょっと訊きたいんだけど」
 これを言ったのは中村さんだ。やっぱり女子。男子三人は中村さんの背後にいる。それじゃ女に庇われているみたいだぞ。
「あの」
 少し言葉を切ってから言った。あ~あ、高校入学直後にこれか。時間全然ないこんなタイミングで。
 ご苦労様とハラではとりあえず労っておいて言った。
「自分のやりたいことは、自分でやってください」
「え。あの」
 阿部さんだ。
「当人の許可も得ず、話すことはなにもありませんから」
 正確に想像通りだった。
 環のことだけが知りたい。なのにそれを当人にではなくわたしに訊く。これが“いつもの話”。
 こういう手合いは山といた。当人に自分で訊けと言ってその通りに出来るなら、最初から当人に言っているので、こう答えて環の迷惑にはならない。わたしが環の知り合いであるかは、この会話では容易に判別つきかねるだろうし、こちらから会話を切ってあるのでこれ以上はなにもお尋ねできませんよね、背後の藤原と山崎と和田。女子はまだ遠慮するが、自分の用事を自分で切り出せない男にさん・君付けは無用だ。
 さっさと下らぬ会話をおわらせ教室へ戻りたかった。けどわたしは廊下のガラス戸を背にしていて、席へ戻るためにはこのひと達のど真ん中を突っ切って行かなければならない。ガン飛ばしてどかすような行為は、まさかこれでもクラスメイトにすまいと思って下を見ていると、六人は道を開けることもせずまだなにか問いたさそうにしていた。
「でも」
「ちょっとぐらい教えても」
「いいんじゃないの」
 とは順に阿部・鈴木・中村。さん付けは止めだ。
 さてどうしようかな、と思っていたら。
 思っていたら、背後より、むんずと制服の襟をやたら力強くふん掴まえられた。
「え?」
 一番背の高い男子の和田かと思ったら違った。振り向いて、かろうじて横顔を一瞬だけ見たけど全然知らないひと。和田より背の高い男子。誰?
 掴まえるだけでなく、そいつはなにを思ったかわたしを引きずり出した。方角はE組方向。それを過ぎ、左手に折れれば新校舎への渡り廊下がある。
「あの、っぐ!」
 首が詰まる。とんでもない力なので逆足に脚を動かさなくてはならない。首が痛い。学年ごとに色の違う内履きはゴム靴だから、マンガのようにずるずるとは引っ張れない。とはいっても足が浮くかと思った。逆足ではバランスが取れないから、早足となって余裕を取り、普通の歩き方などとても出来なくて、小走りになって小声で言った。
「あの、なんですか!?」
 答えはない。背が高い、その背中がごく近くに見えるだけ。ショートカットというにしては少し髪が長いなと思った。襟足がそう。眼鏡をかけていたような気がするけど一瞬だったし、顔は見えない、誰だかさっぱり分からない。第一、わたしは環以外知った人間はこの学校にいない。
 なにかは知らないが騒ぎ立ててはいけない。こういう場合、相手に迷惑が掛かる。こういう場合でもだ。わたしごときとちょっと喋った、というだけで哀れにもその日騒がれ興に乗せられた不幸な男子が僅かだけいた。中学時代、申し訳ないことの一番は環だけれど、随分差のある二番目はそれだった。だからいかな場合のいかなやつであろうとも、わたしと付き合っているなどという酔狂な噂を立てられる悲劇を繰り返させてはならない。とはいってもこのままだとそうなるかもしれないじゃないか、さっさと手を離して欲しい。
 と思ったら渡り廊下を通って新校舎へ入ったすぐ右のD組へ放り投げられた。
 嘘ではない。本当に放り投げられたのだ。
 首の圧迫感から解放戴きありがとうなどとは、到底口に出来なかった。この状況が理解出来ずぼけっとしていたら、投げた誰かはどこかへ行ってしまっていた。環がこちらを驚いて見ている。当然だ。けど環、ゴメン状況を説明出来ないや。
「う、梅子? どうしたの!?」
 驚く環の声とチャイムの音が重なった。
『あ』
 今度は二人の声が重なった。
 予鈴なんかこの学校にはない、始業の……。
「じゃ、そういうことで!!」
「あっ、梅子!」
 その名を叫ばないでくれと言いたかったけど当人は悪びれて言っていないのが分かっていたからそれは言わなかった。いや、そんな時間はなかった。D組を脱出、急いでF組へ戻るべくガラス張りの渡り廊下へ差し掛かった。

A高二階見取り図

 けれど既に、生物の担当とおぼしき男性がF組に消え、教室前扉が閉まるのを確かに見た。
 もう、駄目だ。
 鈍足はすぐに止まった。あのまま教室へは入りづらい。どの面下げて。入学早々遅刻かよ、とわたしがあの教師でも確実に言う。また、渡り廊下を渡りおえなかったと言うのも致命的だ。ここを今さら歩き切り、呑気にF組へと向かうならば、環でなくとも新校舎一年A組・B組・C組・D組の窓際へ並ぶ同級生に授業遅刻者たるわたしの後ろ姿を晒すことになる。
 そんなのはもう厭だった。そんなのは、たったふたりだけでも厭なのに。

 わたしはすぐに来た道をとって返した。このままここにいれば、今度は新校舎に来て授業をし出す教師と直接ご対面ということになる。だからそそくさと、奥にある、校内探検で歩いたときには用はないと断定した図書室にすべりこんだ。ここなら教師は、これから授業をし出すまいと思って。
 図書室は静かなもの。だから開け閉めの戸も、他の教室と違ってガラガラと音はしない。新築の匂いがする部屋で、建て付けはよく、視界が明るい。ガラス窓は北へ面しているから、一般の教室よりも蛍光灯に気を遣われているのが分かる。それ用に、床面も配慮されていた。
 などと呑気な感想を考えたりしていると、すぐお声が掛かってしまった。
「なんだ、サボリか」
 白衣を着た教師とおぼしき若い男性がわたしに、睨むでもなく話かけて来た。