勇気なんて出さなくていいと思ったの。

 A市内に六つある中学校のうち西南に位置する第五中学、通称五中の校庭にはときならぬ大雪が降り積もっていた。二月末の土曜日、しかも午後三時となると学校に残る生徒は誰もいない。もうすぐ卒業式を迎えるだけの中途半端な三学期。
 海に面した貧乏田舎のこのまちは、市内の真ん中まで入り組んだ海から常に吹く風が冷たいけれど、雪は冬でも散らつく程度。滅多に積もることはない。あってもせいぜい十センチメートル程度。
 そういえば小学校のときも結構降ったなあ。あのときも土曜日で、夕方まで布のクツで滑って遊んで、濡れた足がしもやけになっちゃったっけ。
 今日もあの日と同じ綺麗な晴れだった。あのときと同じように、雪を背に校庭のど真ん中で寝っ転がって校舎を眺めた。雪の結晶でキラキラ。キラキラ。雲の隙間から少しだけ見える陽光が反射していた。もうすぐ春。雪が多く降るときは、これが冬のさいごの合図。もうすぐ春。

 顔はこのとおり、身長は中一のとき最前列、体重言いたくない、百メートル走ジャスト二十秒の運動神経。なんの特技も趣味もない。
 そんなわたし、斉藤梅子には中学二年生に至るまで友人と呼べるひとがいなかった。それでもよかった。来年になれば中学三年生、こんな田舎では小学校受験とか幼稚舎お受験とかはワイドショーの向こうの話で、だから誰もが初めて迎える「選抜試験」。
 夏頃までに、イヤイヤ全員参加のへたくそな強制参加部活をベンチ入りもせず終え、あとは全員が未知の世界に突入する。そうなれば昨日の友達今日の敵。隣の生徒の成績と進学先が気になって、独りぼっちの戦いになる。早くそういう時期になって欲しかった。
 進学先はもう決めてある。
 通学圏内、つまり管内の高校は五つ。ランクが一番上にあたる県立A高校普通科、通称A高。同じ市内にある。次が隣の市の県立B高校。B高は普通科と体育科があるけどB高の生徒は誰も自分達の学校がA高よりランクが下とは思っていない。追いつけ追い越せというライバル校。
 あとの管内三つの高校はA市内にあるのが工業科のC高、農業科のD高。B市に普通科のE高。そして誰もが口には出さずとも、誰もがこの順での偏差値ランクと分かっていた。つまり、E高が一番下。
 特種技能のある脳みそ構造ではなかったから、普通科へ行こうとは決めていた。とするとA高かB高かE高。けれど市内にあって自転車で通えるところが最低条件だったから、科は関係なく行き先はA高しかなかった。
 とは言え、自慢じゃないけどわたしの頭はよく言ってD高が圏内。D高に失礼があってはならないので誤解のないよう言うけれど、D高程度が丁度いい、なんて侮蔑の意味じゃない。こないだのテストの偏差値がなんとかD高に引っ掛かる程度、だった。
 家からD高へ行くのに自転車で片道一時間はかかる。しかもD高校舎前数キロメートルは嫌味ったらしい位の穏やかな上り坂であることを、この時期になると切々と恨めるようになった。
 今の学校、五中へは自転車で片道十分程度。それが高校へ上がったら途端に六倍の一時間なんていくらなんでも大変過ぎる。成長期に入ったのは中学二年の夏ごろからで、受験を意識したときはもう最前列じゃなくなっていた。小学校の時から厭でも飲み続けた牛乳がやっと功を奏したのかも知れない。体重もついて来ちゃったけど。
 こんな馬鹿げた、ほんの少しだけ先の未来を考えていた。
 酔狂で来た土曜日午後の校庭。校舎はともかく、校庭はどこからでも入ることが出来る、開けっ広げの校庭。
 膝まで降った雪を、誰も足跡を付けていないや、ワーイ、とか言って突っ切ろうとしたけどさっそく後悔した。まず、足が冷たい。ちゃんと長靴で挑んだけど、膝までの長靴じゃなかったから雪は靴に入って来るし、新雪をひとりラッセルしなくちゃいけないし。それでこのとおり校庭の真ん中でぶっ倒れている始末。ひとひとりいない抜群のシチュエーション。泣いて戻るか、喚いて進むか、下らない二者択一を誰も見ていないところで下すしかなかった。
 さあ、どっちにしようかな。と、倒れた時に気付いた。
 倒れた視線のその先は教室。二階、向かって一番右。その窓際に人陰があった。
 あちゃあ、あほなとこ見られた。
 そうは思っても息を整えるのが先。確実に、向こうがこちらを見ているのは分かっていた。それが二人分の視線で、男子と女子がひとりづつだということも。
 白い息が雪の結晶にキラキラして、冬の、軌道の低い陽光はもう傾いていた。少し視線をずらしただけで見られる太陽光。空が高く感じる。雲ひとつないと思っていた空に、飛行機雲がふたつ。しばらく見ていると、それはゆっくりとクロスして離れて行った。
 目を瞑っても視線は感じるし、陽はまぶたを透ける。
 汗が冷たくならない内にと起き上がり、わめかず進む道を選択した。そうしなければ校舎方向へ戻るので、二対の瞳とまともに向き合って歩くことになる。たとえ、そっちの道がもう足で踏み固められていて楽な道だったとしても、進み続ける姿を見ればあちらさんも同情してこっちを見ないでくれるでしょう。うん。なにせもう体力がないし。完全に校庭をナナメに突っ切るには今までの倍時間が掛かる。
 結局、下らない意地を張り続けて、校庭の端へ辿り着き、濡れて重たい布製鞄を引き摺って、丁度来たバスに乗ってさっさと家へ帰った。そのとき、振り返るような不粋な真似はしなかった。

 綺麗だったから。あの二人が、どの景色よりずっと。