井上くんの、あったかもしれない大切で忘れられない日

 八月、もうすぐ梅子の誕生日、その日が来たら20歳、大人の仲間入りである。今年のお盆は珍しく会社の社屋の大規模メンテナンスが入り四日間の休みとなった。主任はこれ幸いと海外旅行に出かけた。大方、リゾートビーチで金持ち日本人を演じ美女をナンパするつもりだろう。
 梅子は、明美、マコに誘われとある喫茶店に来ていた。 明美いわく「マコがさ、慶が海外遠征で、さすがについていけないからその間地元に戻るから会おうよ、だってさ。それでどうしても行きたい喫茶店があるんだってさ、何でもA高の文化祭でとってもおいしいコーヒーを出してた人の実家の店なんだけど、一人じゃ 行きづらいから一緒にだって。せっかく休みなんだし喫茶店でダベリしようよ、そのあとウチに泊まってゲロ大会だぜ。」 というわけで、三人は喫茶「いのうえ」に居た。そこには、帰省中の井上くんがカウンターの中に居た。(実は、明美に頼み込んで梅子と話をするチャンスを作ってもらったのである。)三人が入った後は準 備中の札がいつの間にか店の前にぶらさがっていた。

「あのときのコーヒーの味が忘れられなくてさ、どうしても来たかったんだけどなかなかこれなくてさ。ちょうど井上くんが夏休みの帰省中で居るって聞きつけたんだけど、来れて良かったよ。それにしてもホントおいしいよね、井上くんのコーヒー。このアイスカフェラテ最高。このオレンジムースのケーキもおいしいけど 、これはどこの?」とマコ。
「それは、タカギの試作品。イチゴのショートケーキとチョコレートケーキは、いつも置いてあるんだけど、それらの他に試作品を時々置かせてくれって頼まれるんだ、何でもいきなり新作を店に出すのは冒険過ぎるからその前にウチの店とあと一軒の喫茶店に出して客の反応を見たいんだってさ。だから、けっこう色んなケ ーキがやってくるよ、中には、タカギの新作を早く食べたいって何度も来てくれる客もいるし。ウチも助かってるんだ。」

 「あ〜、まだ三分の一いってないのに持ってかないで〜」「早くしろよ、梅子。三つのケーキ全部味見したいって言ったの梅子だぜ。しかし、この定番のチョコケーキもおいしいよな。」と、明美はブラックコーヒーを悠然と一口飲んだ。
梅子は何とか自分のぶんのイチゴのショートケーキを口に入れてアイスティーのストローを咥えた。「コーヒーもいいけどアイスティーもいいよ、香がすごくあるのに苦すぎなくて。」

 それから三人は若い女の子らしい話をたくさんした。ひとしきり喋ったあと、明美が言った。「梅子、実はこれからウチでちょっと早いあんたの誕生パーティーをやるんだけど中身はサプライズにしたいから準備ができるまでここで待っててよ。マコが料理つくってくれるんだって。まあ、一時間ぐらいで戻るからさ、それ まで、井上くんと懐かしい話でもしててよ。」よくわからないが、明美がそう言うのならと梅子はそこに残った。

「俺も一緒に飲むからさ、カウンターに来て隣に座れよ。今度はあったかいものでも飲むか?」
「そうだね〜、何かおすすめある?」
「新しく入荷したばっかりのキリマンジェロがあるんだけどけっこうオススメ、まだ店でも出してないから斉藤が最初、試してみる?」
「じゃ、それで」

「こうしてると1Fで文化祭で喫茶店したの思い出すね〜。あのときも井上くん喫茶店のマスターがさまになっていたけど、今はもっと板についてるね。」
「まあな、こうみえても将来は自分で喫茶店を持つのが夢だからな、コーヒーや紅茶の淹れ方の研究は怠らないぜ。ここは、いずれ姉貴が継ぐから俺は今住んでいる湘南あたりで店を出したいと思っているんだ。その前に会社勤めして開店資金をためるつもり。」
「すごいね、将来のことちゃんと考えているんだね。」
「斉藤はどうなんだ、将来は」
「私?私は別にきっと今のまんまだよ。あの会社、休みなしだけどここじゃ他に就職口もないしきっとずっと居るよ。」
 眩しい太陽に一筋雲がかかったのか、夏の日差しで明るかった店内がふと翳った。

「今から聞く事は答えたくない事だとは思うけど、あえて聞く。その答えを聞かないと俺が前に進めないんだ。だから、正直に答えてくれ。成田とは、本当に別れたのか、それとも、周りを何かの理由で欺くために別れた振りをしているのか?」
「・・・・」
「お願いだ、答えてくれ。」
「せ、成田くんがどう思っているかは知らないけど、私はキッパリ別れたつもり。はやく私のことは忘れて成田くんにふさわしい人を見つけて欲しいと思っている。」
梅子はほうっと長いため息をつくとコーヒーを一口飲んだ。

「そうか・・・。斉藤に大事な話があるんだ、聞いてくれないか?」
梅子は井上に怪訝そうな眼差しを向けた。
「A高の入学式の日、桜の木の下に女の子が立っているのを見つけた。その瞬間、俺は恋に堕ちた。理由なんてない、とにかく一目惚れだった。その子と同じクラスになってとてもうれしかった。だけど、その子は入学早々、よくわからなウワサをたてに、いいがかりをつけられてばっかりで、とうとう他校からも来た。その 子はいいがかりをつけに来た子と一緒にA高をでていってしまったので、俺は不覚にもそのウワサの方が本当だと思ってしまい、庇うことができなかった。だけど、事実は、ウワサは真っ赤な大嘘で、その子は他校から来た子と、ウワサの渦中の二人を捨て身で庇ってた。それが解った時、俺は死ぬほど後悔した。どうして好きな子 を信じて庇ってやれなかったのかと・・・・。それで、なかなか告白する踏ん切りがつかなかった。そうこうしているうちにその子は別な男に告白されて付き合いだしてた。ここでも俺は後れを取って後悔した。だけどその子は、その男と付き合いだしてから毎日幸せそうで、どんどん綺麗になっていって、見ているだけでも俺はう れしかった。その男は有名人だから色々やっかみもあったとは思う。だけど、お互い18歳になったら籍を入れると明言していたので、さすがに在学中は無理でも卒業したらすぐ結婚して幸せになると思ってた。
本当に幸せになってくれたら俺もあきらめがつく、そう思ってた。なのに、高3になったら突然別れてずーっとそのまんま、何がどうなってんだか解らない。このままじゃ、俺もあきらめがつかない、だから、ちゃんと告白しようと思った。それで、佐々木に頼んでここへ来てもらった。斉藤、俺、おまえが好きだ。俺と付き 合ってくれ。」
 梅子は話の途中で井上くんの好きな子が自分だと解った。こんなに長い間、自分のことを、優しく熱く思っていてくれたなんて、・・・。思い返せば、いつもさりげなく親切にしてくれていた。

「私は・・・、井上くんの気持ちに全然気がつかなかった。私のこと好きだ、って言ってくれてうれしいよ、ありがとう、だけど、まだ、気持ちの整理が出来てなくて・・・。付き合うことはできないよ。ごめんなさい。」
「そう言うと思ったよ。だがな、こんなド田舎に住んでる限り、そしてお前が成田に背を向けて避け続けるかぎり、結婚したくないと思っていてもいつかは両親・親戚・職場なんかのいわゆる世間の圧力に負けて、二番目以下の男と結婚する事になるんだぞ。それは解るだろう。」
 梅子はうなずいた。
「それくらいなら、俺を選べよ。成田ほどじゃなくてもそこそこ金を稼ぐ自信はあるし、こんな狭い田舎から抜け出せる。成田に心が残ったままでもいい、そのままの斉藤でいいんだ。大事にするから。」
「私は・・・・・」

 知治は、無言でそっと隣の梅子の左手を握った。
「は、離して。」
「・・・・・・・」
「イヤッ!離してっ!」
 知治は、手を離した。
梅子は混乱して、知治をにらみつけた。
「どうして、こんなことするの。」

「じゃあ、今、斉藤は俺に手を握られて何て思った。正直に言えよ。」
「そ、それは、・・・」
「本当の事、言えよ。」

「私が、こうして欲しいのは井上くんじゃない。私に触れて欲しいのは、・・・・・」
「触れて欲しいのは、誰なんだ。」
「せ、せいじ。せいじ。斉志。斉志。斉志だけ・・・・」
 もう、梅子は泣いていた。
空が暗くなり、突然激しい雨が降り出した。

「なあ斉藤、わかっただろ。お前がいくら頭で出来ると考えていても、お前の心と身体は成田以外の男は拒否するんだ。これで、将来成田以外の男と結婚したら、今、俺が手を握った時に感じた気持ちよりも、もっとつらい気持ちを味わうんだぞ。」
「・・・・・・」梅子は黙ってうなずく。
「だったら心に蓋をせず、自分の望みと真っ直ぐに向き合えよ。本当に欲しいモノに手伸ばして掴むんだ、そして、行きたい所へ行くんだ。」
「心に蓋をしないで自分の望みと向き合う。そして、本当に欲しいモノに手を伸ばして掴み、行きたい所へ行く。」鸚鵡返しにつぶやいた。
「そうだ。」

 梅子は、不意に暖かいものに身体中が満たされ、自分で縛り付けていた心の鎖が解けたような気がした。
「これがさっきの答えだよ。」

「で、でも、やっぱり私と成田くんじゃ釣り合わないよ。」
「釣り合うか、釣り合わないかは他人が決めるんじゃねえ、本人が決めるんだ。成田が斉藤がいいって思っている以上、他人のことなんか気にするんじゃねえ。それに、本当は、成田に斉藤が釣り合わないんじゃなくて、斉藤に成田の方が釣り合わないんだ。そりゃ成田は、学業、スポーツ、何でもこなすし努力もしてる、身 体も丈夫で金も持っている、それは、認めるよ。けどな、性格というか、人としての根幹は自己中心の俺様野郎、独占欲丸出しのお子様野郎だ。それに引き換え斉藤は、殴りこみに来た奴さえ捨て身で咄嗟に庇う他者への愛情、どうしたらその場を納められるかの判断力、男でも女でも出会った瞬間になぜだか惹き込まれてしまう人 としての魅力がある。お前たち二人を知っている者なら誰でもそう思うぜ、斉藤の方が上だって。」
「そうかなあ?」
「本当さ、だから斉藤は、自信を持っていいんだよ、自分はいい女だって。成田にこう言ってやれよ。『私は何人ものいい男が言い寄って来るとてもいい女だよ。だけど、その中で、私が居ないと一番ダメになりそうなのが斉志だから、可哀そうで嫁に行ってやるんだ、ありがたく思いな。』ってな。」
クスッと梅子は笑った。
「それじゃ私はいい女じゃなくてイヤミな女になっちゃうよ。」
「大丈夫、これくらい言ったってバチは当たらないさ。いつもそうやって笑っていろよ。佐々木が心配してたぞ。ここ二年もの間、仮面貼り付けたような顔してるって。」

約束の一時間は過ぎていたが明美はまだ姿を現さなかった。二人とも隣の存在だけをひりつくように感じていた。
「どうしたんだろう、明美。」
 このまま梅子とふたり雨に閉じ込められていたい・・・。 一瞬だけそう井上は思った。

「このすごい雨じゃな、運転したくないよ。小雨になるまで待っているんだろう。雨がやむ頃には来るさ。そしたら。」
 いつかは、この雨もやむ、そしたら梅子はここには留まれない、光の中へ歩みだすんだ。本当に欲しいモノに手を伸ばして掴み、行きたい所へ行くために。
「そしたら、本当に欲しいモノに手を伸ばして掴み、行きたい所へ行くんだ。俺はお前が二番目以下を選ぼうとするならあきらめないから。ちゃんと一番目を選んで俺をあきらめさせてくれ。」
「うん。本当に、本当にありがとう。いっぱい暖かい気持ちをもらって勇気がでできたよ。」
小鳥の鳴き声が聞こえてきた。いつの間にか雨は止んでいた。

「なあ、高1のあの騒動の時、斉藤のことを庇ってやることができて、成田より先に告白してたら俺と付き合ってくれたか?」
梅子は首を横に振った。
「1Fのみんなには襟首引っつかみ〜がなれ初めって言ったんだけど、本当は違うんの。中2の終わりの雪の日に成田くんを見かけたの。そのときは名前も知らなくて、遠くから視線が合っただけなんだけど、その時心臓を鷲掴みされたようにショックで、あの時から私の心は成田くんでいっぱいなの。その時は、まさか私の こと成田くんも好きになってたなんて知らなかったから、付き合うようになるなんて思いもしなかったけど。」
「そうか。結局、俺には出番は無かったってわけだ。まあ、いいさ。それが解ってかえってすっきりした。」

明美の車のエンジン音が近づいてきた。梅子と二人っきりの時間ももうすぐ終わる。

「お願いがあるんだ、一度だけ名前を呼でくれないか、そして俺も一度だけお前の名前を呼びたい。」
 ちょっとだけ梅子は迷った。だけど、ここまで私のために、私の背中を押すために玉砕覚悟で告白してくれた井上に応えたかった。

「知治、ありがとう知治。そして、さよなら。」
「ああ、梅子、ありがとう梅子。じゃあな。」

カランカラン、とドアベルの音がして明美が入ってきた。
「おまたせ〜」

「今日は俺のおごりだから。さっき言ってた斉藤の誕生日のお祝いって事で。」
「よっ。太っ腹だな。じゃ、遠慮なく。マコは家で料理作ってて手が離せないから私だけ来たよ。さあ、行こう。」

日はだいぶ西へ傾いたが夏の太陽はまだまだ明るく、雨に洗われた木々の緑が輝いていた。
三人は外に出た。梅子と明美が車に乗り込む。助手席の窓を開けて梅子が顔を見せた。
「井上くん、またね。」梅子は手を振った。
「ああ、またな、斉藤。」
車が動き出し、だんだんと遠ざかる。見えなくなるまで井上はそこに立ち尽くしていた。

「わすれるなよ、梅子。お前はとってもいい女なんだ。あんな、あんな鬼畜野郎にはもったいないぐらい。」心の中で井上はつぶやいた。
「ちくしょう成田の奴、一生かけて償えよっ。」

いつか、俺も望むモノを捜して手にしよう。そして、行きたい所へ行くんだ。
「今日は大酒飲みたい気分だぜ。」、そう思いながら店に戻っていった。