学校に、高嶺の花がいる。

 高校も二年になると、周りはとうにお子様を捨てているらしい。俺は情けなくも違うけど。
 人生歴イコール彼女いない暦なので、こうして授業の合間に喋っている、気の合う野郎共が子供かオトナの仲間入りを果たし済みか、一見しては分からない。
「……あのコいいよなー」
「キレイでさー……」
「黒髪が……」
 ほとんど聞かず、適当に相槌を打っていた。

 男には、連れションをするという考えはほとんどない。
 男の子ならともかく、いない暦がもうすぐ十七年でもこちとら男だ。もよおしたので、授業の合間に一人で便所へ行った。
 用を足して、さっさと教室へ戻ろうと廊下へ出たら、長い黒髪が目に入った。
 さすがに足が止まった。
 なんら飾っていなかった。肌色はその通りで、不健康なほど白くはなく、健康過ぎるほど焼けてはいない。黒髪は腰まで届きそうだったが、不自然なほど艶々とか、真っ直ぐではなく、かといって手入れをしていないわけじゃない。とても大事にしていそうだ。洗えばなくなるような描いた、じゃなく、そのままの、それなのによく整った眉毛。ああなるほど、だから大事と言われるのか、と初めて分かった、濃くて長い睫毛。すんなりとした鼻筋。多分なにも塗っていないだろうに、桜をほんのり連想させる唇。
 こんなにありのまま美人がいていいのか。
 ガン見する俺を一瞬は視界に入れたようだが、彼女はふいとどこかへ行った。

 ぽけっと迎えた放課後。高校も二年になれば、こんな様子の野郎はイコール思春期が到来したな、と誰でも分かるらしい。気の合うやつらがしたり顔で訊いて来た。
「どうしたよ」
「腑抜けたツラして」
「ついにか?」
 そりゃ分かるだろう。俺がこいつらだったら、同じことを言う。
 美人がいたとぽつり言ったら、更にしたり顔をされた。
「やっと見たのか?」
「すげえイイだろ」
「安心しろよ、みんなそう思ってるって」
「そうそう。だもって、ムカつく高目なオトコがいるのさ」
 落ち込んだ。

 さらに落ち込むことに、こんな発言をしたせいで、俺がお子様なことがバレたはおろか、こいつら全員がオトナだったということも発覚した。失恋と大恥が同時に来る。これが青春の一頁ってやつか。
 オトナはゴムの使い方を身を以て学習するだけじゃなく、お子様への配慮というスキルも獲得するらしい。散々バカにされたが、だからこそ失恋の痛手を振り返る余地も吹っ飛ばされた。

 よく飲んで、よく寝て、あくる日の学校。水分だけは取ったから、普通にもよおして普通に便所へ。オトナと連れションなんかするものか。
 男子便所の扉を開けようと、手を動かしたその時、あの黒髪に逢った。
 アルコールも、初めて触ったゴムの手触りもなにもかもが吹っ飛んだ。またもガン見。
 するとまた、俺を一瞬は視界に入れてくれて、そしてどこかへ行った。

 よく無事に教室へ戻れたと思う。そりゃお子様だが、そこまで幼稚園児じゃない。
 だが所詮はお子様で、たった今あったことを隠せもせず、オトナな野郎共にまたも目敏く突き止められた。
「どうしたよ」
「今度はどんな女だ?」
「高目は追求するもんじゃないだろう、麻雀以外」
 あれだけ吹っ飛ばしてやったのに、懲りず昨日と同じ態度の俺を、オトナ共は多少心配してくれた。
「また、逢った」
 会ったじゃなくてすれ違っただけだろ。まだ飲み足りないようだな。今日も行くか?
 とは言われたが、もう高い授業料を払いたくなくて遠慮した。これ以上、お子様がバレるのはいくら気の合う野郎共でも御免だ。

 家に帰って、飯を食って風呂に入って、やることやって考えた。
 綺麗だな。
 ありのままだった。余計なものはなにも足さず、必要なものはなにも引かず。知らない人である俺と、それでも一瞬目が合った。
 魅入るだけだった。惹き込まれるだけだった。

 いちおうビールは部屋へ持って来た。
 いや、一昨日はこんなのがなくても逢えたな。
 そんなふうに思って、缶を前にああだこうだと考えて、ぬるくなっても開けようかどうか迷った。

 次の日、金曜日。夕べ一晩考えた、授業の合間ごとに便所に行こう作戦は破毀した。お子様の意地で。
 そしたら、もよおしたのは放課後だった。さすがに今日は逢えないか。
 いや、このまま、もう?
 オトナ共には先に帰った。今はほっとくのが一番と分かっているらしい。さすが経験者、俺もこうなりたい。
 便所へ行くのにこうもときめく今どきの男子生徒ってナニよ、と自分にツッコミながら、行った。
 扉に手をかけても、いなかった。用を足して、手を洗う。
 ときめいて石鹸を元の場所に置く男ってナニよ、とツッコんで。
 扉を開けたらいてくれた。

 高目追求、上等だ。ここで玉砕しなくてどうする。
「よく逢いますね」
 後から思えば、ここは二年生の階だから、同級生に違いないんだが、激烈に緊張しまくってタメ語なんか出なかった。
 目の前の、オトナ共に名前を教えてもらった、一色さんは、過去二度のそれより、少しばかり険しい表情をしていた。と思う。
「ここで」
 ふいと去られなかったから、ほんのり桜色の唇が開かれるのを待った。
「どうしてですか」
 実際は、ごく普通の声量だった。それでも、
「強いと想ったので」
「なにが?」
 会話が噛み合なかったのは、お互い極度の心理状態にあったから、と分かったのは後のこと。
 未来は考えられない。今を、ただ。
「強い意志が、綺麗だと」
 告ったが、自分の声すらロクに聞こえなかった。だから俺も、結構普通の声量で言ったと分かったのは後のこと。

 会話はそれきりで、今度こそどこかへ去られた。
 三度目だからいい加減、追い掛けりゃいいと気付いてもよかったのに、お子様は一仕事終えた達成感に浸りまくって、便所の前で長々立ちすくむという情けない姿を何人かに見られただけで、その週はそれっきり。

 金曜夜も、土曜日もぼけっと家で転がっていた。だがいざ日曜の夜となると、少しずつ緊張し出した。
 あれから新たにお友達になった、ぬるいビール缶を前に、多少考える。
 逢うのが毎度便所の前ってどうよ。
 俺は休憩時間ごとに行ったんじゃない。おカラダの欲望、いやさ生理的欲求のもと、普通に行っただけだ。ということは。
 細胞的な周期が同じなんだろうか。
「じゃさ、ビール君。彼女もキミを飲んだのかな」
 アホなことを口走って、バカだね俺ともう一声口に出してから、寝た。

 月曜朝。普通にやることやって、学校へ。パンを口にくわえながら出て来たらオモロイな、とか考えながら曲がり角を曲がっても、一色さんとぶつからなかった。当然だが。
 俺達が逢うのは、
「ハヨ」
 先週とは違う態度で着席する俺に、オトナ共が余裕の態度に出てくれる。
「どうだった」
 どうもこうも。
「こういう時の為に、男はバイトするもんよ」
 なんの話だ。
「ゴムってのはな」
 責任も性病も未然に防げる、ありがたーーーいもんだぞと、お説法を戴いた。余計なお世話だオトナ共。

 さあ、いつ来るかな俺の細胞。
 今日の周期は昼飯後にやって来た。わくわくどきどきときめきの瞬間だ。
 用を足して、ちゃんと石鹸で手を洗う。失礼のないように。
 扉を開けると、麗しの彼女がいた。
 ただ息をのんだ。それからゆっくり吐いて、声をかけた。
「名前、は?」
 オトナ共は高目の彼女の下の名前を教えてくれなかった。知らなかったのかもしれない。訊けよ、彼女に。そういう意味だったかもしれない。
「俺、杉田」
 そしたら、なんだか困った顔をされた。
 待て。待て待て。男として、そういう顔はさせたくない。
「……あの」
 弱目の声だった。緊張が移る。
「はい」
 鼓動と同じ勢いで言った。
「私の」
 一色さんは、それはそれは思い詰めた声で、一言一言ぶった切った。
「意志が、ですか?」
「はい?」
 ぶった切り過ぎです、一色さん。
 おマヌケにも訊き返してしまい、一色さんは口ごもった。しまった、ここはするっと言わせるのが男だ。
 意志、意志……ああ。
「はい。意志も綺麗です」
 結構なひと目アリの状況で、二度目の告白。

 放課後にはもう、俺の玉砕シーンが気の合うオトナ共にも伝播していた。仕事が早いのはいいことだ。
「聞いたぞ」
 そうかよ。
「で? ゆんべもオトコに穴ボコにされてますから、とかか? やっぱり」
 うるさいよ。
「お前は違うが彼女は目立つんだ。オトコに問い詰められるだろうなあ、今夜」
 そうかよ。
「で、やっぱ穴ボコだ。さ、もう気が済んだろ。遊びは金が掛かるんだ、バイトしとけよ」
 そのうちお前にも彼女が出来るさ、といった、中途半端な慰めはなかった。嬉しいよ。
 帰ってから、寝る前にビール君とひととおり話した。もう気分は親友なんで、飲んじまっていいものかと、真剣に悩んだ。

 そしたら翌朝寝坊して、ロクに身支度も出来ずダッシュで登校するハメになった。今朝ばっかりは、誰かと曲がり角でぶつかるわけには行かん、一色さんがあの場所で俺を待っている!
「ギリギリセーフ!」
 息を弾ませ着席、と同時に鐘が鳴った。なんとなく、ああ青春。
 授業中は、今度こそ名前を訊こう、そうだ携帯の番号も、とか、ようやっとまともな段取りを思いついた。まさかその頃、一色さんが友達から、場所を選んでデートしたら? とか、こうなったら毎時間行っちゃえ、とか、言われているとも知らずに。
 さて本日は、と。
 気分良くもよおして、席を立ったら気の合うオトナ共がしたり顔。なんだよ。
「まさか行くのか?」
 悪いか、生理的欲求だ。
「別な階に行っとけ」
 断る。
「悪いことは言わん」
 悪いよ。
 そしたら今日は、扉前でもう、一色さんがいた。
 そりゃ嬉しい。嬉しいがしまった、マジでもよおしている。
 いやしかし、女の子にこんな所でちょっと待てとは言えん。いやその前に、だから毎度どこで逢っているんだ。
「あの、……どうぞ」
 細胞を察してくれてありがとう……。
 便所内で、散々冷やかされた。

 今までで一番意を決して石鹸を置き、スズメのような野郎共を振り切って廊下へ出ると、やっと視野が広くなったのに気付いた。彼女以外も見えた。芸能リポーターみたいな顔だけらけの、野次馬の山だ。
 まずい、俺は冷やかされてもいいが一色さんは。
「あの……」
 いくら意志の強い一色さんでも、さすがに照れて恥じ入って、下を向いていた。こんな所で女の子を一人にしてしまった。同じ周期が嬉しくて気が回らなかった。
「来て」
 か細い手首を掴み、とにかくこの場を離れようとしたら、背後でやいのやいのの拍手喝采だ。ちと青春が過ぎたか。

 用件を手短に言った。名前と番号等を訊き出しこっちのも告げる。あの場所で逢うとああなるから、さすがに次回以降はなし、と。
 送って行くと言ったが、一色さんは逢ったあの時の瞳で、幾分やわらかい声で、大丈夫と返事をしてくれた。
 教室へ戻って、やいのやいの言われたが、気の合うオトナ共にはアカンベをしてやった。そしたら悔しがっていた。ああスっとした。
 手にじんわりあったかさが残る。今日はもう石鹸とはおさらばだ。

 放課後、オトナ共にアカンベ返しをされて、一人にして貰った。こういうのはさすがに、経験はないだろう。ちょっと気分がいい。
 携帯を取り出し、掛けようと思ったが考え直した。俺でこうなら、一色さんも周りにやいのやいの言われている。そして、俺も現在こうだから、一色さんも聞き耳を立てられている。通話は止めだ。
 電子葉書で恋文を。家に帰ったら電話します。

 帰宅後、すぐに部屋へ。なんとなくビール君を拝んでから、制服のまま電話した。コール三つで出てくれた。
「俺。杉田」
 一色さんの周りの状況はどうだろう。まだ歩いているか。電車の中なら出ていないだろう。
「今どこ?」
「もうすぐ、うち」
 介する電波をものともせず、綺麗な声はありのまま届いた。
「じゃ、落ち着いた頃に掛けるよ」
 カッコつけて切ったはいいが、具体的に、何十分後に掛けりゃいいのかさっぱり見当がつかなかった。
 ビール君。いつがいいと思う?
 そしたらどこからか声がした。この時は本当にそう思った。

 ご飯を食べて、お風呂に入って、それからにしたら?

 その通りにした。自信があった。同じ周期だ。
 ビールを冷凍庫に入れる。飯にありついて、風呂に入った。のぼせてはいられない。
 さっぱりして、冷凍庫の缶に手をやると、本来の温度を取り戻していた。それを持って部屋へ戻る。
 プルタブを開けると、いい音がした。
 一色さん、俺。杉田……

 有り難いことに、二十代も後半になってなんとか、マイホームを、という話を出せるまでになった。
「ね、どうする?」
 笑い話で。一階だけじゃなく二階にもおトイレを。男用と女用を隣同士に。どう? そう言ったのは彼女の方。
 さてこれを、もうすぐ逢える新たな家族に、言って聞かせるのはいつにしようか。