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 平社員の佐藤は、健康のため自宅付近の駅の三駅手前から歩いて帰宅していた。
 今日のようなみぞれ交じりの雪が降った日は、革靴ではとても歩けないのでブーツを履いて黙々と。もうすぐ日が沈む。
 前を向いて意気揚々と、そんな気分ではない。だから途中から気付いた。太ももまでむき出しの、おそらく女子高生がさきほどからずっと目の前を歩いている。
 佐藤の場合は歳がもう三十を過ぎたし、そろそろ健康診断の数値が怖いから歩いている。制服を着ている前途洋々の今どきの若者がこんな天候のなか、何駅分も歩くだろうか。
 声を掛けるか? いやいや待て、歳を考えろ。頭にすぐ浮かぶ言葉「未成年と淫行」、それだけはいけない。このご時世、声を掛けただけで逮捕された事例もあるのだ。たとえ目の前を歩く少女の靴が普通のもので水分をたっぷり吸っていようとも、牢屋は怖い。すぐ右か左に曲がってくれるだろう。
 そう思って、一駅、二駅。
 三駅分を歩いて、今度は佐藤が右に曲がる番だった。しもやけにはなるだろうが申し訳ない、こちらにも歳という事情が。
 そう心の中で言い訳をしていると、なんと少女も右に曲がった。この信号の待ち方、歩き方。おそらく同じ方向を行く。橋を渡る。
 もうこうなれば。佐藤は途中で寄り道をしないことにした。通報されなければいいと思い、彼女を自宅まで送る気分でついて行くことにした。それなら犯罪じゃない。
 橋を渡って左に折れる。そんなところまで一緒だった。太い幹線道路から細い路地に行くわけだから、近所住まいだろうと思えた。濡れた道路を音を立てて歩く少女。可哀想だった。もし長靴を持っていたら差し出したかった。
 それから百メートルほど直線を歩いたところで、少女は右に折れた。佐藤はもう少し真っ直ぐ歩けば家に着く。気になって、歩調を落としそれとなく観察していたら、道路端のボロアパート一階のドアを開けて入って行った。
 けして立ち止まらず、佐藤は思った。明日も三駅分を歩くのだろうか、今どきの若者が。

 佐藤はそれから一週間、会社に泊まり込んだ。ノルマ達成のためだ。
 残業代は出る、待遇がいいとしても、立派なブラック企業だ。きつい。正直にきつい。毎年虫の息でクリアして来たノルマ。それでも年度が改まれば実績はゼロ、振り出しに戻る。
 安い給料ではない、高いといっていい。だがそれはノルマの厳しさも意味する。一をクリアすれば二ではなく三、次は四ではなく五だ。運もあって十としたら栄転といわれ課を移った。次に待ち構えたノルマは三十だった。それでも立場は平社員のまま。
 こんな生活だったので、佐藤の女性関係といえば付き合えても一週間後には仕事で出張し結果ほったらかし。しびれを切らした相手から連絡があって、仕事がと言い訳をしたらその場で電話を切られてあとは不通になるというものだった。
 ノルマのクリアは恋愛に似ている。相手次第。自分一人ではどうにもならない。相手の懐を痛めて貰うしかない。
 しばらく前に見掛けた可哀想な少女のことは忘れていた。薄情といわれても佐藤とて生活をしなければならなかった。だから思い出したのはたまの帰宅途中。あの少女宅であろうアパートのドアを、誰かが音を立てて叩いていたからだった。
 なんだと思ってそちらを見ると、六十代とおぼしき男性がいた。こう言っていた。
「家賃を払ってよ!」
 これはこれは、ボロの家賃を滞納しているのか。
 何歩か歩き、会話は聞こえるが自分の姿は見えないという所で足を止めて耳をそばだてた。
 すると、少女がドアを開け出て来たようだ。「すみません」「そればかり、いつ払うのか、もう出て行ってくれ」男性の言葉。
 佐藤は躊躇わず道を引き返した。
 三十分後、佐藤は少女宅アパートのドアをノックした。すぐそこから足音が聞こえ、少女が出て来た。
「すみません、本当に明日には……」
 室内から他の者は出て来なかった。
「はじめまして」
 佐藤は一礼をして名乗った。少女は先ほどの、大家とおぼしき男性だと思ったのだろう。当然だ、そう思って欲しくてノックをした。
「近所の者です、あやしい者ではありません」
 少女の表情にははっきりと、あやしい者だったのにドアを開けてしまったと書いてあった。
 名刺を渡して社名を見せる。少しは名の通った会社に勤めているという自負はある。これで信じて貰うしかなかった。
「さっきの会話を立ち聞いてしまいました。これを使って下さい。見返りは一切いりません」
 札のいくばくかが入った紙袋を少女に押し付ける。
「名刺の裏に、私の住所と連絡先を書いておきました。あやしいと思ったら通報して貰って構いません」
 佐藤の方からドアを閉めて、そのまま去った。
 家に戻る気にならなくて、とって返し三駅分を歩いて出社した。もう夜の十時になっていた。課内には何人かいた。皆戦友だ。そのうちの一人に声を掛けられた。
「どうした、帰ったんじゃなかったのか」
 いい話が少しでもあれば即動く。だから、そういうことかとも訊かれた。応えはしたものの、さっきは一歩間違えれば援助交際をしていましたとは間違っても言えなかった。そのまま自席に座り、何時間か過ごし、結局その日は泊まることにした。

 それからしばらく経って、たまの帰宅をした。
 家にいることが少ない佐藤は新聞を取らない。だから郵便受けが満杯ということはない。そんな寂しい一軒家に、なにやら封書が入ってあった。
 白い長三、手紙だ。こんなものを貰うなどいつ以来か。今は皆電子取引だというのに。
 玄関のへりに腰を掛け、手で封を切って読んだ。
「ありがとうございました」
 そんな文だった。
 名前と住所が書いてあって、番地が近い。あの少女だった。お金は必ず返します。そうも書いてあった。
「いらないよ」
 この丁寧な文だけでもう充分。渡した金額をはした金とはいわないが、低賃金では働いていない。少しでも役に立ったのなら良かった。そして叶うなら、渡した名刺を捨てて欲しかった。未来ある若者だ、過去を振り返って欲しくなかった。
 心にしみて、余韻にひたっているとチャイムが鳴った。来客だ。
 さて誰だろう。考えず出ることにした。文に共感したから。素直な文章だったから。
 しかし扉を開けて後悔をした。
「こんばんは」
 顔を確かめる隙もなく深い一礼をされた。あの少女だった。
「なぜ……」
 しまったと思っても後の祭。雪の降る寒い時期に玄関先に立たせるわけにもいかない。すぐに済む話でもない。家に上げれば牢屋が待っている。非常に困った状況だった。結果、狭い玄関で二人、話をすることに。
「とても助かりました。本当にありがとうございます」
 聞けば近所だから、ずっとこの家の明かりが灯るのを待っていたという。あのアパートの道路端で、こんな寒さの中を。
 なんということをさせてしまったのだろう。満足したのは佐藤の方だけだった。いきなり初見の人間に金を押し付けられ、ああ済んだ過去のことだと思うような薄情な若者でないとは分かっていたはずなのに。
「済まない、寒い思いをさせて」
 だったら家に上げるか? いやいや牢屋が待っている。ここはと佐藤は自分だけ靴を脱ぎ、上がって暖房をつけることにした。少女には仕方なく、玄関のへりに座って貰うことにした。
「おじさんの家なんかにきみのような少女がいると淫行と言われるのだよ、だからそのままで悪いが我慢したまえ」
 とは口に出して言えなくても、顔に思いっ切り書いて対応することにした。それしかやりようがなかった。
「大変申し訳ありませんが、すぐにお金を返せるあてがありません。今、就職活動中なんです。受かったらバイトでもなんでもして少しづつでも返します」
「いや、別にいいよ、返さなくても。貰ってくれ」
「そうはいきません、泥棒と同じです。死んだ両親に合わせる顔がありません」
 佐藤は返す言葉がなくなった。独りか。
 そんな話を他人の自分に言わせる資格などない。だから話を逸らすことにした。
「きみは高校、そうだな、二年生か?」
「はい。来年度になったら安定を求めて公務員試験を受けます。勉強中です」
 佐藤は首をひねった。自分が私企業に勤めているからだ。就職先を公務員だけと考える必要もあるまいに。
「じゃあ、帰って勉強を続けるんだ。きみの気持ちは充分に分かった。大事な時期だ、脇目も振らず机にかじりつきたまえ」
 さもそれらしき適当なことを言ってさっさと帰した。そうしなければならなかった。佐藤とて安定を求めて平社員の立場にかじりついているのだ。
 少女は佐藤の意を酌みすぐに帰宅してくれた。牢屋が遠のいた佐藤は深いため息をついた。

 年度も改まり、半年以上経過した十一月。
 佐藤は相変わらずノルマに追われていた。昨年度はなんとか達成したものの毎年リセットされては増えるだけ、さらに自宅への足は遠のいた。稀に帰宅出来ても午前様。休みがあっても近くのビジネスホテルで日常を忘れて爆睡するありさまだった。
 そんなとある土曜日、会社近くのホテルのロビーでコーヒーを飲んでいた時、電話が鳴った。さてどこの顧客か。いい話だったら。
「すみません……」
 謝罪から始まった声の主は、あの少女だった。
 込み入った話だ。すぐにそう思い、少女がいる現在地から一番近い喫茶店に来てくれと頼んだ。少女は今いるところ、つまりはあのボロアパートに近い佐藤の家に行くと言った。もちろん断った。
「……全部落ちました」
 今日二杯目のコーヒーは、ことのほか苦かった。
 二人の自宅近くの喫茶店「椿」で向かい合って座る。第一声は低かった。少女は顔も上げられなかった。
 ほとんどの就職試験を筆記の一次で落ちた。二つだけ二次試験に進めた。どちらも面接だった。上手く答えられなくて、もう駄目だと思った。その通り駄目になった。
 面接で趣味はと訊かれ、読書が好きですと答えたら、どんな本かと訊かれた。つい思った通り、実は実の父親とそんな仲になってしまうという内容の本のことを言ってしまった。面接官の顔から表情が消えたのを見た。
 佐藤の表情も消えた。
「預かったお金以外は、ないんです……
 安定が、欲しいんです……」
 非正規雇用は考えていないようだった。
「就職浪人をする気かな」
「……そんなお金はありません……」
「おじさんが出すよ」
「おねだりをしたくて電話したんじゃありません……」
「いいじゃないか、公務員にこだわらなくたって」
「欲しいのは安定だけじゃないんです。気持ちの……心のありようが欲しい」
 親がいなくなって、ぽっかりと空いたなにか。
 最初は、息を引き取った病室にそれがあると思った。病院に預けているだけだと。またお世話をしに行くのだと。
 納骨も済んでしまえばそんな気持ちもどこかに消える。なくなったなにか。
 少女は透明な涙を流し、ただうつむいたままだった。しばし二人に会話はなかった。
 佐藤は思った。何故助けてやれなかった。なにに怯えた? 結果はこうだ。他人にどう疑われようと、少しでも会話を交わし励ましてやれば良かったのだ。
「きみは公務員一本。それは変わらないんだね」
 こんなご時世だ、さぞライバルが多かろう。
 正規雇用、安定。どんな代償を払っても欲しいと思えるもの。気持ちは分かる。
「はい」
 涙声で、少女は返事をした。
「公務員専門学校は考えていないのか?」
「考えました。お金がなくて無理です。佐藤さんにこれ以上たかるつもりはありません」
「たかられたつもりはないよ。いいから専門学校に行きたまえ」
「お金をたかりに来たんじゃありません!」
 少女は立ち上がって言った。
 こういう話の向きになるとは分かっていたはず。だから、この言葉は予定通りの返事だっただろう。
「おじさんはね」
 座りたまえととにかく言って。
「これでも、足長おじさんのつもりなんだよ」
 佐藤は自分をオッサンと名乗ったことはない。それは何故か。
 なんと色気のある言葉だろう、そう思うからだ。くたびれた中年。いいじゃないか、それだけのことをして初めてそうと呼ばれるのだから。
「きみは初志を貫徹したまえ。安定して働けるようになったら、お金のことを考えるんだ。その余裕は今のきみには必要ない。そう思うだろう?」
 少女は言い返すことが出来なかった。
 しばし中座して、あの時と同じことをした。お金をおろして少女に渡す。訳ありの会話を交わしたこんな歳の男女がこんなことをしていると見た者なら通報したかもしれない。だが佐藤はもうこんな後悔はしたくなかった。

 年が明け季節がめぐる。やっとの思いで達成したノルマが非情にもリセットされる暗鬱な春。三月になったころ、上司である二係長に呼ばれた。
 佐藤の属する課には一から三まで係がある。特段の別はなく、学校のクラス分けみたいなものだと栄転といわれ来た最初に聞いた。だからあまり意味はなかっただろう二係という響きを佐藤は気に入っていた。だからといってノルマの割り振りは変わらないのだが。
「なんでしょう」
「なにか悩みがあるな」
 なんたること、さすが係長。内心尊敬しているだけのことはある。一切誰にも言っていないのに淫行疑惑を見抜かれてしまうとは。
「ありません」
 いやいやそんなはずはない。そんな、いたいけな未成年の少女の電話番号を知っていることとか、掛けるか掛けまいかをたまの休みに悶々と考えることがあるとか、そんなことまで。
「ないなら、この席に座ってみる気はないか?」
「ないです」
 健全な話らしい。即返答をした。
「色気がないなあ」
「おじさんですから」
「俺もだが」
「ノルマは十倍ですか」
「甘く見るなよ。百倍だ」
「もうすぐ桜が咲きますね」
 暗喩としては重い言葉だった。
「悩みがあるのは分かっている。どうだ一杯」
 直属の上司に飲みに誘われて断れる独り身がいるだろうか。いや、いない。
「ところで、悩みってなんだ?」
 佐藤や二係長が勤める会社が運営する酔狂な飲み屋での第一声はこうだった。
「引っ掛けですか」
 やはり酒といえば日本酒。キュッと冷えた生を。醸造年月日には注意されたし。
「そんなもんだ」
 深いため息をつく佐藤。話していいものか、通報されるか。
「言えないか?」
「二係長席に私を座らせるなら、係長はどうなさるんです?」
「決まっている。辞めて道楽生活に入るさ。遣う暇のない金は貯まったし、女房は畳でゴロン。子供も手が掛からなくなった」
 あきれた佐藤は明後日を向いた。自分には何一つ当てはまらないことを言われたからだ。
「羨ましいことで」
 深酒をしてやる。それしかない。
「きみはたいそう頑張ったよ。そろそろ役付けになったらどうだい」
「係長には一係と三係のを抑えて課長補佐に昇進していただかないと」
「柄じゃないよ」
「私もです」
「俺の道楽はどうなる」
「私のノルマはどうなりますか」
「悩みってのはなんだ。女か?」
 そら来た。
 酒の席で言い訳をした。連絡を取るか取るまいか悩んでいると。返って来た言葉は淫行野郎だった。
「一人で結果を出させろ。分かっているだろう、情にほだされるな。彼女が就職出来たらきみは遠くへ引っ越ししろ」
 この、ひょっとこのお面が似合いそうな男には是非、隠遁などをせず華やかな昇進をして欲しかった。
「分かっていますよ。ですが結果が出なかったら? もう就職浪人はさせたくないんです」
「二人きりでなにをする気だ? 面接の練習でもするのか? 世間はそれを援助交際という」
「……分かりましたよ」
 四月、佐藤は平社員のままだった。なんの辞令もおりなかった。淫行野郎と罵られたから平のままとは思いたくない、手も繋いでいないのに。それどころか、だ。
 勉強は確かにしていると聞いた。面接で落ちるのなら足りないのは人生経験だ。
 悲しい思いをしたのなら。同級生が社会に出ているのにと焦る思いをしているのなら。金がないと、誰にも頼れないのなら。
 せめて、成功体験を彼女にさせてやりたかった。
「性交じゃないぞー、俺!」
 社外のどこかで宙に叫んだ佐藤に課された今年度のノルマはまた膨大だった。

 ひょっとこ係長はあれ以降、人事にも私事にも口を出さなかった。あれは事前面接だったのではなかろうか。係長候補などたくさんいるのだ、もちろん佐藤以外に。一人一人当たっていたのだろう。役付けだ、そのくらいはする。
 なにが道楽生活だ。佐藤は俺もそうしたいよ、とつくづく思った。

 夏も過ぎた秋に少女から連絡があるまで、忘れたわけではなかった。だがノルマが膨らみすぎて、そこら中を飛び回って靴を履きつぶすうち、あの電話番号から掛かって来ないうちに、佐藤は油断したのだろう。またも配慮をしてやれなかった。
「……落ちました」
 深い、深いため息を、電話越しに隠せなかった。
 もう道を迷わせるわけにはいかない。まず、先だっての喫茶店に来るよう伝え、佐藤は自席を立った。係長の目ざとい視線は無視した。
 曜日はあの時と同じ土曜、日中で、少女なりに遠慮をしたのだろう。まさか今回も勤務中ですとは言わず、「椿」でさっそく話を聞いた。
 少女は語る。去年より一次試験に通らず、面接まで行けたのは一つだけだと。上手くは行かなかったが悪くもないと思ったのに落ちたと。
 そこが彼女が夢にまで見た第一志望先だった。
「……また、お金をたかりに連絡したんじゃありません。
 もう諦めました。バイトでもなんでも……」
 社会人になってまず最初にやることは諦めることだ。平等に扱って貰うことを諦める。同期は同級生とも友達ともいわずライバルで、周りの全てに頭を下げること。自分は一番下だと思うこと。這い上がる機会があるかどうかは誰にも分からない。
「きみは」
 自分ではなく相手の気を鎮めるためにコーヒーを一口含む。
「努力をしただろう。諦めるな」
「もう二十歳になります」
「確かにきみの勉強の才能は足りないのかもしれない」
 佐藤は向かい合う人物にきつく睨まれた。才能は親から貰うもの、それ以外遺してくれなかった親を侮辱するのか。
「でも、努力をすること、それを継続させること。その才能はある。羨ましいくらいだ。大体の人はこの才能がないんだよ。
 きみは親から貰った大事な才能まで諦めるのか?」
 続けられないことを挫折という。
「きみに足りないのは人生経験だ。これから先どうすればいいか、分かるかい」
「……諦めるなと言うのなら、勉強は続けなさいということですか?」
「そうだ」
「すみません……それ以外は分かりません」
「そうか。これ以外は貰った才能じゃなく、きみがどう生きて来たか、だからなあ」
「……分かりません。どうすればいいか……」
「そこで、おじさんの出番だ」
 ヒントを出すことにした。彼女には足りないものが多過ぎた。
「ボランティアをしてみる。どうだい」
 もう二十歳になる女性の表情は確かに変わった。
 今のご時世、どこも欲しいなり手。常に開いている募集口。待っている人達。
「これ以上はおじさんは言わないよ。どうやるか、どうすれば出来るか、専門学校をどうすればいいか。全部自分で調べるんだ。
 これをやろう」
 三度目である、札の入った封筒を差し出した。もう慣れたボランティアだった。
「……お願いがあります」
「なんだい」
「仏の顔も三度までって、言葉があります。だからお金は、もうこれっきりで……
 でないと、甘えます。だから落ちたんです……」
 反論出来ないことを言って来る。この場合はいいことだ。
「いい覚悟だ。きみに残された時間はあまりにも短いよ。甘えた時間は忘れることだ。いいね」
「はい」
 それでも佐藤は、次の電話が鳴ったらまた札束の用意をするだろうと思った。
 話をおえた佐藤は帰宅しなかった。近所だ、並んで帰ることになる。
 行くあてがないわけではない。それでもなんとなく帰社した。同期でも友達でもない戦友達が今日も明日も闘っている。
 机に戻って、座って背を伸ばした。明らかに仕事はしませんよという態度。ひょっとこがなにかを言って来るかと思った。それでも良かった。
 やはりあの時、彼女になにかしら助言をすれば良かった。手を貸せば良かった。成功を体験するには努力が必要だ。出来る努力ではなく、出来ないことをする努力。足りなさ過ぎてこの結果だ、目に見えていた。
「どうする? 今日も飲むか?」
 目をつむって考えていたら、ひょっとこが寄って来たらしい。また深酒の上吐かされるわけにはいかない。
「いいえ、今日は遠慮しますよ」
「せっかく休日出勤をしてくれたんだ。労ってやろう」
「今日は他の方々をどうぞ」
「酒は要らんのか?」
 助言は要らないのかと、要るのかと訊いている。
「要りませんよ」
「ノルマを達成すると深酒は必要ないらしいな」
 戦友達がこの言葉に機敏に反応する。係内でこれを言われるのは、今年度も佐藤が最初だった。
「……お陰様で」
 佐藤が彼女になにも言えず出来なかった理由がここにある。この会社は国際企業で、佐藤の仕事は世界中を飛び回ること。もう、誰もいない家に招き、待たせることは出来なかった。
「じゃあなんだ、今夜は女あさりか」
「また一週間でフラれますよ」
 仕事に集中して連絡が出来ない。いつもこうなの、これからもこうなの……そうだと答えるとすぐに切られてそれっきり。
「ゴロリ女房もいいもんだぞ」
「分かっていますよ」
 そろそろいいかと思い、会話を切り上げて帰宅した。しばらく帰っていない家は寒々しく、冷蔵庫にはなにもないことをドアを開けてから思い出して、スーパーに買いに出掛けるはめになった。仕方なくボロアパート前を通過して歩いた。情けなくて会いたくなかった。料理、作れる子かなあ……

 年も明けて三月。佐藤は課内で二係長に呼ばれた。
「用件は前回と同じ。どうだ?」
 さてどれのことか。
「返答は前回と同じ。どうです」
 さてどれのことか。
「来年度も同じか?」
 就職出来ているか。そうでないなら……
「……多分、違います」
「ならいい。安心してこの席を託そう」
 そのことでは。そう言いたかったのに、ひょっとこの声が大きかったものだから係内の空気は色めき立った。いよいよか、やはりか、ついにか……
「……そのことでは」
「係長に二言は許されんぞ。来年度のノルマは千倍と思え」
 冗談じゃない。どんなに頑張っても肩書きはずっと平社員、でも正社員。安定にしがみつくのがやっとなのに。
 確かに大学には第一志望に入れた。充分成功体験だった。就職試験も第一志望に受かった。希望する職種だった。振り落とされたくなかった。必死に、たまにしか女も酒も博打もせず生きて来ただけだ。
 だから、そろそろ別の安定が欲しかった。それは否定しない。
 頼られることは嬉しいことだった。丸投げされないのも良かった。渇望した才能があった。羨ましかった。
「……ばかな」
「なにを考えた?」
「ノルマですよもちろん。千倍なんて冗談じゃない」
「千倍やって手に入るのならいいだろう」
 手に入らないものは、
「……冗談じゃない」
「男なら両方取れ」
 ひょっとこだけでなく周囲に囃し立てられ、佐藤の顔は引きつった。

 昨年度とは違う席に座って数ヶ月。いつに変わらぬ戦友が声を掛けて来た。
「招待状が届いていませんよ」
「なんのです?」
 戦友の方が入社が先で、佐藤の方が後輩にあたる。
「この時期に、係長は一風変わった電話を受けなさる」
 電話に出ればすぐに出掛ける。顧客の元か、そうでないか。周囲の目は鋭い。
「さすがは先輩ですね」
「今年はどうなんです? この件については隠遁してくれやがった大先輩からしっかり申し送りを受けているんですよ」
「ああ、あの」
 強いストレスから解放されると人は若返るという。あのひょっとこ元係長が謳歌しているという第二の人生先で、若いですねとしきりに言われていると自慢しまくっているというのは佐藤も聞いた。
「待つしかないですね。来ないかもしれないし」
「まるで仕事の話のようですね」
 仕事であれば、電話をやり取りする。会いもする。
「仕事の話ですよ」
 千倍と言われたノルマを達成した秋になっても、電話は来なかった。

 初雪が降ったその日、佐藤は自宅にいた。ボロアパートと人のことを言えないほどボロい借家だった。隣の音が聞こえるのを少しでも減らすための一軒家住まい。滅多に暖まらない寒い家。
 天気予報が大々的に「明日は雪です!」と予報するので休んでやった。
「……いいんだ俺は」
 結局のところ、十一月が過ぎても電話は鳴らなかった。
 正直、十一月前にノルマを達成するために必死になった。やれば出来るもんだと、最後のあたりはあっさりしたものだった。そんなもの。
 このたとえようもない達成感──目の前の焦燥。
 なんだ。どうした? 千だぞ、千。
 たった一本の電話が予定の時期に入らないだけで。大の男が。いい歳をしたおじさんが。
「おじさんにはもう、用はないってことなのかな……」
 それならそれで良いじゃないか。その予定だっただろう。ひょっとこだって就職出来たら手を引けと言っていた。そうするつもりだった。
 役付けのくせにさぼった翌日、出社したらすぐに周囲に悟られた。年が明けても電話は来なかった。もう笑うしかない量のノルマを課長補佐に聞かされた年度をまたいでも、電話は来なかった。

「なにしに仕事してんだろ……」
「フラれるためにだろ」
 申し送りを受けた戦友がひょっとこにチクり、佐藤はいつもの飲み屋で深酒をさせられる羽目になった。あれから一年が経過していた。
「見事に忘れられたな」
「……ハ」
 分かり切っていることを他人に言われるのは辛い。
「お前もね、いい歳なんだからさ。つり合う年齢の女性との出会いを求めたら?」
 歳の差は辛いよ、だそうだ。
「なんで俺が係長なんスか……」
 佐藤は深酒を通り越し、泥酔していた。なにもかも知られていた。口調は自然、入社したてのものとなった。先輩が多い係内で持ち上げられるのはノルマとどっこいの重責だった。
「役付けになるとなあ、一気に老けるんだよ」
「クソ……お陰様で……」
 フラれましたよ
 口に出して言わなくても筒抜けだった。一年間も連絡がないなら諦めろということだ。
 お金を出したから。まじめそうだったから。いつも連絡をくれたから。
 たくさんの言い訳。いっぱいの期待。目の前にいたのは不安でいっぱいの少女だったのに。
「少しは……」
 天を仰いだ。
「役に……立てましたかね……」
「そう思えるのなら、卒業だ」
 ひとつの想いに。手に入らないなにかに。

 玄関のチャイムが鳴って、佐藤は出た。ヒゲもそのままの休日、五月。
 連休中でダラダラと生活をしていた。そうしなくても良かったし、仕事のためには海外に出ても良かったが、このほのぼのとした春の空気が心地よくて留まっていた。更にいえば、昨日スーパーで食材を買い過ぎた。
「ハーイ……」
 普段家にいない佐藤。さて誰だ。
 目の前には、婦人警官が立っていた。なんと敬礼をしているではないか。
 捕まえに来たのか? 捕まるのか!?
「お久しぶりです、佐藤さん」
「えっ」
 陽光を背にした公務員さんは、文字通り輝いていた。
「み、……ついさん、スか」
 佐藤は卑屈の気があるらしかった。
 逮捕も通報もしないので安心して下さいと言われた。佐藤は少女、いや女性・三井の言う通りにした。確かにこのような状況であれば他人にどうのと言われないだろう。もう考えなくてもいいらしい。制服って素晴らしい。
「やっと、胸を張って逢えました」
 この姿を見れば一目瞭然、見事合格をしたのだろう。やっと春が来たのだ。
 佐藤はおめでとうとしゃちほこばって賛辞を述べた。ありがとうございます、とあの日の文のように三井は答えた。合格したその日に電話をしても良かったと。
 しかし、世には警察学校というものがあるらしく、とても厳しいところだという。甘い考えでは卒業出来ない。だったらそこを出るまでは。そこを出たら赴任先で、言われた通り安定して働けるようになるまでは。
 三井の立ち居振る舞いは以前の制服を着ていた頃とは違い、訓練を受けたとはっきり分かるものだった。
「いっぱい考えて……でも考え過ぎて、忘れていたんです」
「? ……なにを?」
 ここにわざわざ来たということは、俺のことか。それなら忘れても……いい? よ?
「佐藤さんを、他の人にとられるかも、って」
「ハ?」
「お借りしたお金を返せるようになるまでとか、のんきなことを考えていたんです。でも、友達が……同期が、盗られたらどうするのって」
「俺は泥棒ではありません……」
 目の前には頬を染めてうつむく、若く美しい女性。
「……諦めていたのに」
「諦めるなって言ってくれたのは、佐藤さんです」
「そりゃ、……そうでしたね」
 佐藤はすっかり忘れていた。青臭い説教など。
「あの、誰か……いますか? 彼女さん、とか……」
「いません」
 即答した。自信があった。
「じゃあ」
 それならと告げられた言葉。ほころんだ笑顔。
「……嬉しいなあ……」
 まさか向こうから来てくれるなんて。なにもろくに言っていないのに、
「手も握っていないのに……」
「?」
 その先はつぶやきで、ほとんど聞き取れなかった。