10

 三日後の夕方。めしごはセックスだから、めし中に考えたことを提案してみた。
「このマンションはペット禁止」
 一・五秒で却下された。ちゃんと考えたのに……
「うん、悪くない考えだと思うよ。ただ、ここの住人は総じて神経質なんだ。そうさせられてここへ、各々の家に帰っている。なのにペットの鳴き声にまで悩まされたくない、ということで出来た決まりなんだ」
 空子の考えはあさはかだったみたい。そう、ここのマンションの住人は、本当に近所付き合いというものがないのよ。デパート内ですれ違ってもまるでそこに人なんていなかったように振舞う。あれこれ言われたくない空子はそれでいいけれど、他の人はもっとそう思っているそうよ。
「ここの決まりはかなり厳しいし、破れば即刻退場だ。俺が空子さんに、不倫野郎の家へ殴り込んでと言ったのも、不倫野郎にここで困った振る舞いをされれば俺と空子さんが追い出されてしまうからだ。
 ところで空子さん。この間の電話で、不倫野郎が困った振る舞いをする人かどうか訊きそびれた。三日で疼いてえっち電話は無理というならやっぱり気晴らしは必要だ。もう一度確認してくれる?」
 そうよね、気晴らしは必要なのよね。
 勇児は確認さえ出来たら気晴らししてもいいと思っているみたい。ここは頼子を信じましょう。お願いよ頼子、お葬式はいやよ。
 ご飯を食べおわってごちそうさま。今日ばかりはすぐに寝室へ行かず、勇児がお電話を掛けて、その携帯電話を空子の耳にあててくれた。ぷるるるると鳴る電話の音。
「……はい、赤城です」
 頼子の声は、いつもの自信に満ちた張りのある声じゃなかった。
「よりこ。空子よ。元気ない?」
「今帰って来たところなのよ、お酒を浴びてね。元気だけれど声はおかしいと自分でも思うわ」
 まあ、じゃあ疲れて帰って来ているのね。だったら、はやくお話をおわらせなくっちゃ。
「ゆうちゃ。なにを言えばよかったの?」
 空子はさっそく旦那さまにカンニングを求めた。勇児は空子を膝に乗せ、片手でゆったり抱き締めて、もう片手でお電話を持ってくれている。
「俺と空子さんのことを、世間に面白おかしく吹聴する気はあるかどうか」
 ああ、そうだったわ。
「ええっと、よりこ。よりこはおれと空子さんを、世間におもしろおかしくふいちょうする気はある?」
「ないわ。そんなことをしている暇があったら、無能な上司どもを役席から蹴落してよ。一人でも多く」
 頼子は空子が決して考え付かないことを実行出来る、その能力がある人なのよ。羨ましいわ。
「ゆうちゃ。よりこはやっぱりへんなことなんてしないわ」
「大有名人の嫁さんと知り合いだと、得意気に騒ぐ気はあるかどうか」
 これも訊けと旦那さまからのお達し。
「えっと、よりこ。よりこはだいゆうめいじんのよめさんと知り合いだと、とくいげにさわぐ気はある?」
「ないわ、友達ですもの。お祝いを言うのが遅れたわね空子、結婚おめでとう」
「まあ、ありがとう……」
 じんわり涙が出た。友達と言ってくれた。それにお祝いだなんて。おめでとうなんて言われたの、いったいいつ以来だろう。ひょっとしたら伯父さんに、制服を初めて着た中学の入学式言われた時以来だったかもしれない。
「幸せ?」
 頼子の声は、確かにお酒を通してはいたけれど、とても優しいものだった。涙がぽろぽろ沸いて出た。前がにじんで、目頭が熱い。
「うん、うん、幸せよ……ゆうちゃ幸せ、空子幸せ……」
 はなみずをすすって旦那さまに抱き着いた。勇児はたくましい腕で空子を抱き締めて、おおきな手で空子の背をゆっくりゆっくり撫でてくれた。
「そう、ならいいわ。私の所に来たいのならいつでも言って頂戴、空子。お休み」
 頼子は、そう言ってお電話を切ってくれた。空子は勇児のあったかい腕の中でわんわん泣いた。勇児は空子をずっとゆったり抱き締め続けてくれた。
 空子が泣き止んで落ち着いたころ、勇児が静かに言った。
「俺の嫁さんを泣かせた礼だ。殴り殺す代わりに、空子さんの世話をさせる」
 後で空子が一人の時に電話して、住所を訊いておいて、自分がそれを耳にすれば、お礼に殴り殺しに行くだろうから。そう言って、空子を寝室に連れて行って、じっくりと熱く抱いてくれた。

 おにぎり二ヶのおひるの後。旦那さまがいないところを狙って、お友達に電話をすることにした。おともだちよ、ふふっ。
 嬉しいなあ、こんな空子にともだちなんて。お金で買えないってほんとうだわ。ともだち百人出来るかな、かあ。そんなにいたら、きっと人生最高よ。
 空子の唯一無二のともだちにお電話する。いつもはえっちな格好をして座るソファに、お買い物用のぴっちりとした姿で座って、登録した番号に掛けた。ぷるるるる。
「はい、赤城です」
「よりこ。空子よ。元気?」
「はい、お陰さまで業務に邁進しております」
 あらいけない。ただいま仕事中だぞこんにゃろう、私用電話とはどういうこっちゃい、と言っているわ。
「分かったわ。じゃ、夕方……によりこが帰るわけないから夜にお電話します」
「はい。ありがとうございます」
 それでお電話を切った。それにしても。
「ふりん野郎って登録することないわよねえ……」
 旦那さまから渡された空子用の携帯電話を充電器に置いた。携帯電話の扱いくらいは知っているけれど、そのへんは旦那さまに全てお任せしている。その結果が、よりこは“不倫野郎だ出るな掛けるな”で、勇児は“帰ったらセックスだ”。空子の携帯電話にはこれ以外登録されなかった。
 勇児用の携帯電話に空子をどう登録しているのと訊いたら、そこには“最愛の人”とあった。

 旦那さまがお帰り後のゆうめし中。ふりん野郎さんは家に帰ってからでないと私用電話に出ない、たぶん今頃だと勇児に言った。
「なんて野郎だ」
 勇児はつまらなさそうに言った。
「だったら、俺の今度の短期出張中に電話して。長期出張は二週間後から一ヶ月だ。その間は仕事を辞めろと言っておいて」
 無理だと思うの。よりこ仕事人間だもの。
「ふりん野郎は仕事で出来ているから、無理よ」
「どういう野郎だ」
 なにかずいぶん言葉が悪いわ。そんなふうに育てた覚えはなくってよ。
「不倫野郎が空子さんの世話を満足に出来ないようなら、気晴らしの意味がない。行かなくてもいいんじゃないのか。入院していて、買い物も何もかもし放題だ。そりゃ外には出せないが、代わりにすっごいものをあげる」
「なんですって」
 言われてからこのかた、ずっと焦らされて来たすっごいもの。何だろう。
 めしごにテーブルの上にどさりと置かれたそれは、勇児のお仕事中の写真集だった。

「写真集、というと別な意味になるな」
 勇児と空子はすっぽんぽんでベッドの上。勇児は空子を後ろから攻めて、おっぱいもみもみチンポとマンコをぱんぱん言わせて、空子をあんあん登りつめさせながら言った。その様子は落ち着いた冷静なもの。勇児は興奮の絶頂にあるとむしろ逆に冷静になって、周りがよく見えるんですって。それが勇児の一番の才能だった。
「俺が中学から、……っ、今までのもの、だ。言っておくけど、空子が逃げた間俺はこんな苦労をしていたとか言いたいわけじゃない」
 言われて、興奮してイきそうになっていた空子はからだが止まってしまった。
「ごめんなさい」
 いや、いやいや。今さら空子は要らないなんて言われてももう空子、勇児がいないとだめ。
「ひどいこと、空子ひどいけど、それでもここに置いて、きらわれてもいい、家政婦さんでもなんでもするから傍にいたい」
 そう言われるんだろうか。やっぱり言われるんだろうか。ただ今までは口に出していなかっただけ、空子のいないところではうとましく思っていて、いよいよ今言われるんだろうか。学校や会社で、同級生や同僚上司によくそうされたように。
「違うよ空子さん、違う……イって?」
 そう言って勇児は、空子に全体重を掛けてくれて、より密着してくれていっぱい激しく抱いてくれる。もっと激しく奥にチンポをたたきつけられて、空子は体だけ反射的にイった。

「ごめんなさい……」
 気まずい想いで目を覚ます。勇児は空子をやさしく愛撫してくれたけど、空子はそれを受けるわけにいかなかった。いやいやして、ふとんにもぐって勇児の胸板にひたいをつける。でも体を持ち上げられ、腕枕をしてもらった。空子は目を合わせられなかった。
「違うんだ、本当に。いやみっぽいが、全然そんなのじゃない。ただとにかく観て欲しいんだ。空子さんに、俺の仕事を観てもらいたいとずっと前から想っていた。それで集めていたんだ。気晴らしの件が出るとは思わなかったら、長期出張中はそれを観ていて欲しいって……泣かないで。空子さんがいま思っていること、俺は何も考えちゃいないよ。空子さん」
「ごめんなさい……」
 とても顔なんて上げられなかった。きっと今度目が覚めたら、この夢も覚めるんだわ。
 覚めたらどうしよう。今度はお金がない、南の島には行けない。じゃあ今度は北の大地にしようかな。長々生きてもしょうがないから、凍死しちゃおうかな。
 想い出はいっぱいもらった。もういいっていうことなんだろう。
「俺は空子さんを怒らせる気も、不安にさせる気も機嫌を損ねる気もない。確かに逃げられたが間違いじゃなかった。あれがあるから今この仕事に就いている、稼ぎもある。みんな空子さんのお陰だと言いたいだけだ。男は人生に一度、全てを捨てても集中するべき時期がある。だから空子さんは俺を……ほら、獅子はわが子を谷に突き落として育てるとかいうだろ、そういう意味でここに預けたんだって、言ってくれたのは高校の恩師、あのじいさまだ。俺はそれで納得したから、空子さんの目にもとまるような新聞テレビラジオニュースを騒がす大有名人になろうってそう想ったんだよ。みんな空子さんのお陰だ」
「想い出ちょうだい。後はもういい、もうわがまま言わないから、そのへんでいなくなるから」
 空子は勇児の腕からおりた。空子のあたまなんて重いに決まっている。さいごに想い出のぱいずりを。
「何を言って……ん」
 おふとんにもぐって、勇児のおちんちんをおっぱいではさむ。ああ、これでさいごなんだわ。
 と想ったら、体をものすごい力でぐいってされて、気付いたら正常位になっていて、脚をM字に開かされたと想った途端にすごいのが来た。あとは空子は喘ぎ声しか上げられなかった。

 気がついたらもう朝で、空子は毛布にくるまって居間のソファに座っていた。目の前には店屋物の和食。においで起きたらしかった。
 空子を起こそうとした旦那さまは、目をとろんと開けていた空子に気付いて、ソファに座って空子を膝に乗せてくれた。
「おはよう空子。愛している」
 ゆうべ一晩中言ってくれた言葉で朝のあいさつ。空子に熱いキスをしてくれる。空子は目の周りが真っ赤だった。
「もう気にしていないよな」
 ゆうべ一晩中、勇児に説得されて、気にしていないと言いはしたけれど。勇児は空子が逃げたと知った時、どれだけ憎んだかは想像に難くない。口に出して言わないだけ。きっと許しては貰えない。
 でもそんなこと言ったら勇児は気持ち良く出掛けられない。空子はゆうべのように、勇児が欲しいと思っている言葉を言ってにっこり笑ってお見送りした。
 病院ではぐずぐず泣けなかった。寝たふりをした。

 ……出てみようか。
 お夕飯をただでいただいて辞した病院。いつもはエレベータに向かい、上へのボタンを押す。押してみようか、下のボタン。デパートの階じゃなく、もっと下。
 出てみたら? 空子。
 どこかあたまのなかで声がして、その通りに押してみた。ボタンは一番下の階。
 ぐいっと押した。

 着くまでずいぶん時間がかかったと思う。それに、動きはしたけれどランプの表示が動かない。いつもなら、上か下に動いていると分かる表示がエレベーターの上の方にあるのに。
 とにかくエレベーターは止まった。出てみよう。病院から出て来たんだからどこも丸出ししていないし。そう思って一歩踏み出したら、そこはどう見てもいつもの最上階だった。
「あれ?」
 どうみてもお家までのフロアよ、ここ。天井がとっても高くって、ゆったりしていて淡いパステル調の壁とじゅうたん。
「間違えたかな」
 どうしよう。せっかく一大決心をして押してみたというのに。そのつもりで、いつものボタンを押してしまったみたい。勇児はもう少しで帰って来る。
 短期出張……。
 お家へ戻ることにした。

 いそいそと掃除機をひっつかみ、お家をお掃除する。洗濯物をほうりこんで。乾かしたのを取り込まなくちゃ。ここは最上階だから、空子が間違ってナニしないようにベランダはない。かわりに、洗濯もの干しスペースとしてちょっと特殊なお部屋がある。干したいものをセットして、ボタンをぴっと押すと床がスライドされて、洗濯物だけがお外に出る。あとはごはんのしたくを。朝ご飯の準備をしなくっちゃ。
 家事をしていたら汗が出たので、ひと段落ついたあたりでお風呂をいただく。シャワーだけ。
 風呂場を出たら勇児がいた。
「いい眺めだ」
 空子はすっぽんぽんだった。ちょっと照れた。
「すぐ真っ赤になる。それがいい」
 ぽぉっと赤くなった。すごく照れた。
「お、お、……お帰りなさい」
 ちょっともじもじした。もう空子は、空子は。
「いま、何をしたい?」
 勇児はお顔だけじゃなく、全身に空子愛しているって書いてあった。ただのハンサムさんじゃない、空子がすきで出来ているの。最初からそうだった。
「勇児に訊きたいことがあるの」
「えっちじゃなくて?」
 それもされたい、だってもう空子。
「訊きたいことのあとにえっちだろ」
「うん」
 もうもじもじしていた。おマンコが熱い。
「じゃ、その前に体を拭く。風邪ひかない」
「うん」
 旦那さまは空子をバスタオルで包んでくれた。あったかくってぽわっとした。

 そのまま、ソファに連れて行かれるかなと想ったら、だっこで向かった先は寝室だった。
「いいもん見せて貰ったから待てない。えっちしながら訊く」
 空子はもう熱くなっていた。これを失くしてひとりで生きていけるというの、空子。無理でしょう、もう。
「じゃ、じゃあ……」
 空子はベッドの上ですっぽんぽんになっていた。同じくはだかのだんなさまに後ろから抱き締められて、あれこれいやらしくなぶられるの。きもちイイ。
「おゆうはんは?」
「空子が病院で食ったと聞いたから、職場の同僚の奴と食って来た」
 火照った体で覆い被された。熱いくちびるが体を這う。ゆびをマンコに挿れてもらえた。深く、深く。
「んっ、んっ……」
「訊きたいことは朝でもいいか。俺も、もう……」
 ぐいぐいしてくれる。空子も、もう……

 朝ご飯をつくったの、とえっちの途中で言ったら絶対食べると言ってくれて、勇児だらけになった次の朝。鍛えられた腰でふらふらとおかずをあっためる。
「空子。ゆうべ、訊きたいことがあるって言ったろ。飯時も飯後もえっちだ、飯前に訊いて」
 居間のソファから旦那さまの仰せ。空子はお食事を盛り付けながら訊いた。
「空子をスキになったの、いつ?」
「最初に逢った時。分かっただろ」
「う、うん」
 やっぱり、空子が分かったって知ってたのね。そうよね、動揺したもの。
「あのそれで、じゃああの、……どうしてスキになったの?」
 こんなおかめさんを、歳上を。そりゃ、ちいさな男の子が歳上をすきになるというのはよくあることとは聞くけれど。
「理屈じゃない。惚れた」
 ……照れちゃう。
「はやく来て。空子をイかせたい」
 どきどきして来た。ぬるぬるして来た。もじもじして来た。ちゃんと歩けるかな。
 食器を乗せたお盆を持つ手があやしくなって来たら、居間から旦那さまが待ちきれなさそうに来てくれた。
「ゆうちゃ」
 見上げる空子の眼差しで、空子のキモチを分かってくれた旦那さま。お盆を持ってくれて、いいよって言ってくれる。空子は安心してお任せした。ふらふら、もじもじ居間へ向かった。

 朝ご飯を食べながら、空子のマンコをいじられながら、勇児は空子にお話してくれた。
「どうして俺が、正体不明の不倫野郎に空子さんを世話させるのかというと」
 もう、まだこんなこと言う。本当に、いっそのこと会ってもらいたいものだわ。
「これから先のことがあるからだ。いまは空子さんを外に出していないけれど、子どもが産まれたらそうはいかないだろう」
 あら、そういえば……そういえば、日々子どもが産まれるようなことしているのよね……。
 どうしよう。なんとなく、一度にいっぱい出来ちゃいそうな気がする。だってそのくらいのことしているもの。
「そうすると、空子さんは世間の母親並みに、子どもを幼稚園に送り迎えして、小学校に入れて、中学校に入れて……そういうことをする。問題はその時、あれこれ言う奴らが、俺にではなく空子さんに群がるということだ」
 泣きたくなった。空子はそれが一番いや。だからテレビを観ないようにしているし、新聞もだいきらい。ずっとこの家にいるのもそう。そういう意味では、外になんか出たくない。
 でもそれは逃げだということは分かっている。勇児から逃げたのとは違う、別な逃げ。……同じかもしれないけれど。
「不倫野郎のところまで行ってもらうのはその予行練習だ。ただし、空子さんに友人がいると知られれば、あれこれ言うへんな奴は、空子さんだけではなく不倫野郎にも群がるだろう」
 よりこ。会社でぎんぎら出世欲を燃やすよりこ。そんなことされたら、よりこにも迷惑がかかる。
「それで俺は不倫野郎が、世間に面白おかしく吹聴するかどうか確認した。そんなことをすれば不倫野郎は必ず相応の報いを喰うからだ。もちろん、俺はそれで構わない」
 いけないわ。これはお葬式どころじゃない。
「子どもが出来て、空子さんが外に出ることになった時は、不倫野郎の手は借りない。俺の出張にかかわらず毎日のことだ。仕事を辞めないなら役に立たない」
 確かにそうかもしれないけれど。この言い方、なんとかならないかしら。空子は勇児をそういうふうに育てた覚えはなくってよ。
「気晴らしの件が出ると思っていなかったから、子どもが出来た時だけじゃなく、長期出張の時もこういうふうにしようと考えていた。空子さん、俺に腰をヤられて動けない時、入院先でいつもお世話になる看護師さんがいるだろ。その人が、空子さんがあんまりふらふらしていて心配だから、世話をしたいと買って出てくれていたんだ。あの人に頼もうと思っていた」
 まあ、あの人が……。
 ひと回り離れた歳のせいか、おねえさんとおかあさんの中間のように思えた。かいがいしくお世話をしてくれた。しびんはあれ以降出さなかったし、いつもおトイレまでの道を確保してくれたし、その間ぷぷっと笑ったりしない。話し掛けらることはないけれど、呼ぶといつでも来てくれる。いやな顔なんて決してしない。理想の人よ。
 あの人がそんなことを言ってくれたなんて。今度会ったら、よくよくお礼をしなくては。
「気晴らし先に空子さんを一人で向かわせるつもりはない。あの人に一緒に行ってもらう。いい?」
「いいわ」
 なんてこと。素晴らしいわ。なんて心強いんだろう。
「じゃあ、明日の朝空子さんを病院送りにするから、その時一緒に挨拶しよう」
 まあ嬉しいわ。……でも、病院送りってなにか意味が別だったような気がする。
「外に出る予行演習は必要だから仕方なく行ってもらう。ただし、俺は正体不明で仕事も辞めない不倫野郎より、見知ったプロの看護師の方がはるかに心強い。不倫野郎の家が空子さんだけでなく、看護師さんも一緒に寝泊まり出来るかどうか、分かる?」
 どうだったかしら。確か二間だったような気がするわ。お台所だけは覚えているのだけれど、まさかあそこにお泊まりは出来ないし……確かあそこは二間で、うち一間は仕事部屋で書類とパソコンと書籍が山と積まれていて、もう一間に居間とベッドがあって、ベッドサイズはまさかここみたいに大きくなかったし、でもシングルじゃなかった。そこでよりこと空子が寄り添って眠ったような……。
「無理だわ。確かセミダブルだったような気がしたの。二人でやっと、三人ならぎゅうぎゅうよ」
 それが空子ならともかく、あの看護師さんなんて申し訳ないわ。
「なんて野郎だ」
 そんなこと言わないでよぅ。空子なんて六畳一間、おふとんはシングルサイズ、おトイレはお風呂と一緒のシステムバスだったのよ。
「子どもが産まれていない今は、空子さんを外に出すつもりはない。看護師さんも同席出来ないというなら、気詰まりだろうけどそのアバラ屋にずっと篭っていて」
 アバラ屋なんてひどいわ。空子なんて、空子なんて、うさぎ小屋よぅ。

 本日は久々のお出かけの日。頼子のおうちへ行く日よ。
 勇児は朝から大層心配していた。というより、反対した。やっぱり行くのを止した方がいいんじゃないかとか、やっぱり男なんだろうとか、まおとこがどうのとか言っていた。出発ぎりぎりまでずっとこんな調子だった。
 でも、勇児が長期出張で、空子がその一ヶ月に耐えられないのは事実。結局、二時間もマンションの地下駐車場ですったもんだした挙げ句、看護師さんが付き添う車で頼子のおうちへ向かった。
 久々に、お外へ出たなあと思って、車のカーテンを開けようと思ったら携帯電話が鳴った。待ち受け画面には“帰ったらセックスだ”。勇ちゃんだわ。
「はい、空子よ。勇ちゃん、どうしたの?」
「どうしたもこうしたもない。まさか空子、車のカーテンを開けたりしていないだろうな」
 どうして分かるのかしら。
「さっき言っただろ、そういうことはしちゃ駄目だって。何のために家に缶詰にしていると思っているんだ。カーテンは開けちゃ駄目。外は有象無象だ、いやなやつらがうようよいるんだ。特に今から行く先はその集大成だ」
 もう、まだこんなことを言っている。たっぷり二時間は聞いたわよう。
「分かったわ、開けない。でも頼子は女の人です! この間、勇ちゃんも納得したでしょう」
「いや分からない。空子がどうしてもそいつを女と言うなら、空子以外の女心は秋の空だ。空子、ドライブして今すぐ帰って来て」
「勇児。空子は気晴らししないとだめなの! さっきそれで納得したでしょう?」
「そりゃそうだが……いいか空子、間違っても手込めにされるんじゃない。噛み切って来るんだ」
 結局、頼子のおうちへ着くまで、地下駐車場でのやりとりが電話で再現されることになっちゃった。もう。
「ほんとにそいつは今日はまともに帰ってくるんだな」
「そうよ。頼子は仕事で出来ているけれど、今日ばっかりは定時で帰って来るって言っていたわ」
「それならいいが、……」
 それでまたがみがみ。ふつう、がみがみって女の人が言わない?
 それから、勇児もいよいよ時間がなくなっちゃって、がみがみお電話は出来なくなった。とても当人に向かっては言えないけど、ほっと一息。
 そして頼子の家に到着する。オートロックのありふれたマンション(当人談)ここへ来るのは久々。前は夜中に来て朝方帰ったから、日中来るのは初めて。
 看護師さんは初対面の人に会うのにいきなり部屋の中を知ってはまずいだろうということで、来た車に乗って帰って行った。さてと、まずは掃除からね! 確か掃除機ぐらいはあったはずだから、っと。
 送られた鍵で部屋に入ると、……うーん、まずまずね。適当に片付けられているみたい。頼子は美人なので、部屋がべらぼうにきたないなんてありえない。けど適度に散らかっている。服は豊富でウォークインクローゼットの広さで部屋を決めたってくらいだから。そこはいじらないで。仕事場と化している部屋もあまりいじらいなで。
 まず掃除機をかける。ぞうきんで拭いて。掃除は比較的早めにおわる。
 次は食事ね。冷蔵庫は、大きいのがデンとあるけど機能していない。中をみると、やっぱり綺麗さっぱりなにもなかった。これは頼子、片付けたわね。私の前でいまさら体裁を繕うなんてしないから、ここはむしろ全部片付ける事を選択したのだろう。まあ、腐った卵を片付けさせられるよりはましよ。うん、賢明な選択だわ、頼子。
 さて食材を買いたいのだけど。
 私は、勇児にも頼子にも言わず、決めていた事がある。それは、私が一人で外に出て買い物をする、ってこと。
 もし、私をして「あの」高尾空子さんですか、ってインタビュアーに突撃されたって構わない。だって、将来子どもが出来れば絶対外に出なくちゃならないんだもの。そんな時、勇児の助けを待つ? ううん、そんなの意味ない。絶対にひとりで、切り抜けないと。
 今まではそれが嫌でマンションに篭っていたけれど。でも、頼子の家に行くと決めてからは、腹をくくった。前々から嫌だったけど、切り抜けるの。
 おさいふをぐっと握りしめて、一度だけ行ったスーパーへと向かった。一人で外の空気を吸うなんて、一体いつ以来だろう。
 外はとてもよく晴れていて、人目を気にして外を歩いているのなんて、私くらいのものだった。
 道ゆく人にびくついたりしない。堂々と歩いた。日差しが眩しかった。
 スーパーに到着。これから一ヶ月、頼子の為に尽くすのよ。そういうのは得意、いつもやっているから。ナイスバディだけどそれは若さが保たせているのだと頼子に分からせてあげるわ。
 ……そう。忘れてたの。こんな気合いを込めて買うには、荷物持ちが自分だけ、しかも片道歩いて十五分っていうのは、かなりきついっていうことを……勇児が聞いたら全部怒ることだから、ナイショね……。