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 私の欠落した思考では、勇ちゃんを私立へやるという考えはなかった。けれど、とてもいい話だと思う。いくら才能がなくともそれだけは分かった。なにせ全寮制だというのだ。渡りに船と、その場で話にすぐさま食い付いてしまいたいのをなんとか堪えた。こんな態度に出れば、勇ちゃんは反発してきっと公立へ行くと言っただろう。反抗期なのだ、手に取るように分かる。なぜ全寮制だの学費を持つだのという話になったのかは、やはり分からなかったが。
 あれから私は、勇ちゃんには黙って、勇ちゃんの中学の校長先生と電話で頻繁に話をした。是非私立でお願いします、と言うためにだ。
 校長先生へは、あの場で詮索されなかったことをこちらから言った。この通り、おかしな間柄ですと。わずか六歳しか違わず血は繋がっていない、同じ家に住めば下賤に勘繰られる。それでも面倒は見なくてはならない、その義務がある。ただしそれは高校までと前々から思っていた。是非私立へお願いします、その際は、私は高尾君と一切の縁を切りますと。
 財産分与の相談もした。校長先生はこういったことに詳しいらしく、とても助かった。数百万円もの財産など、私が頂くべきではない。仕事して貯えもあるから、みな勇ちゃんに上げる。それでいい。
 あとは、勇ちゃんの機嫌をそこねないよう、私立へは行かないなどと言わせないよう、お互い気を配りましょうという話になった。よかった、よく分かって下さる先生だ。とてもとても安心した。これで義務も果たせる。
 私は勇ちゃんに、公立も受けていいわよと甘言した。勇ちゃんは飛び跳ねる勢いで喜んだ。その隙に、いい機会だから他の学校も考えてみたらとも言った。勇ちゃんはそうしてくれた。
 勇ちゃんが十五の春に、事前に誰にも何も言わず、唐突に引っ越した。あるったけのモノを捨てた。想い出も預かったお金も扶養義務も全て。

 それから五年後。社内だけではなく、周囲が、街中が、国中が、たったひとつのお祭りに夢中になっていた。その名はワールドカップ。四年に一度の、世界一の祭典だ。
 私は興味がない。観てもどうせ分からない。なのに、社内で新聞を配る係も職務に入っているために、一面に躍る文字をいやでも目に入れるはめになった。ほぼ毎日といっていいほど見かける名に、日々不快になっていった。
 一面を飾る文字とは、“高尾”だ。“高尾が主将、高尾が率いる、高尾が鍵”。こんな文言をここまで毎日目にすれば、いくら興味や才能がなかろうとわかる。新聞、テレビだけではい、社内の話題ももちきりだった。つまり、あの時の私立話とは、サッカーの名門校に推薦されたということだったのだ。まるで分からなかった。あの校長先生も勇ちゃんも、手を尽くして説明してくれたらしかったのに。
 ここまで話題性のある人物なら、私生活についても根掘り葉掘り探られるのはよくあること。勇ちゃんとあの先生は、たった数日の調査ののち私の家の前にいた。伯父さんは、偶然の情報をもとに勇ちゃんのご家族前まで私を連れて行った。調べるなどたやすいことだ、誰にでも出来る。だとしたらマスコミや方々に、あの高尾選手の私生活は、過去はああでしたなど下世話に吹聴されるかもしれない。
 あの私立話が、ここまで規模が大きくなられるとは想像だにしていなかった。新聞やニュースで勇ちゃんが大きく取り上げられるたびに、己の才能のなさを何度ものろった。なぜ中学から私立にしなかったのか。いくら思い到らないとはいえ浅はか過ぎた。そう、中学にも私立はあるのだ、名門といわれるところがいくらでも。小学校ですらあるというのに。うかつを通り越して、みじめだった。

 世間は、あと一か月でW杯が開催されるという話題でもちきり。私は、職務のうちの憂鬱なひと仕事から逃れられてほっとしていた、そんな時期。会社から帰ると、家のアパート玄関前に誰かが立っていた。三十代前半と思われる男性が一人だった。
 いい話ではない、即座にそう判断した。関わり合いになりたくない、会社へ戻ろう、なにかの仕事をしていよう。数時間後にまた帰って、それでもいるなら会社で泊まって、それでもいるなら警察へ電話して。
 ここまで考えてきびすを返そうとした私に、その男性は近付いた。恐かった。大声を上げようとしても、喉から出て来たのは情けないほど震えた小声で、しかもまともな音にすらなっていなかった。声ですらこうだ、体にいたっては微動だに出来なかった。動かそうという意識すらなかった。まず声を、と思ったら、とたんにそればかり考えてしまって、体を動かそうというところまで頭が回らなくなっていた。
「静かに、怪しい者ではありません」
 その男性はそう言ったらしかった。こんなことを言う人間が怪しくないはずはない、ついに来たか。ということだけは理解出来て、それでもなにも出来なかった。その時の私の表情はさぞ恐怖に歪んでいただろう。これから先なにが起こるのか、おそろしくてたまらなかった。
 ところが男性は私の態度に、意外にも驚いているようだった。あきらかに驚き、そして困惑の表情を浮かべた。
 そんな反応をされれば、こちらとて困惑する。結果、両者は同じ困り果てた状況に陥ったようで、とてつもなく気まずい雰囲気だけがお互いの間を流れていた。
 すると男性は思い付いたかのように、突然ふところから携帯電話を取り出した。誰かに電話を掛けている。誰かに助力でも求める気か。
 その時ようやっと体の金縛りが解けた。そうだ、声を出す前にまず逃げなくては。ようやっとそれに思い当たり、ようやっと足を動かせた私を見て、男性は急いでこう言った。
「待って下さい、これを聞いて」
 この言葉につい、またしても足を止めてしまった。男性は、手に持った携帯電話を玄関前の路傍に置き、そのままどこかへ行ってしまった。こんなことってあるものだろうか。根掘り葉掘り訊かれるとかじゃないの?
 しばし呆然とした私が、はっと気付いて周囲を見渡せたのは、近くを通りがかった人々からいぶかしげな視線と言葉を投げ付けられていたのを感じ取ったからだ。いけない、おかしく思われる。
 足下に置かれた携帯電話が通話状態のままだというのは分かっている。ならば電源を切ってそのまま捨て置き、家に逃げ込めばいい。
 携帯電話に手を伸ばし、電源オフのボタンを押す直前、手に持つそれから懐かしい声がした。
「切らないで、空子さん」
 いぶかしげな視線と言葉は、消えることなく周囲にいた。とてもそこで立ち止まってはいられなくて、電話を切れもせず、捨てることも出来ず、持ったまま家に入ってしまった。

 私は、ひとまずそれをテーブルに置き、着替えて顔を洗った。まるで、こうした日常の動作をしていれば非日常から逃れられるかのように。私はいざとなれば逃げることしか出来ない。
 電話からはずっと私の名を呼び続ける声がした。
「空子さん。出て。空子さん、空子さん」
 ずっと同じ口調だった。大きくもならず小さくもならず、囁き続けるように。これが段々大きくなって、さいごには怒鳴り声になるなら切っていた。段々小さくなって、向こうから切ってくれたならよかったのに。ずっと、どちらでもなく同じ口調だった。
 耳を塞いでも聞こえるような気がしたので、出た。
「……な。に?」
「よかった、空子さん。俺だよ。ごめん、突然、変な手を使って」
 電話の向こうから聞こえたのは、大人の声だった。

 沈黙する私に、向こうは私が気を悪くしたと思ったという。
「空子さんち、ずっと調べていたんだ。やっと分かったけど、いま俺動けなくて、それで……ごめん」
 向こうは心底申し訳なさそうにしていた。
「気持ち悪いことしないで」
 私の口から出たのは、けんか腰の言葉だった。我ながら、心底嫌気のさした声だった。
「ごめん!! 空子さん、切らないで」
「気持ち悪いわ、誰あれ。二度としないでちょうだい」
 今度の私の声は震えていた。我ながらすこし意外だった。今の私の心境は、我ながらけっこう冷静だと思っていたからだ。ハートは落ち着いていて、口先の言葉だけが暴れている。
「ごめん……」
 向こうはここで切られると思ったという。私はというと、勇ちゃんの次の言葉をただボケっと待っていた。
「……空子さん?」
 次の言葉が出た時には、おそらく二十分は経過していた。電話の向こうから突然聞こえたの声で真っ先に思い付いたのは、ああ電話代がもったいない、だった。
「何の用? もう縁は切ったはずよ。忙しいのは分かっているから、私のことは忘れてちょうだい」
 まったく事務的にスラスラ言った。我ながらずいぶん冷たい言い方だった。
「どうして空子さんはいつも、俺が出来ないことを言う?」
「出来るわ、簡単よ。今までそうして来たでしょう」
「していない。縁をどうのなんて承知もしていない」
「でも、私は縁を切ったのよ。さあ、昔のことはもう忘れて。忙しいんでしょう、もうこんなことしないでね。さようなら」
「待って空子さん!! 電話を切ったら俺死ぬよ!!」
「なんてことを言うのよ……」
 これで私は手詰まりになってしまった。電話の向こうの義理の甥は、本当にそうしてしまうと思えたから。

 形勢は一気に逆転。怪しい男を経由され、不法侵入もどきをされたのはこっちだというのに、私の方が劣勢になってしまった。
「空子さん。逢いたい」
 電話の向こうは語気を強めて来た。ここで私が否と言ったら、何が起きても不思議ではない。
「今すぐ逢いたい。そこに車を回すから乗って。電話はこのままずっと、切らないで」
「……拒否権はないのかしら」
「ないよ。俺の命と引き替えだ」
「ばかなこと言わないでちょうだい……」
 今度は私の方が囁きになっていた。電話の向こうの甥っ子は、ほんのわずかな刺激で暴発してしまいそうだった。
「いいよ空子さん、何を言っても。何も話せない、逢えもしない、どこにいるのかも分からないよりずっとマシだ」
 電話の向こうは心底怒っていた。答えることなど出来なかった。
「さっきの奴は俺のチームのマネージャーだ。怪しい奴じゃない、ホントに。怖がらせてごめん」
 答えようがなかった。
「車で迎えに行くのはそいつだけど、空子さんには指一本触れさせない、絶対」
 さっきの人が来る? また?
「い、嫌よ、恐いわ」
 私は体ごとガタガタと震え出した。一体どうやってこんな風になっているのか、自分の体に訊いてみたいほど、絵に描いたようなガタつきっぷりだった。
「ごめん! ……けど、話を大きくしたくないんだ。空子さんのこと、もう他の誰にも知らせたくない」
 あ……。
 勇ちゃんも同じことを考えている。そうなんだ、やっぱりそうなんだ。
「もう嫌な思いはさせない。そいつとはもうこれきりだ。もう会わせない」
 それがどういう意味か、まるで分からなかった。今の私はただ、さっきの人とはもうこれきりという言葉に安心してしまっていた。

 車と言われれば、せいぜいタクシーしか思い付かない欠落した私の目の前に、後部座席が白いカーテンで覆われた、大きくて真っ黒な車が停められた。助手席から出て来た男性を見て、思わず悲鳴を上げた。
「ごめん! ごめん空子さん、もう会わさない、これきりだから、少しだけ我慢して」
 私は、まるで携帯電話だけが頼りと言わんばかりに、手に持つそれをきつく握り締めていた。足下から震え、脅えて足が動かない。
 そうこうしているうちに、さっきの男は後部座席のドアを開け、自分はさっさと助手席へ戻って行った。私は、男の姿が見えなくなったことと、電話の声に背を押され、逃げ込むように車に乗った。
 私の座っている席からは、助手席は見えなかった。けれど、乗り込んでやっと気が付いた。密室空間にさっきと男と同席だ。
「ゆ、勇ちゃん、恐いわ、勇ちゃん、勇ちゃん」
 大の大人がなんて情けない声を出すのだろう。しかも携帯電話にすがりついて言っている。実に情けない様相を呈していた。
「大丈夫、すぐ着くよ、もう心配することない」
「ほんと? ほんと?」
「本当。すぐ着くよ、大丈夫」
「ほんとに? ほんとに?」
 今度は私が電話を切られたくなかった。本末転倒とはこのことだ。

 道中、しばらくは電話にすがりついてやりすごしていた。そのうち、泣きの言葉や励ましの言葉が出尽くすと、車が停まるたびにもう着いたのかと錯覚を起こすようになった。
「着いたの? どこ? どこへ行けばいいの?」
「ううん、まだだよ空子さん、落ち着いて、着いたら言うから」
「そう? そう? とても長いわ」
 情けない会話だった。私は肝心なことをすっ飛ばして忘れていた。もう勇ちゃんとは会わない、話さないと決心したことを。

 すぐに着くと言われ、期待すると、実際の時間は長く感じる。しまいにはイライラしてしまって、勇ちゃんは私の八つ当たりを散々慰めるハメになった。私は勇ちゃんがそれどころではない、とても疲れている人だということも忘れてしまっていた。
「空子さん、そろそろ着くよ」
「嘘、全然すぐなんて着かないじゃない」
「うん、ごめん」
 どんなにつらく当たっても、勇ちゃんは優しくて、すぐに素直に謝って来る。ご両親の努力の賜物だ、あんな接し方しか出来ない私など関わっていい存在ではなかった。
「本当に、着くから。俺の言うこと聞いて、空子さん」
「叔母さんと呼びなさいといつも言っているでしょう!」
 よく勇ちゃんは、こんな不満だらけの私をなだめてくれていると思う。私だったらこんな性格の、おかめでぽっちゃり女なんて一目でおさらばだ。
「空子さん、お願いだ。電話を切らないで、そのまま、けど俺の言うことを聞くだけにして。これからは、俺がいいって言うまで話さないで」
「……どういうこと?」
 私というお荷物をなだめ続ける勇ちゃんの、話す内容が急に変わった。その雰囲気を察して、私もわめくのを止めた。
「車、停まっただろう。本当に着いたよ、もうそこを出ていい」
「いいの?」
 やけにあっさりと出ていいと言われて、私は遠慮なく車の扉を開けた。貧乏な一般人は、車の扉とは他人に開けてもらうものなどとは思わない。
 開いたわ勇ちゃん、と言おうとして止めた。そうだ、話しちゃだめって言っていたわ。
「開けた? 空子さん。そしたら左に行って、そう、そこの通路みたいになっているところを歩いて。他の車も通るから気を付けて」
 そこはなにか、地下駐車場のようだった。車が点々と停まっていて、その間にも車が停められるように白線が引かれてある。近所にあるスーパーの駐車場と違うところは、今ここには光が差していないということと、停まっている車がふつうじゃないものばかり、ということだった。もっとも私は勇ちゃんの電話に集中していて、周囲などそう気に止めてはいない。
「大丈夫? 空子さん。突き当たりに近付くと、そのあたりからエレベーターが見える筈なんだけど」
 てくてくと歩いていると、勇ちゃんから次の言葉。エレベーター? どこかしら。
「空子さん。見える、とかなら言っていい」
 あらそう。
「見えないわ」
 その場に留まって、あたりをくるくる見た。エレベーターなど見えなかった。
「ひょっとして空子さん、止まっている? 歩いて、周りをよく見て。車が通る、あぶないよ」
 あらそういえば。
「それとね。ひょっとして空子さん、逆を歩いている? 後ろを見て」
 あら、どうしましょう。
 あたりを三百六十度、くるくる見ていたものだから、元来た道を戻っていたらしい。
「そうみたい。さっきの車が見えるわ」
 いけない、いけない。
「ちょっと待ってね、突き当たりまで歩くわ」
 結局、勇ちゃんのところへ辿り着くまで終止こんな調子だった。

 最上階までエレベーターで。ちん、と上品な音が鳴って開いたドアをふつうに出る。エレベーターの中も通路も、歩く所は全て履き慣れてくたびれたスニーカーが埋もれる。
「着いた? 空子さん。じゃあ、目の前のドアを開けて来て。俺、いるよ。大丈夫、一人だ」
 途端にどっくんと音が鳴った。ばくばくなんて、そんなものではなかった。心臓は壊れて異常に鳴動し、足はすくんで動かない。電話の向こうの声は嬉々としているけれど、私の気持ちはその正反対だった。どうしよう、勇ちゃんが目の前にいる。
 電話の調子では、私に一体なにを要求して来るかわかったものではなかった。いままでの経緯を思うとなにをされるか知れたものではない。どうしよう、ついこんなところまで来てしまったけれど、会うもなにも、縁を切ると決めていたのにさっきからずっと喋りっぱなしだ。
「空子さん? 空子さん、どうしたの。真っ直ぐ、目の前だよ」
 真っ直ぐきびすを返すつもりだったのに、壊れた心臓だけが勝手に動いて、体は何一つ動いてくれない。
「わかった。迎えに行く」
 いけない! いけない、動いて体。
 こんなに自分を奮い立たせたことはない。必死で、ついさっきまですがりついて八つ当たりをしていた携帯電話を切る、その勢いで後ろを振り向き、エレベーターのボタンを押した。早く、早く動いて!
「空子さん」
 もう肉声だった。目の前のエレベーターではなく背後のドアが開いた。後ろを振り向く勇気はなかった。
「やっと逢えた」
 ついに抱き締められてしまった。五年間、その気配をいやというほど感じながら、ずっと躱し続けて来たというのに。
 力強い、逞しい優しい、温かくて大きな抱擁。今まで誰にもされたことはないけれど、はっきり分かった。いま勇ちゃんが私をどう想って、なにを想ってこうしているのかを。なにを言いたいのかも。私がどうしてしまいたいかも。
 だからこそ決めた。心を鬼にして、今度こそ縁を切る。
「離して」
 我ながら、声はつめたかった。さっきまですがりつき、励まされ、八つ当たりをしていた人間の声ではなかった。
「離して。私に用などないわ。今ここで縁を切ります」
 声がもっとつめたくなった理由は、抱擁がとても熱いものになってしまったからだ。抱き締めるではなくて、抱くになっている。力強い腕が、手が蠢いて、熱い唇が首筋だけではなく触れる。
「離してと言っているのよ」
 抵抗するしかない。今しなければ、もう。
「疲れただろ空子さん……なにか飲む……?」
 やさしく囁く甘い声。こんな、こんな抱き方……もう愛撫だ、されたことがなくとも分かる。
「座ろう、空子さん……疲れただろ……」
 途端にひょいと横抱きされてしまった。お姫さまだっこなんて、されて初めて分かるものもある。こうなると、抱かれた相手の顔をいやでも見ることになるなんて。
 真正面にうっとりするほど端正な青年が、熱い瞳で私を見ていた。

 抱き上げられて見つめられて、たったそれだけで抵抗する気が失せてしまい、何も出来ずに部屋へ入るハメになってしまった。
 そのままの体勢だとどうなるか分かっているので視線をそらす。目に入ったものは広い部屋だった。豪勢なじゅうたん。大きな窓ガラス。下げられたゆるやかなレースのカーテン。高い天井。豪奢な明かり、シャンデリア。落ち着きのある内装、どこかのドラマに出てきそうだ。ベッドが見当たらないことだけが、私の気を落ち着かせた。
 部屋の真ん中のソファに近付いたとき、ああやっと解放されると想った。こんな状況が続けば、さっきした決心がどこかへ行ってしまいそうだ。
 ところが勇ちゃんは私を離してくれなかった。てっきり先に座らせてもらって、勇ちゃんはその次に私の隣に座るものだと想っていたのに、勇ちゃんは私と同時に座ったのだ。私を上に乗せて。
「は、離して、離して勇ちゃん」
 勇ちゃんは私の言うことを何一つ聞いてくれず、さっきの愛撫の続きをした。何の遠慮もない手つき。
「だ……っ! だめよ、何をしているの!」
 胸を触ろうと、いえ、揉もうとして来る。
「だめったら!!」
 その手をよけようとすると、ほっぺたに唇を寄せて来た。それどころか嘗めて来る!
「だめったらだめ、勇ちゃん!!」
 逃れようと、ついついソファに倒れこんだら、状況はもっとひどいものになってしまった。熱い瞳が、決して逃さないと追い掛けて来る。迫って来る。
「聞いて、勇ちゃん、だめよ!! 離して、もうさよならよ!!」
「させない」
 覆い被さって来る勇ちゃんは、背を見せて逃げる私の腰を片手で掴んで動きを止める。服の上から舌が、背から這って来て、しまいには耳を嘗めあげてこう言われた。
「好きだ、空子……結婚して……」
 涙があふれて止まらなかった。

 どれだけいやと言っても聞いてはくれなかった。熱い瞳をいやというほど凝視させられ、迫られて、目を瞑ったら舌のはいったキスが来た。嬲られて、ゾクゾクさせられて、熱いものがおなかのあたりからわいて来る。胸を揉まれて、もどかしそうにブラをはぎ取られ、生で愛撫された。
 その間、私の口から漏れる声と来たらひどいものだった。どこから出るのか知れたものではないはしたない高い声。ぁあ、ぁあ、などと言っていた。これじゃHビデオよりひどくて淫媚だ。息が弾む。体の力が、抵抗する気力が抜けてゆく。勇ちゃんは、そんな私の手を取って、何かを填めた。見なくても分かる、もう分かる。この感覚、指輪だ。
 見せつけられた。なんて大きな石なんだろう。私の誕生石だった。勇ちゃんは、指輪を見る私の表情に顔を綻ばせた。そして愛撫を続けた、容赦なく。
 ああ、こんなところでそうなってしまうのか。勇ちゃんは、私の服を上半身分もう脱がせてしまっている。どれだけ抵抗してもそれは勇ちゃんにとって助けにしかなっていないらしく、スカートもするりと脱がされた。とっさに膝を閉めても、腕を差し入れられ、抱え上げられて、おしりまで丸見えになってしまって、ショーツをおろされ、ソコを嘗め上げられた。
「ひぁあんっっっっっっ!!」
 もうそうなれば、火のついた牝の本能が盛るだけ。もうどうなるか、よく分かっているのに、それだけを期待する。
 そんなのだめよ……!
「だめよ、勇ちゃん……もうさよならよぅ……」
 その声は、どれだけいやらしく濡れていただろう。だってもう、ソコは溢れていたんだもの。
「これでも?」
 勇ちゃんは、溢れたソコに指を挿れた。そしてぐちゃぐちゃと暴れさせた。前後にこねられもっと濡れた。襞がぐちゅぐちゅいって、それを二本の指で挟まれ弄ばれ、ぷっくりしたことろを執拗に指でされる。びちょびちょぐちゅちゅ、はっきり水音が上がった。聞けば聞くほど襞がひどくなって、前後がもっとひどくなって、挟まれるのもひどくなる。何かを探していたというが、私には分からない。心底されたいと想っていた卑猥なことをされて体がぴくぴく反応して、もっともっと卑猥な声を上げてしまっていた。
「あんっ、あんっ、あんっ」
「そんなに腰突き上げて……欲しいんだ」
 その通りしてしまっていた。女の一番恥ずかしい処にもっと指が食い込んでくれるように、もっとされたくてうずうずして、そうだといわんばかりにおしりを、腰をみだらに突き出していた。今一番欲していることを言葉にされて、思わず目を開ける。視界に入った、逞しいソレ。
 その人はもう一糸も纏ってはいなかった。それは私も。もう、欲しくて欲しくてしょうがなかった。だから言った。
「勝ったら!! 全部上げるわ!!」

 その人は、一瞬だけ私の言葉に耳を貸してくれた。それはこの部屋に入ってから初めてで、私はその隙を見逃さなかった。今しかない。最後の勇気を振り絞って、下半身を斬り捨てる想いで体勢を立て直した。捨てることなら得意だった。
「勇ちゃん。勝ったら全部上げる、私でもなんでも。結婚でもなんでもするわ」
 言いながら、じゅうたんの上に散乱した服を必死でかきあつめた。それで体の前を覆って、必死に言葉を振り絞った。
「勝つまでだめよ」
 勇ちゃんは、とても強い衝撃を受けたという。実際その場に突っ立って、裸のままで、私の言うことを聞いてくれた。
 勇ちゃんは動かない。なぜかそう確信した私は、焦った震える手つきで服を身につけた。ショーツは私から溢れたモノでぐちゅっと言って、とても気持ちが悪かった。ブラもめちゃくちゃ、でももう関係ない。
 お財布の入った小さなバッグだけが頼りと必死に抱え持って、めちゃくちゃな服のまま言った。
「勝ったら逢うわ。全部貰って!」
 こんな捨て台詞は聞いたことがない。我ながらそう思って、つんのめりそうになりながら部屋を出た。
 そこは都内でも有数なホテルだったらしい。そこからこんな恰好で出てくれば、直前まで何があったのかさぞ察しが付くだろう。けれど大丈夫。こんなおかめさんの相手が誰かなど、想像出来るわけないわ。
 そういう自信だけはあったから、髪の毛を手ぐしで直して、背をのばしてそこを出た。歩くといろいろ辛いけど、いろいろおかしな感情がわき上がって来るけれど!
 ……忘れた。だって随分遠い所に連れて来られたんだもの。電車に乗るためきっぷを買おうとして、駅で運賃表を見ただけで現実に戻れた。片道千円近くもするなんて! これからは、何かおかしなことがあったらこの手を使おう。冷静になれるわ、我ながら。
 填められた指輪をするりと外してそっと持つ。こんな私に一番似合わない高価な品も、揉みしだかれた胸も、嘗め上げられた耳も、舌を入れられた口の中も、指でいたぶられた熱いアソコも、愛撫された体は全部、あの時の記憶をずっとずっと忘れなかった。それでいい。これを想い出にして、ひとりでずっと生きて行こう。伯父が死んだあの時思った決心は、結局ずっと変わらない。
 過ぎた人だったのよ、私には。いい想い出が出来てよかったじゃない……