30минут

 気がついたら、なにも憶えていなかった。
「ここはどこだ」
 俺は誰だ。
 呆然としていると、見知らぬ女性が近づいて来た。
「忠弘っ」
 分からない。
「……どうしたの?」
 誰かは分からないが、俺の様子がおかしい、というのは分かったらしい。それはそうだろう、自分で自分が分からないなど、おかしい以外のなにものでもない。
「……済まない、記憶がない……君が誰かも分からない」
 さぞ失礼だろう、こんな言葉など。
 なのに目の前の女性は笑った。やさしい笑みだった。
「じゃ、来て?」
 来て? 分からない。なにを言っているのだろう。正体不明の野郎を家に上げるなど。
 家……なのだろう、目の前の女性にとってここは。
 よく分からずついて行き、すすめられたソファに座っても、感慨は浮かばなかった。
 ひょっとしてこの女性は、このソファに座った感覚は憶えているかと問いたいのか?
「済まない、憶えていない」
 部屋の中をざっと見渡す。さぞ由緒ある家だろうに、何故か第一印象は“控えめ”だった。何故だろう。
「いいの。だってここ、引っ越したばっかりだもん」
 そうだったのか。分からない上に分からないことだらけだ。
「じゃ、ゆっくりして。のんびり。急ぐことなにもないから。そうだ、コーヒー淹れて来るね」
 女性は部屋を出て行った。
 分からないことだらけだが、一つ分かったことがある。あの女性は俺を一人にして、混乱から目を逸らさず、冷静になれと言いたいのだ。
 人間、一人になって考える時間は必要だ、どうしても。それくらいは分かる。今がまさしくそうだ。そういうことなのだろう。
 なにを考えるべきか? 無論、自分のこと。
 まずは身なりを確認した。上がシャツ、下がジーンズ。ごくありふれた私服だ。気張って外出をしようという格好ではない。……部屋着、か。
 すると俺は、この家に住んでいる者なのか。
 しかし女性は、ここへは引っ越したばかりだと。だったらこの家に対し、長く住んだことによる愛着はないだろう。家からはヒントを貰えない。あの女性しかいない。
 しかし、見知らぬ女性にあれこれ質問攻めにするというのは……
 考えていると、いいにおいがした。女性が入って来て、目の前のテーブルにコーヒーをそっと置いてくれる。なんて……
 二つ置かれた。女性が隣に座る。ごく自然な動作……まるでいつもの風景。
 琥珀色の飲み物をただ眺める。
 ……冷めるな。
 カップを手にして飲むと、その味にしびれた。

 それから女性は俺に、なにも強要しなかった。なにも訊かなかった。問い詰めることもしない。お願いされたのはのんびりして、ただそれだけ。
 お昼寝しよっか。そう女性は言って、やけにだだっ広い空間の部屋に通された。ぽつんと置かれたパイン材のテーブルと、毛の長いふかふかじゅうたんの上に生成りのソファが二つ。寝転がった。女性も隣で。何故かまぶたが重くなってうつらうつら。
 寝床ではないから、何時間もそうするわけにはいかない、起きなければ……
 そう思って身を起こすと、
「おなか空いた、ご飯ご飯」
 女性が呟いた。そして身を起こす。なにやら起き辛そうだ、もう少し眠っていてもいいだろうに。
「寝てていいよ」
 俺の考えを読んだのだろうか。女性は、おそらく台所だろう場所へ、部屋を出て行った。
 また一人になる。考える時間だ。
 ……俺は何者だ。

 延々と考えたが、判断する為の情報がゼロでは分析さえ出来ない。頭を振ってもなにも思い浮かばない。
 情報源はあの女性だけ。質問攻めにするしかないのか。
 しかし、あの女性は俺を問い詰めない。ただゆっくりしてくれと。そんな人に、一方的に訊いてもいいのか。
 考えていたら部屋の扉が開いた。そうと気づいたのはにおいでだった。これは、
「いっぱい食べてね」
 カレーだった。こんなに広い空間を一瞬で充満させる香辛料。思わず胃が反応する。
 女性は重い鍋を持って入って来たというのに、俺はそれを持って上げようとも思わず、ただ目の前に並べてくれるのを待っていた。
 女性はまた出て行く。目の前にはでかい鍋。俺は女性の手伝いをしなくてはならないのに、この時は全くそうと思えずただ待った。
 すると女性は片手になにやら、片手に盆を持ちやって来た。後で思った、少しは手伝え。
 女性は荷物をおろすと、なにやらの蓋を開けた。するとまたいいにおいがした。中身は白いご飯だった。
 それを皿に盛る。盆には大小のカレー皿、スプーン、福神漬けが乗ってあったが全く気づかなかった。胃袋が叫ぶ、食いたい。
 女性は俺の考えが全て分かるのだろう。慣れた手つきで俺の希望通り、あとはただ食うだけという準備万端の状態にしてくれた。
 女性と並んで、
『いただきます!』
 あとはただ猛然と食った。
「美味い……」

 腹が満たされ体が睡眠を要求している。さっきまで夢見心地で、そう眠くはない筈なのに。そういう目で女性を見ると、
「じゃ、その前にお風呂」
 と言ってくれた。なる程、その通りだ。
 女性の後をついて行く。脱衣場に通された。パジャマ、下着、バスタオル数種数枚を手渡される。歯磨きはこれでと指定された。
 ……俺はこの家に住んでいた?
 だがなにも憶えていない。服を脱いだ。
「傷……」
 壁のでかい鏡を見ると体中が傷だらけだった。だが俺には、自分自身から目を背けようという感覚はなかった。むしろこれはあって当然。なければいくら記憶がなかろうと、不自然に感じただろう。
 ……変なことを憶えているな。
 脱衣場の先の風呂場に入る。
 個人宅用の湯船ではなかった。温泉のように広い。三段ある階段をおりて、満たされた湯に浸かった。いい湯加減だ。またうつらうつら。
 勝手して、シャンプー・コンディショナー・ボディーソープを無断使用。さっぱりして、温まってそこを出た。
 ふかふかのバスタオルで体を拭く。首元を拭こうとしたら鎖にやっと気がついた。
 女性の、見えている肌に目をやるのは男の性だ。
 あの女性のものと似ている……一緒か?
 だとしたら、俺とあの女性は……かなり親しい?
 髪を乾かす。そのやり方は自己流ではなく教わったやり方だとは、この時は気づかなかった。
 パジャマを着て脱衣場を出るが、女性はいなかった。……そうだ、いくらこの家が広いとはいえ、風呂場が二つも三つもあるわけではなかろう。女性も風呂に入る筈。順番待ちをさせてしまったか。
 あの女性を捜す。だから知らず知らずのうちに、家の中を探検してしまっていた。ここにもいない、ここにも……これが台所か。荷物置き場? 客間? 客用寝室、でかいスクリーンだ、視聴室のような……居間がいくつある?
 随分お大尽な家だ。そう思って次にノックした先にあの女性はいた。
「上がった?」
 座って、なにかに向かってなにかをしていた。
「済まない、順番待ちをさせてしまった」
「いいの、ゲームしてたから」
 パソコンゲーム、というのをしていたと、女性は言った。だが要するに、正体不明の野郎に風呂場を貸しているから時間潰しをしていた、ということだ。
「済まない」
「謝らなくていいよ、熱中してたの」
 女性曰く、“おんげー”というものは寝食を忘れて没頭するものだという。だったらそれを邪魔したか。益々済まないことをしてしまった。
「もうちょっとっていうか、かなりするから。先に寝てていいよ」
 指示された部屋に、今度は俺一人で行く。そこにはでかいベッドが鎮座していた。かなりでかい、クイーンか? ……ということは客用ではなく、家の主の寝室……
 ここに俺が寝ていいのか。ここはあの女性専用の部屋ではないのか。
 まさか……この部屋まで、俺のか。
 ……俺とあの女性は寝室を共有していた? ……ということは……
 ベッドにもぐると間違いなく、あの女性のにおいがした。こんな所に躊躇いなく、正体不明の野郎を通すあの女性。
 ……いいのだろうか。
 だが指示の場所は間違いなくここだ。訊き返すなど失礼だ。
 意味を深読み、悶々と寝付けなかった。
 と言いたいところだが、何故かコロっと寝た。

 目が覚めると暗かった。まだ夜か。
 いや、体が言っている。今は朝だと。……時間は?
 時計……
 暗い部屋に目を慣らす。枕元の小さなテーブル上の明かりを点ける。時計はなかった。壁には掛け時計もない。
 そういえばと、自分の手首を見る。首元の鎖と腕時計、風呂上がりに体を拭く時、おそらくこれは滅多に外さないものだったろうと、憶えていなくても思った。
 時間は七時だった。起きよう。
 身を起こして明かりを消し、部屋を出た。淡い自然光を感じた。いい朝だ。
 ……いいにおいだ……
 そっちの方向へ足が自然と向く。夕べ探検した台所へ。
「おはよ」
 振り向いて、やさしい笑みを浮かべるあの女性。ああ……
「おはよう」
 そばに寄った。すると女性は、調理中だろう鍋と向き合って、俺に背を見せた。
 だからなんとなく……

 あとはずっとそうした。飯を食って歯を磨き、広い部屋でうつらうつら。コーヒーを飲んでのんびりして。
 少しずつ訊いた。
 あの女性と俺は同い年。誕生日も近い、十日しか違わない。
 ただ無職でぼけっとしているわけじゃない。俺は就職が決まっている、ただ先方の都合で入社は約四ヶ月後。それまでのんびり出来るよと。
 今は秋、もうすぐ十月。
「正体不明の野郎に自宅に居候されて、迷惑だろう。済まない」
「そんなことないよ」
「君は不安じゃないのか。一つ屋根の下で、その……」
 続きを言うにはお互い、あまりに妙齢だ。なのに女性はやさしい笑みを浮かべてくれる。
「君はやさしいな」
 言うと、嬉しそうに、本当に嬉しそうに微笑んでくれた。やさしい笑みにとろけてしまいそうだった。

 なんら強制されない、ゆったりとした時が流れて行く。本来であれば記憶を取り戻さねばと焦るべきなのに、そんな感覚すら喪われて行く。
 やさしい君。
 だから、少しずつ分かって行った。女性は俺を待っている。こうしないと料理しない。俺の考えは全て分かっている。俺の好みも全て分かっている。
 左手の薬指に光る石の色は、俺の時計盤の色と同じ。
 首元の鎖に下がる楕円形のプレート。打刻された俺の名前、誕生日、血液型。
 同じプレート……
 意を決して訊いてみた。調理中の君に。こんなに近いから。
「いいよ。見て?」
 谷間も見えるのだが……
 妙齢の女性が、肌に直に触れているものを、男に手に取れということがどういうことか。分からない歳ではないだろう。
 そっと触れた。こうしているのと同じくらいに。そこには、

 もういい加減気づく。俺も分からない歳じゃない。
 だから、最初からだと気づいて、想っていたことを告げた。今度こそ、正面から。
「好きだよ」
 一番訊きたくて、知りたくてしょうがないことを。
「君は?」
 すると、やさしい笑みは、
「やっと言える」
 最高の笑顔で、今度こそ。