もしも眼鏡が壊れなかったら

「済まないが……」
「なんでしょう」
 オムライスを食べおわった後。
「……その」
「男なら、はっきり言いましょう」
 清子はかちゃかちゃ食器を洗っていた。
「……触れたい、のだが」
「はあ。なんでしょう」
 明日は宝飾店に行かされるが、計らせるだけだ。
「……さやに触れたい。さわりたい」
「どこのセクハラオヤジですか」
 さっさと米を研いで寝よう。
「お陰で、……ぐっすり眠れているのだが」
「あーそーですか。よかったですねえ、同情したかいがあります」
 一日に二回も研がなきゃいけないなんてなあ。
「その……触れれば、……もっとよく……」
 清子は、ジャーのタイマーをぽんと押してセットした。これでよし。
「さっさと眠りましょう」
 くるっと後ろを向くと、すぐそこに山本がいた。
 目の前に、あの逞しい胸筋があった。パジャマなのだから、ぴったりサイズではないのに、筋肉でそこが浮いている。思わず上を見た。熱い視線とぶつかる。
「さわり……たい」
 男が、くく、と身を屈めて来た。余人が見れば、キス一歩手前の行動。
「性急な男は、と言いましたよ」
 冷たく言い放つ。目など合わせてはいられない。プイと横を向いた。
「キス……を、したいのだが」
「帰ります」
「せめて……触れたい」
「宝飾店、なしでいいんですね?」
 拘束されているわけではない。清子はいい加減、さっさと隣を通り過ぎようとした。
 すると手首を強く掴まれた。
「離して下さい!」
「手を繋ぎたい!」
 手首を強く持って行かれ、もう片方の手が清子の手を恋人繋ぎする。
「……やさしい手だ」
 その表情。どれだけ注いでも満足しなかった心が満たされた、そんな感じ。
「さや、……腕時計はしないのか? 贈りたい……」
 男が、恍惚の表情で惚れた女の指で遊んでいる。
「ずっと繋ぎたい……とても離せない……このまま」
「いい加減、私の意思を無視するのは止めましょう」
 冷たく言い放つと、山本の動きが止まった。
「自分さえよければ、それでいいんですか」
 山本から笑顔が消えた。
「私の意思は無視ですか。離して下さいと言いましたよ」
 ゆっくり、ダラリと手が離れる。
「……済まない。帰らないで欲しい。ここにいて……」
 清子は今度こそ、隣を通り過ぎた。寝室へ向かう。
 山本が慌てて後ろから、重い足取りでついて来る。
 寝室への戸の前で一旦止まる清子に、
「……一緒に眠りたい」
「ぐっすり眠れているんじゃないんですか」
「どうか……一緒に」
「じゃあ」
 清子はまた、くるっと後ろを向いた。視線を合わせて上げる。
「一度だけ一緒に眠る。宝飾店へ行く。
 どちらか一つ、選択しましょう」
「宝飾店へは約束だ!」
「だったら言い直しましょう。指輪を填めて差し上げます。一度だけ一緒に眠って上げます。どちらかを」
 驚き、困惑、入り交じった表情。
「選択させて上げてますよ? 眠って下さい、でなければ帰ります」
 清子は今度こそ寝室へ入ってピシャリと戸を閉めた。
 予備灯だけの、暗い部屋で。
 思い直して、また後ろをくるっと向いて、戸を開けた。
 やはり山本は直立不動、一歩も動かず泣いていた。そのさま、まさに五歳児。
 親に、周囲に捨てられた……
「その様子ですと、出社もおぼつかない模様ですので」
 全く。これぞまさしく同情、だ。
「金曜の夜に抱き締めて差し上げますよ。これでいいでしょう、今すぐ空き部屋に行って眠らないと本当に帰りますからね!」
 すると山本はすっ飛んで空き部屋に消えて行った。清子ははー、と息をついた。
 寝室で、眼鏡を外してベッドにもぐると、メール着の音がした。はいはい誰?
 山本忠弘とあった。
“金曜の夜が楽しみだ。一生金曜の夜でいい。好きだよ、さや”
 眼鏡を掛けてすぐに返した。
“まだ眠っていなかったんですね”
 即座に返事が来た。
“もう眠ったとっくに眠ったおはようさや、好きだよ。今日は金曜だな”
 ……気が早いなあ……