morning, noon, and night

 八日目、午前四時。気の抜けたビールを片手に、外を見ていた。
 空が白んで行く。

 今は、においがない。草の花粉のにおいも。森林奥底のにおいもしない。発見を恐れて座れもしなかった土のあたたかさもない。
 雪は嫌いだ。凍えて死ぬから。ダイヤモンド・ダストが煌めく真っ白な雪原など思い出したくもない。いくら男でも、子供にラッセルは無理だ。だからすぐに島を渡った、南へ。
 忘れた涙どころか、吐く息も、体内に流れる血も、睫毛も髪の毛もなにもかも凍る極寒の大地は嫌いだ。
 青く光る満月も、太陽も嫌いだ、発見されるから。
 南下しながらずっと見ていた。眩い天蓋、宇宙を。動く方向で、西を知った。

「ああ、その人、同期みたいですけど」
 その人──呼びたくもない、という意味。
 みたい──認識もしたくない、という意味。
「私、」
 他の誰でもない。俺を、
「大っ嫌いですから」

 あの時、八日目に何故、水を口にしたのか分からない、覚えていない。

 今度の八日目にまぶたは重くなってくれなかった。元より眠り方を忘れていた、熟睡したのは約二十年前の話、覚えてもいない。忘れた。
 何故いま、水分を口にしているのだろう。

 もう一度勉強してみる。大学に入ってみる。そう決意を告げた際言われた別れの言葉を、忘れることが出来ない。
「何故生きていた。何故死ななかった。何故自決しなかった。
 そんなにやりたいことがないのなら」
 あれ以来、かの地へは行っていない。逃げた、雪のない所へ。中間地点へ。

「生理的に受け付けません」
 深夜まで及ぶ残業を頼んだのが悪かったのか。
 そんなに家が汚かったか。
 いや、それよりも前に原因があった。らしい。分からない。
 新人研修以来、まともに話したことがない。たまに社内ですれ違っても「お疲れ様」誰にでも言う言葉、それだけ交わして。それすら悪かったのか?
 初めて俺から話し掛けた「おはよう」確かに犯ってやると想って行った、それが気に入らなかったか。翌週には既に無視された。デスクに向かえば既に姿はなかった。周囲の目は「当然」「なんでまたここに」そういう雰囲気。
 周囲も、俺を嫌っていたと分かっていた。そういう雰囲気。

 なにをしただろう……
 死ねばいいのか。そういう意味だろうか。

 食料など手に入る筈もなく。いつしか食に興味がなくなった。なのに食わなくては生きて行けない。眠り方が分からなくなったあの日から、安眠を放棄した。なのに眠らなければ生きて行けない。
 この絶望的な空腹。いつもの──死ねばいいのか。このまま。

 生きる為に金を稼いだ。手っ取り早かったのは肉体労働、だから必然的に腹が減った。金は手にした、だから食った。必然的に大喰らいになった。汗水垂らして稼いだ、だから必然的にガタイがよくなった。
 こんな俺と友達になってくれた、街の片隅の食堂屋の一人息子。母子で暮らし、店を盛り立てている。よくそこへ食いに行った。
 何杯でも食べる俺に、喜んで出してくれたのも最初だけ。次第に、俺の食いっぷりに疑問を持つようになったらしい。
 あの時、八日目。そこへ行った。一週間で10kg落ちた俺を見て、友達は言った。
「人相が変わっているぞ」
 友達の母親は言った。
「食べて」
 その通り食った。
 店の全メニューを制覇して、こう言われた。
「山本君……ひょっとして。君、……
 味、してない?」
 初めて淹れて貰って飲んだ、初めて甘いと想ったあの時の感覚のことか? そういう意味で。
 愚かにもこう答えた。
「味とはなんだろう」
 その時の、食のプロ二人の表情を、忘れることが出来ない。

 稼いでいた金を、受け取っては貰えなかった。
「きっといつか、食べられるよ。味のするごはん」
 悔悛の表情で。
「そっか……なのにお金、取ってたんだね。ごめんね……」
 そう言わせてしまったあの時に、死ぬべきだった。
 あれ以来、あの店には行っていない。

 作れないものは作れない。毎日胃を満たすため食い物屋とやらを徘徊した。その事自体にも飽きた。

 もうどこにも行きたくない。
 どこにも行けないから。
 味のしないものも。唯一作れるものも。
 もう食べる気がしないから。
 だから、もう一度逢って。
 頼み込んで、縋りついて……こうなったらもう、好きになって貰おうとは想わない。なんでもいい、どうか、
 控えめに出されたあの一杯のお茶。甘いと、味がしたと初めて想ったあの時のように……

 この絶望的な空腹を満たす、食事をしたい。
 眠りたい。熟睡してみたい。
 抱き締めたい。抱きたい。
 そしたらもう、永眠していいから。もう、構わないから。

 だから、どうか。お願いだ……