30

 待てよ、電話の仕方が分からない。
 清子は新しく持たされた、白い機体を持ったまま立ち止まった。そして、そのまま二階へ行けばいいじゃないかと思い立った。別に構わないだろう、秘密会議をしているわけでもあるまい。
 あれからどれくらい時間が経ったかな。
 時計をするのもいいかもしれない。約十年ぶりだ。手首と机が擦れて時計が邪魔だと思っていた。もう事務仕事はしないから、そんな心配も必要ない。どんなものが出て来るだろう。例えば、忠弘にと自分が選んだもののサイズが小さいのが来るとか? 楽しみだ。
 話のさいごに脅されたこともあるし、大きな贅沢には狎れたくないし、いらないから、少しの気持ちが欲しい。こう思うことの方が贅沢かな?
 階段を上がり、二階の個室の引き戸を開けた。
「あら、清子さん。早かったわね。まだ途中?」
 中にいたのは三人だった。奥に椎名、隣にどこかで見た男、手前に忠弘。
「えっと……」
 そういえば、清子がしおりと朝昼まで飲んでいたら、椎名と忠弘も二人でそのくらいの時間、話をしていた?
 まさか。遅くまで時間がかかっていたら椎名は頃合いを見て帰り、忠弘だけが待っていただろう。
 あまり夫を一人にしたくない。渋沢はいい時間に帰してくれた、さすが営業畑。ひょっとしたら十分間なら十分間と決めた時間ぴったりに話し終えられるかもしれない。
「さぁや。俺が心配か? いいんだぞ、気にせずゆっくりして」
 清子の顔色で言いたいことが分かったらしい。さすが夫、営業畑。
「ううん、いいの。おわった」
 ここは素直に、渋沢から貰った少しの気持ちを大事にしよう。清子は忠弘の隣の席に座った。妻が側にいる夫の呼吸が変わったのが分かる。
 正面の椎名が口を開いた。
「しおり、随分感謝していたでしょう?」
「うん」
 それはもう。あんな“ありがとう”、他に聞く機会はない。
 清子はあらためて場を見渡した。居酒屋の個室、テーブルが一つに椅子が四つ。そこに四人が座っている。
「なにか飲む?」
 忠弘と椎名から同時に言われた。なんと営業畑のみなさまの心強いことよ。もう仕事はしないけれど、出来たら総務魂を見せてやりたい。負けないぞ。
「じゃ、モスコミュールで」
 忠弘が個室備え付けの電話で二つ注文する。清子と同じのが飲みたいということだろう。なんて分かりやすい。
「ところでね」
 清子はしょうがなく、正面の見知らぬ、いや、ちょっとだけ見知った男に話を振ることにした。
「この方がいる理由は」
 久方にこちらさん、と言いそうになって止めた。
「しおりのフィアンセよ」
「そう」
 じゃ関係ないな。
 四人は酒が来るのを待った。すると、ほどなくして戸が開き、渋沢が入って来た。そうだ、渋沢は店主役だった。
 忠弘は雲の上の上司を前にすぐ席を立ち、頭を下げてグラスを受け取り、清子の前にそっと置いた。渋沢は音も立てずすぐに個室を出て行った。
 清子は乾杯したくなった。お酒を前に顔を合わせたらまずこれだ。
「いいわよ、新婚さん二人でどうぞ」
 清子の考えを察した椎名が、三人なら楽しいけど、という顔をする。そういえばそうだ。忠弘とグラスを合わせる。美味しく飲もう。
「美味しいお酒を飲んでいるところで言うのもなんだけれど。私の隣に男性がいる理由をお聞かせしようかしら?」
 別にいいや。
「興味が全くないようだから言うわ。しおりのフィアンセなのよ」
 届けられたモスコミュールは慣れた味だった。渋沢は本当の店主に作り方でも訊いたのだろうか。そのくらいはしていそう。
「私はね。しおりだけを迎えに行ったのよ。そしたらついて来ちゃったのよ。仕方ないじゃない」
 忠弘は思う。その実態は秘書が一緒に行くのが当然と連れ歩いて来たのだろう。
「清子さんをずっと待とうと思っていたのよ。明日の朝でも昼でも。だから暇でね、説教していたの」
 清子は思う。渋沢の方が断然いい男じゃないか。今頃アバンチュールしてくれないかな。
「大体、なぜすぐに籍を入れないのよ。しおりはね、男に関しちゃ気が移りやすいのよ。いいと思って付き合っても、駄目と思ったら即興味がなくなるのよ。後釜なんていくらでもいるのよ。なにをしているのよーーーーッ!」
 どこから出したかムチを振るう椎名。打つさまが似合っていれば、それを受ける向かいの男のさまもまた似合っている。どうなっているんだ、ここは居酒屋だぞ、場所が違わないか。
「……とか、しながらあなたを待っていたの。もういいの? もうちょっと打っていたいのだけれど」
 なるほど、それは邪魔をした。
「じゃ帰ろっか忠弘」
 やけに静かな夫に声をかけた。きっと忠弘も同じ心境な筈。
「……一言だけ言いたい」
 やけに暗い声だった。どうした山本、どうした忠弘。いつもの通り明るく喋ってよ。
「なに?」
 早く帰ろう。
「情けない……」
 本当に一言だけだった。

 忠弘が戸を閉めた後もムチの音が鳴り響くなか、新婚夫婦は居酒屋を出てリムジンに向かった。車なんて忠弘のでいいじゃないか。贅沢の方がいいだなんて誰が言った。
 清子は忠弘のチクビ目がけて小指でのの字を書き、
「ねえ忠弘。妻はね、夫の車の助手席に乗りたいの。お願い、か・な・え・て」
「分かった」
 単純な男は嫌いになれない。
「ただし今は、どうしてもリムジンだ」
「そぉ?」
 こう言ったら忠弘の車が来るかと思ったのに(飲酒運転はいけません)。
 そこへすっと現れる、贅沢の象徴のようなでかい車。
「ところでさぁや。さっきの居酒屋個室には、少し前まで渡辺君とやらがいた」
「あれっ?」
 そういえば、忠弘は三人の男を連れて来ると言わなかったっけ?
「俺と男の道について深く議論した末、思うところがあると言って帰った。さぁやによろしく伝えてくれと言っていた」
「そう?」
 男の道……渋沢も、きっとそういう話をしたのだろう。なら邪魔すべきじゃない。でもちょっとは会って話をしたかった。
 忠弘が車のドアを開ける。中には誰かがいた。
「どうしても会って欲しい……兄さんだ」

 事前に、忠弘に会わせると言われていたのに、渋沢と会話をしたらすっかり忘れた。そんな清子の目に飛び込んだのは、七色のバラだった。
「えっ……」
 次に、それを持つ人物が見えた。
「乗って、さぁや。車の中で話そう」
 清子は、なにを言えばいいか分からなかった。あの時から今まで色々あって、自分がどう出ればいいか、対処の仕方を考えるのに少し時間がかかり、つっかかった。
 でも今は、忠弘に中へと促される。間が持たないから、とりあえず奥に座った。
 眉根を寄せることしか反応が出来ない清子。気まずい雰囲気と感じる中を、かの人物はこう言った。
「新婚のところをお邪魔します」
 そして頭を下げた。
 こう出られては無下には出来ない。とにかく、清子もぺこんと会釈した。
「なにかお祝いを、と思って。良ければ、受け取って下さい」
 花の色はそれぞれが原色に近かった。初めて見た清子は、こんなものがあるのかと驚いた。差し出されたものを無下に扱うことは出来ない。他にやりようがなくて受け取った。心地よい重みだった。いいにおい。
「ご結婚、おめでとうございます」
 ここまでされてはなにか言わなくてはならないか。
 迷っていると、
「この間は本当に、いきなり申し訳ありませんでした」
 もう手になにも持たないその人物は、ゆっくり頭を下げた。
 “いえ……”と言ってしまえば、あれが全てなかったことになってしまう。だから呟きたくなるのをぐっと堪えた。そして、相手がまだなにか言いたいことがあるなら、聞きたかった。
「こんなもので誤摩化せるとは思っていません。もしなにか困ったことがあったら言って下さい。出来る限りのことをします」
 車は既に動いていた。あまりにも静かだった。
 沈黙が気になる。この次になにか言うべきは清子、でもなんと言ったらいいか。
 あの時のことは怒っている、ここですぐにはいと言えばまたやりそうだから簡単には許せないけれど、ここまでして貰ってはそんなに意地を張りたくない。
 さてこれをどう言おう。
 ……その通り言おうか。
「じゃあ……」
「はい」
 あの時のことは門外漢な忠弘、口は出さなかった。どちらの加勢もしない。
「綺麗な花束に免じて、と簡単に言ってしまうと、また私か誰かにあんなことをしそうに見えます」
 忠弘の兄となった人物は、下手な相槌を打たなかった。
「ちゃんと謝ってくれましたから、そんなに気を悪くしていません。でも、それだけです。正直を言えば、この花束を持って車を降りたいです。忠弘と話をしたいというのなら私だけでも」
 忠弘から流し目が送られて来た。泣きそうな顔だった。五歳児が悲しんでいる。一緒に帰ろう。
 忠弘の兄は後ろの、助手席方向に向かって車を停めるよう言ったらしかった。
「道中、お気をつけて」
 わりとすぐにドアは開いた。忠弘は兄さん、じゃあ、と言って、花束を清子から受け取り、妻の手を取る。
 清子はふたたび車内の人物にぺこりと会釈をすると、無風の車外に出た。

「いきなりなんだもん。びっくりするじゃない」
 清子は、いくら広いといっても気分がきゅうくつな場所から解放されたので、遠慮なく話し始めた。敬語で話した方が楽と思っていたのはつい最近のことだというのに。
「済まない」
 忠弘は手を握り直して、道路側を家へと歩いた。
「私、感じ悪かった?」
 相手を気持ちよくして帰すのはサラリーマンのモットー。
「兄さんはもっと感じ悪かったんだろう? さぁや」
 おや、その通りだ。だったらそんなに気にすることじゃないか。
「悪かった!!」
 酒を飲んだ後に帰路で大声。サラリーマンの醍醐味だ。
「無理矢理会わせて済まなかった。妻と兄の間で揺れ動いたんだ」
「もう。妻を取ってよ、い・つ・も」
「分かった」
 両手に花の忠弘は、家からそう遠くないから歩いて行こうと提案した。少しでもお酒を飲んで、ほっぺを冷やせて気持ちがよかった。
「今日は、そんなに悪くなかったよ」
 酔っ払ったから、軽口を言ってやった。
「でもねえ、第一印象が悪い男って、女にとってはよくないんだなー、これが」
 握られた手をぶんぶん振る。
「気軽にうん、いいよなんて言ったら、ダメだと思うんだ、あの手の人は。ねえねえそういえば敬語だった。おっかしー、絶対普段使わないよね!
 ……気を遣っちゃって」
 ね、そうでしょう。と、握った先の手に伝える。
 手を繋ぐのは大好きだ。好きな人にリードされて歩くのはとても自信が持てるし、気分が高揚して嬉しくなる。
「うん、多分ああいう言葉遣いをしたのは三十年振りだと思う」
 忠弘は、兄と父が自分達の会社に来た時の様子を知らない。
「さんじゅうねん〜? 具体的だね」
「父さん以外に敬語を使ったことがないらしい。兄さんの会社では有名だそうだ」
 どうやら典型的な二代目という人物のようだ。
「俺だって、兄さんがどう喋るかは気になっていた。多分、父さん相手に話すと思って、と意気込んでいたと思う」
「ふーん。でも、ホンットーーにもういいからね!」
 ある程度のけじめもついたことだし、忠弘のお兄さんに会うのはもう結構。今後はこんなことをしてくれるなと言うと、怒るなと泣かれた。
 まだ続く家でまでの道のり。清子は話題を変えた。酔っ払いの話は往々にして飛び飛びだ。
「ねえねえ、あのフィアンセ君って印象に残らなかったねー」
「そうだな。秘書とはなにもかも逆のタイプに見える」
 結婚は真っ赤な他人の長い長い同居生活だ、さて続くかな。それが忠弘の感想だった模様。
「意外と続いたりして」
「フィアンセ君は、本当にあの秘書に惚れたのかな。聞きそびれた。違うんなら今日にでも別れるんじゃないのか?」
 どう思う? と訊かれた。そういえばしおりの気持ちはあれだけ聞いたけれど、フィアンセ君の言い分は一文字も聞いていない。
「でも、しおりはすっごい好きだって」
「男の気持ちだって大切だろう」
 お互い同性の応援をなんとなくする二人。人の恋路は蜜の味。
「しおりはねえ、自分だけを好きでいてくれる人がいいって」
「熱烈に、だろう? そうは見えない。それどころか、あのフィアンセ君は現状を理解しているのか疑問だ。ただ周りに流されているだけの気がする」
「だってせっかくしおりが“この人!”って思ったんだよ〜」
「恋心は人に言われては湧かないぞ」
 新婚二人は恋についてという青い話題を家に帰るまで交わした。
 どちらもお酒を飲んだから、握った手が熱を持っている。心臓がとくとく。これからなにをされるやら。路上だから押し倒されないとして、抱き締められたりキスされたり、はあると思う。
 女を上手く押し倒す練習ってどこでするのかな男って。いつの間にか気付けば体勢は組み敷かれていて、清子はいつもどうぞ好きにして状態になる。それがいいんだけど。
 忠弘は妻と二人でいられて嬉々満面。もう、その顔に弱いって最初から知っているくせに。
 妻の清子は夫がこの先帰ってからなにをしたいのか、聞かなくても分かってしまった。もう、ここへ来る前も致すだけ致したくせに。
 この人に好かれてよかったと思う。先に気になったのは事実だけれど、好かれなかったらきっと好きにはならなかった。自分に自信なんてない。自分をそんなに好きな方でもない。忠弘にあれだけ迫られたから今こうしていると思う。
 自分に絶対の自信がある秘書。でも、相手に強烈に好かれたいと言っていた。まるでそんな経験が一度もないかのように。
 お互いが好き同士になるって難しい。そして、その気持ちが自然になくなるくらい長く一緒にいるのは、きっともっと難しいだろうと、それでも一緒にいるのはきっと惰性じゃないだろうと、繋いだ手の熱さに思った。

 所変わって、場所は先程の居酒屋。
 さてどうするか。これが今の渋沢の考えだった。目の前には深酒の美女が眠っている。
 彼の立場ならこの女性をフィアンセと名乗りたいというあの情けない男性に引き渡すのが妥当だ。いや、男性を呼んで来て連れ帰るよう言うのが正当だ。それでもしばらく見ていたかった。息をのむほど美女だから。
 すると女性はむくりと起き出した。歩けるならあなたのフィアンセはあそこにいますよと言うのが正解か。
「……ぅぃーっく」
 お目覚めだ。さあ言おう。そして、こんなに近くにいるのは最後となるのだ。
 最近会ったばかりだから、尊敬する上司の部下とは覚えてくれているだろう。だからといって名乗る必要はない。さあ言うのだ、最後の言葉を。
「……帰る」
 どうぞ、一緒に彼と。
「……なにをしているのよ」
 しまった、また見惚れてしまった。言わなくては。
「帰るったら帰るッ!」
 深酒の美女のどこにそんな力があったのか、しおりは渋沢の肩の辺りのスーツを引っ掴み、居酒屋を大股で飛び出した。

 来てしまった。さあどうしよう。
 歴戦の渋沢は途方に暮れた。もう、どうやってここへ来たかなどどうでもよくなった。気のある女性宅へのたどり着き方など、男なら忘れないものなのに。
 しおりの家。空には浮かんでいない。ちゃんと地上の延長上にある。
 浮かんでいたのは、自分の足だった。
 美女は自宅の寝室へ直行、かつ寝た。すぐに。さあどうしよう。
 誘っているということか? 第一の答え、NO。だって熟睡しているじゃないか。飲み過ぎて単に寝たんだよ。
 第二の答え、YES。決まってるじゃないか、無防備になったんだよ。襲えってことだ。
 歴戦の渋沢、どちらも選んだ記憶がある。後悔したのはどっち?

 翌朝、地上の延長上にある豪邸で男女が二人、裸でいた。