29

 楽しく忠弘を丸め込んだ清子は、久々に外の夜景を見た。
 眼鏡を新しくして、景色が変わった。今ではなんの補助も要らず、ありのまま裸眼で見られる、光の帯の流れ。
 あの時も忠弘が隣にいて、散々口説かれた。それは今も変わらない。これからはどうか。
 景色、きれいだね。いっぱい見よう。そう言ったら、うん致そうと即答された。タキシードを着てカクテルを片手に格好よく決める夫とお酒を飲みたいと所望すると、そういうのは演技としては出来るかもしれない、その後致そうと即答された。
 車が信号機以外で停車する。
「着いたぞ。さぁや、行こう」
 降りると久々の、見たことがある景色。なんだかもう懐かしかった。ここで手首を掴まれたのは、そう昔のことではないのに。
「あれ? ね、この車どうするの?」
 まさか路上駐車するわけでは。
「俺達についている警備の者が動かす。帰りは案内役お抱えのリムジンでご帰宅だ」
 なんてこと。やはり人生、変わってしまった。たった一杯のお茶が? 今すぐは答えないと言ったことが? あの会社に入ったことが?
 清子もほぼ時を同じくして、人生なにがあるか分からないと強く感じていた。切っ掛けはひとつだけじゃない、自分と自分だけではない行動の結果こうなった。
 これからもどうなるか分からない。ただその時はもう、ひとりじゃない。
 居酒屋の入り口で、忠弘が止まった。
「どうしたの?」
「さぁやは以前、ここに来た時に飲んだ場所を覚えているな」
「? うん」
 思わず、忠弘と飲んだっけ、と考えた。いや違うな、渡辺と飲んだのだ。いつもの場所。飲んだ後に渡辺の助力で忠弘が来て、その後は飲まず別れて忠弘と逢った。
「そこで、さぁやの友達、本日の主役が待っている。夜が明けるまで飲んで、語り尽くして来て」
「……もう、会っちゃいけないってこと?」
 喋っても駄目だから、尽くして、なんて言うの?
「まさか」
 忠弘は、清子の短くなった髪の毛、襟足のあたりをゆるく撫でた。くすぐったいかそうでないかの境、暗くなった気持ちも持ち上げるように。
「主役と言っただろう? さぁやにただ感謝するだけではなく、言い尽くしたいことがある筈だ。俺が主役の立場ならそうする。これ以降、会わせないということじゃない。
 たくさん話して、これからも。遠慮は要らない」
 夜景に浮かぶ忠弘のスーツ姿。これでイルミネーションを背に、といったらもっと格好良く見える。だって諭すような笑顔がいいんだもの。
 忠弘は清子に前とは違う携帯を渡した。機体はお揃いの色違い。忠弘が黒で清子は白。
「さぁや、勝手して連絡先を移動しておいた」
「うん」
 新しい携帯を持った時はいつも、ワクワクしながら操作に戸惑う。今回もそれは変わらない。同じ機体だ、分からないところは教わろう。
 少々操作すると、実家に連絡するなと言うわりに、全てのデータが前の携帯からそのまま動いていた。話がおわったら忠弘に電話しよう。
 しおりと話すとなると、前回は飲むわ飲むわで翌朝までかかった。さて今回はどうなるか。
 ここで二人は一旦別れた。忠弘は二階へ。清子は一人、一階のカウンターへ向かった。

 客は誰もいなかった。音楽も、人の声もない。
 細い通路を通って、カウンターに座ろうとする前に、しおりがいた。
 その表情、いや態度。
 黒っぽい超高級スーツで立ちふさがる女は、赤ら顔だった。目が色々な意味でイっている。“ひぃーっく”という擬音が聞こえそうだ。なんだてめぇ、文句あんのかよ。そういう態度。両手は腰に仁王立ち。正直、あまりこういう酔っぱらいの相手はしたくない、いくらどんなに美女でも。
 そのしおりが、いつからこんなふうに待っていたのか、清子を視界に捉えると、ゆっくり近付いて来た。その行動はまさに今から喧嘩を売りますよ状態。
「あ、あの……」
 殴られそうな迫力に、さすがの清子でもびびる。これは今すぐ携帯の出番か?
 しおりは、清子の首にがっしりと両腕を回し、抱きついた。
 耳元で熱く囁かれる言葉。
「……がと……」
 呟きだった。すぐ、しおりは眠ってしまった。
 しばし、酔いよりも熱いその体を受け止める。
 すると、
「……う、う、う!」
 全体重をかけられているのだから、受け止め切れなくなった。しおりは天性のナイスバディな美女なのでデブではない。ただし少なくとも30kgはある。それが寄りかかっては、ロクに体も鍛えていないイヴ前の普通の女+今日初めて履いたヒールでは次第に支え切れなくなる。
「あ……っとっと、ちょっと、しおり〜!」
 どれだけ言っても美女は既に泥酔、おそらく朝まで目覚めない。このままでは二人とも床に共倒れだ。
「ど、どうしよ、っきゃー、誰か〜!」
 体を完全ホールドされて、携帯など取り出せない。声はなんとか悲鳴以外が出た。かなり情けなかった。
「ちょっと失礼」
 困っていると助け手が来た、らしい。忠弘ではないけれど、聞き覚えのある男性の声がして、しおりを清子から剥がそうとする。
「お相手がいる女性に触れるなど失礼ながら今は非常事態、見なかったことにして下さい」
 助けてくれた男性は、椎名が補佐と呼んだあの、大会社の営業一課長補佐だった。
 本日の店主役、補佐がしおりを横抱きすると、カウンターに連れて行き、横長のテーブルに突っ伏すようにして眠らせた。居酒屋でよく見かける飲んだくれの図一丁上がり。自分の上着をさりげなく掛けるところも合わせて、見事な手際だった。
「はあ……さて」
 補佐はカウンター向こうに陣取り、清子を手招きした。これは行くべきだ。なにせ清子は未だもって状況が掴めない。
 補佐は、しおりの隣に清子が座るのを見計らってから声を掛けた。
「色々、話すことがありますね」
 太陽みたいに笑う忠弘とはまた違う、歴戦の笑み。深みがあって、こんな顔でヘッドハンティングなんてされたら間違いなく転職するだろう。
「まずは、改めて自己紹介を。渋沢と申します。肩書きはまあ、今日はいいでしょう」
 清子は渋沢と面識はある。とはいっても正直それだけで、あの大会社で形式的なもの以外、ろくに会話もしなかった。だから肩書きを言われないことにはほっとした。ちょっと前まで一間のアパート暮らしの人間に贅沢の波状攻撃はありがた過ぎて、狎れたら駄目だと言い聞かせる回数が多くて困る。出来れば、こうして外に出て気楽に飲む時くらい、そういうのとは無縁でいたい。
 そう思っていると分かってくれているということだろう。好印象が嬉しかった。
「ところで、私の役目が臨時の店主役、とは訊きましたか? ああその前に、なにかお飲物の注文を」
 前に会った時は、社内だったこともあって、威厳あるいい上司そのもの。尊敬すべき迫力ある人だった。今は違う、人なつっこささえ感じられる。
「じゃあ……ジントニック。ビターズを入れて」
「ヘミングウェイですね」
 お互い、ニコリと笑った。
 くいっとグラスを傾ける。
「……美味しい」
 清子はそう言って笑うと、渋沢から余裕の大人の笑みが返って来た。よくこんな渋い男に茶などぶっ掛けるなんて出来たものだ。人を見る目がないにも程がある。
「あの……」
「なんでしょう」
 本来ならば夫の、雲の上の上司。なのに、こうして同じ視線でいてくれる。話しやすい人だ。
「お酒も作れるんですね」
「そりゃあ営業畑約二十年ですから」
 約二十年、地獄に独りだった男。
 二十年、やり遂げた。どんな思いだっただろう。
「なんでもやりましたよ」
 お酒の席の明るい笑顔で、
「買ってやるからこっちの仕事も手伝えと言われて街頭でティッシュ配り、ピンサロの呼び込み、大音量でタバコの煙もうもうのパチンコ屋で掃除、ラブホの受付・掃除、興信所で先輩調査員と所長の間で二重スパイ、闇金の借金取り立てで多重債務の独身女性のアパートに押し入り、ヤクザの末端事務所で組長の肉の楯。一応、体は売りませんでした」
 なにも答えられなかった。
「営業マンなんて哀しいものでして。所詮、使い捨てのコマなんです」
「そんな……」
 そこまでやった人が、これだけの人が、そんなこと。
「業績を上げられなきゃポイです、簡単に。だから我々は一見、サラリーが多い。求人雑誌で、いかにもうさんくさく、営業って職種は月給が多いでしょう? そりゃそうだ、売らなきゃお終い。先が短いから給料だけはちょっと多くしてやるよ。そういう意味です」
 それには気付いていた。そして、事務職の月給が低いのにも。
「なのにどうしても我々営業マンってやつは、外に出て人に会う。どうしても、デスクワークは性に合わない。机に座り続けることが耐えられない。なんでもやったと言いましたが、正直事務系と出産系はやらないというか出来ません」
 清子は思わずぷっと吹き出した。系、なんて。
「さて、新婚さんに愚痴はこの辺にして。ちょっと質問を。
 こちらの方とのお話し合いは、ひょっとしてさっきので全部でしょうか?」
 最初に訊かれて当然の質問だ。とはいえ、清子もまさかああいう再会をするとは思わなかった。
 あんなにいっぱいお酒を飲んで。この間自分よりも飲んでいたのに。酔っぱらう? お酒の力を借りたのだろうか。それだけ伝えたかったのだろうか。
 切れ端の言葉、確かに届いた。
「……そうらしいです」
 だから言わない、誰にも。あったかい体、抱きしめてくれた力、大切な思い。
 清子がこれしか言わなかったことを分かってくれたのだろう、渋沢から話してくれた。
「私は椎名課長……すみませんあの方を肩書き抜きでお呼びするわけには行かないので仕事モードで申しますと。
 課長から、本日はこちらの主役とあなたが一晩中語り合うから男は黙って酒でも出せ、と言われてこの通り、店主役を頼まれたのですよ。
 それが一瞬で語り終えるとは。さすが藤崎嬢ですな」
「渋沢さんはしおりのこと、その……知っているんですか?」
 同じ会社勤めとはいえ大会社。下に降りたことがないと豪語していたしおり。あまり接点がないように思えた。
「その質問に答える前に。少年……いや、椎名課長と私と会長の間ではあなたの夫をそう呼んでいましてね、とにかく」
 酸いも甘いも知り尽くした椎名と渋沢にしてみれば、若い忠弘は文字通り少年なのだろう。椎名がそう呼んでいた時も、全く違和感を感じなかった。
「少年からは、なんと言われてこちらへ? 話はさっさと切り上げろ、とか?」
 清子は首を振った。
「いいえ、一晩中、夜が明けるまで飲んで、語り尽くして来て、って」
「ということは。時間はあるということですね。では、私と少々語りませんか」
「え?」
 確かに時間はある。清子はここに来るまで、ひょっとしたら翌朝どころか翌昼までかかると思っていた。忠弘にしても、それもありと思っていた口ぶりだった。
「椎名課長とあなたは、おそらく仕事の話はあまりしていませんね? 課長は仕事に対してはそれはシビアで、だから仕事の話は人とは滅多にしないんです。少年はこれから我々の職場に入る。つまり、我が社の営業一課のことをあなたに語れるのは私だけ。
 どうです、聞いてみたいとは思いませんか?」
 その通り、だけど。
「少年に対する遠慮なら要りませんよ。今日の主役と語って来た、で済ませましょうよ。私もいいトシでしてね、だから分かる。夫婦といえど一人になりたい時もあると。
 あなたはその時が全くない。そうですね」
 見抜かれている。さすがだなと思った。
「いいですよ、私が勝手に喋ります。あなたはあくまで主役と語り合った。ということで。
 まず私が、何故少年をヘッドハンティングしたか、しようと思ったか。それを述べましょう。どうせ椎名課長はその辺、言ってはいない筈だ。少年が知る由もない。言いますよ。
 一課のあるフロアにあなた方二人が入って来た時、少年は、あなたを護り、我々野郎共を睨みながら私の元へ一直線に来た。それがよかった」
 渋沢はモヒートを作った。キューバのカクテル、ミントの葉を潰して。
「少年はあなたに惚れ抜いていた。野郎共も全員分かりましたよ、見るからに愛情多過。これはいい。そう思いました。なにせ我々一課の者は、相手がいない者は置いといて、いる者は全員、相手しか眼中にありませんので。同類だ。成る程だから課長がわざわざ我々にあなた方を見せつけに来たのか、と。私と話をさせるだけなら、私を課長室に呼べばいい。なにも課長自ら下階に足を運ばなくてもいいのだから」
 さっぱりとしていて、美味しいカクテルだった。
「あなた自身も素晴らしかった。我々の威力営業妨害恫喝挨拶など目もくれず、ただ少年だけを信じていた。あなたの「普通の仕事」は聞いたし、この目で見た。いち仕事人として惚れました。是非我々の会社に来て戴きたい。課長がお誘いした時、少年と一緒の会社ならいいとのこと。ならばどうです?」
「お断りします。忠弘が、山本家を守れって言うので」
「と即答されると思いました。それでも誘わずにいられなかった」
 もし三ヶ月前にこれを言われたら、きっと別な即答をした。
 渋沢は自分用に適当な酒を作って飲んでいた。飲み方が洗練されていた。
「私も課長も仕事の内容はヘッドハンティングなんですよ。
 課長は自分の業績を誇ったりしない方だ。それどころか、なんら興味はない。それまで三年も空席だった営業一課長に華々しく就任する切っ掛けとなった世界中の人脈。あれを、就任一日目にして、我々部下全員に、等分に分け与えた。あれだけ煌びやかな七百名からの顧客を、全て我々に譲ったのです。
 買ってくれる顧客を得ること。それが我々の仕事の全て。これを得る為に我々は汗水垂らし、誰にでも頭を下げ、靴をいくらでも履き潰す。なのにいきなりです。望外? 嬉しい? いいえ。どれだけの重圧だったか分かりますか。椎名課長だから、あの方に惚れ込んだからこそあの顧客達は買ってくれた。なのにその下、部下ごときをなぜ自分達が相手をしなければならない? 顧客からの当然の反応に、我々は応えなければならなかった。今までなにをしていたのか。仕事が出来る? 特進? さすが一課? 冗談じゃない。これが仕事だ、本当の。
 あの後しばらく、我々情けない野郎共は、重圧で胃に穴を開けながら仕事しましたよ。酒と、惚れた相手だけが友だった。
 就任二日目、椎名課長はフラリと本社を出ました。立場上、警備を付けなければならない。警備しにくいからと禁止されている、不特定多数が集まる所、この場合は満員電車に乗り、区外に出て、電車を乗り継ぎ廃止寸前の路線バスに乗り、行った先は田舎も田舎。築一世紀かと思うようなボロ屋。そこに住む偏屈な、老いた技術者に頭を下げに行った。
“どうかその技術を、誰かに遺して欲しい”
 こういう名もなき技術者は昔から、徹底的に搾取された。物を作れはするがそれを売れない、アピール出来ない。たったそれだけで、それが出来る我々のような愚かな者共に目をつけられた。売ってやる、金をくれてやるから黙って作れ。そう言われ、対価とは到底言えない安い賃金で働かされ続けて数十年。
 誇り高き技術者は、ただ搾り取られるなどしなかった。たった一つの、唯一の復讐をするため黙って耐え、ひたすら作り続けた。作品を、結晶を。
 その間搾取する側は、次の搾取する側にイロを付けて売った。その者もその次の者へ。そうして、下請け、孫請け、その下が出来上がる。最終的な売値を技術者が聞いたら、天井知らずと言うでしょう。
 技術者が歳を取ると、やっと復讐の場面が巡って来る。方法、ただ死ぬこと。技術を誰にも教えず黙って抱えて墓の下へ持って行くこと。これに、我々はなんの抵抗も出来ない。覆すことも出来ない。営業マンの武器、それは売れる商品。それを作ってくれる人がいなければ我々など存在意義もない。生かされていたのだ、と自覚出来た時はもう既に、その人しか体得していない、小さくても、大いなる高度な技術は永遠に喪われた後だった。
 こんなことだらけでは、この国は滅びますよ。
 椎名課長は営業マンだからこそ、誰よりそれを危惧していた。だから頭を地べたに擦り付け、頼み込んだ。どうか、どうかその技術、若者に遺して欲しいと。
 技術者は断った。唯一の復讐の為、今まで生きて来たのだから。どうせあんたも搾取するだけの人間だろう、出て行け。この技を得る為の苦行を、今時の若い者が耐えられる筈がない。
 だが椎名課長はその広い人脈で探し当てた、これはと思う若者を技術者の目の前に突き出し、この人に教えてくれと懇願した。若者はなんでもした。別にピンサロの呼び込みとは言いませんがなんでも。掘建て小屋を少しはまともにする所から。偏屈な食生活を直すところ、食材を収集するところから。口に合う食事を作るまで、不味いと一口で捨てられても。その間、ずっと椎名課長も付き合ったんです、泥だらけでね。
 本物の誠意というものは通じる、一年以上経ってやっと。そうして、椎名課長は次々と、喪われる寸前の、世界に誇れる技術を残して行った。椎名課長なら自分を救ってくれる、この技術を誰かに残せる。偏屈揃いな技術者は同立場の者達に声をかけ、評判は評判を呼んだ。
 今では多くの爺様、婆様が安心して、それぞれの終生の住処に、愛弟子と共に、身分と対価を保証され、我が社に帰属しています。
 椎名課長が営業一課長となってからの、営業マンとしての直接の業績、売り上げは0です。全く無し。
 だから我々は頭を下げる。膝を折る。
 どうです。こんな話、あの方はしないでしょう」
「……はい」
 全く。一言も。
「会社とは人で成り立っている。だから椎名課長は次に、別なヘッドハンティングに乗り出した。確かに技術者は根本、なくてはならない、大切です。だからこそそれを扱う、売る、サポートする者も必要。そういう者を探して行った。
 我が社には毎年多くの入社希望者がいます。彼らが来るの待つだけではなく探しに行ったのです。買ってもらう顧客に向かうべき営業マンが、売っている業者へ回るという矛盾を糊塗する場合の為にのみ、肩書き名誉欲に興味ない課長が、現場一の華という名目をわざと振りかざしながら。
 有名大学や上場会社へは、本職の人事部が動いています。だから椎名課長は中小企業、零細企業、個人業者を回って行った。あなた方の元の会社へ行ったのも、そういうことです。
 少々茶をぶっかけられた結果、野郎共憧れの藤崎嬢はお相手を見つけ、尊敬する椎名課長は一本取られ、久々に会長のご尊顔を拝謁し、昭和の大人物は枯れた涙を流し、面白そうな少年を拾い。
 こうして、愚痴を零せる人妻に会えた。全く、大収穫ですな」
 なんと反応したらいいのやら。
 渋沢は、語った言葉を清子が飲み込む為の時間をきちんと作った。職種経験が総務だけの清子でも、期末を前にノルマに追われる営業職の者達を横目で見て来た。全員目の色顔の色が違った、客の為ではなく数字の為だけに。
 その営業成績がゼロとは、椎名らしくて涙が出る。
「さて、一課のことも少々話しますか」
 そのことについては知りたかった。聞きたかったのに、まさかあんな単語が出てくるとは。
「えー……ぴんさろっていうのは」
 新婚早々そんな所へ行ったらどうなるか。分かっているでしょうね。
 清子の疑惑の目に対し渋沢は、まるで子供のように笑った。
「さあ? 少年もするかも知れませんよ? なにせ我々は営業マンだ。なんでもしなきゃなにも売れない。相手の気持ちを分かって、その立場になってようやっと、分かるものもあるからで……おっと、そう睨まないで戴きたい。オッホン。……言い過ぎたな。
 えー。まず、一課というのは性質上、新人があまり入って来ない。四月一日にピカピカの二十二歳は来ない。全員中途で来ます。
 なんだかんだと大層な言われようの我々の実態はストレスの固まり。酒と惚れた相手がいなきゃやっていられない。要するに、新人歓迎会をします。三日三晩飲み、飲ませ尽くしますよ。これが楽しみで仕事をしているようなもんです。かくいう私も配属初日、当時総勢六十人から酒を注がれて飲むしかなかった。あっという間に潰されました。その情けない姿は全員が知っています。この通過儀礼は全員浴びて戴く。あの椎名課長だって潰されたんです。もとい、潰しました我々が」
 なんだか楽しそうな話になって来た。
「少年の再就職時期が四ヶ月後なのは、一応世界中を飛び回っている我々が、ほぼ全員揃って三日三晩休める日はその時しかないからです。滅多にない機会なので全員仕事そっちのけでスケジュール調整をします。偉そうな物言いですけれども本当に、相手があってナンボでして。これでも必死で予定を合わせた結果なんですよ、信じて下さいよ」
 清子は仕事で人と会う予定を立てるのが苦手だった。自分の業務は毎月やることが決まっていて、特に人と会うことはなかった。だからたまに予定が入ると余分に緊張した。
 なのに、こんなに、人と会う予定を立てている人の話を面白いと思えている。
「酒飲みで最悪なのは、学校の教師・警察官・医者、と一般には言われているようですね。
 本当は違う、我々こそが最悪です。なにせどこの飲み屋もこんな迷惑集団を決して受け付けない。仕方ないから自社で飲み屋を経営してるってんですから。歓迎会は二年振りです。情けない新入りなど早々に潰してザマァミロ、まだまだだと大笑い。その後、久々に勢揃いした同僚とグデングデンに酔っ払って大いに語る。大の愚痴大会です、壮観ですよ? いや、楽しみだ。どうです、ノゾキに来ませんか?」
 清子は多いに笑った。そして、つられて「うん行くよ」と言ってしまいそうになった。これがホントの営業トーク、総務一直線などすぐ引っ掛かる。
「愛情多過な少年が来社した時、我々野郎共は全員「やった酒が飲める!」と思いましてねえ。少年の説得なんか実はさっぱり聞いていなかった。頭の中ではこいつを飲ませ潰す、それしか考えていなくて」
 清子はカウンターを手でぶっ叩いて笑った。今度はこっちが笑わされる番だった。
「我々もそろそろ息抜きが必要だった。さすが椎名課長、お目が高い。益々尊敬しましたよ。これは是非、私めを少年の案内役に、と思ったら会長に役目を奪われ。歓迎会にも顔を出す、なんて仰ったんですよ? 極上の男前なのに、お茶目な友達に影響されて、伴侶も得たし、最近は少々は丸くなったと、不遜ながら思っているのですよ」
「えっと、えっと……」
 清子は笑いを抑えられず言った。
「その……人って、どういう人ですか?」
「おや。会長にご興味がおありで。お止しなさい、火傷じゃ済まない。少年が聞いたら怒り心頭ですよ」
「えっと……そういう意味じゃなくて……なんだかホントに、凄そうな人なのにお茶目っぽそうっていうか……」
「そうな、ではなく凄い人です。本物の極上です。しかしこれ以上は言いませんよ。言えばどんな女性でも興味を持つ、惹かれる」
「有り得ません。私、忠弘しか見えない。忠弘でしか濡れない、感じない」
「おおっと。即答の上きわどい話で返されたか。さすが新妻、私も一本取られたな」
 しおりはすやすや眠ったままだった。
「こんなしょうもない、飲んだくれの我々でもね。野望があるんですよ。それがなにか、聞いて貰えますか?」
 渋沢とまともに話したのは今日が初めての清子、そういう言葉をホイホイ使うような男には見えなかった。
「椎名課長に、我が社の頂点、代表取締役社長に就任して戴くことです」
 見据えた目の、男の本気。
「我が社の社長は代々、総合事業部門という社長直属で、子会社支社支店グループ企業あらゆる全ての部門を管轄する、強制調査権限を持つ俗称・査察部出身者です。本来取締役が行うべき内部統括を全て任されている部門です。強権過ぎるので、敢えて誰にも肩書きはない。
 経営者となるには全部門を熟知していなければならない。だから歴代の社長は皆この部門出身者だった。会長もそうでした。
 翻って、椎名課長はこの会社では一年未満庶務一課主任の経験はあるものの根本的には営業畑の人間です。ですが、それでも。
 それでも我々営業マンの野望は、この道の者が頂点を極めること。なにせ我々はなんでもやる。泥水を飲めと言われれば飲みました。靴を舐めろと言われれば地を這いつくばって新品同様になるまで舐め上げた。現場一の華形とは、どんな部署より汚い人間の裏の裏を知り尽くしているという意味です。
 だからこそ、我々の代表に、我々の会社の代表になって戴きたい。
 プライドという言葉を翻訳すると、誇りだそうです。私はこの二つの言葉は別物と思っています。プライドなど、腐った男が持つしょうもないもの。誇りとは、文字通り誰にも誇れる、誰にも譲れないもの。
 我々一課の人間にプライドはありません。そんなものを振りかざしていては泥など飲めない。ただし誇りはあります。誰よりも。
 その我々が頭を下げ、膝を折る、誰より愛した女に、我が社の全てを背負って戴きたい。これが我々の総意です。応援してくれますね」
「はい」
「何故、現場一の華形と呼ばれる肩書きがたかが課長かも申しましょう。今言った、総合事業部門所属の人間と同じように、強権過ぎるから、敢えて呼称を抑えているのです。本社営業一課長とただ言われただけでは、本社は勿論子会社支社支店グループ企業にそれぞれ必ずある、営業に関する全ての部門の頂点に立つ存在とは、外部には分からないでしょう?」
「はい」
「本来であれば取締役営業本部長、とでもしなければならない。こんな肩書きの上は常務・専務に正副社長、後は会長のみ。なのにわざと、たかだかいち課長としている。
 他の部門の部長は単にそのビル内の部長に過ぎないんです。他の支社にも部長はいて、本社の部長といえどそれらと対等です。そうじゃないのは営業部門だけ。そこまで強権なんですよ、本社の営業一課長とは。だから、椎名課長が就任するまで三年間空席だった。私ごときが肩書きを一つ上げればいい、そんな席では有り得ないのです。
 この会社がまがりなりにも大会社と呼ばれ、一世紀の社史を有せているのも、そういう配慮があるからです。だから、我々もこちらの方も営業一課長と呼んでいる。
 さて、話合わせをしなくてはなりませんな」
「え?」
 誰と?
 望外なほどの話を聞いたのに。内緒にしろということだろうか。
「ここまで時間を取った以上、藤崎嬢と話し合った、ということになる。では、どんな内容を。という話が出て当然。まさか他所の男と談笑した、とは言えますまい。
 ……とは言っても……」
 なにやら言いづらいようだ。渋沢のような男でもそういうことがあるのか。
「実はその……この方はさっきまで、酒と共に……こう言っていいのか、愚痴を散々零してあなたに会ったのですよ。だから、聞く気はなくても聞いてしまいまして」
 そうか、しおりが冷蔵庫からいちいち酒を自分で出すわけがない。その役目と言い付かった渋沢がその通りやっていたのだ。ここまで酔っぱらうからには無言で飲んではいなかっただろう。
「言うしかありません。お願いですから、聞いたままを言うんですから、私の意思で、などと思わないで下さいよ」
 言いづらいのは分かった。一体なにを聞かされたのやら。
「いやその……要するに。お相手とのことですが。
 散々跨いだ……言いたくないな……」
 跨いだってなんだ。言いづらい“跨ぐ?”
 ……まさか。
「気弱なお相手さんは、これだけ声高に主張したそうですよ」
「? ……なん、でしょう」
 そういえば、散々男を跨いで、とか言った人がいたな。
「ぼくとしおりさんの力関係はここまで明白。よって、お願いですからぼくをムコ養子にして下さい。
 ……それでも男か、情けない……」
 気弱そうなのは一瞬見れば分かる。そいつのことはどうでもいいので、清子はさらっと聞き流した。
「せめてもう一声くらい言えと思っていたら、フィアンセという呼称に憧れているので、この期間を経過してからぼくの名字を変えてください、などと言ったそうです。
 よって藤崎嬢はまだ藤崎嬢。そういう理由でこう呼んでいる次第で」
 渋沢がこんなに苦々しそうに言うなんて、滅多にないことだろうなあと清子は思った。
「他もまあ、口にするのも恥ずかしい愚痴オンパレードで……」
 清子は目をキラリと輝かせ、悪ノリした。
「どう言ったんですか? 鮮明に教えて下さい」
「くっ……さすが新妻、ツッコミが鋭い……負けました。仕方ない、その通り言いますから軽蔑しないで下さいよ」
 やはりな、色事の愚痴を言われたか。ここでやり返してやろう、相手は違うけれど。
 清子の腹積もりを易々読めた渋沢は諦めた。元より、あんな言葉の数々を聞いたからには自分だけ知るわけにはいかないだろうと思っていた。渋々愚痴った。
「えー。
 ……あのフニャチン短小男、奥まで届かない、精子が少ないどころじゃない、いつも先にイく、早漏が過ぎる、キスも愛撫も最悪のドヘタクソ、性技からきし、性欲存在せず、跨いでやっと一回ぽっきり、……もういいでしょう。いいオジサンなんですよ私は……恥ずかしい……」
 ガハハハハと腹を抱えて笑った。清子はあの時のしおりと椎名の心境がやっと分かった。こうなりゃ床で転がってやろうか。
「思わず、そんな男のどこがいいと、この件に関しては完全部外者の私がツッコミましたよ。そしたら横っ面をブン殴られ、しかも往復。悪口を言うなどたとえ椎名課長でも許さない、と怒鳴られました。……私は課長じゃないんです……」
 清子はひたすら大笑いした。笑い返しとはこのことだ。
「話を逸らしたいので」
 そう? まだまだいいですよガハハ。
「当初質問された、藤崎嬢のことを話しましょう。どうせこれも聞いてはいない筈だ」
 椎名でああなら、しおりにもやはりなにかあるらしい。
「こう見えて藤崎譲は二十三歳。実はあなた方と同い年です。そうは見えないでしょう、風格があるから」
 清子は思わず頷いた。まだ笑いが収まらない。
「そんな藤崎譲が何故営業一課長秘書を名乗らないかというと、我々むさい野郎共なんぞに囲まれ酒で潰されたなどという、屈辱的な過去を負いたくないから、ということもあるでしょう。当人にそうと訊いたわけではありませんが」
 なるほど。確かにしおりのようなプライドの持ち主ならそれもあり得る。
「自称大会社様の秘書課とは、特殊も特殊です。入社試験は一般社員とは全く、大いに違う。ノリは女子アナですよ。顔どころか全身写真スリーサイズ、水着姿が履歴書代わり。超一流大学卒以外入れたことがないそうです。選民主義も甚だしい。
 しかしそういった庶民的な考えでは大会社は運営出来ない。体面の固まり、それが秘書課。最上階は社長室、その一つ下には副社長・専務室、その下に常務室と秘書課。我々ぺーぺーは近付けもしない。
 容姿端麗学歴家柄優秀は最低条件。ここからが本番で、内内定も出さないうちから徹底的に鍛える。茶、花、料理、語学、上司の身の回りの世話、メールや電話の応対、来客の接遇、スケジュール管理、書類・原稿作成などの教養を仕込まれる。エステは毎日です。昔の花魁となにも変わらない。
 候補者希望者は山といても、次々振り落とされる。一つでも苦手科目があったらポイです。体重が0.1gでも増えたらポイ。皺が出来るなど論外。どこの部門より厳しい審査を経て、やっと入社です。性質上、秘書課の女性新人は多くて年三人です」
 清子も就職活動時代、大会社を視野に入れた時があった。まさかこんな試験が世間にあるとは思わなかった。なんと価値観の違うことよ。
「藤崎嬢は歴代の美女達の、更に上を行った。三十年に一人の逸材と言われ、入社と同時に係長就任。それまでずっとNo.1を張っていた当時の係長は恐れをなして即退社。我々むさい男共とは、本来会話も許されない人物です。
 こんな美女を傍らに侍らせること。それが大会社のトップ、取締役のステイタスだそうです。ヒガミで申しますよ腹立たしい。そこまでして入社させても、秘書課の美女群の仕事といったら本当に、取締役以上のヒヒジジイの傍らでセクハラまがいのことをされるだけなんですよ。お茶もなにも誰にも淹れない。誰のスケジュール管理もしない、身の回りの世話もしない。電話に出るわけでもない。決まった出社・帰宅時間もありません。完全フリー。一般的な秘書の役割は、秘書課に配属された野郎共がします。華はあくまで華。萎れないよう、それだけ留意しろ、と。
 秘書課の野郎共と美女群では、給料が一桁違います。その代わり、美女群には定年がある。ピタリ二十五歳、誕生日が来たらハイさようなら。その前に上流階級の、どこぞのお坊ちゃまを捕まえなくてはならない。
 私に言わせれば、たとえ自分がどんなに美女でも秘書課には入りませんね。そう思いませんか」
「思い、ます」
「秘書課の実態はともかく、お相手は情けない男ということ、藤崎嬢はまだ藤崎嬢であるということは藤崎譲から聞いた、ということにして下さい。
 さて。他に、なにか質問等は?」
 聞くだけ聞けたのに。一課とはどんな所だろうという質問が強くなっただけのような気がした。
「忠弘は……一課で、やって行けるでしょうか……」
「そこはそれ。男ですから」
 渋沢はにっこり笑った。
「出来なきゃ追い出します。それだけです。言ったでしょう、我々営業マンは捨てゴマなんですよ」
「……そんな」
 そうだ、捨てられる側なんだ。どうしよう、贅沢に押されて、狎れて、知らないフリが出来たらいいのにと思い込んでしまっていた。
「もっとも、男は全員見栄っ張り。しかも新婚。会社を業績不振で首になったとは言えますまい。死に物狂いで頑張るしかないのですよ。聞けば地獄の底に居続けた男。その暗闇、その孤独に比べれば。我々でさえ、そんな壮絶な人生ではなかったし、不完全でも牙などない」
「私は……どうすれば……」
「少年をひたすら愛して下さい。たとえどこまで堕ちて行っても。奈落の底までも一緒に行って、抱き締めて上げて下さい。もし一課をクビになって、後ろ盾の会長や、昭和の大人物の顔に泥を塗り、現在の居にいられなくなり、無一文で追い出され、狭い国にさえいられなくなっても。
 自信、ありますね?」
「はい」
「よろしい。さあ、電話して。お行きなさい。私と会話することは、もうほとんどない。これからは、雲の上の上司です」
「はい」
 清子は立ち上がり、きっぱりと頭を下げた。
「ありがとうございました!!」