28

 清子はパソコンの画面で、まずは言われた通り音楽を聴いてみる。音が頭の後ろ、首の後ろまで響いて来るかのようで、今まで聞いて来た音とは種類が段違いだった。このCDってこんな音がするんだ、と感心した。
 しばし音源を堪能して、それからソリティアを起動した。飽き過ぎてもうやっていない、時間潰しの定番ツール。マウスでぱこぱこ、適当に遊びながら横目でチラチラ忠弘を見た。
 その様子、さっきと変わらない。ただ流れる速さの違う複数のウィンドウを見ているだけ。あの画面を読みながら、頭の中では一体どうしようと考えているのだろう。
 お昼ご飯の後、歯を磨いてお昼寝した。このベッドは本当にころっと眠れる。贅沢には慣れたくないなあと思いつつ。
 目が覚めると数時間経っていた。昼寝は短時間でも充分気持ちがいい。状態も軽くなっていて、時間を気にせず眠れた。
 忠弘の新婚的欲求はさぞ溜まっているだろう。出来ればいきなりではなく、少しずつ解消して上げたい。
 トイレの後シャワーを軽く浴びて、さっぱりした清子。そういえば、しばらくコーヒーを飲んでいないことを思い出す。音楽を堪能したら喫茶店に入った気分になった。淹れて上げたい。
 着替えてバスルームを出ると、忠弘がいた。ひょいとお姫様抱っこが板について、ますます好きになる。
「さぁや。気分はどうだ」
「うん、大丈夫。お勉強っていうか、お仕事した?」
「した」
「よかった。じゃ、台所に連れてって」
「うん」
 キッチンで、ぴったりくっつく忠弘を背に。
「コーヒーどう? 淹れて上げる」
 ずーっとね。
「……挿れたい……」
 ぽそりとした小さなつぶやき。聞けと言わんばかりに耳元で熱く囁かれる。
 相当溜まってるなあ……

 二人は午後三時過ぎのコーヒーの後、六時頃まで書斎にいた。
 夕ご飯はチャーハン。食事作りについて清子には余裕がないので、自分って芸がないなあ、と嘆くより前に、とにかく一食一食を前と違うものにしようとそれだけだった。だから、髪にはちゅっちゅとくちびるに舌、ディ・ジオの香り、厚い胸板を感じさせる夫に、まだ早いわよ! と言う余力もなくされ放題。
 大量のチャーハンはかなりのアクションが必要だ。誰だろう、米粒がパラパラになるまで炒めようなんて考え付いた人は。
「なるほど。チャーハンとはそういうふうに作るのか」
 この男に限って、他の女に作って貰った、だから知っている、ということがないのはいいとして。
「小さな中華屋さんとかに行って、カウンターに座って見たことない?」
「ああ……そういえば」
 清子が住んでいたアパートの近所に、小さな中華屋さんがあった。気に入っていて、全メニューを制覇したものだ。一緒に行きたいとは思うものの、結果はあのピザと同じだろう。
 そうよ、あのメニューを私が作ればいいのよ……何十年か後にね。
 清子はそう思うことにした。骨からスープなんて、一番の超高等技としか思えない。
「ね、観葉植物なんて、あってもいいと思うな。どう?」
 清子が就職活動中、連戦連敗を続けていた頃、従業員十人未満の小さな会社へも何度も訪問した。その先のひとつに、これでもかと観葉植物を置いていたところがあった。不採用だったけれど、あの会社の床の色がここと同じで、それによく映える緑が印象が強く、覚えていた。それを今、なんとなく思い出した。
「なるほど。いいな」
「じゃ、お願い」
 チャーハン完成。テーブルを拭かせて、食事を持って行かせる。清子はれんげ二つだけ持って行く。
『いただきます』
 後は忠弘がガツガツ、清子は一口一口ゆっくり食べる。
「さぁや。それの倍食え」
「それはちょっと……」
「ちょっとじゃない。俺のをやる。食え」
「でも……」
 忠弘は自分の分からごっそり清子の皿に移す。うわー、こんなに食べられないよう。
 という気持ちは顔に出る。
「さぁや」
 言うことを聞けということ。清子はしぶしぶ了解した。ああ上手くなりたい。
 目の前のてんこもりチャーハン以外を考えたくて、清子は話題を振ってみた。
「ね、忠弘。就職活動してた時、結局何社回ったの?」
「一社」
 あっさり言われた。
「……いっしゃ? ひとつ、だけってこと?」
「そうだ」
 なんともはや。
「あの会社に行ったら手応えがあったので、一社だけにして後はバイトに明け暮れた」
 しまった。清子は強く後悔した。そうだ、忠弘は金を稼ぐことを誰より……
「……どうしたさぁや……」
 忠弘が、少し首をかしげて、眉毛をハの字にして尋ねて来る。そのさま、母親に冷たく当たられて当惑している五歳児のそれ。
「あっ……と、えっとえっと、その、私は何社も受けたの。今の会社も」
 言う言わないじゃなくて、話の先を変えようと思った。
「全然手応えなんかなかった。よく受かったなって」
「俺も、あの会社以外だったらそう感じたと思う」
「……え? でも」
 忠弘ならどこでも手応えを感じ取れそうなのに。
「そういう感触は偶然だ。本当だぞ。なあさぁや、怒るな……」
 怒ってはいない。でも隔たりを感じてしまって、つい気持ちで突き放した。それを忠弘も感じ取ったのだろう、夫婦だもの、分かる。
「怒ってはいないの、あの」
 そう、怒っているわけじゃない、ただ。
「……うらやましいなって……私はいっぱい落ちたから」
 つい、目線を下に向ける。
 二十歳を過ぎたばかりの小娘の向こう見ずは、世間に一切通用しなかった。ただ落ちるに明け暮れた大学時代。
「うらやましいと口に出して言うことは、いいことだ」
 チャーハンの山を平らげるのを再開させる忠弘。美味しい美味しいと言いながら。
「俺の友達には全員、親がいてうらやましいといつも言っている。友達からはさぁやに恋出来てうらやましいとよく言われた」
 そうかな。清子は半信半疑になって、チャーハンの山に向かい直した。
「さぁや。うらやましい、はいいことだ。遠慮せず言おうな。言ってくれて嬉しかった。ありがとう」
 清子は、取り繕ってどうする、と思った。目の前の、真っ裸主義の男に。
 言っちゃっても、嫌われないだろう。嫌われようとして言いまくっても迫られまくった。
 甘えたって、いいんじゃない?
 そういう意味では婚前、山ほど甘えまくった。それでもいいと求められたじゃないか。
 あんまりな姿を見せるのは、清子にだって女のプライドがあるのでそれは許さないけれど……
 真っ裸主義に対抗、しましょうか。

 おなかいっぱい食べて、ごちそうさま。忠弘が空いた食器をキッチンへ持って行って片づけた。いい食器だなあと思う。値段なんてこの際気にしない。なぜならきっと、割っても怒られない。考えようで余裕も出る。一々ビビってられますか。
 二人で歯を磨いて、再び書斎へ。忠弘は、惚れた女が自分の用意した音響を聴いていることに満足しながら、今度は語学の勉強を。電子辞書をオートスクロール。忠弘もヘッドホンを装着、発音を聴く。
 夜十時になった途端、忠弘は手を止めて立ち上がり、清子のヘッドホンをすぽんと抜いた。
「え? あ?」
 気持ちよく聴いていた音がなくなったので、周囲をきょろきょろと見渡して、さいごにその原因である夫を見上げる。
「さぁや。時間だ」
「もう?」
 座ったままの清子を忠弘がひょいとお姫様抱っこ、二人で書斎を出る。バスルームへ。
 忠弘はこの一週間、徹底して行動している。勉学に励み、清子の方から行かなければ触れもしない。
 寂しいよう。
 清子がシャワーを浴びてバスルームから出ると、忠弘がぽつんといた。少し首をかしげて、眉毛をハの字にして、ただ待っている。
 清子は、自分から寄って行って抱き締めて、視線を合わせて目をつむった。
『ん……ん』
 いつまでも、膝を抱えて泣いている君へ。
 忠弘の、清子に回した片方の腕はそろそろと、遠慮がちに。頭の後ろに回したもう片方の大きな手はいつもの通り情熱的で、もどかしげで性急で。これが好き。
 長く、長く貪り合った。忠弘はひょいと清子をお姫様抱っこすると寝室へ連れて行く。ベッドに入れてお休みのキスをして、挨拶をすると室内の電気を消して出て行った。清子はすぐに眠った。

 ちゅば、ちゅば……ちゅっ……
 夢の中で、乳房を激しく揉まれて、乳首を執拗に吸われた。舌で、くちびるで、執拗に。想いの丈が集中する。
 さぁや……愛してる……愛してる……

 翌朝、清子は目を覚ますとパジャマを確認した。乱れてはいなかった。
 ベッドサイドの、バスルームのと統一されたレトロなデザインの明かりを点ける。そこにもあるスイッチを操作した。カーテンが開かれると、朝独特の陽光が漏れて来る。
 忠弘は時計を贈ってくれると言った。それで四ヶ月後に夫を朝起こそう。忠弘は仕事で忙しくなるんだから、仕事以外のことはして上げたい。
 寝室を出ると、忠弘がいた。
「おはようさぁや。愛してる」
 目が、全身が性で濡れていた。応じるように、清子の体からなにかがおりた。だから目を閉じた。
『ん……ん……ぁ……ふ』
 想い合う、応え合う、結ばれた者同士、夫婦の朝のキス。大きな手も、くちびるも舌も、なにもかももどかしげで、情熱的で性急で。
 腰に回された腕は、前よりも少し力が入っていた。だからもっと、清子の体も反応した。
 マンネリ朝食のあと、清子はコーヒーを二つ淹れて書斎へ。自分の椅子でコーヒーをゆっくり飲むと、ヘッドホンはせず立ち上がった。
「どうした? さぁや」
 清子は、忠弘の脚の間に座って、厚い胸板に寄りかかって目をつむった。ディ・ジオのトップノートが心地よい。
「お休みっ」
「やっとか?」
「うん」
「もうこれ以外では仕事などせんぞ」
「ゲームは?」
「俺のマシンでやれ」
「無理っ」
 料理の本が届いたら、ここで研究しよう。一人用の上品な盛りつけの写真ばっかりだった。あれをこの夫用に調理するといったらどうすればいいのやら……
 忠弘はその間、微動だにしなかった。いつもはアレを感じるのにそれもなし。緊張感も集中力も感じられない。ウィンドウを眺める以外、なにをしているのか全く分からなかった。
 忠弘にもたらされ続ける、天文学的で膨大な質量。
 情報を知っていると、知っていいと認識されているものはともかく、そうでないものをどう活かすかは忠弘の才覚に全て委ねられている。どう活かすかは若造、お前次第だ。そう突き放している。だからこそのこの質量。
 清子がこの一週間、忠弘に時間という猶予を与えていることなど明白。だったらそれを活かす。
 活かせるチャンスと判断出来たら決して逃すな。即断しろ。牙を研げ。その為に、他のなにを置いても集中しろ。
 忠弘は、誰が見ても一見、ただボケっとモニターを眺めた。

 その夜も寝室で、清子一人。また、音がした。二人の手料理でないだけの卑猥な音。色がまだらになるまで揉まれる乳房、甘噛みされ、吸われまくる乳首。
 さぁや……愛してる……愛してる……

 翌朝、朝食の後、食材を買った帰り、忠弘は一階管理人室に寄ると清子に言った。
「さぁや。注文した本、届いているぞ」
「そう?」
 よかった、これでマンネリレシピ以外のものも作れる。
 なんて思ったのは浅はかだった。書斎で忠弘と一緒に座りながら本を見ると、まあ難しそう。
“料理は下ごしらえが大事、手を抜くな”
 ということは分かっていても、それが面倒で今までの手抜き料理の数々だったのだ。ああ、今すぐにでも実際やってみたい。出来ればこの、性欲盛り盛り夫抜きで、一人で思う存分失敗しながら……
 なんて、口に出したが最後だな。せめて料理のりの字くらい知っててくれれば、実際やっている所、手本を見たいと思う気持ちも分かってくれると思うのだけれど。
 主婦は偉大だ。清子も、ようやっとそう実感出来る歳になった。

 忠弘が毎日走り出して一週間後の朝、マンネリ朝食中に訊かれた。
「どうだ? さぁや」
「うん、えっと……」
 正直、もうおわっている。女として、一ヶ月で一番解放感のある時期だ。
「駄目か?」
「ううん」
 今致されてもいいと思うけれど、今のまま仕事を続けて欲しかった。
「なら、ドライブしないか」
 致したい目でもなく、気遣う心配顔でもなく訊かれた。優しい一人の男の笑み。好きで結婚したもので、こういう顔も見せて欲しい。
「うん。どこへ行くの?」
 忠弘は六匹目の焼き魚を平らげて、
「飯の後、視聴室に行って適当にテレビでも観よう。その後出掛けるぞ」
 恋・仕事・遊び、全部出来て初めて大人だと、あの先輩から言われたっけ。
 忠弘は大人なんだなあ。
 そして、私の前でだけ五歳児。
 朝食後、言われた通り二人でテレビを観る。地上波・BS・CS談義をする。その結果、二人共CSを入れたことがない、どうせなら観尽くそうじゃないかという結論に。
「さぁやはどんな番組がいい?」
「えっとね。特にこれってないんだけど、たまにパリコレとかのショーの番組をやってる時は、やったー観られたとか思うな。チアリーダーものも好き。あと、恋愛もののドラマで、気に入ってるのの再放送とか観られた時もいいな」
「あのアパートを引っ越す時、新聞がなかったな」
「うん、取ってなかった。ネットで済むし、お金ないし」
「そうか、俺もだ。ところでな、俺の趣味には釣りもある」
「え?」
 これまた知らない忠弘情報。
「ハマればこれ以上の趣味はない、とも言われる。たまにしか行かんが」
「そうなんだ……じゃ、じゃあ、行こっか?」
 どこかの湖か、海へ行けばいいのだろうか。行こうと言いはしてもどこがいいか分からない。
「実はあまり釣れない。要するにヘタクソだ。釣り友達には週末に行こうと誘われても、年に二・三回しか行かない。よって上達しない。それでもたまに行って頭を空っぽにして帰る。
 さぁやもやってみるか?」
 へたくそな趣味でもちゃんと言ってくれる。清子はますます嬉しくなった。
 とはいえ釣りは無理だ。車と同じでピンと来ない。
「ええっと……ううん、いい」
「分かった。だったら、俺のを見ていてくれ。行くぞ」
 忠弘が選んだ服は、秋物の茶色の柄ワンピース。膝上10cmくらいで、なかなかミニで誘っているっぽくていいなと思う。忠弘の服はブラウンのシャツ、黒のスラックス。筋肉質で背が高く、肩幅がっちりで腰板のエロい忠弘によく似合う。清子はぽけっと見蕩れた。
 そうと分かっている筈なのに、忠弘はそれにはなにも言わず、一緒に家を出た。手を繋いで二人のマイカーに乗る。

 どこに行くのかを訊かず、清子は景色を眺めた。久々の外だった。
 以前ドライブに連れて行って貰った時はすぐ寝てしまった。今度はちゃんと見よう。
 どのくらい経っただろうか。
 ……あれ? ここ?
 清子は、明らかに以前見たことのある景色を目に入れて、忠弘に質問した。
「忠弘、どこに行くの?」
「釣りに」
 そんな、ここは……日本庭園だ。それはそれは見事な……
 車が停まる。あの、本宅玄関前だった。広い・高い・奥が広い、が自慢のでかい玄関で二人共に靴を脱ぐと、忠弘は妻をひょいとお姫様だっこした。黒光りの木の廊下に、重い足取りが響く。
 どのくらい経っただろうか。二人が入った部屋は、この家にしてみれば一番小さな和室じゃなかろうか。二十畳ほどのそこの真ん中には衝立があった。それで仕切られた奥には、あの老婦人が正座し、手をついて頭を下げて待っていた。蒔絵が施された衣架には、見事な留袖が掛けてあった。
 なにも言わない老婦人の前にはあの襦袢。清子をおろした忠弘は衝立向こうですでに服を脱いで、色無地を着ているようだった。
 この住まいに相応しい服に着替えた二人が次に行った場所は、台所というより調理場、板場だった。
 伝統工芸品である天然さわら製曲げ割っぱのおひつ三つに、どんな板前が炊いたのか、つやつやご飯が山と盛られていた。隣には程よく切られた焼き海苔、磯の香りがぷんぷん、今あぶったばかりだろう。紀州の優しそうな色・食感だろう梅。おかか、鮭、たらこ、いくら、昆布等々。肝心のお塩。そういえば、中に具が入っているのがお握りで、入ってないのがお結びと教えられた。
 忠弘が背後に回って、清子を抱き締める。ほっぺで清子の髪をすりすりしてキス。調理開始。
 その前に手を水で濡らさないといけない。久々だったので、あやうくそのままで握るところだった。
 九谷焼のでかい丸皿がどんと三つ置かれていた。一体何号なのやら。あれに盛れってんでしょう、はいはい。
 和服にたすきがけの清子は次々握って行った。だから、具ごとに順に並べるということをやらなかった。とにかく綺麗に盛っている、と分かりゃいいだろうと投げやりに。
 奮闘後、おひつのご飯をようやっと空にする。具はやっぱり余った。そうだろうと思った。
 お握りが山と盛られた皿三つ。忠弘の手が三つあったら軽々持てただろうけれど、そうは行かない。どうするんだろうと思っていると、まるでタイミングを計ったかのように複数の、この家の者達が現れた。使用人というやつだろう。黒いスーツに黒いレイバン、オールバックの男性三人が一つずつ九谷を持つ。あの老婦人がポット、というにはあまりに上品な逸品を持つ。他にも似たような年齢の女性がお茶淹れ用具一式を持って。
 忠弘は、清子のたすきを外してひょいとお姫様抱っこし、使用人達を引き連れ、いるであろう最終目的地へ向かった。
 場所はそう遠くなかった。その部屋が、いや、中に主がいればそこがどれだけ重要か。引き戸を守る黒服二人の居住まいがそれを証明していた。人の気配が分からない清子でも、その威圧感はよく分かる。そうと分かったのは最近になってからだった。一課の猛者達。あのSP陣。
 三十畳ほどの、南向きのあの部屋に入る。老人の今度の居場所は縁側ではなかった。部屋の真ん中に置かれた沈金の座卓を前に、上座に座っていた。空きの座布団は下座に二つ。
 鶴のような痩身の老人は、明らかに驚いていた。一世紀近くこの国を見つめて来た瞳はカッと見開かれ、幾人をも叱咤して来た口はぽかんと開かれ。そのさま、驚愕といっていい。まさか、自分達が来ることを知らされていない?
 いや、それはないだろう。座布団が用意されてあるのだ、来客者は忠弘と清子の二人、それは知っていただろう。
 では、なにを知らされていない?
 そう、それは……
 使用人達が手に持つそれを座卓に置く。清子はさっそく茶を淹れた。相も変わらずいい茶葉だ。贅沢などしよう、考えようと思わない清子でも、ことコーヒーのこととなると意地を張っていた時期であっても超高級なのを買って来いと言うように、いいものはいいし、欲しい。後でこの葉、分けて貰おうと思う。
 一杯用の急須、湯冷ましもあの時と同じ。最上級のそれぞれに自分が手を加えたところで、なにになるとも思えないけれど。
 私の愛する、ほんの僅かな人達の為に。
 茶を三つ淹れて、それぞれの前にそっと置く。
『いただきます』
 時刻は丁度、正午だった。
 忠弘が次から次へとすさまじいスピードで食べて行く。清子はというと、せっかく握ったんだから三つか四つは食べようと思った。しかしお間抜けなことに、手を付けたそれらは具の中身が全部同じだった。あちゃあ、具ごとに並べて印でも付けるんだった、と思っても後の祭。
 老人はというと、山と盛られたそれに手を伸ばすものの、腕ごと震えていたようだった。目の前の現実を理解し切れていないかのように。
 しかし真向かいに座る食欲旺盛な忠弘が山を次々削り取って行く。このままでは皿三つ共なくなる、そう思えた頃、ついに手を付けた。
 一番近いものを、ぐっと握り掴んで口元に寄せる。有り得ぬものを見るかのように凝視した後、もう自分のなどない、擬い物の歯で、一世紀近く研ぎ極めた本物の、最上級の鋭利な牙で、掻きむしるように食った。
 だから、その口から漏れたみっともない嗚咽は、
「あー……ああー……」
 号哭は、咆哮は、
「ぅあーーーああーーーー……あぁーーーー……」
 この巨大邸宅にいる全ての、全種の使用人達が聞き届けた。
 清子は普通に食べおわると、二人の為にお茶を淹れ続けて上げた。
 九谷の皿三つがすっからかんになった後、忠弘は縁側へ向かい、そこを降りて、庭にある池のへりに腰を下ろした。準備されていた釣り竿を持って糸を池に垂れても、池には釣られていい食用魚などなかった。
 老人が口を開く。
「忠弘君、や」
 大きくも小さくもない、しかしよく響く、しわがれた声だった。一体どれだけ夥しい、社史に燦然と名を残す切れ者達がその命に従って来たことだろう。
「はい」
 全ての者達が聞き届ける中で。
「わしの。な。
 息子になってくれんかのう」
 なにひとつ飾らない、朴訥な声だった。まるで思春期の少年の頃のよう。
 池の鯉が跳ねた頃、忠弘は返事をした。
「いいよ」
 清子は、夫の背を見ていた。
「ただし、公式にとかそういうのはいやだ。それでもいいなら」
 枯れた老人の瞳から、またも熱いものが溢れ出た。後年、あの時全て流したからもういいと、誰かに言い遺すことになる。
 忠弘は室内に戻ると、正座しっぱなしでそろそろしびれが切れそうな妻をひょいとお姫様抱っこした。もう、行くということ。
「たまに帰るよ。父さん」
「……そう、か」
 二人、どれだけの憶いだろう。泣かせた清子こそ涙した。
「さぁやの飯、美味いだろ。自慢しに来たんだ」
「そりゃそうだがの。ちと驚かせ過ぎじゃ。握り飯までとは聞いとらん」
「次のリクは?」
「りくとはなんじゃ」
「ああ……次に、なにを食いたい?」
「……。なんじゃ、それは」
 訊きはしたが、どういう意味かなど分かっていた。しかしそんなもの、口に出していいのか。なにも望みはしないのに、もうこれ以上、ここまで叶ってはもう、逝くべき処はあの人の元しかないというのに。
「ない?」
 あるだろう? そういう意味。
「……。里芋の、煮っころがし……」
 小声で告げられ、清子は困った。作ったことがない。
「分かった。ただ、俺達は生涯新婚だ。ついでに言うなら現在無職。いつ、とは言わない。そのうち来るよ。じゃ」
 それだけで、忠弘は妻のくちびるにそれで触れた。
「さぁや。目を閉じて」
 部屋の外には、全ての使用人達が集結していた。和服の男女もさることながら、清子を視線で殺した黒服の男女達もいた。それぞれが両端に分かれズラリ並ぶ。廊下の者達は全員正座し両手を付き、頭を黒光りする床にこすり付けた。見事な日本庭園に立ち並ぶ者達は九十度腰を折った。同じく腰を折る、正面玄関を守る者達まで累々と続いた見送りの道のど真ん中を、忠弘はただ歩き、重い足音を残し去って行った。

 帰宅すると、忠弘は疲れただろうから休んでと言った。清子はバスルームで一人、どうにかして和服を脱ぎ、シャワーを浴びてパジャマに着替え、言われた通り寝室で眠った。
 忠弘が書斎で一人、ウィンドウを眺めていると、携帯が震えた。清子のだった。
「山本です」
「少年? 椎名よ。今こちらの社長室にいるわ、部屋の主は邪魔なので蹴っ飛ばしてあります。二人きりよ。
 あちらの会長が土下座しているの。電話に出ては貰えないかしら」
「分かりました」
 椎名も、忠弘がついさっき父と呼んだ人物の血のつながった長男も共に、忠弘の携帯番号をとうに知っている。
「初めまして」
 そう言って電話に出た人物が人前で泣くのは何十年振りだろう。名乗った七十歳近い人物は言った。
「出来立ての、末の弟に対し、私はなにが出来るだろうか」
「三つあります」
 即座に言った。弟と思っていい。言っていい。そういう意味。
「それだけではなく、全て叶えよう。この身を以て、あらん限り」
「俺からさぁやを奪わないで下さい」
「了解した。たとえ誰が出て来ようと、この先なにが起ころうと決して」
「さぁやから俺を奪わないで下さい」
「了解した」
「もう誰にも、頭を下げないで下さい。兄さん」
「……そう呼んでくれるか……了解した。この先も予定はあったのだが。……必ず」
「じゃ」
 それ以外なんら興味なく電話を切ろうとする忠弘に向かって兄は叫ぶ。
「待ってくれ! まだ話は終わっていない!」
「なにが出来るかと訊かれたから答えた。以上だろ」
「そうは行かん、こんな電話一本で父のあんな……済むと思わないでくれ。直接会って思いを伝えたい」
「電話でいいよ。忙しいだろ」
「この用が最優先だ。済むまで他など蹴っ飛ばす」
「だったら、もう一つ頼んでいい?」
「待ってましただ。いくらでも」
「さぁやは権力とかそういうの嫌いなんだ。偶然にしか過ぎないのに、兄さんをはじめ大人物ばっか立て続けに動かしたと言われ、重荷を負わされて辟易している。そこんとこ、全員に考慮させて欲しい。でなきゃ俺達は誰とも会わないし、ここから一歩も出ない」
「了解した。会ってくれるな。いつだろうか」
「飲み会のお誘いメールが来ていたから、その時に。詳しい日時場所はそこにいる、俺の雲の上の上司に訊いてよ。じゃ」
 忠弘はそれで電話を切った。自分の電話番号を教え、いつ掛けてもいいよと伝えもせず。
 忠弘の兄は立ち上がり、忠弘の職場となるビルで最も豪奢なソファに腰を下ろした。しおりはあの通りなのだから、この場にいる二人に茶を出す者は誰もおらず、豪奢なテーブルには最初からなにも乗っていない。
 下座の椎名に言った。
「困ったな。大切な末の弟だ、本社の取締役に招聘するつもりが先手を打たれた。椎名君、しばらくは君の元で修行したいそうだ。だがいずれはこちらに戻って貰う。それまでよろしく頼む」
 椎名はほんの少しのため息と共に、苦笑した。
「困るのはこちらですわ。お願いですから、貴方程の大人物が私程度にあんなこと、もうしないで戴けます? 末の妹さんも哀しみましてよ」
「ああ。今末の弟にも言われた、そうしよう。散々見ていてもやったのは初めてだ。意外と通じるものだな」
「止めて下さいな……」
 老人の長男と椎名は立場上、土下座を山ほど見て来た。そして、やったことはなかった。そこまでされれば理由の如何なく、断った方が悪者にされる、あざとい手段だから。
「椎名君。末の弟夫婦は私に会ってくれるそうだ。飲み会をすると言っていた。そこに来いとのことだが」
「それは私の友人、しおりの結婚祝いの飲み会なのですが……」
 椎名はあれからまだ、しおりと話をしていない。なので思う、相手は無事か。
「ほう、あの藤崎嬢……いや、今は違うか。しかし末の妹も大したものだ、私に睨まれてもビクともせず……それも謝らなければな。
 椎名君。末の妹は権力がお嫌いだそうだ。振りかざしてくれるなと、末の弟からの厳命だ。君といえどあの若造といえど守って貰うぞ」
「私が唯一膝を折る人物を若造などと仰らないで下さいな。承知しました、その厳命、守り徹します。知っている限りに周知させますわ。他にはなんと?」
「末の弟から末の妹を奪うな。逆もまた。これだけだった」
「他に、なにをして差し上げるおつもりで?」
 椎名とその上司は清子と忠弘に充分な環境を既に手配している。新婚二人はもっとよこせと強請るような人間ではない。となると、目の前の人物は一体どんなプレゼントを考えているか。
「企業秘密だ」
「まあ。電話して上げましたのに?」
「そうだったな。君の願いも訊こうか。だが一つだけだ。出来ないことは断る」
「即答しないで置きましょう」
「ズルいな」
「それはもう。なにせ営業畑ですから」
 忠弘のマシンに、更なる天文学的膨大な質量の情報が濁流のように押し寄せて来たのは、電話を切った途端だった。これが出来るということは、案内役を一旦介しているということ。案内役が現役をバリバリ続ける気なら、こんなことは兄にとっては自殺行為。そういう愚かなことをする者達ではないので、このことは一切部外秘だ。案内役は単なる中継地点、中身についてはノータッチ。
 案内役が忠弘には情報を押し付け、後はお前次第と突き放しているに対し、兄のそれはいつでもなんでも仲介してやるというもの。これに乗ったが最後、世間的に公式に養子になったと認めてしまうことになる。だから忠弘は、うん百倍が更に倍、のそれを、ただボケっと眺め続けた。
 六時となって、清子を起こしに行く。すると、息が合うかのように清子が寝室から出て来た。寝ぼけ眼ではない、きちんと目を覚ました模様。よく眠ってくれている。よかった、なにせ明日は解禁日だ。
 もう眠らせない。さぁや。
 そういう目で、態度で、妻を見たと分かっただろう。自分に見蕩れてくれている。多分、おはようと初めて言ったあの時も。
 忠弘は、妻をひょいとお姫様抱っこするとバスルームに向かおうとした。それに対し清子は直接キッチンでいいと言った。
 だったら……
「今晩は野菜炒めなんてどう? もやしとキャベツ、豚肉とかなんだけど。山と作るから」
「分かった。とても美味そうだ」
 清子は、今晩はあの、海藻のみそ汁にしようと思った。もっとも、あの味は再現出来ないだろう。ああ上手くなりたい。
 食事中、清子は訊いた。言わなくてもいいような気はした、でも口に出さず溜め込むなどいやだった。
「あの、……ね」
「どうした?」
 甘え縋った優しい声。
「どうして……お握りまで、だったの?」
 訊きたいことは山とあった。お茶でさえ偶然、単なる奇跡だったのに。もし違うとなれば、二人ともあの巨大邸宅から二度と出られなかったかもしれないのに。
「初恋の味が仮に、七十年前の出来事だったとしよう。そんな時代に、現在の世界最高である茶葉は存在しない。それと同じで、七十年前の茶葉が現存する筈がない。つまり、初恋の人が生存していたとしても、初恋の味は再現出来ない。
 元から存在し得ない話だった」
 忠弘は、自分の分と盛られた野菜炒めをがっぽり清子の皿に移した。
「父さんの子孫は、父さんの求める味を血眼になって探した。条件に叶うだろう者達を次から次へと攫ってあの巨大邸宅の板場で茶を淹れさせ、飯を握らせ続けた。だがその者達は一度で用なしになった。
 仮にその数が三桁にのぼるとしよう。三桁に対し、食するはただ一人。意に反する食事をさせられ続けた父さんは、ほどなくこの話題をタブーとした。当然だ。誰が不味いだけの同じ飯など食い続けたいものか。
 何故、さぁやの茶、飯がこれぞ、と思ったか?
 初恋の味とは七十年前の、現存し得ない、再現不可能なものだ。二十年以上タブーだった。つまり完全に、忘れていたのさ。父さんの、忘れた記憶だけが頼りだった。
 これぞ初恋の味だ、やっと出会えたと父さんは思った。思い込んだ。理由はそれだけだ。恋と同じだ、理屈などない」
「どうして……」
 忠弘はニコっと笑った。
「営業は毎日が出会いの連続だ」
 失敗と外れの毎日だ。
「俺は配属された時、自分に向いている職種ではないと思った。一人で生きて来たからな。出会いなど要らないと思っていた。
 その時にはもう、さぁやと逢っていた。それが全てだ」
 清子もそう思った。辞令を受けたからやっていたまで、総務なんか合わない。そう思った時はもう、忠弘は視界に入っていた。
「俺が何故、一年間さぁやに対しなにもしなかったか言おう。
 端的に言えば、手取りが月額十万円台だったからだ。大学時代、俺は多少バイトをしていて、多い時の月収はそれ以上あった。不遜な物言いをすれば、初任給を手にした時、これではさぁやを養えないと想った。新人で仕事も半人前以下。とてもさぁやを口説き落とし、養うから結婚してくれとは言えなかった。
 だが今になって思えば、ゆっくり知り合えばよかったな。少しずつでよかった。同期だからと近付いて、まずは連絡先を教え合い、そこらの飲み屋で一杯やって……
 俺は人一倍誰より早く自活しなくてはならないと言っただろう。恋愛より生活を優先させた。金を貯めてさぁやと逢おう、そう想っていた。だがその間、さぁやが誰かとくっついていたら……俺はバカだ」
「そんなこと……」
 確かに結婚までは急だったけれど、一度目にした後一年間、忠弘を気にしないようにしていたのは、そういう意味で意識していたから、かもしれない。悪い方にはっきりさせたくなかった。勘違い女と笑われたくなかった。失望したくなかった。なにより、清子自身が臆病だった。
「さぁやの友達からメールが来ていたぞ。約束の飲み会の件だ。明日夜七時だと。どうする?」
「ン、忠弘がいいって言うなら……」
 そういえばそんな約束もしていたな。随分昔のことのような気がする。思い出して考え付くことといえば……しおりの相手は無事だろうか。
「さぁやは俺のモノだな。だったらもう三人、関係者を連れて来ても怒らんな」
「え? 三人、も?」
 一人二人ではなく三人も? 関係者とはいえ多過ぎやしないか?
「あの店は貸し切りにする。そこで、酒やつまみを出す居酒屋のオヤジ役が必要になる。だが部外者を、マル秘な会話が行われるあの場に混ぜるわけには行かん。その役目に案内役が立候補した」
「ええ!?」
 ちょっと待って、大企業の一番上、トップのトップがおつまみを作る? 居酒屋なのだ、まさかねじり鉢巻でもすると?
 清子でも、椎名が言った「上の男」とは案内役だ、とは分かる。そんな、極上の男だろう人物が居酒屋のオヤジ役……
「無論、一課長が止めた」
 清子はほっとした。
「そうほっとするな。とにかく、案内役は既におフランスに帰っている。ところで、男に「オヤジ」など禁句だ。分かっているな」
「う。そ、そんな睨まなくても……女に「オバサン」が禁句なのと同じだよう」
 そもそもオヤジなどいう言葉を言い出したのは忠弘である。
「分かってりゃいい。その役目を店主と呼ぶぞ」
「うん」
「店主役には、俺に引っ越しと転職を説明する予定だったあの大会社の営業一課長補佐がなるそうだ。名刺を交換しただろう、覚えているな」
「うん」
 あの人ならいいや。
「じゃ、あとの二人は?」
「渡辺君とやらだ」
「……!」
「俺も多少借りがある。さぁやも、お茶事件の際飲もうと約束したそうだな」
 どこまで知っているんだか。
「あの情報収集力については多少興味がある。俺の営業トークで情報源を吐かせ飲ませ潰す」
 清子は思った。先手を打って渡辺に、来るなと言っておいたほうがいいのでは。
 ちなみにその実態はこうである。

 忠弘は過日のランニング中、清子の携帯で多少世話になった渡辺君とやらに電話していた。
「センパーーイ! やっと掛けてくれましたね、待ってましたよ! で、どーです鬼の山本先輩のテクは!?」
「山本だ」
 白々しくも気まずい、凶悪な風が流れた。
「……。ひ。卑怯じゃ、ないっスか……?」
 その通り。
「他になにを言うつもりでいた」
「……。あのぉ、ですねえ……そーゆー、脅しっつーか脅迫っつーかは、止めて戴けると……」
「吐け。そうすればセンパイとやらに会わせてやろう」
「……。うっわー……こえぇ……って、会わせてくれるんスか?」
「今どう吐くかによっては」
「……こえぇ……」
「吐け」
「いやだから、往年の落としのナカさんじゃないんスけど……はあ、なにを吐きゃいいんでしょうか……」
「他になにを言うつもりでいた」
「いやだからその、どういう経緯でくっついたんスかとか、どーです感想はとか、今後のご予定はとか、……そ、そーゆー当たり障りのない内容ですって! 遠慮したんスよこれでも! こっちから一切コンタクト取らなかったじゃないスかぁ〜〜、社のみんなにも言って回ったんスよぉ、電話すんなってぇ〜〜」
「いい心掛けだ」
「で、でしょ? だからその、会わせて戴けると有り難いんスけどぉ〜〜……」
「一杯のお茶事件の情報源を吐け」
「そ、そりゃないっスよぉ〜〜!! オレみたいな情報屋はそれ吐いたらお終いなんスよぉ〜〜??」
「吐け」
「だ、だからそのおおおお!!!」
「五度言ったが?」
「スミマセン吐かせて戴き……はぁ、あの大会社の営業三課のネーチャンとまあ、その……でして……って、センパイには言わないで下さいよ!! ケーベツされます!!」
「軽蔑させる。続けろ」
「……っこええええ……であの……」
「あのクソ営業事務の一人ともそうだった。だな」
「……こええ……」
「センパイとやらは渡辺君とやらを式に招くつもりでいたようだが。その分だと、無理なようだな」
「いやあの、カンペンして下さいよぉおお……って、「とやら」が多過ぎますよ山本先輩!!」
「鬼がどうした」
「……どっひー……」
「多少は感謝しよう。俺のアドレスをどこから知った」
「……スミマセン、人事のネーチャンともその……」
「この会話は録音してある。渡辺君とやらの同棲中の彼女に」
「ひえええええええ!!! それだけはご勘弁をぉおおおお!!!」
「今送った。死んで来い」
 電話を切った忠弘はそれでも、飲み会の日時場所をメールで教えてやった。男なら修羅場の一つもくぐって来やがれと言い放って。
 渡辺と彼女、二人のその後の同棲生活は定かでない。

「三人目は、父さんの長男だ。さぁやは直接会った、見たことがあるな」
 何故あの人物が?
 確かに清子は退職時見た。さっき忠弘は不遜と言ったが、あれぞ不遜だった。清子はあの時当たり前のことを言っただけ。なのにあの態度。傲慢で、こっちの都合など一切考慮しない、人を見下す以外しない、権力だけで出来ているような人間。
「……うん」
「会いたくない。そうだな」
「うん」
「兄さんは」
 そんなふうに、清子は呼べない。
 結婚すれば守るものが出来るのは男も女も同じ。あんな、力だらけの人物は、そんなものさえ奪い取るだろう。なにも配慮せず平然と。実際そうされたも同然の清子、あの人物を忠弘のように呼ぶ気は全くない。
「さぁやと会いしな睨み殺したことを大層後悔している。謝りたいと」
「要らない。最近、直接謝りたいとか、直接感謝したいとか、そういうの多過ぎる。要らない。私、忠弘だけ欲しい」
 私の守りたいもの、分かって。
「うん、分かった。だが、非公式とはいえ弟になったばかりの俺とさぁやに、結婚おめでとうとは直接言いたいそうだ。それも駄目か」
「……忠弘がそう言うなら」
 忠弘にだけ直接言えばいいではないか。本当なら駄目と言いたい。守りたい人がそう言うから、仕方なく従う。
「でも、それだけにしてね。忠弘はともかく、私はその人となんの関係もない。一度会ったから分かる、別世界の人だよ」
「だったら、父さんもか」
「……どうして、あの時いいよって言ったの」
 あの二人はどちらも別世界。そうと分からないでもあるまいに。あの二人は忠弘にだけ甘い顔をした? まさか、とてもそうは思えない。
「俺は二十年間独りだったが、父さんは三十年間だ。想像を絶する。だから同情した」
 清子は言葉が出なかった。反論も、その通りとも言えなかった。
「とはいえ、まさか息子になれと言われるとは思わなかった」
 それは確かにそう思った。孫ほど年が離れているのに。
「父さんは、あの偉大な大人物は権力を身に纏って生きている、さぁやが思った通りだ。
 ああいう人種はな。権力と共に生きている為に、権力を求めしがみつく、欲望ばかり要求する人種を誰よりも唾棄する。周囲はさぞそういった人間ばかりだっただろう。だから三十年間もあの家に隠ったんだ。
 俺がそういう欲望を欠片でも持てば、父さんどころかあの家の使用人達が俺を一歩も近寄せない。兄さんも、俺を末の弟と呼びはしない。
 俺に私心はない」
「……うん」
 夕食後、一緒にバスルームで歯を磨いた後。忠弘は清子に背を向けて言った。
「……明日は、いいだろ」
 言われた途端、ソコに血が集まった。どくどくする。
「……う、ん」
「だったら眠れ。……これ以上言わせるな」
「……うん」
 だって。もう、独り寝はしたくない。お互い、もう……
 忠弘は一人でバスルームを出た。おそらく書斎へ行っただろう。
 清子はお風呂に入った。丁寧に体を洗って、よく暖まる。目が覚めた時はもう、汗だくだろう。
 次、こんな一週間、取れるかな……

 忠弘は書斎で、時間一杯画面を眺めた。そうしなければ血が集中する。沸騰する。
 午前零時で、もう限界だった。お願い通り時間通り仕事はした。聞きたい、一週間も聞いていない喘ぎ声。啼かせたい、イかせたい、揉みたい、吸いたい、搦めたい、出したい、突きたい、奥に、奥に……
 寝室のドアを開ける。スイッチを操作、一週間振りの電飾ギラギラ。
 掛け布団を取り払うと、贈ったもの以外妻は一糸も纏っていなかった。喉が鳴る。服を乱暴に脱いで。
 初夜のように……もっとも気分はいつも初夜で……
 いつもの正常位、M字でガバリにされた時、清子は目覚めた。
「……ぁン」
「やっと……啼いたか……」
「だぁ、ってぇ……ン、……ン……」
 びちゃびちゃ、じゅるじゅる、吸われまくって……
「ぁン……ぁン……あ、……う……」
 舌がソコを嬲る……
「指か……俺か……ああ、全部欲しいか……」
「そう、だよぅ……」
「待てん……」
「来てぇ……」
 熱くて硬くてでかいソレがあてがわれ、もどかしげにミリミリと、いつまでも狭い中を無理矢理圧迫し、奥まで……
「ン……ぁううううう!!!」
 忠弘の癖、清子の中をしばし堪能して……
「して、よぅ……」
「さぁやも……」
「……ン」
 後は二人の共同作業、今夜はもう、いつもの軽口を叩き合う余裕もなく、清子は啼き、喘いでイきまくった。許して、許して、もうだめ、だめと。
 忠弘はイかせまくって中に出しまくった。何度も、何度も何度も。
 外が朝靄の頃にはもう、清子はピクリとも動いていなかった。それでもしばし突きまくったが、その後中出しした後、抜いた。
 二人の手料理を全て舐め尽くし、忠弘は横になって清子と向かい合い、想いの丈抱き締めて眠った。心配されてはとたまに寝ていただけで、熟睡は一週間振りだった。
 清子が目を覚ました時、目の前には適度に日焼けした傷だらけの胸板。抱き締められてる。後ろから致されて起こされるのもいいし、これも好き。
「おはようさぁや……愛してる……」
 清子は、こういう時いつもする、傷にキスした。
「おはよ忠弘、愛してる……」
 キスしまくる清子の髪を忠弘が梳く。気持ちがよかった。

 昼を過ぎても愛の巣にこもりっきり。出れば時刻はもう午後一時だった。汗を流した二人は空腹を満たす為キッチンへ。真っ裸の忠弘がシャツ一枚のチラリズムな清子を後ろからぎゅうぎゅう抱き締め、ほっぺで髪を撫で、縋る度満点の濡れた甘え声で。
「いいだろ……」
 性欲盛り盛り夫の復活だ。いいような、悪いと言ったら殺されるような。
「もう……だめってイったぁ……」
 お昼にいつものマンネリ朝食。今晩は飲み会なので、夕ご飯は作らなくていい。
「いいって言えよ……いいだろ……」
「だめだってば、もう……」
「だったら指二本でどうだ……」
「だぁめ……」
「だったらなにがいいんだ……」
「抱き締めてって、イったぁ……」
「無論だ……禁欲一週間だぞ……パイズリも素股もさせてくれなかった……フェラさえ……酷いぞさぁや」
「……だって……」
「仕事か? 無職だぞ今……人に会って丁々発止やるわけじゃない、単に予習しているだけだ……なあ、いいだろ……」
 なんとか朝・兼・昼食を食べおわる。清子は、食器を片付ける忠弘を、後ろから抱き締めた。
「やっとか?」
「うん」
「これ以外では片付けなどせんぞ」
「じゃあ、私が独りでやる?」
 忠弘をいつものごとく丸め込んだ清子は、なにせ人の気配が分からないので、皿を食器棚に片付ける時抱きついて行くのは結構難しいんだなとようやく気付いた。忠弘は料理のりの字も知らないくせに、いつも清子の動きを先に読んで動いてくれていたらしい。すごいなと感心した。
 片付けもおわったようなので、忠弘に訊いた。
「ね、今何時?」
 すると忠弘は素早く清子の後ろに回って言った。
「両手を付け」
 シンクのへりに。
「……う、ん」
 大きな熱い両手が、清子の腰をがっちり掴む。清子はもう、自分から脚を開き、形のいいお尻を突き出した。
「いいな」
 うん……
 途端熱い奔流が清子を突き上げる。無茶苦茶強引死ぬ程激しい、忠弘の真骨頂。多分ここで一番溜まっている、だからここでさせて上げた。
「イイ、イイ、イイッッッッ!!」
 卑猥な水音、二人の声が天井知らずな家を満たし、時間を忘れ、そうになり……

「もう、忠弘のバカ! もう六時半じゃない!!」
「いいだろあんなの。サボろうさぁや」
 場所は清子のドレッシングルーム。忠弘が選んでくれたシックなワンピを着てお化粧中。
「だめ! 営業が約束の時間を守らないでどうするの?」
「……くそ、またか……俺は一体……」
「ね、香水貸して?」
「貸してだと?」
「ン、もう。じゃ使うよ。えっと、挿れて忠弘?」
 清子はあまりTPOを弁えないらしかった。
 時間まであと十分という、車の中で。
「……溜まったぞさぁや」
 忠弘こそこのセリフ、マンネリである。
「何故二人っきりの四ヶ月間、この言葉を言わなくてはならない……」
 相当致すつもりでしたよこの男。分かってたけど。
「今日は一晩中付き合って貰うわよって、忠弘の雲の上の上司に言われているんだけど?」
「……そうか。さぁや。分かった。よぉーーーーーっく分かった。
 覚悟しろ」
 言ったな。痴話ゲンカ、受けてやる。
「いいよ寝なくても食べなくても。その代わり体重減るよ。私、伊達でスレンダーやってるんじゃないもんね」