27

 最初は行き交う人々を気遣いゆっくりと。律義な信号では足踏みのまま。
 忠弘は走っていた。理由は清子が一人になりたい時期が訪れたため。
 目標、海を見る。

 致し過ぎて鍛練をさぼっていた。脚の筋肉が久々にアスファルトを捉える。早朝から行動を開始しているお仲間の迷惑にならないように。信号は出来ればノンストップで行きたい。そんなことを考えながら、三十分も経過すると余計なことを考えなくなった。ただ南下する。方向感覚、これだけは忘れない。奪われない財産だ。自信を持って言える。
「はっ……、はっ……、はっ……」
 意識して呼吸間隔を等しくする。視界に映るものは移動しながら変化する。空が白んで明るくなる。消えゆく星を追おうとは思わない。
 目指すは東京港。
「朝陽に向かって走れ!!」
 キザなセリフに振り向く人がいても気にしない。

 更にひた走ること数十分、目的地に到着する。さすがに息が上がる、筋肉が悲鳴を上げる。
 寝っ転がった忠弘は、目指した朝陽が眩しくて、視界を腕で遮った。
「はー、はー、はー、はー、……はー……」
 喉が渇く。
 無茶をして清子にお助け電話は情けないから、道すがら自動販売機のお世話になった。体にいいらしい液体は、忠弘にとって透明な砂を胃に詰め込んでいるようなもの。
 そうだ、
「甘えよう」
 プレゼントして貰おう。買い物といえばデートじゃないか、世の女性は喜ぶと聞く。水筒を買って、水だけといわず詰めて貰えばいい。ふたをする時清子に口を付けて欲しい、それで万感の想いの味がする。
 忠弘には自転車やバイクで移動、という考えがない。清子と一緒にドライブしたいと思い付くまで好きな車を買おうと思わなかった。基本は足だ。営業で叩き込まれたし、配属前から通勤手段はランニングだった。車、しかもタクシーで出社したのは鼻血ブーなあの日だけだ。
 いかん、人生の真っ赤な黒歴史にはフタをしなければ。
 だがあの、妻の扇情を見られないのは実にもったいない。大っ嫌いからあの姿はまさか想像出来なかった。なんたる迂闊。この弱点、必ずや克服しなくては。反復練習でもしようか? こうなったら新たな家を恐怖の館にしてやろうか。
 二十二歳の新卒ぴちぴち若人が意を決して新築で買った住み処を、二年も経たず旧宅と呼ぶことになるとは。分かっていたつもりでも、人生なにがあるか分からない。
 予測しようと思わなかった。未来は自分の中になかったから。
 なぜと問われた時、答えられなかった。からっぽのまま生きた。家を持ってなお家をやると言われ、その時気付いた。
 いっぱいやろう。拾った命だ。貰った命だ。だからやるだけやってやろう。
 伴侶を得た今死ぬ気はもうない。あったかいものを得た、だから思いの丈守って、やれるだけやってみる。
「出掛けよう」
 こんなふうに、清子といろんなところへ行ってみたい。遠出して、野っ原のにおいを知って欲しい。貝塚までの道のり、森や林の中の道ならぬ道を一緒に行きたい。葉に遮られた木漏れ日と樹がつくる影、恐ろしいほどのコントラスト。手に手を取って走った先、波煌き緑混じる青い海を二人で見たい。
 忠弘は妻を外に出さない作戦をスポンと放棄した。そろそろ帰るか。
 あゝ、致したい。
 料理中、清子がよく「うーん」と小さくうなっていて、気になる。抱きしめて後ろから見ている分には、料理以外での悩みではなさそうだ。料理そのものは門外漢で想像もつかない。安易に訊けても相談に乗れない。悪友だらけの友達はどいつもこいつも料理しない。
 質問をするなら相当の準備、はっきりとした解決策を示せる時点で、がいいだろう。直接教えたりなど出来ないのだから、別口でなにか考えよう。
 考え事を済ませ息を整えた忠弘はブリッジ一発立ち上がり、我が家を目指してふたたび走り出した。

 致せませんと言ったら最後、どう出られるか分かったもんじゃない。
 と思っていたのに、忠弘は分かった出掛けて来ますとあっさり清子を一人にした。広い新居にぽつんと取り残された清子は、まるで今までが嘘のようでしばし茫然とした。
 まさかあの男が自分を置いて出て行こうとは。
 いや待て、そういえば。前もこういうことがあったじゃないか。致されそうで、でも本音を言わなきゃ本番ナシの際どい週末。あれはシャワーを浴びてすっきりなさいということだったんじゃなかろうか。今回もそうかもしれない。
 そうだ、きっと忠弘には帰巣本能がある。そんじょそこらのケダモノじゃ歯が立たなそうな強烈なモノが。なにがあっても帰って来る。今この家を出て地球の裏側、いやさ月の裏側へカっ飛んだって来るに違いない。
 そうと気付けば人心地。清子は夫が一人になる時間をくれたんだわとズバリ正解にたどり着き、大人しく愛の巣に向かって一休みした。

 思った通り、忠弘は清子が障りの一週間、ずっとご飯を食べてはひとっ走り、のち帰巣を繰り返した。熊猫型愛情多過生命体恐るべし、でも予想通り。清子は、これって手綱が取れてるってことじゃない? と思うことにした。
 日中出掛けた忠弘は夜になると勉強した。なんという勤勉良夫。素晴らしいと感動し、清子は夫を世に自慢したくなった。
 触発されてまじめに料理の勉強を書斎で。こう見えても好きで結婚したから、こうもきっぱり日中不在はとてもさみしい。少しは近くにいたかった。近過ぎると体力を心配するのに離れられればコロっと変わる、恋の正体とはわがままとみたり。
 横からそっと様子を窺う。
 同じ営業職とはいえ、今までとはまるで違うだろう。大企業の強面一課に投げ込まれるのだ。一体どう挑むのか。
 忠弘のモニターにはそれぞれ複数のウィンドウが開かれてある。自動でスクロールさせているらしい。流れ続ける情報、その速度は一定でなく全部高速だった。忠弘は一見してただボケっと眺めているだけ。
 こんな、複数のウィンドウをまさか全部一度に見ている?
 これが一課なのか。これでは帰れない、電話もメールも……
「さぁや」
 声を掛けられ体がわずかに動く。まばたきを忘れて目が乾いていた。
「ン?」
「飯」
 説明を省くのは、きっと甘えている証拠なんだと思う。言わなくても分かるだろ? そんな、ちょっと子供じみた。
「うん」
 嬉しくなったはいいものの、もうそろそろ手持ちの料理ネタが尽きた。切実に母に教わりたい。ネットで出て来るようなものではなく、その日の食材を見て料理する母。それらにいちいち料理名などない、まさに家庭料理。今更ながら大後悔、もっと習っておくんだった。
 実家に連絡を取るのがどうしてそこまで駄目なのだろう。家庭を渇望している男が家庭の象徴たる母と電話も駄目とは。
 訊きたい。でもなんとなく、訊くのも駄目なような気がした。
 親子丼……麻婆豆腐……野菜炒め……チャーハン……
「そうだ、料理本! ね、注文していいんだよね?」
「いいぞ」
 ああ、キスしたいなあ。
 きっと忠弘もそう思っている。
 でもまだ駄目。こんなに勤勉になってくれているからには一週間、きちんと時間を取らなくては。
 マシンに視線を戻して「料理本」と単純に打って検索開始。思った通りいっぱいある。出来れば書店で実際中身を見たかった。もっと早い段階で買うべきと思っても後の祭。
 うんうん悩んで、三冊程買うことにした。
 その際ここの住所を教えて貰う。家から出さない、だから教えないと言われるかと思ったら、
「いっぱい出掛けような、さぁや。あらゆる市・県・国で致そう。首都攻めなんていいと思わないか」
 世界中の首都で致したいと夫が言う。妻は答えた、いやです。心の中で。
「致したくなったので気分を換えよう」
 妻、嬉しいですと心の中で声を大にする。
「飯の後視聴室で映画を観ないか。俺達のAVは後の楽しみに取って置こう。俺はこう見えてもギャグやコメディ映画をよく観る。ホット・ショットなんてどうだ。ちなみに俺は2から観たのでそっちがいい。いやか」
 意外な提案。
「……ううん。観る」
 清子はぽけっとした。自慢のスピーカーというからにはロックだパンクだを大音量でと思いきや。
「後でさぁやの趣味を教えてくれ。俺の趣味はこちらブルームーン探偵社、ポリス・アカデミー、たどりつけばアラスカ、摩天楼はバラ色に、キツい奴ら、裸の銃を持つ男、ビーナスハイツ等々。情けない、思わず吹き出してしまうのがいい」
 本当にコメディが好きらしい。少し知っているタイトルがあった。楽しそうだ。
「ところでさぁや、頼むからあの下着は着るなよ」
 情けない、が引っかかったな。
「もう、着ないったら。……でも破廉恥下着は?」
 それで攻めたいんですけれど?
「……言うな。ブーだ」
 忠弘は視線を斜め下に落とした。言葉攻めしたら勝てそう。
「じゃどっちも処分しちゃう?」
 その前に絶対着てやる。
「……いや。最初のやつならなんとか耐えられる」
 抵抗する忠弘。沽券に関わると思ったか。きっと克服して見せるという男の気概を見て取った清子、畳みかける。
「他にはどんなのがだめ?」
「駄目と言われれば、最初の観音様で充分ブーだったんだが……まさに根性だったな。さぁやは刺激が強過ぎる」
 清子は褒められたとおおいに喜んだ。色々緩急・落差をつけた甲斐があるというものだ。
「じゃ、他にはないの?」
「想定するだけでブーだ」
 でしょうね。
「じゃ、訊かない」
「訊いてくれ」
 忠弘はただ負けるわけにはいかなかった。妻の攻撃にゃ滅法弱い、そういう自分だと分かっていても、このままでは終われない。
「もう。どっち?」
「……ムチとローソクというのは?」
 清子はさっさと席を立った。

 忠弘が閉じこめ作戦をあっさり撤回するとは思わなかった。趣味もそうだ。連れ込まれてから日は経ってなくても夫婦、でもやっぱり知らない、教わっていないことの方が本当に多い。
 それでいいと思う。四ヶ月間も二人きり、時間は充分にある。教えて、教え合って。
 清子はルールを作ろうと思った。譲れないことはどうしてもある。

 気張らないハウスウェアに着替え、玄関へ向かったら滂沱のパンダが気落ちして待ちかまえていた。いけない、やり過ぎた。
 清子が手をつなぐと途端忠弘は笑顔満点、これ以上の喜びはありませんと体いっぱいで表現した。明るいタイトルが趣味な男を落ち込ませてどうする。清子はおおいに反省した。
 外への道すがら、忠弘を観察。
 最初は手首を持って行かれた。いつも“手をつなぎたい”と思っていると分かっていた。
 もう気兼ねしなくていい。
 忠弘の格好は、惚れた贔屓目だとしても、なにを着ても決まっている。男くさくてえっちくさい。
 愛し合えば女は綺麗になり、男は男っぷりが増す。いいことだ。

 コンビニに到着。すぐになくなる食料品の補充を。
「にんじん位は知っている、って言ってたよね」
 少しは食材のなんたるかを教えよう。
 と思いきや。
「形状からしてキュウリも挿れていいと思うが」
 致すことしか考えていませんよこの男。
「ということは、料理のりの字も知らなくても、仕事で商品を扱うため原材料を熟知してなくちゃいけないように、食材も名前と商品を結びつけて覚える、って出来るんじゃない?」
「ああ……なるほど」
 言われて初めて思い付きましたよこの男。
「例えばね。例えばだよ。私がどうしても家から出られない時、でもなにか食べなくちゃいけないでしょう? そんな時、食材を買うリストのメモを渡すから、それ見て買って来て欲しいの。いい?」
「うん」
 なんて素直ないい男。清子はまたひとつ忠弘を好きになった。
 ここの品は目をつむって取ってもいいものばかり。料理のりの字も知らない夫だ、買ってさえくれるなら食材の選定眼まで鍛えなくてもいいだろう。
 普通のスーパーに行く予定はなさそうだけれど、最初のデートの場所は敢えて言うならスーパーだった。あそこにはもう一度行きたい、今度は手をつないで。
 忠弘に買い物の仕方、食材の名前、次々教えて行く。
「これが卵、分かる?」
「うん。挿れると中で割れて痛そうだ」
「……。あのね。油を引くの油って、なにか分かる?」
「ガソリン?」
 論外だ。それでも営業か。先は厳しいぞ。
「じゃ、卵を割るって聞いてどう想像した?」
「握り潰す」
 以下同文。
「お肉は難しいなー。豚肉と鶏肉と牛肉。違い、分かる?」
「訊く方がヤボだと思うが」
 そうでしたね。
「営業的感覚で、覚えて?」
「まさか仕事が出来ん男がどうのと……」
「言わないってば。研究。宿題。得意でしょ?」
「得意だが、このままだと料理をしろと言われそうだ」
「どうしてそこまで頑に料理しないの?」
「んなもんしたらさぁやに捨てられる」
「……は!? どうして?」
 なにを今更。
「俺は料理をしてくれとプロポーズしたんだぞ。出来ないからと同情して貰ったんだ。なのに奇跡的に料理してみろ。ああそちらさん出来たんですね、で即オサラバだ」
 なにかいっぱい全部間違っている。
「……あのね。そんなこと言う筈ないでしょう。そりゃ確かに私は言ったりやったり酷いことばっかだったけど。忠弘にめろめろだってば。私忠弘に捨てられるのあんなにいやがったんだよ?」
「俺など捨てられたらもうお終いだ。さぁや、俺は死んでも料理せんぞ。カップラーメンを取り上げられたんだ、手料理は精液だけだ。死んでも飲め」
「ン、いいよ」
 うまいと思えばあれもうまかろう。ただその場の勢いだけれども……
「じゃお勉強再開。この、アジ・サバ・サンマなんかがいつもの朝のわびしいマンネリ食材。庶民の魚もちゃんとあってよかった。高級魚ばっかりだったら大変だよ」
「全く見分けがつかない。実に難しいが研究しがいがあるな。見てろよ、料理はしないが情報だけはさぁやより持ってやる」
「うん、その調子。忠弘って好き嫌いない?」
「ない。営業だ、飯屋に行くのも仕事のうちだ、残すなど仕事にならん。ただし味がしたと想ったのはさぁやのだけだ」
 いっぱい作ろう。
 でもなんにしよう。
「そっか、好き嫌いないのはいいことだね。でも逆に、なにを作ればいいか……」
「これなんかどうだ」
 なんと、あの忠弘が料理の提案だ。ああ驚いた。
 提示された品をじっと見る。
「ナスを握りしめてなにか意味があるのかなー」
「やはりこれが」
「だから……バナナがどうかしたの? 食べたい?」
「訊いた所によると、サツマイモを加工するといいらしいが、どこにある?」
「誰に訊くの? 大体この間からなにやらかにやら……そう。そういうお友達がいるの。ふーん。
 私がこれからなにを言いたいか。分かるよね」
 泣いて縋って甘える忠弘にカートを押させてさっさと一人帰宅。早く来て、なにやってるのと怒ってやった。すると機嫌直せ、怒るなさぁや、もう怒らないって言っただろう二言なんてずるいぞ約束守れ、と泣いて縋って甘えられた。
 ここまできっぱり触れられないのもさみしいと思っていたところ。こんな忠弘を背に抱き締めさせ料理開始。かなり余裕を持って調理出来た。実はこれが新居に引っ越してからお初。出来ればいつもこうでありたい。無理かな?
 その後歯を磨いた二人は忠弘の提案通り通りコメディ映画を鑑賞した。
 忠弘曰くラマダよりミシェルがいい。この意味のない後方宙返り、及びパンティなしによるナマ足360度回転大開脚はやって貰いたい、して? さぁや。だと。するか出来るか。
 清子の好みはバリバリの恋愛映画。ドラマも恋愛もの。最近でいうとのだめカンタービレ、太王四神記。どちらも主演男優の優しくてセクシーな笑顔がいいと言うと。
「そうか、さぁや。俺の目の前でんなこと言うか」
「さっきミシェルの方がいいって言ったくせに……」
「後方宙返りとナマ足360度回転大開脚をさぁやにして貰いたいと言ったんだ」
「それで2の方がいいって言ったの?」
「それ以外あるか」
「……よくそれで仕事してるね。あのね、きわどいこと訊くけど、その……あのそれ……で、どうやって普段歩くの?」
 普段欲情ばーっかしている男が。
「んなもん野郎根性に決まっている」
「……どういう根性……」
「あまりきわどい話をしないでくれ。耐えているんだ」
 きわどい話ばかりするのは忠弘の方だ。
「だったらその……あのね、私ゲームしたいな。午後はお昼寝したい。いい?」
「いいぞ。ただし、イヤホンよりヘッドホンの方が音がいい。外れないしな。済まない、勝手をしてさぁやのマシンを少々弄った。それで聴いてくれ」
「よく分かんないけど、音がいいのね」
「そうだ。ヘッドホンは俺の好みでSTAX」
「??? 難しそう……ごめんね、私研究とか……」
「俺がする。とにかくつけてみてくれ。思わず聴き続けたくなるぞ。さぁやは仕事もそうだがゲームに対する集中力も凄い。邪魔はしたくないが飯の時間になったら言うからな」
「うん。お任せ」
「任せろ」