23

「えっと……」
 いや待て、まさかあれをそのまま言うわけにはいかない。
 さりとて嘘もいけない。一旦間を置きたかった。そして、さっきからこうしたかった。忠弘の手を今度は清子が取る。傷に朝のキスをしたいな。舌付きの。
 そこで、はたと気付いて夫を下から見上げた。
Q:しちゃったら致しますか?
A:致します。
 夫婦の会話が視線で成立したので、清子は忠弘の右手を握ったまま、単に自分のふとももに置くことにした。そしたらナデナデお触りされたので、なんとなく右手でぱたんとはたいた。なのに忠弘はこんなことすら嬉しそう。今度つねってやろうか。
 ……もっといたぶって、とか言われそう……
「おっほん」
 気を取り直す。そう、言わなくては。全部といわず、しかし隠さず。
 ダメだろう巨根は。入社出来ないほど笑われたのもペケ。他所の男んちへ上がり込んだもイケない。
 ……言えないことだらけじゃない?
 友情と愛情と突発的出来事のはざま。迷い揺られて言葉を拾う。
「ん……と。
 忠弘が会社を出て行った後、私も奇声と共にお偉いさんに呼ばれたのね。あのおじいさんが来る、私次第で取引も開始してくれるそうだ、どうなっているんだって。訊かれたけど、私だってさっぱり分からなかった。
 退職の話を上司としている時だったけど、おじいさんが来たから中断させられた。でも後で、ちゃんと退職させてって一課長に頼んだから。間違いなく、今の私は山本家の専業主婦」
「よくやったさぁや」
 待っていただろう響きのいい言葉を聞いて、忠弘が浮かべた笑みは五歳児というより、歳なりの、家庭を持った男臭いものだった。
 どっちも好き、だから欲が出る。中間も見たい。
「老人クラブとやらの実態を知りたい。なにせさぁやとその老人だけしか分からん。案内役も知りたがっていたくらいだ。どうだった?」
 この話に関わったなら誰もが知りたい筈。
 同じことを何度も言うのは結構疲れる。そして時間が経つほど自分の中で消化しがちになる。
 あの大邸宅を出てから更に大きな出来事があった清子は、言葉を選ばなければならないこともあって、忠弘向けにと少々まとめて話をした。
「十三歳で就職した頃、初恋の君に出して貰ったお茶とお握りの味が忘れられない。奥さんも誰も、あの味を再現してはくれなかった。
 一課長がそれを知っていて、ひょっとしたら私が再現出来る人かもしれないっておじいさんに知らせたんだって。そしたらその足で私達の会社に来たって。三十年も家から出たことがなかったのに。
 希望通りお茶を淹れたら、偶然大当たりだった。静かに泣かれて感謝された。味を再現してくれたから帰して上げる、ありがとうって。
 もし違ったら、今頃どうなってたかなあ……」
 それでも根性で帰っただろうが、金持ちの思考というものは本当に分からない。口に出しては言えないが、しおりも椎名も同類だ。どうして忠弘以外で人生変わっちゃったんだろうか。
「そうか。さぁやはその後、一課長・秘書と朝まで飲むとメールで知らせてくれたな。なにを話した?」
「えー、……っと」
 ここが肝心だ。表情は今まで通り、内心どきり。まるで不貞を働く妻のような心境で。
「あのね、怒ると思うけど。私忠弘に好きって言うの、あの日にしようなんて、あの大会社へ行くまで考えてなかった。言ったら捨てられると思って、怖くて決心なんてつかなかったの」
「俺はさぁやがどう考えようと、言ってくれなくてもさいごまですると言ったぞ」
 強い言葉が返る。
「ただ単に途中で一杯のお茶事件が起こっただけだ。陰謀だろう温泉出張があっただけだ。
 逢えば抱いた。全部言わせた。他人の思惑など関係ない」
 カッコいいよ? また惚れちゃう。
「ン……言った、きっと」
 一世一代の大告白。あの時の気持ちが蘇る。
 たった一度だけだから。想う人に、無理やり言わされるのもいいかもしれない。
 今度頼んでみようか。どう口説いてくれる?
「でもやっぱりお茶事件は起こっちゃうんだよね……。
 大会社へ行った時、秘書からされた恋愛バナの内容を言わなかったでしょう。ああいう個人的な話は他言するもんじゃないと思うんだけど、愛しの忠弘は他人じゃないし。後で言うけど、必要があるからどういう内容だったか話すね」
「俺がさぁやの愛しの夫だ。俺達にとって他人の話など興味はない」
 きっぱり強く言い切る。カッコいい。
 惚れ惚れ光線で微笑みかけると、さらに思わせぶりな笑みが返る。もう、全裸まであと何秒?
「そう言うと思ったけど、後で必要だからちょっと聞いて」
 今でないともう機会なさそう。
「分かった。興味はないが言ってくれ」
 すんなり同意を得られたからには、さぞ忠弘もそう思っているだろう。全裸を特に。
「秘書はあの通りの美女で大層もてる。政財界にセフレ多数」
 途端表情はまたも激変、つまらなそうに床に視線を落とす忠弘。清子だってこんな話、夫と面と向かって熱く話せない。大きな手を撫でながら、それでも友達の大切な話だから、きちんと伝えた。
「でもね、本当に好きな人はいなかったって。それでも構わなかったらしいんだけど、ある日唐突に本命の彼氏を見つけて唐突に迫ったんだって。でも結局はフラれちゃった」
 泣いただろう、ヤケ食いして飲んで騒いで買い物して。
 他に出来ることなんてない。
「本命の彼氏っていうのは秘書いわく、ヤボな冴えないぽっちゃり男。でも、それでいいって。惚れたら美醜も体の相性も関係ない。そんな相手を見つけられること、両想いになれること。それがどれだけ奇跡か分からないの?」
 忠弘は下を向いたままだった。
「相手を見つけられたのに、好きなくせに、好き好き言われているくせに告白しないとはどういうことだ、今すぐしろって実は秘書にも言われたの。
 結果は一課長から一本取ったんだけど、週明けに結果報告を頂戴って。決心がついたのはあの二人のお陰なの。だからあの二人と飲みながら、今度は私から恋愛バナした。
 結論を言うと、ものすごーーーーーく怒られた」
 忠弘は即座に手を握り返し迫った。
「何故。怒られた? 今度あの二人に会ったら怒鳴り飛ばしてやる」
「今度会ったら雲の上の人だってば」
 怒ったあなたもカッコいい……
 って今度言ってやろうか。ベッドで体力のあるうちに。
 空いている右手人さし指で、深く刻む眉間の皺をツンとひと押しして上げた。ゆっくりと怒りを収めてくれる。
 両極端もいい。その中間、ゆらゆら揺れるところも全部いい。
「ほら。私は入社式から、最初から忠弘をいいなと想ったのに、したことといえば全部正反対だったでしょう、結ばれる直前までずっと。惚れた男を地獄に突き落とし続けたとはどういうことだ、一本取られたから黙っていようと思ったがそうは行かない。って懇々と説教された」
 忠弘寄りの正しい説教内容をその通り言ったのに、またも途端に怒り沸騰で、
「さぁやから言ってくれたのに説教とはな。今度会ったら怒鳴り飛ばすだけでは済まん」
 誰よりも好きな人を庇ってくれる。
 もし同じ課だったら? こんなふうに一緒に仕事出来たら、とても意地なんか張れない。
「ン、いいの。私、それだけ忠弘に酷いことした」
「していない」
 即答しないで、好きになるから。
「今となっては大嫌いと言われても勃つぞ。さぁやのどこにでも俺を挿れる。犯りまくる」
「ン……後でお願い」
 お相手しましょう、地獄の谷底でも。天国の扉の前ででも。
「致したくなって来たがまずは話だ。ただしさぁやがどう庇おうとあの二人は怒鳴り飛ばす」
「そんなこと言わないで。忠弘が可哀想って言ってたよ」
 過去を知ったなら、泣いたかもしれない。椎名もしおりも。
「俺に同情していいのはさぁやだけだ。興味ないのに、さっきからさぁやは他人の話ばかりしているぞ」
「うん、実はその……」
 関連しているから喋っているし、忠弘の為にしたけれど、言いつけを守らなかったというのは実に言いづらい。
「あのね、怒ると思うけど。私、料理もそうだけど忠弘に、もっと美味しいコーヒーを淹れて上げたくて。ほらあの、日本一の喫茶店に三人で行ったの。実際、コーヒーを淹れている所を見たかったの」
「……怒るぞ」
「……ごめんなさい……」
 我慢出来ない忠弘はもっと触れたくて、まず腰に腕を回して強引に抱き寄せた。それでも足りなくて、清子を抱き上げ膝に乗せ、がっちりと抱き締めた。ほほをすり寄せる。全身でスレンダーボディの体温を感じ、エロい美乳の谷間をより深くする。
「行くなと言っただろう。誰を勃たせた。何人ハメた」
「そんなことしてない!」
 くちびるとほほがまず先に。いい声過ぎる、どうしよう。
「ごめんなさい……もう、敷地内とかから出ないから……って言いたいんだけど、出る予定が……」
 清子だって忠弘の言う通りを全部したい。しかしそれだと体力が尽きるのだ。イかされるって汗だくの全力疾走なんだぞ、そっちだってそうだろ、なのになんで一人だけケロっと何発も!
 こんな至近距離で迫られりゃ、そうも言えない。
「そうか。さぁや。
 ……怒ったぞ」
「怒ってもいいから聞いて、お願い、お願い……」
 手綱なんて取れません。
「返答によっては。警備など知ったことか、家から一歩も出さん」
「怒んないで、機嫌直して……」
 忠弘直伝、くちびるを合わせながら想いを伝える。
「……くそ。さぁやに機嫌を直せと言われれば……分かった、聞く。言え」
 この、複雑そうな表情もたまらない。困った状況にあるのにクラっと来てる、どうしよ。
「すっっごい、意外な展開になったの。ここからは、私が主役じゃないの」
「さっぱり分からん」
 そりゃそうだろう。
 清子の話ではないので、くちびる密接で、は止めておいた。忠弘もこの方法で聞く気はないようで、ほっぺをすり寄せながらチチを揉みたさ気。
「喫茶店に行ったら、秘書が唐突に本命の彼氏を見つけたの。そこのお店のウェイターさんだった。秘書は本命を見つけたが最後、その場で結婚するって決めてたらしくて、結局私は店内に一歩も入んなかった。ちなみにお客さんはいたけどマバラ。奥の部屋ではその……秘書とウェイターさん、致しちゃってて……そんなの誰も見たくないでしょう。マバラなお客さんは私を一切見ることなく全員脱走、お店のマスターさんまで脱走したの」
「さっぱり分からん」
「うん、そうだと思う。こんな展開なのに、秘書の相手を見つけた手柄は私にある、だから私は秘書と直接会って、秘書から感謝の言葉を聞かなければならない。おじいさん、案内役、秘書、一日に三人も動かすとはな。さすがの私も負けたわ、完敗よって一課長に言わせちゃった」
「さすがさぁやだと言いたいが、さっぱり分からん」
 忠弘はここまでの話で、昨日の日中清子は全く休めなかった、ということを知った。
「動かしたって言ったって、単なる偶然。私はなにもしていない。なのに人生を変えたな、大人物を次々動かしたなって重責負わされて。正直言ってつらいの。私は忠弘を愛したい、愛されたい。縋って甘えて貰いたい、それだけ。だからそれ以外は全部忠弘にお任せしたいの。いい?」
「いい」
 愚痴を言わせた忠弘。妻だって溜まっているものが相当ある、もっと吐き出させなくてはと思っていたから、外で飲むと言われても反対しなかった。
 それなのに、偶然が重なったとはいえこの結果。
「さぁやが勝手に負わされたその重責、全部俺が負ってやる」
「うん、お願い……」
 目を閉じるとすぐに舌がレロレロ搦まり、ほどなく激しく貪られた。いつまでもこうして来ない男じゃない。
 息が苦しくなっても、そう想ったのに解かれて、もうとっくに熱くなったのに、
「言って……さぁや、まだあるだろ……」
「ン……」
 そう、約束を果たさないといけない。
 ……あとはもう。