22

 どうして? 一課長はイエスと即答している筈だと。聞いた清子自身も間違いなくそうだと確信したのに。しかも内容を聞く前にとは。
「現在我が社は未曾有の混乱時期だ。なのに全権を委任された俺が今日で辞めますなど言えるか」
「……あ」
 そうか、なるほど。言われてみればその通り、忠弘が正しい。サラリーを貰って生かされている以上、社内がどんな内情だろうと即座に断るのがスジ。その気があるといわんばかりにどんな内容かと訊くなどもってのほか。
 清子は反省した。こういう、気が昂ってしまう情報を思いもかけず耳にすると、途端に周りが目に入らなくなる。それだけでいっぱいになってしまう。
 お茶事件の真相を知った時の対処、自分と忠弘の明確な違い。
 下を向いてしまう。するとすぐに、
「さぁや……」
 甘えた声が、舌が耳に這う。ぴくんと反応したら、熟れた瞳が交わった。
 すぐに気を良くして左手の薬指を再び攻める忠弘。ちゅばちゅば音を立てて、それが楽しくて仕方ないと、なお一層舐めまくる。
 いけない、その度落ち込んでいたら忠弘が泣いちゃう。
「言って?」
 大丈夫、ちゃんと聞く。
「うん」
 気分直しに朝のキスを。迫るのが大好きな忠弘が目を閉じずに。
「すかさず言い返された」
「ン……なにを?」
 舌が舌をとらえれば、あっという間に致してしまう忠弘。指を味わっているのは、まずは俺がと言った手前だろう。
「だったら十割復帰の件はなしだ、こちらの話は元よりそういうことだと電話で直接伝えた筈だが? だと。ぐうの音も出なかった」
 拗ねる忠弘。まるでこども同士の、端から見れば可愛らしいケンカに負けちゃって、でもそうと認めたくなくて意地を張っているわんぱく坊やのよう。
 弟がいる清子は、そんな場面を何度も見て来た。いくつになってもコドモだなあと、今でもあの弟をそういうふうに思っている。なんとなくそれを思い出した。
「……そっか」
「よって前向きに検討せざるを得なかった。内容を聞いた」
 椎名が語ったほぼあの通りだろう。四ヶ月間二人きりだ、体力が。
「断った」
「え!?」
 あの内容でも?
 清子はもう分からなくなった。どう考えても考えが及ばない。最近ほんとにこればっか。もういいやと、次の説明を待った。
「なにが才覚次第でしか家に帰れん、私用電話もメールも許さんだ。さぁやとて一日俺と逢えず声も聞けずでどうなった」
「すーーーごく、寂しかった!」
 吐かされ言わされ飲まされ食わされ、結ばれたばかりの夫と引き剥がされ。阿鼻叫喚のたいへんな一日だった。あんなのはもうご免だ。
「だろう?」
「うん」
 四ヶ月間はともかく、そこから先はほとんど逢えませんよと言われたようなものだったな、と今更ながら気付く。
「俺とてそうだ。論外だ。そう答えたら合格と言われた」
「え?」
 なんの? まさか試験勉強とか?
「仕事以外しない男など無能、要らんと言われた。つまり俺は一課長、補佐だけではなく、案内役にも面接されていた」
 引っ越しの実態は就職試験の最終段階、役員面接だったらしい。車内でなのだから随分な圧迫面接だ。
「よって言ってやった。六割復帰は俺の手柄じゃなかろうと」
 気付いている? 反応の仕方が分からない。
「大会社の体面が保てるのは俺達の会社が即日倒産することだけ。なのに細々とでも営業続行など、体面を自ら捨てたも同然だ。しかもその理由が、たかだか入社二年目の若造の説得ごときで? 有り得ん。理由は別にあるなと言ったら合格と言われた」
「……それで?」
 さっきまでと違い、急に話が見えて来た。
 案内役は大層な人物。おそらく一連の全てを知っている。その上で、この件で最も核心から遠ざけられ、知らされなかった人間を面接した。
 結果はすかさず合格。
「その程度も見抜けん、自分のお陰と思い上がった若造など要らん予定だったが結構だ。こちらに来ないか、十割復帰、こっそりレベル10をやろう、どうだと言われた。俺はさぁやと相談してからと言った」
「……そっか」
 いいよ行って、と言おうとしたら、
「すかさず言われた、この新居の売りは内装家具装備品だけじゃない、警備だと。さぁやは逃げも隠れも出来んぞと。
 よって俺は転職の件を二つ返事で了承した」
「あの、……ね」
 清子はがっっっっっくりと来た。なにを自信満々に……
「忠弘。ちょっとツッコんでいい?」
「いくらでも俺をさぁやに挿れる」
 人の話を聞けというに。
「だから。私と逢えない、ってことじゃなかったっけ?」
「んなもん根性で帰るに決まっている。才覚次第というなら望む所だ、どんと来いだ」
「……そ。う……」
 こころのどこかでチラっと悪魔が“四ヶ月後は解放される”と囁いたのを、夫は見逃してくれなかった……負けた。負けたのだ。潔く毎晩致されよう……
「話はおわった。転職を決めたので、さぁやには引き継ぎをするなと言っておいて俺はする気満々だった」
 なんたる男だ。それでも夫か。
「顧客業者にも挨拶しなくてはならない。帰社すると言ったらなんだつまらん、そんなことをしなくてはならない程普段の繋がりが薄いのか、男ならスッパリ辞めてみせろと言われた。ぐうの音も出なかった」
 思わず拍手。
 とはいえ、案内役とは一体どういう人だろう。
「再就職は四ヶ月後だ。その間式だ披露宴だはやりたいだろう。新婦側の衣装は一課長と秘書が世界一のものを準備する筈だが新郎側はどうすると訊かれた。言い返せなかったら言われた、即断しろと。目の前にいる人物が誰かまさか分からん訳ではあるまい、活かせるチャンスと判断出来たら決して逃すな、それすら知らんか、なにが営業だ、なにが男だ。散々言われた」
 その通りと思うがひとの夫に散々とは。どういうやつだ。
「要するに、俺の衣装も結婚指輪も世界一のものを準備してやるから頼れという意味だ。新居も、ある意味転職もそうだが、何故そこまで面倒を見ようという気になったのかを訊いた。そうしたら、一課長の未来の部下の面倒を見れば一課長に貸しを作れる、よって大手を振って引退出来る。是非頼れと言われた」
「……がっっっっっくり」
 もういい加減にして。
「一課長は案内役の夫人の面倒を長く見たそうだ。その後案内役がさあ引退するぞと言ったら一課長に、あんなに面倒を見てやったじゃないか、なのに名誉職にすら残らんとはどういうことだ、そんなに言うんだったら搦め手だ、夫人の方に言って引退させなくしてやると言われ、ぐうの音も出なかったそうだ。よってこんな機会を窺っていたと。さぁやが一本取ったと聞いてこれだと思って即断即決、おフランスから速攻で単身帰国したそうだ。さぁやには是非礼を言っておいてくれと言われた」
「……あっそ」
 んなもん知るか。
「さぁやに感謝していたので、指輪と俺の衣装は頼むことにした」
 いいのかそれで。
「新婚旅行はどうするか訊かれた。多少俺の趣味を知っているらしく、アウトバーンを走りたかろうとズバリ言われた」
 車に興味のない清子にとってはなにそれであるが、Autobahnとは車好きなら垂涎の全線無料、速度無制限のブっ飛ばし高速道路である(一部語弊有)。
「思わずその通りと言いそうになったら、フランスにも教会はある、足を延ばして式をそこでしてはどうか、そうすれば夫人息子と一緒に列席出来ると勝手なことを言われた。だがおフランスで式を挙げるなら客は全員プライベートジェットで優雅にご招待だそうだ。友達にタダで海外旅行をさせてやりたい。アウトバーンも走りたい。さぁや、どうしよう」
「そこでいきなり話を振られても……」
 その辺の、小さな教会でというつつましやかな話がどうしておフランス。
「考えておいてくれ」
「……うん」
 答えたはいいものの。なんとなく、忠弘の目が車の形になっているような気がする。
「この新居のことを多少聞いた。俺は料理のりの字も知らん、俺独りでは食材の一つも買えん。なのにさぁやを家から一歩も出さないとはどういう了見だ、不健康だ、警備があるからさぁやを外に出せ、敷地内をちゃんと散歩させるように。と言われてまたも反論出来なかった」
 よかった散歩は出来る。
「新居新居というがマンションだ。当初は案内役と夫人しか入居者がいなかったから敷地内にコンビニなどないし作らなかった。だが後に二組知人を入れた。あまり多くを聞けなかったが訳ありな世帯らしく、私有地をほとんど出られないらしい」
 なんて可哀想な。ひとごとじゃないぞ。
「そこでそういう店を後付けでこしらえたそうだ。散歩場所は共有だ、会うかも知れんが訳あり世帯だ、こんにちはと言う程度に留めてくれ、だそうだ」
「うん、分かった」
 なにせ今時、粗品を持って近隣に挨拶へ行こうものなら、一人暮らしの女がここにいますと吹聴しているようなもの。こんなご時世、訳ありというなら、せめてそっとしておいて上げたい。
「さぁや。室内も見せるが、後で家の外、敷地内も歩いて、コンビニにも行こう」
「うん」
「話はおわった、新居に帰せと言ったらまだ説教があると言われた」
 今度はなんだ。
「なんだと思ったらこうだ。案内役は体が今のように出来上がってから十うん年間、毎日量る体重は小数点第一位まで同じだ、これが健康管理というものだ、まさか出来ていないわけじゃなかろうな、と。俺は知っての通り食生活、睡眠状況共に最低。体重など毎日増減した。ぐうの音も出なかった」
「……そっか」
 やはりもっときちんと料理の勉強をしよう。苦手中の苦手、カロリー計算と対決してみるか。
「料理のりの字も知らない男に説教してやる。致しまくりでさぁやの体力を奪っておいて飯まで作らせるとはどういうことだ。三食きちんと食わせているだろうな。さぁやの健康こそきちんと管理しろ。言っておくがさぁやの体重が今の段階で前より減っていたら、警備に言ってさぁやを誘拐してやると脅された。さぁや、体重何キロ?」
「……えーっと……」
 スレンダーなのがちょーーーっと自慢だったりするけれど、毎日毎晩アレだとその内アレコレ干涸びてしまいそう……コンビニへ行ったらまず水だ。
「このマンションは空調も完璧だがそれに甘えるな。間違っても風邪など引かせるな。まさか致した後ろくに風呂にも入れず、さらには真っ裸でうろついているんじゃあるまいな、と言われたので、心の中で、この野郎は俺達の家を盗撮でもしているのかと疑った」
「……そう」
 なんでこう極端なの?
「都内有数の総合病院を紹介された。行く場合は婦長室に直行しろ、待ち時間なし、医療代もこれまたタダだと。風邪薬を始め各種医薬品をどっさり貰った。生理用品、生理痛に効く薬もどっさりある。さぁや、使って」
「……うん」
 てんこもりで準備されていそう。帰る頃に重い生理が始まります、という言い訳は全く通じない模様。容赦なさ過ぎ。
「旧宅を紹介してくれた友達には、俺の妻は御大尽で豪勢なマンションを持っている、こちらに来ないと結婚しないと脅されたので仕方なく引っ越した、勘弁してくれと言い訳した。さぁや、許して」
「うん、いいよ……」
 今日は痛いから許して、と言ってもこの男。勘弁する気ないだろうなあ……
「説教もおわったらしいので、いい加減帰せと言ったら老人クラブとやらの実態を訊いたぞさぁや」
「うっ」
 ちょっと睨まれた。それもカッコ良かったので、朝のキスをして上げた。そういえばこれって元々、こんなだからしていたな。
 忠弘はというとまたも気を良くして、今度は大人の男の笑みを見せた。ニヤっと。それがまたたまらない。
 爪の先まで愛して、なんてコピーをどこかで聴いた。この男がそう。くちびるで繊細に触れるから、今までは興味なかったけれど、してもらった爪のお手入れを自分でもやってみようと思う。
 手首を掴まれた時は、その男の舌で生命線を自覚するなんて思ってもみなかった。
 こっちの方がちっちゃいのに、髪の毛を撫でて上げるときは、自分の手がとても大きく感じる。
 忠弘を扱くときは、自分の指が別モノのようになる。
 話があっちこっちに振り切れているけれど、思えば自分だって、そうだ。
「まあいい。あの老人とやらがどれだけ大人物かは多少知っている、お触りなど有り得ん。さぁやは優しい、敬老精神の一つも出して当然だ、俺とて頼まれたら同じことをする。もっとも俺の茶を気に入るとは到底思えんが」
「お茶を淹れたことがあるの?」
 あの会社、男は絶対しないのに。
「社外の新人研修でやっただろう」
「あ、そういえば」
 そんなこともあったっけ。するとひょっとしたら、その時少しは会話をしていたかもしれない。
 清子が忘れた昔を思い起こしている間、目を閉じた忠弘が清子の左手首を舐める。脈のところに這うくちびる、熱い舌に感じてしまう。それを忠弘も分かるから、なお熱を帯び愛撫を続ける。
「ン……ね、大体お話、おわり?」
 なんだかもう、致されそう。
「まだある。ちょっと不思議な話だ、聞いて欲しい」
「? なに?」
 舌をゆっくりほどいて、今度は指を搦める忠弘。やさしい手だと囁きながら、妻の細い指を無骨な傷だらけの指で愛撫する。
 心臓とくとく、音も繋がって。
「帰り際、夕飯と朝飯を渡された。どう見てもでかい弁当だった。俺は手弁当などさぁやのしか食わんと言ったら、さっきそこらで買ったコンビニ弁当だと言われた」
 敷地内のじゃなくそこらのか。
「案内役の肩書きにしてはそれはなかろうと内心思ったが、さぁやに心配させたくない。食うだけ食ったら何故か大笑いした」
「? なにそれ」
 味がしないじゃなくて?
「分からん。おそらく、笑い茸が入っていたのではないかと思う」
「? ……そこらのコンビニ弁当に笑い茸?」
「俺もそうは思うが、飯を食って大笑い、など笑い茸に違いない。夕飯にも朝飯にも入っていた。ろくなコンビニじゃない」
 妖怪が経営でもしているのか。
「……へんなの。量は間に合った?」
「間に合った。段ボールに十二個入っていてな。訊くと、権力を振りかざして弁当納入業者を脅して規格外のサイズをその場で作らせたそうだ。間違いなく笑い茸も入れている」
「……すごくへんだよそれ」
 段々感覚が麻痺して来た。
「俺の話は一旦終了だ。さぁやからのツッコミがあまりなかったな」
「……そう?」
 全部を声に出して言ったら一旦終了の言葉を聞けるのはいつの日か。
「俺はツッコむぞ。さぁや、順に話してくれ」
「うん」