21

 淡い朝だった。
 ゆるやかな明るさを感じ、ぼんやりとまぶたを開ける。ここは……
 こうも豪奢だと、却ってすんなり受け入れられるのか。穏やかな静寂は寝具すら眠りにつかせていた。
 ゆっくり起き上がる。けだるさは感じない。肌も露な夜着を脱ぎ捨てる。なんだかまるで人妻のようで、一度やってみたかった。
「……あ」
 まるでもなにも、人妻だ。そう、寝汗を流さなきゃ。
 ピンと上向く色づいた乳首を似た色の陽に向けたまま、しばし景色を堪能した。なにも纏わず、この時間をひとりで過ごすことはもうないと思う。
 これから夫に逢う。
「おっと、……かあ」
 そう呼ぶと意識したのはいつからだろう。仕事で身を立てる、挑んでやると思いながら、もうなくならないほど激しく想いを刻まれたあの時か、それともあの日か……
 風呂場で丹念に身を清める。これから向かう先は二人が過ごしたあのマンションじゃない。新婚新居だ。そこにいるだろう忠弘。
 風呂上がりにもう一度、バスルームの大鏡でチェックする。眼鏡をかけなくても見えるこの喜び、何度でも大感謝。
 短くした髪を、今までとは違った表情で撫でていた忠弘。撥ねてないかな?
 しおりにも褒められた美乳。今まではただ、ちょっと自慢、というだけだった。もう、チチと言われ、見られるだけで激しい愛撫以外連想出来ない。される為にある部位。
 乳房を意識するとすぐに体の奥に意識が向かう。
「……行こ」
 色づく裸体のままベッドルームに戻り、しおりに貰った下着を着ける。こんなぴらっぴらのもの、誰がなにをどうしてデザインするのか。破廉恥な気分も満点だ、さてどう脱がされるか。いやらしく脱いで誘ったろうか。
 椎名に貰ったピンクのペチコートドレス、ニットチュニックに着替えた。

 次は腹ごしらえを。
“まず食べておきなさい”まさにその通り。いくら望みだったとはいえ、あの日から空腹が切実な問題となった。自分が手間ひまかけなければ食べ物のたの字も出ない。おなかはぺこぺこ、後ろからその気満々性欲丸出し男がぎゅうぎゅうに抱き締めて来る。回避方法が見当たらない。せめて食べられる時に食べておかねば。
 ルームサービスを注文した。これぞ手抜きの真骨頂よね、と思う。何度かホテルに泊まった経験はあるものの、安い所だけだったので、そんなサービスは元々ないか、あってもぼったくり値段を目にしてメニューを机に仕舞っておしまいだった。金勘定を意識すべき社会人となると、内勤が主ということもあり、外泊自体がなかった。
 室内の家具と同じ樹木で出来たメニューを開くと、今朝の為だけに準備されたラインナップが並んでいた。旬の野菜・魚がブランド広告さながらに生き生きと映されている。
 朝は和、米のご飯と決めている清子は和食を頼んだ。後から、出して貰えるあんな時くらい洋食にしときゃよかった、と少しだけ思い返した。
 食事後もチェックアウトの時間までのんびり過ごすわけではない。部屋を出る支度をする。つい、さっさぱっぱと段取りを考えながら行動した。これまた後で、あの時くらいはと思い返した。
 華奢なバッグから携帯を取り出す。不在着信もメール着信もなかった。一件も。
 おかしい、こんなことあるわけない。そう思って夫に電話したが、コール音が鳴るだけで出ない。
 まさか? ううん、まさかまさか。
 一体向こうはどういう状態なのだろう。あの根っからの不眠症男に限って、朝だからまだ寝ています、はない。たとえ眠っていても妻の着信音にだけは反応するような男なのに。
 ずっと鳴らしっぱなしにしても全く反応なし。ただ同じ音が機械から聴こえるだけ。
 だったらメールをと思った時、重厚な扉の向こうからノックの音がした。あの大会社の室内で聞いたものと同じ。朝食が来たのだ。声が届くかどうかは分からないが、どうぞと言った。
 入室して来たのは天下一の美女ではなく、相当の役職を持つと思しき年齢の女性だった。なんの存在感もない黒子に徹し、食事を運び、テーブルに並べ、さり気なく来てさり気なく戻って行った。
 両手を合わせ、ひとりでいただきます。海藻のみそ汁に、うん、これなんかいいなと食べる。いつものマンネリ朝食はみそ汁の具までマンネリだった。変えてみるのもいい、と今更思った。
 ご飯は一粒一粒が立っていて、つやつや炊きたて。梅干しは甘い肉感の紀州。魚は優しい焼き上がり。漬け物は二切れずつ三種類。どれも上品の一言。
 おいしいご飯をありがとう。清子は滂沱を真似つつ、噛み締めて食事した。なにせ出して貰うことはこの先ない。ほとんど。
 都内一と豪語する飯屋でも満足しなかった忠弘。誰の茶も満足しなかった老人。この食事を前にすれば、なぜだろうとしか思えない。片や手抜きなのに、天と地だ。
 それでも滂沱で喜んで貰えるのだから、ひとの価値観は全く分からない。

 ありがたく食べおわり、よくよく一礼。歯を磨き、もう一度室内を確かめてから部屋を出た。下へのエレベーターはさてどこか。
 高く広く長い廊下の、視界の端にようやっと、先ほどの女性を捉えた。いたという感覚もないほど静かに佇む女性は、清子に一礼し、先導してくれた。ゆっくり歩いてくれるものだから、せっかくだからと、去り行く空間を堪能した。
 エレベーターに乗り、扉が閉じる。女性はなんのボタンも押さなかった。上昇、下降の感覚がない、箱の中のひとときを過ごす。
 一階へ到着すると、少しずつ現実感が戻って来た。人がいる。それなりの数がめいめいの方向へ、速度で歩いている。ああ、朝だ。
 女性について行って、フロントの前を通過し、ホテルの玄関へ向かう。入り口のすぐそばに、思った通りあの、白く輝く車がいた。
 大きなガラス張りの自動扉が開くと、風が触れた。外だ。
 今日は平日。ゆっくり起きたから、もう通勤ラッシュはおわっている。とっくの昔に皆起き出して一日を始めている。行き交う人々の多さ、忙しなさ。いつもああして、我先にと焦って急いで歩いた。
 これからは、もう違うんだ。ごはんつくって一緒にいて。
 白手袋をした制服の男性は、まぶしげに、今までを見つめる清子を見守った。

 後部座席に身を落ち着けてからは、ずっと電話を掛け続けた。なのに機械の無情な音がするだけで、出て貰えなかった。
 三日間もこうしてしまったのか。言いたいこと、怒鳴りたいことが山ほどあった筈なのにキスしてくれて。求められた、もどかしげに、情熱的に、なにもかも全て。
 電話がだめなら、逢ってキスをしよう。自分から、つま先立って舌を搦めて。もっと激しく応えてくれる。
 車が停まり、ドアが開く。目的地に着いたようだ。携帯を閉じてバッグに入れ、降り立った。

 陽光は角度を上げ、日中の明るさに照らされたそこは、五階建ての洒落た洋館のようなマンションだった。ここで喫茶店をやるのも悪くない。ただ静か過ぎて、人の出入りの多さは似つかわしくない。まるで以前行ったことのある、看板さえどこにあるか分からない、注文の多い喫茶店のよう。
 いい天気だった。
 高層ビルの玄関口とはまた違ったマンション玄関の、これまた値の張るガラスの自動扉をひとつくぐる。守の者を背に残し、扉が閉じた時、左手に管理人室があるのに気付いた。
 マンション暮らしをして三週間。アパートと違い、そういうものがあることに違和感はなかった。ただ、しおりと椎名の口ぶりでは、全くの他人がこの敷地内にいる、という感じではなかった。
 そこで思い出した。そう、警備の者と言っていた。これがそうか。
 正面に向き直すともうひとつ、ガラスの自動扉があった。清子が立っているのは風除室と呼ばれる、文字通り風よけの部屋で、大抵どのマンションもそういう構造となっている。清子のすぐそばにあるオートロックもそうだ。都心の一等地というからには全く違う造りかと、不慣れに心配していた清子はひとまずほっとした。
 しかし、ロックの解除方法が分からない。忠弘は清子に自宅の鍵を持って貰うことをなにより望んでいたが、今回はその当人が電話に出てくれない。鍵穴に挿す鍵も持たず、テンキーの操作方法も分からない。さて困った。これはそこにいる管理人に訊けということだろうか。出来れば開口一番は、忠弘に告げたい。
 迷っていると、ガラス扉がすっと開いた。マンションでこうだと、入れということ。行くしかない。
 エントランスも贅沢な造り。控えめで華美じゃない。派手派手しいなら短気な清子、さっさと出て行ったがここはしおりと椎名が準備した物件。静寂の空間をさっきのホテルのように堪能した。
 奥にはエレベーターが四基並んでいた。どれも扉は閉じてあり、それぞれに四つの操作パネルが置かれていた。一階暮らしには多少慣れたが、階上は不慣れだ。これまた自動で開かれないと。
 待っても、四基は全て閉まったまま。困る、どうしよう……
 すると、わずかに音がした。そちらの方、三時の方向を見ると、エレベーター扉ではないものの似たような造りの、引き戸のような自動扉がゆっくり開いていた。そこで気付いたが、操作パネルはここにもあった。
 清子は思った。そうか、ここの一階もひとが住むところなんだ。
 アパートはいざ知らず、マンションは一階部分が居住スペースでないことが多い。だから、連れ込まれた時にそう思った。
 こんなに分かりやすく開いてくれたのなら、ここが?
 誘われるように扉の奥へ。入ると、待っていたようにその扉が背後でゆっくり閉まった。ここで間違いないようだ。
 重厚で豪奢な造りなのは、エントランスだけではなかった。建物全て、なにからなにまでふんだんに金を掛けていながら控えめで、威圧感はなにもなかった。
 マンションながら天井の低さ、存在を全く感じない。通路の狭さも感じない。しばし歩くと、どこかレトロでノスタルジックな扉が一つ。ここが一階玄関のようだ。
 ノブをひねると、鍵は掛かっていない。思ったより重くない扉を開けた。

 すぐそこに忠弘がいた。
 ストレートのブルージーンズに白のオックスフォード・長袖ボタンダウンシャツ姿。背を向けて、チークの無垢フローリング上にあぐらで直座りしていた。
 清子は靴の紐をもどかしげに解いて玄関を上がり、忠弘に抱きついた。
「忠弘!!」
 広くて温かくて大きな背中、シャツ一枚があの無数の傷を覆う。甘い匂いを思いっきり吸い込んだ。
 いつもされているように、髪の毛をほほで撫でてみる。それから髪にキスをして、耳に、ほっぺに。きれいに剃られたひげの辺りに舌を落とす。
「忠弘、忠弘……すき、好き……愛してる……」
 この体勢ではキスってしにくいんだな。正面に回ろう。そう思って一旦腕を解き、真っ正面に向き合うと、忠弘は目をつむっていた。まつげが濃い陰を落としている。
「……忠弘?」
 眠っていないのは一目瞭然だった。
 ペチコートドレスの裾をふわりと翻して、忠弘が組む脚の上に女の子座りした。ついばむようにキスをする。
「忠弘? ね、忠弘?」
 口は真一文字に結ばれたまま。
 拒否されてる?
「忠弘……私に、……飽きた? 捨てる?」
 途端がばりと抱き締められた。強く、強引に激しく、痛いほど。温かいじゃなく熱い、これが好き。忠弘そのもの。守られている、大切にされている、よく分かる。
「誰がさぁやを捨てる!!」
「やっと声、聞けた」
 腕すら回せないほどぎゅうぎゅうに抱き締められた。体格差がよく分かる。厚い胸板、逞しい腕。組み伏せられたい、攻められたい、無茶苦茶にされたい、征服されたい、犯されたい。
 なんでもして、忠弘。全部愛して上げるから。
「どうしたの? ね、忠弘。すき。もう駄目……して……挿れて……犯して……」
 この熱さに、灼き尽くされたい。
「……さぁ、や……」
「……ん?」
 濡れて来たよ? 分かっているでしょう?
「俺……」
「ん……」
「……俺」
「ん……」
 声まで好み。耳元で、そうして囁いて。私を堕として。
「情け、……ないだろ」
「? なんのこと?」
 こうしているのは好きだけど、肝心の顔が見えない。
「……言っていいんだぞ」
「? なにを?」
「……情けないって、……言っていい」
「? だから、……なに?」
 数瞬、間があって。
「……鼻血ブー」
 清子はがっっっくり来た。完全ホールドされているので出来ないが、気分は頭を垂れたい。
「……いいぞ言っても。情けない男は大嫌いだ。ブーな男は嫌いだ。カッコ悪い男は大嫌いだ」
「忠弘が好き、あと知らない!! まさかそれで電話に出なかったの!?」
「出られるか!!」
 またしても大声で。耳元で狎れた愛を囁くなんて芸、あるわけない。
「……出たら……そちらさんのような情けない男は大嫌いと……言われるかと……」
 なにを言うか。
「愛してる忠弘って言った!! じゃなに、忠弘の妻は夫をコケにする最低女!!??」
 さらにぎゅうと抱き締められる。見なくても分かる、その表情。また眉毛をハの字にしてすねている。
「忠弘のさぁやはそんな女!!? 言って!!」
「……違う」
 なんて小声。こんなガタイのいい男が震えて怯えている。
「そうでしょう!? もう、妻に声聞かせなくてなにが夫!? 心配したでしょう、ご飯ちゃんと食べてるかなって、また眠れてなかったらどうしようかなって、ずっと心配してたんだから!!」
「……うん。……さぁや、……愛してる……」
 忠弘がほっぺで清子の髪をすりすりする。甘えて縋る忠弘の十八番。声まで五歳児。
 清子が身じろぎすると、忠弘も分かる。そう、キスをしよう。深く、猛々しく、もどかしげに、情熱的に。
 その分だけ腕を緩めて、同じ性に濡れた瞳で一瞬見つめ合い、すぐ目を閉じて、お互いの舌の分だけくちびるを開けて舌を求め合った。重ね、奪い合い、角度を変え、吸って搦めて離さない。甘い唾液を飲み合って。
『ん……ン』
 くぐもった声が広い室内に充満した。
 長く貪り合った舌は、どちらが離したのだろう。二人を繋ぐ、舌と同じ熱さの唾液がぷっつり切れてもなお視線で愛し合う。
「さぁや」
 見惚れるほどいい男。心配したけど吹っ飛んだ。
「……ン?」
「最終確認だ」
「……ン?」
「俺がいいんだな」
「……? うん」
「もう訊かないぞ」
「うん」
 言い切ったけれど、なんのことやら。
「……よし。だったら……話をしよう」

 忠弘は清子を抱き締めたまま立ち上がり、妻をひょいとお姫様抱っこした。
「?」
 清子は思わず目をぱちくりした。まさかこの男が、こんなに自然な動作でロマンティックなんて、する?
 驚く清子を尻目に、忠弘は生成り色とオフホワイトの、クラッシック過ぎない、レトロでノスタルジックなメインリビングルームに妻を連れて行った。繊細なレースのカーテンから光が漏れ、空間を淡く照らしていた。
 そこに清子をそっと置き、左隣に座る。
「色々言いたいことがあるだろう。訊きたいこと、したいことがあるだろう。俺もそうだ」
 うんうんと頷いた。いくら鼻血大噴出が恥ずかしかったと言ったって、連絡くらいくれたっていいじゃないか。無事は分かっていたけれど、ひょっとしたらと思ったじゃないか。
「だから、まず俺が順に言う。所々でさぁやに質問するし、さぁやも訊きたきゃツッコめ。俺の話がおわったら、さぁやが言ってくれ」
「うん」
 言いたいことは山だ。まずは昨日の、あまりにあり過ぎたあんな出来事。それから……
 忠弘が話し始めた。

「俺は昨日朝、ブーの後」
「もう……いいってば」
 忠弘は清子の左手を取って、指輪を舐め上げた。
「……ぅン、もう。すき、忠弘」
 まつげで濃い陰を作る目を閉じて、角度を変え、清子の左手薬指をくちびると舌で弄ぶ。ちゅっちゅ、と音を立てて。
「とてもさぁやに逢わせる顔がなく、さぁやの上司を説得することも出来ず」
「いいってば、もう……すき、忠弘」
「途端に奇声の上おフランス行きだ」
 そんなこともあったっけ。確か、実際はあちらさんがこっちへ来たとかなんとか。
「頭に来た。俺は周囲を怒鳴り飛ばす癖がある、らしい。陰でそう言われている。
 なにがファーストクラスだ、どうせ一課長と秘書の差し金だ。週末のさぁやのヒントでそれは分かった。あの二人を怒鳴り飛ばすべく、さぁやの手弁当を引っ掴んで会社を出た。それでさぁやと今の今まで逢えなかった」
「……そっか」
 確かに、差し金の件は当たっている。
「案の定、ビルの出入り口にあのでかい車がいた。そこまで俺に怒鳴られたいか、待ってろクソッタレと乗り込んだら車内に先客がいた。これを便宜的に案内役と呼ぶ。誰かは分かっているだろうがそう言うぞ」
「うん」
 おフランスから単身お出ましの椎名の上司か。大層な人らしいが。
「案内役は言った。引っ越しだ、新居へ案内する。中を見て、旧宅からなにを運べばいいか判断しろと。
 俺はこの時点でプライドずたずただった」
「え?」
 どうして引っ越し案内をされただけで?
「週末、さぁやから引っ越し、日本一、でかいマンションと聞いた時から、俺の人脈で手に入れた物と、新居とやらの中身がどれだけ違うかは予想していた。だがさぁやは甘い初夜を求めていたし、俺は他にもくどくど言い過ぎていた。だから言わなかった」
「……そっか」
 これは意外とロマンティックをさせれば出来るかも。キザな忠弘というのもいい。見たい。
「案の定新居とやら……まあ、ここだが。は。
 ……文句なしだ。少しでも威圧感、高飛車、華美、豪勢、などを思わせたらすぐ引き返したが、後で全室見せるが、なんらプレッシャーを感じない。最高級のものしかないのに存在を主張せず控えめで、どこかレトロでノスタルジックで……ほっとする空間というのは、こういうことをいうんだな」
 ああ忠弘も、同じことを考えている。
 人造コンクリートの冷たさがない、あったかい建物。
「俺が多少こだわりを持つ音響機器にしたところで完敗だ。詳しくは言わんが、いくらいい性能のスピーカーを持っていたとしても、それなりの音量を出せなければ意味がないだろう? だが一般的な鉄筋コンクリート構造のマンションで、本来の性能を発揮出来る大音量などもってのほかだ。
 ここはというと、防音設備はそこらの録音スタジオなぞ比べ物にならんそうだ。スピーカーは視聴室形状専用に設計された映画館並み、スクリーンは200インチ、広さもなにもかも文句なしだ。
 肝心要の愛の巣、寝室だがな。俺がこの通りの不眠症であることは、友達には全員バレている。あのベッドは寝具屋の友達に同情されて用意して貰った。だがいくら横になっても俺の症状は変わらず。友達には口が裂けても言えん。
 なのにここのは要らんことにクイーンサイズ、シーツはシルクだ毎日替えろ、新品以外使ってはならんと。どこで調べたんだか俺とさぁやの人間工学だかなんだかに基づき枕もスプリングも専用設計。寝たが確かに気持ちよかった。実はすぐに熟睡した。
 元々予想はしていたが、少なくとも俺の荷物に関しては服とマシン以外、旧宅から動かすことはないだろうと思っていた。だが服にしても案内役は言った、聞いたぞ一課長と秘書の差し金で、さぁやは天井知らずな一点物しか纏わんようだが、その隣に立つ俺はどうだと。……俺のスーツは紳士服屋の友達にきっちり仕立てて貰った自慢のものばかりだったのに……
 マシンのバックアップを取れと言われた。ここ、新居には三台の、パソコンとは呼ばないものが連結されて置いてある。このくらい同時に使えんでどうすると言われた。後で言うが転職の際に必要だろうと、案内役にしか権限のない、あの大会社のデータ閲覧権レベル10、つまり全部だ、を一課長と秘書には内緒で横流しして貰った。さっきまで見ていた。
 結局俺の持ち物で旧宅から持ち出したのはバックアップディスクだけだった。案の定プライドずたずただ。悔しくて眠れなかったがさぁやが心配すると思ってころっと寝た」
「じゃ、私のは?」
 清子は余計なツッコミを入れなかった。
「さぁやの持ち物に関しては強行に反抗した。なにがあっても手は出させん、見るな触るな弾けて飛ぶぞと。んなもん当然と言われた。よって俺がすべき引っ越し作業は全てさぁやの持ち物だ。
 と思ったらケチを付けられた」
「え?」
 ケチとはまた突飛な言葉を。この建物の主がまさか吝嗇家とか?
「台所周りだ。俺はさっぱり分からん、さぁやの領分だ、これまた見るな触るなうんたらかんたら言ったらこう言われた。料理が出来なくても、どこで器具を揃えたかは知っているだろうと。
 ここのはぼーる、だかなんだか知らんが一品一品がこの国に数点しかないものだそうだ。そこらのDIY店のとでは比べ物にも……何故料理のりの字も知らん俺が台所周りの話でまで黙らされる。案内役は言った、どこで買ったかはツッコまんでやるがどうせ新居のものを使う筈だ、だが愛着はあるだろう、新居の荷物置き場に、どこになにを運んだか分かりやすく置いたらどうかと。……これが命令だと言われれば反発したが……
 さぁやの持ち物、台所周りの物はなるべく分かりやすく置いたつもりだ。後で見てくれ」
「……うん」
 そこまで主婦の領分を気遣ってくれるとは。なかなかいい人?
「旧宅で、さぁやの手弁当を独り泣きながら食ってあの家とオサラバだ。その後どこぞの高飛車な衣服店に連れられ採寸。なにが哀しくて野郎に体の隅々を測られなければならん。裸なぞもうさぁやにしか見せんぞ」
「うん。お願い」
 なんと、ひとの男の体を他人に見せたとは。前言撤回、悪い人決定。
「案内役は旧宅にも新居にも入らなかった。当然だが。
 でかい車内で引っ越し以外の話があると言われた。案内役はあの通りの肩書きだ。てっきり大会社の最上階あたりで言われるかと思ったら、あの案内役をして本社内に専用部屋がないそうだ。聞いたところによると、あの大会社の最高職は代表取締役社長だった。それを、案内役の為だけに、創立以来初めてあの役職を設けたそうだ、一課長がな。理由、案内役は肩書き立場等になんら固執しておらず、一筋という夫人のそばにいたくてさっさと仕事を引退したかった。だがそれでは困る、名誉職でいいから会社に籍を残せと一課長が懇願、よって無理矢理こしらえた、だと」
 今の話と、ゆうべの椎名の意味不明なつぶやきを繋ぎ合わせれば、ようやっと分かったような分からないような気分になるが、正直それだけだ。偉い奴と肩書きが大嫌いな清子、引っ越し以外の話とはなにかと頭を切り替えた。
「車内など、多少でかくても所詮は密室。野郎と二人などいやだったが、最初からなに一つ言い返せなかった。仕方なく話を聞いた。
 転職を勧められた。内容を聞く前に断った」
「え?」