20

 椎名が先頭に立ち、しおりが続く。清子は二人について行った。
 格好はお昼ご飯を食べたあの時の、シルクのショートドレスのまま。これで夜風に吹かれてコーヒーも一興だが既に人妻。キスマークを他人に見られたくないと言い張って、なんとかお情けで羽織うものを貰えた。携帯電話と財布他小物の入ったカバンもなんとかキープ。
 しおりは自信満々でシースルー。止める者はいない。
 向かうは日本一の喫茶店。どうせ電飾甚だしい煌びやかな、おフランスのかおり漂うハイソな所だろうと、こんなカッコで超高飛車な所へ超高飛車な車で移動させられている清子は内心で想像した。外れはすまい。

 ところが、車を降り立った目の前にある店は予想に反し、普通の喫茶店だった。一軒家でもなく、五・六階建程度のビル一階。扉は茶色く塗装された木製のもの。
 店外にもコーヒーのかおりが漂っている。思いっきり吸い込み、よく味わった。このにおいでこそ酔う清子。これぞ喫茶店だ。こりゃいい、また来よう。
 琥珀色の熱さにも思いを馳せていると突然、
「ギャアアアアアアアアアアアアアアアアッーーーーーーーーーー!!!」
 奇声が聞こえて来た。もういいや。
 一気に冷めた清子は全てがどうでもよくなった。この上は、一刻も早く忠弘と逢って家に閉じ込められたい。そしたら人脈も人生変えるも関係なかろう。
 一応“帰ります”くらいは言おうとした。目の前には立ち止まる椎名の背。
 あれ、玲さん? しおりは?
「好きよーーーーーー結婚してーーーーーーーー!!!!!」
 今度はしおりの絶叫が耳を直撃した。これ以上なにをどうしろと。
 中の状況を知るべく、ドア付近で立ち止まる椎名の横にちょこんと顔を出した。店内を見る。
「ぅぉおおおいぃちょっとお客さん!!!?」
 またも別な絶叫が。他人事と思っていいですか?
 今度の声の主は、喫茶店にはつきもののカウンターに立つ、この店のマスターらしき人物だった。
 カウンターの奥には、のれんで仕切られた水場と思われる部屋が見える。その中から最初の奇声を発した、マスターとはまた別の男性の、あの情けない悲鳴が再び聞こえて来た。
「どっっっっひえーーーーー!! あっっっぎゃああああーーーーー!! そ、そんなぁああああああ!!! やゃゃゃゃやめて下さいよぉおおおお!!!」
「やっっっっっっかましい!! こんな美女が跨いでやってんのよ、いいから結婚しなさあぁああああいぃいいいいい!!」
 あとは聞き慣れた水音が。ケッコー激しい。
『……』
 店内の客はマバラにしか点在せず、唖然呆然の全員が店を脱出した。店側はお代を回収出来なかった。逃げられたのだ、もう来るまい。
 マバラな客が横を通過しても、清子と椎名に止める義理はなかった。
 奥で男女の露骨な情事が情け容赦なく続く中、店内はがらんどうになった。さいごに残ったマスターは、無表情で外に出てドアを閉めた。
 椎名・清子・マスターの三人はそこで散会せず、ドアに背を向け、なんとなく横一列に並んだ。なんとなく。
 しばしの沈黙の後、重い空気を破って声を発したのはマスターだった。
「……でさあ」
 店の外は石畳の道。もう夜である。適度な灯りはあったものの、行き交う人々は、においはいいがマバラな客も逃げ出した、目立たない外装の店には目を向けなかった。
「……どーなってんだって。訊いて、いいかい」
 自分の店に美女が突如乱入、即ご乱行と来れば、その連れと思われる者達に質問したくなるのは当然だった。清子でさえそう思う。
「全略すると」
 椎名が言った。
「しねえで欲しいんだが……」
「私の隣の大切な友人が、こちらのお店の味を気に入ったので、実際にコーヒーを淹れるところが見たい、ということでお邪魔しましたの」
 椎名は本来の目的をその通り伝えた。
「……全然、現状に即してねえが……あーそーかい。そりゃ光栄だ。だが残念だったな、ワケ分からねえが今戻ったらお邪魔虫だ」
「そう仰らないで下さる? ちょっと事情があって、今日しか時間が取れないんですの。なんとかならないかしら?」
 私のことだけを思って言ってくれているんだあ。と、清子は意味なく無駄に感心した。
「だーかーらー……全然、現状に即してねえ発言をしねえでくれねえかなあ……」
 いや、椎名が正しい。なにせ目的の為だ。清子は心の中で断言した。
「こちらのお店は喫茶店日本一とお伺いしましたのよ? 美技をお見せ下さらないかしら?」
 そうだ、目的を達するためこんなカッコでここへ来たのだ。既に気分は馬手にサーバー、弓手に豆。
「はぁ!? なんだそりゃ、にっぽんっておいおい……湘南だけでいくら喫茶店あると思ってんだよ。下から数えた方が早えっつーの」
 究極かつ至高の味を求め、制服を着る身分で行ける範囲の喫茶店はほとんど回った清子。ここは実家に近い、なのに来たのは初めて。ということは、この喫茶店は実家を離れた大学入学後に出来たと思われる。
「そう仰らず。この分だとしばらく営業不可能ですわ? なんとかなりません?」
 営業出来ないこの状況で営業中の技を披露するようお願いするとは。なんてスバラシイ。清子はますます無駄に感心した。
「だからそう簡単に台所事情直撃なこと言わねえでくれねえかなあ……っつーかお客さん、前に見たことあるような……」
 そう言いながらマスターは、椎名の顔をジロジロ覗き込んだりはしなかった。三人はあくまで店に背を向け石畳に向かい、横一列で並んでただ前を見ていた。
「あら、さすがですわね。ええ私、そちらさんのお友達の部下ですの」
 そちらさんとは私の真似をしているんだろう、と清子は思った。すると、このマスターの友人は椎名の上司か。課長の上といえば次長か?
「……待てよ。にっぽんいちなんて言う男でえ? 部下……あの野郎か……」
 マスターの友人の中に、思いつく節のある人物がいたらしい。
「お分かり戴けたようですわね。では、ご協力願えます? なにせ隣にいる私の大切な友人は、あの方を動かして、結果ご夫人を差し置き現在単身東京におりますのよ」
「マジか!?」
 清子にはさっぱり分からない。だから話の中身はいいとして、この二人は知り合いのようだ。だったら面と向かって話せばいいのに。
「ご興味おありでしょう? お話もしたいですし。なんとかなりません?」
「……リョーカイ。じゃ、しょーがねえが俺んち来てくれ……あーああ」
 交渉は成立。マスターは渋々声を絞り出した。
 店内ではなく自宅で美技を披露となると、遠い所でなければいいが。
「でもまあ……」
 マスターはぶつくさ言っていたが、清子は全く構わなかった。とにかくコーヒーを淹れるその姿を見られればいい。忠弘のため、後はどうにでもなれだ。
 本日終了の看板を出したマスターが外から鍵を掛ける。この地のシンボルである島に背を向け、石畳の道を行き、最寄りの駅へ向かった。
 二十分ごとに発車する電車に乗った。ほどなくして目的地へ着く。毎日満員電車に揺られる清子は久々に、この有名な路線の朴訥さを味わった。

 マスターの自宅は電車を降りるとすぐ近くにあった。アパートで五階建てなのだが夜目には見えなかった。入り口から階段を使い、二階へ。左に折れて一番奥、突き当たりへ。
 その部屋の入り口扉には、デカデカ「F」と書かれてあった。
「入ってくれ。言っとくが俺にゃ女房子供がいる。今はここにゃいねえケドよ」
 遠慮なくお邪魔すると、さっきの店に来た時のようなにおいが漂う。常時淹れている証拠だ。鼻がぴくぴくし出す清子。
「テキトーに座ってくれ。……って。ああ、えーっと。そっちのお客さん、淹れるところを見てえんだよな。悪い、こっち来てくれ」
 マスターは清子に向かって手招きした。早速か、手順がいいじゃないか。はいと返事をして台所らしき所へ向かった。
 水場に到着すると、キリリ一礼してきびきび言った。
「よろしくお願いします。つきましては、授業料を」
 お支払いしますと言う清子を遮り、マスターは「豆はここ」と戸棚を開けた。
「要らねえっつーか、コーヒー一杯分のお代でいい。なにがいい?」
「マンデリンで」
 清子の目がギラリと光る。ズラリ並んだガラス瓶が皆大きかったからだ。さすがプロ、常に胃にコーヒーが入っている程でなければこれはない。
「おお、シブいな。リョーカイ。言っとくがイッペンしか見せねえ。……ったってあんた今日しか時間が取れねえんだよな。気合いで見てくれ」
「はい」
 気合いで返事をした。こんな挑発をされれば気分よく乗れるというもの、実に話が分かる人物だ。清子はおおいに感心した。
 マスターはフィルターを取り出した。よしいいぞ、同じ淹れ方だ。
「サイフォンか?」
「いえ、フィルターです」
「おし」
 もう言葉はなかった。
 水は冷蔵庫から、レトロなデザインの銅ポットに。どれだけ使い込めばああなるのだろう。その間マンデリンを銅のスプーンで量り、挽く。カッティング式の音が心地よい。本当にいいものを使っている。
 あんなカッコの清子が台所でマスターの技をガン見している頃、椎名は居間でのんびり寛いでいた。外は明るければ、一面の空と海。
 甘いコーヒー豆のにおい。渋く苦いコーヒーのにおい。心を癒すこの香り、たっぷりと味わった。
 居間へ持って行くと、椎名がにこりと笑って二人を迎えた。
 三人、共に座ってカップを傾ける。
「ン……」
 素晴らしい、その一言。まだまだだ。待っててね忠弘。
 さいごまで飲んでも熱さは変わらなかった。ほどよい重さのカップ、最高に気分がいい。これぞコーヒー。
 ソーサーにかちりと置いて。
「ごちそうさまでした。お代は?」
「六百五十円」
 手持ちの財布からお金を払う。椎名もお釣りなしでマスターに渡した。その間ちらっと携帯を見たが、着信を示すものはなにもなかった。
 目的は果たしたのだから、さっさとオサラバ。
 では道理が通らない。すぐに帰って来てというメールでも入っていれば話は別だが、マスターは初対面の他人の目的を最優先としてくれた。その礼はすべきだ。清子も椎名も立ち上がらず、その場に留まった。
「さてと。女房子持ちな俺にとって、美女二人を夜自宅に連れ込んだっつーのは問題があるんだ、それは分かってくれ。ってなワケで手短に頼む。さっきのありゃ一体なんだ?」
 マスターの目的は今、これ以外ない。答える人物は椎名以外なかった。
「先ほどそちらのお店に突如闖入した美女は私の大切な友人よ。名はしおり。名字は今変わっています、それは言わなくてよ」
「あのさあ……」
 ほとほと困った様子のマスター、ガックリ首を垂れていた。
「しおりはあの通りの美女で、プライドがとても高く根は寂しがり屋。散々男を跨いで来たけど」
「あのなあ……」
「意中の男性は見つからず。いたけど見事にフラれ。傷心を隠し、こちらの美女、山本清子さんのたっての意向でそちらさんのお店にお邪魔したら途端に見つけたようね」
「そーかいそーかい……あれをそう言うか……」
「しおりはあの通りの突貫タイプで、見つけたら速攻でモノにする、その場で結婚するとは決めていたらしいの。それであの現状なんですのよ。お分かり戴けまして?」
「だーかーらー……」
 清子には意味が分かるが、他人には分かるまい。そうは思ってもツッコまなかった。そろそろ、椎名達の大会社所属社員は説明不足な人物が多い、というのは分かって来た。いい職場らしいが大丈夫か忠弘。
「自己紹介がさいごになってしまったわねえ。私は椎名玲と申します。とても味が気に入ったので、また参りますわ。
 もっとも? 通常営業がいつ出来るかは、しおりの気分次第なのだけれど」
「あんたんちはどーゆー社員教育してるんだっつーの……」
 頭を抱えるマスター。清子も言いたい一言だ。よくぞ代わりに言ってくれた。内心で拍手だ。
「そちらさんのお友達に言って下さる? 今東京にいらっしゃるわよ」
 社長をお使いに出すという、今あんな状態のしおりを誰がどう教育出来るのだろう。次長じゃ無理だ。
「ゼッテーぶっ殺す。んじゃなにか、俺んちはしばらく都合により休業か」
「ええ」
 マスターは自宅で憂鬱になった。
「補償はお友達が喜んでしますわ?」
「そーゆー問題じゃねえ。元から俺んちは俺のテキトーいい加減な経営でテキトー臨時休業が多いんだ、行けばいつも休みな店に固定客なんか付くか。見たろ、客なんかいつもマバラなんだよ! どーしてくれるんだっつーの!」
 確かに、こんなに味がいいというのに客はほとんどいなかった。ただ、喫茶店はそういうことが往々にしてある。
「しおりの旦那様のプロフィールをうたって下さる?」
 椎名は目的達成の順序を違えなかった。まず最初に清子としおり。次にお願いを聞いてくれたマスター。自分などは後回し。年長者の素晴らしい心得だ。
「あのなあ……うたうってそりゃマルボー用語だろうが……あの野郎どーゆー社員教育してるんだっつーの……」
 この場合の“うたう”とは心の底からあることあること知ってること全てをペーラーペラ喋る、という意味であり、大体の場合において、背中と後頭部に複数の銃口を突きつけられ、というシチュエーションが多い。
「手短にと言ったのはそちらさんですわよ?」
「……へーへーしゃーねーなーうたうよ、うたいやすよ……あの野郎ゼッテーぶっ殺す。えーっと。名前は」
 んなもん全く興味ない清子、聞き流した。
「俺はイトコと呼んでいる。職種はウェイター。火の車な台所の俺んちだが、そんでも雇ってんのは、一切私語なくビっとして狎れず仕事をキめてくれるからだ。
 字面だきゃー強そうだし、実は空手二段だが実体は優男。歳は俺と同い年。誕生日六月六日。動物に例えるとネズミ。理由、とって食われるところが。文字通りだったな……性格は全く気弱一辺倒。自称・影でこっそりつつましやかに生きるのだけが取り柄。ガッコ出た後空気が清らかな地を求めて望み通り秘境に就職出来たのに、俺の腐れ縁のインボーで無理矢理職種変更、俺んちでバイトしている。
 ってなワケで、イトコをどーこー出来んのは俺じゃねえ、俺の腐れ縁だ。こいつがまあ気分屋でな。自慢じゃねえが俺の意見も聞かねえよ」
 それのどこが自慢なのだろう。
「その気分屋さんは日本一の料理人、ですわね?」
 さすが椎名、ちょっとだけ知人のさらに知人まで知っているらしい。
「でしたら大丈夫ですわ。ご存知の通りそちらさんのお友達のお友達ですもの。恋が成就したんですのよ? それを邪魔するだなんて、どこの誰でも馬に蹴られて死んじまえですわ」
「いやそれだと友達とか全然カンケーねえような……」
「式と披露宴はどこかしらねえ」
 この分だと間違いなく招待される。これが“ご祝儀で金欠になる”ってやつか。友達もロクにいない清子、周囲がこの言葉を迷惑そうに使うなか、実はこっそり憬れていた。さてこの場合の相場はいくらか。
「あのさあ、お客さん。俺の意見っつーのは言わせて貰えねえんだろうか」
「ええ」
 三万円じゃ足りないか。先月使い過ぎたしな。しまったお給料要りませんなんて言っちゃった。どうしよ。
「問答無用よ。たとえ誰が出て来ても、椎名玲の名にかけて、この婚姻は成立させます。というか成立しちゃったわ?
 さ、清子さん。連れ込まれるのは少年だけでいいでしょう? 話は決まったわ、帰りましょ」
「うん」
「いやだから、あんたらなにしに来たんだよーーーーーー!!!」
 目的は果たした。忠弘に誤解されたくない、こんな所はさっさとオサラバ。アパートを出るともう、あのリムジンが夜目にも光り輝いていた。

 白手袋をした制服の男性がドアを開けてくれる。二人で後部座席に乗った。
 車がゆっくり動き出してから、椎名は貫禄たっぷりに微笑んだ。
「清子さん? あなたはまた、とーーーーんでもないことをしちゃったのよ? もういい加減、自覚してね?」
「えー……っと」
 清子はぽりぽり頭を掻いた。
「あの老人、その息子。私達の会長、私達の大切な友人。一日にこれだけ動かせばもう充分よ? それともまさか、これから他にもなにか予定が?」
「いやあのー……」
 早く帰りたいという予定なら朝からありますよ。とは言えず。
「負けたわ。完敗よ。弊社の取締役になんて如何かしら? これは会長に報告しがいがあるわねえ」
「えー。ですから……」
 それだと夫より肩書きが上になっちゃう。とも言えず。
「時間が時間だし、夕食にしましょう。この件がなければあなたをもっと早く解放して上げようと思わなかったけど、やはり解放は出来ないわ」
「そろそろツッコんでいい?」
「やっと?」
 清子は観念した。
「ラーメン食べたいなー。忠弘用に作るにはノビるから出来なかったの。私の行きつけのお店、炒め野菜てんこもりのミソチャーシュー八百円。おごって?」
「了解」
 清子はお着替えも所望した。自分の行きつけ・庶民の場所へミニスカはあんめえと。
 椎名も同意し、前席に座る者にそれを告げる。少し経つとリムジンがゆっくり停まった。降りると、そこはまたもや煌びやかな超高級ブティック店前だった。服までこうではあるまいな、と思いつつ、シャワーを浴びた後渡されたてんこ盛りの衣装箱から、ノースリーブで鮮やかな色遣いのふんわりワンピを身に着けた。
 ラーメン屋の真ん前にドンガリ乗り付け、悠々と降りて店内へ。清子が注文する間、リムジンはふいとどこかへ行った。
「あーら美味しいわねえ。ラーメンなんて久々よ」
「でしょ? この細麺がなんともはや」
 まだまだ暑い夏のおわり。女二人、ふーふー言いながら汗だくで食べた。
 解放しないという椎名は、最初の場所たる日本一のバーへ戻ると言った。それ以外は静かだった。そこでの会話が大切だった。

 超高層ビル最上階の元の席に座る。清子はいつものモスコミュールを頼んだ。椎名の手つきも慣れたものだった。営業畑というが、他にもかなりの職種をこなして来たというから、これからする話の内容もそうだが、重みというものを実感した。
「まさかこんな時間帯で、本題を私から話すことになろうとはね」
「……えーっと……」
 二人はもう、日中ここでしたような、ガブ飲みも次々空けるもしなかった。一口だけ、含むように。
「あなたはしおりの命の恩人よ」
 違う、そんなことない。偶然だよ。私の力じゃない。そう言える雰囲気ではなかった。
「想いを遂げ合った今のあなたならこの意味、分かるわね」
「……うん」
「後で、しおりから直接、感謝の言葉を聞いて頂戴。お願いよ。この通り」
 ゆっくりと頭を下げる。
「止めてってば。玲さんは忠弘の未来の上司でしょう? それも何階級も上の」
「仕事でなく、個人的な友達、と言ったわ。この際そんな分別はいいのだけれど。
 こうなったら雲の上の上司として権力を振りかざしてもいい。四ヶ月間一切手を出さないつもりだったけど前言を撤回するわ。家を出てはならない、と言われたのよね。だったら。
 お願いよ。少年と共にしおりと逢って。どうしてもお願い。式にも、披露宴にも出て頂戴。少年が就職したらその暇はない、三回、どうしてもあの家から出て来て」
「うん」
 しおりの花嫁姿はどれほど綺麗だろう。
「……さぞ、少年を説得し辛いでしょうね。それでもその即答、いいの?」
「うん」
「……ありがとう。これしか言葉がない……一日に何度言わされることやら。最中に悪いけどメールするわ。抜いたら返事してね?」
「うん。それでね」
「なにかしら。なんでもするわよ」
 威厳があり過ぎて、本当になんでもする、なんでも変えてしまうような気がした。
「あまりそれは言わない方が……えっとね」
 頭をぽりぽり掻いた。真摯な慈愛の瞳が照れくさくて、上手く返せない。
「忠弘と私の話のノリで、いつかどこかで飲もう、ってこと言ってたの。でも忠弘あの通りだから、無理っぽいなーと思ってたんだけど。
 どこか、居酒屋で飲まない? 私と忠弘、玲さん。しおりとしおりの旦那様。どう? 楽しそうだなー」
 一人では照れくさいから、忠弘と一緒にしおりの話を聞こう。
「……とても、いい案ね。ありがとう……」
 椎名のグラスの氷がカランと鳴った。
「そこはどうしても貸し切りにするわよ。建物ごと」
「え?」
 頭を上げた椎名から思いもよらない言葉が出た。そんなに多い人数ではないのに、居酒屋を貸し切り?
「私にも警備の者が複数付いているのよ。全く気付かなかったでしょう? あなた達に付く警備もそうだから安心してね。
 お互い警備持ちなのよ。不特定多数が行き来する所は警護しにくい。お願いだから丸ごと貸し切りにさせて」
「そうお願い言わなくてもいいよ。じゃ、私がよく渡辺君と行ってる所でどうかな」
 清子は住所と店の名前を教えた。
「了解よ。分かっていると思うけど、一晩中付き合って貰うわ。少年は営業畑なのだから酒はザルでしょうね。その辺、事前面接して上げる」
「ははは……十日間ででっかいゴミ箱三つに500ml缶いっぱいだったけど、どうかなあ」
「まあ、まだまだね」
 笑い合って、しばし酒と景色を堪能した。

「少々……うたっちゃおうかしら……」
 さて今日は何本空けたのやら。いくら飲んだのやら。そんな夜に。
「少年の学友、友達をひっ捕らえて吐かせたの。少年の大学時代。
 全く女性に興味なかったそうよ。だから訊いたそう、まさか知らないのかって。
“知っているが、どうでもいい”
 それが答えだった。
 遊び盛りの年頃だし、付き合えと言って盛り場に連れて行った。少年は外面がいいから店員がすぐに複数群がった。誰もが我れ先と少年を脱がせた。でも少年は誰も見なかった。
 興味ないのかと質問された少年は、
“皆俺にこうして来るが、なんの意味があるのだろう”
 そう答えた。
 多分、少年の初体験はヤクザの元にいた時だったでしょうけど、似たようなものだったでしょうねえ。つまり、初恋の君はあなた、清子さんなの。
 気付いてはいたでしょう? 何故なら、惚れた相手を見つけたらもうその人に縋って、他は見ない。それが少年の愛し方なのだから」
「子供の頃から逢ってたらなあ……救ってやれたのに。……救えるなんて、傲慢かな?」
 立ち塞がって上げたかった。笑顔を奪い、あんな瞳にさせた者達全てから。
「いいえ、あなたの場合はそうじゃない。もっとも本来はその通り、99%は傲慢だけれど。
 少年は人生に意味を見いだせなかった。ヤクザはよく学校の勉強をさせたものよ。自活する意味、出来る意味、稼げば自力で他人の目を気にせず屋根の下にいられること、寝具にありつけることを教えて行った。
 それらを身を以て知っている少年は、大学に合格するとすぐにバイトを始めた。なにせあの通りの不眠症。ほぼ寝ずに、肉体労働だけを選んで何箇所も掛け持ちしたそうよ。
 引っ越し屋さんの友達がいるわね? そう、引っ越しもやっていた。車屋さんの友達がいるのは工場ラインで働いていたから。そうして友達を増やして行った。学内でだけの友達じゃない、むしろ学歴のない者の方が多かった。大学の勉強なんていつやっていたのかしらねえ。最低限の単位だけは取って、でも試験結果は極上だった。
 少年が意外と財産持ちなのを不思議に思わなかった? そう、資金は既に大学時代、かなりあったのよ。一切無駄金を使わずにね。
 男女の体力差はかなりあるけど、少年が無尽蔵の体力持ちなのはそういうこと。これについては少々助け舟を出すわ。
 三週間に一度程度、エステに来て? 勿論、二人一緒に」
「え?」
 もう、張った気力が尽きかけて、ぼうっと聞いていた。
「散髪よ。いくら少年でも髪ぼうぼうはないでしょう? あなたに惚れて欲しくて外見を保つことにはかなり気を遣っていたのではなくて?」
「……ああ……」
 そういえば、おっぱいぽろりをやらかした最初の朝、忠弘はビシっとスーツだった。あの時点までは間違いなく、その手に関しての気を遣っていただろう。
「半日掛かると言って頂戴。その間体を休めて。眠っていればいいわ」
「……うん」
 返事はしたものの、そう出来るかどうかは疑わしい。なにせ忠弘はあの破廉恥シーンを拝んで以降、自慢の真っ裸主義を出し惜しみなく貫き通している。
 椎名はそれからも多少うたった。あの一杯のお茶事件が起こる切っ掛けとなった、自身が清子達の会社に行けなかった理由を。
 大切な女性という会長夫人から、家族三人が久々に揃ったからお話したいと、清子達の会社へ向かう途中の車内で言われたこと。即座に補佐に自分の代わりを命じ、結果ああなったこと。もっとも、補佐でナメるようなら女の自分が行ったらひょっとして、頭から茶をぶっかけられたかもしれないと、笑いながら言った。
「少年は、あなたをとても過保護に扱っていない?
 たとえば、箸より重い物を持つな。料理はともかく、家事その他雑事はするな。極端に言えば、俺に愛される以外なにもするな。など、言われてない?」
「箸より、は言われたけど、実際は私が食材を買わなきゃいけないし、大食漢だから量も多くて。ほとんど毎日重い物を持ってる。愛される以外なにも? ううん、そんなこと言われてない」
 忠弘にはほとんど当てはまらないような内容。いくら椎名とはいえそこまでは知らないか。甚だしいマナー違反の最たる個人宅の中身調査など、やる人物でもない。
「じゃ、過保護ではない?」
「違うなあ。むしろ、忠弘は自分を過保護に扱って欲しいタイプ。連れ込んだ日から全開で私に縋ってるし」
「そう? でもね、予言するわ。きっと近いうちに、あなたに対して過保護になるわよ」
「……そうかなあ」
 中身があの通り五歳児だから、構って構ってと縋る姿しか想像出来ない。
「もう一つ言えば。あなたをとても心配するようになる。かなりの心配性になるわ、断言出来てよ」
 断言とはまた自信満々な。
「どうして?」
「その兆候があるでしょう? 一歩も外を出るな、なんて」
「あれは心配性じゃなくて嫉妬深いから、だよ?」
「一歩も外に出さず、浮気の心配もない引っ越し先に閉じ込めても、それでも心配するわ。自分がいない間、高価な食器を割ってそれで怪我していないか。部屋を歩いている時意味もなく蹴躓いて床に頭を打って昏倒していないか」
「それはちょっと行き過ぎなような……」
 そこまで言うなら桶屋が儲かりそう。
「一代で名を成した大人物の二代目は、多くがボンクラのボンボンでしょう? 大人物になれたほどの凄惨な生き方をした人物だからこそ、そんな思いを我が子にだけはさせたくない。だから甘やかして育ててしまう。大昔から、時代・国を問わず多く見られた例よ。
 例外は勿論ある。自分はこれだけ凄惨に生きて来た、それで成功した。だから息子にはもっと凄惨な人生をくれてやる、そうすればもっと成功出来る。そう思い、実行した牙持ち男もいる。
 でもねえ、それでも、聖域と定めた恋する女にだけは、やっぱりそんな思いをさせたくないの。愛情多過だからこそ、蝶よ花よと扱うのよ」
「蝶よ花よ……それはないなあ。だって忠弘って私を荷物みたいに運ぶんだよ。ロマンティックの欠片もない。初夜くらいは甘くして、って言ったら誰がするかって言われたもん」
 そこがいいんだけど、とノロけてやった。
 すると椎名はおおいに頷き、
「常に一緒にいられる四ヶ月間はそうでしょうね。でも再就職後はどうかしら? 私達にコキ使われながら、営業先で笑顔を振りまきながら、頭の中はあなた一色よ。行為のことだけじゃない。ちゃんと食べているか。眠っているか。逢えない時間が長くなれば、そもそも今生きているか、とまで思うようになるわよ」
「そうかなあ……?」
 どうも、さっきから椎名の言葉には、忠弘に対することとは異なる、行き過ぎの心配が多くあるような気がする。
「実際、仕事を再開すれば分かるわ。
 少年の側からは電話もメールも出来ない日々が続く。あなたは会社に行かなくなるのだから、時間が余る。あなたの方からメールしてやってね。お昼はなにを食べたか。夕ご飯はなにを食べたか。その間なにをしたか。なんでもないことでいいの。毎日同じ内容でいいの。きっとよ?」
「……うん」
 約束を交わした椎名は、〆の文言を口にする。
「もう時間も遅いわ。スイートでお風呂にゆっくり入って眠って、朝食を摂って帰って。
 少年は、あなたがいなければ眠りもしないし食事も摂らない、と思っているわね? でもね、この通りよ。あなた達二人はこれから逢えば、長話をする必要がある。行為をするにも眠るにも食事を摂るにもまず先に。だから食べて、寝ておきなさい。
 大丈夫よ。少年には会長から、恋女房を心配させるな、自分の為ではなく恋女房の為にだけ眠れ、食べろと説教して貰っているから。
 なかなか凄い一日だったわ。私も五十歳に近いけど、ここまで濃密な一日があるとはね……まだまだね、私も。
 ありがとう。これしか言葉がないわ……」
 椎名と別れた時には、もう午前様だった。言われた通り色々あり過ぎた一日だった。飲み過ぎ食べ過ぎ喋り過ぎ、お風呂に入ってさっぱりすれば眠くなる。スイートと呼ばれる場所は前にも来て経験済み。慣れたくないなあ、と思う前に眠った。