19

 乱暴な手つきでワインを注ぐ。ちょっとこぼれたが構わない。
 アルコールの魔の手に捕まって、喋り過ぎて、ここに来てからかなり飲んでいたことを忘れていた。一気に飲み干さず、半分くらいで止める。視界が揺れたような感覚から、自分を醒ますため、しばしその体勢のまま時間をおいた。背景がぼんやりとしたものから、徐々に形あるものへなって行く。その間に、千鳥足の頭と酷使した口・のど周りを休ませた。
 それでも目に入るのは、愛しの夫の性態系に抱腹絶倒なノゾキが趣味の出歯亀二人。
「帰ろっかな……」
 呟いた。すると二人はこんなリアクションを返して来た。発言を求め、笑いで震える片手を挙げている。教室ではありません。
 フイと明後日を向き、棒読みで。
「はーいそこの椎名玲さーん」
「……くーー、っっっっくっくっくっく……」
 挙げられた手の指は、五本がピっと揃ったものではなく、さながら熊手状態。震えがブルブルと実にわざとらしい。腕以外の部位、顔その他はテーブルで隠れているので、これだけでは誰も美女だの威厳だの思うまい。
「無効な発言ですね。はーい次は藤崎しおりさーん。なにぃナシ? じゃ帰ろっかな」
「ななななにいっっってんのよさやこーーーっはっはっはっはーーー」
 高級じゅうたんを更にあらん限りぶったたくしおり。さぞストレス解消になっただろう。たまったもんじゃない。
「じゃあなんですか。帰さない? 入り口は閉まっている? そういや忠弘、“俺が出掛けたら中から開けられないようにしてやる”とか言ってたなあ。私は珍獣かっつーの」
 二人の笑いが収まるまで、大層時間がかかった。

 元の威厳ある姿に復活した椎名。衣服を正して着席し、ワインをくいっと飲む。
「確かに、実況中継はもういいわ」
 本当かな。まだまだ言わされそうだぞ。
「でもねえ。聞く限り、本当に少年なんか眼中になくて大嫌いで、いやいや襲われて、疲れてもうしたくない。四ヶ月間もなんて勘弁してくれ。としか、聞こえないのだけれど?」
 ドレスを直し、着席したしおりも、悩ましげに美脚を組んでくいっとワインを飲んだ。
「清子ってほんとに山本某のこと好きなの? 大体、どこがいいのよあんな男」
 清子はワインをがぶ飲みした。
「好きって言えって焚き付けたのそっちのくせに」
 またも酩酊、目だけが据わった状態で、
「これでも好きでしてねえ。愛しちゃってますよーだ。もう忠弘しか見えません」
 そのワリに、酒の勢いを借りなきゃ本音もこぼせない上、随分投げやりじゃないか。と、心の中でツッコミを入れる聞き役二人。
「アレでないと満足しない。無茶苦茶激しくてゴーインでないともーイヤです」
「なに、山本某のセックスだけ好きなの?」
 その辺、もっと詳しく知りたくて、ノゾキ根性丸出しで質問するしおり。
「ま・さ・か。それも含めて全部でーす」
 もう喋りませんとは言ったが、このままだと上司による夫の評価はかなり低い。そりゃそういう話しかしなかったが、それだけの男じゃないのだ。でなければ誰が結婚するか。
「お水下さーい」
「はーい」
 ノリのいい返事のあと、出て来たのはキンキンに冷えたすっきりレモン水。大きなグラスにたっぷりで、全部は飲まないが、せめてのどにつかえた酒くらいは流し落とそうと思った。
 こぼさないようテーブルに置いて。
「ほんと、モロ好みだったの。でもあんまりモロ過ぎるから逆に考えないようにした。こんなの相手するのは絶対私じゃない、そう思い込んで。だから初対面の時からだな、意地張ったの。
 えー、どんなところって?
 手抜き料理を美味しいって言ってくれること! どれだけ嬉々満面で食べてくれると思う? いっぱい作ってもぜーんぶ食べて、まだないの、もっともっとってコドモみたいに言ってくれるんだよ。これがまた可愛いの! もふもふコロコロ明るく笑って、ぎゅーって抱き締めて上げたくなるの。あーもっと上手くなりたいっ」
 苦手分野を克服しようだなんて、教科書にしか書いていないようなことを、自分がやるとは思わなかった。
「私はね、男に捨てられた側なんですよ。まさかこの歳まで彼氏なし、じゃカッコつかないから、いたってことにしてますが。実際は、あちらの男二人は私のことなんて覚えてない。間違いなく前カノリストにゃ載ってませんよ。
 でもねえ、まさか一生お清のままでいるわけにはいきませんし。いつまでも嫌な思い出を引きずりたくない。
 でも怖かった。私は複数からダメ出し喰らったわけですよ。今度もそうかってビビるじゃない。しかも今度は大本命。自信なんかなかった。捨てられるなんてこっちがって思ってたんだけど。
 実際は捨てるも冷めるもない、ひたすら好きだよさぁや愛してだもん。もうすっっっっっごく安心した。アレの後みたいに、全身の力が抜けるくらいたーーーーーっぷり安心、大丈夫って。だから余裕こいちゃって、試した挙げ句大嫌いって言い続けた……」
 それでも好きだよと言い続けてくれた。そう思うと忠弘は、かなり包容力があるかもしれない。
「これだけ最初から酷いことばっかり言ったりやったりしたのに、それでも忠弘は“必ず好きと言わせてみせる”って。だから、こりゃとてつもなく口説かれるぞってある意味覚悟してたんだけど、なかった。俺はこうこうここが凄いから惚れて、っていうの一切なし。営業成績いいらしいし、見た目はいいし、自己アピール欄なんて埋め放題な筈なのに、そういうこと自分では絶対言わないの。いいでしょ?
 ずっと一緒に住むならって、ちょっと観察したのね。一緒にいてもいいかなー? って。好き以外もなきゃ長続きしないでしょう?
 それでね、思ったんだけど。
 多分忠弘は“比べる”ってこと知らないんじゃないのかな。そういう意識がないの、あの男。
 ストレスってよく言うけど、その元の一つが比べることだと思う。大勢の人と接しなきゃいけないから、その人を判断する基準に比較を用いちゃう。簡単に出来ちゃうから、途端に不満が出る。自分より暇なくせに金持ちだ、上司のくせに優しい言葉をかけてくれない、部下のくせに働いてくれない。……疲れるよね。
 連れ込まれてからあのマンションで、そんなこと一度もなかったな……
 生活のほとんどを私に合わせてくれた。でも譲れないことはちゃんと主張した。それを私は受け入れられた。これってすごく大事で重要なことでしょう?
 ちょっと細かいこと言っちゃおっか。男って洋式トイレのふた、閉めないで下まで上げたまま出て来る奴いるでしょう。ああいうの駄目なの私。
 こういうね、“目を瞑ってやれよー、でも瞑れないよー”ってこと、共同生活だとどうしてもあるでしょう? それがねえ、忠弘とはさーっぱりなかった。これってすっごく気持ちいいことじゃない。体の相性もそうだけど、生活感の一致って大切だよ。
 なにぃ細かすぎる? だから女は恐ろしいって言われるんだって? だって大事じゃない! この先何十年と一緒に暮らすんだよ!
 じゃ重箱の隅つつきじゃないことを。ズバリ! 女に家事を押し付けないことです!
 なにぃそれだって“やっぱり女か”って言われるって? えぇ女ですよーだ!!
 料理のりの字も知らない上、自分ちの食器さえ一度も使ったことないっていう男だよ忠弘は。そんな中身五歳児が、お皿洗うって言って、やってくれたんだよ自分から。涙ものだったよう。更にメロメロ。
 迫るの大好きな男でしてねえ。好き好き言いまくるのは必ずキス一歩手前ってところでなの。惚れた男にあの距離で、今すぐ欲しいって言われて濡れない女いませんよ。気持ちいーっぱいぶつけられて、でもどうしたこうしたペラペラくどいことなんて言わないの。狙ってはいないと想うけど、素のままの自分を見て欲しかったんだと思う、訊いてないけど。
 ずっと独りでいたのに、いい友達たくさんいてすっごい協調性あるし。最初好みって想ったのは、正直外見が、だった。でもそれだけが決め手じゃない。一緒に暮らして、全部見た。魅せられた。いいって想った。だから応えた。
 仕草がいちいちえっちくさくて。すっごくいい体だし、見た時ああ抱かれたい、傷にキスしたいって想ったし。髪をおろして無精髭姿もすっごいエロい。無茶苦茶男くさい。人の目がある社用の挨拶中でも犯ってやるって顔に書くような男ですよ。他にも多数ありますが言いませんよ。いいでしょ?
 意地張り以外で言わせれば、ホントにもうメロメロだった。直球ストレートに全部好きなの。忠弘も、私がそう想ってるって最初から分かってただろうなあ。だからこそ、大嫌いって言葉が信じられなかったと思う。さぞ死んだと思いますよ実際問題。ザマーミロって思ってたんだから私ってSかなあ……」
 またも腹を抱える聞き役二人。
「そう、外見だけじゃない、と。いいわねえ。男が泣いて喜ぶわよ?」
「女も泣いて欲しいですね」
 しおりにチラリ視線を投げる。
「あぁら外見よぉ」
 ひとしきり一般論を闘わせた後、椎名が質問。
「じゃ、こういうのはどうかしら。
 少年は元・そちらの会社では一般に、スマートでハンサムで仕事が出来てセンスいい服を着て声もいい、という評判のようね。
 もし? 仮に? それら全てを凌駕する男性が、入社式のあの日少年の隣にいたら、あなたはどう思う?」
「はあ、なんですかねそれ……」
 忠弘以外の男の話をされるとは思っていなかった清子、さっぱり訳が分からない。
 ただ、この二人の忠弘に対する誤解はかなりとけたと思う。思いたい。
「私が忠弘をいいと想ったのは入社式の段階で、仕事がどうとか関係ないし。確かにハンサムだからでしょうがそれ以上? ああそりゃないですよ」
 そう? と思って椎名は質問する。
「だってですねえ」
「いつの間にかですますになってるわよ清子さん」
「ああ、いやその、これが本性なんで……なんだけど」
 清子にとっては敬語で話す方が楽だった。ろくに友達もいないので、ほとんどの人とですますで話して来た。社会に出れば敬語が必須、まして新入社員。敬語で話すという感覚のない家族とは離れて暮らしていて、入社後誰かとフレンドリーに話す機会は渡辺以外全くなかった。
 こうなれば慣れたもので、初対面の人間と話す場合は敬語以外などむしろ気を遣ってしまう。だから楽で、つい話しやすくて言っていた。実を言うと本音では、忠弘と前のまま話したかった。そっちの方が性に合っていた。
 それでも、忠弘のお願いだ。堅苦しい言葉は止め。目の前の二人と話すことで慣れるとしよう。
「えっと……って私、忠弘に対してさえ意地張ったんだよ。上の男? 興味なし。だってどうせ上の女がいるだろうし。いなくても私のことなんて興味ないって。
 決め手の全ては忠弘が、私を欲しいと全開で来るから。だから忠弘だけが好き。だってあの忠弘以上に、私を好きって男いないもの」
「最高の回答ね」
 それにしてはいつまで爆笑させてくれるのかしら、と椎名はグラスを傾けた。
「大体自供は聞いたので。次はこちらから誘導尋問するわ」
「えー……」
 ここは取調室か。もう喋らないと言ってもかなり喋ったのに、まだ言わせる気だ。しかもこの言い方、清子に非のある、都合が悪くて一番言いたくないことを吐かせてやると言わんばかり。
「そりゃないですよぉ……」
 そういうのはさらりと流すのがオトナというものでは? と懇願してみても無駄だった。
「ですますを言っているうちは、もぉっっっとどう喘いだか吐かせてやってよ?」
 二対の瞳から怪光線が発せられ、身をすくめる清子。アブない、回避せねば。
「ごめんなさい、私が悪うござんした。で?」
 仕方ない。満足していただけるまで吐こう。ただし聞いた後は忘れて貰いたい。
「少年は、あなたの手料理以外いやと言う人だ、と言っていたわね。それは?」
「ああ……」
 それなら、と説明した。
「私の手抜き料理は元々、母から中途半端に習ったものなので、母の味こそ、忠弘にとっては手料理でしょう。自分の親のことだけど、母は手抜きなんてしないし。それで母に料理十人前作って待っててねって言って、籍を入れた後実家で忠弘に食べさせたんだけど。
 ……結果はダメ。どうあっても私が作るもの以外、味がしないって。それに気付いたのは手抜きして楽してピザ注文して、無理矢理食べさせた後だった……大後悔。もうしない……」
 うなだれる清子に、椎名は追い討ちをかけるような真似はしなかった。
「そう。じゃ、次に。
 あなたを家から一歩も出さない、というのは何故かしら。出掛けたら中から開けられないようにする? 恋をすれば独占欲が沸くのは当然だけど、かなり行き過ぎね。その辺は?」
 これも説明出来る。顔を上げ、気持ちを切り替え、椎名のように浮き沈みなく訊き言わなくては、と思い伝えた。
「しおりのお陰で随分キレイにして貰ったけど、それでみたい。
“そんなに綺麗だと街行く男は皆さぁやで勃ってしまう。外に一人で行くなんてどの男を勃たせる気だ。俺だけ勃たせろ”
 だって」
 それをいうなら、忠弘だってハンサムだから“街行く女は皆忠弘で濡れてしまう”というへ理屈が通じてしまう。つまり、そんなことは有り得ないのだ。忠弘だって分かっているだろうが、万に一人でもそういう男が現れるのがいやなのだろう。
 やっぱりねとでも言いたげに呆れるしおり。
「なんてケツの穴の小さい男なの。
“俺はこんなにいい女と寝ているんだぞ。どうだ見ろ”
 といわんばかりに堂々と連れ回してこそ男なのに。あーホントにあたしの嫌いなタイプ!」
 清子はそういう男こそ嫌いだ。
「……まあ、好きと言われても困るんだけど」
 しおりが忠弘を嫌いと聞いて安心するというより、やっぱりなと思う。嫌よ嫌よも好きのうち、はなさそうだ。元よりあまり心配してはいなかった。あの男に限って、だ。
「じゃ、浮気の心配はないわね?」
 ちょうど今、有り得ないと考えていたところに椎名からの確認が。
「うん、ない。見てみたいくらい有り得ない。だって自慢だけど、忠弘は私に捨てられたらその場で死ぬよ。実際大嫌いで死にかけたし。
 それより、忠弘は私が浮気しないか疑っている。ちょっと楽しく渡辺君と会話しただけで、これ以上の浮気はさやでも許さない、なんて言って来る男だから。一歩も出さないっていうのは、私が外に出て他の男と浮気するのがいやだから」
 これまた有り得ないんだけど。
 と、三人とも思っている。
「それが分かっているから、好きと言いなさいとお願いしたのだけれど?」
 断られちゃったのよねえ。そう視線を投げ掛ける椎名に、あれのどこがお願いでした? と返す清子。
「どうして、分かり切ったことを訊いたのか、というと。
 ちょっと仕事の話に戻るけど、一課では不倫浮気をした者は即クビだからよ」
「そうなの?」
 そりゃいい職場だ。清子の元・勤め先にそういう決まりがあったら、一体何人クビになることやら。
「ええ。三課では女や男を食ってノルマを達成、なんて者もチラホラいるようだけど、そんなことをしても長く続かないのは明白。一課は歴代情熱的な者達ばかりよ。こんな不文律を設けてはいるけど、それを破った者は一人もいないわ」
 実際一課の猛者と対峙した清子。そうだろうと実感として確信出来た。
 自分からけしかけた椎名が忠弘の浮気心を疑う筈もない。未来の就職先はいい所だから安心なさいと言いたいのだろう。
「あなたも誰かと付き合ったことがあるでしょうから。男にどうしようもないプライドが必ずあることは、知っているわね」
「うん」
 そりゃあもう。例えば、濡れなきゃそっちが不感症だと全部女のせいにするとか。感じなきゃお前が下手だとホテル代を折半にさえしないとか。力仕事が出来なきゃフっと笑って偉そうに、それ見たことかと得意げになるとか。優しげに仕事を手伝ってくれていても、女の方が出来ると分かれば途端に態度豹変、あんた出来るよね俺なーーーんにもしなくていいよね、と一切助けず知らんぷりを決め込み、挙げ句足を引っ張りさえするとか。
「少年とて男なので。プライドについて、なにか言ってなかった?」
「ああ、それは散々……」
 椎名にはなにか、考えがありそうだが、それはいつものこと。まずは訊かれたことをその通り応える。
「営業は総務より上。男は女より上」
 そう思われても別によかった。結果で分からせりゃいい。そういう結果を、ひとつでも出せるようなればいい。女は非力、それは覆せない。だったらそれ以外で。
「私がお二人さんから戴いた人脈のことを言ったら、随分悔しがってたよ」
「それは想定内の反応ね」
 椎名の知りたいことはこれではなかったらしい。
「それ以外で、プライドということに関して、なにか、あれ? と思った言葉はなかった?」
 あれ? というのなら。気分をちょっと仕事モードに戻した。
 よく職場で、見知らぬ資料、数字の羅列を渡されて、“あれ、おかしいな? と思うところがないか見てくれ”と頼まれた。直接の担当者でない場合の方が、得てして蟻の一穴を探しうるもの。
 勘を働かせることは必要だ。その僅かな隙が重大な過失の引き金になることがある。
 あの感覚で、連れ込まれてからのことを思い起こす。
「……確か……男からプライドと牙を取ったらなにも残らない……」
 もっともこの仕事勘は発揮出来るようになるまで、かなり恥ずかしい、文字通りの勘違いをした。経験って大切だな、の経験とは恥をかくことだと赤面・冷や汗とともに痛感した。
 さてこれは、当たりか否か。
「やっぱりね」
 当たりのようだ。椎名が意を得たように頷く。なにを知りたいのか。
「プライドはともかく、牙と言う男は知らないんじゃなくて?」
「ああ……うん、そう……言われた時、あれって思った」
 あの時は確か、とにかくプライドを持っているらしいから、結ばれたばかりだし、雰囲気を壊したくなくて、意味を訊かず話を逸らした覚えがある。
 あれを今後忠弘と話したとしても、やはり上手くは訊けないだろう。今がいい機会だ。事前知識を得ようと思い、椎名に尋ねた。
「どういう意味?」
 椎名は仕事でもそうだが、プライベートでも質問に対し、ストレートに全ては教えない。肝心な点は必ずその人物が自ら考え、行動を起こさせるようにする。
「相手を闘い殺し平伏させる、という意味よ。闘えばどれだけ多人数を相手にしても圧倒する。闘わずとも発するオーラだけで相手を土下座させる。心底敵わない、歯向かってはならないと思わせることが出来る力のことよ。
 牙を持つ男という存在は、とても稀よ。誰しも生まれた時から牙など生えていない。強烈に自覚しなければ駄目。さらには、ちょっとずつしか生えない、鋭くならない。そうなる為にはその度地獄に堕ち、堕とされ、生死に関わる修羅場から帰還しなければならない。
 あなたの夫の牙は返り血よりも自らの血の方により多く染まっているわ。普通は逆よ、だってそうでなければ死んでいるもの。
 稀な牙持ち男の中でも更に特殊よ、あなたの夫は。手綱を取れる?」
 清子はゆっくり首を横に振った。向こう見ずと手綱を取ることは意味が違うから。
「もっとも、あなたにはその牙を向けないわ。殺してしまうから。死なれたら最期、自分も死ぬから」
 だったらあれは牙ではなかったのか。あれ程の禍々しさ。抱き締められなければ土下座どころか膝から崩れ落ちた。
「少年を好きなんでしょう? 愛しちゃっているんでしょう? それでいいのよ。つまり、そうでなくなった時が牙を剥かれる時よ。一緒に壮絶に死になさい?」
「一緒に死ぬのはいいけど、そうでなくなる時はないから」
「と、即答させる為に誘導尋問したのよ。でもまだあるのよねえ」
「はあ、それは一体……」
 肩を落としたくなった。まだ、どころかまだまだ、の模様。ここ最近、うちそとで気力体力を使っている。だから実感する。今まさに人生が変わっていることを。
「木下さん、という名が出たわね。入社式の時少年の隣にいて、思わず嫉妬した、と」
「ああ……うん」
 また話が変わったようだ。頭も切り替える。
 言われて思えば、何故一年間も忠弘をすっかり忘れる程妬いたのだろう。はっきり違うと言っていた木下。
「でも少年は、木下さんなど眼中になかった。なのに何故、情報通という渡辺君はその人を少年の彼女とあなたに吹聴したのか分かる?」
「はあ、なんだか難しい話に……」
 とはいえ確かに矛盾している。忠弘、木下、渡辺。この三者はいずれも、清子に対し嘘を吐くような人物ではない。
 さっきはなんとか仕事モードに戻れたが、この件は、三者と職場を通じて知った者達なのに、頭が上手く回らなかった。
「少年の側からは木下さんに接近しなかった。つまり逆よ。木下さん側から少年に接近したの」
「でも、木下さんは忠弘との仲を疑われて違うって……」
 どこかで皆、主張が食い違っている。つまりは誰かが嘘を吐いているのではなく?
「そうよ、木下さんもその気があって接近したんじゃないの。ずばり言うわ」
 清子一人では決して辿り着けない答え。受け止めようと、静かに聞いた。
「木下さんは少年の親戚なのよ」
 息が止まった。たった二文字で今までの、もやもやとした疑いが晴れた。そうか、それでか。
 どうして初見の赤の他人二人が近い距離にいただけで、忘れようと、考えてはならないとまで思い込んだのか。
「そうよ。木下さんと少年は面影が似ていた。それだけじゃない、頭の出来も似通っていた。美男美女、似合いとか言われていたわね? それは間違いじゃない、だって血が繋がっているのだもの。
 更に言えば、木下さんの方だけが、自分と少年は親戚だと知っていた。つまり、自分の両親はあの時少年を見捨てたことも知っていた。だから少年にそれとなく接近し、謝罪の機会を窺っていた。それが周囲に、付き合っているのではないかと誤解されたのよ」
 それで渡辺も誤解した。目敏いからこそよく目についた。忠弘と木下は課こそ違え席は近かった。社食、通路、なにかしら訳ありげに二人で会話する美女美男を数回見れば、色恋沙汰に通じているあの後輩ならさぞかしそう捉えただろう。
「木下さんのそれっぽい言葉、あれっと思った言動を、あなたは知っていたのでは?」
 よく頷き、今月中に起きたことを振り返った。
「うん。一杯のお茶事件でそっちの大会社へ行く時、それっぽいことを言ってた」
 訳ありげに近づいて来た、滅多に会話しない美人。
「どんな?」
「私がお茶出ししたお偉いさんは、玲さん達大会社所属の人物と面識がある。それを頼りに忠弘は行った。でも我が社の命運を握っているのは交渉役の忠弘ではなく、ただついて行くだけでしかない、添え物の私……」
 あの時清子は、お茶事件の真相を知っていた。そして渡辺とともに、誰より先により多く知っていると思っていた。
 とはいえあの会話。それっぽい、あれっとだけ思うには、あまりに訳あり過ぎた。あれだって訊き返したかった。だがあの時は、忠弘のことをより多く想っていて、声を聞きたい、逢いたいと。
「木下さんは少年の恋心を知っていたのよ。それだけ注意深く彼を見ていた。それっぽいことも聞いていたわね?」
 そうか、それで。あの時からもう、木下は確信していたのではないだろうか。ひょっとしたら、清子が少しでも忠弘との仲を認める気配を見せたなら、真っ先に、心からおめでとうと、周囲を察して小声で言ったかもしれない。
 自分の考えと、木下の問いにゆっくり頷いてから、話し始めた。
「指輪も眼鏡も、忠弘から贈られたものだと分かっていた。忠弘が会社でさぁやと言った時、それが私とも最初に気付いていた。私はみんなにキヨコかセイコかと思われていた筈なのに」
 ひょっとして。もしかして、清子が木下と忠弘をそうと見たように、あの日、木下も?
「さぞ謝罪したかったでしょう。でも遅過ぎる上、時間は元に戻らない。あの時救わなければ、後々から言ったところで侮辱にしかならない。だから本人には言えなかった。代わりに、彼を幸せにしてくれる人を探していたのよ」
 嬉々として受話器にキスを投げ、縋るようにさぁやと想いを紡ぐ忠弘を、木下はどう思い、見て、聞いていたのだろう。
 今となっては想像に難くない。
「いい、清子さん。木下さんが少年の親戚であると、少年に言っては駄目。披露宴すらしたくないのだから、激怒するだけよ。最悪、言ったあなたに牙を剥くわ。三日逢わなかっただけでああだったんでしょう?」
 死んだ目を思い出すだけで声も出ない。ゆっくりと頷いた。
「よく止まったと思うわ。でももう駄目よ。禁止ワードなんて決して言ってはならない。ひたすら愛しなさい」
 もう一度ゆっくり頷いてから、問う。
「……木下さんを、結婚式に呼ぼうと……」
 椎名は首を横に振って断言した。
「呼ばないで。少年はバカじゃない、洞察力がある。自分の顔と木下さんの顔が、あれ? 程度は思っている筈よ。更には、自分は全く相手をしないのに、懲りず自分に接近するのは何故だ、とも思っている筈。調べようと思えばすぐ分かるのよ。最悪、今もう知っているわ。それっぽい兆候は?」
 力なく否定した。
「ない……」
「あなたが木下さんに嫉妬したと少年に言った?」
「……言っちゃった」
 下を向くしかない。知らなかったとはいえ。直接表現でなかったとはいえ。
 更にそれが、渡辺からの情報だなどと言ったら? 忠弘がどういう行動に出るか、これも想像に難くない。
「では駄目よ。少年はあなたのこととなると許容範囲が狭過ぎる。言いたくないけど大嫌いが全ての原因よ。結ばれたのは実に結構、でも訊けば聞くほど薄氷の結果だったわ。あなたを失いたくない、いえ、捨てられたくない一心であなたは助かっただけ。自覚はしているわね?」
「……うん」
「でも、恐れては駄目。全て受け止めて。あなたはあなたでいればいいの」
「うん……忠弘は、さぁやがさぁやでいりゃいいって……私に怒られること、機嫌を損ねられること、捨てられることをなにより恐れてる……」
「それが少年の精一杯の本心よ。でもあなたはもう、怒らない。機嫌も損ねない。捨てることなど出来はしない。そうね」
「うん……」
 たいしたことは出来ない。でもきっと撫でて上げればいいと想う。抱き締めて上げればいいと想う。汗だくで、なにもかも一緒になったあの時、そうして貰ったように。
「そう、いつもそう即答していなさい。
 私からの誘導尋問は以上ね。あとなにか、少年の言動についておかしいと思ったところ、気付いたところは? 今言って今答えろ、で悪いけど、そこまでの経緯とは知らなかったし、少年の許容範囲上私達があなたに会えるのはもう結婚式までないわ」
 以上と言われても、もうほっとなど出来なかった。椎名の言う通りだ、気付かないことがこんなに多い。訊いて貰わなくては。言えるだけ言わなくては。
「……結ばれた日、酷いこと言ったら、なぜ奈落の底に戻らなければならない、と……」
「……よく、あなた生きているわね……」
 清子は下を向くしかなかった。
「その意味はもう、心底分かっているでしょうから、今更説教などしないわ。いい、少年をただ愛して。あとはなにも要らない。確かに体力持たないでしょうけどそれでも愛して。愚痴を私達に言うのはいい、でもお願いだから少年には言わないで。分かっているわね?」
「……うん」
「他には?」
 言わなきゃ、言わなきゃ……あれっと思ったことでなくとも。
「私が忠弘に贈った腕時計……見せたら、同じもので女物を作ってくれ、ネックレスと同じだ、さぁやと揃いの時計がしたいって……」
「そう……しおり?」
 それまで清子の相手は椎名だった。黙って聞いていた、時計店に一緒に行ったしおりが口を開く。
「清子。山本某に贈ったその時計ね。あの店に、四十年間ただ飾られていたままだったのよ」
「……え?」
 そんな。あれは埃もなにもなかった、専用の箱にも包みにも。
 間違いなく新品だった。無垢の、たった今出されたばかりの。
「あの店には多くの上客が訪れ、何人もがそれを欲しいと言った。誰もが大金を振りかざし、立場肩書き名誉家名を振りかざして寄越せと大上段に構えてオーナーに命令した。オーナーはにこやかに微笑みながら嘘を、全員に吐き続けた。
“それは売約済みです。引き取られるまで飾っているだけです”
 何故清子という、一般人で一見の客に? それはね、清子がオーナーの気に入る理由を言ったからよ。オーナーはずっと待っていた。四十年前、その品を作った直後引退した、偏屈な技師の為に、あなたを。
 言ったわね、あの時。
“惚れた男が贈ってくれた石と同じ色の、この時計がいい”
 その言葉が、日本一の宝飾店のオーナーの心を動かした。
 だからお代を取らなかったのよ。もしあたしが、いいえ椎名課長が、いいえ会長でさえ、これが欲しいとただ言ってもガラスケースから出して貰えない。仮に売って貰えたとしても天井知らずの金額を要求される。
 清子が気に入ったからよ」
 あの時は、“これがいい”と言ったら、“はいどうぞ”と、あっさりそれだけ。にこやかに、圧する雰囲気もなく、安心して包んで貰った。もう後は、忠弘の喜ぶ顔が見たかった。
「椎名課長も言っていたけれど、清子は自分を過小評価し過ぎよ。自分を知らなさ過ぎよ。
 山本某に、家に閉じ込められるのね。多分、いいえ間違いなく、男を勃たせるからなんてチンケな理由じゃない。
 椎名課長は訊きづらいだろうからあたしが」
「止めなさい」
 仲のいい二人が、まるで今から言い争いを始めるかのよう。あれだけなんでも訊いて来た椎名が? 意味が分からず困惑する。
 最初は、清子自身が言いづらいことを言わされるのかと思っていた。確かにそれも訊かれたけれど、でもむしろ、大切なのは今?
「……あの、……言って欲しいんだけど。私、本当に忠弘の為にだけ生きるから、二人とまともに話すのも、ひょっとしたらこれが最後になるかもしれない……」
「だそうよ、椎名課長。今しかない、言わせて貰うわ」
 椎名に心底惚れたしおりだから、どんな奥底に隠した憶いへも踏み込んで行く。
「清子。あの老人となにを話したの?
 その前に、山本某以外の人間とは指一本触れたくないと言ったそうね。あなた、あの老人が勃つわけなくとも、お触りくらいはされそう、なんて思ったわね? バカじゃない!? そんな卑下たクソジジイの元に椎名課長が向かわせるわけがない! そんな卑下たクソジジイが一代で大会社なんて築けるわけがない! 天下ご免の向こう傷はいい、それで清子はあたし達を動かした! でも、時と場合、相手を選びなさい!!」
 答えられない。その通りだ、疑った。会って、有り得るわけがないと確信したのに、それについて椎名に謝らなかった。
「その判断が出来ないのに、信じられない人脈を突然動かすから山本某は出るなと言ったのよ。この点に関しては100%山本某に同情するわ、このあたしがよ!
 さあ言いなさい。なにを話したの。清子のため、ひいては山本某のためになることなのよ!」
「しおり!!」
 清子は、このタイミングで何故椎名がしおりを叱ったのか分からなかった。
「言わせて貰うわ椎名課長。未来の我が子が可愛くてやったことなんだから。
 さあ、お言い清子!」
 未来の我が子。もう──ひょっとしたら。
「……あの老人は、十三で働き始めた。休みもなく眠りもせず。それを見守ってくれた人がいた。その初恋の人が作ってくれた握り飯、淹れてくれた一杯のお茶が忘れられない。
 働き通したら大会社の一番偉い人になった。だから連れ合いはそれに合う、大名門の高貴な美人だった。でもその人の手料理にはありつけなかった。随分前に死なれて、もう顔も覚えていない。
 三十年間、世界一という名の監獄でただ生きた。初恋の味を求めて誰に命令しても再現しては貰えなかった。それが、椎名課長に、もしかしたらその味を出してくれるかもしれない、という私の話を聞いて、気付いたら私の会社に直接足を向けていた。
 私が淹れたしょうもないお茶が、偶然初恋の味らしかった。泣かれた、“枯れたじじいに”って、涙も枯れた老人に。
 初恋の味だったからこそ帰して上げる。本当は帰したくない、でも帰して上げる、それだけが感謝の印。
 そう言って帰された」
「どういう意味か、分かる?」
 分かっているでしょう
「……分からない。教えて」
 分かってるよ
「清子はね。あたし達の会長と匹敵する人脈を手に入れたということよ。
 帰したことだけが感謝? 違うわ。あの老人は、清子が言えばなんでもするわ。なんでもよ。見返りなんか求めない。もう一杯なんて言わない、そういう大人物なのよ!
 いい。清子の人脈は、ひいては夫・山本某の人脈よ。清子は山本某のモノね? そうよね!?」
「うん」
「あたし達の人脈に悔しがっている程度のものしか持っていないようじゃ、山本某は一週間と一課に在籍出来ない。でも。あの老人の人脈を元に、さらに範囲を広げられたら? 山本某なら出来る、そう信じているでしょう!?」
「……うん」
「椎名課長は一課に丸裸のまま放り投げられる山本某のために人脈を用意したのよ。会長が披露宴にと招待しても世界一の邸宅から出て来なかったような人脈をね!
 もう一声言って上げましょうか。いいわよね、椎名課長」
 椎名は顔を背けた。
「山本某を案内している男性、誰か分かる?
 なーんて言っても、これは分からないか。ヒントは言ったんだけど? 椎名課長が“あの方”なんて。
 そうよ。あたし達の、椎名課長が唯一膝を折る会長ご自身よ。
 この方はね、ご夫人一筋なの。元は一般人で、はっきり言えばビビりなご夫人のそばを片時も離れたがらない方なのよ。そんな方に、椎名課長は他の話のついでに言った、“初めて一本取られました”って。まさかそう言っただけで会長がご夫人をひとり置き、その足でプライベートジェットを単身緊急発進させフランスから日本に直行するなんて、いくら椎名課長でも分かるわけがなかった。
 清子はあたし達の会長すら動かしたのよ」
「どう答えろと?」
 分からないことまでも。
「清子は内助の功な妻ね? その通り、山本某を愛しなさいよ。結局、あたしも椎名課長も清子に言いたいのはそういうこと。
 文字通り、バリバリの新婚だし。さぞ大ノロケが炸裂するかと思ったのに一切なしと来た。山本某には同情するわよ」
「一切って……言ったじゃないすごく。もう、忠弘に逢いたいよう……ああそういえばメールの返事が来ない……」
 あの男のことだから、ばんばん入るかと思ったのに。
「今頃、冴えないスーツその他を処分させられて採寸させられているわ」
「冴えないって……」
 処分だなんだとは随分穏やかではない。忠弘の状況は一体? まさかその、会長とやらに詰問されまくっているとか。
「もう。あんなにセンスいいのに」
 さらにはカッコよくてちょっと滂沱でかなり鼻血で(順序逆)
「会長のスーツ、だけじゃないけど、の着こなしは世界最高よ。見せつけられてるのよ直接。キャンキャン尻尾振って言うなりになってるわよ」
「酷いなあ、もう」
 そんなことあるわけない、あの男に限って。それとも会長とやらはそんなに酷い男か。
 人は違うが今朝その、会長というのに会った。そんなご大層な肩書きじゃ似たり寄ったりだろう、偉い奴なんて大嫌いだ。
「忠弘は違うけどっ」
 ぽそっと言うと、なに? と二人に訊かれたが、逢いたいなと想ったのとごまかした。
「他にはないかしら?」
「えっと」
 些細なことかもしれないが、訊いておこう。この二人とここまで語れる機会はそうはない。
「一杯のお茶事件があった翌月曜日、忠弘が早朝からどこかのお客様に呼ばれたって言ったでしょう。忠弘から平日の昼メールが入らなかったことってなかった。でもあの月曜だけは入らなかった。夜、お茶事件のことを全く知らない内容のメールが来たの。愛情多過で仕事が出来る忠弘にしてはおかしいなって思った。早朝ってのも気になった。なにか知ってることない?」
 すると椎名は、フ、という笑みを浮かべた。
「当然、こちらが手を打ったからよ」
「……やっぱり?」
 お茶事件の後だ。あり得ると思っていた。
「メンツでガチガチな大会社の体面上、たかが中小企業ごときを潰す際、まさか間違ってもすぐに手を打たれ、対応策を全社員に周知されるわけにはいかない。
 混乱させ、全社員誰もが事実を知らされぬ間に攻撃し潰す。跡形もなく瞬時に。
 これが大会社の体面というものなの。分かるわね」
 清子は頷かざるを得なかった。
「私はあの会社へ行く際、ある程度の事前調査をしたわ。
 緊急事態が起きた時、すぐに手を打てる人物といえば、簡単に首を飛ばせた上層部ではなく、たかが入社二年目の山本少年ただ一人。それが私の、そして補佐の評価だった。だから補佐は取引停止前に少年を拘束した。
 あのC社のお知り合いと少年は、この件があるまでお互いを全く知らなかった筈よ。なのに、細い線とはいえ突破口を開かれた。
 完全拘束してもよかった。けれど、それではあまりにつまらない。だからわざと携帯の電波を遮断しなかった。ただし身体は完全拘束したわ。宿泊先から一歩も出さなかった」
 すぐに分かった。“ルームサービス”、あれはかなりおかしい。あんな高いもの、たかが入社二年目の人間が仕事先で頼んでいいものじゃない。
「電話で初めまして、なんて若造の営業トークに付き合う会社のトップなどどこにもいないわ。なのに少年は電話一本で一から情報を収集し、まっとうな人物たるあのお知り合いを探し当て接触し、即日自社に足を向かわせた。
 身体拘束からも抜け出していた。最上階に泊めさせたのに脱出時間不明、室内外に器物破損の形跡なし。室内の備品はそのまま、奇麗さっぱり片付けられていたという。一度や二度の、偶然程度の経験では出来ないことよ。
 私達も営業でメシを食って来た、ある程度歩いたわ。けれど、一瞬一秒に命を懸け、食うや食わずで眠らず眠れず、装備品ほぼ無しで1,000kmを踏破したことなどない。おそらくあの程度はお手の物、いえ準備さえしていたでしょう。
 少年は私達の評価以上。そう判断したので、あのお知り合いからの話を、私達は聞くことにしたの」
 椎名は水を一口入れた。
「渡辺君のこともちょっと言いましょう。
 小賢しい情報収集能力があることは多少知っていたわ。でも私達は歯牙にも掛けなかった。その理由。お茶事件の全容をいち早く知った、ということだけど。
 それがどうしたの? 結局それだけ、少年とは正反対、知れはしたもののなんの手も打たなかった」
「違う、それは忠弘が」
 話を遮った清子はあの時の事情を説明する。言いながら思った、椎名としおりの、渡辺に対する評価はとても低い。
「つまり、言われるまで思いつかなかった、ということね」
 その通りだ。だがそれは清子もそうだ。
「だったら。言われずにいたとして、その時渡辺君はどういう反応をしたと思う?」
 いやな予感がした。
「そうよ。小賢しく吹聴し、全社員を浮き足立たせる。上層部に対する不信を植え付け、電話の応対を間違わせる。“お茶をぶっかけちゃった奴が悪いんです”? “上層部はトンズラ中です”? そんなことを言われれば、どこの会社だってその瞬間に取引停止よ。違って?」
 首を横に振った。
「少年に正しく止められても、他の方法などいくらでもあるのに、その後やったことといえば求人情報雑誌を漁りまくっただけのようね。
 なにかあったと知れば、立ち向かって事態を打開するのではなく我先に逃げる。そんな人物に用はなくてよ。
 話を聞けば、あなたが少年に対し意地を張ったのは、渡辺君のいい加減な情報によって、ということね。勿論鵜呑みにしたあなたにも非はある。でもね、耳聡いからといって直接の指導係に、その目で確認もしない中途半端な情報を吹聴して楽しんでいるようでは、総務部長の椅子どころではないわ。
 こんなご時世、大会社と世間に吹聴している私達でもあっという間に潰れる。だから、その内部事情を知れば転職したくなる、せざるを得ない。それはいいわ。社会は汚い所だから? ドライに生きなきゃねえ。
 けど入社半年じゃ……そう、あなたの同期に三ヶ月で辞めた、入社試験の成績だけはいい人物がいたわね。あれをどう思った?」
 口に出して言った。甘いな、と。
「三ヶ月も半年も同じよ。
 転職を推奨する者は皆言うわ、“若いうちに”と。けれどそれはこんなふうに思われるリスクも負う。履歴書に一生残るのよ。しかも調べれば、会社にお茶一杯なんて多少のゴタが起きただけでスタコラサッサ。
 あなたも総務を経験したのなら、履歴書を誤魔化したかどうかの証明を直接その場で無料でやってくれる公的機関がある、と知っているわね?」
 頷いた。
「あなたは渡辺君に対して評価が高いようだけど、それは間違っている、と言わざるを得ないわ」
「……私の教育が間違っていた、の間違いだよ」
「そう。でもね、そうやって庇うのは、もう少年だけにして? あちらの元・総務部長も渡辺君も、庇うべき何者でもない。今回はまっとうな人物たる、あのお知り合いが見ていてくれたから正当な評価をされた。でも、あの会社内で普通の仕事をしても、あなたは利用され、見下され、潰されるだけ。そういう者達よ、分かっているでしょう? いいわ、返事はしなくて結構。
 あなたは少年だけを見て。少年だけを愛して」
 しおりが完璧な作法で、椎名のグラスにワインを注いだ。応じる椎名の、その威厳。
「随分語り合ったけれど……これだけは、言いましょうか」
 そう言われて、時間の経過を意識した。かなり経っただろう。けれどこの格好、携帯を確認するもなにも、ポケットがない。時計を見るなら忠弘と揃いの、いや、忠弘のあの仕草が見たい。
「どうして少年は、両親を車で轢き殺されたのに運転をするのかしらねえ。普通トラウマになって、見も触りもしないのに。
 引き取った捜査員は無口で家を空け続けたから妻に逃げられた、よって少年にも詳しく死因を伝えなかった。それでも、調べようと思えばいつでも調べられる。なのに何故……この点は謎ね。
 清子さんは、少年の運転する車には、乗ったら寝ちゃう、と言ったわね? それでいいのよ。さぞ嬉しかったでしょう。無防備な姿を、好きと言わない時期から見せてくれたのだから。
 あなたはあなたのままでいなさい。冷や水を掛けられた、なんて言っていたけれど、恋に理由など要らないのだから」
「じゃ、あたしからもこれだけは言いましょうか」
 まるで、終わりの言葉が椎名から出るのを待っていたかのようだった。
「しおり……止しなさいよ」
 なにか言われたくないことでもあるのだろうか。
「椎名課長は東大卒業後、最初に入ったのが老人の会社だったの。その頃から営業畑の人だったんだけど。
 中略して、今の会社に入った時は気まぐれな契約社員、業務内容は営業補助。その後会長夫人を見守る為庶務課主任。その後係長補佐をすっ飛ばして営業三課係長。誰もが“実績もないのに何故”と思った。その結果」
「止してよ……」
 どうも椎名は、照れているらしかった。
「就任三ヶ月で営業課史上最高の業績を叩き出した。株価は、会長が当時臨時の課長時代、海外支社全てを救った時以来の跳ね上がりを見せた。文句なしで営業一課長就任よ。原因は、会長夫妻の披露宴の際得た七百からの人脈。なにせ当日中に、うん十という多言語難解難問長文メール全てに返信したんだから。
 一課長ってそういうポストよ? 山本某について来れるかなぁ〜?」
「忠弘だもん、大丈夫。そっか、じゃ四ヶ月間、ただいるってわけにいかないね。勉強とか仕事とかしなくちゃいけないんでしょ?」
「そうよ。会社に入ってから得意先業者の顔と名前を覚えるなんて呑気チンケが通るわけないし? 十や二十は言語を操って当然、全部基本以前。本題はそこからよ。どうかしら?」
「私、忠弘の仕事に口を差し挟んだりしたことないんだよね。これからもしたくないし。
 そっか、さみしくなるな……」
 清子はこれからのことに思いを巡らせた。きっとあんなふうに、真剣に机に向かうだろう。コーヒーをそっと出して上げよう。見守って上げよう。ごはん作って食べさせて、ちゃんと寝かせて。
 これから生活、するんだあ……

 その後散々飲んだくれた三人は、なんとなく用件を思い出した。
「ああ、そういえば……喫茶店がどうとか言ってたわねえ。後にしない?」
「えー、まだ夜の七時だよう、喫茶店なら閉まってないし、忠弘に美味いの淹れたいし……ひーっく。二人とも強いなあ……」
 一番酒に強いのは年の功・営業畑の椎名だった。
「酒のにおいを漂わせて、ハラ割りまくった飲んだくれ女が行くっていうのも面白いかもね」
「メンドーだわあ……豆なんて社長にでも買わせりゃいいのに……」
 しおりである。どういう会社だここは。と思った。

 その後、ぐだぐだ言うしおりをなんとか連れ出し、リムジンの中で。
「ひっーく。あのね……着替えない?」
「却下ぁー!!」
 酒を飲むと気が大きくなるのは何故だろう。何故あの材料から、そんなものが出来ると昔の人は知っていたのだろう。
 考えても分からないことはともかく、豆を買うのにシースルー。しおりでなければ不可能だ。心の中で盛大に拍手を贈った。
「それであの、私の退職と時計の件をよろしく……」
「だぁーーーれに言ってるのよ、もう手配したに決まってるじゃない」
「いつの間に……」
「あーもう。一杯飲んだら帰るわよ! なにが悲しくてワインの次にコーヒー……あーぁあ」
 その格好で飲む気か。まさか喫茶店で酒瓶片手にラッパ飲みするつもりじゃあるまいな。しそうだ。
「しおりはコーヒーも紅茶も上手いんだね……ひっーく」
「そりゃーもう、秘書畑だもの。でもね? あたしがあの部屋にコーヒー紅茶を運ぶのは、清子達が最初で最後よぉん?」
「……え?」
 しおりはにったりご機嫌で椎名を見やる。“あぁらなにかしら”と余裕の椎名。
「あそこはねぇ、元は営業一課長室じゃないのよぉ。そんなのはねぇ、一課のフロア内にちゃんとあるわ。客が来りゃそこでお迎えよ。そしてあの男達の、あーーのご挨拶を見せつけるのよ、わ・ざ・と」
 やっぱりか。
「充分萎縮させてお帰りよ。もっともぉ? 客なんか全部三課で捌くわ。稀に二課で。一年に一度くらいは一課の係長が。
 なのにぃ? 椎名課長のためにと用意された、あの重役室で清子達を迎え入れる、なんていうもんだからぁ。無礼を働いてくれた会社にお礼返しをしようと準備万端だった、あたしを含めたみーーーんなが反対した、ってワケ。
 もーあの時点で、清子はあたし達大会社を動かしたのよ」
「……どうして。かな」
 椎名が答えた。
「愛情多過な男に迫られてもガンとして言うことを聞かない、内助の功の心を持ついい女がいます。椎名課長、あなたは普通の女性の恋の味方ですね? どうです、興味がおありでしょう。そう言われちゃったのよ。
 私の大切な女性がそうだった。なんとか上手く結婚までこぎ着けさせたものの、内情は後悔ばかり。その二人は四月一日に知り合った。その日のうちに結ばれればよかったのに、理屈を付けて実際は半年後。その間、いいことはなかった。だから今度、もし、もどかしい仲の二人を見かけたら、その日の内にくっつけさせてやれ。そう意気込んだら一本取られたのよ! それを話のついでに言ったら会長に、そうか、と言われて電話がおわった。その後、少年の案内役にと補佐を呼ぼうと思ったら、あの部屋の扉が突然開かれて。私の許可なくそれが出来るのはただ一人。来られちゃってねえ。これで私の引退時期をもっと早くと言っても貴女に許して貰えるようだ、なーんて言われちゃって……あーぁあ」
 清子は後半部分がさっぱり分からなかった。どうも椎名でも酒が回っているらしい。ぶつぶつの呟きに近かったので、清子はそれには突っ込まず、別な質問をした。
「えーっと。日本一の凄い喫茶店とは、一体どこに……」
 リムジンは結構長い間走っている。
「湘南よ」
「というと。鎌倉に近い?」
 泳ぎたくなって来た。この格好でというのも一興だ。捕まるだろうが。
「近いと言っちゃあ近いわねえ。ああ、清子の実家?」
「ふーん……よくお分かりで」
「だぁーーーれーーーに言っているのか、なぁああああああ???」
 しおりが巻き舌になっている。清子もいい加減気付くが、しおりこそ、自分に愛情多過に向かってくれる男性を求めている。下心なんてもう欲しくない、心が欲しいという稀な男を。
 清子とて、“そのうち見つかるよ”と言って上げたい。でも、あまりに軽率な発言だ。見つけられるということは、偶然と奇跡の上にしか成り立たない。世界一の人脈を持っていても見つけられないことがあるのだから。
 白く輝くリムジンが停まった。白手袋をした制服の男性が重いドアを開ける。清子は、こんな車にゃ慣れたくない、と思った。