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 まずは着替えを。真っ赤なハデハデ振り袖を脱ぎ、次に用意された衣装はセクシーなシルクのショートドレス。深くVの字に開いた胸元の、布面積が極めて少ないカップ部はアイボリー。美乳を強調しまくって、モロに限りなく近いハミチチ。その下は黒、生地が薄く、スレンダーなボディーにフィットする、ちょっと歩けば見えそうなバイカラーのミニ。肩紐は首後ろで結んで留められているもの。背中は大胆なほどガラ開き。ナマ脚に挑発的なピンヒール。
 夜の蝶なカッコで降ろされた場所は、超高層ビルだった。目的地は最上階、180度ガラス張りの超高級バー。夜ならネオンが眩しかろうが今の時間は真っ昼間。太陽だけが健康的に眩しかった。
 こんな爽やかな秋の空の下、紫のシースルーなんてカッコをしたしおりが先頭に立ち、ビルに入った。
「お昼ご飯まだよねえ。レストランでもいいけど、一刻も早く訊きたいし? 一緒にお弁当を食べましょ」
 バーでお重というのもなんだが、清子はお互いのカッコに目を瞑った。椎名だけが常識的な布面積の服を着ていてホっとした。
 もうお昼か。そういえば、忠弘に弁当は持たせたが、夕ご飯は? 清子と清子の手料理でなければ味もせず、胃に入れても意味はないと言って食を拒否さえする。作って上げなきゃ。
「あのね」
 清子の言葉に、しおりも椎名も「なにかしら?」という視線を向けた。二人からすれば、了解の言葉が出る筈だった。だが清子にしれみれば、さてどちらにこれを言おうか。
 どっちにも言うか。
「えっと、朝まで飲んだくれるって聞いたけど、それはいいけど。忠弘にはお昼ご飯しか渡してないの。夕ご飯どうしようかなって。忠弘、私の手料理以外いやって言う人なんで」
 答えはひとまず椎名が返した。
「その理由経緯はこれから訊くとして。ご飯はちゃんと出すわ、食事抜きで引っ越し作業なんて、いくらなんでもなくてよ」
 それはそうだろう。罰ゲームでもあるまいし。
「うん、でもね。忠弘、私の手料理じゃないと味がしないっていうの」
 三人は、広いエレベーターに入り、最上階を目指す。
 椎名は清子の言葉を聞いて、なるほどこれが清子にとって今、一番の懸案事項かと思った。目的地に着き、豪奢な椅子に深く座って一息つき、乾杯をしてからゆっくり話す。そういう“時間を楽しむ”よりも前に、済ませなければならない、気が済まない、そう思っているなと。
 忠弘だけが清子に拘っているのではない。片側からだけの想いなど長続きしない。
 いい傾向だ。そう思う椎名の表情に、なおます余裕の笑みが浮かんだ。
「とにかく、着いてからよ。なんにせよ、明日の朝まであなたを解放するつもりはないからそのつもりで」
「はあ……」
 清子にしてみれば、今すぐ解決したいと言った懸案事項を棚上げされたので、実にじれったい。椎名はそういったことを先延ばしにするような人物ではないのに。
 それでも、明日の朝まで女三人、飲んだくれることは確実。
 急がば回れ、か。
 エレベーターが停まり、着いたそこは、日本一と豪語されるに相応しいバーだった。広く、高く、贅沢極まりない濃密な空間。
 ナイショ話を豪奢にしよ?
 バーテンダーはいなかった。客も他の誰も彼も。いたのは、あったのはワインセラー、チェア、テーブルとテーブルクロス、三つの重箱。そこに座れということだ。
 清子は腰掛ける時、後ろからしおりに椅子を押して貰った。気分は高級レストランで忠弘とデートだ。
 待てよ、デートって……したっけ?
「さ、食べましょ」
 まずは腹ごしらえを。女三人、いただきますをして、箸を取って食べ始めた。
「さっきの件について、だけれども」
 椎名は食べ方さえ貫禄たっぷり。どんな晩餐会に出たって余裕だろう。
「少年の、多少調べた壮絶な過去の経緯からいって、味覚すら喪っていた可能性がある。それは分かっていたわ。あなたの手料理でなければ味が分からない。なるほど、そうでしょう。でもね。
 私も、これでも営業畑の人間よ。営業とは、お客様と楽しく会食するのも仕事のうちなの。どんな業種でもね。
 総務以外の経験がないあなたでも、他ならぬ少年の口から、営業とはそういうものだと聞いていたんじゃなくて?」
 そういえば。
 清子は箸を置いて、記憶を手繰る。
「えっと……確か……
“職種が営業なので、都内一と豪語する飯屋に何度も行った”
 だったかな……でも、どれも味がしないって」
 椎名は、洗いざらい喋らせる前に、清子の夫の、ひいては一課たる自分達の職とはなにかを、ざっとでも言っておく必要があると分かった。
「さっき、いつ帰宅出来るかは才覚次第、と言ったけれど。
 実質は何日も家に帰れないわ。その間、ずっと妻の手弁当を差し入れ、というわけにはいかないのよ。少年の言葉通り、会食の必要があるの、どうしても。
 さぞ味がしないでしょう。にこやかに笑える、心を許せる相手だけと食べられるわけじゃない。むしろ正反対の相手と腹の探り合い、化かし合い。その方が多いのよ。
 でも、それも仕事のうち。あなたの手料理以外味が分からないと、はっきり知ったわ。それでもなお、そうさせるわよ」
 シビアな視線を突きつけられた清子こそ、その時の味がしなかったかもしれない。
「なーんてね」
「え?」
 椎名は茶目っ気を出してウィンクをして、食事を続けた。
「そんなのは男の仕事よ。神経戦なんて野郎に押しつけて、女は優雅に楽しく食べるのよ。
 これが営業職の夫を持つ妻の心得というもの。まさか少年とは、いくら自分が味が分からないからといって、妻にまでそうなれと言う男?」
「まさか!」
 清子は急いで慌てて首を振った。まさか、間違っても忠弘はそんな。
「だったら優雅に楽しく、よ。まさか少年は、一円十円の買い物でも領収証を切って貰って来いなどという、ケツの穴の小さい男?」
「違う!」
 清子は更に首をぶんぶん横に振った。
「忠弘は、私を一生養うって最初っから!」
 その為に、社会人になって二年にも満たないのに札束二つを平然と出して。
「当然よ、男は惚れた女の為だけに働いているのよ。優雅に楽しく養われなさい、それこそが少年の願いなのだから」
 はったと見据える椎名、しおり。だから分かった。今の、今までの二人からの溢れるほどのプレゼントも、そうして受け取れと。
 間違ってもお返ししようなど考えるな。有り難くも受け取るな。当然と自信満々に消費しろ。そう願っている。
「うん」
 清子は小さく鋭く即答した。椎名もしおりも満足の笑みを浮かべた。
 食事を続けて、お重の隅もつつきかけた頃。
「ところで、少年の夕食のことなのだけれど」
「ン?」
 清子は安心し切って美味を堪能していた為、肝心のことを忘れていた。心構えは教わった、それはいいとしてお夕飯は?
「あ!」
「案内役の方が出すわよ、ちゃんと」
「えっとね、忠弘大食漢なの、ちょっとっていうか、普通の量だと……」
 連れ込まれてから約二週間で、死ぬ程分からされたあの量を思うと。
「余るくらい準備して貰っているわ。軽く見積もって一ダース。足りない?」
 ダースとは十二人前か。
 それなら……。
「ン、分かった」
 いくらでっかいとはいえ、お昼のあのお弁当箱に不満を言わない忠弘。機嫌を損ねたくないからというより、お弁当を作って貰ったことに感激して、量をもっと多くと言うのを忘れているんじゃなかろうか。
「それにね」
 なんだろう、まだあるらしい。
 ああひょっとして、飲み物のこと?
「えっとね」
 コーヒーなら私のしか飲まないって言ってますよ、と言おうとしたら、椎名の言葉は違った。
「案内役の方には、健康管理にはくれぐれも留意すること。夫婦の営みもいいけど三食必ず摂ること。あのマンションは空調も完璧だけどそれに頼らず、間違っても風邪など引かせるなと説教して貰っているわ」
「は?」
 椎名はそれ以降言わなかった。食べることに集中、の模様。
 洗いざらい喋るには、ずっと食べながら、という内容ではないことは、清子自身がよく分かっている。忠弘の食事問題は解決して貰った、話は長い。まずは食べおえてから、ということか。
 露出度満点のしおりがやけに大人しく、美味しそうに食べていた。椎名は質問にしっかり答えてくれる。
 だから、ある意味清子は油断した。
 三人共にごちそうさま。空になった、超高級な重箱三つをそこらに置く。
「さぁって、飲みましょうか」
 しおりがすいっと立ち上がり、テーブル脇のワインセラーを開けた。
「まずは乾杯」
 冷え冷えとした凍れるワイングラスも超一級。三つの逸品に、しおりが完璧な作法で注ぐ。
 三人、グラスを持つ手を掲げて、
『かんぱ〜い!』
 くいっと飲んだ。温度管理、味、全て最上。美味しい、ただそれだけ。
 忠弘と飲みたかった。だがあの男は、味のしない酒など飲んでいる暇があったらさぁやを飲みたい、そう言うだろう。
「なにに乾杯する? 清子」
 小悪魔な視線が清子を挑発する。
「えっと……結ばれたことに、乾杯」
 僅か数時間前まで、あれだけ激しく致されまくった。さすがに照れる。
「まあ。その調子よ清子さん。たーーっぷり、自供してね?」
 なんとまあ嬉しそうに。忠弘の笑みとは質が違い過ぎる。やはりたっぷり喋らされるな。
 だがこの二人のお陰で、忠弘に想いを告げようと踏ん切りを付けられた。こんなによくして貰った上に、一度に二人も友達が出来た。
 連れ込まれてからというもの、清子には、忠弘だけには言えない、吐き出したい思いがあった。いやいや喋らされる、ではなく、一連の経緯事情を知っているこの二人にこそ、この思いを受け取って貰おう。そう考えて話し始めた。
「えっと。どこから自供すればいいかな」
 椎名が質問に答えた。頷き役がしおりで、ツッコミ役が椎名らしい。
「まずは手始めに、なれ初めからね」
「えっと……入社式から、かな」
 とはいえ、実はあの日の記憶は曖昧だ。
 ハゲ社長の長話を集中して聞いていたと褒められたが、正直な話、下らない内容など覚えていない。まして、それをどう自分が聞いていたかなど。
 覚えていたのは、そう……
 などと、過去の想い出に耽っていたら。
「まあ……出逢いは一日から、か……フ、随分いい日なのねえ……」
「え?」
 やけに遠い目をする椎名。四月一日という時期について、想い出に耽る過去がなにかあったらしい。訊いてみようかと思ったが、あっさり躱された。
「ふふ、後で私も少し自供するわ。さ、続きをどうぞ」
 しおりが清子のグラスにワインを注ぐ。液体が躍るさまも流麗な、いい白だった。
 そう、あの日は……
「まず、私の忠弘に対する第一印象。ああカッコいいのも入ったんだ。
 就職なんて顔じゃないでしょう。そういう企業もあるかもしれないけど、うちそんな大きな所じゃないし。これからは自分の食い扶持は自分で、って思って、懐具合だけを気にしていて、自分のことを棚に上げて、ひとさまの顔をえり好みする余裕なんてなかった。無茶苦茶緊張していた。
 でも忠弘は、私みたいな青臭い新人とは全然違った。威圧感っていうか。歳上ぽくて。
 顔の前にそういう所を見て、あんまり周りと違っていたからどんな人? と思って顔を見たら、ああハンサムだな、って。
 でも同時にこう思った。丁度隣に、木下さんっていうんだけど、とにかく綺麗な女の人がいたの。だから、ああいう人と付き合う人だ、私には関係ない。そう思って……忠弘に言うと怒られるどころじゃないからここだけの話にしてね。実はその後一年間、忠弘のタの字も思い出さなかった」
『きゃーーーーーーっはっっはっっは!!!』
 贅沢な空間に聞き役二人の盛大な笑い声が響いた。相当面白かったらしい、腹を抱えて笑っている。
「くーーーーーーーーっくっく!!」
 椎名が大口を開けて笑い飛ばせば、
「あーーーーはっはっはっは! ザマーーーミロ山本某!」
 しおりはテーブルに手を何度も叩き付けて大笑いだ。ああ哀れ山本某。この場に当人がいたらどんな惨殺劇が起きたことやら。
 だがこの場は女三人による秘密ヒミツのナイショ話。漏れはしない。
 そうと確信している清子。自信を持って忠弘だけには言えない内情を暴露する。
「忠弘は、私を見てああいいな、って想ったんだって。でも知っての通りの過去持ちだから、まずは自活しようって。向こうは営業で、外回りにばっか出てて私がいるうちは帰社出来なかった、最初は恋愛の余裕なんてなかったって言っていた。こっちもなかったしね」
 二人は好き放題笑っていた。まあそうだろう。こういう反応が来るだろうとは思っていた。収まるまで待っているのもなんだし、清子は話を続けた。
「十一月の、私の誕生日をどうにか知って、宝飾店勤めの友達に、今私がしているネックレスを頼んで作って貰ったはいいものの」
 開いた胸元、強調された美乳に映える銀のタグをちょいとつまんで。
「前日どこかに突然出張に出されて渡せなかったって」
 二人は更に盛大に笑い出した。追い打ちを掛けてやれ、とさえ思って清子は話を続けた。
「すぐ十日後の、忠弘の誕生日。私からなにかプレゼントがあるかもって、期待して待ってたんだって。でも日曜日で」
 二人のオーバーアクションは更に激しくなった。隠すという概念のなさそうなシースルーを着て、そこまでテーブルをはたかなくてもいいのに。見ていて結構面白かった。
「イヴもクリスマスも体を空けて待っていたって。でも私は忠弘の存在すら忘れていたから」
 おかし過ぎて涙まで出ている模様。腹筋が大活躍だ、と清子は他人事のように思った。
「結果、独り寂しくケーキを買ったんだって。家で一口だけ食べたけど胸焼けして捨てたとか」
 その腹筋、いつまで保つかな。と、清子は他人事のように思った。
「ヴァレンタインも待っていたっていうけど以下同文」
「や、止めて清子……ははははははははは……」
 さすがのしおりも涙ちょちょ切れ。
「あー可笑しい! もう、さすがよ清子さん、負けたわ!」
 椎名も紅潮ぎみ。
「まだまだあるんだけど?」
『や、止めて……あーーーーーーっはっはっはっは!』
 ここまで盛大に大笑いされると、言う方は冷静になるというもの。
「机に山と盛られたチョコの包みを開け続けて、私のがないか探し続けて、カードを読み続けていたら周囲に誤解されたって。私のなんてあるわけない。山本? なにそれ? だったし」
 清子はこうなったら、二人を笑い潰してから忠弘の元に帰ろうと思った。
「周りの見ている前で、チョコを全部ゴミ箱に捨てたって。これを聞いた時は意地を張っていた時だった。来年は期待してるって言われたので、有り得ませんって断言した」
 清子は、目の前の痴態(?)こそを写真に撮りたいと思った。
「そんなこんなで、入社二年目に入った。私にもようやっと後輩が出来た。渡辺君っていうんだけど、最初はともかく教えたらすごく反応がよかった。嬉しかったな。忠弘はそれを見て現在も嫉妬中だって。
 それで、その頃から忠弘は私にモーションを掛けたって。私もそれは分かった。四月、私の机に朝、忠弘が来たの。張り付けたような営業スマイルじゃなくて、後から思えば愛してるっていうか犯ってやるって顔で、すっごい艶のある声で“おはよう”って。
 私の感想、そういえばこいつ一年前に見たな、ああ同期の。カッコいいのはいいけど彼女いるじゃん。なに人のところに来て思わせぶりなことしてんだか。で、一応頷くくらいは反応した」
 二人はおかしさのあまり全身をぷるぷる震わせていたが、聞くだけは聞いている模様。聞いて貰わにゃ困る、もう一回言え、はなしだ。
「彼女がいるっていうのは渡辺君から聞いたの。渡辺君って情報通だから。さっき言った木下さんがそうなんだって。うん、そうだろうなあって思った。
 忠弘は次の日も来て、同じ感じで同じこと言った。頷くだけだった。
 次の日も、次の日もそうだった。そうすると、私だけでなく周りの人も気付くでしょう。
“あれ、山本君がまた来ている。彼女がいるのに、なんで加納さんごときに”
 そういう雰囲気。気分悪くて、次からはもう、来そうな雰囲気を察して席を立って無視した」
 聞き役の二人は、少しは持ち直した筈の全身ぷるぷるが再発した模様。大声を上げて笑い続けた。笑いで人を殺せそう。清子はぼんやり考えた。
「それでまた、忠弘の存在をすっかり忘れそうになった頃、営業課に手伝いを頼まれたの。入社したての男がいるのに、男性様にそんな下賎な行為はさせません、女ごときで充分だっていわんばかりにお茶汲みをしろって呼ばれた。アタマに来たけどこれも仕事かと思って耐えて、応接室に行くとお客様と忠弘がいた。感想、まさかまた? ううん、いくらなんでも自意識過剰、私にどうなんて有り得ない。そう思ってお茶を出したら、またあんな感じで“ありがとう”って。
 どう見ても私に気があった。いい加減にしてよ。
 とは忠弘に言えなくて、単にありがとうって言われて嬉しかった、ってことにしてる。お願いだから言わないでね?」
 笑い涙する二人は、それでも一応、了解と思われるアクションを返していた。
「それが一度だけじゃなく何度もあったの。もういい加減アタマ来た。そんな頃に、七月だったかな、五時過ぎて、みんなでビル一階入り口に向かっていた時、忠弘の話題が出たの。山本君がイチオシだよねなんて話だったから、当然のごとく言ってやった。私あの人大っ嫌い」
 ああ哀れ山本某。酒の肴にされているぞ。
「忠弘にはこんなこと言えなくて、なんとなく、訳もなく言っちゃった、ってことにしている。お願いだから言わないでね、殺されそう」
 うん。
 と、さすがの忠弘も言ったかもしれない。
「その時まるでお約束のように本人が現れてばっちり聞かれた」
 女二人を完全に笑い殺した清子。だがお笑い天国、もとい、某に言わせりゃ惨殺地獄はまだまだ続く。
「忠弘曰く、奈落の底に突き落とされたって。飲まず食わず眠らずで一週間、10kg落ちた、仕事しない男が嫌いだと思い込むことでなんとか立ち直ったけど、周囲にしこたま心配されたって。二ヶ月くらい私に近寄れなかったって。でも私の感想、ああせいせいした、もうこれで来ないだろう」
 二人はもう、まともに座ってもいなかった。
「その二ヶ月後、最近になって、忠弘から残業を頼まれたの。懲りない人だなあと思ったけど仕事の話だったし。仕方なく付き合ったら午前二時まで掛かった。それはいいんだけど、時間が遅いから忠弘の家に泊まれって言われた。
 彼女持ちでない人から言われれば確かに嬉しかったよ、忠弘カッコいいし。でも、いくらなんでもあからさま過ぎ。そんなに二股をかましたいのか、アタマ来たを通り越した。なんでその通り忠弘の家に行って眠っちゃったか、今でも分からない。
 翌朝起きて後悔して、貰った鍵とかお金とか、住所とか書かれたメモとか全部捨てて出社したら、忠弘がいた。徹夜で仕事してたみたい。この時はあんな、忠弘がとんでもない不眠症だったなんて知らなかったから、とにかく近くに行って帰らなかったんですかって訊いたの。そうだって言っていた。それはともかく、
“残業してくれてありがとう、週末埋め合わせをしたい”
 って言われた。どう考えてもデートのお誘いでしょう? 信じられなかった。当然言った、んなもん要りません、私そちらさん生理的に受け付けません、大っ嫌いです」
 ついに二人は、高価なじゅうたんの上で笑い転げた。この二人をこんなふうにさせるなんて私だけだ。清子は自信を持った。
「いよいよこれで縁切った、ああせいせいした。気分よかった」
 心境はまさにバンザーイ。
「そしたらねえ。十日後渡辺君から、忠弘ことそちらさんが十日間、周囲に怒鳴り散らしてたって聞いた。勿論、私に振られてそうなったっていうのは分かった。そんなに二股先から切られたのがショックだったのかな。まあいいやって思った」
 ああ哀れ山本某。
「その話、居酒屋で聞いたんだけど。そこを出たら忠弘がいた。こんな所まで追い掛けて来るのか、もういいでしょうって思った。なのに一緒に来て欲しいって。当然無視したら、
“君の手料理が食べたい”
 っていきなりプロポーズされた。いい加減訊いたの、彼女いるのになんでって。そしたら彼女なんていないって。
 単純に嬉しかった。ほっとした。そっか、今までのって二股じゃなくて本気だったんだって……ちょっと反省」
 ちょっとでいいのか。
「それで、今度は話をちゃんと聞いた。同情するしかない内容だった。料理が出来ない、カップラーメンしか作れない、やかんに水を入れて沸かすしか出来ない、どうか同情して欲しいって……これだけでもう、嘘じゃないって分かった。だから、大人しく連れ込まれたの。
 でも、もう取り返しつかないくらい意地を張っていて。今更、実はいいなって想ってたなんて言えなかった。言ったら、
“お前は態度をコロコロ変える女なんだな。どれが本当でどれが嘘なんだ”
 って言われると思った。立場逆なら私でもそう言うもの。
 好きだからこそ軽蔑されたくなかった。意地を張り続けるしかなかった。そのうちあきれてくれるだろうって。
 私ね、友達もロクにいないの。理由というか原因、この言い放ち癖。ここまで酷いことを言っても、それでもついて来てくれるなら。そんなふうに試していた。……友達なんか出来るわけがない。
 だから、どう“仲良くなれないか”は知っていた。忠弘にも通じると思っていた。……最初だけ。
 散々言い放ったら、
“そこまで嫌われることをなにかしただろうか”
 って、哀しそうに切なそうに言われて……でも意地を張り続けた。試したの。最低……
 私が地獄に突き落とした十日間、一睡もせず食事は一日に夕ご飯の一回だけ、それもビールだけ山ほど飲んだって。信じられなかった。どうやって生きていたのって思った。体重が5kg落ちたって聞いたけど、そんなので済むのかって。同情してって何度も言われて、さすがにそうするしかなかった。
 でも、私は男に短期で飽きて捨てられたから、もう男に期待したくなかった。忠弘はどう見ても真剣で、本気で私を口説き落とそうとしているって分かったし、私の言葉一つで死にかけるくらい私のことを好きなんだって分かっても、それでも期待したくなかった。男に応えたら、途端手のひらを返されるってよく知っていた。こっちこそ地獄に突き落とされる、そういう経験しかして来なかった。男は、自分が絶望に突き落とした女の反応を見て愉しむ最低の存在だって知っていたから。もうこの時点で充分忠弘のことを好きだったけど、本気で好きだったからこそ、誰より忠弘にだけは捨てられたくなかった。試すだけ試して延々意地を張った。
 そんな私に、忠弘は次々とプロポーズの言葉をくれた。嬉しかった。でもそうとは言えなかった。名前も呼んで上げなかった。ずっとそちらさん、なんて言い続けた。
 同情だけはして上げるって言った。あの家には調理器具すら、ううん、それだけがなかった。ずっと私を待っていたの。迎えに来て、ご飯を作ってくれるのをずっと待っていたの……。
 だから準備して上げた。調理実習で出るような、手抜き料理しか作れないって言ったらそれこそ食べたい、学校にまともに行っていない、五歳で捨てられて天涯孤独で……泣きたくなった。もうこの時点で、捨てられてもいいからその時までは、って思った」
 聞き役の二人はもう、笑い声を収束させ、椅子に座って清子の言葉を真剣に聞いていた。
「清子さん、話を折るわ。どういうプロポーズだったか知りたいの。覚えている限り言ってくれる?」
「……いっぱい、ありますよ」
 もし自分があれだけ酷いことを言われたら? そんな男、願い下げだ。
 真心を試されたらそれでお終い。
「君の手料理が食べたい……」
 何故忠弘はあれだけ拘るのだろう。分かっていることは、今度捨てたら、もう。
 思い出しながら、たくさんの熱い言葉の数々を伝えながら。
「……さやが好きだ、結婚して。
 随分もてるみたいだし、親しい友達が何人もいるって聞いたけど、それでも……全部、間違いなく私にしか言っていない」
「でしょうね。続きを」
 それでも椎名の目は、しおりも、あの日のような、憤怒のそれではなかった。
「いっぱい言われて嬉しくなって。でも、忠弘は言ったの、好きなタイプは家庭的で控えめな女性って」
 清子の声のトーンが下がる。
「……冷や水を掛けられた気分だった。私はどっちにも当てはまらない。そんな女は山ほどいる。おまけに、女には突進されてばかりで、欲望ばかり要求された、そうじゃない、なびかない女は私だけと言われて……
 そんなの、ただ視野が狭いだけ。もっとちゃんと外を見ればすぐに簡単に私を捨てる。そう思い込んで、プロポーズの言葉を全部無視して意地張りを続行、することに決めた」
 苦々しく言い放つ清子の様子を見て、この点に関しては忠弘と、相互理解が出来ていないなと見抜く二人。
「忠弘は、私と一緒に朝を迎えられて嬉しいとか言って、出社もしたくなかったみたい。それは困るから、鍵を持って上げるって適当なことを言って出社させた。
 連れ込まれた次の日は、忠弘は私の為に有給を取らせてくれたから、アパートに帰ってゲームをした。
 もうあのマンションに帰る気はなかったけど、同情だけはしたから朝、お弁当を持たせた。そしたらお昼、社内で、会社の人が見ている、聞いている中で忠弘がこう言ったの、
“さぁや、お弁当も美味しいよ”
 ……もうこの時点で、ああこの人は所々が五歳児のままだって分かった。サーヤって……ほんとに甘えた声で、縋るように言われた。さやと呼びたいと言われたけど最初だけで、最近はもうすっかりさぁやで。どれだけ怒っても機嫌悪くしても、……えっちの最中でもさぁやって、ずっと甘えた縋る声で言うの。
 とにかく、あんまり恥ずかしくて照れちゃって、二度とそう呼ぶなって電話ドンガリ切って無視したら、案の定夜アパートに来られた。ドアをどんどん叩かれて縋られて。帰って来てって泣きつかれて。
 どうして私をそんなに好きなの、どうしてそう想うようになったのって訊いた。それで、さっきしおりと玲さんを笑い殺しちゃったような内情だって知った。私のどこが好きなのか理由も聞いたけど……
“仕事が出来る、美人だ、向こう見ずな性格がいい……”
 誰にも褒められたことがなかった、褒められたいと思っていたことだった。その通り言われて嬉しかった。それで、同情したってことにして、家に戻ったの。それでもいつかは捨てられるだろう、でもいい、それまでご飯作って上げようと思って……
 でも次の日見たんだ。……忠弘の体、無数の傷……」
 視線を落とす、沈痛な面持ちの清子。
「どれも生死に関わるような。かつ、まともに治癒もしていない、汚い傷ばかりだった。そうね」
 頷いた。
「記録には残らず、調べられなくても想像は出来る。屋根の下にいたこと自体稀だったのでは? 寝具に触れた回数も稀。食べ物にもありつけない日々がどれだけ続いたか。逃走していたのだから、ひとめにつかないようにする為、絶えず周囲の気配を脅迫概念さながらに感じ続けて。眠れるわけがない。アスファルトの上すらまともに歩いていなかったでしょう。
 お天道様の下も歩けず、夜目で先が見えなくて足を踏み外して崖から転落、大傷だけではなく骨折も多々だった、おそらく真っ直ぐには治っていない筈……続けて」
 初めて真っ裸を見たあの日。目を背けたのは、羞恥からだけではなかった。
 重い足音の理由。文字通りの同情。
「……不眠症で。都内の病院を転々としたって。
 私自身のことじゃなかったけど、親戚で、どうしても病気の原因が分からなくて、片っ端から病院を回ったって人がいたの。どんな薬を貰っても効かない、あの医者は駄目だって言いながら別な病院を訪ね続けて。それを見てね、効くわけないって思った。そんなに酷い医者なんてそういない、それが何人も続く筈がない。そんなことしても意味がないのに。
 でも、忠弘がそれを知らない筈はない。お医者様を不審に思ってたわけじゃない」
 ただ治りたい。治したい。その一心。
 そういうことをする誰もが。
「好きだったから、口には出せなくても。眠っていたから、そう思ってキスしたの。訊いてはいないけど、知っていただろうな……
 すっごい気持ちよさそうに熟睡していた。あれだけ眠れなかったって言っていたのに。不眠の理由が不安にある、ってことくらいは知っていたけど、同じ部屋にいたわけじゃないのに、私がいたってだけであれだけ……
 忠弘の寝姿ってね、もう。もうもう、すーーーーーーーっごい無防備なの。パンダもかくやっていうくらい。
 え? パンダってなんだ、あいつは白黒じゃないぞ、もふもふコロコロしてないぞ、可愛くないぞって?
 可愛いの! むっっっっっっっっちゃ苦茶可愛いの!! 見せて上げないよーだ! ってくらいコドモで。どうしてあんなに“好きにして状態”になれるの? いくら惚れてるっていったって、まともに喋ったのちょっとしかないのに。ちょっといれば、合う合わないって分かるのに。あんな、酷いことを言い放って地獄に突き落としまくっていたのに。
 そんな私が起こしに来るって分かってて……あのねえ、仔イヌ仔ネコも可愛いけど、イヌ派とネコ派って分かれてるでしょう。派閥の違いは決して交わることのな……って、そんなこと聞いてない? 話逸らすな? はいはい、えーっと!
 とにかくねえ。可愛いくて無防備ったらパンダなの! どれだけガタイよくてもパンダなの! 人類皆パンダ好き、嫌いな人いなーーーーーーーい!!!」
 椎名としおりがシラけ目線を向けて来る。んなもんに怯まない清子、
「だからパンダなの。あんなの見たら誰だって好きになるって! だから見ちゃ駄目、そう言いたかったの!!」
 それならそうとだけ言いなさいよ……と、しおりは小声で言ったが、洗いざらいと言ったのもまたしおりなので、聞こえるようには呟かなかった。
「まあ確かに。実物はパンダじゃないですよ、見蕩れるほどいい色男ですよ。たーーーーっぷり見蕩れたら疼いちゃった。気がついたらキスしていましたよーだ。
 ……起こしたくなかった。でも平日だったから。これを言えば起きるだろうって自信を持って小声で名前を呼んだの。思った通りすぐ起きた。あとはずっとそう起こした。
 ぐっすり眠れたって。私がいないと駄目だって。
“おはようさや、好きだよ”
 ……嬉しいなんてもんじゃなかったけど意地を張った。ここまで言われてここまで知って、それでも手のひら返されたら、って怯えて……
 朝ご飯を食べながら話をしていたら怒られた。
“また鍵を捨てる気でいるな”
 って。
 ああ忠弘は、私にさえ捨てられたらもう生きてはいない。それがよく分かった。冷める筈ない……だから、久々やっていない、コーヒーを淹れて上げることにしたの。あ、そうだ」
 清子が思い出して二人に尋ねる。
「あのね、これ後で言おうかと思ったんだけど、今言っちゃう。忠弘ね、私をもう家の外に出したくないんだって、たとえ二人で一緒にでも。それでね、明日以降は四ヶ月後まで、私達は二人っきりなんでしょう?」
 椎名が断言した。
「ええ、なにがあっても二人きりよ。しおりと私が保証するわ。勿論、なにかあったらいつでも連絡して。それで?」
「お料理もそうだけど、忠弘にもっと美味しいコーヒーを飲んで貰いたいの。だから、メールで教えて貰った日本一の喫茶店に行って、そこのマスターさんが実際淹れる所をこの目で見たい。プロの技術を盗みたいの。明日以降は忠弘とずっと二人っきりだから、どうしても今日中に」
 しおりが答えた。
「コーヒーなら、あたしだって結構上手いわよ? 会社で飲ませたでしょ?」
「うん、それは分かっている。別にしおりのプライドをへし折りたいんじゃない、でも日本一のマスターじゃないでしょ?」
 あのメールを送った、そのリストに自身の名を載せなかったのはしおり。さすがに反論なしで答えた。
「ま……その通りね。分かったわ、あたしも参考にしてみたいから一緒に行くわよ」
「当然、私もね」
 結局、女三人は話がおわったらそこの喫茶店に行く、ということになった。