15

 さすがにここまで来ると、誰がどうしたらこの事態になるか、考えも及ぶというもの。だから先に電話をした。思った通り椎名はすぐに出た。
「ごめんなさい……清子さん、とお呼びした方がいいのよね」
 今だけは、あんな男達を統率する女性の声ではなかった。大当たり、だ。
「はい。私はどうなっているんでしょう」
 あの大会社の、重厚な部屋での会話のように、率直に訊いた。
「友達になりたての、私の顔を立てると思って、あの老人と午前十一時まで付き合って下さらないかしら……」
「そういうことは、事前に言うものでは?」
「……お怒り、ごもっともよ。言葉もないわ」
 別に怒ってはいない。仕事をする時のように言っただけ。ただ、椎名にしてはちょっと? と思っただけ。
「私は夫以外とは、もう指一本触れたくありません。これは最低でも保証して下さい。いいですね」
 清子は大勢に囲まれ拘束されている。椎名が、忠弘がすぐ近くにいないことは明白。多勢に無勢では抵抗も出来ない。
「この私と、会長の名にかけて保証するわ。あとはなにをすればいいのかしら」
「あのご老人と会うのは、これっきりということで」
 はっきり事前に言った。
 さっきの奇声では「同じくらいの取引を」ということだった。それはいいことだ。椎名の大会社との取引が元に戻る、それもいい。だがそれらは、文字通り忠弘の仕事。清子はもう、山本家の主婦だ。この役目はかなり色々大変なのだ、頻繁に呼び出されるなど困るし出来ない。なにせ家から一歩も出るなと言われているのだから。
「そもそも、この時点で私と連絡が取れるということ自体、実はそれは難しいのだけど……いいわ、保証します。私と会長の名にかけて」
 会長? ああ、あの直接電話して来たという人物か。
 だが清子はそんな人物になど、関わることはない。これも忠弘の仕事だ。口を差し挟むなどしたくないし、退職したのだから、もうしてはならない。
「ところで、私はどうしてあのご老人に呼ばれたのでしょう」
 これが清子にとっての本題だ。
「それは、あの老人が説明するわ。ただ一つだけ。全ての原因が、あの一杯のお茶だった。ということよ」
「? はあ……」
 椎名はこれ以上言う気はないらしい。訊いても、少なくとも今は無駄なようだ。全く今日は謎だらけ。清子はもう、なんでもいいから早く終わってくれと思った。
 会話をおえ、一息ついて、忠弘に電話する。
 仕事で「内容が分かりませんし、相手の名前も分かりませんが電話に出て下さい」など論外だ。だからと思って、状況を多少知ってから、説明出来るようになってから肝心の夫に電話しようと先に椎名に掛けた。
 だが収穫はほとんどなし。「事情を訊いたが今は分からない」というのも、ひとまずは情報足り得る。少なくとも現状報告にはなる。
 などと考えながら呼び出し音を聴き続けたが、出なかった。嬉々としてすぐさま出るかと思ったのに。
 忠弘は引っ越し中、つまりは肉体労働作業中。音が聴こえないか?
 だったらとメールした。
“忠弘へ、妻です。すき。早く逢いたいな。今、なにをしていますか。私はちょっと、退職の最後の仕事で老人クラブの用事ってことで外回りに出されている。昼前にはおわるよ。あとは、一課長と秘書が一緒に朝までお酒を飲もうって言っている。返事をして?”
 送りおえると、清子はマナーモードにした携帯を帯の間に挟んだ。
 老婦人は要望をのんでくれたのだから、今度は自分が約束を守る番だ。椎名と連絡も取れた。この荷物はもう、行き方不明にはなるまい。隣に置いて、大人しく座布団に座り、動かずいると、老婦人は安心したようだ。静かに退出して行った。
 特殊車両が停まる。一時停止ではない、到着したということらしい。老婦人が再び現れ、先導されて車外に出た。
 清子曰くの老人クラブは、都内にあるというのに広大な敷地を誇る大邸宅だ。実子であるあの会長でさえ、門内に足を踏み入れたことがない。もし許されたとしても、巨大な門の外で車から下ろされ歩くしかないという。しかし、清子の場合は相当時間を切り詰めたいらしく、高級車ではあるがリムジンに比べれば小型の車に乗り換えさせられ、門から歩いても十五分掛かる本宅玄関前で下ろされた。
 助手席を降り、後部座席のドアを開けた老婦人は、清子に懇願した。
「こちらへ……どうかなにも仰らず……」
 なにがしたいのだろう。一般専業主婦にこんな格好までさせて。まさか、金持ちの道楽に付き合えってこと?
 一杯のお茶事件からこっち、日本一だの人生変えるだの高飛車なことばかりだが、そんなものなにも要らない。忠弘さえいればいい。あのマンションで充分だ。
 どうして、そっとしておいてくれないのかな。忠弘といたい、それだけなのに。
 黒光りする広く長い廊下は、まるでどこかの由緒正しきお城のよう。延々歩かされた後、老婦人に通された部屋は、思った通り広い和室だった。何畳あるかなど、数える意味もなかった。
 だがそこは、人が寛ぐ空間ではないという。なんとそれでも、給湯室と世間一般ではいう部屋らしかった。なにもかもが違い過ぎる。全くよく分からない。
「御館様に、お茶を淹れて戴けませんか……? これが、あなた様をお呼びした理由の全て。どうかあとは、御館様と……」
 御館様とはあの老人のこと。それ以外は全くさっぱり分からない。茶を淹れろ、ねえ……
 それさえ済めば解放されるらしい。仕方なく、老婦人の言葉に従い作業を開始した。水場に立ち、さてお茶は、と。
 なるほどこれが最上級の玉露というものか。知ることが出来てよかった。ためになるな。
 と、つとめて冷静に思ったものの、つまりは世界一ということ。茶を淹れる器具の数々も世界一か。もういいですよ、はいはい。
 こんなもの、世界一の茶人に淹れて貰えばいいじゃないか。この間の、椎名の大会社に呼ばれた時もそう思ったが、自分など必要ない。それともまた、恋バナでもしろってか?
 清子はとにかく、普通の仕事しか出来ない。その通りにした。
 茶碗も茶托も盆も世界一だろう。もういいや。開き直ってそれらを手に、先導する老婦人の後をついて行った。
 ほどなく、老婦人は足を止め、膝をついて戸を開けた。はいはい、この中に入って行けってことね。
 清子は、ビルのフロア内での茶の差し出し方なら知っているが、こういう純日本家屋での出し方は知らない。とにかく、持って行った。
 こんな大邸宅の最終目的地というからには、さぞや広大な空間だろうと想像していたが、そうではなかった。さっきの給湯室より広いにしても、威圧感はなく、ゆったりしていた。静かな年輪を感じる。
 その老人が、背を向け、南向きの縁側で座布団の上に座っていた。鶴のように痩身だった。
 そばに寄り、盆を置いて茶をそっと差し出す。
「ほ。ほ。ほ。お待ちしておりました」
 歳月を重ね、刻まなければ、具現し得ない微笑み。
「どうぞ」
「戴きましょう」
 正座したまま、その場に留まった。
 痩身の老人は、くいっと茶碗を傾けた。ゆっくりと。
 一口飲むと、茶碗を持つ手をおろし、呟いた。
「枯れたじじいに……」
 無数の皺、無数のシミ。九十年間生きた歳月通りのほほに、一筋の涙が伝わった。清子はなにも言わなかった。老人は、想い出したように残りの茶を飲んだ。
 鳥が囀り、太陽が中天に近づく頃、老人はまたも呟いた。
「ありがとう、清子さん」
 ただ聞いた。
「このじじいはの。
 十三で、町の工場の住み込みを始めた。馬車馬のように働いた。休みなどなかった。滅多に寝なかった。ただ働いた。
 わしら汗臭い男共を、見守って下さる方がいた。親方の奥方じゃ。歳若いその人は、わしら男共の憧れだった。その人の握ってくれる飯、淹れてくれる一杯の茶。それだけで働けた。
 その人はやがて子供を産み、職場には出て来なくなった。以来我武者らに働いて……気が付けばご老体と呼ばれる身になっておった。
 わしには連れ合いがいた。働いていたら、なにやら世間では大層な言われようになっておって、それに釣り合う者、ということで紹介された。大の名門の、華族の高貴な血を引く聡明な、綺麗な女じゃった。箸より重い物を持ったことがなく、家事など出来よう筈もなく。ただわしの子を生み、四十年前に先立った。もう、顔も思い出せん。
 三十年、このでかい家を出たことがない。三十年、世界一に囲まれてただ生きた。世界一の邸宅、畳、材木、障子、玄関、庭、樹木、石、食事、服、草履、……
 想い出すのは、初恋のあの人の、一杯の茶、握り飯だけ。
 誰に命じても、あの味を再現してはくれなんだ。それをぽろっと、昔わしの会社に気まぐれで入った女性に言ったことがある。その女性から、二十年振りに連絡が入った。それだけなら、誰もわしに取り次がん。だが電話は来た。あの味を、もう一度……かも、知れないと……
 気付けばあなたの会社にいた。茶を飲んだ。
 もう……いい」
 枯れた老人から、再び涙が伝わった。
「お帰し申そう。これが、わしの出来る唯一の感謝じゃ。
 お帰りなされ。ありがとう……」
 清子は退出した。部屋の外ではあの老婦人が正座して待っていた。一礼して立ち上がり、清子を先導する。長い、長い道のりだった。
 巨大な玄関にようやっと辿り着く。すぐの所にさっきの車があった。腰を折る老婦人に見送られて乗った。後部座席には清子の荷物がそっと置かれていた。
 巨大な門に着くと、外には白く輝く横長の、リムジンが停まっていた。いつもの白手袋の制服の男性は、何度やっても同じ動作をし、後部座席を開けた。
 車を乗り換える。中には思った通り、二人の女性がいた。一課長こと椎名玲と、秘書こと藤崎しおり。
 清子が着席し、車が動き、落ち着いたのを見計らって、椎名はそっと言った。
「……どう、謝罪すればいいのかしら」
 らしくないなあ。
 だから微笑んだ。あんなふうには無理だけど。
「いらないですよ。私はただ、退職の際の最後の仕事として、老人クラブへ外回りに出されたってだけですから。いつもの通りお茶出しして帰って来ました。でももう、お茶もコーヒーも、忠弘にしか淹れないです」
「……それでも、質問に答えて頂戴。どう、謝罪すれば……」
 らしくない。本当に、らしくない。
「だから、いらないです。友達でしょう?」
 もう仕事じゃない。だから営業スマイルなんかじゃなく、にっこり笑って。
 ね、笑って?
「……ありがとう。これしか言葉が、ないわ……」
 応じてくれた。らしい笑みが浮かぶ。嬉しかった。 
「ちょっと質問してもいいですか?」
「どんなことでも」
 椎名から、余裕・貫禄、いつものあの雰囲気が醸し出される。やはりこうでなくては。
「でもその前に。その堅苦しい言葉遣いはなしにして貰えないかしら。確かそういう話だったと思うのだけど」
 そういえば。
「ああ、えっと……実はこっちの言い方の方が慣れていて……週末、忠弘と一応、タメ口で会話したんで……したんだけど、結構気を遣ったっていうか」
 なにせ清子は今まで堅苦しい言葉で通し続けた。それをいきなりガラっと変えた。そうしようとは決めていたけれど、慣れというものがある。だが忠弘がされたくないということをもうしたくなかった。
 すると、しおりが口を出した。
「あぁら、そうなの?」
 しおりって、気を遣うことがあるんだろうか。
 などと、かなり失礼なことを思ってしまった。
「えーっと……まあ、これからはずっとそうだし。慣れよっかな」
「そうね。あたし達で慣れて頂戴。で、質問って?」
 いっぱいあるので、順序立てて訊いた。
「まず私、退職したいの。忠弘が今朝で会社を辞めて来いって言うから。一生懸命そうしたつもりだったんだけど、途中で老人クラブ行きになって、有耶無耶になっちゃったの。椎名さん、頼みます……お願い!」
 茶目っ気を入れて拝みポーズをしたら、椎名は余裕たっぷりに応えた。
「はい了解よ。あと、私のことは玲と呼んで。しおりにもこう言っているのだけど延々名字肩書きで呼ぶのよね」
 椎名にチラと見られたしおりは得意気だ。もっともっと上の肩書きで、遠くない未来に呼ぶことを確信していたから。しおりと同じ考えの人間は、あの大会社内に数多くいる。
「えっと、はい玲さん。忠弘は今なにを?」
「先週言った通り、引っ越し作業に従事して貰っているわ」
 やはりおフランスに、などではなかったか。
 清子は思った。そういえば朝食の片付けをしていないや。まさかこうなるとは思わなかった。
「その際、少年に対し案内役が必要なのは、清子さんもお分かりの通りよ」
 なるほど、それはそうだ。
 だがその役割を担うのは、一連の経緯事情を知っている、椎名かしおりでないと駄目なのでは?
 そう清子が思うことは、椎名もしおりも分かっている。椎名が続けた。
「大丈夫よ。事情を知っている、とあるお方にこの役をお願いしてあるわ。その方がどれだけ素晴らしい男性であるかは私が保証します。さっきの、老人クラブ……って言い方もないと思うけど……のように」
 椎名が「お方」などと言う人物はこの世に一人しかいない。そこまで清子には分からなかった。どこぞの見知らぬ美人じゃなきゃいい、くらいで。もっともあの男のことだ、美人と見てなびくようなら清子の今の首の状態はない。
「うん、信じてる」
「ありがとう」
 社会に出て、最初に知った心。
“ありがとうと言われる仕事をしよう”
 会社は勉強する所じゃないよ、勉強した上で来る所だよ……
 って。仕事はもうおわり、退職したの。
 ありがとうはいい言葉。
 椎名に貫禄の笑みが完全に戻っていた。やはりこうでなくては。
「うん! でね、さっき忠弘に電話したら出なかったの。どうしたのかなあ、と思って」
 いくら作業中でも、そろそろ着信に気付いていい頃と思うが。
「今頃、少年は新居にいると思うのだけど。そこの外装、内装、家具、備品、調度品に至るまで。少年の人脈で揃えられるものとの、あまりの違いに、妻の電話にさえ出られなかったのではないかしら」
「えっと……」
 困った。だから、あのマンションでいいだが。大体、体面だ沽券だ言う男に、そういう言い方はどうも……
 連れ込まれてから二週間近く経つ。あの家の中で不自由したことなどなかった。調理器具類こそなかったが、それら必要な物は揃えたし、一間のアパートから引っ越したから、充分広いと思っていた。ついさっき行かされた大邸宅はもう縁のない所だ、較べる意味もない。
「あのね、いろいろして貰ってなんだけど、私は出来れば、普通の生活がしたいなあって……忠弘と居られればそれで……」
 慢高ちきに引っ越せ! と、椎名としおりが言っているのではない。それは分かっている。いい服を、いい化粧品を、いいものを知ってしまうと元にはなかなか戻れない。それも分かっている。
 だがあの家になんら不満はなかったのだ。なにより忠弘が、自分で稼いで買った家だ。
 それでも椎名は言った。
「その気持ち、分からないでもないわ。私の大切な女性が、そうだったから。でもね。
 あなたは私から一本取ったあの瞬間から。私達の会社に来ても、一課の男共を見ても、なんら怯まず、普通に去ったあの日から。
 もう人生が変わったのよ」
 その通りだった。あの日と言わず。
「……私は、忠弘にだけ変えられたい」
 清子の本心からの願いを、椎名はねじ曲げようとしなかった。
「この話は後にしようかと思ったけど、今言うわ。
 あなたの夫の職場は、あなたの夫の才能を最大限に引き出せる環境だと思う?」
 はいと即答すべきだった、社員なら。最大の取引先に、弊社は不安定な環境ですが、など誰が言う。
 だがあの会社の実態は、清子が忠弘に愚痴った通り。あれでも抑えて喋っていた。まだまだあった。
 それに、あの時から気付いていた。“さやも似たようなものだっただろう”というあの言葉。忠弘だって数々の不満があっただろう。新入社員が必ず通る通過儀礼、以外のことが。
 なにより、清子自身が言ったのだ、まだ意地を張っていたあんな頃に。そちらさんならもっとでっかい会社へ、と。
 清子に反応なしと見越していた椎名が続ける。
「思わないわよねえ。それで、なのだけれど。
 この間、私の部下、あの補佐に少年と仕事の話をさせたわ。補佐から報告を受けた結果。
 あなたの夫には、私達の会社に来て貰うわ」
 どう答えたらいいか分からなかった。
「私が、こと仕事に関しては、少年の壮絶な過去すら無視するほど、シビアであることは、分かって貰えたと思うけど?」
「はい」
「うん、よ」
「……えっと、うん。でも仕事の話をされると……」
 まるであの、一課長室内での、緊迫した会話のようだと思った。
「あら、そうね。ま、とにかく聞いて頂戴。
 その、私のシビアな目で。すなわち補佐のシビアな目で。少年を面接した。その結果、採用する、ということにしたの」
 椎名はわざと断定した。まだまだ説明が必要だった。
「したの、というと一方的な物言いだけど。今現在、案内役の方から、ほぼ同じことを少年に伝えて貰っているわ。この間の面接結果が良好だった、よってこちらの会社に来ないか、と。
 少年は今頃即答している筈よ、イエスと。そう思うわね?」
「どうしてか、訊いていい?」
「フ……半分以上は分かっているくせに……」
 そうかもしれない。だからこそ訊きたかった。あやふやな憶測はしたくなかった。
「さっきのこともあるし。洗いざらい、まずは私の方から喋るわ」
 まずは、とはつまり、後で清子にこそ洗いざらい喋って貰いますよ、という意味だ。逃げられないな、と思いつつ、清子は聞いた。
「単純に、サラリーが上がる。月額固定給だけで今の五倍。業績によっては、ボーナスも天井知らずよ、なにせ私企業なのだから。どう?」
「……まだ、あるんでしょ?」
 その通り。限られた桁数の金額に、椎名が関心を持つ筈がない。
「少年には一課に来て貰うわ。そう、あなたが見たあの男共と一緒に仕事するのよ。途中入社で即営業一課配属。我が社史上、最初で最後よ。どう?」
「まだ、あるんでしょ?」
 口を出さないしおりは清子を見守って、美脚を組んで座っていた。
「本社の営業課は三課体勢なの。通常業務、営業としての業務の90%、つまりほぼ全てを三課で行うわ。一般的に、うちの営業と言ったら三課なの。これでも大会社だそうなので、入社に際しては僅か数%の狭き門をくぐって配属される。当然、業績を上げなくては呑気に本社にはいられない。新入社員という新しい血を毎年入れるのだから、出来ないお古の無能者はすぐに出される。主任補佐・主任・係長補佐・係長・課長補佐・課長という肩書きはあるけれど、三課の肩書き持ちの所属は二課よ。
 その二課は、三課の中でも優れた功績を残した者達で構成される。だから平均年齢は高いわね。とはいっても功績を残し続けられなければ三課に逆戻り。これってイコール、クビなのよ。大会社の本社所属なんてステイタスを得られて二課に昇格出来たほどの、プライドの高い人間には出戻りなんて耐えられないから。ここの肩書き持ちはそのまま二課の人間よ。
 一課は、というと。本社のみならず、世界中の支社支店の中から、入社二年以内に、特に顕著な業績を残した者、だけが特進出来る。仕事を何年かやればある程度功績を残すのは当たり前。でも、それでは駄目。全く知らない環境にいきなり入っていきなり特大な功績を残し、残し続けなければ駄目。一課に配属されて出戻った者はいない。歴代、そういう猛者達が集う。
 別に女性蔑視しているわけじゃない、なにせ私も女だし。でも激務過ぎて現在一課の女性は私だけ。その一課に、あなたの夫は突如配属になる。
 馬車馬のように働いて貰うわ。いつ帰宅出来るかは少年の才覚次第。私用メールも私用電話も、する暇などない。世界中をくまなく回って貰うわ。勿論その際は、あなたも同行する。
 途中入社即一課配属、正社員。周囲の目は壮絶よ。それでも遣り遂げる。そういう男だ。そう、信じているわね?」
「うん」
 しおりも微笑む。自信で出来たその表情。
「という即答を、今少年もしているわ。どれだけ妻に逢えなくても、それでも妻は、自分の才能を極限まで開花出来る場に、自分を送り出してくれる。そう信じて。そうよね?」
「うん」
「そんな男とその妻は、守って上げなくてはならないわ。あなた達を引っ越しさせたのは、高飛車な所に来いというわけではなくて、警備がしっかりしている所だからよ。マンション半径百メートルは私有地よ。その中に生鮮食料品店、クリーニング店があるわ。若干の消耗品も置いてある。家賃もそうだけど、全てタダよ。自由に散歩出来る私有地内は当然のこと、そこから出ても、要らないと言われても警備の者達が二桁付く。全員実戦経験者、プライベート・アーミーよ」
「そこまで……」
 警備とはあの、殺意だらけの者達のことを言うのだろうか。
 守って上げなくては、までは、頷けもしたが、そこから先はもうついて行けなかった。
「そこまでして貰わなくとも? あなたは随分自分を過小評価しているのね。あなたは言ったわね、普通に仕事するしかって。
 あなたの普通の仕事とは、いつも極限、極上ね? それより少しでも下はない。そう思っているわね? ノーとは言わせないわよ、見れば分かるわ。見抜けないとあの猛者共の上になんか立てないのよ。返事はしなくて結構」
 あの時もう分かっていた。あからさまな話題逸らしをされたと。
「さっきの、見知らぬ老人の元へ事前説明もなく向かわせ、不穏当な者達に謂れ無き行為をさせた謝罪は、どうしてもしたい。少年には現在の職場を本日限りで退職して貰うわ。我が社への入社は四ヶ月後。その間、どうか二人きりで一緒に」
 え、と声がこぼれた。四ヶ月って?
「籍を入れたとは聞いたわ。必然的に、結婚式・披露宴をしたいでしょう。招待状は一般的には三ヶ月前にと言われているし、その余裕は取ったつもりよ。その間、ちょっと順番が違うかもしれないけど、のんびり二人で新婚旅行などをしたら如何かしら。勿論、費用その他は全て持つわ。どう?」
 新婚旅行……そういえば、そんなものもあったな。
 この二人から、引っ越しまでは聞いていた。それから先は、忠弘はあの会社で、誰より遅くまで居残って謝り続けなければならないとばかり思っていた。疲労困憊で帰って来る夫を、いつまでも起きて待っていようと。
 それすら全て、なにもかも変わったんだ。もう。
「忠弘が退職して、会社は……」
 全権委任された男が今日の今日で異常事態の会社を退職なんて。清子はともかく、そんなことが許される?
「聞いたでしょう? 我が社と、あの老人の会社。単純に売り上げは倍増よ。
 悪いけれど、ここまでして上げて、それまでなら。とうの昔に、それまでだった、ということよ」
 シビアな言葉。だがこれは、椎名だけではなく、誰もが言うだろう。
 駄目なら淘汰されるだけ。
「でも現実は、今まで保っていた。あなたも知っての通り、あの会社にはマシな人間が少なからずいる。そうでない主立った者達の首はもう飛ばした。
 私と、会長。そして老人の名にかけて。
 潰しはしないわ」
 まだ、ね……でも、これで駄目だったら、もう駄目よ。
 椎名としおりの視線が、そう物語っていた。もう、入社二年目の人間の領分ではなかった。
「式と披露宴の話に戻すけれど。
 勿論、招待してくれるわよねえ?」
 シビアな話は、逸らされたというより、おわりという意味だろう。
 忠弘も同じ説明をされている筈。そして忠弘なら、同じくシビアにそう思っている筈。
「……うん、それは勿論。でも……」
 頼んだよ、渡辺君。
『でも?』
 椎名としおりの声が重なった。招待されないことなど考えてもいない。そして、どこでやるか、いつやるか、今すぐ急かして問おうなどとも、思っていない。
 こういう人達こそが。ああ、だから忠弘は……
「忠弘は、両親も血縁者もいないから、披露宴はしたくない、そこらの町の教会で式だけ挙げたい、友達だけで、って」
 椎名もしおりも、そうだろうと予想していたようだった。
「そう。なら、衣装の話はされた? ウェディングドレス、タキシードなどは山本某自身、もしくは友達に準備させると?」
「ううん、なにも……」
 そんなこと、なに一つ決めていなかった。ただ二人の間には、「とにかく会社の危機的状況をなんとかしよう。後のことはそれから」という思いが、暗黙の了解のようにあっただけ。
「なら。世界最高のマリエを贈るわ。三ヶ月後なら余裕も余裕。
 これはあたしと、椎名課長の心意気よ。清子、受け取ってくれるわね?」
「うん」
「いつもながらいい即答ね」
 だって、ただ目の前の、大切な友達の心を受けようと。
 そうしていいと、決心させてくれた二人に応えようと。
「タキシードなどの新郎側の衣装には口を出さないわ。山本某に言って頂戴、あたしは世界最高の衣装を纏うからよろしくって。
 山本某の男のプライド、見せて貰う」
「うん」
 車が停まった。白手袋の男性の手によってドアが開く。目的地に着いたようだ。
「さあ、仕事の話はここまでよ。約束の、結果報告を洗いざらい喋って貰うわ!」
 嬉々とするしおり。椎名も同じくだ、仕事の話なんて本題じゃないってか。最初からだが実に全く困ったものだ。
「あの、ちょっとは手加減、とか……」
「知ったこっちゃないわ!」
 やっぱりか。もう諦めた。とっくに観念。
「だよね……」