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 フロアに入って、おはようございますと皆に挨拶。そのまま歩いて、着席する前、渡辺に一言。
「おはよう、渡辺君」
 すると渡辺からは、いつもの返事がなかった。
 渡辺には「挨拶は先に、自分からするように」と教えてある。なのにそれがないとは。
 だが今朝の清子は、それには気付かなかった。渡辺からだけではなく、誰からも挨拶を返されないことにも。とにかく目的を果たそう、その一心でマシンを起動し、さっさぱっぱと退職届を作成、上司である総務課長に持って行って提出した。
「済みません、お世話になりました」
 こんな言葉を聞けば、誰もが“なにがあった”と思い、ざわめくだろう。しかし、誰からもなんの言葉も出なかった。
 そういえば今日は誰からも声を掛けられていないな、とやっと思いつき、清子は周囲を見渡した。
 すると皆、清子を見てぽかんとしていた。
 だらしない。それが清子の第一印象。忠弘が食事の儀式をぽかんと見たのとは全く質が違う。だらしないとしか思えなかった。
 さらによく見れば、同じ課内でも社用以外話さない者達だけではなく、直接教え込んだ渡辺ですらそうだった。なによ渡辺君、私はそんなふうに育てた覚えはないよ?
 と思って、言ってやろうとしたが。
「……加納君。か?」
 総務課長から、気の抜けた声がした。
 この課長はあの総務部長とは違い、「君ぃ!」などと見下す言い方はあまりしない。とはいえ、威厳ある人間でもないが、少なくとも、こんな緊張感のない、仕事中とは思えない声を出す人間ではない。
「? はい……」
 なんにせよ上司からの問いだ。返事はしたが、そういえば姓が変わったんだ、と思い直す。
「あ、いいえ」
 すると課長はこんなことを言った。
「やはり、別人か」
 どういう意味だろう。
「いいえ、先週まで加納でしたが、週末、営業の山本さんと結婚しました。現在は山本清子です」
 そう言うと、やっと周囲から反応があった。
『えーーーーー!?』
 清子に言わせれば遅いってもんよ。
 課長は顔を歪めて顰めてうつむいて、声を絞り出すように言った。
「……来たまえ。ここでは話せない」
 清子は同課内の者達にも説明したかったので、ここで話せばいいのに思ったが、課長はそうは思わなかったらしい。席を立たれ、衝立程度でしか囲われていない応接室に向かわれる。追ってついて行くしかなかった。
 応接室に入り、下座に座る。上座の課長の言葉を待った。
「……なにを、言おうか……先に言うべきか……」
 混迷を極め、苦渋の選択をしているかのような課長の態度。
 清子は、この課長を毛嫌いまではしていない。忠弘に言った愚痴の本人でもない。
 だが、この調子に付き合っていては、いつまで経っても目的が達成出来ない。清子はさっさと本題を切り出した。
「済みません。私から言えることは申し訳ありませんが今日っていうか今すぐ退職する、それだけです」
 部下にあっさり言われた課長はさすがに切り返した。
「ではこれを先に言おう。君も社会人、無能じゃない。分かるだろう、今日来て今日、それも今退職したいなどどこの会社で通る」
 しかも今の我が社の状態は、と続けようとしただろう、課長の言葉を清子は遮った。
「はい、通らないと思います。でもそうしたいんです。お給料は要りません」
「そういう問題じゃ」
 さぞ怒鳴り声を上げたかっただろう課長の言葉を遮ったのは、今度は清子ではなかった。応接室の外、方向として言えば社長席の方から、こんな素っ頓狂なデカ声が鳴り響いたのだ。
「っっっっぎょえぇえええええええええええ!!!!」
 ここは私企業、会社である。誰であろうがそんな奇声を上げるなど、どんな理由であろうと許されない。
 と、社会人としてあるまじき行為を現在している清子でも思えた。
「っっっっや、山本ぉーーーーーーー!! いや山本様!! 来いっつーーか、おいでくださーーーーーーーい!!!」
 なんと対象者は忠弘だそうだ。いい加減にして欲しい。
「……? じょ、常務?」
 混乱の呟きは清子の目の前の課長から。なんと、あの声の主は常務か。そういえば現行の、この会社のトップだな。
 ちょっと待て。よりによってトップが社内でその叫びか?
 誰もがそう思っただろう。忠弘は常務の元に行ったらしいが、清子と課長からは見えなかった。
 その忠弘に対する、常務の指示はこうだった。
「あ、あ、あの大会社の、いいいっっっっっちばんの、おエラい、あああーーーーーの、か、会長様から、なんと直接のお電話だーーーーーーー!! ぅぉおおおまえの説得によっては、とととと取引を、なななななんんんと元の通り、十割に戻してやってもよくってよ、とととっとという、お知らせだぁああああ!!!」
 ああそうですか。言いたいことは分かった。常務も先が短いなあ……
「今すぐ行け、説得しろ、出来るまで帰って来るな!!! 会長様はおフランス郊外にいらっさるそうだ、経費で出すからファーストクラスに乗って行け!! いや、行ってらっっっしゃーーーーーい!!!」
 ああそうですか。珍しくお大尽な。
 って……忠弘、フランスに行っちゃうの?
 いやいや。これが秘書と一課長の差し金ってやつだろう。ということは、次は私よね。
 そういうタイミングで、場所としては常務に近い所から。つまりは現行においてこの会社で二番目に偉い人物が、今度はこう叫んだ。
「どっっっっっっっっひえぇえええええええ!!!」
 この会社も先が短いな。社員一同そう思った。
「かっっっっっかか加納!! いや加納様!! 総務の加納清子様おいで下さーーーーーーーいいいいいい!!」
 お呼びだ、行かなきゃ。
「じゃ課長、そういうことで」
 清子は立ち上がり、つとめて事務的に言い放った。
「そちらがどう受け取ろうが私の意思は変わりません。今この時刻を以て退職しました。お世話になりました、さようなら」
 一礼後、質の違うぽかん顔の課長を置いてとっとと応接室を出る。デカ声のした方へ行った。忠弘は思った通り、もうフロア内にいなかった。
「先週まで加納で現在は山本清子、参りました」
 デカ声の主は平の取締役だった。おエラいさんだからそうとは知っているが、お互い会話をするのは初めてだ。
「ぅおおおお君が加納君か!!」
 違いますよと清子は言ったが、取締役の声があまりに不自然なデカさで誰も聞いちゃいなかった。
「いいいいいま電話で、あああああの大会社に匹敵する、ここここれまた大会社の、ああああああーーーーーの創業者様および会長様が、お二人揃ってこの汚い弊社においで下さり、君に用があるとの仰せだぁあああああ!!!」
「日本語を言って下さいませんか」
 清子の言い分は真っ当だった。だが取締役は聞いちゃいない。
「きききききみの対応によっては、あああああの大会社並みの規模の取引をしてもよろしくってよ、とのことだ!! いいいいいいったい君はナニモノだぁああああああ!!!」
「つい一刻前、ここの社員だった現在は専業主婦の山本清子です」
 誰も聞いちゃいない。何故ならフロアのドアがドンガリと開かれたからだ。
 そこには、経済新聞を取っているなら、いや、サラリーマンをやっている者なら誰でも知っている、新聞テレビニュースを賑わす超大物、一代であのデカい上場一部な大会社を築き上げた、齢九十歳の伝説の老人と、それに付き従う、これまた大物な老人の息子、とは言っても七十歳近い、な会長という肩書きを持つ二人の男性が立っていた。
 この二人、間違ってもこんな中小企業に足を向ける立場にない。それどころか、創業者の老人は三十年も前に現役を引退し、現在は都心にある大邸宅に住んで一歩も外に出ていない、と言われている。会長も、超高層自社ビルの最上階からひとつ下の階にすら行かない、と言われる人物である。
 それがこんな汚い弊社へ。背後にたくさんの物物しい要人警護官を引き連れてのご登場。
 存亡すら危うい、異常事態のこの会社。土日に休んだ社員は山本新婚夫婦のみ。なのに奇声に続いてのさらなる異常事態に、疲労困憊唖然呆然の社員達にもはや声はなかった。
 そんな中、しわがれた声だけがフロアに響く。
「ほ。ほ。ほ。あなたが山本清子さん、ですかな?」
 大会社の創業者である老人が、一般人を前に言葉を発するのさえ、三十年どころではない以上、なかったことだ。
「はい」
 清子は普通に答えた。いつだって、誰を、どんな大人数に取り囲まれた状況でも、敵に回したって構わない。そういう投げやりな気持ちでいるのだ。こうだからロクに友達がいなかった。
「お父さん、お願いです、帰りましょう」
 一歩下がって立つ実子にも、老人は目を向けなかった。
「黙っとれ。山本さん。このじじいと、ちょいとおいで下らんかのう」
「理由をお訊かせ下さい」
 清子は普通に答えた。
 だが老人の周りにいる社外の全ての者達は、この言葉に一人も納得しなかった。主の命令に黙って従わない人物など、この地表のどこにも存在させてはならない。なのに。そういう視線を、老人以外で視界に入る全ての者達が清子に突きつける。
 それらを従えた老人は、重ね刻んだ歳月通りの、ただの老人として、清子と会話した。
「そう時間は取らせませんて。なに、このじじいの所に、たまーーーに入って来るいい人材がおりましての。彼女からちょいと聴いたんじゃ。興味が湧きましての。つい、ほいほい家を出て来てもうた。三十年振りじゃ。
 おいで下さらんかのう。この、老い先短いじじいを助けると思って」
 はいと即答しない清子に対する会長と周囲の視線は、この下賎を今すぐ殺せるなら。そういう力で漲っていた。実行しないのは、ひとえに老人が“黙っとれ”と言ったから。
「よく分かりませんが、夫が待っています。ですが、お年寄りを無下には出来ません。分かりました、一時間だけなら」
 よく怒鳴り飛ばさなかったと、後に会長は老人に少々褒められることになる。
「ほ。ほ。ほ。厳しいのぉ……せめて二時間!」
「一時間半で。これ以上は譲りません」
 市場じゃないのだ、値切り合ってどうする。
「ほ。ほ。ほ。このじじいと、こんなに会話が成立する人と会うのはさていつ以来か……負け申した。お時間きっかりに、お望みの場所にお帰ししましょう」
「二言はありませんか?」
 老人以外の、会長と周囲全員が、視線だけで清子を殺した。清子は全くどうでもよかった。
「ありませんのお。と言いたいところだが……さて。帰したくなくなった、と言ったら?」
「帰宅するまでです」
「ほ。ほ。ほ。……あなた達の庇護者はあの若造、元より手は出せん……が。仕方ないのお。
 お帰し申す。この言葉、信じて貰う以外ありません」
 庇護? 若造? なんのこと?
 だが老人の言葉は全てわけの分からないもの。分かっていることは一時間半経てば帰れるということ。ならば。
 そう思った。そして、帰すと言った、二言はないと言った、たった今会ったばかりの人の言葉を信じた。
「分かりました、参りましょう。今九時半ですね。十一時きっかりにお願いします」
 約束をした。だから守る。
「厳しいのお……さて、時間がない。おいで下され」
「はい。その前に、私の席と更衣室に寄らせて下さい。退職のため私物を片付けます」
 清子は踵を返した。背後に無数の殺意を負い、元・自席へ向かう。課内の元・同僚達に深々と頭を下げた。
「ごめんなさい、そういうことで今辞めました。お世話になりました」
 机を片付ける。清子は私物をぽんぽん置くタチではないので、時間は掛からなかった。簡単な作業を終えると、渡辺に向かってにっこり笑いかけた。
 ありがと。楽しかったよ?
「……センパイ!!」
 渡辺が、硬直し切った体を、脚をなんとか奮い立たせるようにして、声を絞り出して起立した。
「オレは必ず、総務部長の椅子を奪います! 絶対に、センパイを追い越し総務の道を極めて見せます!」
 最高の言葉だ。だから、背を見せられたあの時のように。
「渡辺君なら出来るよ。結婚式には来てくれる?」
「勿論!!」
 任せたよ。全部、教えたからね?
 別れの言葉を告げ、背を向けて、再び無数の殺意を目の前にする。そしたらこう言われた。
「加納さん!」「加納!」「加納君!」
 振り向くと、総務課内のみんなからの声だった。
「山本君と結婚したの?」「おめでとう!」「あたしも!」「俺も!」『結婚式には呼んでね!!』
 涙が滲んだ。たとえ社用の話しかしなくても、その苦楽を共にし、共に闘った仲間達。
「……ありがと。じゃ、ね!」
 あとはもう、振り向かなかった。

 いつの間にか、殺意を湛えていた警護官達の陣容が変わっていた。数が減っていて、老人と会長の姿がなかった。
 気にせずフロアを出て更衣室へ向かう清子は、五十人からの警護官に一斉に取り囲まれた。構わず歩き続ける清子と歩調を同じくする全員が、身長180cmをゆうに超える、筋骨隆々の女性達だった。
 その内の一人、おそらく一番偉い者、が清子よりも速く歩き、直脇を通過しながら言った。
「おいで下さい、先導します」
 彼女達は老人か会長にしか膝を折らないのだろう。物物しい雰囲気だった。
「このビルを出ましたら、友禅に着替えて戴きます。時間がありません、その衣服のままロッカーの荷物をお持ちになって下さい」
 あらら。せっかく秘書に貰ったあのスーツが。出番ないなあ。
 自分から言い出した時間が刻々と失われている、そういう自覚はあるので、言われた通りにした。
 更衣室に到着したが、中に入ったのは清子だけ。女性達は誰も入って来なかった。
 さっさと荷物を整理、バッグに入れて鍵を付けたままにし、すぐに更衣室を出る。女性警護官達に取り囲まれて一年半通ったこのビルを去るとは、さすがに思わなかった。
 ビルの出入り口で、一度だけ振り返る。周囲はそんな時間も惜しいようだが気にしなかった。
「ありがとうございました!!」
 そう叫んで深々と一礼し、もう来ることはない思い出の場所をあとにした。

 移動すべく乗せられた車は、あの白く輝く車のようなリムジンではなかった。だが特殊車両というのは分かった。何故なら車内は畳敷きだった。十二畳ほどだろうか、まるで日本家屋内の和室のよう。こんな車があるとは、どうなっているんだろう。
 車内へはさっきまでの女性達は誰も入らず、代わって一人だけ、品のいい、背のぴんと伸びた老婦人が正座していた。
 両手を畳についた老婦人は美しい、完璧な所作で頭を下げた。
「お世話致します。どうか衣服をお脱ぎになって下さいませ」
 また脱げだ。だから、忠弘にしか見せたくないんだってば。
「私はもう、裸を夫にしか見せません」
 バッグだけは畳の上に置く。老婦人は美しい、完璧な所作で頭を上げ、説明した。
「私めには、あなた様の意思を曲げる権限はありません、ただこの和服に着替えさせよとのみ……では、この襦袢を今から申し上げる通りに着て戴けますか? 私めは後ろを向いておりますので」
 なるほど、それならばいいか。
 着替える必要がどうしてあるかは分からないが、約束は約束だ。清子は後ろを向く老婦人に背は向けず、制服を脱いだ。ヤボではあるものの、着慣れていたし、もう着ることはないかと思うと感慨もひとしおだ。きちんと畳んでバッグの横に置いた。
 番いのタグが首元で揺れる。忠弘は今どうしているだろうか。今度はもうちょっと、キスマークは遠慮して、って言ったって聞かないだろうなあの男は。これっていつ消えるんだろう。
 ……そんな暇なさそ。
 和服は成人式以来だった。だから少々知っているが、和服用のブラもあったので、そっちを着た。だがショーツは脱がなかった。間違ってもそこまでは、だ。ガーターもそのままにして、ストッキングは脱ぐ。襦袢を着た。足袋もあったが、足のサイズなんてどうして知っているんだろう。着た後よりも前に履いた方がいいのは覚えていたので、先に。
 着ましたよ、と老婦人に言い、あとは任せて、着付けて貰った。
「私人妻なので、留袖がいいんですけど」
 結局、振り袖はあの時しか着なかった。もう、それでいいけれど。
「申し訳ありません、この振り袖しか用意されておりませんで……」
「はあ……」
 見せられた振り袖は、どう見ても十代向けだった。赤い蝶が映えるといえば聞こえはいいが、要するにハデハデのキラッキラ。これを着てあの老人に会えと? なにかの間違いじゃないのか?
 どこのお嬢様だっつーの。と、清子は心の中でツッコんだ。さて一体私はどうなることやら。
 忠弘。どこにいるの? 引っ越しをしている? 逢いたいよ。
 着付けがおわると、いくらするか分からない重厚な座布団をすすめられ、座って休んで下さいと言われた。立ったままもなんなのでその通りにすると、お茶が出された。煎茶だった。
 コーヒーと同様、緑茶の類いにも目がない清子。思わず自分の身形状況を忘れて口をつけた。
 美味い、その一言。舌鼓を打ってゆっくり飲んだ。なごむなあ……。
 飲みおえると、途端に寂しくなった。どこに連れて行かれるのやら。
 待てよ、一課長と秘書からのコンタクトがある筈。そうだ、携帯電話は?
 そう思って、バッグを置いた場所に目をやると、見事になにもなかった。畳だけ。
 勝手に消える筈もなし。ここにはこの老婦人、一人しかいないんじゃないのか?
「えっと、私の荷物はどこに行ったのでしょう。ちょっと携帯電話で連絡を取りたいんですけど」
 それで、忠弘に用事が出来たと言おう。
 だが老婦人は、それには応じなかった。
「申し訳ありません、あなた様は先ほどの契約により、本日午前十一時まで御館様のものですので……」
 カチンと来た。
「私は誰とも契約などしていません、敬老精神をちょっと出したまでです。私は夫のモノです、それ以外ではありません。そのような仰せなら帰ります」
 よっこらせと立ち上がる。久々の帰ります脅し、清子のある意味十八番。
「そ! そのような……申し訳ありません、私めにそのような権限は……」
 これをやるとみんな慌てるなあ。そう思いながら、
「だったら権限がある人に連絡して下さい。連絡してくれないのならこの服今すぐ脱ぎますよ」
「お、お待ち下さい!!」
 帯に手をやり言い放つと、老婦人は即座に出て行った。この車には、運転席とこの畳部屋以外にも別な空間があるらしい。大して時間も掛からず、老婦人は清子の荷物を持って戻って来た。それをスっと差し出す。
「どうか……これ以上は、なにも仰らず……」
「出来ませんね」
 冷たく言い放つと、清子は携帯を取り出した。