13

「体位を変えるぞ、顔とチチが見たい」
 逢いたい。同じ想い。二人とも。
「ン、私も忠弘のハンサムな顔が見たい」
 ゆうるりと、脚を大きく開かされ回される。いつものM字、全部見せる。迎え入れて、奥まで突かれて。
「……ン、ン……」
 クリをつままれる。
「ァン……イイ……」
 背中が弓なりになりながら、もうこのまま、どうなったっていい。
「だからそう……美乳過ぎる、ぷるんぷるん形良く振るな。見せられた時から勃っていたんだぞ。どれだけあの空き部屋で空しく抜いたと思っている」
「ン……寝室に襲いに来ればよかったじゃない……無理矢理でいいのに、私それが好きって知っているでしょう?」
「……くそ、んなことはあの時言え。いつも来るな、来たら帰るって脅しまくっていたじゃないか」
 夫婦喧嘩をしているみたいだ。
「だぁって……心の準備ってものが……なのに会社でさぁや、なんて……思わず意地を張っちゃったじゃない?」
「言わずにいられるか!」
 忠弘にとっては意地を張られたがどうではなかったが、清子にとっては照れ隠しだった。まともな会話を開始したばかりのあの頃。
「手弁当なんて二十年振りだ、人前で泣きながら食ったぞ! なのに電話には出ない家に帰りゃいない……俺があの時どういう気持ちでいたか分かれ!!」
「ぁアン!! 激し過ぎッッ!!」
 ろくに目を開けていられない。せっかく裸眼でここまではっきり見えるようになったのに。
 もうこの男、どうにかして。激し過ぎて死んじゃいそ。
「さぁやじゃなきゃ……さぁやじゃなきゃ駄目だ!! もう俺を捨てるな!」
 泣きながら言わないで。
「そんなことしない! ね、どうして酷いことを言ったりやったりする私がいいの?」
「なにを聞いている、さぁやじゃなきゃ駄目だ、なにも勃たん!!」
「酷いこと言っても?」
 これからも、結ばれて繋がってでさえ、言うかもしれないのに?
「そうだ! なにを言われてもいい、なにをされてもいい、どんな頼みをされたっていいんだ、一生縋って犯る、覚悟しろ!!」
 とっくに覚悟を決めていた清子は、忠弘の所有物なので、HPがマイナスになってもこの際いいやと心では思った。しかし体、特に腰から下が「マイナスだと歩けません」と切実に叫んでいるので、これを忠弘にどう言おうかと思案する前に、散々イかされた。
 さすがの忠弘もそれを察知、出すだけ出して仕方なく抜いた。
 こうなったら今日は休もう、という考えがチラとよぎったが、会社はあの惨状。清子はカッコよく仕事をする男が好き。なにより一緒に出社したい。清子を即退職させ家に戻し仕事をせねばと思い直した。
“我々は働いたサラリーで生かされております”
 三十分程、抱き締めた清子を見つめ続けた。寝顔ではなく絶頂でダウンだ、飯は作って欲しいが起こすにしのびなかった。
 そういえば前、初ドライブに連れて行ってそう思った。こうなったら会社で口頭で、加納清子を山本にしたので今日で退職させると、総務と人事をまた騙くらかすか?
 などと思っていると、清子が目を覚ました。
「さぁや」
 清子は、出来ればこのまま何時間でも眠っていたかったが、とにかく一緒に出社したかった。眠るのは帰ってからにしようと根性で起きた。
「ン……忠弘、いま何時?」
 すきな仕草で腕時計を見せてくれる。
「六時半過ぎだ」
「じゃ起きよ。シャワーを浴びよう、一緒に」
 二人で風呂場へ。シャワーを浴びながら、ふざけ合いながらペッティング。清子は、ソープランドについてどう思いますかとわざと事務的に尋ねた。忠弘は、勉強不足で存じませんと営業的に答えた。
 脱衣場にて。
「ね、忠弘。せめて髪くらい乾かして。風邪引くでしょう?」
「俺はいい。だがさぁやは駄目だな、分かった。さぁやの髪、乾かして上げる。どうすればいい?」
 清子はエステに向かわされた時、散髪もしていた。その際、かなり切って貰った。腰まで届いていたものを、ショートでもいいですと頼んだのだ。もう机に向かって仕事をすることはないだろうから思いっきりやって下さい、と。プロ中のプロによる出来映えに目を見張った。お手入れの方法もきちんと教わった。もう長髪ではないから乾かすのにも時間が掛からない。 
「じゃ、私が忠弘のやって上げるから。二人で乾かしっこしよ?」
 忠弘の髪型の、手入れの方法を知りたい。自分のも教えたい。
「最高だ、さぁや。毎朝しよう」
「うん!」
 さっぱりした後は、清子はまた忠弘のシャツを着たくなった。そう言うと。
「だから……俺を試すな。その美乳で乳首が浮くんだ。襲われたいのか?」
「うん。最初っから、連れ込まれた日から襲われたかったけど? シャツどこ?」
「……くそ。同情させる暇があったら襲うんだった……」
 清子は忠弘のシャツをどこからか調達。わざとボタンを留めず、美乳とエロボディをチラリズム+モロ見えで料理開始。
「……要するにさぁやは、料理中俺に襲えと言いたいんだな」
 出社するまで服を着る気のない忠弘は、真っ裸で清子を後ろから抱き締める。
「うーん。明日がお休みって場合は襲っていいかも」
「分かった。今すぐ襲う」
「今日はだめ。そうでしょ?」
 清子は余裕綽々で料理した。昨日の自分は偉かった。
「……くそ。出社の馬鹿野郎」
「へんなのにバカ言わないの。コーヒーくらい淹れさせてね?」
「俺ならいつも挿れる」
「言うと思った。もう、今日はだめなんだから、座って待ってて?」
「その美ケツぷりぷりを直近で見せつけられて黙って座っていろとでも?」
 昨日のシチューの時は待っていてくれたじゃないか。
 つまり忠弘は、風呂場で襲えなかったのが不満らしい。
「その調子でどうやって生理の六日間を我慢するの?」
「……言わないでくれ。まるで自信がない」
 痛いと言えば止まってくれると思ったが、この分ではさてどうなるか。
 とにかく今日は一緒に出社という一大イベントがあるのだ。もう時間だし、話を変えよう。
「忠弘は、お魚に好き嫌いがある?」
「まるでない。さぁやとさぁやの手料理はなんでも食う」
「うん、好き嫌いがないのはいいよね」
 訊いといてなんだがこの男、サンマとサバの違いを知っているだろうか。
 ……知らなさそ。
「あ、そうだ」
「なんだ。脅しはなしだぞ。怒るなよ」
 相当“怒る”に過敏になっている。確かにあの時怒ったし、怒り過ぎたと思ったのですぐ許して上げると言ったのだが。
「なにを言ってもやっても頼んでもいいって言ったくせに……あのね、お料理の本が欲しいな。本屋さんに行って買って来て」
「……済まない。料理はまるで分からない」
 そうか、そういえば。例えるなら清子に、車の本を買って来てと言っているようなものだ。
 思い直して清子は提案した。
「だったら、一緒に本屋さんに行こ? 一緒ならいいでしょ? 私、忠弘しか見ないよ?」
「ネットで注文してくれ。さぁやは見なくても、野郎がさぁやを見るんだ」
 後半は聞かなかったことにして。
「ああ、ネット……そっか。うん、分かった」
 引っ越しをするのだし、家を守れ、出るなというならネット注文は現実的だ。
「アダルトグッズを注文したらまず俺に見せろ。俺が挿れてやる」
 またなにやら怪しげな。絶対後で訊いてやる。
「そんなの注文しません。忠弘じゃなきゃ感じないの!!」
「……嬉しくて反論出来ない」
 そんなことを困ったようにじき後ろで言わないで欲しい。
「へんな道具の話は止めて。忠弘じゃなきゃいやなの。あんな格好、忠弘にだけ見せるんだから!!」
 四十八も体位なんて本当に、誰が考えたんだろう。変えりゃいいってもんじゃないのに。苦しい方が多過ぎるのに。
「……縄とか拘束具で縛る、というのはどうだろう……」
「一緒に出社止めよっかなー」
 焦がしてやろうか目玉焼き。
「脅すなと何度言った!!」
 夫婦の楽しい会話をしているうちに、わびしい大量な朝食が出来上がった。テーブルに運んで、いただきますを二人で一緒に。
 嬉々満面でガツガツ食いながら、忠弘はにこやかに言った。
「さぁや。いつ女体盛りしてくれる?」
 清子はあくまでゆっくり食べる。
「月曜の朝から元気だね。これから毎日電話で平謝りか、外回りで平謝りだよ。忠弘が全権を委任されたっていうんなら、一番さいごにしか帰れないんじゃない?」
 清子は既にビジネスモード。でないと一緒に出社出来ないのだ。いい加減分かって欲しい。
「……言わないでくれ。気付かない振りをしたい」
 気付いてはいたんだな。でなきゃ仕事が出来ない男って思っちゃうぞ。
 とはもう、言わなかった。
「私は掃除洗濯炊事をして待っています」
 私随分、主婦してる? などと清子は自画自賛した。なお清子は連れ込まれてからかなり主婦を既にしている。
「目隠しして致すと、より感じると想うが……」
 反撃してやろう。
「どうしてそういう単語はぽろぽろ出て、破廉恥な下着だと鼻血ブーなの?」
「……ブーは止めてくれ。沽券に関わる」
 空けられた丼にご飯とお味噌汁を盛って。
「あ! そうだ」
 ピンと来たら、ふとレースのカーテン越し、外の樹木の囲いに小鳥が留まっているのが見えた。あの眼鏡の時でもこれは見えなかった。裸眼っていいなと切実に思った。ちょっとゲームは控えようか。
「……なんだ。あれもこれも駄目だぞ」
 さっきと言ってることが違っている。
「ほら、日本一の店リストメール。見て?」
 営業である忠弘の仕事に関係があるかもしれない。あの情報が役立ってくれるなら。
「ああ……んなもん、さぁやは外に出ないんだからな。持っていたって仕方ないだろ。俺に寄越せ」
「うん。じゃ私の携帯電話を上げる。忠弘がやって」
 清子はもう、自分の携帯電話をどこにやったか覚えていないが、脱がせた忠弘は知っている。食ってろと一言残し、リビングを出て行く忠弘。すぐに戻って来たその手で、既に携帯電話を操作していた。
「……やはりな」
「? なに?」
 忠弘は二つの携帯電話を置いて食事を再開する。食べながら言った。
「住所はあるが電話番号がない店がある。メールのさいごの注意書きに、ここに連絡を取りたい場合はあたし……ってキャラかあの秘書……にまず電話をしろと書かれてある。どういう意味か、分かるか」
「? 分かんない」
 清子はあのメールをざっとしか見なかった。買いたい物はそこで揃えろと言われたが、車を筆頭に興味のない分野の店がほとんどだった。だからあれを見た時点で、これは営業の忠弘向きだ、後で言おうと思っていた。
「日本一なぞ言うがな。その分野で日本一こだわり深い、要するに日本一変人だということだ。気に入った、ごく僅かな者の言葉しか耳に入れない。他は会おうとも、話をしようともしない。そういう者が多いんだ。いかな秘書、一課長といえども、更に上の人脈に頼らなければ会話も出来ない、そういうことだ」
「ふーん……難しいね……」
“割と人脈広くてよ”とか“職権乱用って言葉が大好き”とか豪語するあの女傑二人をして更に上の人脈とは。清子には容易に想像出来なかった。
「……一つだけだ。……くそ」
「? なにが?」
「俺の人脈で探し当てた店がここに載っている。喫茶店だ」
「……じゃ、あの豆……!?」
 あれが日本一だったとは。
 あのメールには喫茶店名も確かにあったが、いやいや豆は忠弘の買ってくれたのが一番だ、と思って、わざと読み飛ばしていた。それに忠弘は、店名を言わなかった。
「そうらしい」
「じゃ、じゃあ……」
 清子の目の色が変わったことに気付く忠弘。
「どうした?」
 子供の頃から躾けられ、ことコーヒーについては並々ならぬ執着のある清子。その喫茶店に行って、実際コーヒーを淹れるところをその目で見たいと思った。沸騰した湯をコンロから上げるタイミング。挽いた豆に湯を注ぐ量、経過時間、タイミング。蒸らす時間。などなど、実際見たかった。プロの技を研究したいのだ。
 しかし、忠弘と一緒ですら出掛けられないとは。
 いや待て、ここは言い方を考えよう。仕事の基本だ。
「えっと。その喫茶店へ、忠弘と一緒にコーヒー飲みに行きたいな」
 恋人同士が喫茶店で一緒にお茶。定番だ、これならいいだろう。
 と想ったのに。
「止めてくれ。俺はもうさぁやのコーヒーしか飲まん。店の客のどの男を勃たせる気だ」
 前半は嬉しいが後半は聞き飽きた。
 待てよ、今日は飲んだくれる日。だったら一課長と秘書に頼もうか。
 二人で一緒にごちそうさま。すぐに家に戻る清子は、洗い物は帰ってから私がすると言った。
 一緒に歯磨き。忠弘はひげを剃って、清子はお化粧。
「……素顔も綺麗だが……なんとなく、化粧の質すら違うような気がするのは気のせいか」
 実にいい着眼点だ。
 清子は気分を良くした。なにせイヴ前の普通の女。アクセサリーにも服にも化粧品にも興味がある。これについてはあのメールをきちんと見た。
「気のせいじゃないよ? お化粧品はとりあえず丸ごと空輸の世界一高いので、後で私専用のが来るんだって。メイクは日本一さんに直接教わった」
 ちょっと自慢げに。女性は恋をすると綺麗になるとはよく聞くが、自分が言われればこんなに気分が良くなるものとは。かなりるんるんで白粉をぱたぱたと。セックス後でお肌はツルツル、ノリも良し、うーんいいぞ。
 と思ったのに。
「止めろ。洗い落とせ」
「どうして」
 なんて男だ。女心も分からないとは。それでも夫か。
「どうしてじゃない。俺は嫉妬深いと言っただろう。俺だけ勃たせろ」
「うん、忠弘に勃って欲しくてお化粧してる」
 更にはあのミニなスーツを着て。惚れた男にうっとり惚れ目線で見て貰うのだ。
 ただしそうなるとHPは復活しそうにないし、そもそも忠弘は清子を惚れ目線でしか見ていない。
「……要するにさぁやは俺を試したいと。俺を煽って誘って挑発していると。そういうことか」
「うん、そう」
 まさにその通り。
「今すぐ致すぞ」
 清子は思う、他に考えることはないのか。
 忠弘は思う、他に考えることなどあるか。
「今日しか一緒に出社出来ないって分かっているのに?」
「……くそ。出社の馬鹿野郎……」
 そんな訳で、チラモロ清子、真っ裸忠弘は別々の部屋でスーツに着替えることになった。忠弘は泣いていた。
 泣いた忠弘はさっさと着替えた。もういい加減我慢ならん。こうなりゃ多少出社時間が遅くなっても構わん、致してやる。そう思って、望み通り襲って犯る、とばかりに清子のお着替え部屋、寝室の扉をスッパリ開けた。
 その時清子はまだ着替え中だった。清子の為だけの超高級スーツを身に纏う、その前の段階だった。下着を着けていたのだ。ブラはして、でも下の、しおり好みというか、しおりはストッキングを穿く時それしか着けないので自動的に清子もそうなのだが、要するにガーターを着用している真っ最中だった。
 ガーターとストッキングの後にショーツを穿けばいいのだが、逆にやってしまって一から着直していた。つまり、ガーターは着けたがショーツはふともも止まり、しげみが丸見え。前屈みで美乳がさらに深い谷間を作って。
 そんな時襲われた清子の目に、突然飛び込んだものがある。まずは音。
「ブーーーーッッ!!」
 なんだと思った清子の目の前で、忠弘が豪快に鼻血を噴いていた。
「!?」
 忠弘は即座に鼻を抑えたが時既に遅し。でかい手から止めどなく鼻血が噴き漏れ滴る。そんな忠弘が取った行動はこうだった。無言で立ち去り風呂場方向に消えたのだ。
 清子は現状が理解出来なかった。とにかく、夫が鼻血を噴いたというのは分かったが、何故? である。清子に言わせれば破廉恥下着よか布面積は多いのだ。
 しかし忠弘に言わせれば、破廉恥下着よかさらに破廉恥だった。つまり忠弘にとって真っ赤なガーターとは性欲直撃ストレート、モロな直球だったらしい。脳髄にズガーンと来て大噴射だ。大の男が情けない。
 だが妻な清子としては、それを口に出すなんて出来なかった。高慢ちきな男のプライドはいつ折ってもせいせいするが、へし折ってはならない質のプライドというものが存在するくらいは知っている。今のが確実にそうだ。だから忠弘の後を追って「大丈夫?」なんて訊いてはならない。そっとして置くしかない。
 だが出社時間が近づいている。今、今日しかチャンスはないのだ。初夜はロマンティックに、という夢は清子の今までの行いによって潰えた。だったら二人の夢・一緒にキスマーク付きで出社、ぐらいはロマンティックに行きたいじゃないか。
 とにかく、清子に出来ることは服を着て血を拭くこと。今日忠弘は引っ越し作業に従事させられる。その時、情けない鼻血が床にべっとりなんて、それを忠弘に再認識させるなんてしたくない。妻とは夫を持ち上げるものである。清子とてそうだ。
 よって清子は台所に行って、乾いたぞうきん数枚と湯を入れたバケツを持って寝室へ戻った。とにかく拭かなければ。
 畳の部屋でやられたらアウトだったが、なんとかフローリングと扉、壁にだけ飛び散ったからよかった。だが拭き辛いことに代わりはない、量も多い。まさかこんな土壇場になって失血死がどうのなんて話が出るなんて。
 なんとか掃除をおえて、華奢なバッグから携帯電話を取り出す。時間は……
「た、タクシー!」
 現在時刻、八時二十分。会社まで車で十分。タクシーが来るまでの時間、会社に行っても制服に着替えなければならないことを考えれば超ギリギリ。清子は急いで電話をした。それから、レースのカーテンがおりるリビングに出て、タクシーの到着をひたすら待つ。風呂場には入れなかった。
「忠弘! タクシーが来たから乗って! 時間ないから急いで!」
 そう風呂場の引き戸越しに言うしかなかった。
 清子が一足先に家を出る。いつもよりさらに重い足取りで忠弘が続いた。清子は後ろの忠弘を振り返ってその顔面をまじまじ見るなんて出来ない、してはならなかった。
 タクシーに二人で乗る。
 隣の忠弘はというと、顔面に血はないようだが、目を閉じて、うつむき姿勢で鼻翼を押さえている。プライドがどうの、体面沽券がどうのといつも言っているんだから、思った通りティッシュを鼻に詰めるなんてしていない。もしそんなことをしてしまったら、しおりあたりがどこからか突然沸いて出て来て嬉々として記念写真を撮ってそこら中にバラ撒くだろう、絶対。
 忠弘も薄々それに気付いているのだろう。必死でなんとかしようとしている、その思いが切々と伝わって来る。
 清子は悲しくなった。これで一緒にらぶらぶキスマーク付き出社の夢は潰えてしまった。確かに一緒に、キスマークを付けて出社はしているが、忠弘がこうではらぶらぶ、という一番大事で肝心な所が抜けてしまった。はっきり言って意味はない。ただ同期と偶然同じ時間に出社したのと同じだ。
 さらに言うと、そのキスマーク。忠弘は死ぬほど付けた。清子もそれを望んだ。結果、どう見ても首中に発疹が出来た、ああ痒そう痛そう可哀想。と言われるだけの代物になってしまった。
 キスマークなど一ヶ所、せいぜい二ヶ所、ほんのり色が変わる程度に付ければいい。周囲は大人だ、誰にも目敏く見つけさせ「うわー、ヤってんでやんの」と心で思わせればそれでいいのだ。なのにこれでは誰にも同情されておわり。清子自身、自分の首が可哀想に思えた。
 二日とちょっとは予想以上に激し過ぎた。どうなってもいいとしか思えなくて、まさか発疹蕁麻疹の類いと思えるほどにとは。忠弘がどれだけか、分かっていたようでまたしても分かっていなかった。
 夫がこうなら妻はこう。これでは、忠弘に清子の上司を説得、という話もパーだ。そもそも忠弘は帰した方がいいのでは?
 そうこうしている内にタクシーは会社に着く。今の忠弘には、清子とらぶらぶ手をつないで出社、という余裕もないようだ。万札だけは置いて、清子に先んじてタクシーを降りる。ビジネス鞄と弁当箱は引っ掴んだが、やはりというか、清子を置いてとっととビル内に消えた。ひとめがある、なんとか鼻を抑えず前を見て歩いていた。背中に「さぁや、済まない、今はなにも言わないで」と情けなく書いて。
 清子はしょうがないと腹をくくった。とにかく制服に着替えよう。これからすることは、退職届を提出して今日辞めます済みません、認めて貰えなくとももう出社しません、お給料は要りません、と言うこと。後は秘書と一課長からなにかしらコンタクトがあるだろう、それに従えばいい。
 更衣室までの道すがら、渡辺にメールした。
“営業の山本君と結婚しました。今日で寿退社します”
 こんなことを考えたりやったりしていたので、清子は周囲が自分に対してどういう反応を取ったかは分からなかった。知ろうともしなかった。ぶつぶつ言いながら着替えた。
 こんな、自分専用超高級スーツを着るともう、既製服なんてヤボ以外のなにものでもない。制服だ、オーダーメイドスーツとなど比べる意味もないが、とにかく目的を果たす為、更衣室を出て自席へ向かった。