9

「……なんですって」
 静かな怒声。怒りの表情。こんな椎名は、しおりでも知らない。
 涙のまま言った。
「二人で住んでいるので。……休みの前、金曜日の夜に言います」
 だって。今言っちゃったら、あの男のことだから。今すぐここで致そう、なんて言うんだもん。仕事中だよ? 今。それは駄目。
 だから。二人っきりのときに、ね。
 すると、しおりが笑った。声を上げて。奇声に近かった。
「キャハハハハ! 椎名課長が一本取られたア! 初めて見たわ!!」
 清子の真意を解した椎名は苦笑した。そういう表情を浮かべるしかなかった。
「……負けたわ。フ……」
 一瞬、目を閉じて。スっと顔を上げた時にはもう、落ち着いた、経験豊富な頼れるよき上司の姿に戻っていた。
「加納さん。あなたの会社と取引を再開します。ただし元の量の六割で。単価も下げて貰うわ」
「……え?」
 急に仕事の話になって驚いた。
「少年には悪いけど、どれだけの過去を抱えていようと、仕事とは関係ない。取引を再開する気は微塵もなかった。補佐もそう思っている。今頃補佐は少年の説得をのらりくらりと躱している筈よ。
 あなたの返答次第だった。最高の即答よ」
 誇り高き宣言だった。
 しおりが繊細なレースのハンカチを取り出して、「上げる」と言って清子に渡した。
「ただし、元通りの十割とはいかないわ。いかな私とてそれは無理、会長に言い訳出来ないから。
 ご不満な点は?」
 清子は戴いた品を存分に使って、それから質問した。
「あらゆる従業員全てが侮蔑されるという、大会社の体面は?」
「一旦殺して値を下げた。トップの首は切った。
 なによりあなたが素晴らしかった。これで充分。あらゆる従業員全てが納得してよ。他には?」
 勿論、プライベートな内容など他言しない。そう椎名はにっこり笑った。
「私は不滅の平社員です。そちらさんのような大会社と取引再開出来たのは私の情けない返答が原因だなんて知られたくありません。あの人が説得したから、ということにして下さい」
 小悪魔な美女がニンマリと笑う。
「今時、内助の功?」
「違います。こんな重大事項が決定されたなんて責任を、私は負いかねるからです。あの人に押し付けただけです」
 椎名はなお満足した表情で、
「これまた最高の即答ね。是非我が社に来て頂けないかしら?」
「お断りします。あの人と同じ会社にいたいです」
「まあ。何度最高の即答を頂けるのかしら」
 この時二人は、この仰々しい部屋が、賓客と呼ぶに相応しい人間を迎える為にあったのだと、久々に認識した。
「とても興味があるわ。仕事で、だとお付き合い頂けないようだから、個人的にお友達になりましょう」
 椎名は懐からすっと名刺を差し出した。清子がここへ初めて来て交換した仕事用のものではない、プライベート用。顔写真付き、住所氏名携帯電話の番号、メールアドレス記載。作った枚数はごく僅か。
「あたしも、トーゼンよね」
 しおりも同様の名刺を差し出した。
「今すぐ携帯電話に登録して頂戴。そして、あなたのも教えて。でないとここから出さないわよ」
「あの人にも似たようなこと言われて脅されました。少々お待ち下さい」
 清子は携帯電話を出して、言われた通りに登録をした。
「ちょっとぉ清子。いつの間にか堅っ苦しい言葉遣いになってるじゃない。あたし達友達よ?」
「今でもあの人と、こういう言葉遣いで会話をしておりますので。月曜日以降に」
 自分の名前とアドレス、番号、そして二人で暮らす住所を告げながら。
「本当に最高の即答ばかりね。椎名課長。あたし達の友達の人生、変えて上げましょ?」
「あの人に逢って変わりました」
 あの日、もう変わっていた。既に、全て。
「仕事でもなんでも、困ったこと、言いたいことがあったら是非電話をして頂戴。必ず出るわ。あなたと喋っている女二人はそう無能じゃない。割と人脈広くてよ」
 女三人はそれぞれの携帯電話に登録する作業をおえた。もう、話はおわったということ。
「ありがとうございます。あの人に逢いたいです」
 清子は立ち上がって、深々と頭を下げた。
「その通りに。ちょっと待ってね」
 椎名も立ち上って、デスクに向かい、内線を掛けた。
「私よ。六割で」
 それだけで切った。
「さあ、少年の元へ帰って。私も行きたいところだけど、あのフロアへ行くと毎度あんな挨拶を受けるのよ。何度止めてと言っても聞いてくれなくて。
 しおり。お願いするわね?」
 椎名の視線を受けて、脚を組み深々と座っていたしおりが、悩ましげに立ち上がった。
「椎名課長が言うなら、なんでも。あーあたし、下階になんて行ったことないわー」
 清子は心の中で、では朝夕の出勤退社時は、どこから出入りをしているのだろうと思った。まさか屋上からヘリコプターでも使っているのではあるまいな。
 小悪魔な美女と共に、清子は豪奢な執務室を出た。扉に立つ、専用エレベーター前に立つ守衛達はしおりに、そして清子に愚直で完璧な挙手の敬礼を捧げた。

 二人で下階とやらへ降りると、そこは覚えがある、あの営業一課のフロアだった。
 ここの守衛達にも敬礼で迎えられる。清子はぺこりと頭を下げた。
 美しいガラスの自動扉が開かれると、入室して来た人物を見て、歴戦の戦士達は色めき立った。
「これはこれは藤崎嬢……こんなむさい所に降りて来るなんて」
 全員がなにごとかと、しおりに注目する。誰が言ったかは分からないが、雰囲気的に、全員がそう思ったに違いなかった。本当に、しおりは「降りる」なんてしたことがないのだ。
「トーゼンでしょ? あたしの大切な友達のためだもの。後ろにいるコがそう。加納清子。死んでも忘れないことね」
 誇り高き宣言の瞬間、戦士達の全てが立ち上がった。
 見据えたその先、その奥へ。深々と。
 誰も声を発さない。聞こえない筈のその気迫、その心、確かに届く。
「山本某はどこ?」
 しおりの一声で全員が即座に頭を上げた。壮観の一言だった。
「あちらに。補佐の元におります、連れて来ましょう」
 補佐の次の階級である係長が答える。
「誰に言っているのよ。控えて頂戴」
 男達はこの言葉に瞬時に応えて同時に着席した。つくりものの映像でさえ見たことがない。揃う行動の一つ一つがずしりと重い、骨まで響く森厳さ。本当に控えたのだ。椎名も凄いがしおりも凄い。
「しかし藤崎嬢が足を運ぶというのも……」
 しおりに応える為、一人起立の姿勢のままの係長の言葉になど微塵も耳を傾けず、しおりはその美脚を補佐席の元へ向けた。よく分からないがついて行く清子。
 補佐は部下達の一連の行動をずっと見ていた。そして、自分の元に来た二人へ向かい、自らも深々と一礼した。
 対するしおりはなんということはないようだったが、清子はそうではない。ここへは社運を賭した謝罪に来たのだ。最大直接の被害者である補佐へお詫び、頭を下げる。
「話はおわった?」
 清子がここへ来た理由、目的を果たしたことを見届けたしおりが、補佐に訊いた。
「ようこそ藤崎嬢。声をかけて戴けるとは光栄ですな。
 ええ、今しがた。山本君の熱意に折れて、つい元の量の六割でなどと言ってしまいました。椎名課長に叱られますな」
「せいぜい泣き言を言って頂戴。リムジンを用意して」
「お言葉のままに」
 この会社はなんでもかんでも凄過ぎる。そしてなんでもかんでも分からない。清子にはそうとしか思えなかった。
 しおりが、自分にも補佐にもきちんと頭を下げていた忠弘に、用件を告げる。
「山本某。清子と一緒に帰って。丁寧に送り届けるのよ。ついてらっしゃい」
 清子にはこの言葉の意味が分かる。しかし、内情を知らない人間にそんな程度の説明では分からないのでは?
 どこかに電話を掛ける補佐の元を後にし、しおりについて行く清子。なんら説明されていなくて訳が分からないが、とにかくついて行くしかないと判断する忠弘。
 三人がこのフロアから去った後、戦士達はそれぞれが互いの顔を見合わせ「今日はいい日だ」「これで酒が飲めるな」と語ったというが、それはまた後の話。
 一階に着き、エレベーターをおりた途端、しおりのあまりの美女度に周囲からの注目度は抜群だった。驚愕、仰天、賞賛。魂の抜けたような嘆息の嵐。
 すぐ後ろにいる普通の女など、誰も注目しないだろう。せいぜい「なんだこいつ」と思われる程度かな?
 そう思ったのも一瞬だけ。周囲が見ていたのはしおりだけではなかった。無礼を働いた会社の者かと見下げる視線など誰も向けず、それどころか、その真逆の意味の視線を受けている気さえ、清子にはした。
 最敬礼で三人を見送る受付嬢を背に、贅沢に空間を使われた一階ホワイエを出る。総ガラス張りのエントランスにも守衛がズラリ。一階エレベータを守る者達も、ここの者達もみな、三人に挙手の敬礼を捧げた。
 ビルの外に出るとすぐの所に、横長にでっかく輝く真っ白な車が停まっていた。どこから現れたか、白手袋をした制服の男性がすっと後部座席を開ける。どう見ても“乗って下さい”という合図。
 しおりはでかいドア前で歩みを止めると、悩ましげに腰をキュっとひねって振り向いた。その芳容所作行動、美女過ぎてまさに眼福。感嘆の連続だ、ここのどこを見ても誰を見ても。
「じゃね清子。あとで結果報告を頂戴」
 意味、分かるわよね?
「えーっと。はい」
 言葉に押されるように、清子がまずリムジンに乗る。乗るというより、なにここ、だった。重厚な本革シートで車内とは認識出来るが、広過ぎる。
 座るか座らないかの、中途半端な姿勢で思わずボケっとしていると、そういえば後ろに忠弘がいたんだなと思い出す。奥へと行って、ひとまず座った。清子がきちんと着席したのを確認してから、忠弘が隣に座る。
 白手袋をした制服の男性が重いドアを閉める。広い室内は完全な密室になり、ゆっくりと動き始めた。
 車窓の外を見ると、しおりが悩ましい笑顔を浮かべて手を振って見送っていた。清子もつられて手を振る。二人の間の忠弘が、しおりに対し黙礼する。
 清子は、見える限りいつまでもしおりに手を振った。車が曲がり角を曲がり、見えなくなると、名残惜しく清子は姿勢を戻して座った。そして、深い深い息をついた。
 気持ちが落ち着いた頃を見計らったのだろう。忠弘が前を向いたまま静かに口を開いた。
「さや。なにか言いたいことは」
「……えー、っと……」
 忠弘の声を、久々に聞いたような気がした。
 そういえばぴったり隣同士。ほのかに香るいつものにおい。密室だ。……いけない、今は仕事中。
 気持ちを切り替えた。もうあの場所に行くことはない。現実に戻れ。戻れもどれ。いつもの通り、普通に仕事。
「……えー。あまりそちらさんの業務に口を差し挟むなどしたくないのですが、さすがに気になります。そちらさんの成果は如何でしたでしょう」
 同じく前を向いたまま。声、これで大丈夫かな。ちゃんと戻ってる?
「あの大会社へ出向くまで即日倒産以外の道はなかったことを考えれば、成果は重畳と言わなくてはならない。元の売り上げ量の六割を確保して貰った」
 忠弘は完璧なビジネスモード。声はなにも変わらない、覚悟を決めた者のそれ。
 椎名は「のらりくらりと躱している」と言っていたが、躱され続けた忠弘の心理的疲労、負担はどれほどだったか。
「だがそれだけだ。こうなるまで、どの取引先にも全く事実説明が出来なかった。失った信頼を回復する道のりは容易ではない。売り上げを激減された事実に変わりはない。確実に、手を引く取引先が出るだろう。リストラは免れない」
 逃れられない現実。いったいどれくらい前から始まったか、新聞テレビニュースを毎日賑わす倒産話。リストラ話。その悲哀。
 対岸の火事と思えるサラリーマンは日本にはいない。
「帰社後直ちに全社員を一同に集め事実の全てを説明する。それを元に、社員全員で関係先に対応・謝罪して貰う。しばらくは誰も通常業務が出来ない。混乱がいつ治まるかも分からない。
 会社のトップの首を切られた。経営陣は総退陣だ。順から行って次期社長は常務かもしれないが、陣頭を切ったことはない、いわゆる経営手腕は未知数だ。社外から第三者を招く可能性の方が高い。
 奈落の底に突き落とされた場合、もうこれ以上は落ちないと思って、開き直るしか打開の道はない。人間、誰からも手のひらを返され見捨てられた時こそ真価を問われる。
 さや。一緒に生きよう。俺と」
 清子はただ前を向いた。全ての答えは金曜日の夜に。そう思って。
「俺とてさやの仕事に口を差し挟むなどしたくないが、さすがに気になる。一課長と一緒に行ったようだが、なにがあったのだろうか」
「……えっ、と……」
 なにはともあれ、金曜の夜までは言えないのだ。しかし、誰だって気になるだろう。本来清子はあの大会社へ行く必要などないのだから。
「まあ、なんというか……とにかく、仕事の話はしませんでした。さっきの美女に至りましては、あちらさんから唐突に恋バナなどされまして。かなり理解出来ない内容でした。口外してはいけないひとさまのプライベートな話だと思いますので、ご勘弁下さい」
 まさか、会社の一大危機という時に自分達の恋バナが本題だったなんて、とても言えない。少なくとも今は。
「分かった。疲れただろう。せめてこの、よく分からんでかい車内で休んでくれ。会社に戻れば休みはない」
「はい」
 あとは清子は目を閉じた。言われた通りだ、休みはない。忠弘の説明を聞き、それを元に謝罪行脚だ。
 しなくてはならない通常業務は溜まる一方。いくら弊害が出続けるか。いや、いつ肩たたきがあるか。いつその仕事が突然出来なくなるか分からないのに、その仕事を必死にやり通さなくてはならないなんて。
 ほどなくしてリムジンが停まると、後部座席が開けられた。忠弘が、清子が降りる。振り向く暇もなく帰社。清子は自部署に向かったが、忠弘は現在においては当社の責任者、常務取締役の元へ向かった。結果を報告するために。
 総務部では、みな不安と疲労に滲んだ顔で清子を出迎えた。
『どうだった!?』
 重なり合う第一声は当然の質問。清子は上司・総務次長に向かって報告した。
「営業部の山本さんが全社員を一同に集めてこれから事実を全て説明するそうです。私はやはり添え物で、内容は全く分かりません。なんの役にも立ちませんでした」
 そうかと、次長はそれだけ言った。聞いていた者達も、やはりか、一体なんのために加納さんが? まあいい、事実を知る者の言葉を聞こう。そういう雰囲気となった。
 自席に座ると、隣の渡辺だけが清子を労った。
「お疲れ様ですセンパイ。全開で信じています。後で飲みましょう」
「うん」
 ほどなく全社員が常務席の元に集められ、忠弘の口から事実が説明された。
 全てを話しおえる前に、ほぼ全ての社員から動揺、困惑の声が広がった。総じて、たかが一杯のお茶ごときで。そういう雰囲気。
「たかが一杯の茶ごときで、と思った社員は今すぐ辞表を書いて貰おう。だからこの事態になったと理解出来ない者などどうせリストラは免れない。退職金も出ない、丁度いい」
 忠弘は静かに言った。誰もが黙った。
 鳴らなくなった電話を待つのではなく、こちらから電話を。ありとあらゆる関係者に会い、電話し説明、謝罪を。忠弘の指示で、全員が汗だくの緊急業務をこなした。
 五時となったが、誰も帰宅など出来なかった。この先どれだけ手当の出ない残業をし続けなければならないのか。全員がそう思った。
 清子もそうだったが、突然総務次長に呼ばれた。
「加納君、あの大会社からご指名だ。私服に着替えて荷物を持ち、直ちにこちらに来いとの厳命だ。今すぐ行きたまえ」
「はい」
 すぐに立ち上がって返事をしたものの、意味不明だ。こちらに来い? 用はあれで済んだのでは?
 次長の言葉を聞いた総務の人間も全員がはてなマークを浮かべた。また加納さんが? なにかしたのか?
「私だろうと誰だろうと口外無用の極秘任務だそうだ。それを完璧に遂行するまで帰社は許さないとの仰せだ。あの大会社の機嫌を損ねるわけにはいかない、全て向こうの言う通りにしたまえ。前回も今回もなぜ君が、なのか全く分からないが、こうなれば君の双肩に我が社の命運が賭かっていると言っても過言ではない。決して粗相のないように」
「はい」
 説明を聞いても意味不明は変わらずだが、命令に従う他なかった。疲労の蓄積する同僚に黙礼しフロアを出る。更衣室には清子しかいなかった。一人着替え、バッグを持って出る。
 あの名刺の住所にどうやって行こう、そう思っていたら、ビルの出入り口にさっきのでかい白く輝く車が停まっていた。白手袋をした制服の男性が、何度やっても同じ動作をするのだろう、後部座席を開けた。乗れという以外ない。
 慣れない広い車内に座ると、途端携帯電話が震えた。待ち受け画面には藤崎しおり。
「清子。乗ったわね?」
「あ、はい」
 タイミングを計っていたのだろう。バッチリとしか言いようがない。あの大会社の人達に対しては、いちいち驚いてはいられないようだ。
「約束通り、人生を変えて上げる。金曜日午後五時まで付き合って頂戴。山本某にも言わないように。言ったらそちらの会社は即倒産よ」
「……はい」
 そう返事するしかなかった。忠弘にも駄目とは。
 訳も分からず会話をおえると、今度はその当人、忠弘からメールが来た。現在の、混迷極める社内で私用メールなど、打てる状態ではない筈だが。
“俺の妻へ。さっき突然仙台出張を命じられた。今電車の中だ。いつ帰れるか分からない。とても寂しい。好きだよ。帰ったらもう離さない。言ってくれなくてもさいごまでする。もう眠らせない”
 あらら。いつ帰れるかって……そうか、こんな状況じゃ土日に呑気に休めるわけないか。甘かったな。
 返事をした。
“お疲れ様です。眠ってくれなければ同情した意味がないと何度も申し上げましたが”
 すぐに返事が来た。
“さやを抱いて眠れるわけがないだろう。とっくに同情などでは済まないほど俺が好きなくせに。何晩でも啼かせ続ける。よく食べて、よく寝て体力を温存していてくれ。帰ったその日に入籍だ。結婚指輪を持って帰る、絶対に外すな”
 困ったなあ。キーボード入力は多少自信があるけど、携帯電話のちまちました操作は苦手だ。
“現在我が社は未曾有の混乱時期でありますので。そのような余裕はなにもないと思いますが”
 返答は少し遅かった。そりゃそうだ、清子の言っている方が正しい。
“とにかく、帰ったら抱く。寝室で裸で待っていろ”
 さっきまでのビジネスモードはどこへやら。
“風邪を引きます”
“それは困る。風邪薬を買っておいてくれ。生理いつ?”
“そちらさんが帰る頃に生理です。とても重くて困っています”
“知らなかった、済まない。薬を……待て、帰る頃にとはなんだ。メールでくらいただひろと書いてくれ。前してくれただろう”
“そろそろ東京駅じゃないですか。こちらも業務がありますのでこれ以上私用メールが出来ません。ご存知の通り、こちらもいつ帰宅出来るか分かりません。疲れておりますので、そちらさんがお帰りになるまでメール電話はお控え下さい”
 こんな内容で黙っている忠弘ではない。すぐにメールが来た。
“確かに現在は非常事態だが全く休めないということは有り得ない。俺にさやの声すら聴かせない気か。それで以前どうなった。帰宅したらすぐに携帯を開け。必ず出ろ。必ず返事しろ。前に言ったぞ”
 なにやら随分強気だこと。やっぱり大嫌いにしとこうか?
“とにかく、返事はここまでです。鳴り続ける電話に出ず打ってばかりなので同僚に睨まれています。失礼します”
 返信すると、それを待っていたかのように車が停まり、後部座席が開けられた。降りろということだ。はいはい、粗相のないよう普通に仕事しますよ。
 清子は携帯電話をバッグに入れ、慣れない車を降りた。
 外に出ると、そこはとても煌びやかな超高級ブティック街だった。私になんの用ですか?
 白手袋をした制服の男性がブティックの扉を開ける。入れということらしい。階段を上がり、開き直って入店した。
 眩しい豪華絢爛な店内には小悪魔美女・しおりがいた。さっきの、黒っぽいタイトな高級ビジネススーツから着替えている。髪型も、よく見ればメイクまでさっきと違った。ファッションショーに出るモデルも真っ青な深紅のシックなドレス。常人には着こなし不可能な裁断形状の布も、しおりにかかればハイヒールやジュエリーまでが引き立て役。何人男が群がるやら。シャンデリアに螺旋階段の店内と相まって、ここはパリコレ会場か?
「いらっしゃーい、清子。早速脱いで」
「……は?」
 凄いのだけは充分に分かったが、どうも説明が足りなさ過ぎる。
「なに恥ずかしがってんのよ。ここにはあたし達とここの店長、女しかいないわ」
 しおりが視線を向けた方を見ると、この手の業界独特の雰囲気を持った、いかにもプロ中のプロとおぼしき女性の姿が。
「いえですから。なにをなさるので」
 女だけ、ということは、またもプライベートな話だろうか。
「採寸よ。まずは基本でありとあらゆる服を揃えて上げる。下着もね。靴、バッグ等々。ヘアメイク、メイクにネイル。レーシック(レーザー角膜屈折矯正手術)を受けて貰うわ。仕上げはエステ」
 やっぱり仕事と関係ない。
「……あのー。私は仕事をしろと言いつかって来たのですが……」
 そもそも、あの大会社へもう一度行くもんだと思っていたのに。
「これが仕事よ。いいから黙って脱ぎなさい。金曜日午後五時で解放して上げるから」
「いやその……肝心のあの人がいつ帰れるか分からない出張だそうで」
「そんなのこっちが手を回したからに決まっているじゃない!」
 また自信満々に凄いことを断言して。
 とは思うが、言われて納得。なにせ現在自分達の会社は未曾有の混乱時期。本来ならば全権を委任された社員たる者、本丸にドンと座って陣頭指揮を執るべき。仮に出向くとしても、他のどこでもない、本命たる大会社へ詰めっ放しになるべきだ。なのに? とは思っていた。そうか、しおりなら、椎名ならそのくらいはやる。
 でもね、もうちょっと詳しく説明プリーズ。清子は言葉にせずそう思った。
「ちゃんと土日に二人揃って休ませて上げるわよ。手抜かりなんかある訳ないでしょ」
 ほんとにないですね。清子は切実にそう思った。
「いやでもあの、……お金……」
 清子とて、こんなとんでもない所で服を一着でも買おうものなら、ボーナスが全部飛ぶでは済まないことくらい知っている。
 が。
「だぁあーーーれに対して言っているのかしらぁああああ??」
「……済みません、私が悪うございました……」
 観念して、実に仕方なく脱いだ。連れ込まれた時から、裸などもう忠弘にしか見せたくなかったのだが。
「あぁらいいムネしてるわね。山本某、勃ちっ放しでしょ? ザマー見ろ」
「あまりそういう下ネタは……」
 体のあらゆる箇所を採寸された。すぐに高級な服が次々清子の体にあてがわれる。飛び切り上等で華奢な流行の最先端を行く靴、バッグの数々。ぴったりな下着はどれもシルク、繊細できわどいレース。ストッキングまで一級品。
 しおりはやはり、とても確かな審美眼を持っていた。どれも最高にセンスがよく、それより少しでも下はなかった。
「そのチェーンと認識票、山本某とお揃いなのね?」
 言われて、そっとそれに手を当てる。同じ熱で搦み合った週末、何度も触れ合った。裸の男女が纏う番いの鎖。
「はい。もう私の名字は山本になっちゃっているらしくて」
 しおりは口頭で確認しただけで、打刻された文字を読もうとはしなかった。
「じゃ、その指輪も山本某から?」
「はい」
 それを見つめた。忠弘がずっと、約束の印を填め続ける自分をどう見ていたかを知っている。
 いつからそんな、同じ視線?
「男は女にアクセサリーを贈って束縛したがるものだし、あたしは揃えない。勿論、いい品だけれど。日本一の宝飾店を紹介するわ、次からはそこへ行って」
「あの、お金……」
 と言われて睨み返すような安い女でないことは、もう分かった。色々観念、全て観念。
「……はい、分かりました。えっとでは……よければ時計屋さんを紹介して貰えますか。あの人、私に時計を贈るって言ってたんですけど、その当人も腕時計してないんです。プレゼントをしたいです」
「そういい回答ばかりしないで頂戴。日本一の店リストをメールで送るから買いたい物は全てそこで揃えて」
 つまり、金を払って買えではなく、戴いちゃっていい、ということだ。まさに人生変わってしまった。
「はあ、あの……ではまず、金曜までに包丁が欲しいです。あの人、大食漢なんです」
「キッチン用品もまるごと揃えるわよ」
「も、ってあの……とりあえず、包丁だけ。まるごとといいますか、この大量の煌びやかなお品もうちにはとても入りませんが……」
 服・靴・バッグにしても、裸のまま重ね積みなどされていない。仕舞われる専用箱まで高級品だ。それが山積み。あの物置部屋にはもう、ささやかだが清子の荷物が入っているのだ。この山を納めるといったら空室がいくら必要か。
 なのに、しおりはあっさり答えた。
「都心一等地のマンション一階全部の家に引っ越しさせるに決まっているじゃない。週末の分以外はそこに運ぶわ。月曜日には移って」
「……あの、ですねえ……」
 言葉全てが飛び抜け過ぎ。一等地って、一階全部って一体なに? もはや説明が足りないがどうのではない。
「それ、あの人が納得するでしょうか。というよりどう説明すれば……」
 二人が住むあのマンションは忠弘が購入したものだ。一生で一番大きな買い物を既に済ませた大人の男に、なにをどう言えば。
 しおりも清子の言いたいことは分かったらしい。あっさり請け負う。
「清子からは言いにくいようね。山本某にはこっちから上手く言って手を回すわ。言うこと聞かなきゃそっちの会社は即倒産、で済むけど。カーンタン。あたし、職権乱用って言葉が大好きなの。覚えといて」
「……はあ……」
 大好きっていうか似合い過ぎ。それで出来ているような気がする。
「あの、ではちょっと、日本一でなくてもいいので揃えて欲しいものがあるのですが……」
 その後もあれこれやり取りして、煌びやかな高級品は増える一方。しおりからは、季節もの、流行ものだから遠慮なく一日一着以上着るように。定期的に買いに来るように。必ず同席するわと言い渡された。審美眼などないも同然な清子、お願いしますとお願いした。
 エステでつま先から頭のてっぺんまで隅々磨き上げられる。肌だけではない、ヘアカット・眉カット・ネイル、気になるムダ毛の処理、完全脱毛。泥だかなんだかで全身マッサージ。高低差あり過ぎる一日の疲れも取れた。
 夜になって、仕立てて貰ったドレスに身を包み、日本一のホテルのレストランを貸し切って、椎名も一緒に三人で会食した。
 外国語のメニューなんて読めない、出されたら困った。しかし目の前の二人は、一般客向けの既存のメニューなど出やしない、食べさせやしないと言わんばかり。白く高い帽子を被ったシェフが現れて、女三人に恭しく一礼した。
 出された料理の名前がなにかなんて、考える必要はなかった。素直にぱっくり食べた。複雑な調理の末の品はなめらかで、舌にスっと溶けて行く。美味しいの一言だ。気分が軽くなった。楽しくなった。笑みさえ浮かんだ。忠弘と食べたかった。
 ソムリエールが持って来てくれたワインは白、約二十四年前のもの。しかし二人は、乾杯はしなかった。結果報告の時あらためて。そう、舌舐めずりする勢いで清子を挑発した。
 終止こんな調子である。食後も帰宅は許されず、そこの最上室、ロイヤルスイートに泊まれとのお達しだ。どれだけ人生変わったのやら。
 初老の女性バトラーに恭しく案内された階は、なにもかもが広過ぎ豪華過ぎ高級過ぎ。気分は重役どころか国賓だ。
 なんたらルームに仕方なく入る。エステ後なので、お風呂は済ませた。あまり周囲を見渡さず、休むことだけ考えてベッドルームに向かった。
 一息つける筈の寝室も、やはりでかかった。どうしよ。変わっちゃったよなにもかも。
 男の顔が頭に浮かぶ。ドレスを脱いだ。
 ライオンデスクは明日のお衣装、靴にバッグ、寝間着。いずれもしおりが選んでくれたもの。脱いだものはほっとけ、だって。ベッドサイドのテーブルに貰ったばかりのバッグを置いた。
 ふわふわの羽毛ふとんにはまだもぐらず、とりあえずめくって、なめらかなシーツの上に脚を投げて座った。とてもいいスプリングだ。
 大食漢のために携帯電話を開くか。せっかく決心した金曜日の夜に、機嫌悪く帰られては困る。イヴ前の女なのだ、初夜などロマンティックに行きたいじゃないか。
 バッグから取り出すと案の定、メールは山ほど。不在着信も山ほど。最新のメールは“こっちの仕事はとっくにおわっている、すぐに電話して”だった。
 その通り電話をする。
「さぁや!!」
 またも嬉々満面、縋る度満点の艶っっツヤな甘え声。会社の危機存亡など頭からすっ飛んでいる模様。
「やっと連絡くれた、もう離さない、好きだよ、早く抱きたい。さぁやも早く欲しいだろ? 分かっている、死ぬほど挿れる。挿れまくる」
 だから。仕事の話をしろっちゅーの、どいつもこいつも恋バナばっか。
「えー。そちらさんの出張とは、どんなもので」
「忠弘だ。仙台市内の某温泉に来ている」
「はあ。温泉」
 こりゃまた意外な。存亡はどこへ行った?
「温泉へ出張と言うと、一見のんきな業務と思うだろうが、実際は風呂になど入らない。それどころか、施設の資材を全て検分する必要があるので大変だ」
 なるほど。お仕事お疲れ様だ。
「と言いたいが」
「は?」
「済まない、なぜか大浴場に浸からされた。客の立場にならなければ資材など選べるかと言われればその通りにするしかない。よって、温泉料理も食わされた。早くさぁやの手料理が食べたい」
「はあ」
 そういえばしおりが手を回した出張だっけ。なるほど、忠弘にも休暇を与えているんだな。
「温泉に着いた途端風呂場直行を命ぜられ、すぐに部屋で休めと言われた。さぁやが一人電話に追われているところに申し訳ないが、なぜか随分でかい客室で飯を食ってとっとと休んでいる。俺達の会社は経営が逼迫している、とても規定旅費内に収まらんのだが全部向こう持ちだそうだ。正直よく分からない」
「はあ」
 だろうなあ。なにせ忠弘に対しては説明が少ない、じゃなくて、ない。
「さぁや。もう家に帰った?」
「はあ。まあ」
 なにせ事実を言ったら即倒産なもので。
「さぁやからの電話はとても嬉しいが通話料が掛かるな。俺から電話する。さぁやに逢いたいからテレビ電話だ、それで出てくれ」
「はあ……」
 ほどなく、テレビ電話とやらが来た。そういう機能は知っているが使ったことはない。
「さぁや。やっと逢えた。好きだよ」
 カメラの位置の都合上、目を合わせて会話することは出来ないようだ。
「今、家のどこにいる?」
「あー。えー。もう寝ています」
「丁度よかった。さぁや。見せて」
「……は?」
 また突拍子もないことを。見せろってなにをだ。
「さぁやの美乳を見せて」
「……あのー……」
 なにを言い出すかと想えば……
「さぁや……見せて?」
 機械越しでも伝わる、性に濡れた男の艶たっぷりな声。
「……えっ、と……」
「さぁや……?」
 どきどき、してしまった。見せろと言われた箇所が高鳴る。
「見せて……さぁや。夫に見せて……」
「……」
「濡れて……来ただろ……?」
「……」
「電話で言わなくていい、直接逢って聞く……」
 そうしようと想っていたことを、言われてしまえば……
「今、パジャマ? 脱いで……さあ……」
 その通りに、してしまった。体が想い出す、じくじくする。熱く疼く。
 携帯電話を離した。だから、脱いでいると分かられてしまう。
「見えなくなったよ、脱いでいるな……? 早く……早く」
 その通りに、してしまった。ローブのひもをほどき、するりと前を開け、携帯電話を再び持ち、かざす。
「綺麗だ……」
 声が出そう。
「さぁや……自分で揉んでみて……」
 もう、にじむソコ。
「ちゃんと……乳首もいじるんだ、俺がいつもしているみたいに……」
 その通りに、してしまった。だって、そうして欲しいから。
 独り寝なんて寂し過ぎて。
「勃ってる……俺みたいにさぁやも、乳首……」
 もう漏れている、止まらない。心音、声、溢れるソレ、まるで制御出来ない男のよう。
「いいよ……もっと……俺はもっと激しい、それじゃ足りないだろ……?」
 ……ン
「いいよ……いい、最高だ……」
 ……ン
「さぁや……下、欲しくなったな? いいよ……ほら、俺がいつもしているみたいに、して……」
「そん、な……」
「したいだろ……さあ、指を……前から……」
 その、通りに……
「……どうだ……ぬるぬるで、熱いだろ……」
 ……ン
 喉が鳴る。
「ソコを見せて……」
 そんな……
「下着が邪魔だ、脱いで……」
 そんな……
「そう……脚を開け、いつものように……」
 そんな……
「指で見えない……抜いて……」
 そんな……
「花びらを、指で広げろ……奥をよく見せて……」
 そんな……
「腰がひくついているな……いいよ、さぁやの一番の手料理、てらてら光ってる……」
 ……ン
「挿れたいな? いいよ、挿れて……俺がいつもやっているように動かせ……突き挿れろ……」
 そんな……
「そう……もっと腰つきを卑猥に……いつものように……」
 ……ン
「足りないだろ? 帰ったら……分かってるな……」
 ……ン
「明日は俺のオナニーを見せる、もっともやるのはこれで最後だ、あとはさぁやが咥えろ……」
 ……ン
「指……抜きたくないな? いいよ、そのまま眠って……おやすみさぁや、好きだよ……」
 ……ン

 翌朝、そのホテル一階の和食処を貸し切ってご飯を。しおりは見事一点の友禅で来ていた。結い上げた髪、うなじまで小悪魔的。
「ほんとに、美女ですねえ……」
 食べ方まで完璧。目の保養だ。
「勿論。その言葉はあたしのためにのみ存在する」
「あの、ですねえ……」
 言ってみたいが無理だ。
「あぁらなにかしら。エステ後更にお肌ツヤツヤでお食べの清子嬢」
 マズい。バレている……
「この、あたしの目を逃れられるなんて。まさか今更、思っていないでしょうね」
「思っていません」
 仕方なく即答した。
「月曜日の結果報告。まさか電話で済まそうなんて思っていないでしょうね」
 やっぱりそれじゃ駄目か。
「……どちらへ伺えば」
「日本一のバーで朝から翌朝まで椎名課長と三人飲んだくれて、洗いざらい喋って貰うわ。その間山本某など引っ越し作業で汗だくにしてやる」
 なにか忠弘に恨みでもあるのだろうか。
「あの……遠慮とかいう言葉をご存知で……済みません、私が悪うございました。言える分だけは言います」
「山本某の粗チン写真をくれるというなら、考えて上げてもいいわ」
「……済みません、全部喋ります……でもあの」
「あぁらなにかしら」
 しおりの目がギラついた。こうやって獲物な極上男を落としているのだろう。きっとそうに違いない。
「月曜日朝は、首にキスマークを付けて夫と出社しますので」
「……そう。このあたしからも一本取ろうって魂胆ね。分かったわ。その外見、今日で日本一の女にしてみせる。心は充分、あとは仕方なく山本某にでも任せようか……」
 ちょうど午後五時に、夕食後の歯磨きをおえた。変身させられた清子は、その身に纏う服靴バッグの他に、週末の食料、包丁、プレゼント品、月曜日朝の服靴バッグと、数種類の夜着を準備して貰った。
「まあ? 裸で迫りたいのは分かるけど。その美乳と局部を覆っていない、このセクシーランジェリーもいいんじゃない? あたしの好みで黒と赤よ」
 見せられたそれは、着衣しないと全体像が全く分からない代物。
「その辺は訊いたことがないもので」
「二日とちょっと、ただ繋がれっぱなしじゃつまらないわ。変化があった方がいいじゃない。破いて貰いなさいよ。山本某、鼻血を出し過ぎて失血死するわ」
「あの人は私を連れ込んだ夜から毎晩鼻血を出して眠っています。今更失血死しません」
「……二本目ね。いいわ、好きなように迫りなさい。二日とちょっと、気合いで眠りこけないように」
「はい」
 リムジンに乗ると、途端携帯電話が鳴った。
「さぁや!! 今出張から解放された、六割回復の褒美にこの週末は休みを取れって! 早退して!!」
 タイミングよ過ぎ、もういいや。またも投げやり。
「そうですか。ちょっとお願いがあるのですが」
 こういう時の清子の次の句は地獄行き。そうだととことん分からされている忠弘、途端甘さの欠片もない禍々しい、疑いの声で。
「……出来ることと出来ないことがあるぞ。まさか今更大嫌いだの……」
「人の話を聞きましょう。一つだけ。怒って帰らないで下さい。いいですね。でないと死ぬまで大嫌いと言い続けて上げますよ」
「何故今更怒らなければならない。気分は極上だ、なにせやっと今からさぁやを抱ける。月曜日朝の出社直前まで眠れると想うな」
 また強気な。やっぱり言おうか大嫌いって。
「お帰りというなら、お待ちの手料理を作りましょう。リクは」
「済まない、食わせられた」
「られた、というと」
 なんだ。食べさせたかったのに。
「更に言うならまた大浴場に浸からされた。午後の三時にだ。その後また温泉料理だ。食わなければ褒美をやらんと言われては仕方なかろう。怒らないでくれ。仕方なかったが結果的には家に帰ったらすぐにさぁやを抱ける」
 その家、引っ越しさせられるんだけどね。
「実は今、フロアの外でこの電話を受けておりまして。自席にこれから戻りますが、いきなり早退をと言われてもこの雰囲気でそれは許されません。ま、同期のよしみということで、仕方なく総務次長を説得してもいいかなと思いますが。なにせ私は総務一直線、営業トークなど出来ません。ですが努力はするので、帰宅までメール電話はお控え下さい」
「今更なにが同期のよしみだ。分かった、努力はして欲しい。だがメールは打つ、総務根性で返答して」
「そんな根性はありません。では」
「待ってさや、切らないで!!」
 だってこれ以上営業トークに付き合ったら、電話で言わされそうだもん。直接逢って聞くって言ったじゃない?
 清子は自宅に着くと、まずは大荷物の食料をおろした。白手袋をした制服の男性はいるが、二人の住処に入って欲しくないので一人で運んだ。実に重い。しかし、それさえ済めば後は軽い荷物。でも正直、夜着など着ける暇がある? どうせ大食漢は一瞬だって手放しはすまい。
 明日の朝食の支度をする。これを食べる時は間違いなくヘロヘロのバテバテだろう。さらには昼となると……気力しかあるまい。夜は食べられないな、確実に。ピザでも取るか。日曜はもう、どうにでもなれだ。
 全ての支度を済ませて、忠弘にだけ見せる格好になってベッドにもぐる。やっぱりここがいいなと想う。においが甘くて、薫き染められて、香りにさえ包まれて。
 震え続ける携帯電話を操作、山と溜まる未開封メールを開けた。読み続けるが、その度返事がないことに対する怒りが増していた。だから怒るなって言ったのに。一通でも返答すれば、営業トークによってメールなんかで言わされるのは明白。さて、どうしようかな。
 次々と送られるメール。書かれる現在地。郡山、大宮……東京駅からはタクシーを飛ばす、こうなりゃ先に帰って俺が裸で寝室で待つ、だって。なかなか面白くなって来た。そういえば、結婚指輪を持って帰るって話を忘れているな。大体、月曜日朝まで眠らせないって、それまで入籍なんて出来ないってことじゃない。どうせ家から一歩も出す気ないくせに。気付かないなんて、ほんと仕事出来なさそ。困った人だ。
 清子はメールを打って、送信せず保存した。内容、たった今会社を出ました。送るタイミングは、忠弘が自宅のドアのノブに手を掛けるその瞬間。
“さや、今タクシーを降りた”
 そのメールには続きがあって、まだ早退しないのか、根性はどうしたと書かれていたらしいが清子は無視。さっきのを送信した。それから、携帯電話の電源を落としてベッドを出る。
 玄関が開かれる音がした。もどかしげに靴を脱いでいる。あまりビジネス鞄をぶん投げない方がいいと想う、後で言おう。
 重い足取りが廊下でする。一直線でここに来るだろう。
 待っててね。