8

 清子は昨日よりも早く出社した。気持ちは同じなのだろう、もう既に更衣室内には大勢いて、誰もが一様に暗い表情だった。夕べは皆遅く帰ったが、それで終わりという状況ではない。のんびり眠るなど誰もが出来ず出社していた。もう、フロア内で鳴り響く、耳から離れてくれない電話の音がここからも聞こえて来そうだった。
 意を決して職場へ行けば、想像以上の現実の音が誰の耳をも直撃した。誰もが覚悟を決めて出るしかなかった。
 その日も、社員の誰もがなにも説明出来なかった。それどころか自分が今なにをやっているのか、なにをすればいいのか分からぬまま、狼狽えつつ叱責され続けた。指揮命令系統が複数どころか、そもそも存在しないなら、兵士はただ殺されるだけ。
 ちょっとでも真実を知らされ、それを教えられれば、相手も自分も納得出来る。なのにいつまで経っても「分かりません、失礼します」では話にならない。電話の内容は徐々に、「そういうことならやはり取引停止だ」という不穏当なものになって行った。
 上層部は社員に事実と現状を説明しなければならなかった。だが会社のトップたる社長副社長専務は不在、人事部長も不在、営業部長は再三の呼び出しに応じず雲隠れ。さらに本日は総務部長さえ出社せず。非常事態というより、異常事態である。
 全く通常業務が出来ないまま、午後を迎えた。しかし、誰もが思ったが、今日は昨日より電話が少ない。あるにはあるが、次が来るまでの間隔が昨日よりあきらかに長い。
「どういうことっスかね」
 隣の渡辺だ。
 周囲は、やっと解放されたか、と言い出す者までいた。清子は静かに言った。
「多分、最悪。こっちに情報を求めているうちはまだいい。ないってことは、向こうが情報を仕入れたということ。その上で、こっちには電話する価値もないと判断したということ。
 相手にされているうちはまだいい。されなくなったらお終い。そう教えなかったっけ」
「……すいません。オレ、まだまだっス」
 周囲はただ、鳴らない電話に一息ついていた。
 いつでも電話を受けられる態勢を続ける清子の元に、昨日の営業次長と忠弘がやって来た。
「加納君、来たまえ。山本君について行くように。服装を正しなさい。名刺は持ったか。髪を整えたまえ、化粧もきちんと。靴を磨いて」
 すぐさま立ち上がってはいと言ったが、どういう用件だろう。昨日お茶を淹れた時はこうは言われなかった。お茶汲みではないらしいが。
「山本君、タクシーで。経費で落とす」
 残業代も出さない会社だ、移動にタクシーは使わせない。使っても自腹を切らせるのに。
「加納さん。一緒に行こう」
 忠弘だ。完璧なビジネスモード。
「はい」
 基本的に内勤で、外回りのない総務の清子がなぜ、どこについて行かなくてはならないのか、説明が一切ないが、とにかく従った。上司、総務次長に一言断りを入れる。渡辺には行って来るよと視線を投げる。渡辺は、ガンバセンパイと視線を返していた。
 忠弘の後をついて行く。その背は完璧な大人の男。気迫を感じた。知っている、覚悟を決めた者のそれ。
 あの時は追えなかった。諭された、来るなと。
“後は自分で。全て独りで”
 独りで生きて来た男。
 そのオーラ。禍々しい時も知っている。愛情劣情求める心、誰よりどれだけ激しいかも知っている。
 ビル入り口にタクシーが待たされていた。それに乗る。忠弘が先、清子が後。
 発車した後、忠弘から説明された。
「今から行くのは今回の相手先、あの大会社だ。なんとかアポを取れた。本来なら会社のトップが向かうが、全員門前払いの討ち死にだ。俺の他に誰も繋ぎが取れなかった。事実上の全権委任だ。
 さや。いつも通りに。俺を信じて」
「はい」
 それ以降は無言だった。
 タクシーが停まった先は、都心の一等地。どれだけ頭を上げても最上階は遠い果て、という高層ビルだった。敷地から豪華、入り口も豪華、入っても豪華。空間がふんだんに使われ、最新技術で建設されている。ザ・大会社だなと清子は思った。なんら怯まず普通に歩く。
 忠弘の少し後ろをついて行く。忠弘は受付嬢と言葉を交わし、エレベータールームへ向かった。コの字型にズラリと何基も並ぶ中、忠弘がスっと立ち止まった先は、扉の作りが他と明らかに違っていた。
 扉の前で直立不動する、守衛とおぼしきがっしりとした体格の二人の男性が忠弘達を見て、エレベーターの上階へのボタンを押した。すぐに開くエレベーターに、忠弘に促され清子も乗った。
 密閉された空間で、二人は無言だった。同じ心音とにおいのみ。
 結構長い時間を掛けて上昇した後、扉が開く。目の前の空間は、吹き抜けの一階ホワイエより高さはないものの、豪勢さにおいては抜きん出ていた。部屋の入り口だろう両開きの重そうな扉の前には、これまた守衛とおぼしき直立不動の二人の男性が。忠弘達を確認すると、一人が右、一人が左の扉を開けた。忠弘に続いて清子もその部屋に入る。
 ここまで豪勢な部屋など、見たことがなかった。毛の長い、いくらするかも分からないじゅうたん。吊り下がる高級照明。壁はアンティーク・ホワイト。所々に繊細な彫刻、多角形のくぼみ、丸い花型飾り。どれだけ高価か分からない、深い緑の壷には活けられたばかりの花。大きなデスクには三台もモニターが置かれている。その隣の空間には、どっしりとした重厚な応接間。総じて、まるで重要文化財。
 さらにはそれを超えた存在感を放つ、部屋の主が言った。
「ようこそ。私は弊社営業一課長、椎名玲です」
 アキラと名乗った人物は、女性だった。
 歳の頃は五十歳前か。忠弘は彼女に歩み寄り、名乗って名刺交換をした。清子も続く。
「どうぞ、お座りになって。ご足労頂きありがとうございます」
「いえ、こちらが」
 深く頭を下げる二人の、忠弘の言葉を椎名は遮った。
「謝罪の言葉は全て後。まずはお座りになって、今コーヒーを運ばせます」
 言われるまま、頭を上げた忠弘が下座の奥に、続いて清子が手前のソファに座る。どっしりとした黒い本革。部屋の雰囲気といい、部屋の主の佇まいといい、気分は重役だ。
 再び重そうな扉が開かれると、妙齢の女性が入室して来た。清子はそっちをジロジロ見る失礼なことはしなかった。その女性はじゅうたんに膝をついて忠弘達にコーヒーを出した。その際ちらっと見えたお顔はもの凄い美女だった。木下より遥かに上。だから思わず他も見ると、すらりと伸びる脚は完全に美脚。高級なスーツを纏うその体は見るからにナイスバディ。胸もくびれもお尻も眩しい。うわ凄い、さすが大会社だなあ。清子は単純素直に感心した。
 美女が完璧な作法で出て行く。椎名は、貫禄の笑みで忠弘達に飲むようすすめた。
 一番さいごに口をつけた清子は、うなる思いで舌鼓を打った。美味い、その一言。カップも最高。まさか、滅多に外勤に出ない自分がここまでの品を堪能出来るとは。これだけでも来たかいがあった。しかし、相手は清子にコーヒーを飲ませることが目的ではないのだ。一体なんの用か。多分単なる添え物だろうが。
「本題に入るわ」
 椎名が言った。
「と言いたいところだけど、まず前置き。私、こんな一般的に大会社と言われている所、本当は辞めたいのよねえ」
 清子は思わず顔にはてなマークを浮かべた。なにを言い出すのか。
「何度も辞表を出したんだけど受け入れられず。仕舞いにはこんな肩書きでしょう。困っちゃうわ」
 思わず、はあ……と言いたくなった。社会人としてのマナーがなっていない上、自分は部外者だろうと思って口には出さなかった。
「というわけで、個人的には肩書きとか、大会社のプライドとか名誉とか、なにも興味ないの。なのにこんな部屋を与えられているでしょう。仕方なく、肩書き通りの仕事をすると。
 今回の件は最低です。私の大切な部下の顔に泥を塗っただけでは済まない。私が唯一膝を折る弊社会長の顔にも泥を塗ったことになるのよ、一杯のお茶がね。
 弊社の営業一課長補佐……長いわね、補佐と言うけれど。彼も個人的には私と同じスタンスで、別になにをされても仕事さえ出来れば興味なしという人物なのだけれど。
 すぐに謝罪すればもみ消そう、なかったことにしよう。そう思ったと言うわ。当然よね。でも対応が最低でした。元は私が行けなかったことに起因するからということで、我慢して三日待った。でもなにもなかった。彼の権限で取引を停止しました。その程度は私の所に報告が来るべき案件じゃない。それでも私が知ったのは、C社のお知り合いが土下座して来たからよ。失礼ながらその程度はよくあって、本来は無視したのだけれど、お知り合いの話す内容に興味を持って、それで状況を知りました。
 失礼ながら、そちらの会社を救う義理はありません」
 忠弘はなにか言いたかったようだ。だが椎名は遮った。
「そちらの会社の、自社を守るべきトップは全て最低です。補佐の権限で、そちらの社長・副社長・専務・営業部長・人事部長、それと総務部長のクビは飛ばしました。でも、それは必要最低限なのです。飛んだからと言ってなにも起きません。泥を塗られた事実に代わりはありません。これを拭うにはただひとつ、そちらの会社が今すぐ倒産することだけです」
「しかし」
 それでも食い下がる忠弘に、椎名は続きを言わせなかった。
「でなければ弊社の体面が保てません。無礼を働かれてもそこの商品を買うほど誇りのない会社かと、パート・バイト・契約社員から重役社長会長に至るまで全員が侮蔑されます。私個人の意思など関係ない。私達と、私が唯一膝を折る人物に泥を塗る者、存在は全て抹殺します。それだけです」
 どうして、自分達を呼んだのだろう。そうとしか思えなかった。
「あなた達を呼んだこと自体、部下全員に反対されました、一度はね。でも、説明したらある程度納得された。それであなた達はここへ来たの。
 いらっしゃい、弊社の営業一課へ案内します」
 立ち上がる椎名に続き、無言で忠弘も立ち上がる。清子もそうした。慣れないどっしり本革ソファ、けつまずく勢いのじゅうたん。それでもなんとかよろけず、背をピンと伸ばして二人について行った。
 二人の守衛達は主たる椎名の姿を確認すると敬礼し、エレベーターを開け、一人が目的の階たるボタンを押す。それから、再び二人揃って扉を背に直立不動した。お疲れ様と一言告げる椎名に続き、忠弘と清子がエレベーターに乗る。下へおりているようだった。
 目的地へ到着すると、そこは一階吹き抜けのホワイエではなかった。ビルの中ほどの、どこかのフロアと思われた。さすがにさっきほどの豪華さはなかったものの、内装も置いてあるものも全てが高級品。これら以上のものを、見ることはないだろう。
 そこの階にさえ、エレベーター扉には守衛がいた。つまりは全階に守衛が必ず二人以上いる専用基。
 守衛は二人とも椎名に敬礼し、先に立って先導した。美しいガラスの自動扉前で左右に分かれ直立不動する。その真ん中を、お疲れ様と告げる椎名が貫禄の足取りで歩く。ついて行く忠弘達。
 音もなく開かれた扉の先には、たくさんの社員達がいた。営業一課というからには、ほぼ全てが営業マンということ。どの会社も営業とは外勤が主なのだから、課に所属する社員全てが机に張り付いているわけではないだろう。なのに何十人といた。
 その者達が椎名を視界に入れた途端、一斉に立ち上がってこう言った。
『お疲れ様です、椎名課長!』
 何十人という野太い声が完璧に揃う。発する者達の迫力、威厳。何十足靴を履き潰したらこうなるのか。現場という名の戦場を知った、歴戦の男達だった。
 その、プライドの高かろう男達が、一斉に椎名に対してのみ頭を下げる。その深い角度すら全員が揃う。壮観の一言だった。
「はいはい、座って座って」
 対する椎名の声はなんら気負っていなかった。だが分かる、この女性こそ一番の、戦場の勇者だ。返り血を浴びる戦士達を統率する、誇り高きコマンダー。
『はい!』
 またも野太い声が完璧に揃い、戦士達が一斉に着席し即座に業務に戻る。壮観を通り越し、潔さに男の美学すら感じた。
「どうぞこちらへ。補佐がいます、案内するわ」
 言われてこちら、という方向を見ると、この広いフロアを見渡せる位置に、重厚で大きなデスクがあった。そこに座る人物は間違いなく、このフロアで一番偉いのだろう。
 三人で向かうと、その人物、補佐と呼ばれた男性の歳の頃は四十前くらいか。確かにハンサムではないが、この迫力だけで充分だった。
 補佐は立ち上がって椎名に深々と一礼した。それから忠弘達に名乗り、名刺交換を求めた。清子は一応普通に仕事したが、やはり自分がこんな場に呼ばれた意味が分からない。
 椎名が余裕の笑みで忠弘に向かう。
「山本君、あとの交渉は全て補佐とお願いします。そちらの会社の命運は全てあなたが握っているわ。どうぞ気合いで補佐を説得してね?」
「ありがとうございます」
 先ほどと違って、謝罪の場は設けられた。感謝しすぐに深々と頭を下げる忠弘。一拍置いて清子も続いた。
 しかし、山本君ということは、清子は必要ない。居場所がなくなって困ってしまった。その清子に、椎名がにこやかに話し掛ける。
「加納さん、あなたはこちらへ。さ、一緒に行きましょう」
 椎名について来いということだ。ここは他社なので、忠弘に視線を投げるわけにもいかない。もうすでに交渉に入っている忠弘の邪魔をしたくない、忠弘を一切見ず椎名の後を歩いた。
 フロアを出ると、ガラス扉の向こうで待っていた守衛に先導され、さっきのエレベーターに二人で乗った。
「緊張している?」
 椎名に問われた。
「はい」
 正直に答えた。確実に、ここに来ることはもうない。慣れない、久々の外回りがいきなりこうだ。
「私もこのエレベーターに初めて乗って、初めてあの部屋に入った時は緊張したわ。私の大切な人達がいたからだけど」
 なんだかよく分からないが、来た以上は清子も自分達の会社の代表だ。余計な一言が命取り。意味は訊かずにおいた。
 あの重厚な部屋に戻って、着席をすすめられた。テーブルにコーヒーはもうなかった。
「ちょっと待ってね」
 椎名は座らず、デスク上の電話を取る。
「しおり、紅茶を三つ運んで」
 またも意味不明。
 なぜ自分がここへ呼ばれたか、なぜ椎名と二人でいるのかくらいは、さすがに訊きたかった。だが訊いていいものやら。
 ほどなく扉は開かれる。見ると、さっきの美女が漆器の高級な盆にティーカップを乗せて再登場だ。そういえば三つと言っていた。あとの一人分は誰のだろう。
 テーブルには二つ並べられた。その所作、作法、全て完璧。なんといい会社なのだろうと思った。
 すると、美女は盆を椎名のだろうあのデスクに置く。ティーカップを片手にやって来て、上座の、椎名の隣のソファの背もたれ、頭が位置するところに腰を掛けた。悩ましい美脚を組み、くいっと紅茶を飲む。そのさま、まさに小悪魔的。
 ソファに座った椎名が言った。
「さっそく、本題よ」
 おや。なんだろう。さっきのが本題では? でも、さっきは本題に入る前にと前置きを言った。確かにその後、本題とは言わなかった。
「ここは社内だけど。もう、そんなことは忘れて頂戴。仕事なんて抜き抜き、後あと。ここには女しかいないわ。ズバリ、プライベートな話をしましょう」
 実に返答に困る唐突なことを。本当によく分からない。
「そろそろ、質問があってもいいと思うけれど?」
 なんとまあ。言ってもいいのか。
「なぜ私が呼ばれたのでしょう」
 率直に訊いた。
「C社のお知り合いは、山本君の熱意に、ではなく、あなたの仕事振りに感動してこちらに土下座しに来たからよ」
「感動されることはなにもしていません。普通に仕事するしか出来ません」
「そう? まあ、仕事の話になっているわ。止め止め。仕事はなしよ、忘れて頂戴」
 本題なんて、仕事の話以外あるのか? そのために来たのだが。
「どうして、仕事抜きで私が呼ばれたのでしょう」
「それは勿論、C社のお知り合い曰く、山本君があなたを好きだからよ」
 また唐突な。まさかこれが本題?
「なぜ勿論か分かりません」
 率直に言った。
「曰くだから、この目で確かめてみたいと思ったの。それが、あなた達を呼んだ理由。その結果。
 あなたは山本君が好きね?」
 当人にさえ言っていないのだ。今日会ったばかりの人間にどう答えろと。
「答えなければ取引停止ですか」
「いいえ、今回の本題に仕事は一切関係ないわ。そう答えるということは、告白していないわね」
「なぜそう思いますか」
「していれば堂々と言ったわよ。違って?」
「お答えしかねます」
「そして山本君はあなたが好き。どう見ても両想いよ、なぜ告白しないの?」
「お答えしかねます」
 清子が回答を拒否すると、美女が口を出した。腰をキュっとひねってこちらを向くさままで小悪魔的。
「ちょっとお。女ばっかの空間で、それはつれなさ過ぎるんじゃないの?」
 なんとまあ、声まで美声。ウグイス嬢も真っ青だ。
「はあ」
 美声にぽかんとして、仕事にも取引停止にも関係ないならと思って、ついいつもの相槌を打った。
「あ、そうそう。自己紹介。あたし、藤崎しおり」
 ゲーマーな清子だから分かるが、どこかで聞いたような。
「しおりで結構。あなたは?」
「加納清子です」
「そう、じゃ清子。まずはあたしの恋バナを聞いてよ」
「はあ?」
 バナって、恋愛話のことか? これまた唐突な。
「なにせあたしは美女だから。とある国務大臣の愛人をしていたの」
「はあ」
 唐突に凄過ぎて話の全てが飛び抜けている。驚きの連続とはよく言ったものだ、これが大会社というものか。
「その他政財スポーツ芸能界にセフレ多数で。当然よねえ。男はあたしに貢ぐためだけに存在するわ」
 女として、一度は言ってみたいものだ。
「色男度といったら、うちの会長がピカイチなんだけど。あの方ご夫人にしか興味なくてねえ。とにかく色々、遊んでいたのだけど。
 セフレの一人とリムジンで遊んでいた時、ふと外を見たの。そしたら、あの人がいた」
 しおりは胸元から大切そうになにかを取り出した。写真だ、すり切れている。今時フィルムで撮ったらしい。見せられた。
 そこには三十歳前後とおぼしき男性が写っていた。
「どう? ヤボな冴えないぽっちゃり男でしょ?」
 失礼ながら、そうとしか思えなかった。
「でも、その笑顔。なんら打算がなかった。駆け引きもなかった。素の笑みだった」
 写真を丁寧に胸元に戻すしおり。
「あたし、こんなだから。男って言い寄る存在だと思っていたの。誰もが卑下た下心で近づいて来て。全員一発やらせろって顔に書いてあったわ。それしか知らなかった。
 だからだと想う。恋に落ちたの。ひとめで」
 そんな瞬間があるのだろうか。連れ込まれ、毎日迫られている清子でも、想像出来なかった。
「すぐにリムジンを降りて、彼の元に行った。保育園に勤めていたのね、保育士さんなの。子供を抱いているあの人に言ったわ、好きだって。結婚して頂戴って」
 まるで、初恋したての少女のように淡くほほを染めて語る、小悪魔な美女。
「当然、あの人は驚いていた。問答無用であの人のアパートに連れて行って、その場で押し倒したわ。裸になって、どう、こんな美女と結婚出来るのよ、うんと言いなさいと言って跨がったわ」
 なんとまあ。凄過ぎる。
「したのだけど、あの人はこう言った。考えられません、僕なんかが。構わなかったわ。きっとあたしの魅力に落ちてくれるって。自信満々だったの」
 言ってみたいもんだ。
「し続ければきっと、と思った。でも、あの人は萎縮し続けた。迷惑そうな顔で。素の笑みなんか一度も浮かべてくれず。
 三ヶ月間、あの人のアパートに監禁したのだけど。結局、ただ萎縮されただけだった。泣き顔で。迷惑そうで。アレなんか萎んで行って。
 解放して上げれば、あの笑顔が見られる。そう思わざるを得なかった。だから行かせた。コソコソ後をついて行ったら、あの保育園に向かっていて。歓迎されていたわ。三ヶ月も職場を放棄させたのに」
 ということは、しおりも三ヶ月職場を放棄したってことに。
「すぐに素の笑みが戻って。……あの笑顔を見ると、想うと今でも濡れるわ」
 恋とはいろいろあるんだなあ。そうとしか思えなかった。
「あとはもう、ただ外から見守るしかなかった。あの人に、誰かが近づいても。その人にだけ、もっと輝く笑顔を見せても。
 現在は三つ子の、三児の父よ。
 あの人にしか恋出来ない。あの人でしか感じない。
 セフレは全部切った。あの人以外男なんて芋虫にしか思えなくなった。会社なんか辞めちゃえ、そう思った時に、椎名課長がこの部屋の主になった。その時まで秘書課の係長をしていたのだけど、この肩書きってせいぜい副社長以上じゃなきゃ相手しないのよ。でも、一番上の会長に命ぜられて仕方なく下に降りた」
 しおりは表情も口調もガラリと変え、まるで椎名を睨みつけるかのように。
「椎名課長に逢った。惚れたわ。その人間に惚れた」
 椎名はくすっと笑っていたようだ。
「あたしが唯一膝を折る人物だ。そう思った。今では会長でさえも興味ない。
 今のあたしにはなんの肩書きもないの。どこの課にも属していない。営業一課長秘書でもないわ。なぜなら、椎名課長はもっともっと上の肩書きを奪るから」
 自信で出来ていた。しおりだけじゃない。受付嬢、すれ違った社員達、守衛、一課の戦士達、そして椎名。全員、誇りという言葉が信条。そう語っている。
「止めてよ、もう」
 椎名は照れていたようだった。
「どう? これがあたしの恋バナ。清子のも聞きたいわ」
 しおりは紅茶を全て飲むと、立ち上がって重厚なテーブルにそれを置き、椎名の隣のソファに座った。本革が多少は沈むが重さを感じない。またも小悪魔的に組まれる美脚。見た目の美しさだけではない、中身も美女。これで落ちない男はいない。女の清子でもそう思えた。
 しかし、確かに聞いてしまったが、聞かされただけのような。
「加納さん? 言って置くけれど、しおりはこんなことを言いながら、本命の彼氏のこと、私にも話したことがないのよ。写真があったなんて今知ったわ」
 しおりはまるで得意気で。椎名とて、なんら残念そうにはしていない。肩書きがないとはいえ、実質はここの秘書だろうから、部下と上司という名目には違いないだろう。だがこの二人の間には、単なる主従、上下関係。そんなものを超えるなにかがあると、清子は思った。
「どうして惚れているのに告白しないの? 惚れた相手を見つけられること。その相手と両想いになれること。これがどれだけ奇跡か分からないの?」
 確かにそうだろう。そうなれれば。信じられれば。信じて上げられればどれだけ……
「相手の美醜なんて関係ないのは言った通りよ。体の相性も関係ない。見つけられること、受け入れて貰えること。これ以上の幸せなんてないわ。なぜ想いを遂げ合わないの? さっきの山本某、清子にメロメロだったじゃない」
「ヤマモトボウ、って……」
 忠弘のことを言っているらしいが、なんたる言い草。それにしても、この美女が言うと失礼には当たらないように思えるから不思議だ。
「メロメロって、あの人はさっきほとんどなにも言っていないじゃないですか」
 それどころか完璧なビジネスモードだった。社運を懸けた謝罪さえ、あの場ではさせて貰えなかったのに。
「こちとらいくら男跨いで来たと思ってんのよ、見りゃ分かるわよ」
 凄い表現で凄いことを自信満々に断言だ。これがこの美女にとってはいつものことらしい。
「さぞ両想いだ羨ましい此畜生と思ったのにお答えいたしかねますなんて、好きって言ってない証拠じゃないの。黙ってりゃ男なんてそこらに女を作って子供も作るわよ。山本某を失いたいの?」
「そのうち、山本某は私に飽きて捨てるので」
「全然そうは見えないわ。羨ましいほど清子に惚れている。見るからに愛情多過よ」
「……なぜ、分かるんですか」
 そう問うたものの。分かるのだろう、この飛び抜けた凄過ぎる美女には。会話を始めて十分そこそこでも、もう分かった。
「ですかじゃなくてなんで分かるの? よ。山本某は清子に好き好きって言いまくってるわね? どんだけ羨ましいか。あー此畜生」
「……あなたは」
「しおりよ」
「……しおりは美女なので。コンチクショウは止めま……止めようね。で、確かに好き好き言われているけど、その内熱冷めるって」
 そんな筈がないと分かっているくせに。向かい合う二人はそういう表情で、清子に畳み掛けて問い詰める。
「どこまで行っているの? 公園まで、じゃないわよ」
 男女二人でする営みのことを言っているらしい。
「えー。……一歩手前まで」
 清子は後々になるまで、こんなプライベートの最たることを、初対面の二人にここまでスラスラ言わされたこと、その理由に気付かなかった。
「どうして?」
「山本某は、私が好きと言わない限り、一線を越えちゃいけないと想っているようで」
「ええ!? 挿れてないわけ!?」
「あまりそういう露骨な表現は……まあ、そうです」
「ですじゃないわよ。ところで場所どこ? 会社? ラブホ?」
「はあ。山本某の自宅で」
「連れ込まれて?」
「はあ。連れ込まれて、結局同居して」
「惚れた女と同棲して一歩手前? 山本某って不能なの?」
「はあ。あれはとてもそうとは想えません」
「じゃ咥えまくってんのにやらせて上げないの? どうなっているの一体」
「はあ」
「はあじゃないわよ。男の純情を弄ぶなんて酷いじゃない」
「いや……それじゃまるで、好きでもない男に迫られているだけの私が悪者じゃ」
「好きなくせに。山本某の隣で濡れてたでしょ? そうじゃないとは言わせないわよ、言ったら身体検査してやる」
「いやあの……」
 本当にされそうだ。
「まさか、好きって言ったら相手が豹変して、やらせたらもう用なしって言われてポイされるなんて、思っていないでしょうね」
「はあ。まさにその通りで」
「山本某はそんな男じゃないわよ」
「よくご存知で」
 そういえばここまで美女だ。美人が好きと言った忠弘。落ちない男はいないんだから、くっついてくれないかなあ。そうなら楽なのに。
「あたしはあの人でしか濡れないってば! いいから好きって言いなさいよ!」
「山本某にも死ぬほど言われています」
「それで言わないの!? なんて頑固な。なぜよ」
「言いましたよ」
「随分惨めな男性経験をして来たのね。人のことを言えないけど」
「よくお分かりで。そうです、男なんて女を短期で飽きて捨てるだけの存在です」
「山本某は違う。よく分かっているくせに」
 ここで椎名が口を出した。
「加納さんは要するに、自信がないのね?」
 清子から見れば椎名は右斜め前なので、そちらに向き直した。
「はい」
 その通り言った。
「自分に?」
「そうです」
「でも、言えば山本君を幸せにして上げられる。そういう自信はあるわね?」
 答えられなかった。その通りだから。
「幸せにして上げなさい。多少山本君の略歴を調べたわ。壮絶な過去ね。それを知っているでしょう。山本君を失いたくないかどうかというより、山本君にあなたを失わせるなんて出来るの?」
 言うしかなかった。
「出来……ません」
「山本君はあなたに、なんて言って迫ったの?」
「知っているんですね」
 この二人の前では、隠しても無駄だ。
「おそらくね。言ってご覧なさい」
「どうか同情して欲しい」
 哀しそうに。寂しそうに。
 決して詰りはしなかった。冷めるわけがないと、一番知っていたのは一体誰?
 対する椎名の表情は、まるで鬼軍曹だった。
「ちょっと略歴を調べただけでも、一件一件が同情すべきものよ。山本君のご両親は轢き逃げされて亡くなっているわ」
「え……」
「通りがかりにただ一度当てられて逃走されたんじゃない。狙い済まして何度も何度も執拗に轢かれて殺された。ご両親は貸金業者だった。原因は金銭トラブルによる怨恨だと警察は断定した。周囲は残された山本少年を見てこう言った、死んで当然の人間の息子がなぜ生きている」
「……」
「親戚はいたけど誰も引き取らなかった。たらい回しすらされなかった。幼稚園の友達は全員手のひらを返した。子供ほど純粋に残酷な存在はない」
「……」
「警察は、証拠である犯人の車の破片を紛失した。謝ると思う? ほとぼりの醒めた一ヶ月後わざとらしく、なくしたようだ、二度とないようにしたい。口答でこう言っただけで済ませた。上辺の謝罪すらする気のない者達をね、犯罪者集団と呼ぶのよ。
 犯人は債務者の内の一人だろうと目星を付けていただろうに、たった五年の時効はあっという間に成立した。証拠の品を紛失したそちらが悪かろうと親戚一同は堂々と警察に少年を押し付けた。仕方なく、当時の捜査員が少年を引き取った。捜査員は仕事人間で滅多に家に帰らなかった。その間少年は幼稚園にも小学校にも行くのを拒否した。何年も独りで、食事はほとんどカップラーメンしか与えられなかったそうよ。彼がそれしか食べていないと知っているわね?」
「……」
「捜査員はずっと前に妻に逃げられていてやもめだった。少年に料理を教えるどころじゃなかった、カップラーメンくらいしか食べていなかったのは捜査員の方。その人が定年になった時の退職金は全て借金返済に消えた。収入がなくなり、それすら買えなくなって、少年を放棄した」
「……」
「轢き逃げで加害者が不明の場合、政府の補償事業に填補金を請求する。でもこれは、事故日起算で待ったなし、二年以内に申し出なければ問答無用で時効となる。それを知っていた筈の捜査員は仕事にかまけて申請もしなかった。ここまで周囲に見捨てられた、たった五歳の少年にまさか複雑な手続きをしろとでも? ご両親は私財を投げ打って契約者にお金を貸していた、遺産はほとんどなかった。金銭面でも誰にも頼れなかった」
「……」
「何度か警察に保護された記録はある。けれど、どれも長くは続かなかった。施設にも入れられたようだけど、すぐに逃走した。とあるお寺に身を寄せたこともあった。そこの住職に直接訊いたけど、少年はカップラーメン以外食べることを拒否したそうよ」
「……」
「少年が自分の名前と生年月日を証するものを持っていることは知っているわね? それを見て住職は、少年の名前と現年齢を知った。少年は今が何年の何月何日かも知らなかった。自分からは名乗りもしなかった。自分の歳すら答えなかった、答えられなかった。
 十四歳だったその頃一度だけ、中学の試験を受けさせた。少年は文盲である可能性すらあった。なのに満点だったというわ」
「……」
「それで、その中学に入れることにしたというけれど。楽しいはずの運動会に出させたつもりなのに、帰って来たらその目は死んでいたそうよ。少年は直後逃走した」
「……」
「十七歳までの記録は完全にないわ。少年を拾った人物はヤクザだった。少年の実家は稚内、拾われた地点は神戸よ! たった独りで島を超え、直線距離でも1,000kmを優に彷徨ったのよ、何年も!!」
「……」
「なにかしたいことはあるか、そうヤクザは訊いた。なにもない、そう少年は答えた。
 これがどれだけ、どれだけ地獄だったか分かって? 分かっていたでしょう!!??」
 清子は泣いていた。分かっていたから。
「好きと言いなさい。そう想っているくせに。気付いていたくせに。惚れた男を助けられなくてなにが女よ!」
「……」
「今すぐ言いなさい。山本君を呼ぶわ」
「言いません」