7

 結局、のんびりする予定だった二日間はほぼ裸で過ごした。ただ単にさいごまでされないだけの激しいセックスを飽くことなく繰り返して。
 清子は完全に忠弘をナメていた。自分が上、忠弘は自分の言うことを必ず聞くと思っていた。襲いたいとは言われたが、好きと言わなきゃ有り得ないと思っていた。全部甘い見通しだった。自分に性欲を向ける男と密室にいたらすることは一つ、分かっていたようで分かっていなかった。引っ越しをするとはそういうこと。つい金の算段だけをして。あそこでほっぺにキスで済ませていたらこうはならなかったのに。
 全てを忠弘に支配された。指で舌でくちびるで、全部で全てを。ただ一つ、されていないことを除いて。
 されていない奥がじくじくと疼く。挿れてと叫んでいる。欲している。何度そう言えと言われて、何度想わず口走ってしまいそうになったか。
 こうなれば、言ってしまえばよかったかもしれない。その上で捨てられればと。
 でも、それが甘い見通しなのだ。もう分かった、忠弘は完全な愛情多過だ。辛過ぎる幼児体験に起因しているのは明白。有ってしかるべき愛情を突然奪われ押し潰されて約二十年。それで清子と出逢って。社会人一年目の時まともに知り合えばこんなことにはならなかっただろうが、全ての始まりはあの大嫌いだった。抑圧された深層心理を強烈に揺り起こしてしまった。多分忠弘は、五歳の時から不眠症だったのではないだろうか。さらにはその時から食生活は最低。人間の三大欲全てを奪われ、惚れた女には拒否されて。それが一つ屋根の下で……堰を切るようにこうなった。
 甘かった。今更忠弘は清子を捨てまい。それどころか忠弘は、いつ自分が清子に捨てられるか恐れている。それを防ぐためならなんでもする。間違いなく、清子がどう拒否したってもう聞かない。泣いても怒っても聞かない。
 逃げられない。出て行ったとしても全力で探される。見つけられたら最後、もう取り返しが付かない。
 二日間で、そこまで思い知らされた。
 月曜日朝、起きても寝室で忠弘に抱き締められていた。汗ばむ唾液愛液精液だらけの体がぴったりとひっついて。
「おはようさぁや……好きだよ……」
 愛欲に濡れた艶のある声がじき後ろ。熱い大きな手で肌を淫媚になぞられ。お尻に感じる忠弘の怒張、何度咥えたか知れぬソレ。
「さぁや……シックスナインしよう、抜いて……」
 その通りにさせられた。花びらは痛いほどいじめぬかれ、指で中を強烈にかき回される。じゅぶじゅぶという、自分の恥ずかしい水音を聞きながら、体の芯から頭の先、つま先まで白濁する快楽を与えられながら咥えるのだ。清子は忠弘の下なので頭を動かせないが、代わって上の忠弘が卑猥な腰遣いで己を清子の口に押し込める。あまりの苛烈さ、時間の長さに涙がにじむ。のどの奥にねばつくそれが放出される。何度飲んだか知れたものではない。
 朝ご飯を作る体力なんてどこにも残っていなかった。だが食欲は三大欲、容赦なくお腹が鳴る。二日間まともに食べていない、作らせて貰えない。慣れない運動をさせられまくった、減って当然。
 忠弘は、ぐったりした清子を立たせるため、裸のまま一緒にキッチンへ行って後ろからぎゅうぎゅうと抱き締めた。清子に言わせれば、逃がさないためにそうしている。ありありと分かった。
 これが、いつも用意しているマンネリ朝ご飯でなければ作れなかった。だがお弁当も持たせなければならない。
 今日は平日だ、会社に行けさえすればもう……まさか月曜日朝を渇望する日が来るとは。
 魚を焼く。直後ろから声がする。愛欲に濡れた艶のある声。お互い裸、愛し合った熱すら同じ。
「さぁやは何故、コンロに火を入れただけで魚が焼ける?」
 これでも料理に興味を持った方だろう。それにしても言い方がとんちんかんだ。
 抱き締める腕の力も、声までも生き生きとして元気そのもの。どこにそんな体力があるのか……
「……前から、思っていたのですが……」
「うん、俺を想っていたんだよな」
「それで……どうして皿だけは揃っていたんでしょう……」
 埃がはらわれていた形跡はあったものの、動かされた形跡は見当たらなかった食器棚。
「俺の食生活がこうだから、友達の、不動産屋の息子が揃えてくれた。冷蔵庫も準備して貰った。後は彼女に頼めと言われた。皿を使ったのはさぁやを連れ込んだあの日が最初だ」
 ……訊くんじゃなかった。思った以上の壮絶さだ。
「さぁや……一緒に出社しよう? もういいだろう?」
 よくない……。
「これでも我慢して……キスマークを付けなかった。一緒に出社しないなら今すぐ付ける」
 ここで救いの手が現れた。忠弘の携帯電話が鳴ったのだ。この音は、仕事関係の人間からの着信音だという。得意先からなら出なくてはならない、それが営業というものだ。
 おそらくそうなのだろう。忠弘は、抱き締めたままの清子の足を浮かせた。
「え? ちょっと……魚を焼いている途中……」
「止めて。電話に出なきゃ」
 止めてって……これだから魚の一つも焼いたことのない人は。
 仕方なくコンロの火を止める。こんなことをしたら焼き直すのが難しいのに。清子だって生焼け・黒こげな魚なんて食べたくない。
 しかし、やはりというか忠弘は、もう清子を手放す気はないようだ。一瞬だって離れたくないらしい。
 清子を抱き締めて携帯電話のある所まで移動し電話に出た忠弘は、幼稚園児な言葉遣いなどどこかに飛ばして会話をする。完全に一個の大人の男、仕事が出来る人間のそれ。
「はい、分かりました。今すぐ向かいます」
 電話を切って、清子に言った。
「さぁや、済まない。仕事だ。今すぐ行かなくてはならない、ご飯も食べられない。寂しいだろうが我慢してくれ。メールする、返事をして」
 そう言って、ねっとりとキスして清子を手放す。名残惜しげに。すぐに風呂場に直行、シャワーだけ浴びて着替え、センスのいいスーツを身に纏い、ビジネス鞄を持って出て行った。
 ……助かった……
 崩れ落ちた清子に残されたのは大量の、中途半端な食事。
 そんなもの、もうどうでもよかった。だるい体を総動員し、自分の分だけ作って食べ、汗を流して身支度をする。肌に痛々しいばかりの愛撫の跡。キスマークとどこが違うのか……。
 瞳が、表情が、全身が愛欲に濡れているのは忠弘だけではない。化粧の時鏡を見ざるを得なくて、清子は強烈に自覚させられた。このまま出社すれば、今までなにをして来たのか、皆に分かられてしまう。
 いつもの通りって、なんだっけ……
 元に戻れ。元に戻れ。元に戻れ。
 愛の行為を引きずって会社へ向かう。もうすでに、ショーツが濡れていた。体が止まらない。
 心まで、もう、そう……
「おっはよーございまーす、センパーイ」
 渡辺のいつもの挨拶が目に痛かった。そういえば彼女と同棲って……渡辺も、熱い週末を過ごしたの? みんな、こういうことをして来たの?
 頭の中はさっきまでの行為で支配され、挨拶をしながら仕事をしながら、頭の中でさえ忠弘に愛されていた。完全な二律背反。外面は仕事をしながら心の中ではいやらしいことを考えていた。忠弘の熱い舌、激しい指を受け挿れ続けたソコがじくじく疼く。激しく攻められ続け過ぎて、今でもありありとそうされていた。反応し続ける体。潤んでしまう、ショーツに溜まる。電話に出れば、いや、誰かと会話をすれば忠弘のくちびるが自分のそれを追っているよう。話せば舌を搦めとられ。書類を捌く間も乳房を揉まれ。座っている時も、歩いている時もじゅくじゅく激しく突かれるソコ、いっときも意識から離れてくれない。
「も、申し訳有りませんっっっっっ!!!」
 突然響いた大声に、いくらこんな清子でも現実に引き戻された。なに? 誰?
 フロア中の全員が注目する。その先にはデブでハゲでいつもエラっそーにふんぞり返る、我が社の社長様がいた。
 清子のような平社員は社長と会話をすることも挨拶をすることもない。いつも取り巻きの取締役達におべんちゃらを言わせて偉そうにして。セクハラ好きでも有名だ。関わり合うなど願い下げだと清子は思っていた。その社長が大声でこうである。
 偉そうにふんぞり返って、とはいうが、一国の主・社長たるもの、常に堂々としていなくてはならない。たとえ会社の内情が万年自転車操業の火の車でも、社員の前では平然と。それが上に立つ者の度量というものだ。どれだけスケベでも、ここの社長とてそうだ。
 それなのにこの醜態。なにが起こった?
 誰もがそういう目で注視する。社長は立ち上がっていて、受話器に向かって言ったようだ。さらには電話を持ったまま何度も頭を下げ、
「申し訳ありません、申し訳ありません、どうか!!」
 すこぶるデカ声で。フロア中に響くこと、社員に動揺を与えること、共に分かっているだろうに、それでも。
 電話は向こうから一方的に切られたらしい。力なく、会社で一番豪勢な、とはいってもビニール張りの肘掛け付き椅子に崩れ落ちる。
 どこの社長も狸か狐。それがこんな姿を下の者に晒すとは。
「……なんスかね、センパイ」
 隣の渡辺だ。誰だってそう思うだろう。
 遠目の清子の目に、社長の姿はこう映った。毛のない頭をかきむしり、しばしそのままの後叫ぶ。
「営業部長を呼べ!!」
 聞いている全員がはてなマークを浮かべるのも当然だった。
「済みません、部長はまだ出社しておりません」
 社長の周辺は各取締役が固めている。その次に近いのが顔で選んだと揶揄される秘書課。次が営業課。社長に答えた声は、その営業課の者らしかった。普通の声であるので、清子には内容が聞こえない。
「なんだと!! 金曜日に起こったというじゃないか!! 報告もなしだ、E社の社長がわざわざ知らせてくれて初めて知ったんだぞ!」
「な、なにが起こったのですか?」
 起こった、などと単に言われれば誰だってそう訊くだろう。だが社長は、営業課の者をしてそれだけか、と思ったようだった。
「ええい! 副社長、専務、人事部長来い!」
 社長の声だけがフロアに響く。会社のトップは社長近辺にいる、なのに大声で呼びつけるとは一体?
「センパイ、行って来ます」
 渡辺である。相当な事態と判断し、情報収集に行って来ると言ったのだ。
「お願い」
 清子は小声で、渡辺にだけ聞こえるように短く答えた。
 こういうことなら渡辺は得意、適任だ。正直、総務に向いている男ではないと思った。それこそ営業向きだった。入社時、清子の元に付けと言われて来ただろう渡辺は、自分の教育係が女? 自分が総務? という表情を浮かべていた。清子はすぐに渡辺を糺して行った。教えて行った、単純作業の大切さを。
 それから半年、いつしか“オレとセンパイの仲じゃないスか”と軽口を叩き合う仲になり。だから分かる、全幅の信頼を寄せて清子は渡辺を見送った。
 頼むと言って出て行かせた清子が渡辺の分の業務もこなさなくてはならない。とはいえ元々清子がやって来た仕事だ、内容は分かっている。1.8人前の業務をこなせばいいだけのこと。五時までに納品、という仕事でもない。こんな展開では、いくらお代が出なくても残業したって構わない。
 総務課の人間も、渡辺が仕事を放棄して出て行ったことを黙認した。渡辺の仕事は清子がする、大丈夫。なにより自分達こそ渡辺から情報が欲しい。そう思って。
 今は仕事をするだけ。心と体から完全に忠弘との行為を消し飛ばし、データ入力に集中した。
 昼となって、清子でも休憩が欲しくて社食に行った。なにせ週末の二日間はろくに眠らせて貰えなかった。体はクタクタ、なのに仕事量は倍増。さすがに休まなくてはやっていられない。
 そうだ、忠弘からのメールがある筈、返事をしなければ。携帯電話の振動すらも気付かなかった。きっと入っている。
 しかし、メール着のアイコンはなかった。
「……?」
 現在時刻、午後一時前。連れ込まれて以降、平日には有り得なかったこと。
 早朝呼び出された忠弘。嫌な予感がした。
 清子は、どんな経緯であっても忠弘と仕事の話はしたくなかった。課が違う、仕事内容が違う、偉そうに口を挟みたくなかった。忠弘はそうは思わないだろうが清子はそう思っていた。だが今は。
 ……待てよ、そういえば金曜日のあのトイレでの会話……
 閃いたが、情報があまりにも飛び飛び。点在しているに過ぎず、判断という線にするには中間情報が足りなかった。
 清子はご飯をかっ込んで社食をあとにすると、営業課に顔を出してみた。忠弘に逢うためではなく、あの営業事務の女性達の様子を知りたくて。
 そしたら、彼女達は椅子にふんぞり返って座っていた。この会社は制服があるのにそれを嫌って、服務規程に背いて私服を着用。スカートは社会人にあるまじき短さ。化粧は派手、髪は金に限りなく近い茶髪、キーボードなど打てなさそうな爪の長さ。
 その内の一人が、電話を受けてこう話していた。
「えー。なんでぇー。アタシがぁー。謝らなくちゃいけないんですぅー? えー、リストラぁ? そんな勝手なことしていいんですかぁー? 訴えてやるー」
 清子はこれを聞いて自席へ引き返した。あの様子では、清子ごときが彼女達を問い詰めても喋るまい。分かったことは、間違いなく金曜日のあの会話、社長のデカ声謝罪と関係がある。しかし、判断する前にまず分析だ。そこに行くまでも情報が足りない。
 清子は席に着くとメールで渡辺に知っている限りの情報を送った。
 渡辺からの返答はない。今どこでどうしているか。
 携帯電話を出す。メール着の知らせはない。こんな時間になっても、忠弘からでさえ。
 仕事に集中することにした。今の清子に出来ることはそれだけ。
 渡辺が戻らないことで、総務課の人間は仕事に集中出来ないようだ。気持ちは分かるが焦っても仕方がない。しかし、他の課でも動揺が広がっている。誰もが情報を手に入れられない。
 五時となっても、本日分の仕事はおわらなかった。誰からもメールが入らない。周囲はざわめきながら、それでも段々帰宅して行った。
 そのまま仕事を続けていると、携帯電話が震えた。すぐに開ける。相手は渡辺。
“まずいっス。会社じゃ話せません、いつもの居酒屋、二階奥の個室で大至急”
 いつものと言われれば一階のカウンター、それなのに個室。イコール、それだけ聞かれてはまずい会話をするということ。緊急事態だ。恐ろしさに体が震えた。
 仕事を投げ打ち、言われた通りにフロアを出る。女子更衣室内では、“なにがあったんだろ、知っている?”“ううん、知らない”というような会話が密やかに、それでも抑えられず交わされていた。まだ誰も、事態の全容を把握していない。
 忠弘からの連絡がない。週末の様子では、早く帰らなければこっぴどい仕打ちがある、それは分かっているが今は緊急事態だ、話せば分かる。そう思って居酒屋に急いだ。
「お待たせ」
 戸を開けると、渡辺は酒すら頼んでいなかった。ネクタイが外されている。すぐに本題に入った。
「まずいっス」
 大の男がこんなふうに静かな声で言うとはどういうことか、もう清子にも分かった。
「センパイの情報で点が線になりました、やっと。いいですか」
 心して聞けといわんばかりの、渡辺の情報はこうだった。

 先週、金曜日午後。清子が部分的に聞いた通り、この会社の一番の大取引先、都心一等地の高層ビルをまるまる所有する上場一部の大会社で、現場一の華といわれる肩書きを持つ、営業一課長がわざわざこの会社に来るという。この職の実質は部長以上だそうだが、あの会社の本社には営業部長という役職がないらしい。
 本来、どこの会社でもそうだが、お得意先になどこちらから出向くもの。だがその課長は自分が得意先であって、清子達の会社が得意先、ではないのだが、訪問したいと自ら電話を掛けて来たという。あんな大会社でも一・二を争うほどのスピードで出世し、華とまで呼ばれる役職に就いた経歴を持つ、東大出の超エリートだそうだ。
 そんな人物を迎える為、清子達の会社の上層部は色めき立ってお出迎え。社長、専務、営業部長が万全を期して待っていた。そのお茶出しが清子の聞いた、あの営業事務の女性だった。
 ところが、なぜかその課長は来られなくなった。渡辺でもそこまでの情報は収集し切れなかった。とにかく、大会社から急遽やって来たのは、肩書きとしては一つ下の課長補佐。有名大学卒でも十五年掛からなければこの肩書きは持てないという、勿論エリート。
 だが課長補佐と聞いた時、社長以下三人は共に、そんなものは下に見るべき歳若い者だ、という認識しか持たなかった。下の者を差し向けられた、と思い込んでしまい、応接間で待っていた社長は君に任せると営業部長に言い、三人共に一旦席を立ってしまう。そこに時間通り課長補佐がやって来た。
 仕事の出来る出来ないと顔の美醜は関係ない。迫力はあったがハンサムではなく、もうすぐ四十歳、それは事実だった。だからあの営業事務の女性は、課長補佐を下に見てしまった。なんと、茶をテーブルにどんがり置いてしまったのだ。茶は全部こぼれ、品のいい課長補佐のスラックスを水ならぬ熱湯浸しにした。こぼれた茶はテーブルにも及んだ。
 営業事務の女性は「ごめんなさぁ〜い」などと言いながら退室。その後営業部長だけが応接間へ。部長の目にはテーブルの空になった茶。それを見て「ああ全部飲んだんだな」と誤解してしまった。すぐそこの、課長補佐のスラックスは変色していたというのに。茶托もなく、テーブルに直置きされていたというのに。
 それでも課長補佐はきびきびと完璧に仕事をやってのけた。情報を完全に掌握した上での素晴らしい交渉。もはや営業トークなどではなく。さらには「弊社の課長が来られなくて申し訳ありません」と冒頭で立ち上がって頭を下げ、きちんと謝罪し。
 それを聞いて営業部長は「当然だ。なぜ来なかった。なぜ下の者が来た」という態度で接してしまった。誰が来ようと一番の大得意先であることは変わらないのに。本来であれば、こちらから頭を下げて出向くべきなのに。
 ふんぞり返った態度でエリートと別れた営業部長は、ふと、テーブルが濡れていることに気が付いた。なんだあいつ、茶の飲み方もへたくそか。
 茶を回収しに来た営業事務の女性が言った。
「やっと帰ったんですかぁ〜、あの人ぉ〜」
「あの人はないだろう。一番のお得意先様だよ」
「えぇ〜、でもたかが課長補佐なんでしょう? 部長の方がエライですよぉ〜」
「まあ……そうだが……そうだな、見ろこれ。茶も満足に飲めないらしい」
 こぼれた茶を指し示す。
「ああ、それぇ〜。アタシがぁ〜」
「……は?」
 ここで営業部長はやっと、あのエリートは茶をこぼされてもなおかつ完璧に仕事をして行ったという事実に気付く。
 すぐに追い掛けて謝罪しなくてはならなかった。だが、あそこまで完璧に仕事されたのでこう思ってしまった。「なんともない」と。
 事の重大さを認識したくなくて、営業部長はこれをうやむやにし、誰にも言わずそのまま帰宅した。

「センパイは言ってくれましたよね。人間だ、ミスはする。仕事でもつきもの。やってしまったことは取り消せない。肝心なのは同じミスを二度しないこと、すぐに謝ること、対処することって。
 今よく、テレビで謝罪会見ってありますよね。大体がどれも、事が起こってから時間が経ち過ぎて、謝罪も対応もなにもしていなくてマスコミにそれを追及されるっていう情けないもんですけど。
 うちの会社が、まさにそれだったんです」
 週末であったことも悪かった。当日中に行動を起こすべきだったに、営業部長は土日の二日間なにもせずに自宅で休んでしまった。休日とはいえ計三日間も行動がなかったと見た大会社の体面とプライドは完全にズタズタ。月曜日午前九時を以って、清子達の会社と全ての取引を停止した。
「あの大会社とうちの取引内容は、売り上げでいけば割合は四割。ですが。
 ただの四割じゃありません。うちの会社は、元々あの大会社と主に取引しているからって、他の会社の信用を勝ち取って成長したんです。なのに。
 もし、あの大会社が。自分は手を引く、だからあなた達も手を引け。そう、他の取引先に言って回ったら? あの大会社と関係のある、うちの他の得意先の数・割合は、売り上げでいったら八割に達します。
 八割の売り上げ減。すなわち、即日倒産です」
 事態は、最悪も最悪だった。
「今日になってやっと、社長に事の情報が入った。あの電話がそれです。社長とツーカーな得意先がどうにかして知って、あわくって教えてくれたんだそうです。すぐに社長は電話してワビましたがもちろん遅過ぎ。すぐに電話は切られた。会社のトップを従えすぐに大会社へ行ったそうですが門前払い、当然です。なにせ当事者がいませんでしたからね。
 昔、歴史に、豊臣秀吉の攻勢に覚悟を決めた伊達政宗が白装束で赴いた、ってありましたよね。うちのトップはそうすべきだった。でもしなかった。頭も丸めずフツーのカッコでただ行って。アポもなくです。誰だって受け入れませんって。しかも最悪なことに、往来の一番多い大会社の本社ビル一階で、受付嬢に“会わせろ”と命令した。
 センパイは教えてくれましたよね。オレ達総務はこの会社では内勤が基本。けど外へ出る時は自分が会社を代表しているんだって。謝罪をする時は、受付嬢の美人が向こうの社長だと思って、狙って人の見ている前でアタマを下げろって。
 こんなの、社会人の基本です。それすら忘れたんですよ、とうの昔に、ウチのトップは。
 一番の悪者、営業事務のクソ女に至っちゃ、センパイの聞いた通りです。今でも事の重大さを認識せず、グズっているそうですよ。なんとそれすら大会社に知られて、もう言葉もありませんよ。
 元々、営業事務のクソ女三人衆は、顔がいいってだけで人事部長と寝たから試験なしで入社出来、大した仕事もしていないのに給料が高いって話ですからね。ここまで言いたくありませんでしたが、服務規程を平然と破って居続けていますからね。今となっては信憑性ありありですよ。
 センパイ、これ」
 渡辺が差し出したのは、求人情報雑誌。
「こんなご時世です、今すぐ転職を考えた方がいい。事態を甘く見るな、蟻の一穴と思ったところこそ肝心なんだ。いつもセンパイはそう言ってくれましたよね。そうです、来るリストラ、いや倒産に向けて、一刻も早く行動すべきです。マジで読んで下さい」
 場所は居酒屋の個室とはいえ、とても飲む食う話ではなかった。渡された雑誌に呆然とする清子。すぐに出て行く渡辺。
 携帯電話は震えなかった。清子はそれでも、大食漢のために食材を買って帰宅した。着替えてお風呂。調理を開始。
 ここで携帯電話が鳴る。忠弘からのメールだった。
“さや、遅くなって済まない。都内にはいるが帰れない。いつ帰れるかも分からない。寂しいだろう、俺を想って眠って。俺も根性で眠る。好きだよ。食べているかどうか心配するだろうから、仕方なくルームサービスをとる”
 これでは、忠弘があの話を知っているかどうか分からない……
 いや、知っていたらこのメールはない?
 ……知らせるべき……
 清子は電話した。想えば忠弘へ電話など初めてだ。
「さぁや!!」
 嬉々満面笑顔満点で出たのだろう。間違いなく、忠弘はなにも知らない。よく渡辺といえどもあそこまで情報を収集出来たものだ。
「あの!」
「分かっている。俺を好きって言いたいんだろう? 直接じゃなくて電話でなんて恥ずかしがり屋だな」
「じゃなくて!」
 清子は急いで話をした。
「分かった、至急動く。その内容では、事態の収拾をみるまでこちらから電話もメールも出来ない。
 さや。明日は早朝から会社に電話攻撃がある。どういうことだ、説明しろ、こちらも取引停止をさせて戴く等々」
「……そんな!」
 取引停止? あの大会社だけじゃなく? そんなことがすぐに?
 リストラ……倒産……
 あまりの、いきなりの現実だった。
「特に内勤の総務が受けることになる。営業は全員出払って謝罪・説明行脚しなくてはならない」
 その通り過ぎて言葉もない。
「俺より渡辺君の方が情報が早いということは、平社員のほとんどが内情を知らない。しかし上層部は知っている。会社対会社の出来事だ、俺達個人の思惑ではなく上層部、会社の意向に添って動かなくてはならない。
 指揮命令系統が一本でなければ兵士は混乱する。上層部からの指示と、俺達平社員からの情報では、平社員はどうしても同立場である俺達の情報を浮き足立って聞いてしまう。そうしてはならない。
 だからさや、周囲の見ている前で上司から確たる説明をされない限り、この情報は知らない、としなければならない。
 渡辺君にもそう言ってくれ」
「はい」
「気を確かに持って。いつもの通り、丁寧に正確に。さやのいつもの通りにやっていれば大丈夫だ」
「はい」
 そこで会話は終了。すぐに渡辺に電話をする。すると渡辺は、そこまで気付かなかったらしい。「さすがセンパイ、分かりました。気合い入れます」と言っていた。
 翌朝、早めに出社すると、更衣室にはすでに社員が相当数いた。
「どうなってんの」「知っている?」「どうもね、マズいらしいよ」
 もはや誰も声を抑えてなどいなかった。そしてやはり、誰もが情報を掴んでいない。忠弘でさえ知らなかったのだ、当然の反応だ。
「加納さん、渡辺君はなにか言っていなかった?」
 総務課の先輩がよくない顔色で訊いて来る。
「いいえ」
 フロアを開けると途端聞こえる、けたたましい電話の重なり合った音。間違いなく、全回線が鳴っている。
 怯む同僚先輩を置き、清子は覚悟して先陣を切って電話に出た。
「どうなっているのかね!!」
 申し訳ありません、こちらもまだ分かりません。そう正直に言うしかなかった。クレームがあった時、事実を糊塗するのは最低である。
 清子がそう答えたことで、周囲も少々ながら現実を受け入れる。先例は得た、電話が鳴る。次に出たのは渡辺。それからも先例を得て、恐怖に引きつりながら電話に出る社員達。
 九時直前になって総務部長がやっと出社。顔色が悪い。
「部長、どうなっているんですか、電話鳴りっぱなしです、取引停止してやるって息巻かれてます、どういうことですか!」
 誰もが叫びたい質問をしたのは総務次長だった。部長の下の次長でさえ事実を知られていない。なのに部長の返答は、
「いいから仕事しろ!」
 だった。
「サイッテー、ですね。センパイ、雑誌を全部読みました?」
 渡辺の言葉も当然だった。その渡辺は、総務課内どころか課長にさえ問い質されていたが、済みません、把握出来ませんでしたときりっと答えていた。
 大切な得意先から上司を出せと散々言われ、誰もが「総務部長が出て下さい!」と叫んだにも拘らず、「いないと言え」と言い放つ。仕舞いには、「私も知らされていないのだ、うるさい!」と来た。
「この会社も先短いっスね。見限りましたよ」
 渡辺の小声も当然だった。
 昼となり、食事を摂らなくてはならないが、誰もがのんびり食べられない。すぐに食べ、すぐ電話対応に戻らなくてはならない。通常業務など出来る筈もなかった。
 中には何度も電話して来る粘着質な相手先もいて、まだ分からないのか、いつ分かるのか、君では相手にならない、社長を出せ! と息巻く者もいた。
 いくつもの電話に出て、頭を下げ続けても次々電話は来た。総務の中には、もう出たくなくて、積極的な清子や渡辺に押しつけ通常業務を行おうとする者までいた。
 脂汗で何十件目かの電話をおえると、そのタイミングを見計らったかのように、ちょっと君、と横から声を掛けられた。
「はい?」
 その人物は営業次長だった。清子は営業課に何度か顔を出したことがある。それで、かろうじて顔を覚えていた。
 営業は全員出払っているが、一人二人は留守番が必要と思ったらしい。部長は現在でも雲隠れ中である。その次長について来るよう言われ、清子は総務課を後にした。一応、渡辺には「行って来るね」という視線を送る。渡辺は「よく分んねえスけどセンパイ、ガンバ」といった視線を返していた。
 がらんとした営業部エリアでは、やはり電話が鳴り続けていた。
 それを取らず無視した次長が清子に説明する。
「詳しくは言えないが、とにかく今、営業部には女性がいない。もうすぐC社のお偉いさんがやって来る。君、お茶を淹れてくれたまえ。なんでも、総務でもきちんと出来る人間だと聞いた」
 完全に緊急事態だ。清子は、自分に出来ることがあるならと思って承諾した。そして、営業部の女性といえば営業事務のあの三人。自宅待機でもさせられたか。
 給湯室へ行き準備をする。玉露を。
 清子はお茶など、貰いものの煎茶もどきにポットからの熱湯を直に注いで出していた。料理が手抜きなのだ、お茶もそう。それ以外知らなかった。コーヒーではないし、興味がなかった。
 玉露の淹れ方を教わったのは、パートの女性からだった。歳は六十に近かった。その人は清子に意外なぬるさで出した。コーヒーの淹れようなら知っている清子。茶碗を持った時点で、こんなにぬるくて美味いわけがない。そう思った。だが飲んでみると、とても甘かった。
 日本茶が甘いとは知らなかった。即座にこの味の虜になった。すぐに教えて下さいと懇願した。その女性は、新人の清子に丁寧に教えた。仕事が出来、総務部長よりも歳上であったので、度々横柄な態度を取る部長を一度だけ、二人だけの時にやんわりと諌めた。しかし反感を買っただけだった。ことあるごとに人前でイビられ続け、もうなにも言い返さず、結局辞めて行った。清子に玉露の仕入れ先と、購入した際の領収証の但し書きの上手い書き方、出金伝票の上手い切り方を教えて。
 営業次長が給湯室に顔を出し、来たので頼む、二人分だと清子に告げる。教わった通りに淹れ、茶と茶托を別々に盆に乗せて両手で。胸の高さにして、左に少しずらして運ぶ。フロアへ行き、応接室をノックして失礼しますと告げた。中には言われた通り二人いた。上座に客、向いの下座には忠弘が。
 サイドテーブルにお盆を置き、茶碗と茶托をセット。絵柄がある方を客の正面に。会話中ではなかったので、どうぞと言って両手で静かに、客の右側から出した。次に忠弘へ。
 すぐに踵を返し、ドアの前で静かに一礼して退出した。さりげなく行って、さりげなく帰れ。
 給湯室へ行って盆を下げると、次長から総務へ戻れ、電話応対を続行しろとの指示。その通り戻った。
 総務では電話が鳴り続けていた。戻ったばかりでも誰より先に電話に出る。謝り続けた。
 何本か立て続けに出て、おわって受話器を置くと、総務部長から呼ばれた。
「君ぃ、私に報告もないとはどういうことかね!」
 つまり、さっきの営業次長に呼ばれたのはどういうことか、説明をしろということ。
「すみません、お茶出しを頼まれたので行って来ました」
「こんな状況でも来てくれるお客様に、まさか失礼などなかっただろうね。特に丁寧に出しただろうね」
「普通に仕事をしました」
 清子の言う普通。それは、自分の可能な限り最高の仕事をするということ。常に最高、少しでも下は一切ない。それが普通、当たり前。そういう意味。
「だから君は……! 何故次長が君ごときに頼んだのか、これだから女は、それで今回の一件なんだぞ!」
 背後で、渡辺が電話中にも拘らず席を立つ音がした。
「おや。こちらの会社は、やはり最低のようですな」
 清子の前方、総務部長の後方に、さっきのC社のお偉いさんがいつの間にか来ていた。
「そうとしか言いようがないねえ、山本君」
「申し訳ありません」
 お偉いさんの少し後ろでは忠弘が頭を下げていた。
「も、申し訳ありません、この者が粗相を! すぐに謝らせます! おい、土下座しろ!!」
 総務部長が言うこの者とは清子のこと。
「おぉや。これまた最低だ。そうだね、山本君」
「はい」
 清子の背後で、渡辺が無理矢理電話をおえようとしていた。
「加納、なにをしている!!」
 清子は言われても直立したまま。
「まだ分かりませんか、総務部長殿」
 お偉いさんは静かに言った。
「そちらの女性はきちんと仕事をなさっていましたよ。お茶、とても美味しかった。玉露の素晴らしさをその通り引き立てて。
 一言挨拶をしたくて足を運んだのですが、その上司が最低ではね」
 総務部長は声もなかった。
「お茶出しの一件でここまで事態が悪化したのに、それでも私が来たのは山本君の熱意にほだされてでした。現場の人間はまともなようですが、社長以下、上に立つ者はみな最低らしい。私がこう言っている間にも、謝罪の言葉がないのだから」
 すると総務部長はお得意先に向かって慌てて言った。
「も、申し訳ありません!!」
「さらに最低だ。謝る相手を間違えている」
 清子はすぐに言った。
「私の上司は私がさっき、指示された書類を数カ所も間違えて提出したのでそれを指摘しただけです。私、間違いが多くて」
 横柄な態度に出られれば、誰でも気分が悪くなる。清子とてそうだ。特に清子は簡単に酷い言葉を言い放つ癖がある。仕事でなければそうしただろう。
 そんな清子に、あの先輩は言った。
“あなた今、どういう顔をしているか、自覚している?”
 それだけ。清子は愕然とさせられた。
 そう、横柄な態度に出られたら、笑顔になればいい。そして話せばいい、普通に。そして、誰に対しても横柄な態度を取らなければいい。
 女が下に見られるのには理由がある。その時の気分で仕事をするからだ。機嫌がいい時はいいとして、悪ければそれをそのまま態度に出す。確かに、例えば請求書を間違えて送られれば迷惑だ、面倒だ。だからといって“あんたねえ!”といわんばかりに電話をしてどうする。どうってことはないが、どうってことないよと笑顔で普通に“こうして戴けるとありがたいんですけど”とお願いすればいい、間違われた方が。
 その時の気分で、感情で電話して来るのは圧倒的に女。内勤が主の清子だからこそ、それが分かった。
 それから清子は机の一番上の引き出しに手鏡をしのばせることにした。横柄な、感情的な電話が来た時それを見る。鏡で自分の顔を直接確認する。そして笑顔になる。作るのではなく。
 だから分かった。感情で電話して来る女性。頭に来る横柄な男性。それらは全て、清子に教えていたのだ。
 自分のようにはなるな、と。
 やんわりと電話して来る相手先もいた。だが内容はそういう時に限って辛辣なもの。優しくだからこそ内容が痛かった。
 そう、教えてくれていたのだ。なにも教えとは、直接表現が全てじゃない。
 清子の直接の指導係である、あの先輩女性は年末で退職する際、清子の携帯電話を出させ、自分の情報を消せと言った。清子は当然何故と訊き返した。
“だって私に頼ってしまうもの。分からないことがあれば、電話で訊いちゃうでしょう? 携帯電話の悪点よね。
 だから消して? あなたには教えたわ。全て。
 意味、分かるわよね?”
 分かったから。全て教えられたから、清子は消した。その言葉以降、踵を返されたあの、気迫に満ちた後ろ姿を見て以降、あの先輩とは一切のやり取りもない。
 分からないことなど有り余るほどあった。だが教わった。訊いて一瞬楽をするのではなく自分で時間をかけて探せ。
 重い段ボールを奥底から出し開け続け、昔の資料を一枚一枚めくって情報のカケラを探した。その途中で、他の昔の、そして今にも通じる情報を頭に入れて行った。
 ひとりでなんでも出来るわけがない。単純作業を最初から完璧に出来たわけじゃない。間違って提出して怒られても自覚せず、間違われてそのミスを自分のせいにされて初めて自覚出来た。“間違いをしてはならない”という当たり前の、でも最高の、崇高たる基本を。
 育てて貰った、周囲全てに。教わった、全てを。今までも、これからもずっと。
 だからこそ冷静に。いつも通りに。これが清子の、普通の仕事。
「……加納さん、と聞きましたが。お名前を伺えますか」
 お偉いさんはもう、総務部長には意識を向けなかった。
「総務部総務課、加納清子です」
「さやこさん。いいお名前だ。名刺を戴けますか」
「はい」
 先輩に教わった通りに、普通に名刺交換をした。
「山本君。さっきの件、了解した。私の力の及ぶ限りのことをするよ」
「ありがとうございます」
 忠弘はピタリ四十五度の最敬礼で頭を下げた。お偉いさんを送るため、一歩下がってついて行った。
 清子からは見えなかったが、渡辺を始め総務部の人間は全員きつい視線を総務部長に向けた。いたたまれなくなったか、元々今日はなんの仕事もしていない、渋い顔をしてフロアを出て行った。
 自席に戻ると、隣の渡辺は言った。
「さすがセンパイ。惚れ直しました。オレが尊敬し頭を下げる女は加納清子ただ一人です」
「はいはい、仕事仕事」
 電話は鳴り続け、対応をおえるのに午後八時まで掛かった。
 誰もが疲れ果てていた。喋る気力など誰にもない。今日一日でどれだけ謝ったか、頭を下げたか。
 清子もそうだった。更衣室で着替え、お疲れ様とだけは言い残し、ビルを出ようとすると、出入り口で声を掛けられた。
「加納さん」
「はい?」
 振り向くと、木下だった。ぺこりと頭を下げる清子。
「お疲れ。聞いたわ、さすがね」
「? なんでしょう」
「私が知らないとでも?」
 ますます分からない。
「なんでしょう」
「あなたこそ美人だし、あなたこそ仕事が出来るわ。うちの人事は本当に最低ね」
「なんだかさっぱり分かりません」
「今回の元凶の営業事務を、採用に際して顔と恥ずかしいことで人事部長が入社させたっていうのは本当よ。たった一枚の書類を扱うのも嫌がって、営業の男共は誰もが彼女達を避けていた。その彼女達は外面がいい山本君に迫っていたけど、山本君は完全無視。三時のコーヒーは、彼女達は山本君にだけ出したけど、山本君はその場でカップを逆さまにした。そういえば、ちょっと前の十日間程度はその彼女達すら怒鳴り飛ばしていたようだけど。
 それが止んだのが、サーヤ、だったのよね」
「それが私となにか関係が」
「あなたがお茶出ししたお客様は、個人的にあの大会社の営業三課長と面識があるそうよ。個人的にだから、そうとは誰も知らなかったけど、そんな細い線でもなんとか見つけて山本君は頭を下げに行ったようね。
 明日で我が社の命運が決まるわ。握っているのはあなたよ」
「全然さっぱり分かりません」
「その指輪、とても素敵ね。眼鏡も髪型も。サーヤ、以降ね」
「全部安物ですが」
「私とあなたは同期なのよねえ。よしみで、少し内情を教えてくれないかしら」
「確かに同期ですが目上の方です」
「教えられる時期が来たら、ぜひお願い」
 木下はずっと微笑んでいた。そして近付く。直近で、
「いいにおいだわ。覚えがある。社食でお話しした時も、だったわね」
 答えない清子に満足したかのようにすっと離れて、
「ご活躍を期待しているわ」
「なんだかさっぱり分かりません。失礼します」
 ぺこりと頭を下げる清子に微笑んだまま、木下は去って行った。
 バスに乗りながら清子は思った。今日のご飯はなんにしよう。大食漢がいないから、コンビニで弁当を二つ買うか。もうばんざいなんて言わないぞ、っと。