5

 翌月曜朝。一般サラリーマンの大嫌いなブルー・マンデー。清子は忠弘を起こしてご飯を食べさせ、コーヒーを淹れ、弁当を持たせて先に出社。あまりにもしっくり来る指輪はもう、買ったばかりの眼鏡のように、していることも忘れた。
 更衣室で着替えていると誰かに、
「加納さん……それ……」
 と言われた。
「え?」
「まあ、左手の薬指なんて……髪型も眼鏡も変えていたわよね。恋人でも出来た?」
 こう言われて初めて気が付いた。しまった。
「えー、いやあの、……はあ、百均で買いまして。おもちゃなんですよー。指輪なんてしたことがないからついつい」
 あまり上手くはないが誤摩化した。それにしては、アクセサリーを百円均一ショップで買うなど誰も言わない。
 気に入っていたので、外す気はなかった。鋭い女性社員の巣窟を抜けて職場へ行って着席する。
 しかし、目敏い渡辺に見つからないわけもなく。
「うっわー、センパイやりますねー。どうもそうじゃないかと思っていましたよー。で、誰です? どんなやつですか? 教えて下さいよ、センパイとオレの仲じゃないスかー」
 と来たもんだ。これまた百均でとあからさまな嘘を吐く。結局、眼鏡を変えた時美人と言われた大体の人達からツッコまれた。ああおそろしや左手の薬指。女が眼鏡に髪と、それっぽい要素を立て続け。誰だって勘ぐる。
 昼となり、逃げるように社食へ。はかったように携帯電話が震えた。はいはい美味いがどうのでしょ。
 すると忠弘のメールにはこうあった。
“今朝突然北海道出張を命じられた。三日帰れない。とても寂しい。好きだよ、さや”
「ばんざーーーい!!」
 諸手を上げて叫んでしまった。当然、周囲には奇異の目で見られた。しかしそんなのはおかまいなしだ。これで家政婦から解放される。手抜きしか出来ないのにあんなに連続して結構まともな食事を大量に作り続けて来た。かなり気を遣った。それが三日間も一人。ああなんて開放感。ぐーたらしてやる、ご飯なんか作らないぞ、外食して楽してやる、あんなに大量に食材なんか買わないぞ、荷物を置きっぱなしにしていちいち片付けないぞ、だらしない格好をして家中をうろうろしてやるぞ、お風呂だって順番を待たないぞ!
 気分はまさに初めての一人暮らし。ああこの開放感、一体誰に叫べばいいのやら! さっき叫びましたよ清子さん。
 うきうきしながら午後の仕事に向かったので、誰の目にも恋人が出来て嬉しいのだなと映った。
 五時になって、スキップする勢いでフロアを出て、嬉々満面で着替える清子。誰だってそんな女にゃ男が出来たと思う。周囲からそうツッコまれるが、いいえ違います、ゲームで悪戦苦闘の末ついにラスボスを倒し真のエンディングを見られたんですと答えた。ゲーマーならこれで分かるが周囲はほとんど一般人、あまり分かって貰えなかった。
 近所のコンビニで弁当を二つ購入。これで朝はもっと眠れる。くっくっくっくっく……
 携帯電話が震えた。気分良く出た。
「はーい!」
「……随分ご機嫌だなさや。いいことあった?」
 そりゃもちろん、そちらさんがいないからですよぉ?
 あやうく声に出して言いそうになった。
「ああ、そういえば北海道でしたっけ。ここは一発ススキノで、きちんとした大量のねーちゃんをはべらせて下さいね! じゃ!」
「待ってさや、なにを言って」
 電話をぶっつり切ってご機嫌で帰宅。直後携帯電話が震え続けたが無視無視、相手は同じ島にもいない。ふっふっふ。
 開放感いっぱいで玄関を開けた。服をだらしなく脱ぎながら廊下を歩く。よれよれのパジャマをブラなしで着る。トイレで水を流しっぱなしにしない。風呂を沸かして次に入る者を気にせずのんびり浸かる。風呂場と洗面所に道具一式を置きっぱなし。一度使っただけで水を落としたりしない、追い炊き機能を存分に使って。風呂上がり後に弁当をチン、調理時間はこれで終了。大量の食材を前に悪戦苦闘しなくてもいい、調味料は何倍かなんて考えなくていい、味見不要、焼き加減を気にする必要一切なし、明日の支度をしなくていい、米を大量に研がなくてもいい、洗いものなし。全て忠弘がいたら出来ないことだらけ、楽過ぎて涙が出そう。
 明日の服を吊った後、すぐにゲームに取りかかった。昨日は負けたが今度こそ。熱中して、毛布を巻いて午前三時まで没頭した。力尽きてその場で眠った。
 携帯電話のアラームをいつもより一時間遅らせても余裕で出社。多少眠いがラスボスは倒した、気分は爽快。泣きたいほど楽。大量の食事を作らなくていいのがこんなにいいことだとは。
 ご機嫌で出社。震え続ける携帯電話は面倒だからロッカーに放置。ご機嫌で仕事。誰の目にも加納さん新恋人誕生だ。そんな周囲には、オンラインゲームで気の合うメンツと知り合えたと言っておいた。
 五時となり、るんるんで会社を出て、帰宅途中に美容院へ行く。バスで通勤途中に「あ、よさげ」と思っていた看板のところに初めて入ってみる。清子は喫茶店もそうだがお気に入りの美容院もなかった。いつも同じ髪型だから、どこの店に初めて入っても簡単に髪型を指定出来た。でも今日は、ちょっと冒険してみた。お店の人に言っておまかせで切って貰う。デスクワークなので髪の毛が邪魔にならないように、染めるのは嫌、真っ黒がいい。それだけ注文して。
 結果、毛先をかなり梳いて切って貰った。髪が軽くなって万々歳。なかなか気に入った。るんるんだ。
 これで彼氏がいたら間違いなく都心に出掛けるが、時間が遅くなったこと、そもそも彼氏がいないこと(この場合自称未来の夫は即時除外)一番は金がないことからやむなく断念。合コンでは今度こそ、だ。
 楽ちん三日目の水曜日、出社したるんるん清子は増々周囲に「出来たのね」と思われた。一部に至っては「夕べはお楽しみだったのね」と深読みだ。眼鏡・髪型・指輪・浮かれた表情。この四要素をしてそう思わずしてなんだ、である。よかったわね加納さん、どんな人? と、かなりの人数に言われたが、清子はゲームの話題のみで振り切った。
 五時が近づくと、いくら浮き足立った清子でも、そういえばそろそろ大食漢が帰って来るんだなと気付いてしまった。アラーム使用以外携帯電話を投げていたのでメールも見ていない。留守電機能は付けていないから、きっと着信はいっぱいある。携帯電話を見るのが怖い。
 仕方ない、家政婦再開か。短い休暇だった。出来れば週末に出張して欲しかった。
 なにを作るか……無難に肉じゃがにするか。あとはいつもの、キャベツを大量に切ってサラダ、トマトを輪切り。これにしよう。
 帰宅して、楽な服装とはいえきちんとブラを着ける。風呂に先に入っておいて、掃除に取りかかった。いつでも帰れるように……って、引っ越しちゃったんだっけ。まあいいや、整理整頓。それから食事作りを。うう、大変だ。人間楽に慣れるのは早いなあ。
 作りおえると同時に、玄関が開いた。お帰りだ。まあ、労のひとつも労ってやるか。玄関に迎えに行った。
「おかえりな……」
 目の前の人物は、全てが違った。
 禍々しい怒りのオーラが爛々と漲る。睨みつけるその目は真っ赤に充血。何日も眠っていないことなど一目瞭然。
 立ちすくむ清子。靴を脱ぎ、ビジネス鞄をぶん投げ、重い足取りで清子に近寄る忠弘。一言も発しないのが不気味過ぎた。
「あ……の、」
 清子の声にならない言葉は、忠弘の大きくて強引な熱い左手が頭の後ろに回ったことによって途切れた。もどかしげにかき寄せられる。深く、猛々しく、清子はくちびるを貪られた。
 忠弘の大きくて強引な熱い右手はなんの遠慮もなく清子の尻をもみしだく。ぎゅっと抱き寄せられた体。腹のあたりに感じる怒張。
「ん、ぁ、あ、あ」
 角度を幾たびも変えられながら、長く、長く貪られた。もどかしげに、性急に、情熱的に。汪溢する感情をなんら制御しないキス。突き抜けられて、押し寄せられて、かき消された。
 突然舌が離されると、余韻もそこそこに上衣のボタンを外された。
「あ! や!」
 ブラをなんの遠慮もなく強引にたくし上げられ、強引に、痛いほど乳房を揉まれた。ぐにゅぐにゅと、忠弘の意のままに変形させられる。
「や、や、や」
 乳首を、なんの遠慮もなくつままれる。強引に、痛いほど。掴んだそれを、手前に引っ張る忠弘。
「んあ!」
 とても綺麗なお椀型の乳房は、二等辺三角形にまで変形させられた。変形の限界でびぃんと放たれる乳首。強引そのもの、される側のことなどなに一つ考えていない。
 すぐに舌がやって来た。またしても猛々しく貪られる。清子の口から忠弘の、清子のよだれが垂れた。その間も間断なくもみしだかれる乳房、弄ばれる乳首。
 許して、許して、許して。
 からめとられる舌に託して清子は叫んだ。もう濡れていた。
 どうして大きな手は、清子の乳房を手放したのだろう。どうして蠢く舌は、清子のくちびるを解放したのだろう。それは分からない。上気し、息も絶え絶えな清子に忠弘は言った。静かな怒声で。
「飯」
 脇を通り過ぎ、すぐに六畳一間に入って行った。ふすまの音を立てて開け閉めされた。
 清子は呆然と立ち尽くした。何度か怒るぞとは言われた。でもこれは、全てが違った。
 嬲られ尽くした体を引きずり、キッチンへ。衣服を整えながらおかずとみそ汁を温める。
 くちびるは赤く腫れ、乳房はまだらに赤くなり、乳首は充血していた。なまめかしい舌の熱さが続く。そこが、ひくひく震えていた。
 重い足取りがやって来た。とても振り返って見ることなど出来なかった。怖い、恐ろしい、ただそれだけ。膝が鳴る。体が震える。
 どっさりと、ソファに体が投げ出されたようだった。その振動さえ、床から骨に伝わった。直視出来ず、それでも食べ物の皿を持って行かざるを得なかった。お盆の重さが、今日は一段と感じられた。
 何度も往復して、テーブル一杯に並べる。忠弘は、儀式もせず無言で箸を引っ掴んでかっ込み始める。清子はとても、箸を持つ気にすらならなかった。どんがり置かれる空になったどんぶり。まばたきもせずお代わりを盛った。
 忠弘は食べ尽くすとすぐに立ち上がり、風呂場に向かった。一人になった清子は、ようよう箸を持ち、震える手でご飯を食べた。少しずつしか入らなかった。なにかが喉を通って行った。ゴムのようなものを食べている気さえした。された舌が機能しない。
 食べおえる頃、忠弘が風呂場から出て来た。髪も肌も濡れたまま。まともに治した形跡など一つもない傷だらけの上半身は裸で、下はかろうじてパジャマを穿いている。おそらく五歳以前からしていたのだろう、あのネックレスが鈍く光る。睨みつける視線、怒りのオーラは変わらず、清子に向かって重い足取りで近寄る。
「携帯電話を」
 静かな怒声で命じられた。持ってなどいなかった。視線を彷徨わせる清子。
 それを見て、すぐにリビングを出る忠弘。ほっとなど出来なかった。直後、寝室の扉が音を立てて開け放たれる。どかどかと音がした。物色をしているのだ。
 目的物がなかったらしい、次は隣の仕事部屋。またも物色の荒々しい音が聞こえた。次は荷物置き場。音が聞こえるかと思ったらなかった。代わりに重い足取りが近づく。
 リビングに現れた忠弘は、手に清子のバッグを持っていた。そこから携帯電話を取り出し、床にぽんとバッグを置いて。
 ガタガタ震える、怯えて真っ青で動けぬ清子の目の前で携帯電話を操作され、見せられる、大量の未開封メールタイトル。
 静かな怒声で命じられた。
「必ず出ろ。必ず見ろ。すぐに返事を出せ。必ずだ」
 清子はつばを飲み込んだ。忠弘の瞳には、奈落の底の暗闇が宿っていた。
 携帯電話を清子に押し付け、出て行く忠弘。残されたのは、空けられた食器の山。
 まばたきもせず立ち上がり、食後の片付けをした。朝食の準備をした。指輪だけが煌めいて。
 寝室へ向かい、戸を開けた瞬間、ここはどこかと、目を見開いて立ち尽くした。無事なのはベッドとスプリングと敷きぶとん、明日の服と思って吊っていたものだけ。後はどんな悪質な強盗でもここまでしないと思える程荒らされていた。いつでも出て行けるように収納していた荷物は全て開けられ乱雑に散逸。シーツはベロリ、室内干しは壊されかけ、それに干していた筈の洗濯物はベッドをはさんで反対側に、破かれていないだけマシという状況で投げ出されていた。膝も体も震え、歯ががちがちいって噛み合ず、立っていられなくて、ベッドにふらふらと向かって崩れ落ちた。
 掛け布団は被ったがそのまま、一睡も出来なかった。電気さえ点けたまま。三日間眠れなかったあの時とは全てが違った。まぶたを閉じるということも、眠るということも、時間が過ぎているということも頭から消えた。ただこの、荒らされたままの部屋で、においだけが心地よく香る。
 生者の意思とは関係なく、刻々と時間は過ぎる。一時、二時、三時……電気がそのままなのだから、空が白み、朝日が昇ることも分からず。睡魔という意味すら分からなくなった。四時になっても、五時になっても。
 六時となり、持たされた携帯電話のアラームが鳴る。行かなきゃ、起こさなきゃ。
 ありったけ、全てを総動員して身を起こす。行かなきゃ。ご飯作らなきゃ。
 寝室を出ると、途端に感じる重い気配。
 忠弘が、そこに屹立していた。奈落の底の風を纏ったまま。間違いなく、ずっとここにいたのだ。
 すぐに清子を貪った。猛々しく、もどかしく。
 清子は上半身の全てを犯された。体の奥から垂れる愛液。
「飯」
 コーヒーを淹れる余裕などどこにもなかった。清子は逃げるように出社した。首に、銀色のネックレスを飾られて。
 移された、奈落の底の風を纏って現れた清子を誰もが不気味がった。首に飾られた銀色のそれを、こんな態度でなければからかっただろう。でも、誰にもそんなことは出来なかった。
 着替えおわり、自席に着くと、渡辺は勿論心配した。早退した方がいいとすぐに言われた。重い雰囲気で首を横に振る清子。決まった業務でなければこなせなかった。
 時間だけが、誰に関係なく過ぎて行く。ただその人の、その時の気持ちだけが、遅いか早いかを決める。今の清子にはどちらか分からなかった。
 昼とはなっても、メールを開けるのが怖かった。社食へ行ったが誰も、こんな清子に近づかない。いつものランチを頼み、席に座って、震える手つきで携帯電話を操作する。
“五時に直帰しろ”
 従うしかなかった。はいと、それだけを打って返信した。
 腹にものが入って、誰もが眠気を覚える昼下がり。誰も行ったことのない場所の風を纏ってモニターに向かう清子に、誰もなにも言わなかった。
 五時となり、すぐにフロアを出る。お疲れさまと、それだけを言い残して。
 バスに乗る。淡々と、時間も景色もなにもかもが過ぎて行く。心だけがなにかを決めた。
 持たされた銀色の鍵で玄関を開ける。言われた通りにしたのに、忠弘はすでに帰宅していた。その場で犯された。上半身だけには留まらなかった。清子のスカートをがばぁと上げ、後ろから手を突っ込み、恥毛のあたりから尻の穴にかけてストッキングの上から中指でなぞった。
「んぁああああ!!」
 滲む愛液の出るところを、強引に中指で押す。
「んん!!」
「言え」
 静かな怒声で。
「……なに、を……あん!!」
「愛していると。忠弘と呼べ。結婚すると言え」
「そん……な!」
「言わなきゃこのまま犯してやる」
「い……いやあ!!」
 忠弘は両膝を付き、清子の脚を広げさせ、下から、ストッキング、ショーツ越しに滲む蜜を舐めた。
「ん……あ!」
 想わず忠弘の髪に両手を。
「さぁやの愛液が一番の手料理だ。美味いぞ」
「い……いや、いやあ!」
「いや? もっとだろ。挿れてだろ、さぁや」
「お……」
「お?」
「……怒らないで、許してぇ!!」
「いやだ」
「そんな……!!」
「俺がどれだけ眠れなかったと思っている」
「……!」
「出てから、食ったのはさぁやの愛液と手料理だけだ」
「……ごめんなさい!」
「遅い」
 ベロリ舌が這う。
「い……いやあああ!!」
 そこが、ビクビク感じる。
「言えば止めてやる」
 ふとももの内側、ねっとりと手で愛撫され。
「止めてぇえええええ!!」
「聞かない」
「……そちらさんは!」
「まだ言うか」
 いくらなんでもカッと来た。
「そちらさんは、嫌がる女を無理矢理手込めにするほど卑劣漢ですか!!」
 忠弘の舌が止まった。
「犯るなら犯れ、絶対に許さない!!」
「……さぁ、や……?」
 止まった忠弘を振り切って、そんな姿で玄関のノブに手をかける清子。
「待って、どこへ行くさや!!」
 後ろから抱き締める忠弘に、清子は激しく抵抗する。
「離せ! 出て行く、あんたなんか大っ嫌いだ!!」
「さぁや!!」
「呼ぶな! 離せ!!」
 途端、忠弘の瞳から奈落の闇が消え、五歳児の曇りのないガラス玉が戻る。
「さぁや、許して!! 行かないで、俺を愛して!!」
 縋り、甘え、懇願する。
「いやだ!!」
「さぁや!!」
「離せ!!」
「いやだ、絶対に離さない!! さぁや、許して、怒らないで!!」
「いやだ、離せ!!」
「さぁや、さぁや!!」
 後ろからぎゅうぎゅうと抱き締められる。伝う涙が清子の髪を濡らした。それを感じて、抵抗を止める清子。
「さぁや……」
 清子は、ノブから手を離した。
「さぁや……」
 縋り甘える大の男は、五歳児だった。
「……離して下さい」
 忠弘は、力弱く両腕を解いた。清子は忠弘の脇を通り過ぎ、キッチンへ向かう。
 乱された格好のまま、無言で調理を始める清子。後からリビングへ重い足取りで忠弘が向かう。
「……さぁ、や」
 清子は答えなかった。とんとんと、規則正しい包丁の音。
「……無視、しないで……」
 そんな言葉など聞く清子ではない。
 忠弘は、どうしたらいいか分からなくて、それでもそばにいたくて、近寄って、自分を一切見ない惚れた女を直近で見つめた。
「済まない……さや。どうやったら、……機嫌を直してくれる。済まない、もうしない、指一本触れないから……」
「だったら許して上げてもいいですよ」
 意外にも、答えはすぐに返って来た。
「男なら、約束は守ることですね」
 包丁の動きもそのまま。平坦な声だった。
「いいですか」
「……うん」
「座って待っていて下さい」
「……うん」
 言われた通り、ソファに音を立てないようにそっと座って、清子の背を見つめて、ずっと待った。
 清子はありあわせで夕ご飯を作り、忠弘の分だけテーブルに並べた。いただきますと、お伺いを立てるようにそっと告げる忠弘。食べたらどうだと無言で言い、どんぶりが空けられるのを無言で待った。鍋とジャーがすっからかんになるまでキッチンとリビングを往復した。
 それから食器を片付け、明日の朝食の支度を。おえると寝室へ行き、荒らされた中からパジャマと下着、洗面道具一式を探してかき集めて風呂場へ行った。
 熱いシャワーを強く、長く浴びて全部流す。ちゃぷんと湯船に浸かった。のんびりと湯と戯れた。深呼吸をずっとした。のぼせると思うまで。
 湯気の中、ぼんやりとした裸眼で、飾られたネックレスのタグをつまみ上げた。打刻された文字を読む。
 SAYAKO YAMAMOTO
 BLOOD TYPE O
 NOV 04, 19XX F
 血液型まで知られていたか。山本って……気が早いったらありゃしない。
 忠弘の使い込まれたものと違い、銀色のそれは明らかに新品。でも型や鎖は完全に一緒。間違いなくお揃い。打刻面を誰かにまじまじ見られたら一発アウトだ。
 タグの正反対方向、留め具も見てみた。ネックレスとはどんな品でも必ず、多少扱いづらいものの誰でも外せるようになっている。でもやはり、着脱可能な留め具などなく、鎖両端の小さなリング二つが力技で繋ぎ止められていた。
 指一本触れない、か。
 髪を洗い、体を洗って、シャンプーとリンス、ボディーソープとタオルを持って風呂場を出て洗面所へ。体を拭く。指輪と鎖を、仕方がないからよく拭いて上げた。熱いので真っ裸のまま髪を乾かす。美容院で教わった通り、ドライヤーは弱で後ろから風を当てる。よく乾かして、くしでよく梳いた。うん、これでよし。
 パジャマを着て荷物を持ちそこを出ると、忠弘がいた。眉毛をハの字にして。すねているわけではない。声を掛けていいのかどうか分からずにいる、そんな感じ。
「さぁや。……食べて……」
 そうは言われても、食欲も食事もない。
「済まない、さぁや……勝手して、寝室を、……片付けた。済まない、……あんなこともうしない……」
「明日の晩ご飯のリクはなにかありますか」
 いつもより一層堅苦しい言いようだったが、その内容に忠弘はパっと表情を綻ばせる。
「出張先で屋台を見た。さぁやに作って欲しいと……」
「分かりました、おでんですね。でかい土鍋が必要ですから、荷物持ちをお願いします」
「喜んで……」
 惚れた女に頼み事をされたからだろう、いつもの、とまではいかないものの、忠弘は嬉々としていた。
「お風呂に入って寝て下さい。朝起こします」
「嬉しい……おやすみ、さぁや」
 くく、と身を屈ませて、激しくキスしたあんなふうな角度で、唇が触れそうなほど直近で、
「好きだよ……」
 少し。ほんの少し、清子から動けば、もう触れる。それだけの距離。
「好きだよ、さぁや、好きだ……」
 熱く艶めく。言葉も、心も、体も全て。
 ありったけ、止まらない、止めることを知らない男。
 ずっと言わせていたが、このままだとガバリ抱き締められるな。そう思ったので、おやすみなさいと初めて言って、隣を通過して寝室へ入った。
 言われた通り、室内は綺麗に整理整頓されていた。洗濯物は全てしわを伸ばして干されていたし、スケスケのクローゼットケースには服が全てきちんと畳まれて収納されている。掃除機で掃除もされているようだし、ぞうきんがけまでされている模様。ふとんもきちんとベッドメイク。枕カバーも変えられていた。
 明日の服を出して吊って、ブラを外してからふとんにもぐると、シーツも変えられていたのに気づいた。忠弘のにおいがする。甘くて心地よい。
 それにくるまれて、夕べは一睡もしなかったし、多少空腹だったが、まぶたを閉じて、後は眠った。
 翌朝、携帯電話のアラームよりも早く目が覚めた。あと三十分はうとうとしてもいいようなので二度寝した。朝のこのひとときは、雇われ哀愁サラリーマンの特権と思う。
 時間が来ると、眼鏡を掛けて遮光カーテンを開ける。朝日に照らされ煌めく宝石。しばし色の変化を楽しんだ。
 それから着替える為、一旦真っ裸に。首に飾られたネックレス、胸元のタグ。毎朝起こす男と同じ。
 服を着て、バッグを持って洗面所へ。その後キッチンで朝食と弁当を準備して、家の主を起こしに行った。戸を静かに開ける。
 大の男は仰向けですーすー眠って完全無防備。たまに横向きで寝たりしないのだろうか。まあ、夜中には寝返りのひとつも打ってはいるだろう。
 じきそばに座って、穏やかな音を聞く。顔色は戻った、悪くない。
 身を屈ませて、くちびるへ。舌で。
 傷に。のどぼとけにも。もう一度くちびるへ。
 何度かそうして。
「起きて下さーい、朝ですよー」
 ふとんの上から体をゆり動かす。
「ん……ン」
 まだ寝ていたいよう、そんな感じ。だから小声で、
「……ただひろ?」
 途端がばあと起きる上半身裸の家の主。寝ぼけ眼も一瞬だけ、惚れた女を確認出来ると第一声、
「さぁや……!」
 ガラス玉の瞳で縋り甘えるその姿。一体どれだけ、永遠に喪って来たのだろう。
 今朝は清子は立ち上がらず、背を向けなかった。
「おはよう、さぁや。好きだよ。髪型を変えた? よく似合う。綺麗だ」
 首の鎖が鎖骨で浮いて。隆々の胸筋、盛り上がった僧帽筋、ごつごつとした腹筋。がっちりとした広い肩幅、ぎゅっと引き締まった腰回り、血管の浮く盛り上がった力こぶ。
 それらの全てに刻まれる、生々しい傷痕の数々。
「眠れましたか」
「うん。とてもぐっすり。さぁやがいてくれれば、ずっと……」
 朝から嬉々満面だ。
 清子がいつものように、背を向けなかったからだろう。ぐっと迫って直近で、くちびるが触れるか触れないかの所で、
「好きだよ、好きだ、好きだよ……」
 必然的にふとんがめくれる。つい目が行ってしまったが、そこにはぱんつとは違う、なにやら見てはいけないブツが……
 そこで清子はすっくと立って、
「ご飯、出来ています」
 キッチンへ行ってみそ汁を盛っていると、重い足取りがした。ソファに座った模様。
 朝食全部を並べて、清子もソファに座る。一緒に声を合わせていただきます。忠弘はガツガツ、清子はゆっくり食べる。今日のお出汁も悪くない。
 そろそろと思った丁度の頃、忠弘の二つのどんぶりが空けられたので、立ち上がってお代わりを盛る。今朝は清子も二杯目を食べた。
 そういえば、おでんを作れ、だったな。
 おでんは清子も好きである、よくコンビニのを買った。母にたまに手伝わされて、一応知ってはいるものの、作るのは久しぶり。さて上手く行くか。大根、卵、こんにゃくはかなり買わなくてはならない。後は面倒、いつもの手抜きで出来合いのを買おう。そう胃にたまるものではないから、どれだけでかい土鍋を買っても目の前の、この大食漢を満足させられるだろうか。自分だけだとおでんで充分だが、そうはいくまい。朝のうちに米を研いでおくか。
 慣れなかった当初と違い、手順も飲み込め、仕事の要領でさっさぱっぱと家事をこなす。所要時間をかなり短縮出来た。余裕を持って米研ぎを終了。テーブルを拭いてコーヒーを淹れる。
 二人、同時にカップを傾けた。
「美味しい……」
 水しか沸かせないという男の呟きこそ、素直に評価として受け取った。
 自分で作る手抜き料理を美味いと思ったことはない。とにかく食べられればよかった。だがこうして毎度滂沱で食べて貰えると気分も悪くない。
 コーヒーについては別だ。父にどう言われようと、高校を卒業する頃には、自分の味は結構なものだと思えるようになった。でも、振る舞う先は家族しかいなかった。会社ではまさか豆からなんて淹れない。他人に出すなど考えてもいなかった。
「もう一杯いいか」
 二杯目を所望するこの男。営業なのだから、毎日何人もの人と会って、その先々で出される飲み物を残さず飲んで来ただろう。今日はたくさん飲んだからもういいよ、と言う営業マンもいるが、それはベテランの話。忠弘はまだまだ入社二年目、そんな言葉を言いはすまい。飲ませてはいるが、今日だって、何杯も飲むことになるだろうに。
 だから、熱が冷めるまで。
 飲みおえて、コーヒーカップを洗って磨き上げて定位置に戻した清子は、お弁当はここです、行って来ますと言い残して出社した。
 忠弘に言わせれば、途端家の雰囲気がガラリと変わる。独り残されるこの瞬間。
 調理用の荷物は増えた。だがそれだけ、寝室と仕事部屋のデスクセット、多少増えた荷物部屋の、置かれたままの段ボールを除けば、家族用のこの家は、惚れた女を連れ込む以前とさして変わらない。
 何故なら、洗面所に行っても、自分が使った以外の形跡が見当たらないからだ。風呂場にさえ。
 友達を遊びに招いたことはあっても、女など連れ込んだことはない忠弘。家庭を覚えていない忠弘。それでも、歯磨きセットすら洗面所にないことが、どういう意味かもう分かっている。つい押し入ってしまった寝室の、あの整理整頓のされ方。物置部屋の、開けられていない段ボール。
 でも、と思う。出て行くとは言われなかった。言って来ますと、来るとちゃんと言ってくれた。
 三日間も逢えず声も聞けずで想いがつのり、気が付けば清子を犯していた。性急な男が嫌いなのは女性なら当然、そのくらいは知っていたのに、つい力で迫ってしまった。そんな男を嫌うのは当然、それだけはやりたくなかったのに。
 それでも、ネックレスはしてくれたまま。指輪もそのまま、いつも丁寧に扱ってくれて。なにより朝、起こしてくれた。
 だからきっとこの家に帰ってくれる。ご飯を作ってくれる。
 よかったと思う。だが同時に、つい指一本触れないと言ってしまった自分の言葉を守れるか、全く自信がなかった。ああいう経緯とはいえ清子の味を知ってしまった。味わってしまった。元々惚れた女と一つ屋根の下にいるのだ、手を出さない男がどこにいる。一緒にいられて幸せと思ったが、同時にまさか、手を出せなくて辛いと思うとは。そばにいてくれるのが辛いなんて。
 耳にありありと残る清子の喘ぎ声。手に、指に舌にありありと残る清子の感触。清子の味。
 落としたい。襲いたい。想いを遂げたい。
 今日は金曜日、明日からは二連休。密室で二人っきり。
 触れない自信は、どこにもなかった。