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 翌朝、時間通りのアラームで目覚めた清子は、枕元の眼鏡を掛け、遮光カーテンを開けた。
 いい日差しだった。まだまだ残暑、でも確実に秋。白のレース越しの風景は、昨日と同じ、でも鮮明。
 洗面道具の入ったバッグを持って洗面所へ。鏡に映る、よく見える自身を確認すると、なんとなく、髪を後ろでしばるのは止めた。なんとなく。別におろしてもいいだろうと思って。ちょっと切りたいかな。そういえば美容院へ行きたい。よく髪を梳く。
 歯を磨き顔を洗い、化粧をして、朝食の支度を。それから空き部屋へ。
 家の主は昨日と同じで、仰向けにすーすー眠って、まるで無防備。今日のペンダントトップ、タグは昨日の反対方向、右側にこぼれている。随分古い、使い込まれた代物のようなので、文字がどう彫られているかは前の眼鏡では分からなかった。今日は打刻面が上に来ていたので、読んでみる。
 TADAHIRO YAMAMOTO
 BLOOD TYPE B
 NOV 14, 19XX M
 血液型はB型らしい。
 よく眠れているようだ。連れ込まれた当初と違い、顔色は悪くない。
 しばし穏やかな音を聞いた。
 それから、唇に。傷にも。ひとこと呟いて。
「起きて下さーい、朝ですよー。……ただひろ?」
 家の主ががばあと起きるのと同時に立ち上がって背を向けた。
「ああ……さぁや……」
 まるで、永久に喪ったと憶っていたものを手に入れられたかのように。
「よく眠れましたか?」
「実は眠る時と起きた時、体が沸騰したようだが、中間は根性で寝た」
 朝からなにを寝ぼけているか。
「おはようさや。おろした髪も素敵だ。よく似合う。好きだよ」
「そーですか。ご飯、出来ています」
 部屋を出て、キッチンへ。マンネリな朝食を出す。昨日との相違点、単に納豆を三個付けただけ。
 ご飯もみそ汁も量は増やさないことにした。せっかくあんなにいいガタイなのだから、自分が家政婦をした途端に太っただの、贅肉が付いただの言われたくない。
「いつも美味しいよ、さや」
「そーですか」
「今日はなんとしても定時に帰るから。一緒に」
「引っ越し止めようかなー」
 漬け物を買おうか。やはりキャベツの浅漬けが。いやいやそれだとサラダとかぶる。ここはキュウリの浅漬けか。
「……大の女が男を脅さないでくれ。二言なんてずるいぞ」
「一緒に出社帰宅は駄目です」
「……いつかしよう」
「はいはい」
 大量とはいえ中身はほぼ同じで三日目ともなると手順に慣れ、調理時間は結構短くなった。八時をちょっと過ぎても余裕で間に合うのだから、コーヒーをゆっくり淹れられる。
 ごちそうさまの合唱の後、食器を全部片付けた。テーブルをもう一度拭く。
 夕べのうちにガラスの密封ケースに入れておいたコーヒー豆。それでもにおいは漏れている。甘いかおり。
 ストレートコーヒーのにがみを甘いと感じたのは何歳の頃だっただろう。コーヒーとはこういうものだとばかり思っていた。後から缶コーヒーやインスタントの存在を知った。どれも一度だけ。給食で出たコーヒー牛乳以外、二度と口にしなかった。
 電動ミルで挽く。この豆ならこの粗さ、間違いない。父に叩き込まれた。この流麗なカップに相応しく淹れよう。
 熱が冷めるまで、淹れて上げるから。
「どうぞ」
「いいにおいだ」
 ソファに深く体を預け。二人、一緒にカップを傾けた。
「……美味しい……」
 この熱さ、この味。お湯を注いだ時のあの膨らみ。実にいい豆だ。淹れがいがあった。
 清子はぽつりと呟いた。自覚せず、穏やかな表情で。
「ありがとう、こんないい豆とカップを揃えてくれて。……が……まで、淹れるから」
「小声のところが聞きたい」
「ずっと淹れるから」
「朝から挿れてとは……今日は会社を休もう。夜は眠るが、朝から致そう。さやの全部に俺をたくさん挿れる」
 無視してゆっくり飲んで、湯気までも堪能して、ひと息つく。外の景色を見た。
 それからカップを洗う。よく拭いて、磨き上げるように。大切に使おう。これだけは、熱が冷めたら貰おうっと。
 八時過ぎにマンションを出てバスに乗る。座れはしないが満員でもない。つり革に掴まりながら外を見た。とにかく見たかった、昨日と同じなのに鮮明な風景を。
 出社し、着替えて、自席について社員と定刻を待つ。
「……あれ? えー!? センパイっスかあ!?」
 渡辺だ。なにを言っているのか。
「私よ、他の誰よ」
「って、眼鏡変えたんスか! 髪もおろして……別人! 美人スねえ意外と!」
「意外ねえ。はいはい私はブスで御座います」
「いや、美人っス。ね、そう思うでしょ課長!」
 総務課長のオヤジを捕まえてこのセリフ。フロアの遠い向こうでは、忠弘が耳をぴくぴくさせてこの会話を聞いていた。
「いやあ……加納君、意外だねえ……や、美人だよ。ああこれはセクハラになるのかな?」
「意外もセクハラも余計です、なにもしちゃいませんよ」
 しかし清子は、本日中に結構な人数に異口同音で言われた。清子とて普通の二十三歳、イヴ前の女である、そう言われれば機嫌も悪くない。合コンに行ったら今度は成功するかな?
 昼、いい気分で社食に行くと、携帯電話が震えた。相手は忠弘、メールの内容は、
“さやは美人だが俺だけの美人だ。俺は嫉妬深い、これ以上の浮気はさやでも許さない”
 だと。
“ちゃんと仕事をして下さい、ただひろ”
 とひらがなで返した。するとすぐに、
“沸騰した、今すぐ早退だ、家に帰っていっぱい致そう”
 なるメールが来たが無視した。
 午後、楽しく仕事する渡辺からまたしても情報が。曰く、誰かさんがまた営業成績トップだと。結婚間近で相当来合いが入ったんじゃないスか、今までで一番のダントツだそうっスよー、とのこと。清子はつい、大食らいの馬の眼前にぶら下がるにんじんを想像した。今度カレーを作る時はにんじんカレーにしてやるか、肉抜きで。
 五時となって、着替えて帰宅。マンション前のバス停でおりた時携帯電話が鳴った。
「さや。メールの返事は?」
「ということは、社外ですか」
「うん、今ビルを出た。さや、どこにいる?」
「……家の前のバス亭におりました。あのスーパーに向かって」
「まさか荷物を両手に抱える気? 重いよ、俺が持つ。一緒に行こう、家の中で待ってて」
「荷物なら、そちらさんの帰りが遅い時にいつも持っていますが」
「済まない、気付かなかった。必ず荷物持ちをするから言って」
 ほとんど毎日買う必要があるのだ、言っていられるか。あのスーパーは会社から歩いて来られる距離にはないが、まかり間違って誰かに二人仲良く食材購入中などを見られたらアウトだ。なるべくというか、出来る限り一人で買おう。
 化粧を落として、仕方なくリビングで待つ。ほどなく玄関が開いた。
「さや!」
 はいはい。
 家の主がご帰宅だ。重い足取りと共にリビングに現れた忠弘は、返事をしない清子の姿を見つけられると嬉々満面。そろそろ気付くが内面、深層心理の所々が五歳で止まっている。その欠片がちらほら表面化して来ている。誰だって五歳など赤ん坊を抜けただけ。そこで心の成長を突然止められて。両親の死を理解出来る歳でもないのに。さぁや、なんて呼び方もそうだが、うん今ビルを出たと来たもんだ。あんなにガタイが良く、大嫌いと言い放つ清子が見ても完成された大人の男性なのに言い方が幼稚園児だ。さすがに母性本能をくすぐられた。
 ビジネス鞄を空き部屋に置いた忠弘は、さあ行こうとまたも嬉しそうに。二人で玄関を出た。
 忠弘は清子の手首を掴むどころか手を握ってるんるん歩きたいという雰囲気満々。振り切って走って逃げるのも疲れるので、仕方なく隣に並ばせて歩いた。
 スーパーに到着。さて今晩はなににするか。手抜き料理しか出来ない清子はたまに出来合いの総菜に頼って調理をしない。ただし高く付くので、仕方なく自炊をして来ただけ。総菜売り場に寄ってメニューを思いつくか……そうだなあ……
「スパゲティなんてどうです」
 清子の作るスパゲティなど、乾燥パスタを茹ではするがレトルトソースを温めてぶっかけるだけというキングオブ手抜き。忠弘でも出来そうだ。くすぐられた割にこれを出すというのだからなんと清子は向こう見ず。
「とても美味しそうだ。山と盛ってくれ」
 店屋物とやらには、たとえばウニのスパゲティだのレアで高級なのもあっただろうに。残念ながら今から出すのはレトルトだ。まずいと言ったら明日の引っ越しはなしである、さっさと帰ろう。
 茹でる用にでっかい深鍋も買っておいて正解だった。いい品なのでどうぞ本物の彼女さんがお使い下さい、ってなもんよ。百円均一ショップの、二・三人前のレトルトソースを四つも買ってやった。清子は1.5人前を食べたのが最高記録だ。それ以上なんてまず間違いなく飽きる。
 マンションへ二人で帰って、さて茹でようかと思ったら。
「さや、ご飯の前に宝飾店へ行くぞ。やはり車は必要だ、明日は引っ越しだが明後日ディーラーへ行こう」
 札束二つにカップ代、指輪代、引っ越し代、車代……まさか全部ローンとか? いやその前に、人生で一番の買い物と言われる家、この家族用マンションは? 清子などひとつだけでも充分散財・破産だ。そう手取りは変わらない筈なのに。
 とはいえ心配してやるなどツケ上がる。確か女は金をくれ、高い物を買えというだけの存在で、と言っていた。だったら自分もその内の一人だと思って貰おう。なんだこういう手があるじゃないか、これでさっさと熱を冷まして貰おう。
 そんな腹づもりで一見従順にタクシーに乗る清子の心理を、忠弘に分かるわけがない。心に、婚約指輪を嬉しそうに填めて月曜朝出社し、周囲に
“婚約者が出来たの、相手は忠弘なの”
 と、ほほを染めて語る清子のさまをありありと浮かべて。
 宝飾店へ到着。忠弘は、父が店長をしているという友達とグータッチを交わす。
「俺の大事な女の婚約指輪だ、一番いいのを揃えてくれ」
「いいのしかねえよ」
 清子は宝飾店になど来たことがない。隣にゃちょっと夫と豪語するだけの他人がいると割り切って、純粋に好奇心で店内の品を見てみた。
 高い……眼鏡のフレームと値段が桁二つ違う。ここは来るだけだな、見るだけだな、いや、購入の意思ありと思われても困る、自分一人じゃ絶対入らない。
「さや、これなんかどうかな」
 忠弘に言われて見に行くと、ジュエリートレイに華奢で綺麗な指輪が二十個程美しく並べられていた。値札はなし。んなもん見たら選びはしない。
「うーん……」
 指輪などしたことがないので、これまた純粋にただ見てみた。なにせ普通のもうすぐイヴな女。純粋にアクセサリーには興味がある。高いから欲しがらなかっただけ。
 よく見える眼鏡でじっくり見ると、これはと思うものが一つあった。他は無色透明なのに、その石の色だけ一見淡いブルー、でも角度を変えるとエメラルドグリーン。清子だってダイヤモンド、ルビーの類いの色くらいは知っている。エメラルドだって。でもこれは主色が青という不思議なもの。
「……これ」
 初めて見るそれに、これが婚約を意味するものとか忠弘の下心とかをさっぱり忘れて選んでしまった。
「分かった。さや、左手を出して」
 興味があったから選んだ。だから填めてみたいと思うのは当然。左手をそっと取られ、指に目掛けられるなど初めて。清子は純粋に好奇心で、重要な儀式を行う忠弘のさまをただ眺めた。
「ぴったりだ……!」
 忠弘の、思わず出た感嘆符には、いかな清子でも同感だった。指輪をしたことのない清子だから分からないが、普通は採寸が先、いきなり填めようとしてもまず合わない、サイズ直しが必要。それが一度でぴったり、まず有り得ない。プロである忠弘の友達は、この指輪は忠弘の女こそを待っていたんだなと思った。
 あまりのしっくりさに、ありがとうという言葉も出ない清子。ただ単純に、好奇心でそれを見る。色々な角度で眺めた。より鮮明に、色が美しく変化する。ただ感心した。そう、気に入った。
 清子の様子に満足する忠弘。本当は、どう気に入った? 外さないで、などを言うつもりだった。だがこれは口に出すのはヤボだ。指輪を選ぶのも填めさせるのも初めての忠弘は、そう的確に判断する。
 清子は、自分がタクシーに乗せられたということすら分からないほど指輪を飽くことなく眺めた。なんだか薬指がくすぐったかった。プラチナの輪が華奢で。石の色が綺麗に、不確かに変化して。
 昨日から、視界が変わった。それは前見た風景と比べてだった。ガラスを通してものを見ているからかもしれない、光り物こそよく見えた。でも、この輝きは別格だった。とても満足した。とても安心した。何故だかなんて分からなかった、何故だろうなんて思いもしなかった。さらには、誰かに見て貰いたいとまで思った。
「さや、着いたよ。降りよう」
 そう忠弘に促されても指輪を見続ける清子。タクシーの外は暗く、家の中に入るまで指輪が見られない。清子は仕方なくエントランスを歩いた。
 家に入り、キッチンにさっき買った食材の入った袋が置いてあったのを見て、やっと地に足がついた清子。現実に戻って調理を開始。まずはでかい深鍋にたっぷり水を。
 鍋の取っ手を持つ時、左手の薬指が目に入る。しっくり来るそれ。コンロに乗せて湯を沸かす間、ずっと見ていた。
 忠弘は、そう時間が掛からず夕ご飯が出来ると聞いて、パジャマに着替えてリビングでソファに座りながら待っていた。清子のその後ろ姿。ずっと指輪を眺めてくれている。充分満足した。営業トークで填めて貰うとは言ったが、大嫌いと豪語する清子のこと、いやだ填めない捨ててやる、と言われる可能性もあったのだ。それがすんなり選んで填めてくれて、あんな風に見てくれて。これは間違いなく、会社でも填め続けてくれる。気分はとっくに新婚だ。
 清子は手抜き料理中、指輪がとにかく気になった。これを水に浸けても大丈夫だろうか。さびないかな。でもプラチナってさびは浮かないような……
「これ、さびたりしない?」
 振り向いて忠弘に言う清子。指輪の心配をしている、これは絶対に外さない。そう想えて忠弘は大満足した。買ったかいがあった、贈ったかいがあった。男心はたっぷり充たされた。
「さびたりしないよ。大丈夫」
 それだけ言った。高いからだとか、俺の友達の店のものだからだとか、填めてくれてありがとうだとか余計なことは一切言わず。それが功を奏した。
 大きい皿三つに大盛りで持って行った清子。フォークと箸を添える。さてどちらで食べるか。
 忠弘は迷うことなく箸で食べた。その勢いたるやすさまじい。こんな外面の男なのだ、営業成績もいいと聞いた。この食べ方で口の周りを一切汚さないのだから、テーブルマナーも完璧だろうに。どんな高い店で、どんな高い女と食事を摂っても恥などかかないだろうに。また幼稚園児の表情の欠片を見てとった。
「ごちそうさま、さや。美味しかったよ。お風呂へ先に入って」
「これをしてお風呂に入っても大丈夫?」
「大丈夫だよ、さや」
「うん。先に入って。食器を洗うから」
「済まない、お願いする。じゃ先に入るよ」
 やはり忠弘には食器を拭くという発想がないらしい。なぜ皿が置いてあったのか不思議だ。これまでの経緯を聞くに、本当に、手料理を食べたことがないのだ。左手薬指のくすぐったさと共に言った。
「そのまま眠っていいから。明日は休みだし、ゆっくり眠って。遅めに起こすから」
 その気遣いが嬉しかった。いつもならありがとう嬉しいと滂沱するところを、言えばヤボだと的確に判断して。清子の堅苦しい言葉遣いも抜けていてもう大満足。幸せだ、鼻血と滂沱でぐっすりたっぷり遅くまで寝ようと思えた。入社してまだ二年目、一刻も早く自活せねばならず、心はとっくに妻を養っていた忠弘。朝にのんびり起きるなど五歳以来だ。それを言おうと思ったが、やはりヤボだ。
「うん、おやすみさや。好きだよ」
 万感の想いを込めて言った。
 清子は食器を洗っている間も指輪が気になった。大丈夫とは言われたが、あまり水に浸けたくない。しかし水を扱わねばならない。洗いおえると食器よりも先に指輪周辺を丁寧に拭く。それから明日の朝食の支度を。その都度拭いた。
 家の主が風呂場を出て空き部屋へ入って行くのを確認してから風呂場へ。シャワーを浴びる時も、湯船に浸かる時も指輪を気にした。ベッドの中でも気にした。自然に眠気が来て、それで眠った。清子こそぐっすり眠った。
 翌朝、アラームなしで自然に起きる。気分がよかった。眼鏡を掛け、ベッドを出て遮光カーテンを開けると、指に煌めく宝石が。そういえば、と思って存在を意識した。くすぐったかった。嬉しかった。自覚はしないが幸せだった。
 休日なので、パジャマのまま寝室を出て、洗顔・歯磨きをおえキッチンへ。朝食の支度を。油を扱う、これは出来れば指輪と接触させたくない。そう思いながら。
 リビングのテーブルに朝食を並べて、忠弘を起こしに行く。戸を静かに開けると家の主が無防備に寝ていた。くちびるを重ね、舌もつけて、ふとんからのぞく傷にも這わせ、ありがとうと別なもう一言も囁いてから起こした。
 パジャマ姿のままの二人、ゆっくり朝食を摂る。時間を気にせず。食後、丁寧にコーヒーを淹れて。
「さや、もう一杯いいか」
「うん」
 二杯目を望まれるなど、美味いと言われているということ。嬉しかった。父の、コーヒーに関する躾は本当に厳しくて、何度淹れてもまだまだだと言われて。
 着替えた二人がのんびり十時に家を出る。レンタカーで清子のアパートへ向かった。二階建てのそこでは、忠弘の友達という、日に焼けた男性が待っていた。忠弘とグータッチを交わして、
「よろしく頼む」
「オッケー、じゃこれ段ボールな。女性の部屋だろ、おれは入らない。詰めて貰ってくれ。玄関外に出してくれたらトラックに運ぶ」
 清子と忠弘は部屋の中に入った。事前に見られて困る最たる物はもう運び出している。
「さや。冷蔵庫、洗濯機、テレビ、デッキ、掃除機は要らないだろう、処分して貰うよ」
「え?」
 確かに、言われた五つは忠弘の物の方が高性能大容量、家に同じものは二つも要らない。
 しかし、忠弘に本物の彼女が見つかってあのマンションを出る際、またそれらを新たに揃えるなんて金が……
 と、清子が逡巡している間に、忠弘はとっくに友達に電話をして処分を頼んでいた。
 清子は金の算段をしながら段ボールに残りの荷物を詰める。
「この通り、机とパソコンがあるのですが、あのマンションに置けるでしょうか」
「仕事部屋にスペースがある」
「実はパソコンと言ってもゲームが主で、とても仕事用のマシンのそばに置けるものでは……」
「さやの隣で仕事が出来る。入社以来の夢が達成された。俺は幸せだ」
 これは困った、ゲームの音など出しっ放しにしていたがそうもいかない。イヤホンを探さなくては。
 それにしても、やはり休日であっても仕事をしていたようだ。いつ熱が冷めるかはともかく、休日は大人しくするかどこかに出掛けて邪魔はすまい。
 次のデカ物といったらふとんである。これまで処分されたら大変だ。一人分だし、なんとか処分を免れる。ささやかであるがまた買うなど大変な食器棚、たんす、これまた処分を逃れて。
 割れ物を一つ一つ新聞にくるもうとしたが、今はエコロジーな収納バッグがあるらしく、簡単に済んだ。
 室内をすっからかんにして、大学時代から住んでいた思い出のアパートを出る。とても名残惜しかった。こんな物件、もう探せない。なんで引っ越すと言ってしまったのやら……
 玄関外では忠弘の友達がきびきびと荷物を運んでいた。手際がよく、さいごの段ボールを玄関に運んだ時にはすでに、トラックに他の全てが積まれていた。友達はそのトラックを運転して忠弘のマンションへ。別便の清子達が大家の元へ。退去の手続きを。
 これで家賃電気ガス水道料が浮いたわけだが、あのマンションから出る際の敷金礼金引っ越し代、冷蔵庫代等々を考えると大赤字。そう蓄えのない清子。まさかあれだけ処分されてしまうとは思わなかった。確かに、清子のテレビは今時どこに売っているかの十四インチ。忠弘の家のは100インチスクリーン、音響にも凝っている。とても同列に並べるなど出来なかった。
 困ったなあ、本物の彼女さんが出来た時、すぱっと引っ越せないかも。これは絶対に、手切れ金を戴かなくては。
 金をくれという女が嫌いな忠弘が、見向きもしなくなった後の清子に金を出してくれるかどうか、はなはだ懐疑的である。ボーナスはとっくに出てとっくに散財だ、あーああ……
 がっくり来ている清子を尻目に、やっと引っ越してくれると大喜びの忠弘はレンタカーを運転する。こんなのに清子を乗せるのも今日でお仕舞い、明日は清子専用の助手席な車を買うのだ。既に三つほど候補を絞ってある、あとは清子に見せて選んで貰うだけ。
 マンションに着くと、忠弘の友達はすでに玄関前まで段ボール他を全て置きおえていた。にやっと笑って忠弘と二・三会話するとグータッチをして別れた模様。
 忠弘が荷物をせっせと家の中に運ぶ間、清子は失礼ながら物置部屋のたんす、クローゼットを開けてみた。適当に服だのが置かれていた。連れ込んで、住まわせる女のためにスペースを空けておくという発想は微塵も感じられない。いかに家庭という大事な根城を欠如させられ生きて来たかが分かる。
 清子のパイン材デスクセットを軽々と運ぶ忠弘。やっと清子がここに住んでくれる。これでもう、帰りますという脅し文句は無効になる。間違っても手切れ金など渡す気はない。
 前からぼんやり考えていたこと。清子には職場を辞めて、家を守って貰う。仕事に忠実な姿を見守っては来たが、嫉妬深くてあの渡辺君とやらとこれ以上楽しく話をして欲しくなかったし、職場結婚となるから女の方が居辛くなる。
 開け放たれた仕事部屋に、清子が顔をちょこんとのぞかせた。
「失礼します。途中だけどお昼なので、休憩しませんか」
「なるほど。さすが優しいな、さや」
 と言いつつご飯は作らせる忠弘。清子は疲れているからこんな時くらいは店屋物を取って上げようという発想もないらしい。
 二人で初めて一緒に遅めの昼食を摂る。清子は運んで貰った分の荷解きの前に、大量のサンドイッチを作っていた。
 忠弘が五歳以降、一度だけ出た運動会。周囲の、ありふれた家族がありふれて食べていたそれ。渇望して、どれだけ乾いた心で遠目に眺めただろう。どうして自分だけ親がいないのだろう。どうして誰も自分を養ってくれないのだろう。どうして誰もが自分を捨てるのだろう。
「いただきます」
 リビングで、二人で声を揃えた後、忠弘は静かに涙を流して食べた。
 サンドイッチを、そんなふうに食べる人間など初めて見る清子。
 大皿三つに山と盛った筈のものは、あっという間になくなった。
「美味しかった、さや。幸せだ。好きだよ」
 その言葉に、どれだけ真心がこもっているか。いかな清子でも分かった。
 午後の三時までで荷物整理、引っ越しは終了。汗をかいた清子はお風呂を借りますと言った。借りますじゃなくて入るよ忠弘、挿れて忠弘と言ってさや、と言う忠弘の寝言を無視して湯船に浸かる。指輪を眺めた。
 夕ご飯はハンバーグだと言うと、子供そのものの表情でたくさん頼むと言う忠弘に、母性本能はくすぐられっぱなし。いつもなら出来合いのものを温めるだけだが、久々にひき肉とパン粉等々を練って作って上げた。
「これも調理実習で作るところがあるかと思いますが」
 余ってもいいからと十枚焼いて皿にてんこもりして持って行くと、またも忠弘は静かに泣いた。
 毎度大の男に泣かれて食事されるというのも……
 翌朝、ゆっくりのんびり起きて起こして遅めのマンネリ朝食を摂り、ゆっくりコーヒーを二杯飲んでからタクシーでディーラーへと出発。
「車というと、どんなものなんでしょう」
「俺の好みで、まず音響がいいもの。次に、さやが安心して眠れるゆったりシートのもの。これを基準に三つほど候補を絞っている。あとはさやの直感で選んで」
「え、私がですか?」
「そう、さやとドライブしたい。さやの夫は運転が下手じゃない、安心してさや専用の助手席に座って」
 お昼をどうしよう。お好み焼きを準備しているのだが。
 それを言うと、分かった昼は家に戻る、午後にドライブしようとのこと。
 十一時に、忠弘の友達の車屋に到着。ビル一階の総ガラス張りの中に新車展示品が並べられている。忠弘は清子を連れて二階へ行くエレベーターへ向かった。
 車に興味のない清子は鎮座する新車を指輪のようには見て回らない。勝手が分からないので、とにかく忠弘の後ろをついて行った。
 二階に上がると、これまた総ガラス張りのフロア。そこに、三台の車が並んでいた。清子は気付かないが、全てナンバープレートが付けられている。つまり、全台購入済み。
 忠弘は友達とグータッチを交わすと、清子に振り向く。
「どうかな、さや。なんとなくでいい、選んで」
 清子の目には三つの車がこう見えた。一台目はシートが二つ。二台目はシートが四つ。三台目は一番でかい。
 その実態は一台目・オープンカーのクーペ、後部座席は一応ある。二台目、四ドアセダン。三台目、1BOXカー。
「ええっと……」
 清子は困った、さっぱり興味がない。なんらピンと来ない。これが、値段を提示されていたら迷いなく一番安いものをと言うのだが。
「一台目は上をぱかっと開けられる。これで走ると気分がいい。二台目は乗る人の快適性を追及した車だ。三台目は大人がゆったりと乗れる工夫がされている。どうかな」
 そう言われてみれば、二台目は実家にある中古のやつと、なんとなく型が似ているような。三台目はヤボったく見える。
 これで走ると気分がいい……
「これ」
「分かった。これを頼む」
 忠弘の友達は意を得たとばかりに、
「毎度。ちょっと待ってろ、一階へおろす」
 応接のチェアに座って出されたお茶を飲む。忠弘の友達は、シートカバーを自分で外さなくていいのかとか訊いていたようだ。
「それにしても、さすが営業職ですね。いろんな人脈をお持ちで」
 眼鏡屋宝飾店引っ越し屋車屋、この調子で行くともっとありそう。
「皆、悪ノリが得意ないいやつらばかりだ」
 ロクに友達もいない清子。ふうん、いいなあと単純に思った。
 清子は実家のある鎌倉を高卒で出て、単身区内の大学へ進学した。制服を脱ぎ、せっかく受かって大学生になったのだから、一人暮らしを始めるのだからと、服や髪や化粧など、それなりに気を遣った。二人の男に振られるまでは。あれから在学中化粧をしたのは就職試験の面接の時だけだった。
 正午にクーペが稼働可能と伝えられる。一階におりて、さっそく乗車。忠弘は助手席のドアを開けて上げ、乗ってさやと言った。
 運転席に乗った忠弘が前面ガラスの真ん中上にあるボタンを押す。天井が開いた。思わず口を開けてそれを見た。
 清子でも、車内の新品のにおいが分かった。パールホワイトの車体に、内装はオフホワイトがベース。本革のシートに身を沈めると、深く守られているような気さえした。レッグレストが付いていて楽ちんだ。
「シートを倒して。眠っていいよ、さや」
 静かに車を発進させる忠弘。控えめに流されるラジオの音が心地よくて、流れる風が気持ち良くて、清子はうとうとした。
 マンションの指定駐車場に車を停めた忠弘は、こっくりこっくりいっている未来の妻を起こすのはしのびなかった。しかし起きてご飯を作って貰わねば。自分は毎朝あんなふうに起こされているが、それを清子にやっていいものやら。この週末は特に雰囲気がいい。しかし、口に出したら大嫌いと言われるだろう、女心は秋の空だ。特に清子は忠弘の掛けた全てのモーションを無視して突然大嫌いと奈落の底に突き落とす度胸の持ち主。言葉に気を付けろとも言われている。余計な一言が命取り。すなわち声を掛けられない。
 考えた忠弘は、大学時代観た映画のワンシーンを思い出した。そう、確かあれは……
 清子が目を覚ましたのは、家の廊下でだった。まぶたを開けると、こんな状況だった。すぐのところに忠弘の逞しい胸板。背中と膝の下に体温を感じる。
「なにを……しているのでしょう」
「起きた? さや。家に着いたよ」
「質問に答えましょう」
「車に乗せたらすぐ眠ったようだから、起こすにしのびなくてさやを運んでいる」
 えー。要するに。
 お姫様抱っこというやつでは……
「お。お。おろして下さい。歩けます」
「キッチンまで運ぶ」
 荷物じゃないんですが。
 キッチンに着くと、清子は自分から忠弘の手をおりた。忠弘は見よう見まねでやっているので、これが清子にとって気持ちのいいものかどうか分からない。おろし方も知らなかった。
 さっそくお好み焼きを。キャベツ、タマネギ、ねぎをみじん切りに。よくタマネギは切ると涙が出ると言われているが、それは切れない包丁でへたくそに切っているから。切れる包丁で上手く切れば涙は出ない。出来るだけ細かく。なんにせよ大量である。
 加納家に伝わる、と言うと大げさだが、表面のテフロンコートがはげてしまうまで使用したホットプレートを取り出す。これがお好み焼きには一番相応しい。焼き方が重要なのだ。
 清子はからしが嫌いなので、マヨネーズには混ぜない。焼き上げ、ソースとかつお節で仕上げる。
 香ばしいにおいが目の前で展開される。忠弘はよだれを垂らす勢いで出されるのを待った。
「召し上がれ」
「いただきます! 美味そうだ」
 清子はちょっと食べながら、次の一枚を焼いて行く。性質上、次々とは出せない。ぺろりと平らげた忠弘に、一枚一枚焼き上がるのを待って貰って。
 キャベツを死ぬほど切りまくっても、案の定お好み焼きベースはすぐになくなった。野菜を食べさせようとして焼いた。満足戴頂けたようだ。
「美味しかった。ごちそうさま、さや。好きだよ。さあドライブに行くぞ」
 夕ご飯は酢豚にしよう。清子はパイナップルを入れない派。
「私はなにをすればいいんでしょう」
 せっかくの休日なので、ご飯を作る以外疲れることはしたくない。
「さや専用の助手席に座って、眠ってもよし。景色を見るもよし。どこか行きたい所はある?」
「あまりゴミゴミとした所は嫌です。あと、夕ご飯前に戻して下さい」
「了解した。安心して乗って」
 忠弘の運転は本当に上手かった。たまに、いかに高スピードでカーブを曲がれるかが上手い証拠、と思っている輩もいるらしいがこんな島国じゃ単に迷惑。ブレーキの時も、スピードアップの時も、カーブを切る時もそれを一切感じさせないなめらかな運転が本当の上手いドラテクなのだ。そんなこととはつゆ知らぬ清子。シートが体に合っていて、ふくらはぎも楽ちんで。なにもやることを要求されていない。自然、うとうとし出す。
 助手席に乗る者に眠られるなんて、長距離を運転する者にとっては頭に来るという輩もいる。しかし忠弘はそうではなかった。いかに清子が自分に心を開いているかの証拠だと思った。無防備な姿をさらけ出してくれて。
 必ず好きと、面と向かって言わせてみせる。段々自信がついて来た。きっともう、奈落の底には突き落とされない。幸せ一杯でドライブした。
 帰宅後、よく眠れた清子は八人分の酢豚を気合いで作るとテーブルにドンと出して召し上がれと言った。滂沱の勢いでかっ込む忠弘。気分はなんとなく五歳児の母だ。
 夜の七時には食事をおえ、風呂に入って八時。イヴ前の大人である、まだまだ眠る時間ではない。
 清子は、いつもならずっとして来たゲームをやりたいと思ってそう言った。興が乗れば午前様までするのだ。
「分かった。俺は仕事をしよう」
 仕事する隣で遊ぶというのも、どうも……
 仕方なく、イヤホンを繋いでゲームを開始。なんだかんだ言ってすぐにいつもの空間にのめり込む清子。
 それを見た忠弘は、ゲームとはいえその集中力に感心した。忠弘はゲームをやりたいとは思わないので、その心理が分からなくてこう思った。
 忠弘は仕事を。資料作成に没頭する。二人共それぞれに集中した。
 夜の十一時となって、清子のためにと思って仕事を切り上げる忠弘。隣を見るとまさに熱中。だが明日は会社だ、眠って貰いたい。まさかオンラインゲームとはのめり込めば何徹もするものだとは分からず。
「さや。そろそろ眠った方が」
 しかし清子はイヤホンをしている。画面に集中しているのだ、こんな優しい甘えた声など聞こえない。そんな様子の清子に、どう言葉を掛けていいのか分からない。
 ほっぺにキスをしてみようか。無防備そのもの、すべすべで……
 吸い寄せられるように、くちびるを近付ける。途端に、
「っぎゃーーー!! やられたーーーー!!」
 色気も素っ気もない大声が。さすがの忠弘も耳に来た。奮闘の末ラスボスに負けたらしい、悔しさ満点でイヤホンを外してぶん投げる清子。その様子、ロマンティックな雰囲気もぶち壊しである。
「さ……さや、そろそろ時間だよ。眠った方が」
「え? もうそんな時間ですか」
 時間時間と、携帯電話を探す清子。
「さや。腕時計はしないのか」
「携帯電話があれば充分でしょう」
 確かに、そういう者が多くなった。
「贈って上げる」
「いいえ、もう充分に頂きました。あ、そういえばどう感謝すれば……」
 ちょっと前ならこう言われれば期待したが……
 正直、もう充分に返して貰った。それに、なんだかそういうのは他人行儀な気がして。
「いいよ、さや。眠ろう、明日は仕事だ」
「はぁー、また一週間の始まりか……」
 家族以外の異性と同居などしたことのない二人の、これが初めての週末だった。