3

 翌朝、時間通りにアラームが鳴った。目覚めた清子は、もう昨日のように慌てたりしなかった。枕元の眼鏡を取って室内を確認、紛れもなく違う空間。遮光カーテンを開けるといつもと違う景色、朝日の差し方。はいはいここは我が家ではありませんよ、と。
 これから出勤だ、しっかりしなければ。ふとんを直した。
 夕べは、荷物計五個を寝室に置いて貰った。その時、入ってもいいだろうかなどと言われた。使用痕は綺麗に消した、どうぞと言ってやった。もっとも、これから気が変わる短い期間中は、入って来られては困るが。
 夕べのうちに出して吊っておいた、今日の分の服を着る。昨日の余所行きとは比べ物にならないヤボな服。これで熱も冷めるだろう。
 それから、アパートでいつも使っている歯磨きセット、洗顔・化粧道具、くしなどが入ったバッグを持って洗面所へ。歯を磨ぎ、髪を結わえ、顔を洗って化粧。タオルで洗面ボウルをごしごし拭いて、バッグに元通り全部仕舞って寝室へ置く。いつでも帰れるように整理整頓、寝室を出た。
 身支度は整えたので、起こしに行こうと思った。
 朝食を作ってからでいいか。
 清子とてこんなこと、新婚っぽいと思わないでもないが、現在は緊急事態なのだ。その内通常に戻る、その時清子はここにいない。それでいい。
 わびしい朝食しか作れない。せいぜい大量なだけ。おととい買った安物の包丁は後でアパートに持って帰ろう。さっそく高級包丁を取り出して。昨日使ったら、切れ味にしびれた。これは確実に、トマトを綺麗に輪切り出来る。
 山本の食事事情だと、野菜をたくさん食べさせなければ。万端な体調で本物の彼女さんにバトンタッチして上げよう。しかし馬並みの食料である。皿は全部大盛り。自分が小食に見えた。
 みそ汁だけは盛らないで、他は全てテーブルに並べた。玄関すぐそばの六畳一間に行ってみる。そっと戸を開けた。
 家の主は、仰向けにすーすー眠っていた。手を入れているようには見えないのに整っている眉毛、濃い影を落とす睫毛。ひげがちょっと伸びている。少し赤っぽい、色っぽい唇がちょっと開いていた。総じて、無防備もいいところ。
 それはいいとして。やはりというか、あの男の生理現象ってやつには目を向けたくなかった。清子には弟がいるので、そういう関係上知っていることは知っている。完全に目が覚めれば次第に収まる、ということも。いずれ起こさなくてはならない。そっちは見ないようにした。
 掛けぶとんから素肌が覗く。パジャマを着ていない。まさか裸で寝てるんじゃないだろうな。首にあるのが、言っていたネックレスとやらか。首の横の方に行っている、ペンダントトップのようなものがタグとやら、らしい。認識票だ。軍隊や自衛隊などで支給されており、アクセサリーとして一般人が着ける場合もあると聞く。男がナマ肌にネックレス、ねえ……。
 それはともかく……これはなに? 肩口から見える、ふとんに隠された所まで続いているような、肌に刻まれた痛々しい痕。どうしてそんなのが一つだけじゃない? 待てよ、よく見れば大きくはないがこめかみにも……?
 山本は規則正しく呼吸していた。引いては返す、穏やかな波の音のよう。しばしそれを聞く。
 それから、吸い込まれるようにその唇に自分のを寄せた。
 一瞬ののち、山本の体をゆり起こした。
「起きて下さい、朝ですよー」
「……ん」
 気怠そうに。今日が平日じゃなかったら、いくら清子でも起こさなかった。そういう雰囲気。
「起きて下さい。えー。……ただひろ?」
 山本はがばぁと起きた。目をしばたかせ、今の状態がなんであるかを必死に理解しようとしている。
「え? あ? ……さぁや?」
 やはり上半身裸だった。視界に入れまいと思ったのも一瞬のこと、意識を釘付けにさせるその体。よく引き締まっていて、ほどよく焼けている。筋肉質でがっちりとした体格。正直、ドキリとする。
 なによりも目を引いたのは。
 傷痕だ。大小、全部深い、治っているかも分からない、それが体中……
 清子はすぐに立ち上がり、山本に背を向けた。
「朝ですよ。ご飯、出来ています」
 戸に手を掛けると、後ろから山本の声がした。
「待ってさや。今なんとなく、俺の名を呼んでくれたような気がした。気のせいか?」
「気のせいでしょう。夕べはよく眠れましたか?」
「とても、ぐっすり。やはりさやがいてくれないと。おはようさや。好きだよ」
 男の艶、たっぷりの声。
「上、着て来て下さいね」
 清子はさっさと六畳一間を後にした。キッチンでみそ汁を温めていると、重い足音がして山本が、パジャマ姿でダイニングにやって来た。無精髭はそのまま、髪は手ぐしを通した程度。全く素のまま、完全に無防備。
 テーブルに全部並べ、いただきますと合唱して。
 食べながら言った。
「ここからいつも、何時に出社していますか」
「最近は八時」
「羨ましい……」
 清子など、七時に出なくては間に合わない。朝の一時間がどれだけ貴重か。信じられなかった。
「そうか。やはり近い所にして正解だったな。さあ引っ越して」
 なんとなく、その気になってしまった。
 でも駄目だ。自分は一時の家政婦である。ここに引っ越した後で気が変わるのだから、すぐにここを出なくてはならなず、つまりはまた敷金礼金引っ越し代を出す必要がある。手切れ金をくれるというなら話は別だが。
「……それでも、いいですが」
「嬉しい、よかった。今引っ越し業者の友達に電話する、さっそく」
 パジャマを着る男がどこから出したか携帯電話を手にする。
「本物の彼女さんを見つけた際は手切れ金を下さい、ここを出る引っ越し資金がなくて」
「怒るぞ」
 携帯電話を置いた山本の表情はもう、仕事上の先輩のそれ、などではなかった。血も凍るような低い怒声で、ありありと怒りの表情で。
「確かに同情してくれとは言ったが、第一段階だ。性急は嫌いなのだろう、徐々に好きになってくれればいい。
 ……その言いようでは、まるで近々にまた鍵を捨てる気だな」
 男の凄みそのままの視線にも、清子は怯まなかった。山本に言われた通り、別に誰を敵に回したっていいのだ。堂々と言った。
「私はそちらさんの所有物ではありません、自由意志があります。眠れないと聞いて多少同情しただけです。私をどうしようと私の自由です。違いますか」
「……必ず好きと言わせてみせる」
 これはまた。随分自信たっぷりに睨みつけてくれる。さらりと言い返した。
「有り得ませんよ」
「だったら眠らない。永久に」
「だったら同情してもしょうがないですね。帰ります」
 よっこらせとソファから身を起こした。なにせこちらは準備万端だ。いつでもどうぞだ。
 するとすぐに山本はがばあと立ち上がり、まだ立ち上がれない清子のそばに即座に行き、両膝をつき、触れるか触れないかの直近にまで迫って、
「待って、そんなこと言わないで、ここにいて、帰らないで」
 途端態度が豹変し。懇願の声、縋る甘えた表情。清子の勝ちである。
 勝利した清子はひとまずソファに身を預け、淡々と言った。
「私は不滅の平社員なので、一足先に出社します。退社の時間は確実に違うでしょうから、勝手ながら夕ご飯は先に食べています。リクある際には食材の関係もあるので早めに」
「……よかった、機嫌を直してくれた……」
 またも滂沱の勢いである。山本の負けだ。
 しかし敗戦した男はそれをなんら引きずらず、テーブルの横に置いていた小さ目の紙袋を清子に差し出した。
「さや、使ってくれ。受け取って、今度こそ」
 なんのことやらと思って一応受け取り、中を見ると、一束の現金だった。夕べの、札を束ねたあの紙の封は切って使い、残りはちゃんと返したのに。まさか別な一束? いやまさか。しかし、そうでないと説明がつかない。社会人一年半で二百万円を貯めるって……(単純計算で毎月十万円以上の貯金が必要)
 とはいえ、朝の卵でさえ一回でパック半分を使ってしまう。魚など、六切れを一パックではまず売っていない。食材はほとんど毎日買わなくてはならない。さすがにこうだと、まさか自腹は切れない。いくらなんでもそこまでの義理はない。それに、どうせ少々使った時点で気が変わる。そしたらたっぷりな残金をそのまま返せばいい。そうだ、そうしよう。
 それで清子は金を受け取ることにした。家計簿でも付けるか。
 そんな腹積もりなど一切分からず、山本はまたも嬉々満面。まさか金を渡せたからといって自分を養っているつもりではあるまいな。この分では、また社内で余計なことをポロっと言われそうだ。釘を刺さなければ。
「言葉には気を付けて下さい。間違っても、私がこちらにお邪魔していることなど他言しないで下さい」
 でなければ即座にお帰りですよ、そちらさん。
 と思って言ったとはよく分かっている筈。山本は真摯に応えた。
「分かった、充分気を付ける。他に注意点があればいつでも言って欲しい、全部その通り……いや、出来ることはその通りにする」
 前半はキリリと言って、後半の言葉は沈みがち。
「その調子でいった方がいいでしょうねえ。よく出世出来たもんですよ。じゃ、片付けをしますので支度して下さい」
 いくらゆっくり出勤していいとはいえ、山本はパジャマ姿のままである。
「待って、片付けくらいはする」
「鍋の洗い方。包丁、まな板の洗い方。知っていますか」
 そもそもこの男、これらに触ったこと自体があるかどうかも怪しいもんだ。
「……済まない。お願いする」
 やはりと言うか。
「寝室以外の掃除とゴミ出しをお願いします。洗濯は自分の分はして下さい。いいですね」
「まるで新婚だ。嬉しくて言葉に出来ない」
 なにを言うか。夕べ山本に言われたのと同様、単に最低限のルールをこっちから言い渡したってだけである。
「朝食後にコーヒーを飲む習慣はありますか」
「そこまでやってくれるのか……なんて家庭的なんだろう」
 問いに直接答えないのは、賢いというよりズル賢い。政治家を筆頭として、立場の複雑なおエラいさんがよくやる。
 とはいえこの男の場合は、自分にとって嬉しいことばかりに頭が行っている、というだけだ。さすがにそれは分かったが。
「質問に答えましょう。ありますか」
「実はないが、習慣にしたい」
 インスタントコーヒーなら、水しか沸かせないと言い張るこの男でも出来そうだ。
「私は一人暮らしを始めて以来、あまり歩き回ったわけでもないので、気に入った豆を売っている喫茶店を見つけられないんです。その答えと多少聞いたそちらさんの事情では、そちらさんもお気に入りの喫茶店はなさそうですが」
「いや、営業職だから情報は収集出来る」
「だったら、都内一と豪語出来るほどの豆を買って来て下さい、マンデリンで。料理は手抜きしか出来ませんがコーヒーにはうるさいんです、父に躾けられました。仕入れて貰えれば豆から挽いて淹れます」
「すごい……まるで喫茶店のマスターだ」
 清子は缶コーヒーもインスタントコーヒーもキッパリ御免なので、会社ではもっぱら日本茶ばかり自分で淹れて飲んでいる。
「お金がないのと豆を見つけられないので、最近はほとんど淹れていませんがそれでよければ。あと、カップにもうるさいです。持ってはいますがそんなに品がよくないんです。指輪がどうとか言っていましたね。そんなのにお金を掛けるくらいならマイセンの超高級なものを買って下さい。飲む時最高に気分が違います」
 清子は、最初は父に、コーヒーを淹れることだけ教わった。子供の頃から家族四客分だけあった、あのマイセンにどれだけの価値があるかも分からなかった。父は四客を家族の為だけに使い、それ以外の来客・親戚などには絶対に使わなかった。
 清子が大学三年生の時、講義で隣同士になった女の子から話し掛けられた。出来たばかりの彼氏とやらが山岳部だという。よほど誰かに言いたかったのだろうノロケをしばし聞いてやり、きっと上手く行くよと励ましたら、その女の子が彼氏からとあるものを強奪して清子にプレゼントしてくれた。それは二重構造の厚手のチタンコップ。彼氏曰く登山道具で時価三万円。それは言い過ぎだろうと思いつつ、ありがたく受け取った。その後、その女の子とはいつものごとく続かなかった。
 後日、それを実家に持って帰ってコーヒーを淹れてみると、美味しかった。熱さがそのままで冷めないのだ。父は清子が飲んでいるところを見て、薄っぺらなステンレスのコップでコーヒーなど邪道だ、と言い張った。違う、チタンだ、いいから飲んでみたらと渡したら、あの父がうーんと唸った。
“こりゃホントに三万円するかもな”
 と、あの父に言わしめた。
 それから清子はカップの価値について興味を持った。最初にいつも使っているマイセンについて父に訊いたら、
“知らねーだろ、一客五十万円だぞ”
 チタンコップのことがなければ鼻にも掛けないこの言葉。だが本当かもしれない。そう思って、後で陶器についてデパートで催し物をすると聞いてそこに出掛けた。平然と百万円オーバーの品が並んであった。ただ見るだけではなく、係の人にあれこれ質問した。マイセンの仕入れなら都内某所に知る人ぞ知る店があるよ。そう言われて実際に行った。高くて買うどころではなくとも何度も通い、少しは目を肥やした。
「指輪の資金は絶対に崩さない。その上で、いくらでも高級なものを揃えてみせる」
 そういえば山本は、最低でも札を二束持っていて、さらには指輪の資金もプールしているらしい。両親がいないというのだから、親の金ではなかろうに。
「いくら肩書きが違っても所詮は同期、そう何万円も手取りは違わないくせに……お手並みを拝見します」
 山本の事情では、コーヒー豆にもカップにも全く縁がなさそうだ。これなら仮に揃えられたとしてもその時期はかなり後。とっくに熱も冷めた頃だ。これでよし。
「俺の質問にも答えて欲しい。指は何号だろうか」
 あらら、覚えていたか。
「指輪なんてしたことないです」
「今晩宝飾店へ行こう。豆は悪いがその後だ」
「豆とカップが先です。私が吟味してクリア出来たら、宝飾店とやらに行ってもいいですよ。ただしこの試験は合格率が極めて低いですが」
 そっちがいくら金を持っていようとこっちにはない。試験途中に熱も冷める、高そうな響きの宝飾店になど縁はない。アクセサリー自体には興味がないわけでもないが。
「その挑戦、受けて立とう。さすがさやだ。朝からしびれるな」
 ここの周辺事情を少々教えて貰う。出社の際は電車ではなくバスを使っている、朝は十分に一度出る、座れはしないがあまり混まないという。バスに乗るのか、久々だ。
 食事の後片付けを。空けられた皿、茶碗、箸その他を全部洗って拭き、元の位置に。夕ご飯の準備はしない。いつ“出て行って”と言われてもいいように。その為に携帯電話に登録させたのだ。
 完璧に使用痕を消し、出社時に使うバッグを持ってさっさと玄関を出た。マンション手前のバス停で待っているとほどなく来た。それに乗る。
 最寄りのバス停は電車の駅より会社に近かった。よって、八時に出ても余裕で到着。満員電車に乗らなくてもいい、ほとんど歩く必要のないこの味を覚えてしまったら後が辛い。でも、朝食の支度には今まで以上に時間が掛かるのだ、起きる時間は同じである。
 更衣室で制服に着替える。周囲には、休みはどうだったと訊かれた。当然の質問に、ゲームをしていましたとその通りに答える。そういえば山本のマンションにパソコンは持ち込めない、持ち込む気はない。場所がない。仕事部屋には足を踏み入れたくない。ゲームをしたいなあ。飯時と睡眠時にいりゃ満足するようだから、その他の時間になんとか……。
 机に座って時間が経つと、ぽつぽつ出社する社員達。渡辺には、休み明け早々気合いが入っていますねー、と言われた。ちょっとね、経験値を上げられたのと言っておいた。
 弁当は仕方なく作ってやった。ただし山本の分、一人前だけ。自分の分も、となるとおかずが同じで最悪バレる。
 昼となり、社食に行って食べていたら、周囲のこんな声が聞こえて来た。
“あの山本君、やっぱり木下さんと結婚するんですって”“聞いた聞いた、すっごいノロケていたって、社内で堂々と” “携帯電話に向かって投げキスをしていたって” “あれ、でも名前が違うとか……”“愛称だよ、愛称”
 清子はこの時点で、組んでいる渡辺が清子の名前を知らないわけがないこと、耳聡いのだから山本のあの携帯電話での会話を聞いていない筈がないこと、共に気付かなかった。ただ単に、よしよし思った通り誰も知らないな、としか思わなかった。
 食べおわると、それを待っていたかのように誰かに声を掛けられた。するとその女性は噂のその人。同期で美人聡明の、あの木下だった。あら珍しい。っていうか誰に用? ひょっとして私?
 木下は周囲にチラチラ曰くありげに見られていた。そんな彼女でも一応同期、そして目上。ぺこりと黙礼すると、
「あの……ちょっと、いいかしら」
 清子に用があるので間違いはないようだ。木下と会話など新人研修以来か。
「はいなんでしょう」
 すると木下は周囲は見渡さないものの、気配は感じているようで、スっと声を潜めてこんなことを言って来た。
「あなた確か、カノウサヤコさん、だったわよね」
 いやな予感。
「それがなにか」
 清子も自然小声で返す。
「いえあの……昨日、山本君が彼女の名前を、サーヤとか言っていたようだからまさか……」
 なんとまあ。まさか社内中が聞いたわけではあるまいな。
「ああ、その人の彼女って木下さんなんでしょう?」
「ええ!? 違うわよ」
 驚いてはいたが、それでも小声。周囲を察して。なんだか似ているな。
「だってお似合いですよ。美男美女、同期の誉れです」
 入社式で山本と木下が並んだのを見た時、既にそう思った。それ以降、新人研修以外この二人と話す機会はなかった。それで全然よかったのに。
「よく言われるけれど違うわ。なのに昨日、彼女の手弁当とか言っていた時、皆に疑われてしまって。私のフルネームは木下由美だと言っても誰も聞いてくれなくて……」
 嘘でもいいから“ユーミ”とでも言ってくれりゃ楽なものを。
「その調子で行くと、私にも問い合わせがありそうですね。ですが同文、迷惑です。私は多くにキヨコかセイコと思われている筈ですし、誤解されたくありません。木下さん、どうか同期のよしみで私がサヤコであることを他言しないでくれませんか」
「あら……そう、そうなら、ええ、そうするわ」
 さすが美人聡明、話せばすぐに分かってくれる。交渉も毎度こうだと楽なのに。
「ありがとうございます。ときに……」
 ここで清子は普通の声で会話することにした。注目されている人物と小声で会話なんて、さらに注目されるだけだから。周囲は、あの噂の美人がその他になんの用だ、と思っている。雰囲気で分かる。
「木下さん。あなたは家庭的で控えめですね?」
「ええ? なにかしらその質問」
 木下も普通の声で返して来た。さすが美人聡明、よく周りが見えている。
「だって、見るからに家庭的ですよ。料理、得意でしょう?」
「得意というか、親に教えられて、まあそれなりには……」
 それなりどころか実は木下、料理学校にも通っている。単に花嫁修業、などではなく、資格取得も考えている本格的なもの。
 とは、清子が知ることはなかった。
「見るからに控えめですねえ」
「そんなこと自分からは言わない、言えないものじゃなくて?」
「よく人に、そう言われませんか?」
「まあ、……それは確かに」
「さらには美人で頭脳明晰、お仕事もお出来。素晴らしいです。きっと将来いい伴侶に巡り会えますよ」
「まあ、褒めてくれてありがとう。他言しないわ、じゃ失礼するわね」
 そう言って木下は、颯爽と去って行った。同じ制服を着てもこうも違うか。
 さっきから携帯電話が震えている。見るとやっぱり山本から。何度も残っていた着信履歴は置いて、それでもメールを読んでやると、
“お弁当も美味しいよさや。好きだよ”
 だと。あーああ、完全にツケ上がっている。こりゃ熱が冷めるのは時間が掛かるか……それは困る。丁度いい女性を見つけたことだし、さっそく焚き付けよう。
 そういうメールを打とうと思ったら、携帯電話の時刻でもうお昼時間がおわりそうだと分かった。化粧室で歯を磨いてメイクを直し、自席に戻り、渡辺と楽しく仕事を再開する。緊張の連続だった社会人一年目と違って、多少余裕も出て来ている。そして、これが営業に下に見られる原因の一つで、この会社の総務は毎月やることが決まっている。それにも充分慣れた。
 定時に仕事をきちんとおえ、帰宅というかあのマンションへ一時避難。携帯電話を見るとやはりメールが。
“お疲れさま、さや。好きだよ”
 との文言。もう出て行っていいよ、はなかった。リクエストもないようなので、仕方なく夕ご飯のことを考えた。比較的すぐに思いついた料理名はオムライス。山本のあの様子だと滂沱して喜ぶな、確実に。ただし量が多過ぎる、これまた三つくらいに分けて出さなくては。
 スーパーに行って買い物をした後、一時避難先で風呂に入り、さっぱりするもののきっちり着替える。化粧はしないことにした。どうぞスッピンに呆れて下さい、ってなもんよ。それで夕飯の支度を。まずは自分の分を作ってみて味を確認。一人夕ご飯の後、洗濯をして寝室に部屋干しした。
 山本に食わせるまで起きていなくてはならないか。相手は営業、帰宅時間は得意先次第。しかし、それも十時ぐらいまでとしよう。暇つぶしが必要だなあ、ゲームをしたい。でもここに持って来るわけにはいかない。
 寝室でゴロリもいいが、それだと本格的に寝てしまう。よって、テレビを観ながらリビングで待つことにした。
 ここのソファは二つ使うとより効果的だ。ひとつに体を深く預け、ひとつに足を投げ置くといい。そうすればよりグータラな昼寝が可能。山本がいれば出来ないので、遠慮なくその体勢になってボケっとした。
 仕事上がりの、こういったリラックスしている時間に限ってすぐに過ぎる。九時を回った頃に携帯電話が鳴った。
「さや、今会社を出たよ。すぐ帰るから待っていて。好きだよ」
 そうかそうか。じゃフライパンに油を引いて。
 そう思って、よっこらせと上半身を起こしたら、眼鏡がずり落ちてしまった。なにせ七年間愛用していて鼻当ての部分がくたびれて、仕事する時書類を見続けているとよくずり下がって。
 しかし今回は落ちたのだ。あっという間に視界がぼやける。ここは他人の家、一瞬で間取りが分からなくなる。すぐに手で追ったが感触なし。真っ直ぐ落ちたんじゃない、どこかに挟まった模様。こうなると、清子の裸眼では小物の眼鏡がどこに行ったか分からない。どこ? 手探りしてもかすりもしない。こうなるのがいやだから寝る時は必ず決まった場所に眼鏡を置くのに。他人の家で失くすと大変だ。
 立ち上がって別な角度から探すべく体を起こし、ソファ越しにフローリングの床に膝をついたら、バキ、と音がした。
「まさか」
 この、膝に伝わる感覚。まさか。まさか。
 ぼんやりする視界でも、必死にそれを集め、拾い上げる。
 黒の、太いふちの部分が見事にバッキリ。
「……壊れた……」
 あまりの出来事にその体勢のまま呆然とした。
 幾ばくかの後、玄関が開かれた。
「ただいまさや! 待たせた? 好きだよ、……さや?」
 返事がないことで、またいなくなったと思ったか、山本が廊下を重い足取りでやって来る。
「ああ……いた。? さや、眼鏡をどうした?」
 清子は、いつもだったらそうはしないが、声がする方を見た。それで、今自分がどういう位置にいるのかを知った。ああ、あっちが廊下か。考えている方向とは全く違った。感覚が分からない。
「……壊してしまいまして」
 清子が手に持つそれは、もう単なるゴミだった。
 山本が近くに寄って来て膝をつき、ゴミになってしまったそれを覗き込む。
「スペアは」
「ないです」
 人の家、勝手が分からない、視界がぼやける。それでも、辺りを見渡して、多分テーブルと思われる、木の色をしたそれの上に、壊してしまったものを置いた。こんな些細なことでさえ感覚が掴めず、置いた時思ったよりもへんな音がした。
「コンタクトは」
「合わないんです」
「ないと、生活仕事に支障は」
「出まくりです。なにも見えません」
 なにせ清子はまともに立ち上がってもいない。
 視力の低い者が眼鏡を掛けない状態でいる時の視線は、不確定に泳いでいて、どこも見えていないし、焦点も合っていない。きっと山本も清子をそう見ているだろう。
「買いに行こう」
「店なんて閉まっていますよ。何日も掛かる、どうしよう……」
 仕事も出来ない、日常生活も出来ない。端的に言えば、トイレに行くのも自信がない。
「惚れた女を助けられなくてなにが男だ」
「心意気だけは戴きますが現実は」
「眼鏡屋の息子が友達だ、今日中に作らせる」
「あのですね、レンズというものは一枚一枚が特注品です、平気で一週間掛かるんです!」
「必ず助ける」
 すると突然、山本は清子をがばりと引き寄せ、ぎゅっと抱き締めた。
「えっ?」
 あの大きくて熱い手が背中に、腰に回って。スーツ越しでも分かる、あの厚い胸板がいきなり直接。こういう時は眼鏡が邪魔になるものだがそれもなく、体全体で逞しい山本を感じてしまう。あの通りの力こぶの両腕でがっちり包まれる。今まででもっとも近くなって、思わずかおりを吸い込んだ。
 体温が溶け合う。心臓がどくどく鼓動する。
 すると山本はなにを想ったか、抱き締めたまま立ち上がり、清子の足を浮かせた。
「ってちょっと! きゃあ!」
 なにをする気か。抵抗するがびくともしない。
「見えないなら歩けないだろう。大人しくしてくれ。暴れないで。未来の夫を信じて」
 なにかが頭を、髪の毛を撫でた。まさかこれは、山本のほほ?
「離して下さい、未来の夫はそちらさんじゃありません!」
「俺しかいない。俺以外は殺してやる」
 両腕でがっしり抱き締めていた山本は、清子を片腕にスパっと移した。その強さも、清子の浮いた足の高さも両腕と変わらず。空いた片腕で携帯電話を出してタクシーを呼んだ。
 通話がおわると、携帯電話を仕舞って再び両腕で清子を抱き締めた。しばしそのまま。溶け合う熱、響く心音。ほほでなでられる髪。
 何分かすると、外でクラクションが軽く鳴らされた。タクシーが来たらしい。山本は即座に廊下から玄関に向かった。またも片腕に清子を移し、靴を履いて清子の靴を持ち、ドアを開けてエントランスに向かった。
 清子をタクシーの後部座席に押し込めて、靴を下に置く。また携帯電話を取り出し誰かに掛けた。
「俺の女の眼鏡が壊れた。今日中に頼む、ああ、いくらでも礼をする」
 相手は眼鏡屋の息子とやら、らしい。清子は靴を履き、可能な限り右側のドアに寄ってプイと外を見た。どこを見ようが全てぼんやり。不安などではないが、このままではなにも出来ない。
「そちらさんの女じゃありません」
 電話をおえた山本は清子ににじり寄り、後部右ドアに左ひじを付き、ドアガラスに頭を付けて、清子を正面から覗き込み、直近で、
「忠弘と呼んで。俺が見える?」
 くちびるが触れ合いそう。
「実はこのくらいで、やっと」
 眼鏡なしとありでは全然違う。同じ距離でも裸眼の方が不確かだ。
「不安だろう? 大丈夫だよ、俺がついている。好きだよ、さや」
「タクシー内でそれは止めて下さい」
 近過ぎる山本を押し返した。
 目的地に着くと、山本はタクシーの運転手に万札を押し付け、釣りも待たずに清子を車外に出す。すぐに片腕で抱き締め足を浮かせて、二人で店内に入る。
「止めてってば! 歩くくらい出来る!」
 山本は、待たせていた友達と会うとグータッチを交わした。
「悪い、遅い時間に」
「いいってコトよ」
 清子は山本の厚い胸板とご対面しているし、眼鏡がなくて見えなかったが、声だけでも分かる。なんの緊張も感じられない、プライベートのリラックスしたやり取りだった。相当仲がいいらしい。
 山本は清子に視力検査を受けさせる為、検査室に連れて行って椅子に座らせた。その後売り場に戻って再び友達と会話。
「さやに合うのを見繕ってくれ」
「お前の女だろ。お前が選んでやれよ」
「眼鏡はどれも同じに見える」
「お前も本当に極端な男だな。まだ水しか沸かせないか?」
「さやが俺に一生作ってくれるんだ。さやの手料理は美味しいぞ」
「おーおーそんな惚気を聞けるとはな。充分お代だ、礼は要らない。結婚式には呼んでくれ」
「勿論だ。ありがとう、さすが俺の友達だ」
 清子にはこの会話が全部聞こえていたのに、測定器向こうのスタッフにあれこれ質問され、否定の言葉を出せなかった。
「七年前? 重かったでしょう? コーティングも全部剥げていたんじゃないですか?」
「よく分かりません」
「今のは薄いですし軽いです。面積も、今時のデザインは小さいですよ」
「え、いやです。でっかいのがいいです」
「山本さんが彼氏でしょう? 流行の似合うのを」
「彼氏じゃないです、単に会社の同期です」
 その後、丸眼鏡になにやらガラスを差し込んだものを掛けさせられた清子は、それでどこまで見えるか確認された。1.2まで見えるように。緑と赤は同じ強さに見えるか。放射状の棒線は同じ太さに見えるか。
「はいおわりました。後はフレームを選んで下さい。レンズは在庫があります、一時間で作れます」
「え? 早い……」
 聞き間違えかと思ったが、そうではないらしい。
「一週間くらい掛かるのでは? レンズは特注品って……」
「昔はそうだったかも知れませんが、今はもうほとんどの種類が準備してあるんです。カラーを入れると確かに、日数が掛かるんですけれどね。入れますか?」
 サングラスみたいなものか? それは必要ない清子、入れないですと返事をした。
「山本さんにはうちの社長の息子がとてもお世話になったんです。山崩れに遭って大けがをした時、雨の中何kmも背負って歩いて病院へ搬送してくれたんですよ。命の恩人です」
「……はあ」
「一番いいレンズにしましょうね。薄いですし、コーティングは砂消しゴムを掛けても剥げないんですよ」
「……はあ」
 検査室を出た清子はフレームを選ぼうとした。しかし、なにせ見えない。店内を歩く足取りも覚束ず。なんとか商品陳列棚に自力で辿り着き、フレームを見ようとしたが、鼻をかすめるほど近くに持って来なければ全容を把握出来ない。
「ほら山本、お前の女が困っているぞ。選んでやれよ」
「分かった。さや、俺が選んで上げる」
 山本が隣に来て、にっこり言うはいいものの。
「視力のいい人に選ばれても迷惑です……くっそー、見えないー」
 ガン付けもどきで見て回ると、これはと思ういいのがあった。
「……た、高……」
 なんとフレームだけで八万円。誰でも名前を知っているほどのブランド品。
 装飾という意味だけの宝石が付いてあるから、とか、塗装が十八金だから、とかが理由で高いフレームもある。しかしこれは、純粋にフレームの性能だけでこの値段。
 清子は思う、こういうのを揃えているなんていい店だここ。
 相手は未来の夫と豪語する一束持ち。
 ……後で本物の彼女が出来るとしても、手切れ金代わりにいいのが手に入るなら……
 清子は演技をした。
「これ、欲しいの……」
 世間一般にいう、おねだりポーズをしてみた。相手の顔がさっぱり見えないのをいいことに、なんら照れもなく。上目遣い、小首をかしげ、お願いの眼差しで。唇を男性の舌が挿る分だけ開けてやる。一応、山本とおぼしき人影に向かって。これが山本の友達に向かっていたら面白いかも。
「分かったさや。任せろ。これを」
 山本は清子の手からフレームを引ったくって友達に渡す。どうも人影は山本で間違いなかったらしい。なあんだ。
 もっとも山本に言わせれば、こんな不安そうな惚れた女と、友達とはいえ他の野郎を面と向かわせるわけがなかろう、である。
「さやの口から欲しいと言われるとはな。体の一部というか全部が沸騰した。寝室へのお誘いと想っていいだろうか、というか襲いたい、いや襲う」
 そういう意味で言ったのではない。なにを突っ走っているのやら。
「さやのどこにでも俺をいくらでも挿れる。今夜は眠らせない」
 またなにやら下ネタを。
「眠ってくれなきゃ同情した意味がありませんってば。そう興奮しないで下さい。寝室に来たら帰りますよ」
「……惚れた女と一つ屋根の下にいて、なにもしない男などいないのだが……」
「ということは私がいようと眠れないと。分かりました、同情は要らないようですね」
「……済まない、根性で眠る……だからそんなこと言わないで……」
「だったらそういうことを言わないように。言葉に気を付けてと言いましたよ。二度言わせるとは、相当仕事が出来ませんね。えぇ私は仕事が出来ない男は大ッッッ嫌いです」
 会話をヨコミミで聞いていた山本の友達が一言。
「おーい山本。男が人前で泣いてんじゃねえよ、極端なやつだなあ」
 一時間後、眼鏡は出来上がった。さっそく掛けてみる。
「うわあ……」
 世界が違って見えた。
 はっきり見える。鏡に映る自分の髪の毛一本一本までも。やだな、ちょっと乱れている。こんなの見せていたの? 思わず髪を手で撫で付けた。
 ここは物を売る店舗なのだから、光量がふんだん。だがそうとは、前の眼鏡ではなんら意識しなかった。スーパーと大して変わらなかった。
 だがここは店舗は店舗でも、光り物を売る店だ。だからより、輝いて見えた。
 そうやって、周囲を見渡す。いつものように、近くまで行って見る必要がなくなった。遠くからでもよく見える。そう、この感覚は七年振り。あの時だって、あの瓶底眼鏡の時だって新しくした当初はそう思った。すっかり忘れていた、この感覚。にじんでいるのかと思える程境界線が明確で。
 世界は鮮烈だ。
 前の眼鏡はいつ掛けても重く感じた。新しいのはそれがない。ふんわりと軽かった。眼鏡の面積が小さくなったのだから、見辛くなるかな? そう考えていたことすらもう忘れた。
 視界だけに支配され、音もにおいも感じ取るのを忘れた清子に、スタッフは言った。
「いいものを選ばれましたねお客様。軽いし、付け心地がとてもいいでしょう? よく見える筈ですが?」
「……はい……」
 清子ですらの感嘆符。
「では、それを買って差し上げた男性に感謝の言葉を述べても、おかしくないと思いますが?」
 言われてつい、隣に座る人物を見る。すると山本の表情に、期待の二文字が浮き上がっていた。
 熱い言葉を告げられる時は必ず直近で言われた。なのに今はその距離になくても、よく見える。だからより、整った顔だと、スーツに包まれた体はよく鍛え上げられていると分かった。
 要するに、清子はじっと山本を見つめていた。山本がそれを、自分の願いを叶えてくれるに違いない、と想ったのもまるで分からず。
「……。家で言います。二人の時に」
 その意味が分からない、接客業のプロはいない。
「まあまあ……そうですね。お邪魔しました、またどうぞご贔屓に」
 七年も経つと眼鏡のそれと実際の視力が合わなくなる。それでも掛け続けたのは金がもったいないこと、車の免許を持っておらず定期的に買い替える必要がなかったこと、長年し続けたので顔に合っていたからである。
 なのに掛けたばかりのこれは、七年の時を凌駕していた。清子の行ける店などではあんないいフレーム、こんないいレンズなど置いていない。セットで約一ヶ月分のサラリー、しかも即日。山本に感謝すべきだった。
 帰りのタクシーで、にじり寄られて直近で、似合うよさや、綺麗だ、好きだよと言われながら。どう感謝しようか考えていた。とにかくまずご飯を食べさせなければ。
 さすがに顔を背けず言った。
「お腹が空いたでしょう? ごめんなさい、夜遅くに付き合わせて」
「さやから堅苦しい言葉遣いが抜けた……それだけで抜ける……」
 そういう意味ではない。どうもさっきから下ネタに走るなあ。
 しかし、自分に惚れているという男に感謝となるとどう考えても下ネタ方向に行きそう。そうするとまたツケ上がる。熱が冷めるのが遅くなる。
 最低でも、色々言われたお願いの一つは叶えてやるべきか。しかしほぼ下ネタ方向だ。どうしよう……
 タクシーの外を見る。行きはぼんやり、でも今はもう。
 連れ込まれてから何度かあったこの景色。いや、光景。すれ違うライトが眩しかった。いつも見ている筈なのにやけに鮮明に見えた。夜景、そんな言葉が脳裏に浮かぶ。
 人工のライトが作る色とりどりの光の帯を、いつもとは全く違った気持ちで眺めた。見落としていたのだ、今まで。こんなにも。全てを。
 二人で一緒に帰宅。はっきり見える家の中は、廊下の木材の年輪までより鮮明に見えた。そういえばこのマンション、一年半前は新築だったのでは?
 山本はスーツ姿のままだったので、風呂に入って貰う。清子はその間食事の支度を。
 さっぱりパジャマ姿の山本が風呂から上がって来る。ついチラと見たが、そういえばあのネックレスをしている。よく見えた、複数の深い傷痕までも。
 山本にソファに座って貰って。
「それで、どう感謝して貰えるのかな。期待していい、ということだろうか。いや期待する。しまくる」
 背後からの声が絵に描いたように興奮している。
「……じゃあ」
 さすがに、なんらかの形で応えなくてはならないか。
「なんだろう」
「とにかく。どう感謝しても眠って下さい。それは、いいですね」
「……眠らなければ出て行くんだろう。分かっている、根性で眠る」
「まだ考えがまとまりませんので。とにかく、ご飯の後です」
 さてどうしよう。指の号数でも計らせるか。婚約だのしなきゃいいだけの話。そこまで行く前に冷めるだろう。そうだ、そうしよう。
 オムライスを滂沱と共に食べて貰って。
「宝飾店とやらにご一緒します。それでいいですか」
「豆とカップなら揃えた」
「ええ!?」
 ちょっと待て、今朝の話なのに。
「これだ。吟味して欲しい」
 いつの間に、どこに準備していたのやら。出された現物を慌てて見る。まず豆。容量は200g、二人で毎日飲むなら適量だ。こんなことを何故知っている? 買った店で訊いたか? いつもよりよく見える視界ではっきり分かる、豆の色は丁度いい焦げ茶。一見汗をかいていた。袋をちょっと開けると途端香る、間違いなく家中を何日も席巻するほどの濃厚なにおい。
 次に出された華奢なカップ。少しは見て回ったのだ、だから分かる。美しい、しっかりとした白磁に映える繊細な金色、色とりどりの文様、最上級の見事な色彩調和。二客セット、専用化粧箱入り、保証書付き。確実に百万円以上。
 今朝言って即日の夜これだ。文句はなかった。言うしかなかった。
「……合格です」
「自動的に宝飾店だ。他の願いを叶えて貰えると嬉しい」
 ……どうしよう……
「間違いなく俺の体は沸騰するだろうが、それでも眠る。そういう願いを叶えて貰えれば最高だ」
 言外に、キスの一つもぶちかませと言っているのだろう。
「……じゃあ」
「期待をしまくっている」
「……誕生日、プレゼント、を……」
「まだ先の話だ。それも欲しいが今欲しい」
 なぜ愛用品を壊してしまったのか。山本の期待に満ち満ちた強い眼差しが数割増しによく見えてうらめしい。
「言っておくが、宝飾店には明日行く。明日婚約指輪だ、絶対に填めて貰う。これは眼鏡の礼じゃない」
 完全にツケ上がっている。
「……じゃあ」
「期待をしまくっている」
 仕方ない。文字通り視界は良好過ぎ、高いのを貰った。引っ越し代は出そう。お金を切り詰めなきゃ。
「ここに引っ越します」
「嬉しい……鼻血と滂沱で眠ろう。土曜日にアパートへ行くぞ。おやすみさや、好きだよ」
 それにしても、いつの間に婚約指輪を明日填めるって話になったんだ? さすが営業、口が上手いなあ……
 食事の後片付けをして、リビングの電気を消す。宵にほんのり浮かぶ待機灯の明かりもはっきり見えた。
 歯を磨いた後、寝室へ行く前に。六畳一間の、閉められたふすまに向かって、小声で。
「……ありがとう、ただひろ……」
 ふすま向こうの忠弘は当然聞いていた。どこかが沸騰したそうだが、必死で抜いて根性で寝たそうだ。