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 翌朝、六時に携帯電話のアラームが鳴り、仕方なく起きる。あーああ、今日も満員電車かあ……
 にしてもこのふとん、気持ちよ過ぎ……
 ……
 がばあと起きた。こんなことなど初めて。遮光カーテンを開けて周囲をよく見渡す。初めての部屋だった。ありありと浮かぶ夕べの出来事。
 しまった朝ご飯を作って上げなきゃ。
 そのまま寝室を出てしまった。おっぱい丸出しもいいところ。まるで気付かず。
 気付いたのは、廊下にいた山本の驚愕の表情でだった。
「おは……」
 そう言って固まっている。なに?
 山本は清子の顔ではなく、その下を見ている。
 下? なにか……
 顔の下は、ぱんつ以外真っ裸だった。
「っきゃーーーーー!!!」
 即座に寝室へ逆戻りした。
 はーふー深呼吸をして、気を落ち着かせて着替え……をしたいが、昨日の服を着て会社に行くわけにはいかない。とにかく、落ち着かなければ。
 さっきのなんかなかったことだ。冷静に、冷静に。
 まず服を着るべきだ。そうだそうだ。
 服……いやまて、夕べと同じではいけないぞ。まるで朝帰りではないか。ということは、嫌でも山本が買って来てくれたあれを着なければならないか。仕方がない、背に腹は代えられないとはこのことだ。
 だったら……仕方がない、下着も買って来てくれたものを着けるか。まさか見せるわけでもな……いやさっき……いやいや、なかったことだ。
 Eの65を着ける。なんとなく、淡いイエロー+桃色の方を。あ、いいなこれ。包まれている感じ、いい品だ。本人はともかく店はいいらしい、後で寄ろうか。Sサイズのショーツも、ただデザイン重視で穿きづらい、よくある安物と違って包まれている感じ。ま、下着に罪はない。
 ストッキングの後、あのツーピースを。いい感じのものだ、デート用のような。
 着ると、サイズぴったり。はあ……正直、はいはい参りました。だが感想など口に出すものか。
 着衣中、大分落ち着いた。開き直れた。はいもうお終い。
 寝室内の使用痕を消し、荷物を持ってそこを出る。すると、山本がさっきの位置で棒立ちしていた。ぼそりと呟く。
「……朝から観音様を拝めるとは想わなかった……」
「それ以上言ったら朝ご飯を出しません」
 さっさと洗面所に向かった。こんな、くしも通さない髪、スッピンで洗顔もしていない顔まで……いやいや、なかったことだ。
「とても似合うよ。綺麗だ」
 と、作業中洗面所の入り口で言われたが無視だ。
 旅行用の歯磨きセットを取り出してごしごし磨く。きちんと洗顔。髪をぎゅっと後ろで縛る。きっちりお化粧。ハンカチで使用痕をありったけ消す。それにしても、なにやら髪の毛からあの香りが漂うような。薫き染められてしまったか。
 そこを出ると山本がさっきのままでいた。清子から見てもセンスのいいスーツをビシっと着こなし、身だしなみは完璧。だが、感想など口に出すものか。
「ご飯を作るので座って待っていて下さい」
 さっさと脇を通り過ぎる。 
「ありがとう。そうするよ」
 さっそく調理を開始。ジャーのお米は出来上がっていたのでかき混ぜる。だしを確認、具の野菜を切って。
 しばらくすると、声がした。
「今日は仕事を休んでくれ」
「……はあ?」
 いきなりなにを言い出すか。思わず振り向く。ソファに座る山本は、やはりというか、ずっと清子だけを見つめていた。
「昨日この家に連れ込もうとは決めていたので、人事と君の上司を騙くらかして今日、君は有給休暇を取得することになった」
「……日本語を言って下さいませんか」
 またも理解不能。
「今日一日、俺達の家でゆっくり休んで欲しい。出来れば着替えその他の荷物を君のアパートに取りに行ってくれたら。ああ、重いか。分かった、仕事がひけたら一緒に行こう」
 同情して、お弁当を作っていると言いたくなくなった。
 休み……休みって……。
 言葉の意味を考えながら調理を続行。とにかく量が多い。味見は何度もするものではないのに、鍋一杯の味噌汁にみそをどれだけ入れりゃいいのやら。
「携帯電話を出してくれないか。俺の番号とアドレスを登録して欲しい」
 キャベツを千切りにして水に浸ける。
「欲しい欲しいってそればっかりですよ。無い物ねだりの子供ですか」
 こっちが必死に調理をしているっていうのに。そりゃ料理の出来ない男に手伝いの仕方を教えようとは思わないが。
「子供時代がなかった。同情して……あー。同情してくれ」
「……お弁当を作りましたんで。要らなきゃ」
「本当か!」
 山本はがばぁと立ち上がった。らしい、そういう音がした。思わず振り向く。
「……要らなきゃいいですよ」
 見るとやはり直立不動、熱い眼差しはまるで、こっちを睨みつけるかのようだ。あのソファは夕べ座ってよく分かったが、はっきり言って立ち上がり辛い。なのによくまあ。……いやいや、感想はなしだ。
「滂沱で食べる。ありがとう」
 またも笑顔満面、号泣一歩手前。大の男がそれでいいのか。
 調理を再開する。いくら卵を割りゃいいのやら。でかいフライパン一杯に、とりあえず六個。同時に魚も焼く。一切れだけでも難しいのに。仕方なく同時にこれまた六切れ。加熱時間が分からなかった。
 黒こげだけは逃れ、全部を作ってダイニングに持って行って並べる。なんでもかんでもやって上げた、もういいだろう。
「はい、朝ご飯。目玉焼きにお味噌汁、ごはんサラダ焼き魚。合わせてわびしい食事の一丁上がりです、私の役目はここまで。後はお美人さんにどうぞ」
 清子が座るまで立って待っていたらしい。山本はそのままの笑みで座った。
「君が美人だ。ありがとう、死ぬほど嬉しい。いただきます」
 山本は昨日久々にしたばかりという儀式を噛み締めるように行い、それから猛然と食べ始めた。清子は気にせずもぐもぐ食べた。まあ、ましな焼き加減。お出汁も珍しく上手く行った。
 山本の分のご飯はどんぶりに盛ってやった。味噌汁にしたって通常サイズではなく、店に一つだけ酔狂に置いてあった、飾り物のようなどんぶりサイズのものに、だ。なのに凄まじい勢いで空にする。夕べもそう、食べているよりもキッチンとの往復、お代わりを盛っている時間の方が長い。
「ところで」
 食べおわった清子は箸を置いた。
「なんだろう」
「ジャーも鍋もすっからかんです」
「分かった」
 山本はどんぶりサイズ二つを豪快に食べ尽くし、言った。
「ごちそうさま。とても美味しかったよ、ありがとう」
 山本が箸を置くのを見てから言った。
「私が休みって、本当ですか」
 なにやら随分計画的だ。分かっていたならそんなもの、夕べのうちに言って欲しかった。
「君は入社以来有給休暇を取得したことがないと聞いた。この辺で、平日にぽっかり休んでみてもいいと思うが」
「……まあ、確かに」
 山本以外からの提案だったらすぐに乗った。でも、確かに休んでみたい。
「この間未明まで付き合って貰って無理をさせた。埋め合わせをしたい。どうかのんびり休んでくれ」
「……じゃ、帰ろっか」
 やることはやったし。もういいだろう。
「帰らないで」
 夕べからずっと、そのさまはまるで捨てられた犬のよう。
「休んでいいんでしょう」
「ここで休んでくれ。さや」
「……はあ?」
 一瞬、なにを言われたか分からなかった。またも理解不能。
「さやと呼びたい」
 その瞳、その表情。夕べよりもさらに熱く艶めいて。
「……好きにして下さい。ただし、私を無視してくれるなら」
「矛盾した提案だし、無理だ。さや」
「……あーそーですか。じゃ帰ります」
「帰らないで。ここにいて」
「だから、捨てられた子犬みたいに縋らないで下さい」
 テーブルの上には空けられたどんぶり二つ、でかい皿の数々。
「五歳の時に捨てられた。以来誰にも縋れなかった。さやに縋りたい。さやに甘えたい。さやに愛されたい」
 涙まじりに。憂いたっぷりに。
「さやの手料理を毎日食べたい。さやが好きだ。忠弘と呼んで。ここに住んで」
 縋られまくりで。
「今度こそ鍵を受け取って。さやを一生養うから金も受け取って。メールをする、電話も。登録して、さや」
「大の男がおねだりばっかしないで下さい」
 どこかで止めなければ。この男は歯止めが効かないじゃなくて、ない。
「同期なのに堅苦しい言葉を遣わないで」
「直属じゃないけど上司です。立場を弁えているだけです」
「さや、お願いだ。俺の願いを聞き届けて」
 潤んだ瞳で迫られて。テーブルがなければどうなっていたか。
「……いっぱい言われたんで分からないです」
「じゃあ、一つだけ」
 いよいよというか、山本はあの、立ち上がり辛いソファをきっぱり立ち上がって清子に近寄り、手前に座って、ただくちびるを触れ合わせないだけの直近まで迫り、熱く告げた。
「さやが好きだ。結婚して」
 清子は夕べから一番の、盛大なため息をついた。
「まともに喋ったのが昨日なのに……性急過ぎですよ」
「……確かに」
 お願い攻勢は止んだ。山本はその場に正座し直す。
「済まない。さやと一緒に朝を迎えられて拝めるものも拝めて本音が出まくった。出社して頭を冷やす。これだけ頼む、携帯電話に登録してくれ。さすがにそれはいいだろう」
「……。まあ。一応、同期のよしみってことで」
 こっちの番号を教えなきゃいいだけだ。
 と思う清子を尻目に山本は清子の携帯電話を出させるとひったくり、遠慮なくせっせとあれこれを登録した。清子は自分でやると言ったが、どうせ口ばかりで登録してくれまいと態度で語る山本に折れた。
 山本が家の主なので、先に歯を磨かせる。その後清子が。歯磨きセットを買って与える発想もないのだから、女を連れ込むうんぬんの前に、友達を招いたこともないのでは。いやしかし、同性の友達相手に歯磨きセットを買ってやろう、はないか。
 化粧を直して、リビングに再び。戻って来た清子を見てまたも笑顔満点の山本。
 ソファに座って言った。
「言っておきますけど……ほんとに、帰らせて下さい。さすがにあんな格好でもう出たくありません。帰らせてくれなきゃあの格好でこの家を出ますからね」
「大の女が男を脅さないでくれ。分かった、じゃ鍵を持って」
 ちゃらりと出されるあの日の鍵。
「……お願いばっか」
 テーブルに置かれた銀色のそれ、手を付ける気にもならず。
「さやといると欲望がつのる」
「帰ります。家でごろごろしますよ、せっかく取ってくれた休みなんだし」
「ごろごろするのはいいが、夕暮れ前にここに帰ってくれ」
「ゴーインだなあ。どっかの女を連れ込んで下さいよ」
「さや以外を連れ込む気はない」
「私のどこがいいんですか?」
 まともに喋ったのが昨日だというのに。さすがに訊かずにはいられなかった。
「家庭的で、控えめなところがいい」
 清子は思わず苦々しい表情になった。
「……手抜き料理しか作れません。控えめって言われたのは初めてです」
 誰か、別人のことを指していないか?
「俺が家庭というものをどれだけ渇望していたかは、同情と共に分かってくれたと思うが」
「……はあ。まあ」
「俺の、さや以外の女性に対する印象、感想はこうだ。皆目を血走らせて俺に突進して来る。自分と付き合え、セックスをしろ、金をくれ、高い物を買え。欲望ばかりと言ったが、その通り欲望ばかりを要求された。だから控えめな女性がいい。確かに社内の女性は俺にこういう態度を取る者ばかりだった。なびかなかったのはさやだけだ。
 さやが欲しい」
 またも理解不能だ。突進される? いいじゃないか、さぞおモテになったってことだ。その内の美人だけを集めてここに連れ込みウハウハ遊んでりゃいい。
「視野が狭過ぎ。私以外でも充分ご家庭的で、そちらさんになびかない聡明なお方はたくさんございます。六大学って言いましたね。だったらもっとでっかい会社へ行ったらどうです?」
「大学で不動産屋の息子と友達になった。ここはそいつに格安で紹介された。だから、ここから近い会社を選んだ。さやがいた。なに一つ誤った選択はしていない」
「視野を広く持てと言ったんです。東京には人が一千万人います。そちらさんに相応しい女性は単純計算で五百万人は」
「俺がさやに相応しい。忠弘と呼んでくれ」
 また随分自信満々に断言してくれる。
「もうお時間でしょう。社内で頭を冷やして、社外へ営業に出掛けてまともな女を視野に入れて下さい。私は帰ります、さようなら」
 よっこらせとソファから起き上がる。とにかくこれは、体を全部預けて昼寝するには適しているが、立ち上がるのが面倒だ。
「さや!!」
 山本はまたもがばぁと立ち上がり、そのまま出て行こうとする清子の行く手を遮って仁王立ちする。
 だが清子は構わなかった。そりゃ力では男に遥か劣る、手首を掴まれれば足止めはされる。だがそんなもの、意思の前には関係ない。目の前の山本の厚いであろう胸板を無視し、清子は玄関だけを見て言った。
「手料理はちゃんと作って差し上げました。携帯電話にも登録させられましたよ、同期のよしみは果たしました。そちらさんになびかない女でいいんでしょう。私は性急な男は嫌いです」
「……大変に傷つく言葉なんだが」
 沈んだ声で。まるで、その高い背すら縮むかのように。
 だったらと、顔を上げて言ってやった。
「出社して下さい。そうしたら、そちらさんの欲望とやら、一つ叶えて上げましょう」
 途端に、山本の表情がパっと明るくなった。またも嬉々満面、実に忙しい男だ。
「出社する。行って来るさや。お弁当をありがとう、夕ご飯も期待している。それで、一つとはなんだろう」
 清子はくるっと踵を返し、テーブルの上にある銀色のそれを手にし、山本に振り向いた。
「鍵を持って上げます」
「嬉し過ぎて言葉に出来ない」
 嬉々満面度は上がる一方。感情表現が忙し過ぎる、あまりにも極端だ。
「じゃあ行って来ますね?」
 山本は重い足取りで近付いた。くく、と身をかがませて、清子のくちびるに自身のそれを直近まで寄せ、熱く告げる。
「行って来るのキスをしたい」
 清子は一切後ずさらず、あっさり言い返した。
「性急な男は、と言いましたよ。鍵を返しますか?」
 銀色の鍵の先をつまんで、テーブルへ今にも落とそうとする仕草を見せると、山本は鞄弁当を片手に持ち、さっさと出社した。
 玄関が閉じられる音を聞いた後、清子は家の中を片付けた。料理が出来ないと言うわりに、ほこりが溜まっている様子はなく、掃除はきちんと行われている。大家族用だろう、でかい乾燥機付き洗濯機を見ると中身はなにもなし。よく使われている。
 なんでこれで、料理だけ出来ないの?
 すぐに家を出ようとしたが、時間からいってまだ満員電車だ。せっかくの休みにあれで帰りたくはない。そこで、平日朝八時過ぎのテレビ番組を観るという、実に久々の行為をした。学生以来。ああのんびり、いいなあ。テレビはスクリーンだった。とにかくでかい。音もよかった。
 九時過ぎに、自分がいたという痕跡全てを消し、荷物を持って山本家を出た。鍵を捨ててやろうかと思ったが、腹いせに社内で夕べのことを声高に吹聴されても困る。持つだけ持って、後はもう来なきゃいい。
 駅までの道は、この時間には出勤していた管理人に訊いた。一時間掛けてアパートに帰る。やっぱり我が家はいいなと思った。一間だが、気に入っている。ちょっと予算オーバーの、入居時築二年、二階の角部屋。ギリギリで入れたのだ、手放したくない。
 さっそくオンラインゲームに興じる。結構熱中していたようだ、気が付けば時間はもう昼だった。その頃に電話が入った。まさか山本?
 待ち受け画面には渡辺某。
「渡辺君?」
「センパーイ。どうスか久々の休みは?」
「ああ、満喫している。ゲーム中」
「それじゃ休みじゃないじゃないスか」
「これを日中にやるのがいいのよ。で、ごめんね突然穴を開けちゃって」
「いいってことっスよ、センパイとオレの仲じゃないスか」
 この分では、山本が言ったから自分は休みなのだ、とは、総務課内では思われていないようだ。加納さんは単に休む、それを前日の業務終了後に言って来た、程度に思われている模様。よしよし。
「うん、そう思って堂々と休んじゃった。渡辺君も休んでいいよ」
「そうっスねー、オレもやっと有給休暇を取れる身分になったんで。ところでですねえ、耳寄り情報なんスけど」
 これが渡辺の口癖だ。
「今度はなに?」
「あの、鬼の山本先輩が、今日は朝から大のご機嫌で。もー社内全員ビックリしていますよ。さらにはあろうことかでっかい手弁当を持って来て。しかもですよ、カノジョが作ってくれたってオノロケですよ! どうです、驚いたでしょ!?」
「はあ。誰だっけそれ」
「まったまた、センパイの同期っスよ! 出世頭の! いっやー、いよいよ木下先輩とゴールインらしくて!」
「あららー、じゃ祝電の一つも打たなきゃねえ。私も誰か欲しいなあ、また合コンがあったらよろしく。じゃね」
 そういえば昼だ。人の弁当は作っておいて自分のはなし。平日昼から外食しよう、ああゼータク。
 なんて思っていたら携帯電話が鳴った。はいはい次は誰?
 山本忠弘とあった。
「さぁや……電話中だった……? お弁当も美味しいよ……」
 縋る度満点、投げキスの音まで聴こえて来る、艶っっツヤの甘え声。
「……。どこから掛けてんの」
「無論、社内から。何故か今日は皆に注目されている」
「二度と人の名前を呼ぶな」
 清子は携帯電話をぶった切った。電源も落とした。
 ゲームに興じて、お腹が空いたからコンビニへ行っておにぎりとお茶を買って夕食。それからもゲームを。経験値がかなり上がった。平日にこそ集中出来るというもの。こりゃもっと休みを取ろうか。でも今月はもう無理か。
 そろそろ風呂にと思ったら、部屋の外の共用廊下からどかどかという重い足取りがした。隣人か、それにしちゃうるさい。
 すると、玄関のドアが大きな音を立てて激しく叩かれた。なに、新聞の勧誘? ここはきちんとカメラ付きドアホンがあるのに。
 すると隣との境である壁向こうからもドンドンと叩かれた。うるさい、静かにさせろという意味だ。隣人じゃないらしい。
 モニターで確認すると、迷惑な相手は山本だった。
「止めて下さい、近所迷惑です!」
 すぐに音は止んだ。
「部屋に入れて欲しい」
 小声なのは結構だが、また欲しい欲しいである。
「電話は出ない、メールの返事もない、家に帰ればいない。独りではもういたくない、俺と一緒に帰って、さや」
 そのさま、まさに焦燥。あまり画質の良くないモニター越しでも、目が血走っているのが分かる。
「呼ぶなと言った筈ですよ。明日どういう顔をして出社しろっていうんですか」
「済まない、怒らせてしまったか。あまりの嬉しさに」
「ついうっかりって? よくそれで出世出来ましたね。帰って下さい、二度と来るな」
 通話終了のボタンを押そうとしたが、すぐさま焦りの声が返って来る。
「怒らないで、許して、さや!」
「帰って下さい」
 冷たく言い放つ。
 清子がこれ以上会話をする気がないと分かったのだろう。山本は別な手段に出た。
「開けてくれるまでここにいる」
「……なんて迷惑な」
 するとなにか、こんな男とずっとモニター越しに会話をしろとでも?
「ここを開けて、さや」
「帰って下さい」
「それじゃ鍵を持ってくれた意味がない、俺を独りにしないで、許して、さや!」
 モニター向こうがドアに縋って。間違いなく、開けるまでそこにいるだろう。明日には出社しなくてはならない、いずれ顔を合わせるのは間違いない。
「……さや……」
 涙まじりの声だった。
 大の男が共用廊下で泣いて動かない。ただ居座られているだけではなく、共用なのだから同アパート内の隣人達に見られてしまう。さぞ奇異に映るだろう。部屋の主はなにをやっているのかと、清子が隣人の立場になってもそう思う。絵に描いたような迷惑の極み。最悪、大家に通報される。
 仕方なくドアを開けた。
「……さや……やっと逢えた、嬉しい……」
「人んちの前で泣かないで下さいよ」
 山本の格好は、今朝見たあのスーツのままだった。だが今朝と違って緩められたネクタイ、外された第一ボタンが物語る、どれだけ焦って清子を探したか。
 求めているか。
 清子はまたもため息をついた。室内が適度に散らかっているが仕方がない。全く、こっちこそ男を連れ込んだのは初めてだ。
 山本は清子のように、家の中をぐるりと見回すなんてしなかった。目的はただ一つ、清子のみ。ずっとそういう目線態度で一間に来る。
 お気に入りの、パイン材デスクセットの椅子にふんぞり返って座った。山本はフローリングの床に直で正座。
「で。明日私はどういう顔をして出社すりゃいいんですか」
 そういえばこの服、着替えておけばよかった。
「……済まない」
 さすがの山本もうつむいていた。
「幸い。ほとんどの人は私をキヨコかセイコと思っておりますでしょうから。何食わぬ顔をして出社しますが。間違っても私に話し掛けないように。機会があっても無視して下さい。そちらさんからお願いされてばっかですからね、こっちの願いも聞き届けて貰いますよ必ず」
 顔を上げた山本は、真摯な瞳できっぱりと断言した。
「分かった。さやの願いは一つ残らず聞き届ける」
「ではさっそく。鍵をお返しします」
 山本のマネをして、ちゃらりと銀色のそれを出す。
「いやだ」
「五秒前になんて言いました?」
 返答内容は予想済み。とりあえず、鍵をデスクの上に置いた。
「済まない。前言を撤回する。出来ることと出来ないことがある」
「なんて頼りない。そんな男は大嫌いです」
 言ってやっても、もう沈んだ表情は見せなかった。
「傷ついたが仕方がない。さやの好みの男になりたい、どんなのがいいだろうか」
 そう来たか。まあ、同期だ同い年だいっても、仕事の話はないだろう。
「そうですねえ。料理が出来て年下がいいです」
「……他には」
「それしか眼中にございません」
 この条件に叶うといえば渡辺か? 話は合うし、彼女がいなきゃなあ。でも、渡辺とは山本と違って、お互いが相手という意味でのコイの話はしないだろう、きっと。
 なんて思っていると、
「分かった、料理をしよう。さやの誕生日は十一月四日だったな、俺は十一月十四日だ。これで好みになれたな」
「ウッソー……」
 どう見ても年上なのに。そういえば同い年なのだ、可能性としてはあった。全く迂闊。
 とはいえ気にしない。これだけの男だ、清子の好みがどうとかではない、関係ない。
「社内では話し掛けない、さやとも呼ばない。これでいいだろうか。俺と一緒に帰ろう」
「家政婦を雇えばいいでしょう」
「さやの手料理が食べたい」
「ああ、セックスも出来る奴隷が欲しいと」
 言い放つと、山本はこういう表情になった。お客様に対し失礼な言動をした後輩を、客がいるその場できっちり叱る、当たり前の先輩のように。
「いくら俺でも怒るが」
 社会人二年目、自分の失言は分かる。指摘されればなお。
「……済みません」
 さすがに言い過ぎた。
 社交的でない清子でも、学校で隣の席になった女の子から声を掛けられ、いい友人になりかけた時はあった。だが清子はこの通り、投げやりな性格なので、些細なことでこんな風に言い放ってしまい、結局は会話がなくなり、クラス替え、年替わりを期に仲はそれっきりになった。
「……あのですね」
 後から思えばこの時、いつものように、それっきりになって仕舞えばよかったのだ。
「なんだろう」
「私に対してのそのような感情を、どのように持ったのでしょう」
 話を変えるために言った。とにかく、前から訊きたかったことだ。
「なるほど。当然の質問だ」
「お答え戴けますか」
「了解した」
 しっかりした仕事の出来る、大人の男。その佇まいと共に、「そのような感情」を濃く熱く滲ませて、山本は清子に熱く告げる。
「まず、入社式で逢って、ああいいなと想った。ただし俺は人一倍誰より早く自活しなくてはならなかった。入社後すぐに新人研修、その後営業へ配属。お互いこの時期は、恋愛の余裕はなかったと思う」
「まあ、確かに」
 そりゃそうだ。清子のいる総務課には同期は配属されなかった。だから、新人研修で多少顔見知りになった同期の桜の記憶などすぐに飛び、見知らぬ先輩上司だらけの職場で、誰より早く出社し掃除から始めた。頭を下げ、教えを請い続けた。恋愛どころか、仕送りのない自活そのものに余裕がなかった。
「得意先業者に顔を覚えて貰うため、三ヶ月毎日外回りへ連れ出された。九時前に出て五時過ぎに帰社。さやはいつもいなかった」
「なるほど」
 営業ならではだ。清子はその間、先輩上司の顔を覚え、顔は見ないが得意先業者の名前と商品名を覚えるのに必死だった。
「それからは一人で出された。たまに社内にいても一日中机に座ってさやの方ばかり見ているわけにはいかない。電話が鳴れば我先に出る必要がある。先輩からは次々用事を頼まれた。顧客から呼び出されれば即座に向かわなければならない。自分の意思ではスケジュールを決められない。新人だ、一年間この調子だ。さやも似たようなものだっただろう」
「まあ、そうでしたねえ」
 特に困るのが「指揮命令系統が一本化していない」ことだった。あっちの先輩に用事を頼まれている途中でこっちの先輩から頼まれる、なんてザラだった。清子が付いていたあの先輩は女性で、男性上位なこの会社では下に見られた。直接の指導者たるあの先輩を差し置き、目の前で、男共は平然と清子に用を言いつけた。
「さやの誕生日はどうにかして知った。宝飾店に勤めている友達に頼んで俺と揃いのタグを作って貰って準備万端、あとは当日渡すだけ。と想っていたら前日突然一週間の福岡出張を命じられた。机に置いても誰かに盗まれるかもしれない。まさか女子更衣室に忍び込んでロッカーに入れて置くわけにもいかず」
「当たり前ですねえ」
 いくらおモテの山本とて、それをやったら総スカンだ。
「人づてに渡すなど真っ平ご免だ。そうこうしているうちにタイミングを逃した。ネックレスのようなものだ、家にある、今更だが受け取っては貰えないだろうか」
「続きをどうぞ」
「俺の誕生日、なにかくれはしないかと期待していた」
「で?」
「日曜日だった」
「あらら」
「今でも待っているが」
「有り得ませんね。続きをどうぞ」
「イヴもクリスマスも体を空けていた」
「たくさんのお美人さんに囲まれてハレムを築いた、と」
「あの家で独り寂しくケーキをワンホール買った。さやは来てくれなかった。ケーキを初めて食べてみたが、一口で胸焼けして捨てた」
「じゃあ私がケーキを作ってもそうなんですね。いや残念」
「さやの手作りならなんでも食べる」
「続きを」
「会社の忘新年会もさやは来なかった」
「ああ」
 残業代も出さないケチな会社なので、忘年会と新年会をひとくくりに、金曜ではない平日に開催する。その方が宴会場が安く抑えられるから、が理由で、今のご時世では仕方がないが。
 清子は酒が嫌いではないので、行ってもよかった。あの先輩が辞める直前のことだった。さすがにお酒を酌してやりたかった。だがあの先輩は言ったのだ、女の新人が飲み食いする暇はない、ひたすら酌婦とみなされるだけ、セクハラされ放題だ、行くなと。
 翌日、会社の行事に来なかった清子を叱る上司を庇った先輩は、「私が休めと言いました、お詫びは私が辞めることで」そう毅然と言ってくれた。清子は心で泣き、こういう場面があったら次は自分が、そう心に固く誓った。
「ヴァレンタインも期待して待っていた」
「私以外の全女子社員からチョコを戴いて食べまくったと」
「確かに机に山と盛られていた。これならきっとある、そう想って必死になってさやのを探した。包みを開け続け、中のカードをまじまじ読み続けていたらなにやら周囲に誤解された。さや以外のなどいらないと言うわけにもいかず」
「賢明な判断ですねえ。続きを」
 言ったらその場で大嫌いだ。
「さやのが全くなかったので、誤解を晴らすため、周囲が見ている前で社内のゴミ箱に全部捨てた」
「もったいない」
「来年は期待して待っている」
「有り得ませんね。続きを」
「一年も下働きをすれば後輩が出来る。それはいい。仕事だ、そう割り切ったつもりでも、さやの後輩の渡辺君とやらには現在も嫉妬中だ。何故さやはあの者とだけ楽しく会話をするのだろうか」
 そんなことをこの男に話す必要はない。
「続きを」
「人を使えるようになったので、多少余裕が出来た。この辺からさやにモーションを掛けていた。さや以外には誰にもおはようと挨拶をしなかった、後輩同僚先輩直属の上司社長にも。わざとさやの机に行っておはようと挨拶をした」
 おはようと言われたことは覚えている。最初は単に、そういえばこいつ同期だったな、その程度しか思わなかった。課の違う遠い筈の机から毎朝来られなければ。
「で、毎度無視されたと。続きを」
「なんとか客に顔を覚えて貰った。向こうから俺指名で来てくれるようになった。その時はすかさずさやに茶を淹れて貰った」
 やはり狙って呼ばれていたか。なにせ営業のヘルプと言われた時は必ず客間に山本がいた。まさかと思ったし、そこまで自意識過剰になりたくなかった。無視出来た朝の挨拶と違って仕事だ、まだまだ入社二年目、拒否出来なかった。
「営業の連中ってどうして自分でお茶を淹れないんでしょうねえ。絶対総務事務経理を下に見ていますよ。続きを」
「多少出世したのでさやに褒められると想って期待した。辞令を受けた後さやの机に行った」
「で、無視されたと。続きを」
「七月、営業先から帰ったら、ビルの出入り口でさやが俺の話をしながら楽しそうに俺に向かって歩いていた」
「脚色をしないように。続きを」
「期待をして、カモーンと想ったら途端に大嫌いと言われた」
「どこのアメリカンですか。ああ、あの時」
 そういえばと思い出した。あの時山本が近くにいたと分かっていれば、ああは言わなかったかもしれない。
「続きを」
「奈落の底に突き落とされた。一週間飲まず食わず眠れなかった。10kg落ちた」
「……は?」
 飲まず食わずの世界記録は一説に約十八日間。獄中に忘れられ、餓死寸前で発見されたその男は、24kg激痩せした。
 飲まず食わず眠らずだと、九日間そういった難行に挑む僧もいる。勿論究極の極限状態。体重がどうという以前に一歩間違えれば即身仏(=ミイラ )一般人には絶対不可能。
「仕事をしない男が嫌いなのだと自分に言い聞かせて休まず仕事をした。あの時期は周囲に、目が虚ろだぞ、無理をしているな、女に振られたか、サラ金に追われているか、奢ってやるから食え、家に帰って寝ろ、病院に行け、会社に出て来るな、救急車を呼ぶか、散々心配をされた。だが営業先では努めて笑顔を振りまいた」
「……続きを」
「さやに近寄ったらまた地獄に落とされるかと思ってあの時期だけは避けた。服が合わなくなり、スーツが似合わないとさやに言われたくなくて店屋物を無理矢理食べて体重を戻した。この辺りでいい加減、店屋物に飽きた。一応の立ち直りをみるまで二ヶ月掛かった」
「……続きを」
 二ヶ月……そういえば営業のヘルプ依頼はあれ以降、パッタリ止んだ。
「この間の残業の時、上司に書類を渡されたのが丁度五時。周囲からは手伝うと言われたが、これならさやに逢っていい、さやに縋ろう、それしか考えなかった。すぐにさやの方を見ると、フロアを出て行った。即座に追い掛けた。周囲は女子更衣室前で張る野郎に対し、なんだこの男、という目で見ていたようだが構わなかった。あの日から俺はさやしか眼中にない」
「続きを」
「久々にさやに逢えた。とても綺麗だった。想わず息をのんだ。嬉しさのあまり抱き締めたかったが、またいきなり大嫌いと言われるかと身構えた。それはなかった。だから勇気を振り絞って頼むとすぐにはいと言ってくれた。もう私服に着替えおわり、帰るところを邪魔したのに。素晴らしい、なんと責任感があるかと感動した。初めて会話が出来て感激した。打鍵スピードが俺と同じだった。素晴らしいと感動した」
「続きを」
「やはり大嫌いは聞き間違いだ。そう想って嬉しくて、前々から持って貰おうと想っていた家の鍵を手渡した。受け取ってくれた。天にも昇る気持ちだった。
 ……翌朝、生理的にさえ嫌いだと……家に帰れば鍵は捨てられ、使用形跡はほとんどなく、金はそのままメモまで置かれ……あの後十日間、寝ていない」
「は?」
 不眠の世界最高記録は一説に十一日間。ギネスブックは健康への害が考えられることから不眠記録の掲載を中止している。
「さやの手料理を食べられて、夕べは久々に何時間も熟睡出来た。出来れば寝室に行ってさやを襲いたかったが、ふとんにさやのにおいが残っていた。幸せ過ぎて鼻血を出しながら眠れた」
「出来ませんよ人間そんなこと。以上ですか」
「同情して貰えただろうか」
「一週間とか十日間とか、寝ていない食べていないって本当ですか。私でさえ不眠は三日間が限度です、あの時はもう……」
 清子がもうすぐ卒業という、大学四年の二月のことだった。あの時は、就職を前に気が昂っていたのかもしれない。そうは思ったが一晩だけならともかく三日間もとなると、いくらなんでもおかしいと覚悟を決め、自分の意志では初めて大学病院へ行った。適する科を訊いた時は正直ショックだった。紹介状とやらがなければ高く付くシステムなど全く理解出来なかった。初診のため書類を作って貰うだけでも時間が掛かった。その後言われるままその科の廊下で待つことしきり。知らなかったがそういう科は現代社会ではかなり混むらしく、早く行っても三時間待ちは当然だという。だがそう教えてくれた人からは、初診者など予約が必要な上土曜の午前中しか診ないクリニックだってあるよと言われて呆然とした。
 朝イチで来たわけでもない清子は相当待たされた。待ちかねていると突然担架で誰かが運ばれて来た。ここは救急外来でもなんでもない、なのにと思って注目すると、担架を押す病人の家族だろう人が「この子は一週間眠れていないんです、すぐに診て下さい!」と叫んだ。三日間でも疲労困憊、立っていることが不思議なくらいなのに一週間? 思わず横たわる患者を見ると、どう見ても異常だった。目はカッと見開き、視点は定まらず天井を彷徨っていた。痙攣を起こしているのか時折体が不自然に跳ねる。口は泡を吹いていた。
 これでは自分など。そう思い、受付の事務の人に訊くと清子の番は夕方の五時を回らねば来ないという。実に悪い行為だろうが診て貰わず帰ってしまった。結局、その日は疲れでだろう、なんとか眠れた。以降、眠れないということはなかった。
「さやがいなければ、俺独りならもう、死ぬまで眠らない。どうか同情して欲しい」
 後で少々調べてみると、そこまでの不眠なら精神に異常を来して当然だろうということ。確実に幻覚は見るだろうと。実際そういう患者をこの目で見た清子は実感として納得出来た。
 なのに、あれを超える十日間? その間ビールこっきり、しかも一食? 一週間など飲まず食わず? さらには仕事を休まず笑顔を振りまいて?
「……よく5kg10kgで済みましたね。そんなガタイがいいのに」
「捨てられはしたが、丈夫な体に生んでくれた両親には感謝している。ただし、昨日さやを連れ込まなければ倒れたというより死んだ」
 否定出来なかった。
「俺の想いを分かってくれただろうか」
 確かに分からされた。だが大きな謎が残っている。
「どうしてそこまでなんでしょう。お好みの、ご家庭的とか控えめとか、そんな条件の女は山ほどいますよ」
 今でも、別人に対して言っているのではないかと思う。
 だが山本は、連れ込まれたあの日から、いや、分かっている分だけでもおはようと挨拶されたあの日からずっと、あの瞳で清子だけを見つめ、熱く告げる。
「さやが好きだ。さやを見ていたら、ああ家庭的だな、控えめだなと想った。条件の女を探したらさやだった、ではなく、さやがそういう女性だった、ということだ」
 自分には合わない条件なのだ、その答えでは到底納得出来ない。清子はもっと直接表現でズバリ訊いた。
「どうして私を好きなんでしょう。外見最悪、単純作業しか出来ません、不滅の平社員ですよ」
 山本は即座に返答、さらに熱く告げた。
「単純作業とはいうが、それが出来ない人間がどれほど多いか。さやは作業も速くミスなしだ。お茶淹れの丁寧さもピカ一だ、いくつもの得意先に褒められている。仕事の面でも充分惚れた。さやは美人だ、外見でも充分惚れた。俺の外面などに惑わされず、大勢の前で誰を敵に回しても怯まないその性格、充分惚れた。
 そもそも入社式でいいなと想ったのは、この俺ですら眠りこけそうになったハゲ面の社長の下らない長話をさやだけがきちんと集中して聞いていたからだ。気付いた時は愕然とした。社会人としての気合いが全く違った。文字通り目が覚めた。あれからずっとさやだけを見ていた。別な課に配属になり、仕事場所は遠かったが、それでも姿を探すといつも気持ちいいほど仕事に集中していた。俺も気合いを入れなければと、いつも奮い立たせて貰った。
 俺の楽しみは出社して、さやに逢うことだけだった。偶然でもなんでもいい、すれ違えれば、視界に入ってくれれば幸せだった。
 これがさやを好きになった理由だ。足りないだろうか」
 ここまで強く熱く、真摯に褒められば。誰にも言って貰えなかった、褒めて欲しいところを見てくれれば充分情に絆される。ただし、そうと言いたくなかった。
「……私がいれば眠る。そういうことですか」
 不眠の大いなる理由の一つ、それは不安。自分がいないから、というのなら。
「一緒に帰ってくれるだろうか。ずっといると、そういう意味と想っていいだろうか」
 しまった言い過ぎた。
「同情してはくれないだろうか」
 端正なマスクのキリリと整った眉毛はハの字、またも泣きそう、毎度そうだが縋られまくり。ここまで聞いてしまって、ハイ独りで帰れとも言えず。しかし、ツケ上がられては困る。
 清子は思った。なるほど確かに多少自分に熱を上げているなと。それは分かったが、男など女を短期で飽きて捨てる存在だ。二度ほど男性経験があるが、全部そうだった。セックスなんて痛い思いしかしなかった。最初なんて大出血、さいごまでもせず、あれが惨めな処女喪失。次は絶対上手い男をと思って、軽そうで他にも女がいそうな男に誘われラブホにほいほい行ったら体の相性が最悪だと言われてその日に捨てられた。いいことはなにもなかった。充分男性不信だった。
 山本とて大して変わらないだろう。多少自分に熱を上げているだけ、どうせすぐに気が変わる。眠れないというのなら、その時までは面倒を見てやろうか。多少聞き過ぎてしまったし。
「分かりました、同情しました」
「嬉しい。今夜も眠れない」
 そんなことを嬉々満面と断言しないで欲しい。
「それじゃ同情した意味がありませんよ。病院へ行って診て貰ったらどうです」
「都内の病院を転々とした。ありとあらゆる催眠薬を処方された。なに一つ効かなかった。副作用だけは全部出た」
 余程酷い医者に当たった以外、患者のドクターショッピングの利点はひとつもないと言われる。そうと知っていただろうに、それでもやったのか。言葉も出なかった。
「さやが良薬だ。さやがいるなら眠ろう。手料理を食べさせてくれるだろうか」
 もう、拒否は出来なかった。
「仕方がありません、同情しましたので作ります。なにかリクはありますか」
「……今思いついたが。縁日で出る食べ物、買う金もなくて食べたことがない。ああいうのはどうだろうか」
「ああいうのなら……焼きそば、とか」
「嬉しい。文字通りお祭り気分だ。さっそく帰ろう」
 なんだか上手く丸め込まれてしまった。だがいずれ、気が変わるまでだ。
「じゃあ。服とか荷物をまとめますんで、ちょっと外に出て下さい」
「出来れば引っ越しして俺達の家に住んで欲しい」
「達ってなんですか達って」
「少し待って」
 山本はドア向こうに消え、玄関を出た。なんだろう。
 するとすぐに戻って来た。手に持つ四つのそれは、ポリプロピレンクローゼットケース。透明、スケスケ。
「……なんでしょう、それ」
「服ならこれに」
「……。旅行バッグに詰めるという発想はないんですか。営業でしょう」
「ああ……なるほど」
 これでは女を連れ込む以前に、女の家に転がり込んだこともなさそうだ。
 五歳でどうのなど、最初から冗談じゃないと分かった。いくら清子でも疑えない。あれだけでも充分同情する。しかも多分、あまり他言したことはないだろう。
「大体、私のと合わせて都合五つ……タクシーのどこに積めるって」
 調理器具および食材一式でもう一杯一杯だったのに。
「レンタカーで来た」
 変なところで準備よ過ぎ。
「確かに、見られて困るものを詰める作業中にいては失礼だ。外で待っている、何時間でも何日でも寝ずに」
「……行きますよ。ただし五つに詰めるんです、すぐは無理です。ちょっとお待ち下さい」
「嬉しい。ありがとう。いつまでも待っている」
 山本はすぐに玄関を出た。
 ……あーああ。完全に聞き過ぎ。しばらく家政婦決定か……仕方がない。
 どうも聞くところによると、大嫌いと言ったのは逆効果だったらしい。こんなことならそんな人は知りませんとでも言えばよかったか。いやいや、いつもの通りなにも言わなきゃよかったのだ。
 仕方なく荷物を詰めた。着替え化粧品は最優先。ふとん、ドライヤーの類いは向こうにある。調理器具も揃えてしまった。でも、レンジはまさか買わなかった。持って行くか……いやそうすると、気が変わった時回収が難しい。買わせるか、高いが。いずれは必要だし。次の、本物の彼女にお使いいただこう。
 そう、自分はそれまでのつなぎなのだ。そう思おう。
 さっさと作業をおえ、玄関を出ると、待っていた山本はまたも嬉々満面。清子はそれを見て、荷物は全部持たせることにした。山本は嬉しそうに荷物を運んだ。
 レンタカーの中で。
「途中で、家電量販店とスーパーに寄って下さい。お金はありますか」
「さやに贈る婚約指輪と結婚指輪の資金は随分前からプールしている。左手の薬指は何号だろうか」
 そんな言葉はきっぱり無視。
「質問に答えて下さい」
「さやを養うために無駄金は使っていない。現金ならひとまず一束を持っている。足りなきゃカードで」
 一束? 百万円か、そりゃまた御大尽な。カードなど恐ろしくて使えるか。
「充分です。だったらデパートにも寄って貰っていいですか」
「なにを買うか訊いてもいいだろうか」
「トマトを輪切りしたいので、一番高い三徳とペティナイフを買います」
「……済まない。トマトしか分からない」
 家電量販店で大容量のレンジ、スーパーで思いつく限りの食材を買う。デパートで思い切って一番高い包丁を。後で本物の彼女さんにちゃんと使って貰えばいい。
「よく分からないがそんなに本気で揃えてくれるなんて。嬉しくて熟睡出来る」
「それならよかった。同情したかいがあります」
 山本のマンションに着く。仕方なく、今度は清子が持たされた鍵で玄関を開けて上げた。
 時間が結構遅くなってしまった。しかし、焼きそばなら簡単に出来る。ただし、一挙に何人前もなんて無理である。三人前ずつ作って、大皿三つに分けて持って行った。嬉々満面な山本は清子が一人前食べる間にぺろりと平らげた。この食欲が普通なら、清子が大嫌いと言った期間の生活がどれだけだったか。何度か死んだだろう実際問題。さすがに情が沸いた。
 食後、山本が皿洗いをすると言って来る。どうもそれは出来るらしいが、いくらなんでも眠って欲しかった。自分は一時の家政婦。早く気が変わって欲しい。
「お風呂に入って眠って下さい。明日朝起こしに行きますから目覚ましとか掛けなくていいですよ」
「新婚そのものだ。嬉しくて熟睡出来る。これが毎日なんて鼻血と滂沱だ」
「外面は悪くないんですからそれは止めて下さい」
 本当に鼻血を吹かれそう。山本をというよりあのふとんを心配した。
「お風呂は落とさなくていいよ、俺が掃除する」
 それは助かる、正直に。
「じゃあ眠るよ、ぐっすり」
 山本はまた清子の直近に迫り、 
「おやすみさや。好きだよ」
 熱く告げて空き部屋に向かった。
 それは止めてくれと言いたかったが、まあすぐ気が変わるだろう。言わせておけ、今の内だ。
 山本が風呂に入る間、明日の朝食の準備をして、その後に清子が。この間入ってそう思ったが、脱衣場もまともな広さで、とても綺麗に使われていた。追い炊き機能があるなんていいなあと思いながら。
 入浴後、自前のブラをきっちり着けて、自前のパジャマをきっちり着込んで寝室へ移動。実際ここのベッドはとてもいい。ダブルより少し広い。清潔なシーツ、ふかふか、よく干してあって温かいのに軽い。スプリングの固さも軽過ぎず丁度よかった。これは、おそらく山本はここの部分だけかなりケチを付けて業者に発注したのではないだろうか。ここまで睡眠に気を遣っていながら、一週間も十日も不眠……信じられない。
 ブラを外し、いやでも香る山本のにおいを纏って眠った。