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 四月一日、二十三区の北はずれの会社に、加納清子は入社した。清子と書いてサヤコと読む。両親が、現在は降嫁した某宮様にあやかって名付けた。よってニックネームはサーヤ、としたかったが、畏れ多くて、また、清子と書きゃ普通キヨコかセイコと読まれ、誰もサヤコとは呼ばなかった。
 都内の四大卒後入ったが、入社試験の成績は下から数えた方が早かったらしく、配属時から他の同期とは差を付けられた。でも、なんら気負わなかった。自分に輝かしい才能などないと分かっていたし、就職出来ただけで儲けもん。この会社にしがみついて、とにかく働かなければ。そう思っていた。
 同期の主席は大層頭が良かったらしいが三ヶ月で辞めた。理由、ボクこんなところ合いません、だと。甘いなあ、と清子も誰もが思った。
 仕事内容は最初こそ単純作業だったものの、三ヶ月も経てばちょっとした判断を求められる。それまで清子は、ただ先輩の言うことを聞いていればよかった。そう思っていた。
 でも、次はなにをすればいいんですかといちいち訊く清子に、直接の指導係である先輩が「自分で考えて行動しなさい」と言った。その時清子は考えを改めた。そう、社会人なんだから考えなきゃ、と。
 その先輩は社内恋愛をしていて退職を考えているという。辞める前に、先輩の判断力を少しでいい、身につけなきゃ。そう思った。
 電話での応対。お客様への応対。ちょっとした気遣い。それが清子は出来なかったが、先輩はとても気が利いた。そこを見習いたかった。いつしか清子は単純作業を完璧に出来ていた。
 この会社は従業員が百名ほどで、毎年新入社員を採用した。だから、一年後には清子にも後輩が出来た。渡辺という彼は、なんでももう彼女と同棲しているらしい。時折お惚気が出る。でも、清子は羨ましいとは思わなかった。
 同期はもう、最初の階級・チーフになる者までいた。清子は未だ単純作業とちょっとした判断、というのが業務内容だったが、その差を気にも留めなかった。
 しかし、情報通の渡辺と組むと、そういった話が耳に入るようになった。なんでも去年、つまり清子達の期で入社試験を上から二番目に通った女性は美人聡明。三番目はハンサム頭脳明晰。この二人が出世頭。時たま二人っきりでいい雰囲気になっている、ゴールインは秒読み。かもしれない。ハンサムの方がもうチーフ。来年には主任の座も狙えると。だがこの二人と清子は課が違う、同フロア内とはいえ机の場所も遠い。渡辺以外は同期とも、社用の話とせいぜい挨拶程度しか会話はない。別次元の話だった。
 五月のある日、総務課の清子に、営業課からヘルプ依頼が来た。内容は単純作業の最たるもの、お茶汲み。営業事務の女性社員が全員出払っていて、むさい男しかいないからやってくれ、だと。営業にだって新入社員はいるのに。男女差別よね。
 とは思ったが別に構わない。言われた通りにした。
 その客は清子でも知っている重要な取引先、上から三番目くらい売り上げがある大のお得意先。誰であろうとお客様はお客様。衝立で囲われただけの客間に、ふたつお茶を淹れて持って行く。すると、客と相対する、清子の会社側の人間から、覚えのある心地いい甘いにおいがふんわりと漂った。香水だ。付け過ぎされれば誰でも嫌だが、このくらいほのかであればとてもいい。だから、本来であれば認識する気もない、自社の社員の顔をチラと見てみた。すると彼は渡辺が言っていたチーフでハンサムとやらだった。ありがとうと言われたが、ただのお茶汲みが客間で声を出して返事をする必要はない。心の中で、ハイハイお疲れ様ですねとだけ思って、さっさとそこを出て職場に戻った。
 七月のある日、定時となり、女子更衣室で着替えた後、ビル一階出入り口までの道のりで、ままあることだが社内男性の評論会、のような会話があった。誰それがいいだの、誰と誰が付き合っているだの。
 その中でも、背が高い、脚が長い、スーツのセンスもいい、声もよく、笑顔がスキテなハンサムで、営業成績抜群という社員の話の時は、女性達は色めき立った。
「やっぱ山本君がイチオシよね!」
 どうもあの、チーフでハンサムとやらのことを言っているらしい。
 清子は腰まで届く黒髪を後ろ一つでひっ詰めていて、極端に視力が悪いとはいえ今時な黒ぶちの瓶底眼鏡。更に普段着もヤボな服装。実はスレンダーでE65なのだが、そうと誰に吹聴しているわけでもなく、女同士とでも社用以外はほとんど会話なし。だから、普段は誰も清子に話を振らなかったのだが、なぜか今日は意見を求められた。
「加納さんはどう思う?」
 もちろん、あなたもそう思っているわよね。そう言いたげな問いに、清子は吐き捨てるように言い放った。
「ああ、その人同期みたいですけど。私、大っ嫌いですから」
 すると、突然周りが黙った。
 ? 私、なにか言ったっけ。
 と思ったら、覚えのある心地いいにおいがした。そっちに顔を向けると当人がいた。
 営業帰りであろう、ビジネス鞄を片手に持つ山本は明らかに不機嫌だった。つまりはバッチリ聞かれていたらしい。
 清子は別に構わなかった。誰に喧嘩を売ってもいいや、という投げやりな気持ちで、平然と脇を通り過ぎた。
 九月のある日、まだまだ夏真っ盛りな時期に、渡辺から合コンの誘いがあった。なにせこんな外見、社交的でない清子にそんな話を振るといったら、社交的で先輩思いな渡辺くらいなもの。大学を出てから彼氏いない歴三年で、悪くない男ならそろそろ考えてもいいかなと思い、行ってみると伝えた。
 五対五で、そこらの居酒屋で行われた。なぜか彼女持ちの渡辺も来ていたが、こいつは彼女にゾッコンな割にこういう所にもよく来る。清子は、あまり積極的でない自分のお守りをして上げようと思って来てくれたのだな、と思っていた。半分は当たりだが、半分は渡辺の浮気心によるものだった。
「あれ?」
 渡辺が素っ頓狂な声を上げる。
「? どうしたの?」
「あれ見て下さいよ」
 渡辺の指し示す方向には、山本がいた。
「……山本先輩っスね。向こうのメンツって違った筈なのにいつの間に……っつーか木下さんと付き合っている筈なんスけど……」
 木下というのが、入社の成績が上から二番目の聡明な美人のこと。
 清子はその辺どうでもよかったが、この場は合コン。基本的に相手がいないからここに来るのであって。彼女がいるのになにをやっているんだろうね、と渡辺と共に思った。
 それはともかく、清子は残りの三人を品定めしてみた。あ、なんかあの彼、私のこと見てそ。
 そろそろ声を掛けられるかな。そういうタイミングで、その彼に声を掛けたのが山本。
 ? 知り合いだったのかな?
 二人共にどこかにいなくなった。なんだろ。
 その間渡辺によって次の酒、モスコミュールが運ばれて来る。とりあえずそれに手を付けて、飲んでいたら彼とやらのことを忘れてしまった。その後山本が一人で帰って来たことも気付かなかった。
 結局時間終了まで、清子に声を掛ける者といったら渡辺だけだった。山本は清子以外の四人の女性に話し掛けられても一切応じず一人で飲んでいた。なにをしに来たのやら。
 渡辺と共に居酒屋を出る。あーああ、結局私は外れかあ。一組くらいカップル出来たみたいだね。なんて話をしながら、渡辺と駅で別れた。
 清子のアパートは区外にあり、会社から満員電車を乗り継いで一時間掛かる。今晩の合コンは終電で帰った。ギリギリだった。明日も会社がある、さっさと眠った。
 翌日午後五時。さあ帰るぞと思ったが、着替えに手間取り女子更衣室を出たのが遅くなった。早く帰ってオンラインゲームの続きをしたい。
 そう思って出ると、すぐの所に見覚えのある男性社員がいた。女子更衣室前である、男はなかなか居辛いのに。清子だってそう思うのだから、周囲の女子社員もその男性に奇異な目を向けていた。
 そんなものなど全く意に介さず、山本は清子だけに言った。
「残業してくれ」
 山本は営業主任補佐になっていた。いずれ総務の清子とは所属が違う。そして、この会社で残業とはイコール、サービス残業。手当など出ない。
「はい」
 これではまるで待ち構えていたみたいじゃないか。何故課の違う自分に声を掛けたのか。大嫌いと言ったのは聞こえた筈なのに。まさかその意趣返し?
 言いたいことは色々あったが、仕事と割り切ってただ従った。
 渡されたのは分厚い資料。残業内容は手書きの書類をデータ化するというものだった。単純作業だが量がある。今時手書きとは。しかも言いたくないが字が汚い。こういうのが一番困る。これはひょっとして午前様?
 思った以上の量だった。単純作業には自信があり、ワープロ検定一級程度の打鍵スピードを持つ清子でも、最終確認をおえるまで、深夜の二時まで掛かった。
 おわりましたと言うと、
「ありがとう。助かった」
 当然の反応だった。
「とっくに終電も出た。君の家は電車で一時間だったな、タクシーも深夜割り増しだ。明日もある、申し訳ないが俺の家で休んでくれ。これが鍵」
 ……はい?
 目の前にかざされたのは銀色のそれ。清子はまじまじ見る気にはならなかったが、複製ではなく本物だった。
「俺の家だと車で十分だ。マンション一階一番奥。ベッドだけはでかい、この時間だと三時間程度しか眠れないかも」
 なにを言っているのか理解出来なかった。あろうことか彼女がいる他人の家に泊まれとは。
「その辺のカプセルホテルにでも泊まります」
「金が掛かるだろう」
「知らない人の家になんか泊まりたくありません」
「君と俺は同期、同い年だ」
 どうやら清子のことを多少は知っているらしい。確かに入社式で顔は合わせた。だったらと思って清子も言い返した。
「もうとっくに肩書きが違います」
「お礼がしたい」
「要りません。ただ仕事をしただけです」
「残業代も出ない。頼むから泊まってくれないか。後で埋め合わせをする」
「必要ありません」
 その後も押し問答があったものの、結局鍵とタクシー代を押し付けられてしまった。まだまだ入社二年目、手取りが二十万円を超えるわけでもなく、カプセルとは言え出費も痛く。そこをつかれては弱かった。
 仕方なく、ロッカーに入れていた非常時用着替えを持って、住所氏名携帯番号なぜかメールアドレスまで書かれたメモも持たされ、タクシーに乗った。さすがに眠かった。
 暗くて街灯だけで分からなかったが、とにかくマンションのエントランスへ。管理人なんかとっくに帰っていた。言われた通りオートロックを解錠して。一階、階段を使わず。一番奥というドアを開ける。
 本当なら、必要最小限の灯りだけ点したかったが、どれがどれか分からず全部点けるはめに。室内の構造を訊かなかったので、一部屋一部屋見ざるを得なかった。
 一本の廊下をはさんで左手前に六畳程度の、何も置かれていない和室。その向かいが八畳程度のこれまた和室、ここには荷物が入っている。物置として使っているようだ。奥には寝室、仕事部屋。風呂場、トイレ。一番奥がキッチン、リビング兼ダイニング。その先には一階のみにちょっとした庭がある模様だが清子はそこまで認識しなかった。
 とにかく、余計に使いたくない、手をつけたくない。だから風呂には入らなかった。シャワーも浴びなかった。洗顔だけはした。
 彼女持ちの男の寝室になど、間違っても足を踏み入れるつもりはない。他に寝具がなければ即座に出て行ったが、玄関から入ってすぐの一番手前の六畳の和室の押し入れにふとんがあった。きれいで、山本とすれ違う度香ったあの心地いいにおいがない。ほとんど使っていないようだった。これならと思って引っ張り出して敷く。ふとんにもぐってとにかく目を閉じた。
 翌朝、というより三時間後の六時過ぎに携帯の目覚ましアラームが鳴った。眠いなんてもんじゃない、頭もまぶたも顔も重い。気分は最悪。熟睡など出来よう筈もなく。それでも起きて、ふとんを丁寧にたたんで元の位置に戻す。着替えて洗顔、化粧。タオルでしつこいくらい洗面ボウルを拭き、完璧に使用痕を消す。メモとタクシー代と言われた札の入った袋を玄関の靴箱上に置き、ドアを閉める。夕べは暗くてほとんど見えなかった集合ポストに鍵を投げマンションをあとにした。この辺の地理が分からず、電車には乗れなかったのでタクシーを使用。結局カプセルホテル代とあまり変わらず。コンビニに寄り、ゼリー状の飲み物を朝飯代わりにして出社した。
 清子としてはいつもの時間に、だったのだが、通勤時間が単純計算で五十分違う。つまりは一番に出社したらしい。もうちょっと眠っていればよかったか。
 そう思ってフロアへ。誰もいない……いや、一人いた。山本だった。
 山本は結局自宅に戻らなかったのだから、帰っていない。つまり徹夜か?
 さすがにそばに行ってみた。
「帰らなかったんですか」
 山本はパソコンに向き合ったまま答えた。
「情報収集、資料作成」
 つまりは清子になんか出来ない仕事をしていたということ。
 せわしなく打っていたキーボードから指を離し、清子に向き直す山本。身長はおそらく180cm以上あるだろう、155cmの清子とは30cm近く差がある。だから上から見下ろされていたのだが、今は逆だった。徹夜した筈なのにクマも出来ていない。最悪な気分を化粧で隠した清子とは対照的。下から見上げるその表情。
 真摯だった。真っ直ぐな視線は明らかに艶を帯びていた。
「夕べはありがとう。週末、この埋め合わせを」
「要りません。私、そちらさんを生理的に受け付けません、大っ嫌いです」
 言い放ってフロアを出た。みんなが出社するまで更衣室でうとうとした。
 その日は誰にもとっ捕まらず、五時に帰れた。さすがにゲームする気にはならない、アパートに着いて風呂に入ってふとんにもぐって爆睡した。
 その後十日間は五時に上がれて、実に平和的に過ごせた。
 しかし、そう思っていたのは清子だけだったらしい。女子更衣室を出ると今度は渡辺に捕まった。もっとも仕事をしろではなく、ちょっと飲まないかと誘われて。
 いつもの居酒屋、一階のカウンターで。
「いやー、社内じゃとても言えませんよー」
 だそうだ。なにかあったか?
「もー山本先輩恐怖っスよー。気付きませんでした? この十日間、なにが気に入らないんだかご機嫌最悪、営業のやつら戦々恐々。触れりゃ一触即発、触らぬ神に祟りなし状態。一文字でもミスしたら女性社員でも怒鳴り飛ばして。目ぇ爛々で怖ぇっス。隣の課まで被害が及んだそうですよ。どっちの課長も恐れをなしていたそうっスー」
 清子はいつものモスコミュールを飲んだ。
「やっぱRPGは騎士に限るわよね」
「そんなんやってっから視力落ちるんですよ。コンタクトにすりゃいいのに」
「合わないんだよね。四時間しか持たない」
 その後も話をしたが、途中渡辺の彼女から電話が入り、居酒屋内で別れた。
 渡辺は後輩であるが、一応男なので割り勘。安くはないが、気の置けない相手なので高くもない。さ、アパートに帰ってゲームゲーム。
 もう一杯飲んでそこを出ると、出入り口でまた男に待ち構えられた。今度の相手はあの山本。ご機嫌最悪という顔をして腕を組み仁王立ち。香りだけがふんわりと心地よかった。
「一緒に来て欲しい」
「社外です」
 さっさと隣を通り過ぎようと思ったらこう言われた。
「君の手料理が食べたい」
「は?」
 思わず立ち止まってしまった。言うに事欠いてなにを言い出すのか。
「彼女に作って貰って下さい」
「彼女などいない」
 即座に断言された。いたんじゃなかったの?
「君の手料理が食べたい。俺は料理が出来ない。主食はでかいカップラーメン五個」
「……は?」
「やかんに水を入れて沸かす以外なにも出来ない」
 意味不明。
「どうか同情して欲しい」
「同情するなら金をくれとか」
「金なら稼いでいる。受け取っても貰えないが。どうか同情して欲しい。来てくれ」
 山本はタクシーを待機させていたようだ。あの日の押し問答のように結局押し切られ車に押し込まれてしまう。
「俺の番号とアドレスを登録してくれないか」
 あの、艶を帯びた瞳が狭い車内で近付いて来る。持てと言わんばかりにかざされるメモは、どう見てもあの日玄関に投げたそれだった。
「要りません。生理的に受け付けないと言った筈です」
 プイと視線を外に向け、受け取りはしない清子。狭くても距離を取ろうと、タクシーの後部座席の、さらに右側に移動する。
「そこまで嫌われることをなにかしただろうか」
 真摯な声がまた近付く。においをより感じた。
「例えばハゲとか脂ぎったじいさんとかを、どうしても受け付けられない人がいるように、私そちらさんを受け付けないんです。それだけですけど」
「理由を訊かせて欲しい」
「今言いましたよ」
「同期なのに名前どころか名字も呼んでくれないのは何故だろうか」
 責めたり、詰ったりするような声ではなかった。それがこんなに近くで聞こえる。確かにいい声だと、清子でも思わざるを得なかった。
「嫌いだからですよ」
 冷たく言い放つ。
「俺はそこまでなにかしただろうか」
「押し問答です」
 意外とあのマンションと近いところで飲んでいたらしく、すぐに車は着いた。山本は清子の手首を掴んで問答無用といわんばかりに家に連れて行く。
「離して下さい、鳥肌が立ちます」
 大きな手だった。振りほどこうとしてもビクともしない。
「とにかく来て欲しい」
 あの日見た玄関を開け、室内に押し込まれる。靴を脱ぎ、廊下に上がった山本はすぐ右の、物置としている部屋のふすまを開け放った。
「見てくれ、この十日間の食事の残骸だ。明日がゴミの日なので出すが」
 玄関にいたままの清子でも分かる、見させられたそれは、発泡酒ではなく本物のビールの500ml空き缶、きちんと潰されたそれらがでかい袋に三つ。
「……食事じゃなくて、食後の残骸では……」
 あの日来た時、そこにあんなものはなかった筈。
「この十日間、食事は一日に夕食の一回ビールしか飲んでいない」
「は?」
「唯一出来るやかんに水入れする気も起きなかった。5kg痩せた」
「……は?」
「どうか同情して欲しい」
 そんなことを言う人間など初めて見た。
「それで、どうやって生活したんですか?」
 思わず心配めいたことを言ってしまった。
「同情してくれただろうか」
 なんだかもう、そういうレベルですらないような。
 山本はやけに重い足取りで奥の部屋へ向かった。
「料理が出来ないので、器具もなにも揃っていない。そこから準備して貰えるとありがたい。無論金は出す。近くにスーパーがあるから」
 靴を脱ぐ気さえない清子は玄関で立ったまま。
「そこらのお美人さんを掴まえて頼んで下さい」
 すると山本は即座に後ろを振り向き、戻って来て、艶っぽい瞳のまま言った。
「君が美人だ。君の手料理が食べたい」
 真っ直ぐ真摯に。清子だけに。
「……あのですねえ」
 清子はプイとそっぽを向いた。嘘っぱちで“キミ可愛いねえ”なんて言われたことはあっても、美人と言われたことは一度もない。実際そういう容姿なのだ、なにを言っているのか。
「それとなく何度もモーションを掛けたつもりが気付いて貰えない。仕舞いには大嫌い、輪をかけて生理的に受け付けないだ。そこまで言われることを、俺はしただろうか」
 決して詰るではない声が直近で響く。
「あのですねえ……」
 そっぽを向く方向に山本は来た。玄関に降り、さっき脱いだ靴を履き、かがんて清子に視線を合わせ、熱く語りかける。
「ビールしか飲んでいない。はっきり言って倒れる寸前だ」
「でしょうねえ」
 清子は下を向いた。誰に喧嘩を売ってもいいので、こんな、負けたみたいな態度は取りたくなかったのだが、それしかやりようがなかった。
「同情しては貰えないだろうか」
 なのに山本の声は、さらにもっと近くでした。清子の髪の毛に触れるか触れないかのところで。
「あのですねえ……」
 どこの世の中に同情してくれって言う人がいるのよ。今の世の中金をくれ、ですよ?
「同情して欲しい。お願いだ」
「はぁ……」
 さっきから藁にも縋る勢いで、どう見ても必死。そういえば、いつか見た顔よりもほほが痩けていて。熱く艶っぽい瞳は充血。
 清子とて酒が嫌いではないが、毎日一食ビールだけ十日間など聞いたことがない。
「……じゃあ。ちょっと、キッチンを拝見します」
 玄関口で大の大人二人がいるのもなんだな。そう思い、仕方なく靴を脱いで上がった。
「ありがとう。嬉しい。泣いていいだろうか」
 おそらく本当に嬉しいのだろう。声は玄関で止まったまま。振り向かず言った。
「大の男が止めて下さい」
 奥の部屋へ向かう。用事はさっさと済まそうと、すぐに台所探検を開始した。
 食器棚に皿だのが形だけは揃っているが、使用痕はなし。冷蔵庫はビールとミネラルウォターだけ。冷凍庫は氷のみ。コンロの上のやかんだけ使用形跡が激しく。シンクは一応きれいだが、要するに使っていないだけ。収納スペースにはでかいカップラーメンが山、他にはなにもない。水切りかご・三角コーナー・ふきん等々存在せず。調理器具一切なし。
「同情して貰えたようだ」
 そんなことを嬉しそうに、じき隣で言わないで欲しい。
「っていうか最低ですよ。女を連れ込んでやる前に、揃えて貰って下さいよ」
「君に揃えて欲しかった。連れ込んだのは君だけだ。同情して貰えたようだ、早速スーパーに行こう」
 またしても問答無用とばかりに手首を掴まれる。男の大きな手の中では、自分の手首など細いだけなのだろう。
「スーパーだけじゃカレーも作れません」
 家の外に連れ出され、歩きすがら訊かれた。
「カレーというと、中学とかで作るあれだろうか」
 なに言ってるんだろうこの人。
「はいはいそんな程度しか作れません。高い店に行って高いねーちゃんを連れて外食すりゃいいじゃないですか」
 すると山本は立ち止まる。清子の手首を自分の口元に持って来て、左手の薬指になにもないのを確かめて。
「俺は五歳で両親を失った」
「は?」
 持って行かれた手首の先、真摯な真っ直ぐな瞳とぶつかる。
「以来天涯孤独だ。小学校も中学校も高校もろくに行っていない。十七歳の時に赤の他人に面倒を見て貰って大学だけは六大学に行けた。調理実習で出るようなカレーを食べるのが夢だった。作って貰えるだろうか」
 ……いくら、なんでも……
「同情して貰えただろうか」
 清子はため息をついた。
「……じゃあ。揃えますから。お金が掛かりますよ」
「いくらでも。やっと稼いだ実感が沸ける」
 にこりと笑い、満足げに熱く艶のある瞳を細める。山本は笑うと首を少しかしげる癖があるらしい。
 清子は手首ごと腕をおろした。それでも山本はDIY店に着くまでそれを離さなかった。
 台所には米すらなかったので、米びつから揃えた。よってジャーは勿論、ボール・鍋・まな板はおろか包丁までない。ビールで十日間の前に、少なくとも社会人となって一年半、そもそも生きて来れたのが懐疑的。
「店屋物は飽きた。カップラーメンも飽きたが他に作れない。君の手料理が食べたい」
「はいはい。荷物持ちをお願いします」
「いくらでも」
 カレーって作るのがこんなに大変だったかなあ。手抜き料理しか作れない清子でも、一から揃えるなど骨が折れた。
「後で車を買おう。ディーラーに行きたい、付き合って貰えるだろうか」
 次々買い続けるこの量を運ぶなら車があった方がいいだろう。だが、こんなことはいつもあるわけじゃない。
「区内に住んでいて車なんているんですか。その辺のお美人さんを掴まえて下さいってば」
 清子が選び、山本が荷物持ちをして金を払うのだから、清子が前で山本はその後ろを付き従う。だから、手首を掴まれる必要がなく、いちいち顔を突き合わせずに済んだ。
「君が美人だ。俺の車の助手席は君専用だ」
 艶めいた声はずっと、すぐ後ろで。
「はいはい、寝言は昨日言って下さい」
「君の寝言が聞きたい」
「はいはい」
「俺は大食漢だ。たくさん作って貰えると嬉しい」
「あーそーですか。じゃルー全部使いますか」
「明日の食事も作ってくれると嬉しい」
「器具は揃えますから、あとはどっかのお美人さんにどうぞ」
「君が美人だ。君の手料理が食べたい」
「手料理手料理言いますけど、手抜き料理もどきしか作れませんってば」
「君が作れば手料理だ。手料理など五歳の時以来食べていない」
「……マジですか」
「同情して貰えただろうか」
 DIY店で器具の次はスーパー。この分だとルー一箱全部食われそう。というより、ゆっくりでいいから食べて貰わなくては。今日もビールなら間違いなく今日倒れる。それはいくらなんでも迷惑だ。
「目玉焼きぐらい出来るでしょう」
「ひょっとして、フライパンとかを使うのだろうか」
「ひょっとしなくても使いますよ。油を引いて卵を割りゃ出来ますって」
「卵を割ったことがない。油を引くとはどういうことだろうか」
 論外だ。買わなきゃ。米みそだし、各種オイルに各種調味料、ルー、肉、福神漬け、甘らっきょう、にんじん、じゃがいも、たまねぎ、牛乳、卵、キャベツ、……
「カレーにキャベツを入れるとは知らなかった」
「明日のサラダの材料ですってば」
「そこまで考えて貰えるとは。嬉しい、泣いていいだろうか」
「お願いですからせめて家に帰ってからにして下さい」
 清子は、まるで自分が一人前のシェフになった気がした。
 大荷物になったので、タクシーの後部座席だけではとても収まらずトランクにも詰めた。さっさとマンション一階へ。荷物全部を一人抱えた山本と、身軽な清子が玄関に向かった。
「重いでしょうけど、私非力なんで」
「君には箸より重い物を持たせるつもりはない」
 その山本は玄関前で、ドアを開ける為に大荷物全部を片手に移し、空いた片手で鍵を使い、玄関を開けて清子に先に入るよう促した。
 キッチンに全部の荷物を降ろして貰った清子は、山本の手のひらをチラと見た。赤くもなんともなっていない。まさか軽かった、というわけではなかろうな。
「準備もありますので、多分一時間以上掛かります。その間着替えて楽な格好にでもなって下さい。お風呂どうぞ」
「まるで新婚だ。泣いていいだろうか」
「あーそーですか。好きにして下さい」
 さっさと調理を開始。何合炊こう。大食らいっていうから……面倒だし明日の分もあるし。五合にしとくか。何人前だっつーの。
 全部新品に囲まれ調理するなんて初めてだ。いいのかなあと思うが、新品の鍋ボールまな板包丁を使用可能にする所から始めなければならないとは。
 煮込んでいると、山本が風呂から出たようだ。さっぱりしていてパジャマ姿。
「君も風呂に入って」
 にこやかに優しく言われる。一瞬だけはそっちを見た。
「作ったら帰ります」
 おたまで鍋をかき混ぜていると、重い足取りが近付いた。
「出来れば、泊まって貰えるとありがたい」
 じき後ろ、頭の上から言われている。振り向きはしなかった。
「お味噌汁を温めて下さい。そのくらい出来るでしょう」
「水しか沸かしたことがない」
「慣れて下さい。仕事出来るんだから、作ったものを温めるくらいして下さい」
「出来ない。君にお願いしたい」
「甘えないで下さい」
「君に甘えたい」
 ふわりと漂う、あの心地いい甘いかおり。後で知ることになるその正体は、アルマーニのアクア・ディ・ジオ。地中海に浮かぶ幻想的な島をモチーフにした香り。深い情感を湛えた心地よい甘さ。
「いい加減にして下さい」
「どうか泊まって行って欲しい。もう帰したくない」
 このままだと後ろから抱き締められそうだ。だから言った。
「生理的に受け付けないほど大嫌いだと言った筈です」
「理由を聞かなければ納得出来ない」
 強い口調で返された。
「自分はおステキで女なら誰でもなびくと思っています? ふざけんな」
「君だけなびいてくれればいい」
「こんな瓶底眼鏡女のどこがいいのやら」
「やっと話を逸らさず本題に入ってくれたようだ」
 なにやら満足げな山本は、清子がお玉を持つ右手側ではなく、左手側に移動した。横から清子の瞳をしっかり見つめ、直近で。
「君が好きだ」
 熱く告げられる。清子はまたもため息をついた。
「あーそーですか。もうすぐ出来ますから座って下さい」
「嬉しい」
 まるで色よい返事を貰えたかのように、山本はにこやかに優しく笑う。
「さっき風呂場で号泣した」
「あーそーですか。独りでせっせと泣いて下さい」
 ルーを割り入れよくかき混ぜる。米が出来上がりそう。
「いいにおいだ。この家でも家庭的になれたんだな」
 ダイニングのソファに座ったのだろう、山本が、仕事の時とは違う、開放的なプライベートな雰囲気で言った。室内を見渡し、満たすにおいを思いっきり吸っている。そんな感じ。
「そちらさん、女なんか引く手あまたでしょう。どっかの女を連れ込んでやって下さいよ」
 清子は鍋に向き合ったまま。
「連れ込むのは君だけだ。忠弘と呼んで欲しい。君が好きだ」
 さっきより距離があっても、真摯な声は清子だけに向けられる。
「あーそーですか。甘らっきょうは食べられますか」
「君の手料理ならなんでも」
「毒でも入れますか」
「君と死ねるなら本望だ」
 牛乳を入れて。
「とりあえずこの皿に盛りますけど。これで何皿入りそうですか」
 カレー用の皿はなく、わざわざ買ってやるつもりもなかった。とにかく、ルーがこぼれなさそうで、でかいのを、と思ったものを山本に見せる。
「五皿は行ける。大盛りで」
「信じらんない……あのですね」
「なんだろうか」
「胃が縮んでいると思いますので、ゆっくり食べて下さい」
「君に気遣って貰えるなんて。嬉しい、今夜も眠れない」
「まだ火曜日ですよ」
 出来上がったので、まずスプーンと水を二つずつテーブルに。次に皿にご飯を大盛り、ルーをたくさんかけて。福神漬け、甘らっきょうを山盛りで添えて持って行く。
 山本用の皿は重くて、とても自分のと一緒には運べなかった。普通の大きさの皿に普通に盛ってダイニングに行くと、山本は先に食べず待っていた。
「君はその量で間に合うのか」
「私はいいですから、食べて下さい」
 テーブルは一つしかないし、ひとつで一人用の体にフィットするビーズの細かい生成りのソファはふたつしかない。仕方なくそれに座って、仕方なく向き合って食べることに。
「君の手料理を一緒に食べられる。長年の夢が達成された」
「大げさな。いただきます」
 両手を合わせてそう言うと、山本はぽかんとした。
「? どうしました?」
「その儀式をするのは、約二十年振りだ」
「……」
 いくらなんでも同情した。それからは静かに食べた。
 の、つもりだったが、清子が少し食べた所で山本の皿が空になった。同情したので、お代わりを盛って上げた。
「まるで新婚だ。嬉しい。とても美味しいよ。泣きながら食べてもいいだろうか」
 その表情たるや、ジャンボ宝くじの一等プラス前後賞が当たったってこうはならない、それくらい嬉々満面の笑顔。まさに号泣一歩手前。嬉しいのは分かったが、本当にただの、市販のルーを使ったってだけのカレーなのだが。
「そうガツガツ食べないで下さいって言ったでしょう。胃に悪いですよ」
「君に心配されるなんて俺の胃は幸せだ」
 山本の皿はまたすぐに空になる。食べているより、ダイニングとキッチンを往復してお代わりを盛る時間の方が長いような気がした。
 ごちそうさまと言われるまで、その場に留まって上げようと思った。しかし結局、その声を聞く前に鍋もジャーもすっからかん。末恐ろしいったらありゃしない。
「幸せ過ぎて眠れない。とても美味しかった、ありがとう。お風呂に入ってくれ」
「着替えがありません」
 社会人の女として最低限の身だしなみ、バッグにストッキングとショーツの替えくらいは忍ばせてある。だがそうとは言いたくなかった。このまま行けば明日は今日と同じ服で、しかも最悪、山本付きで出社するはめになる。一体どこの朝帰りか。
「ああ……そうか」
 なにこの男。女を連れ込んだことがないの?
「二十四時間の衣服店が近くにある、買って来よう」
「要りませんよ。帰ります」
「帰らないで欲しい」
「出来ませんよ、着替えがないんですから」
「買うから、帰らないで。もう独りには戻りたくない。二十年間、独りだった。どうか同情して欲しい」
 ……そればっか。
「二十年間ずっともてたでしょう」
「一年半前までは独りでいいと思ったが、君に逢えて気が変わった」
「まさかイヴになる歳にもなって、女を知らないなんて言うんじゃないでしょうね」
 言っておいてなんだが、それはなさそうだ。
「さすがに言わない。ただし誰とも一週間持たなかった。全部向こうから言われた。二・三度会って別れた」
「言っときますけど私にだって相手がいましたよ」
「この歳でなにもないなんて有り得ない。極論を言えば、君にセフレがいようと驚かない。無論今からは、全員切って貰う」
 これは驚いた。セフレなんて言葉が出るとは。だがもちろん、そんなことを言われるなんて心外だ。
「そちらさんにはセフレが山ほどいそうですね」
 自分など、その内の一人に過ぎないってか。
「いない。君でなければ勃つものも勃たない」
「なに下ネタをかましているんですか。帰りますよ」
「済まない、性急過ぎた。帰らないで欲しい。せめて寝室のベッドを使って。この間、空きの部屋のふとんを使っただろう。とにかくうちのベッドだけはまともなんだ。そこで眠って」
「そちらさんはどうするんですか」
「忠弘と呼んで欲しい」
「質問に答えて下さい」
「君と寝たい」
「帰ります」
「済まない、本音で言ってしまった。俺が空きの部屋で寝る。どうか俺のにおいを感じて眠って欲しい」
「……帰ろ」
 残念ながら終電時刻を過ぎていた。これ幸いとばかりに衣服店とやらに行くと言う山本。
「ところで」
「なんですか」
「君のブラのカップとサイズは」
「帰ります」
 残念ながら清子には、ここからアパートまで一時間のタクシー代の持ち合わせなどなかった。クレジットカードは怖くて作っていない。食材器具を買う金は出したのに、その金だけは出さないという山本。携帯電話で渡辺を呼んで迎えに来て貰おうとも考えたが、どこに呼ぼうというのだ。見事に足止めを食らってしまった。やはりさっさと帰るんだったと後悔しても後の祭り。
 仕方なく、米を研いでジャーのタイマーをセットし、ソファに座って待っていると、そう時間も掛からず山本が帰って来た。服が入っているであろう紙袋を清子に手渡し、お風呂に入って眠って、おやすみと言って空きの部屋に消えて行った。
 さてどんなものを買って来たのやら。さすがに興味が沸いて紙袋を開ける。中には、センスのいい上品なツーピースが入ってあった。ちょっとシックで大人っぽい。秋色だ。
 ブラもあった。D・E・Fの、それぞれ65と70が計六つ。ショーツは揃いの色でM・S二つずつが計四つ。色は淡いイエロー+桃色と純白。あーそーですか。一応見はしたが、身に着ける気など全くない。感想を当人に言うなどもってのほか。
 パジャマはなかった。確かに買って来いと言わなかった清子が悪いかもしれないが、女を一度でも連れ込んだことがあるなら必需品と分かる筈。自分のパジャマを渡すという発想もないところからして、本当に女を連れ込んだことはないようだ。
 風呂場と寝室は近いから、出来れば風呂上りのままの楽な格好で移動したいが、間違っても真っ裸なんて姿を見られたくない。仕方なく、入浴後元の服をきちんと着込む。汗ばむブラを嫌々着けて、ぱんつは自前の替えのものを。
 あの日は避けた寝室に入る。内側から鍵は掛けられないようだ。仕方なく脱ぐ。ぱんつ一丁で眠るしかなかった。まともというベッドに初めて入ってみる。ふかふかだった。シーツも清潔、掛けぶとんも清潔、よく干してあって気持ちいい。ほんとに山本のにおいがした。それにくるまれていつの間にか眠って、いつの間にか熟睡した。