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 東京都某市。少年は、その辺の川べりに座っていた。特にきれいな景色ではない。ただぼーっと見ていた。さきほどまで走っていたから、多少休憩をと思って。時刻は午後四時だった。夕暮れ時でもない、中途半端な時間。
 すると背後に犬の鳴き声が聞こえた。ここは散歩コース、そんな声が聞こえてもおかしくはない。
 そう思っていた。
「ちょ、ちょっと待って、ランラン!」
 ほぼ同年代の子? 甲高い声が、ばうばうと低い犬の声に、どう聞いても振り回されている。
 それで少年は後ろを向いた。見れば思った通りの場面が展開されていた。十歳にも満たないだろう女の子が、自分より体格のでかい犬に振り回されている。よほど活発な犬らしい、ひとときも大人しくしていない。
 このままだと、手に持つ綱を振りほどかれそう。そんな勢いで、犬は少年の方に向かって突進して来る。
「待って、ランラン!」
 歳なりの、可愛い声だった。
 少年は片膝を付くと、犬においでポーズを取る。すると犬は、あれだけ暴れていたのに、途端大人しくなった。
「え……あれ?」
 少女は息さえ弾ませて。
 少年は犬の頭をなでた。
「す、すごいね!」
 少女は弾けるような笑顔を、きらりと光る汗とともに見せる。少年もつられて笑顔になった。
「君の犬?」
 犬は後ろ足を付き、しっぽを振って少年に従順のポーズ。
「ううん、おじさんの犬。もう暴れちゃって。一日二回は散歩させてって言われていたんだけど、もうこの通りで……お母さんもういやとか言って、それであたしが連れて来たんだけど、もういつどっか行っちゃうかって感じで。すごいね、えっと……」
 少女は少年に訊きたいようだ。
「俺、竜也」
「あたし、有希」
「じゃあ有希。家、どこ? 本当にこいつ、有希を振り切りそうだ。一緒に行くよ」
「本当? 良かった、もう、いつの間にかこんな遠くに来ちゃって。困っていたの。ありがと竜也」
 竜也も子どもとはいえ未来の男。未来の女にこう言われれば嬉しい。
 道すがら、多少自分達のことを語り合った。小学校はどこかとか。犬の名前の由来とか。住所はとか。
「そんな遠くから? 随分歩いただろ」
「うん。もう歩くっていうか、走ったっていうか」
 片道5kmは走っている。小学校四年生にとってはフルマラソンだ。もっとも竜也は一日でもっと走っているのだが。
「ランラン、預かったんだよな。ひどいおじさんだ、分かっていて預けるなんて」
「ううん、そんなこと言わないで。おじさんはいい人だし、ランランもいい子なんだけど、どうもおじさんしか扱えないらしいの。知らなかった、ただおじさんのところで見ただけだったから、だから大丈夫かなって思ったんだけど」
「確かに犬は散歩させなきゃだめだけど、5kmなんて走り過ぎ。もう返した方がいいよ」
「うん、そうだね」
 ランランは従順だった。だから有希は、疲れていたこともあったし、ゆっくり歩けた。
 有希の家、鈴木家に着くと、ランランはばうばうと吠えた。それが聞こえたか、有希の母であろう人物が出て来た。
「やっと帰って来たの? もう、どこまで」
 と言いかけて、鈴木母は見たことのない人物がいると認識する。
「まあ……君は?」
「初めまして、竜也と申します。お嬢さんとはここから5km先の川べりで逢いました。暴れる犬に困っていたようでしたのでお連れしました。突然お邪魔してすみません、失礼します」
「ちょ、ちょっと待って!!」
 鈴木母は驚いた。この文章だけ見るなら成人した男性だ。しかし、目の前の人物は有希と身長が変わらない。
「き、君いくつ?」
「お嬢さんと同い年です。小学校は国部小」
 鈴木母はひたすら驚いた。隣の小学校であること、そのまま行けば学区上、中学は同じになることに、ではない。
 お嬢さんって。ちょっと待って、いくらなんでも。
「ま、まあとにかく、上がって? 有希を助けてくれたんでしょう、お礼しなきゃ。お茶を出すから」
「いえ、そのようなお気遣いは必要ありません」
 ここまで言われて素性を訊かずにはいられない。鈴木母は多少強引に、目の前の少年もどきを家に入れた。
 ここは都心ではなく、所詮は某市なので、ひとまず一軒家住まいではあるが、広いわけはない。平屋だ。庭も、ないも同然。ローンで買った古い車があるだけ。そんな家の居間のソファに竜也と娘を座らせ、鈴木母は冷蔵庫からウーロン茶を出した。氷を入れて。
「はい、どうぞ」
「すみません」
 竜也はぺこっと頭を下げた。
「あのねお母さん、竜也ってばすごいんだよ。あのランランが竜也の前だとすごく大人しくなって!」
 娘は、竜也の言葉遣いになんら気付かない。それは仕方がないが。
「ごめんなさいね竜也君。君の家まで送って行くから、主人が帰るまで待っててくれない?」
 鈴木父の仕事が上がるまで待てということだろう。だがここは区外、都心に勤めているなら通勤時間がある。この歳の娘を持つならまさか定時には帰れまい。つまり、あと何時間もここにいなくてはならない。
「いえ、そうは行きません」
「なに、門限でもあるの?」
 誘導尋問のつもりだった。これで、この子は家のことを話さざるを得ない、と。
「すみません、事情があって一人で住んでいますので」
 文面だけ見れば誘導尋問に引っかかって話してくれた、ということになる。でも。
 事情? なにそれ、小学校四年生が一人で?
 でも、事情と言われれば。
 鈴木母とて分かっている。こんなご時世、一軒家に住み、まともな仕事があって、家族三人で暮らしていること、これがどんなに幸せなことか。
 一歩、ちょっと違う世界を見れば。そう、親なし子なし、親殺し子殺し連れ合い殺し……それがこの国の現実。
 その雰囲気を竜也に見た鈴木母は、それ以上踏み込めなかった。多分この子、親がいない。ひょとして施設から抜け出したとか、それとも……
「……ちゃんと、暮らせて、いるの?」
「なんとか、ギリギリで。でもすみません、事情があってこれ以上は言えません」
「そう……」
 別に身なりはぼろぼろではないが、それ以上でもない。これ以上は踏み込んではならない。いや、踏み込むな。
 そう、十歳にも満たない子どもに凄まれたような気さえした。
 この子、何者?
 でも分かっている。鈴木母とて三十過ぎ。こうなってしまう子どもが、もうこの国にはごまんといると。いかに自分達の平凡な生活が、一本の蜘蛛の糸、縋る藁の上にのみ成り立っているのかを。
 一歩違えば、いつだって、自分達だって。
 今こうして生きている間に、色々な国で、飲まず食えず、自我が目覚める前に戦火により、災害により、亡くなる子どもがいる。まるでそんな子だ、この子は。
「ウーロン茶、美味しかったです。これで失礼します」
「えー、竜也もう行くの?」
 返り血を浴びたことのある子だと、有希が見抜ける筈もなく。もっとも鈴木母とてそこまで分かっていたわけでもない。
「うん。じゃね有希。もう遠くまで行っちゃだめだぞ」
 竜也少年はそう言って出て行った。気付かない娘は、また逢おう、なんて言っていたようだ。鈴木母は、今日の出来事をどう夫に言おうか逡巡した。
 次の日には、有希のいうおじさんがやって来て、犬を引き取って行った。おじさんに、その犬をきちんと飼い馴らせた少年がいたことを、曇らぬ瞳で告げる姪。でも、その少年とその日逢うことはなく、子どもであったので、有希の口から竜也の名前が出ることは、後々までなかった。

 鈴木有希、十二歳の春。市立飛葉中学校に入学する。初めて纏う制服はセーラー服。この、昔ながらのデザインは今となっては見直されている。それが有希のお気に入りだった。
 男子用の制服は、なんの変哲もない詰め襟。でも、ついこの間まで短パンで、女の子と同じく校庭を駆け回っていたのに、ぶかぶかでも着れば「ああ男の子だなあ」と思えてしまう。もちろん、男の子だって女の子をそう思っている。片や生理がそろそろ来て、胸も膨らみ始め。片や毎朝の生理現象が起き。
 全くの子どもからちょっとした大人へ。微妙な時期、でもまだまだ中学一年では纏った制服に新鮮さを感じるのが先。
 有希は活発で明るく、将来はなかなか美人と呼ばれそうな要素がある。ボーイッシュな性格で、さばさばとしていて小学校時代から人気があった。だから、中学に入って別な小学校の子達と会えるんだし、友達をいっぱい作ってやれ、と思っていた。さっそく、同クラスの前の席、寧々という子と仲良くなる。
 何部に入る? なんて言葉を交わしながら。さっそく有希に、それっぽい視線が男の子から向けられる。有希もてるね、なんて言われながら。有希とて悪くなかった。あとは勉強ね! なんて余裕で。
 だから遠い日、あの子と中学になったら逢える、そう考えたことは思い出せなかった。

 五月になって、運動会があった。高校になれば体育祭と呼ばれるのだろうがまだまだおこさま、運動会。お遊戯の要素はなくなったが、その中間。
 有希は運動神経もあったので、苦手ではなかったが、トップのテープを華麗に切るとまではいかない。小学校まではそうだったのに、さすが中学。徒競走では、有希は残念ながら僅差の二位だった。
「あー、くやっしぃ!」
 そんな有希を寧々が羨ましがる。
「いいじゃない、私三位だったよ」
「一位じゃなきゃビリでも同じよ!」
 運動会の前に事前に走らされている。その時一位でなければ、最終競技のベストリレーに出られない。有希は、その時も一位ではなかった。小学校のときはずっと出ていたのに。上には上がいるってこと。
 お弁当を寧々の家族と一緒に食べて。
「どう、寧々。誰かいい子いる?」
 なんて、寧々の母は娘を焚き付ける。
「ああ、なんかねえ、今村君っていう子が凄いらしいよ。学年トップで」
 有希は、ふうんとだけ聞いた。別に頭のいいおぼっちゃまなんてキョーミなし、などと思いながら。
 だから、なんの学年トップかは訊かなかった。
 他に団体競技にも出て、それは一位だった。有希は大満足。天候にも恵まれた。有希は色白で、活発な有希としてはちょっと外に何時間かいるだけで肌が真っ赤に焼けるのが嫌いだった。だから日焼け止めは常備。それが功を奏して、日にも焼けなかった。うん、悪くない。
 あとは最終競技。誰でも、誰が速い生徒か、興味はある。皆前のめりで目の前のトラックを見た。
 まずは女子。
「うわー、すっごいあの子!」
 さすがの有希も、あそこまで速い脚を見ると感嘆の声を上げる。それは誰もがそうだった。もう小学生じゃない。大人の一歩手前、ううん、大人への階段を一歩先、歩いている。そう思えた、誰もが。羨ましい。素直にそう思った。
 次は男子。
 ちょっと前まで短パンで、自分達と一緒に校庭を駆け回っていたのに。ちょっとぶかぶかの詰め襟を着れば、もう違うの?
 だから、このトラックを駈ける誰かに、どこかの誰かが恋をしても、それは当然と言えるものだった。
 最終ランナーがバトンを手渡される。誰かが言った。
「すっごい、今村君!!」
 有希の目の前を駈けたのは、あの男の子だった。
「……竜也……?」
 鮮明に思い出す。あの姿、あの泣きぼくろ。三年前でしかなかったのに。どれほど身長が伸びたの? その体格、なに?
 その速さ。なに?
 竜也はぶっちぎりトップでゴールテープを切った。その姿、ううん、勇姿。
 誰よりも男に近かった。
 誰よりも雄だった。
 その場に立ちすくんだ有希を、誰も振り返らず、もう女子達は皆我先にと前に行って。
 皆が、たった一人に見惚れる。有希の心臓が初めて高鳴った。

 運動会の休日をおえた翌火曜日。飛葉中一年女子の話題といったら今村竜也でもちきりだった。竜也のクラスには女の子が溢れていた。当の竜也はというと、机に突っ伏して誰とも会話をしなかった。顔を上げてよ、と誰に言われても。元々、竜也は同級生、クラスメイトともあまり会話をしなかった。
 寧々も、有希に「今村君を見に行こうよ!」そう言った。なんでもすごいらしいから。女子は皆見に行った、などと大げさなことすら言い。
「別に、ちょっと脚が速いからって……」
 有希はなんということはないかのように言ったが、
「それが頭もいいらしいのよ!」
 とのこと。
 でも、まだ期末試験は先。誰がどうなんて、分かる筈ないのに。
「あ……っそ」
「なによ有希、キョーミないの?」
「……うーん」
「あたし、行ったんだよねー」
 なんと気の早いこと。
 そう思った有希に、竜也の態度はああだと教えて貰った。
 でも別に。
 竜也かあ。あたしと同じ中学になるって知ってたのに、向こうからなんの反応もなかった。もっとも、あたしもそうだったけど。運動会で見るまで、思い出さなかったけど。
 でも逢ってみるかな。覚えて、いるかな。
 そういうお気軽さで、有希は竜也のクラスという三組へ行ってみた。別に、昔の知り合いだし。
 すると、入り口付近で、誰か男の子がにやにやしていた。
「また来たぞ他のクラスのやつ」
 気分の悪い笑みだった。誰このブサイク。有希は心の中で悪態をついた。
「今村狙いだろ? 来んな来んな、興味ねえってよ、誰も」
「俺達とでも話しねえからな、あいつ」
「うるせえんだよな、大体女って。色気付きやがって」
 有希は、その色気付いた女の子達が囲む中心からちらっと覗いた、机に突っ伏す姿をちらっと見ると踵を返した。
 ふんだ、だったら前訊いた住所へ行ってやる。
 寧々には、昔の知り合いだなんて言えなかった。言わなかった。
 有希はその日放課後、さっそく実行をすることにした。家と正反対の道を歩く。そういえばあの時、5kmも歩いたっていうか、走ったっけ。若気の至りよね。
 なんて、充分若いのにそんなことを思いながら歩いた。2kmも歩くと、ああバスで来れば良かった? とさすがに思う。あの時もそうだったが、犬がいたから乗れなかった。今はいないんだから、次バス停見かけたら乗ろうか。でも、知らない道のバスなんてどう行けば……
 そう思っていたら、後ろから声を掛けられた。
「なにをしている」
 思ったよりも、以前よりも低い声。なんでここまでよく響くの?
 未来は甘いバリトンとなる、もう声変わりしたそれに振り向く。その泣きぼくろ、竜也だった。
「なに、って……」
 有希は目的の人物とここで逢うとは思わなかった。
「お前んち逆だろ。なにこんなところを歩いている」
 ……怒っている?
 有希は、この間の運動会はいざ知らず、あの日の少年とは笑顔しか知らなかった。どこか人懐っこくて。なのに。
「え、っと……」
「もうすぐ車道の反対側にバス停がある。市役所行きってのに乗れ、真仁停留所で降りろ」
 なにこの、バリバリの命令形。あの子、そんなこと言わなかった。別人?
 それにしては有希のことを知り過ぎていると、有希には分からなかった。
 視線を合わせるには、もう見上げなくてはならない体格差。まだまだ伸びそうで。見事な喉仏。大人の肩幅。
 こう言われなきゃ。おっきくなったねー、なに、かっこよくなったね、美少年って呼ばれてる? なーんて……
「もうこっちには来るな。帰れ」
 全身全霊で拒絶された。その相手は、さっさとどこかへ行ってしまった。
 誰とも興味ねえ。
 ……そ。っか。
 あれは遠い昔。もう甦らない、一枚のポートレート。セピアに色褪せたそれ、もう還らない。
 ……そ、っか。
 有希は、さっきまで命令された男がいた方向へと歩いた。結局、家に帰るのは遅くなった。母には、寧々とカラオケして来たと言った。

 一学期終わり前、期末試験があった。楽しい小学校時代から一転しての勉強。算数は数学。英語は本格的。もう、教科書には「今日新しく習うところ」なんて書いていない。全部新しい単語、言葉。分厚いそれ。必要な辞書。
「はー、終わったぁ!」
 五教科がおわると、皆歳なりの表情を見せる。開放感。でも、これから先大学をおえるまでこれが続くのかと思うと。大人になりたい、でも子どものままでいたい。誰もが抱く、中途半端な感情。
 有希もそうで。でも、とっとと学校をあとにした。両親からはどうだった試験、と訊かれたが、だめー、とだけ言った。
 後日、夏休み直前に返って来る試験結果。有希は、得意な歴史が80点、不得意な数学が69点。その他は70点台だった。あーああ、小学校の頃は60点台なんて取ったことないのに。がっかりした。
 寧々は最高点が93点らしい。聞けばそれは落ち込んだ。最低点が80点だというから、こりゃ高校は一緒じゃないな、と思えた。
 これがずっと続くのかあ……。最初は楽しいって思ったけど。学生ってやつ? ターイヘン。
 それはともかく夏休み。さあ遊ぼう、課題なんてさっさとこなすぞ! と思って教室をただ出ようとすると寧々に呼び止められた。
「ちょっと、見ないの掲示?」
「? 掲示? なんの」
「期末テストの上位者が張り出されてる掲示よ! 廊下にでーんと大きく出てるじゃない!」
 ……いやな予感がした。
「いいわよどうせ。寧々何位?」
「あたしなんか出るわけないでしょ、ほら今村君よ!」
 どきりとした。そして、やっぱりと思った。
「満点だって! すっごいよね、なにをやっても完璧らしいよ!?」
「……あっそ。そりゃースゴいこと? さ、帰ろ」
 あんなの。もう他人。昔のポートレートはもう甦らない。
 帰れと言われた。全身で拒絶された。
 それなのに、有希は掲示された廊下まで引っ張られた。そこには思った通り女子の鈴なり。気分が悪かった。なのに見させられた。五教科五百点満点、今村竜也。そういう字を書くのだと初めて知った。
 もういいじゃん。それで。あれは他人。
 有希の、なんの興味もないという態度に多少寧々はいぶかしがったものの、まあ皆狙ってるからね、と大して深く考えず、校門で別れた。
 有希は思う。これでまた、家と正反対方向へ行ったら。
 また……逢う?
 それだけで。ちょっとだけ。いつもは右に。でも左へ、行ってみた。確かにこの間は疲れたから、あそこまでは歩かない。ちょっとだけ、ちょとだけ。
 30mも歩かないところで声を掛けられた。あれから少ししか経っていないのに、声は一層低く、深く、響いた。
「なにをしている」
 もう、後ろは振り返らなかった。三年経っても後ろ姿だけで、子どもが三年も経てばどれだけ成長をするのか、なのに後ろ姿だけで有希と認識したこと、それを分かって上げられない有希。
「……あの、さ」
「なんだ」
「……運動会カッコ良かったよ。満点なんてすごいね」
「そんなことを言いたくて何kmも歩くのか」
 そんな、こと、
 ……か。
「来るなって言ったぞ。帰れ」
「……そう」
 全身全霊の拒否。
 とても視線など合わせられなかった。有希は下を向いたまま振り向き、脇を通った。また身長が伸びていた、差が付いていた。それだけを認識して。

 八月の初旬に、有希は海水浴に来ていた。家族旅行。千葉県房総半島の矢指浦。デパートで買ったばかりのブルーのワンピース、パレオ付きの水着を着て。とても気に入っていた。
 欲を言えば、バストがもうちょっとなあ。なんて思っていた。残念ながらAカップ、でもAAじゃないだけまだマシだな。なんて。
 なにせ60kmもある浜だ。湘南海岸と違って芋洗いにはならない。悠々泳いだ。あー気持ちがいい。
 波と、汐と戯れ、ちょっと休憩と思って浅瀬に近づく。すると、目の前に誰かがいた。
 腰まで海に浸かっていた、だから下半身は見えなかったけど。上半身、おへその辺りにまず目が行った。
 ……すごい腹筋……なんか、テレビでやってるボクシングの試合あたりで見たことあるような?
 さすがに興味を持つ。だから視線を上に。なにこの体、体脂肪率何パーセント?
 むね、鎖骨、喉仏、って……
 どこかで……
 顔を見た。
「……」
 竜也は有希が自分と目線を交わしたと確認すると、すぐにどこかへ行った。
 後はもう、有希はこの日なにがあったか、なにが起きたか覚えていない。どうも、複数の男にナンパされたというが、どう断ったかなんて知らなかった。
 あれから海になんて行けなかった。目をつむらなくてもありありと浮かぶあの体躯。
 なにあれ……信じらんない……
 あれから何日も経っているのに、頭から離れてくれないあの体。昔の色褪せたポートレートは、当人が目の前を疾る三年後まで思い出さなかったというのに。
 課題をこなしている時すら。コンビニに行ってもカラオケに行っても。

 九月になって、久々に学友と会う。誰を見てもおこさまに見えた。有希自身がおこさまだというのに。
 有希に目をつけていると分かる男子の視線を、少々でも嬉しく思っていたのに、もうなんとも思わなかった。
 休み中もたまに会った寧々には、どうだった夏休み、と言われたが、うーんそうねえ面白かったねえ、と適当に返した。この学校にプールがないのは有り難かった。
 何人かに告られたが、誰にもなんの感慨も起きなかった。結構な人数だったので、寧々に「誰が本命なのよぅ」なんて言われたが、もちろん本命なしと答えた。ただ興味がないからと。
 前だったら、結構どきどきして。結構いいやついた、そう思えたのに。
 文化祭は、男子は工作で、女子は家庭科で作ったものを展示するというだけだった。高校になれば演劇とか、喫茶店とかがあるらしいが。
 有希の作った割烹着は、別に上手くもないが下手でもない。まあ、70点ってとこ? なんて思う。寧々は意外と家庭的で、有希が見る限り85点かなあ、なんて思った。
「今村君の工作、すごいって、都のなんとかって賞を貰ったって!」
 有希はもちろん、三組になんて行かなかった。
 期末テストの時期が来るのが暗鬱だった。どうせ結果は見えている。
 一所懸命に勉強をしても、最高点が寧々の最低点、は変わらず。あーああ、でも大学には行きたいなあ。でも、将来なにをすればいいか分かんないや。
 ま、そんなの決めるのまだ早いよね。あとあと。
 でも、周りは、寧々はこう言う。
「すっごいよ、また今村君満点だって!」
 あっそうですか。そんなの関係ないし。
 クラスが別なのは有り難かった。
 中学生だと、クリスマスよりバレンタインの方が一大事。皆色気付いて、贈った贈らないの話になって。
 有希にも、義理でいいからくれと言って来る男子は結構いた。有希は、とてもチョコを溶かす気にはなれなかった。もしそうしても、どうせ誰かさんは校門を左に渡った途端ああ言うのだろう。それとも、チョコを手ではたき捨てるとか? 目にありありと浮かぶようだ。
 だから、三組方向から、飛葉中史上最高量がどうのと聞いても無視した。
 中学に上がってから二度目の春。寧々とはクラスが離れた。残念だが、どこかの誰かさんとも離れてくれたので良かった。
 今度は志津代、通称しーちゃんと仲良くなった。それはいいが。
「あたしの本命は今村君なの! クラスが隣だし、良かった!」
 は戴けなかった。ひょっとして今村君狙いじゃないよね、これ以上ライバル増えて欲しくないんだけど、と釘を刺されても知らん顔をした。有名人らしいけど全然、すれ違ったこともないからと言って。
 二度目の運動会の徒競走は、なんとかゴールテープを一番で切れた。気分は爽快、今だけは。しーちゃんは竜也の出番の度に騒ぐから、プログラムなんて無視していたのに結果を聞かされてしまう。徒競走は当然ぶっちぎり? あっそう、関係ないよ。なんとか競技もぶっちぎり? さあ、知らない。
 お昼は久々に寧々達家族と一緒に食べた。なにせしーちゃんはあまりに今村君言い過ぎて。ちょっと合わないなあ。
 その寧々は、竜也と一緒のクラスだった。
「もう今村君すごいよ? いつも女の子に囲まれていてさあ。誰とも話をしないけれどもね。先生達にも一目置かれていて……」
 まーたイマムラクンですか。もういいよ。
 まあ、いい。あの様子じゃ高校が同じってことは有り得ない。あと二年弱の辛抱、そうしたら。安心してよ、あんたの前には出ないから。
 首を振った。あんなやつに振り回されてどうすんの。二度はない中学時代、楽しまなきゃソンソン。
 でも、イベントの度に聞きたくない名前ばっか連呼されるってのも、どうも……
 両親は、竜也が今村とは今でも気付いていない。寧々も、しーちゃんも、皆今村君とだけ呼ぶから。あの時竜也が名前しか名乗らなかったのは今となっては助かった。
 午後となり、最終競技の時。有希はわざとトイレに行った。そんな生徒は一人だけ。用を足すわけでもなく個室にこもると、それでも聞こえて来る大歓声。
 夏は、あの浜には行かない。そう決意した。満点がどうなんて、もう耳をただ通した。
 しーちゃんも、やはり有希より頭が良かった。さりげなく訊くと、高校は区内の学校を狙っているという。
「今村君、高校は御三家だって! もう、先生の目の色がさあ!」
 ああそう、そりゃ好都合。

 夏休みとなって、あのおじさんが久々に鈴木家を訪れた。ランランも久々に。
「そういえば、この子をおとなしくさせた少年がいたねえ。有希、確か中学は同じじゃなかったっけ?」
「そんなのいたっけ。忘れた。さ、課題課題!」
 どうして、学校に行けば聞かない日はなくて。家に帰ってもこうなの?
 有希には小学校からの友達も多かったし、寧々やしーちゃん以外にも親しくしている子は多いのだが、誰もかれもが二言目には今村君、だ。聞きたくなくて最近はあまり女子と喋らない。かといって興味もない他の男子と話すわけでもなく。いつの間にか、社交的だった筈の有希は学校で、あまり喋らなくなった。
 そうと自覚しないわけでなく。
 ……全部、あいつのせい。
 なんであたしがこんな目に遭わなきゃならないわけ? あたしの中学時代を返してよ!
 竜也を言い出さない母と一緒にデパートへ行く。こうなりゃ買い物よ!
 可愛い服を。可愛い靴を。たわいもないアクセサリーを。これを着てどこかへ行こうっと。都心に出て遊ぶのもいいな。一人じゃなんだから。
「お父さん、あたし渋谷へ行きたい。一緒に行こ?」
「おいおい有希、お前も中学二年だろう。誰か彼氏とかいないのかい」
「いたら頼んでないよ。お父さん渋谷を歩けるでしょ。行こうよ」
「あそこはな、お父さんみたいなおじさんはなあ」
「そういえば有希、竜也君には会ったの?」
 また? もういいじゃない。
「誰だっけそれ」
「薄情だねえお前」

 文化祭で誰かがなんとか賞を取って。期末テストは満点で。バレンタインは最高量。ほぼ毎日のように聞かされるイマムラクン情報。もううんざりした。頼むから別のクラスになってくれ。それしか思わなかった。

 中学三年となり、寧々ともしーちゃんともクラスが別れた。誰かさんとも別。ほっとした。
 しかし、すぐに現実がやって来る。高校受験。さっそく出される希望校記入用紙。
 有希が行けるところは、家の懐事情と学力事情により、武蔵森高校しかなかった。8km向こうで都内。遠いとは言わないでおこう。
 三年ともなると、ただのテストではなく、都下一斉の試験が実施される。
 予想通り、誰かさんは満点だった。誰もが余裕などない筈なのに、女子は騒ぎ立て。男子だって感心をし。去年の秋、生徒会長に立たなかったのが不思議なくらい、とかなんとか。
 有希としては、受験に失敗するわけにはいかなかったので、私立も併願したい。それを、母に言う。
「ふーん、武蔵森高校ね」
「うん。でね、私立も」
「ダメ」
「ええ!?」
「一本で行きなさい。命令!」
「そんなあ……」

 その日、鈴木母はとある場所にやって来た。娘に言わせれば、校門を左に折れて数km先の場所。
 二年以上、今村君とやらの情報は校内をあれだけ駆け巡っていたのだ、それが父兄の耳に入らないなんておかしい。それが竜也という名であることもさっさと聞いた。あの時の少年だとも分かった。なのに娘は気のない素振り。知らない筈はない。分からない筈はない。あれはどう見たって、当人と気付いているがわざとああ言っている。
 だから、鈴木母はやって来た。
「ここ、かあ……」
 ありし日を思い出す。事情があって。複雑な背景を抱えるであろうあの少年。
 その住処は、築四十年は超えているのではないかと思うような、ボロなアパートだった。部屋はこりゃ六畳でもない、四畳半一間だ。
 部屋番号までは訊かなかった。一階に六つある部屋を一つずつ見て行く。すると聞こえる、男女の声。
 あーりゃりゃ、安普請ねえ。
 ここは竜也の部屋ではないだろう。そう思った鈴木母、他の部屋を見て行く。
 突然、そこのドアが開いた。その勢いで壊れそうなほど。
「バーカ、もう来ねえ!!」
 大声で出て来たのは、一見して、失礼ながらいかにもアバズレ女だった。まだ夏でもないのに布面積の極めて少ない衣服、化粧は派手。髪は爆発しそうなアフロヘア、色は真っ黄っ黄。まあすごい。
「二度と来んなァーー!!」」
 その部屋の主か? 男の大きな怒鳴り声が響いた。要するに交渉(?)は決裂ってか。
 いつもだったら興味を持っただろう鈴木母。しかし今日は竜也少年の家を探るのが先決だ。それに、さすがに少々怖い。そう思って鈴木母はそこを足早に逃れようとすると、
「あれ。誰そこのおばはん」
 さっきの怒鳴り声の主が、部屋の外に出ていた。おばはんはないだろう。
「あ、あら。こんにちは」
「はぁこんにちは」
 怒鳴りは消えて、普通の声になった。それでほっとした。歳の頃は二十五歳前後か。太っていて、ヒゲぼうぼう。髪もぼさぼさ。誰がどう見ても、定職になど就いていない。
 でも、素直に挨拶をしてくれた。あんな後であっても、人間見た目じゃない。だから、鈴木母は訊いてみることにした。
「あの……このアパートに、今村竜也君って、いると思うんだけど……」
「はぁ、おばはんもあいつ狙い? ちょっと歳を考えたら」
 カチンと来た。
「あのねえ。おばはんが狙うわけないでしょ!」
「んじゃ誰が狙ってんの。言っとくけどオレ喋んねえよ、あいつと男の約束してっから」
 ほう。これは、結構この男、信用出来る?
 鈴木母は心の中でにんまりと笑った。残念ながら人生経験はあたしの方があるのよん。
「竜也君とは、あの子が小学四年生の頃に会ったことあるのよ」
 すると相手は乗って来た。思った通り。
「四年……」
「そうよ。あの子の初恋の子の母です。……聞いて、いるわね?」
 カマを掛けてみた。
「なぁーーんの、ことかなぁーーー!?」
 的中だ。分からぬ母ではない。
「うちの子は武蔵森高校を受験するの。一本だって。それ、伝えに来たのよ」
「はーふーんほーへー。むさしもり、むさしもり」
 気のないふりをして。一所懸命に覚えようとして。
 鈴木母は微笑ましくなった。そして、さっきの交渉(?)はともかく、このむさい男を気に入った。
「また来るわね? あなた、そこが部屋なんでしょう? おばはん、鈴木っていうの。来たらあなたのところの呼び鈴鳴らすから、出てよね」
「待った」
 来た来た。
「すんません。竜也のことは話せません、約束ですから。でも、おば……鈴木さんの娘さんのことは訊きたい。こっちばっか訊いて卑怯スけど、訊きたい。言ってくれませんか」
 むさい外見、むさいぼろぼろな服とは裏腹に。
 なあんだ敬語、遣えるじゃない。捨てたもんじゃないわねえ島国も。
「あなた、電話を持っている?」
「ワケないっしょ、水道電気ガスも止められているっつーのに」
 まあ、それっぽいアパートだ。失礼ながら。
「じゃあ、ここで言うわ。失礼ながら、あなたの家の中、ちょーっと汚過ぎるもの」
「あー……。んでも、竜也んちはキレイっすから! その娘が来てもだ……って、しまった! すんませんおばはん、聞かなかったことに」
「分かっているわよ。じゃ、心して聞きなさい」