26

「Who is it?」
「は?」
「……HA? Therefore who is it?」
 麻衣子は困った。相手はバリバリの英語だ。
「え、えっと……あの……」
「……!? なか、違った、今村夫人!?」
「あ、はいそうです。今村です。上條さん、お久し振りです」
「なあんだ! あなただったの! ああびっくりした、知らない番号だったから」
「……そうなんですか?」
 分かるわけのない麻衣子。
「久し振りねえ、元気?」
「はい。とっても元気です。すごく幸せです。麻衣、政人とずっといるんです。そばにいるんです」
「そう、よかった。今日の用事は、その近況報告?」
「え? えっと……あの」
 いつまでもおばかな麻衣子。自分から言ったくせに、なにを言えばいいのか忘れている。この場に夫もいないし。
「そう。じゃ思い付いた時でいいから。まず、あたしの近況を報告するわ。あたし、アメリカ支社に転勤になったの」
「……え?」
 上條は説明をした。まず、自分はあの会社に入社時からアメリカ支社勤務を志望していたこと。英語が得意で、これを活かす仕事がしたかったこと。入社出来たことで自信満々に志望を出したが、さすがあの会社、上には上がごまんといて、自分以上に英語を操れる者などたくさんいたこと。だから半ば諦めていたが、やっと人事に声を掛けて貰って希望通りになれたこと。ちょっとは現在の住処、ニューヨークに慣れたこと。
 企画の仕事は好きだった。だが一方で、あまり業績が伸ばせないこと、後輩に追いつかれ、抜かれそうになり、焦っていたこと。いっそ環境を変えたいと思っていた時に渡りに船な申し出だったので飛びついたことを言った。
「ひとりで……ですか?」
「? そうよん。当然でしょ?」
「さみしく……ないですか」
「ないわ。お陰で日常会話に支障はないし、友達も出来た。あたしもそろそろ歳だし、あなたっていう幸せな例も見たし。恋に仕事に打ち込むわ」
「……あの」
「なに?」
「……ふじむら、さんと……仲がよさそうに、見えましたけれども……」
「ああ、あいつ。知っての通りあたしに気があるんだけれども、その口で別な女を口説いてんのよ。不誠実な男なんてキ・ラ・イ! あなたもでしょ?」
「……そういえば、政人は最初、俺はそんなに不誠実かって……でも……」
「ああ。前歴が酷いのによく言えたな、って?」
「……」
「うちの会社だけじゃなく、あなたの夫は大の付く有名人よ。だから皆知っている。あの四月一日から、あの人はあなたしか目に入らないってこと。
 仕方ないじゃん、逢っていないんだからさ。その時点では間違いなく、不誠実じゃなかったわよ? まさかまだ、その辺相互理解をしていない?」
「……いいえ」
「ちゃんと言いなさいよそれ」
「……はい」
 麻衣子は言われた通りメモをした。そうだ、これも上げなきゃ。
「で、藤村の話だけど。あいつちょっと、おかしいのよ最近」
「……え?」
「元々得体の知れないやつだったけれども。どうもさ、うちの会社の社長と、ツーカーな仲らしいのよ」
「え?」
「まあ、これはあなたと全然関係がないから聞き流してくれていいんだけれども。ペーペーな筈なのに、人事の極秘情報を知っていたのよ」
「え!?」
 麻衣子は驚いた。そしてこう思ってしまった。やっぱり麻衣の入社は嘘?
「? どうしてそこまで驚くわけ?」
「あ、あの……前、言われたんです藤村さんに、麻衣の入社は間違いだって人事に聞いたって……」
「は?」
「それ、喫茶井上のマスターさんとか人事部長さんとかに否定をされましたけれど……やっぱり、本当だったんですか!?」
「ええ、ちょっと待って! そ、それは違うわよ!」
「でも、人事の情報を知っているって……」
「……あいつ。そうか……」
「……? なんですか?」
「分かったわ、そういうこと……
 いい。あいつはね。言ってること、みーーーんな、嘘よ」
「え?」
「あたしが言った人事の情報ってね。あたしのことなのよ。あたしのアメリカ支社への異動、人事から聞いたその日その場にあいつが来てね。異動する気かって言われてさ。なんで知ってんのって言ったら口ごもった。やっぱりこいつは社長の腰巾着だ、と思ったけれど……
 違うな。あんなやつが社長とツーカーな筈がない。あの程度の男を使う必要あるわけがない、そんな人間が大会社の社長なんて務められない。
 嘘だわ。全部嘘。元々そういう気はしていた。あたしに気があるのも嘘。社長室に呼ばれたのも嘘。世慣れないあなたさえ騙して。
 ……サイッテー」
 そんなことを言われたって麻衣子には分からない。それに、上條の言い方はちょっと飛び過ぎている。政人に逢い、的確に指摘をされ、言葉に出来なくても誘導尋問をされ、もう考えなくてもいい立場に慣れた今、元々だが、言葉を繋ぎ合わせて考慮するなんて麻衣子には出来ない。
「あの、意味がよく……」
「ああ、ごめんなさい。
 そう、あなたも藤村に騙されたの。いい、あいつは女を騙して愉しむようなサイテー男よ。あいつに言われたことは全て忘れなさい。皆嘘よ」
「……あの」
「なあに?」
「でも、……政人の過去の、その……を言って……それを政人は、おおむねその通りって……」
「それはちょぉっと、ビミョーな話ね。女だから分かるけれども、あなたはその具体的な話を聞きたくないわね?」
「はい」
 麻衣子はきっぱり言った。
「でも分かっていることは。藤村は、それをその目で一回も見ていない、ということよ。そうでしょ?」
「あ……はい」
「直接見たわけでも、聞いたわけでもない人間の言うことなんて信じちゃだめよ。あなたはもう、あなたの夫の言うこと以外信じちゃだめ。たとえあたしから、そう椎名係長から言われても」
「……」
「分かったわ、あなただもんね。うん、あたしとか椎名係長とかはいい、自分のことだけどあなたに汚いことなんて言わないから。でも、藤村の言ったことは全部嘘よ。なぜなら、藤村の言ったことを、あなたの夫はその耳で聞いていないでしょ?」
「……はい」
「確かにあなたの夫の前歴は酷かったらしいから、否定出来なくておおむね、って言ったんだと思うわ。潔いわね、さすが」
「……」
「なによ。さすがと思わない?」
「……」
「まだ。自己消化し切れていない。わね」
「……はい」
「いい。なぜ同じ女であるあたしがさすがと言ったと思う? もしさあ、あんな男の言うことなど信じるな、事実は違うなんて言われてご覧なさいよ。そっちの方が嫌でしょ」
「……はい」
「あなたに逢っていないのよ。仕方ないじゃない。それとも過去に戻ってやり直せ、とでも言いたいの?」
「……いいえ」
「全部受け止めなさいって、あたし言ったわよ。まだ出来ない?」
「……」
「出来なきゃ離婚しなさい。だってあたし、あの人を愛している」
「!」
「あなたの後釜を狙っている女が一体いくらいると思っているの?」
「……」
「いいわよ。不安になれば? いつでも奪ってやる」
「……」
「いいの?」
「よく、ないです……」
「そう。じゃ、あたしには金輪際電話をしないこと。そしてあなたは、ただひたすらあの人に愛されること。だって知っているもの、あの人はあなた以外愛さない。愛したことがない。あなた以外誰も愛せない」
「……」
「あなた以外の女は、まあ男もだけど、皆それを知っているわよ。あなただけよ信じていないの」
「……」
「どれだけ愛されていると思う? 他人が嫉妬も出来ないくらい愛されているのよ。まさか分からない、なんて言わないでしょうね」
「……言いません」
「昔の女なんて。ざまあみろって思いなさいよ。ちょっと抱かれたくらいでなんだって。どうせ愛されていないんだって。そう思いなさいよ。自信持ちなさいって」
「……でも」
「分かっているでしょ? あの人があーんなことやこーんなこと、あなたにしか出来ないって」
「……分かって、います」
「それでいいじゃん」
「……え」
「充分自信を持っているじゃん。それでいいの。さすがにさあ、過去は酷かったらしいから、今すぐ完璧な自信を持てなんて言わないわよ。何年掛かってもいいからさ。何十年掛かってもいいからさ。そのくらいになったら、もう完璧に自信を持てる。そうよね」
「……はい」
「どうせ、あの人はあなたに、なにひとつ急かしたりしないでしょ?」
「……どうして、そんなことまで分かるんですか」
「ハ。まさか愛しているから分かる、なんて言ってほしい? 違うわよ」
「……え」
「こちとら男性経験があるのよ、一桁じゃないわよ二桁よ。だから分かるのよ。それだけよ? つまり、あなた以外は分かるのよ、女なら誰でも」
「……え」
「あなた、自分の夫しか知らないんでしょ? だったら恋愛とはなにか、知らなくてトーゼンじゃん。なにも恥じることはないわ。だって、清らかなまま夫に全て上げて、よかったって思っているでしょ? それは、とても自信を持って」
「はい」
 さすがの麻衣子も即答をした。
「だからまあ、自信が持てなくても仕方がないのよね。特に相手に前歴があり過ぎる場合。けしかけちゃいるけれども、あなたの気持ちも分かるのよねえ。
 でもさ。さっきも言ったけれど、時間を掛けてもいいから、ゆっくり消化しなさい。まだ二十数年しか生きていないのよ。平均年齢って八十いくつよ。六十年もありゃ分かるって。そうよね?」
「……はい」
 さすがに頷いた。
「分かって貰ったところで言うけれど。
 普通、相手の前歴を訊くなんて。マナー違反よ」
「……え?」
「どうしてか? 皆、辛い想いをして恋を終わらせているのよ」
 俺達の恋に終わりはない。
 そう言った政人。
「なのに、それを思い出させるなんて、その人を好きなら、したくないじゃない? いくら好きな相手からでも、辛い想いを掘り返されるなんて、いやよ。そう思わない?」
「……」
「あはっ、でもね。だーいじょうぶよあなた達の場合は。なにせあなたの夫があなた以外、誰も愛したことがないのは、誰でも知っているもの。
 つまり、あなたの夫はね。前歴なんかないのよ。もちろん体のは、あるけれど。
 心はあなただけのもの。最初から。
 そして今は、なにもかもがあなたのもの。そうでしょう」
「……」
「そうって言いなさいよぉ。分かっているクセに。ほら言った!」
「……は、い」
「ん、イイ返事。でさ。ゴメン、愛しているなんてウ・ソ」
「……え」
「あなたを焦らせたくて言ったの。ゴメン」
「……」
「怒った?」
「……はい」
「ゴメンゴメン。イヤー、何人とも付き合うと、正直あなたのように、燃えるように一途に誰かを愛するなんて、もう出来ないのよー」
「……」
「分かれなんて言わないわ。分からなくていいの。でもね。普通、あれこれ付き合うとそうなるのよ。でもあなたの夫はあなた一筋。それは凄いと思うわよ。
 信じなさいって。六十年掛けてゆっくり。出来るわね?」
「……はい」
「じゃ、電話もこれでお終い。不安にさせちゃったから、あなたの夫に怒られるわねえ。クビになるかも」
「……そんな」
「じゃ、これだけ。
 誰が後釜を狙っても、あなたの夫は決してなびかない。あなたしか見えない。
 それは、今、自信を持ってそうだと断言出来るわね?」
「はい」
 麻衣子は力強く言った。
「オッケー、望む言葉が聞けたわ。大満足。もう心配は要らないわね。
 これで、あたし達の友誼も終わり。元々弱い接点だった。あたしはこの地に骨を埋める覚悟よ。気合いよ気合い。根性よ。じゃあね! 元気で」
「……はい。でも」
「なに?」
「たまに……電話をしてもいいですか?」
「いいわよ。あなたがしたいと思った時にしなさい。今度こそ、もう嘘を言わないわ。決して」
「……なら。します。その時は、相談に乗って下さい」
「オッケー、特に亭主の横暴に飽きたら言いなさい? ぶん殴ってやるから」
「そんなこと有り得ません!」
「ハイハイ。じゃあねー」
 それで会話はおわった。
 麻衣子はちょっと泣いた。だって上條は、やっぱり政人に惚れていると思うから。だって相手はあの政人。上條でなくたって、大抵の女性は惚れちゃうだろう。自分など、その内の一人に過ぎない。
 あ、でも……こんなふうに思っているなんて言ったら……
 キス、される。分かっている。全身全霊で愛される。貫かれ、繋がらなくてもあんなふうに。
 その体も。その心も。
 政人の全ては麻衣のもの。
 こんな自信なんて。……そう、最初から持っていた……
 麻衣子はドアに駆け寄ると、言った。
「まーさーと。だいすきー。あいしている! おやすみ!」
 メモを破ると、後はとことこ、着替えて眠った。
 適度に散歩をし、その間職場を異動。確かにルーツがないことで、多少不安になったものの、それに勝る風景を見られた。いつも、歩くよりもただ見る方が多かった。
 石畳の道を歩いていると、地元のおじさんから声を掛けられることもあった。なんて言われたか分からないので小島に質問をすると、こんにちはお嬢さんって言われたんですよ、とのこと。返事をしたくて言葉を訊いたらこう言えばいいと教えられ。へたでも懸命に、拙くその通り言ってみると、おじさんは笑ってくれた。ほっとした。
 麻衣子は、政人が職場を異動するたび時計の時間を直されていたことなど分からなかった。そして、今が何日かも分からなかった。ただ、日本とはちょっと違うが、街の様子が違ったこと、おやつにケーキが出たこと、それにサンタの飾りがあったことで、明日がノエルということは分かった。
 親鳥はイヴの夜雛鳥に、靴下を枕元に置けと言った。もちろん冗談、これまたお初。雛鳥はむくれた。誰が見ても雛鳥そのものだった。翌朝靴下には、繊細な銀細工の髪飾りが入ってあった。いくらなんでもと雛鳥は感心した。もう引く気にもならない。
 この分だと来るバレンタイン、政人の誕生日にはさて一体なにをどう贈ればいいのやら。チョコを溶かしたい、なんて言ったら火で怪我をするから止めろと言われそう。でも、その日だけは、麻衣からのだけは、甘いものを食べてくれるだろう。自信を持ってそう思った。その通りだぞ麻衣子。
 日本から空輸された政人のアルバムが届いた。学校でのものしかなかった。政人曰く、
「学校以外では地獄の谷底に突き落とされていた。写真で記録を残す状況じゃない」
 とのこと。牙を持つ男は人生に必ず、他のなにを置いても集中した時期がある。そう政人に言われても、麻衣子はぴんと来なかった。
 幼稚舎、といわれるあたりのものから、制服が似合っていた。こんな可愛い体格の時もありながら、既に備わる威圧感。笑顔の写真など一つもなく。麻衣子にははっきり言葉に出来ないが、そのさまはすでに、戦場にいる男のそれだった。これでは、この国にいるだけの同年代とは、確かに会話が成立しないだろう。
 どの写真も絵になるものだった。これでにっこり笑顔であればモデルとかに充分なれそう、ううん、なれる。短パン姿は幼稚舎のものしかない。政人はどんな服でも似合うと思うが、こればかりは似合わないだろう。麻衣子でもそう思えた。
 総じて、子どもの頃から政人は完成していたようだ。麻衣子は思う。
 もし自分が。今村の両親が言ったとおり、そばに生まれたとしても。
 正直、……ただ、遠目に眺めていただけだろう。決して近寄ってはならない存在だと思うだろう。周囲もそう言うだろう。
 政人に逢って緊張がほぐれたのは、あの一杯の紅茶からだった。そして手作りのごはん。だから麻衣子は、それらの先生であるマスター、宿屋の若旦那と、初対面であっても緊張しなかったのだが。
 もし麻衣子が言う通り、手順を踏んで付き合ったとしても、さて今のこういう未来になったかどうか。間違いなく、逢ったその日にすきとは言えまい。むしろ、確実にそうは思うだろうが言葉にはしないだろう。恐れ多くて、とても……。
 政人は後日、麻衣子に感想を求めた。
「……えっと……」
「気に入らなかったようだな」
「……そんなことない」
「だったらなんだ。隠し事だな。言え」
「……あの。政人って、やっぱりすごいなあ、って……」
 分からないだろう、麻衣子には。政人が、麻衣子にただ褒められたいと想っていることなど。かっこいいねって、いつものように拙く言ってくれればそれだけで、血の滲む努力は全て報われることなど。
「子どもの頃から逢っていたら俺を避けたな」
「……」
 下を向くしかなかった。典型的な隠し事。
「その状態で、お前達中川家を家ごと今村の本家に収めたら、三人とも求婚には応じない。そうだな。返事はしなくていい」
「……」
「お前は段階を踏んで付き合えと言ったが、実態はこうだ。それでも俺を愛してくれる、そうは想うが時間はより掛かっただろう。俺はそんなに待てん。さらに言えば隠し事だらけで一生を終えるだろう」
「……」
「今の、ただの俺を愛してほしかった。肩書きも家柄もなにもかも関係なく。だからなにも言わなかった。ただの、一人の男をすきとお前は言ってくれた。俺がどれだけ喜んだか分かるな」
「……うん」
「だがお前をほとんど知らず、合わないところに連れて行ったのは謝る。済まん」
「……あの」
「なんだ」
「……でも、麻衣は……」
「なんだ」
「主任に、言われたの、高価なものだからって拒否するな、政人と一緒に行けって、しがみついてもいいから……そう言われて、麻衣……」
「続けろ」
「麻衣、今でもああいうところ、苦手だけど、……でも、政人のそばにいたい、政人がそういうところに、……
 他の女の人と一緒に、行ってほしくない……」
「確かに昔は行った」
 麻衣子はもう、聞きたくなかった。
「すると全員ツケ上がった。俺が、誰にも数日しか遊ばんと言ってもな。大体その頃に捨てた」
「……ききたくないって、言った……」
「相互理解だ。いいから聞け。俺は麻衣以外、誰をも心配したことはない。血の繋がった親も、親しい知人も、当然麻衣の聞きたくない先も誰もかれも」
「……」
「お前だけだ」
「……」
「そうだと分かっていただろう。最初から」
「……」
「うんと言え」
「……」
「生まれ変わったと言ってくれたのは麻衣だ。そうだな」
「……うん」
「隠し事というより、不満なんだな。俺の、年なりの表情をした写真がないから。あれば俺でも子ども時代があったと、そう同感出来るのに」
「……うん。そう」
「俺とて最初から、なんでも出来たわけじゃない」
「……え」
「得意なものはそうでもなかったが、なかには苦手なものもあった。ピアノだの声楽だの油絵が俺の将来の役に立つとは思えなかった。それでも習わされた。教師役の者ほどの腕前にすぐなれるわけがない。どれだけ歯噛みしたか分かるか」
 麻衣子は驚いた。歯噛みなんて、そんな言葉、政人が遣うなんて。
「結果的には。ピアノはこの地で日常的にあるオペラだのオーケストラだののコンサートにお前を連れて行く時、解説が出来る。声楽は習えばお前を声だけでいかせられる。油絵は、知ればお前の好きそうな美術品を揃えてやれる。アクセサリーを選ぶセンスも磨ける。
 なにひとつ無駄なものはなかった。お前と逢ったのは、理想はともかく現実は二十八歳の時だった。今更過去には戻れん、戻るつもりもない。
 俺と麻衣はあの時出逢った、あの時生まれ変わった。幸せだ。それ以上などない。そうだな」
「……うん」
「少しは褒めろ」
「え?」
「これも隠し事だ。お前の夫はお前に褒められたくて生きている。
 少しは褒めろ」
「……うん。まさとは、すごいよ。すごくかっこいい」
「そうか」
「うん」
「ならいい。努力したかいがあった」
 やっと麻衣子は思えた。ああ、そう、この人は、血の滲むような努力を積み重ねてきた人なのだと。
 それに比べれば、自分はどう? ただ差を感じて勝手に引いて。
 そんなことをすれば気が狂うって、最初から言われていたのに。気が狂う想い、それもちゃんと知っているのに。
 嵐のごとく暴れて溢れる、どこから来るのかも分からない感情。
 すき
「政人……すき」
 教わった。なにもかも。この身に、心に、その全てを。
「やっぱり、小さい頃に逢いたかった」
「そうか」
「うん。多分、また恐怖の大王なんて思っちゃうかもしれないけれども、見えない所からこっそり憧れると想うから」
「さすがの俺でも恐怖の大王と言われたのはお初だ」
 麻衣子は苦笑した。
「う、うん。ごめんなさい」
「構わん。見えない所からと言うがな。麻衣の気配は分かる、これぞ聖域だとな。半径百メートル以内に近寄ってみろ、すぐに連れ帰ってやる」
 嬉しかった。だってそうだと分かるから。
 確かに、政人のことは知れば知るほど引いてしまう。でも、惹かれる。それはいくらびびりな自分でも抑えることは出来ない。溢れ出たようにすきと想ったこの感情通りに。
 結局は、こうなるのだと。
「政人、だいすき! お仕事してね?」
「今すぐお前を食う気満々だが」
「だめっていつも言っているもん」
「だったら辞めるか」
「だめ!」