25

 エレベーターを出ると、ふんだんな空間の先に重厚な観音開きの両扉、もちろん防弾仕様、その脇にびしっとした警備の者二人。今村の男女を確認すると、無言で重い扉を開けた。
「……わあ」
 そこは誰がどう見ても、そのビル内一の豪華な個室。広い、毛足の長い絨毯、豪奢な仕事机、椅子、奥の大きなガラス窓。
「どの職場に行っても大体こんなものだ」
「……そう?」
 それにしても。ハイヒールでこの絨毯、久々だが相変わらず歩きにくい。
「ま、まさと、あの……」
「そういう格好は苦手だ、出来ればラフなスニーカーがいい。そうだな」
「う、うん」
「済まん。分かってはいたが、ついそういう格好をさせたくなった。麻衣はなんでも似合うからな」
「ん……もう」
 政人はさっそく、向かって左側にある扉のノブを開ける。
「ここが休憩室だ。狭いが我慢しろ」
 でも麻衣子は狭いのの方が得意だ。こんなに贅沢な身分になっても、今でも六畳一間に戻れと言われればはいどうぞ、と言うだろう。
「……わあ」
 そこは、執務室より少しだけ狭いというだけの、充分贅沢な空間だった。まず、においがいい。花のにおいだ。むせかえるほどでない、心地よいにおい。なんとなく、マイナスイオンを感じた。
「……あ、これ!」
 どこかで見た小物の数々。
「ま、政人……これ?」
「そうだ。お前の好きなあの小物屋を、言い方は悪いが買収した。個人商店だ、いつ潰れるか分からん。店主には、経営その他は全部俺が見る、金の事は一切気にするな、だから今まで通り、今までの感覚通り商品を仕入れてくれ、麻衣のためにと言ってある」
「……そうなんだ……」
「花もそうだ。侘助も買い取った。もっとも花は生ものだ、空輸させれば萎れてしまう。食事のように、その国々の花を見せる」
「……うれしい」
「昼飯は運ばせる。それまで好きな格好に着替えて室内を見て回れ。中のものはなにを使ってもいいし、なにをしてもいい」
「うん。仕事?」
「そうだ。ドア一枚などないも同然だ、俺はまたお前を感じながら仕事が出来る。どれだけ幸せ一杯で仕事出来るか、分かるな」
「うん、わかる、麻衣も幸せ……」
「行って来る麻衣、愛している」
「ん、行ってらっしゃい政人。あいしてる」
 麻衣子は政人のコートを預けられた。大きくて重かった。まるで政人のように。また思い出してしまう、政人の体を、政人の重みを。全身で愛撫され。
 麻衣
 愛している
 麻衣
「あ……着替えよ」
 またしても行為の余韻に浸ってしまった麻衣子は、そういえばと時計を見る。十時半だった。この時間だと、部屋の中を探検すればお昼になるな、と思う。
 政人はよくこういう高飛車な格好をさせるが、かと言って、麻衣子好みのラフなトレーナーとジーンズ姿が嫌いという訳ではないようだ。うぬぼれていいなら、麻衣子ならなんでもいいらしい。さらに言えば裸の麻衣子が一番いいらしい。
 とは言ってもまさか真っ裸で歩き回れない。いつの間にかされていた化粧を落とし、服を着替え、楽な格好に。やっぱりこれがいいなと思う。
 次に室内を見て回る。言われた通りの品が揃っていた。パソコン・テレビ・まんが。ソファ、テーブル、ベッド。奥がバスルームらしい。そうだトイレ済ませよう。
 用を足して、繊細なレースのカーテンを開けてみた。風景を目に入れる。
「……わあ」
 まさに異国。空が広い。色遣いが違う。いつか見た絵はがきを思い出す。お散歩したい。
 もし麻衣子が政人に見初められずそのままでいたら。確実に、海外旅行など夢のまた夢。もし叶ってもパックツアーがせいぜい、こんな風に雄大な景色を眺める余裕などあるまい。
 見初められてよかった。心底そう想う。根性なしだからつい、差を感じていちいち引いてしまうが、もういい加減、ちょっとは根性を出して、政人について行きたいと想う。そりゃ高飛車な服装は苦手だけど。そんな場所も苦手だけど。英語すら出来ないけど。
 ずっと景色を眺めていた。
「麻衣。昼だ」
 言われてふとそっちを見ると、政人が両手に二つ盆を持って入室して来た。そっか、もうそんな時間。
「これを食ったら昼寝しろ」
「? 麻衣、別に眠くない」
 政人はテーブルに昼飯を並べた。日本食だった。
「お前は時差ぼけ、という言葉を知っているか」
「ああ……」
 とは言ったものの、なにせ政人との移動に行為はつきもの。いかされまくっているのだ、気がつきゃ目的地に着いているのだ。時間の感覚などない。
「まず食え」
「うん。いただきます」
 ぱっくり食べた。美味しかった。どうやったらこのつやつやなご飯が炊けるの?
 ただのジャーなどでは炊いていない、お前にゃ一生無理である。
「外を見ていたな。散歩したいか」
「うん!」
「だが今日は移動したばかりだ。昼寝しろ。おやつの三時に起きなくてもいい。起きたら食って貰うがな」
「う、うん。でも別に眠くない……」
「おそらくお前は、これを食ったらぽってり眠るぞ。お前の健康管理は俺がする。全部任せろ」
「うん、お願い」
 ご飯を食べ、歯を磨き、体重を一緒に量って。
 政人は麻衣子の額にキスを落とした。さっきのほっぺにキスとは違いくちびるプラス、スケベな舌付き。なにをされてもそうだが、ぶち込まれた体、切り離せない心、解け合う全てが濡れてしまう。これはどうも、行って来るのキス、らしい。どうせ濡れるのだ、いつものくちびるへ、で構わないと想うが、政人としてはこれでも、火をつけないようとしている工夫らしかった。
「Blijf bij mij. Omdat ik zoveel van je houd」
「え? ……あ」
「なんだ」
「それ、前も言った? どういう意味?」
「この国の言葉だ。
 そばにいて。これだけ愛しているのだから」
「……」
「見初めたあの日、生まれたあの日からずっと、死ぬまで、俺の、麻衣への想いだ」
 麻衣子は泣いた。夫がこれからすぐに仕事をしなくてはならないというのに。分かっているのに。止まりはしない。
「止めはせん。行って来る麻衣。愛している」
 想いの限り泣いた後、着替えて、ベッドに入ってぽってりと眠った。起きたらなんと六時だった。予想以上に疲れが溜まっていたらしかった。体の疲れではなく、心が緊張していたようだった。その理由は政人が言った通り。どっしり根ざすルーツがないから。もし麻衣子が実家に帰れればそれが一番よかった。築三十年のボロな二階建てでもそれがいいのだ。ルーツに敵う建物はない、どれだけそこが豪奢でも。
 眠り続ける麻衣子の気配を感じながら仕事をする政人は、やはりどれだけ忙しくても定期的に、実家には帰してやらなければと想う。たとえ行為は出来なくても、それでも。
 麻衣子が散歩出来たのは三日後だった。その間政人は麻衣子に充分睡眠を取らせた。もっとも夜の休憩時間はやらずにはいられない、ねっとりとかました。
 三日ぶりに、麻衣子は隣室、政人の執務室に出た。そこで、政人が雇ったという初老の女性、小島と初対面した。
 緊張する、どきどき……
 きっと、主任のような切れ者だろう。そう思い込んでいた麻衣子の目の前に現れた人物はこうだった。
 まるで田舎の、日本最後の秘境にでも住んでいて、その地に伝わる伝承を紡ぐ語り部のような。好々爺という言葉が男性に対してなら、女性に対して小島がそう。子供の頃亡くなったおばあさんを思い出した。いつもニコニコ笑って、優しく笑いかけてくれた。遠い日の思い出。
 懐かしかった。
「初めまして、小島と申します。これからよろしくお願いします、奥様」
「……おくさま」
 麻衣子はそんなことを言われたのは初めてだったので、ぽっと照れた。
「あ、あの! は、初めまして、今村麻衣子です! よろしくお願いします!」
「はい、お願いします」
 麻衣子はほっとした。出来る人はもちろん嫌いではないが、緊張するのだ。政人とでもやっと慣れたくらいなのだ。いつもいる人と緊張していたのではたまらない。
「では旦那様、早速出掛けて参ります。奥様、行きましょう」
 ああ、旦那様って政人のこと。そう思った麻衣子に、政人は過保護丸出しでダウンを着せる。もこもこ手袋、もこもこマフラー、今誰がしているんだろうなあと思うもこもこイヤーマフラー。誰が見ても、過保護に守られていますと言わんばかりの格好。
「言っておくが麻衣。けつまずいたらどうなるか。分かっているな」
「う。分かってま。るの」
「どこへ行っても地形上、階段もあるし坂もある。竜也を身籠った後は階段は使うな。雪道など歩けまい、雪が降ったら散歩はさせん。疲れるまで歩くな。タイミングは小島が計る。ここで、と言われるまですきな所を歩いてみろ。景色ばかりに目を取られ、足元を気にすることを忘れるな」
「う、うん」
 なんて過保護丸出し。
「まずは行ってみろ。ゆっくりでいい」
「うん、行ってきます! 政人、愛してる」
「愛してる麻衣。行って来い」
 額にスケベなキスを落とされ、麻衣子は久々に政人と別行動を取った。
 エレベーター内で小島と二人になる。
「緊張していますか? 奥様」
「あ、えっと、はい」
 すると小島は人懐っこい笑顔を見せる。
「小島に敬語は必要ありませんよ」
「あ、でも、目上の方ですし」
「緊張させたらクビだと旦那様に言われておりまして」
 ひえー。
「使用人はもう一人います。運転手の水野という者です。実は口が利けませんが、それ以外はなんら健常者と変わりありません。もっとも運転手です、奥様と話す機会はあまりありません」
「そうですか……」
「そうなの? でよろしいですよ? この小島のクビを飛ばしたくないのなら」
「え? えー、そんなこと言われても……」
 小島は人懐っこい笑顔を見せて、おかしそうに笑った。
 ビルの外に出て、まずは一旦車に乗せられる。ここはオフィス街、麻衣子に見せたい景色ではないらしい。麻衣子は、小島が一緒に後部座席に同乗するもんだと思っていたが、一人で乗せられた後は小島は助手席に行ったようだ。
 ここ、どこだろう。
 とは思うものの、せいぜい国名しか覚えられないだろう。地名を言われたってちんぷんかんぷんだ。そんなこと、政人が言う訳がないともう分かる。訊かないことにした。これは隠し事じゃないよね、と思える。
 ……あ!
 麻衣子は唐突に思いついた。でも、携帯がない。どうしよう、どうしよう。言わなきゃ忘れる。
 仕方ないから、前方の座席とこちらを隔てる仕切りを叩いてみた。
「あ、あのあの!」
「はい、なんでしょう、奥様」
 仕切りがすっと降りて、小島が人懐っこい笑顔を見せる。思わず麻衣子も笑顔で答えた。
「あの、思いついたん……思いついたの! 政人に言ってくだ……言ってくれる?」
「もちろんですよ。どのような?」
「えっと。気にするなって口癖? 学生時代の音楽と美術ってどうだった?」
「分かりました。すぐ旦那様に連絡します。ですが今は散歩の時間です、直接逢って答えてもらった方がいいでしょう? 後でいいですか?」
「あ、は……うん。忘れないうち言いたかったから」
「はい。そろそろ着きますよ、奥様」
 言われた通り、車がほどなく停まる。麻衣子はどきどきした。どんな風景だろう。アダムとイヴの島、あんなふうに。
 いろいろ、見てみたい。
 車外に出た麻衣子の目に飛び込んだのは、この地ならではの風車だった。
 高い空。どこまで行っても真っ平ら。緑の牧草地。ぽっかり浮かぶ雲その先にある、ゆっくり回る風車。のんびりした空間。
 憧憬。
 麻衣子は一歩も動けなかった。風が麻衣子のほほをなでる。においも色も全て違う。
 ただ見ていた。
 結局その日は歩くことすら忘れて時間となった。小島に言われても、政人が待っていると分かっていても、麻衣子はそこを動きたくなかった。
「奥様。写真を撮られますか?」
 そう言われてはっとした。そう、写真を撮ればいい。そうすれば忘れっぽい自分でも思い出す。
「はい! あ、携帯携帯」
「デジカメでよければ」
 小島がすっと差し出すものを受け取る。わあ、小さい。細い。最近のってすごいなあ。
 シャッターを切ればいいだけのものらしかったから、撮った。ああこれで、もう忘れない。
 政人は言った、竜也に見せようと。その聖域に。その子に。伝えようと。
 恋を。愛を。全身で。全てで。
 伝えることの大切さ。
 伝わることの幸せ。
 泣きたい気持ちで車に乗った。ずっと外を見た。景色が流れる。どこまで行っても真っ平ら。ああこれが異国の地。これが政人が、麻衣に見せたいと思った風景。
 もっと見よう。いろいろ見よう。全て感じよう。受け止めよう。
 上條さんに電話したいな。そう思った。上條とて政人の女癖は知っていただろうに。ただの一度も余計なことを言わず教えてくれた、まだ愛を信じられなかったあの頃、麻衣子に。考えろと。答えを出せと。出来ることがあるのだからと。
 麻衣子は小島に、上條さんとお話したいと告げた。小島はもちろん了承した。
 政人の執務室前で、小島は辞した。警備二人が重厚な扉を開ける。
 すぐに音がした。複数の音。それはあの時以上のキーボードの打鍵の音。あの時以上の複雑な異国語の会話。
 政人がほぼ全開で仕事をしていた。驚いて、後ろで重い音を立てて扉が閉まるのも気付かず。
 麻衣子の目にはこう映った。政人は複数の回線を同時に使用、全く異なる異国の言葉を同時に喋っている。それでいて同時にキーボードを打ち付けている。四台のマシンへ同時に。おそらく報告への返答などだろうが、たくさんのそれに対し一人で回答しているはずなのに、報告からの文量より回答の文量が多い、はっきり分かる。
 その集中力。ただ立ちすくんだ。これが政人の仕事姿を見た者ほぼ全てが取る反応。
 政人は、麻衣子が一通り自分の仕事姿を見たこと、やっと自分に視線を向けてくれたことを確認すると笑みを浮かべた。その余裕。
 自信。貫禄。包容力。
 完成された大人の男の、完璧な微笑みだった。
 政人のくちびるが動く。
 おかえり 麻衣 愛している
 麻衣子も返した。
 ただいま 政人 愛してる
 政人はゆっくり顔を動かした。その先は休憩室。行って休め、そう言っている。あの微笑みで。
 麻衣子はもう許容範囲外だった。元々それが極端に狭い、小さい麻衣子。着替えることも忘れてベッドに横になった。すぐに眠気はやって来た。
 政人はその瞬間、ひときわ大きくキーボードを叩き付け、休憩だと日本語で呟く。複数の仕事先も分かっている、会話は一旦停止。
 すぐに休憩室へ向かう。ダウンを着たまま眠る麻衣子の服を脱がせ、パジャマを着せる。恭しく、優しくベッドに入れて。火がついても構わない、起きない程度にくちびるにキスを。つい胸まで揉んで。起きない程度に首筋に舌を這わせ。
 俺はなんと贅沢な休憩時間を過ごしているのだろう。世界中の野郎共、俺こそが世界で一番幸せだ。
 ちなみに聖域を持てば誰でもそう言いますよ政人君。残念だったねちょっと遅くて。よかったね見つけられて。
 後で麻衣子に、政人って聖徳太子様みたい、と言われた。そう言われるのは初めてではなかった。だが麻衣子に言われればひときわ嬉しい。またも幸せを噛み締める政人だった。
 麻衣子は起きた時、自分の服装が違っていること、それを政人がやったこと、など見抜けるはずもなかった。大体こういうことは逢ってから往々にしてあった。さっぱり気付かず。もっとも、政人に言わせればそれでよかったが。
 食事中、政人は麻衣子の質問に答えた。
「気にするなが口癖か。
 そう言われればそうかも知れん。なくて七癖というからな。
 俺の他の癖か。麻衣を想うこと。麻衣の首筋に舌を這わせること。麻衣を前に、後ろから抱き締めること。愛撫もそこそこにぶち込むこと。麻衣の中に生出しすること。麻衣にいかされること。これで丁度七つだな」
「……あの。麻衣以外は……」
「ない」
「……。お仕事で、とか……」
「仕事に癖など持ったらなにも展開させられん。ライバル会社に隙を見せるだけだ。視野は広く持たねばならん。癖など持つなと叩き込まれた。あっても自覚する前に矯正された」
「……そうなんだ……」
「美術と音楽。どちも特段興味はなかったが散々習わされた。別にプロになるまで、とは言わんが、通知表で言えば五段階評価で五だ」
「……すごい」
「麻衣はカラオケはやらんか」
「……あんまりやらない」
「俺もあの雰囲気は好きじゃない。知人に言わせれば、カラオケに興ずる俺の姿は想像出来んそうだ。お前もそう思うか」
「うん。さすがにきっぱりそう思う」
「音楽の方は。声楽を正式に習わされた。いわゆる腹式呼吸だ、筋は悪くないと言われた。確かに授業で歌わされたことはあった、上手いとは言われたがな。聞いてみるか」
「……うん! ききたい! わあ、政人歌うまそう!」
「そうか。下手な場合は笑わんでくれ」
「そんなこと麻衣しない。あ、絵とかはどう?」
「石膏デッサンの基本から油絵まで叩き込まれた。確かに授業で出した課題は全部満点だったがな。美大に入れるほどじゃない」
「み、みたい」
「そうか。ついでに言うなら習字もやった。毛筆も硬筆もな。どちらもガキの頃はなんたら賞を取ったが、字なんぞ読めればいいという認識しかなかった」
「あ、そう! 政人字上手い!」
「そうか。俺とすれば婚姻届に署名さえ出来れば他の字なぞ書けなくてもいい」
「ん、もう。そういう極端なこと言わないの」
「分かった。次に、お前が世話になった者の件についてだが、お前の上司に電話を入れて携帯に登録しておいた。時差がある、おやつの時間に電話しろ」
「うん、分かった」
「俺は嬉しい」
「?」
「麻衣が聖域を、俺に少しずつ渡してくれている。嬉しいぞ。もっと言え」
「……うん。全部あげる。ごめんね、思いつかないと上げられないの」
「それでいい。結論から言えば、死ぬ前までにくれればいい。もっとも現在でも、お前の全ては俺のものだ」
「うん!」
 麻衣子はその後、本棚に行ってまんがでも読もうと思った。そしたらそこにはまんがだけではなく、ファッション雑誌などもあった。
 麻衣子とて美容院に行く、本来そこらのフツーの二十三歳である。買えなくても多少興味がある。いつも書店でたまにぺらぺらめくっていた。せっかくあるのだ、見てみた。
 そしたら麻衣子好みの小物がちらほらあった。日本一の宝石店に連れられて、自分の意志で買ったこともある。女である、アクセサリーが嫌いなわけはない。さらに興味を持って読んでみた。あ、これ欲しい。でも高い。
 ずっと読み続けると、結構気に入ったのがあった。だがそれは、要するに、どれを気に入ったか忘れてしまうという事態に。
 いけない、なにか印付けなきゃ。
 これでも社会人時代があった、そういう時は付箋をつけるもの。部屋を見渡しても筆記用具・文房具はなかったので、悪いと思ったが仕方なくページを折った。
 結構集中していたらしい。政人の入室に気付かなかった。いつもであるが。
「政人」
「麻衣、おやつだ。食え」
「うん」
 政人はおやつを食う習慣はない。あのキャラで甘いものスキ! なわけはない。用意されたのは一人分。
「麻衣。その本で、なにか興味のあるものはあったか」
「あ、うん。そうなの。ページ折っちゃった」
「麻衣のために買った。なにをしてもいい」
「うん。でもね、なんかみんな高そう」
「お前の夫は薄給じゃない。かと言って、麻衣はどうのなぞ言うな」
「う。うん。あの」
「見せろ。揃える」
「う。いいのかな。なんか麻衣、浪費家?」
「いつそんな言葉を覚えた」
「う。……麻衣だって、麻衣だって……」
「これしきで浪費家と言われるとはな。お前の夫を見くびるな」
「う。……ごめんなさい」
「その貧乏性は直してもらう。死ぬほど贅沢しろ」
「う。……それは、いくら政人が言ってもいや。麻衣、贅沢きらい」
「俺は麻衣に贅沢させるために仕事をしている。貧乏性を直さんなら仕事など辞めてやる」
「……またそんなこと言って。麻衣がそばにいるなら仕事する、じゃなかったの?」
「麻衣に言うことを聞かせる為ならどんな脅し文句でも使う」
「……もう。分かったの。でも、ちょっとずつしか直せない」
「それでいい。前も言ったが死ぬまでにやればいい、急ぎはせん」
「よかった」
「仕事に戻る。電話する予定だったな」
「あ、そうだ」
 麻衣子は、これが国際電話であること、麻衣子の感覚で言えばとんでもない贅沢であること、ともにさっぱり理解しようとしない。政人は、喉のここまで「国際電話だが金のことは気にするな」と言いたかったが、あの妻のキャラである。いちいち言わんでもいいだろう、と判断した。その通り。
 麻衣子はさっそく電話する。
「あれ。これ、麻衣の携帯じゃない」
 ノキア製。
「ここは異国だ、日本の携帯は、使えることは使えるが、これの方がいい。勝手をしたが、お前の持っていた携帯の登録データは移しておいた」
 なにせ麻衣子の持っていた日本製の携帯では、登録した通りの番号に掛けても国際電話など出来ない。そんな事情など分かるわけのない麻衣子。
「うん、分かった。使ってみる」
「行って来る麻衣。愛している」
 政人に額へスケベなキスを落とされた麻衣子は、しばし余韻に浸った後、電話した。