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「麻衣。お前は以前、一人で歩けるって言ったのに、と言ったな」
「う、うん」
「確かに俺はお前を一人で歩きたがらせない。要するに、何故そんなに過保護か。さらに言えばどの女にもそうしたのか、だな」
 麻衣はぷいと明後日を向いた。
「……うん。訊きたくないけどそれはちょっと知りたい」
「知りたいということは、ある程度予想がついている。そうだな」
「……うん。だから知りたいの。麻衣の想った通りなんでしょう? そう言って、嘘でもいいから」
「嘘なぞもう吐かん。想った通りだ、あれだけ厳しく育てられた俺は、他人にも厳しかった。過保護なぞ国語辞典にだけ存在する代物だ、とすら思っていた。麻衣に恋をして途端に過保護になった。もっと言えば、横抱きだの抱き上げるだのすれば麻衣以外はツケ上がる。面倒だ、したこともない。ただし親父は実践だとかなんとか言ってよくお袋をそうした、だから見たことはあった。
 麻衣だけだ」
「……うれしい」
「ただし済まんがタンポンだのなんだのはやった。済まん」
「……もう」
「俺に時間を取らせたくない。今度こそは地図を手に入れるから一人で出掛けたい。と、ずっと思っているな」
「……うん。そう」
「さっきも言ったがこれからは小島が付き添う。そのために雇った。もし麻衣を見失い、ひとりでふらふら歩かせたら即クビだ。それでもいいか」
「いや!!」
「と思うんだったら小島を振り切って独りふらふらしようなぞ思わんことだ。いいな」
「う、……うん」
「マスターに以前ちらっと訊いて、俺が質問してみたかったことを言う。
 何故お前はあの店で、主にココアを飲んでいた?」
「うん、それはね、政人の紅茶だけ飲みたかったから。あ、そうそう」
「なんだ」
「前、なんとなくって言ったけど、ちゃんと訊きたい。どうして麻衣は紅茶って思ったの?」
「これは俺の偏見だが」
「? 政人って偏見あるの?」
「ある。どれだけ人を平等に見ろ、差別するなと教えられてもな。前も言ったが完璧な人間は存在しない。
 それで、俺の偏見は、男はコーヒー、女は紅茶を飲むものだ、ということだ」
「……」
「なんだ」
「……政人らしくない……」
「ところが俺はそう思っていた。麻衣を見初めてある程度情報は入手したが、コーヒー紅茶ココアの趣味までは分からなかった。だがせっかくマスターから教わった、お前は初めて家に来た時緊張していた。まずはなにか飲み物を、そう思った。
 前に京都に行った時、出された食事は皆美味かったな」
「う、うん」
「あれを作った者は、麻衣をひとめ見ただけで麻衣の好き嫌い、現在の体調を全て見抜く。それがプロの料理人と言うものだ。
 俺は免状は持っているが所詮はプロじゃない。これも訊きたかったことだろうが、俺はコーヒー紅茶自分の手料理を他人に振る舞ったことなぞない。嫌いなものなど訊かなければ分からなかった。だから、出した後、そういえば紅茶は好きか、コーヒーは飲めるかと訊けばよかったと思ったくらいだ。
 紅茶にしたのは偏見に基づいたカンだ、それ以外言いようがない」
「……そうなんだ……」
 俺のあやふやな答えに、それでも満足する麻衣。訊きたいことが聞けたからな。
「食い物関係でもう一つ。俺の好き嫌いはなにか、だな」
「う、うん。そう」
「ない」
「……やっぱり?」
「そうだ。これは偏見なしでない。さらに言うなら、俺は世界中の食い物を食って来た。お前も多少は知っているかも知れないが、猿の脳味噌も食った」
「うぅ……いや……」
「それなら味がどうとは言わんぞ、いいな」
「う、うん。そうして」
「お前もそう思っているだろうが、現在この世界は未曾有の食料危機だ。確かに、一見どう見てもまずそうな食事もあったがそれでも食った。理由はそうだからだ。これに金持ちもなにも関係ない。そう思うな」
「う、うん……でも麻衣、食べられないのある……」
「それはいい」
「……どうして?」
「そんなものなど誰にでもある。食事は生きるため、楽しむためにある。要するに、残さなければいいことだ。最初から出さない、出させなければいい。俺でもなければ、人間誰しも好き嫌いくらいはある。誰がそれを責められる。そう思わんか」
「……うん。……あ」
「なんだ」
「食べ物関係で、訊きたかったの思い出した」
「よくやった麻衣。それで、なんだ」
「どうしていつもいつの間にごはんが出来てるの? そうそう、政人っていつ眠ってるの? いつの間に引っ越しとかよくあるけど、そんな時間あるの?」
「飯はお前をいかせてから作っている。お前は体力なしだ、本当に俺が間断なくやりまくったら失神ではなく昏倒する。よって、よく最初のころはした食事抜きでのやりまくりでも、少々寝かせていた」
「……そうだったんだ……」
「その間俺も眠っている。俺は何時間もぐーすか眠るキャラじゃない。かと言って、どうせ麻衣はなぞ言うな。生まれ変わったが、それ以前は生まれも育ちも違う。そうだな」
「……う。うん」
「引っ越しも以下同文だ。つまり、今村の男は時間の使い方が上手い。だからと言って」
「ん、もう……分かったもん」
「ならいい。次は医者だ。竜也を身籠ることで産婦人科医はまだ許容出来る。なのになぜ、もう一人呼んだか。あのアンケートと質問はなにか、だな」
「うん」
「あの医者は、精神科医だ」
「……」
「お前はこう思っていたな。こんなに頑張っているのに、これ以上どう頑張ればいいの」
「……なんで分かるの」
「新婚旅行の時、お前はふらふら歩いて玄関のノブに手を掛けた。これは夢遊病と呼ばれる。原因は様々あるが、一説にはストレスだそうだ。
 お前は吐いた時、ストレスとプレッシャーでなにを飲んでも効かないと言ったな。その頃から、精神科に診てもらわなくてはならないのではないかと思っていた。あのアンケートと質問はお前の精神状態を診断するためにあった。診てもらった結論、お前は鬱病になり罹っている」
「……」
「一説には心の風邪とも言われる。珍しい病気じゃない、百人に一人はこの症状だとする者もいる。これを患う者の典型的な感情、それがどう頑張ればいいの、だ。
 お前は心が折れている」
「あ!」
「なんだ」
「それ、上條さんからも言われた……」
「確か、お前が吐いて少々家を出た時やっかいになった家の主か」
「うん、そう」
「だったらそいつは自分自身か、あるいは親しい知人が精神病を患っている。この心を知らなければその言葉は出ない」
「……麻衣の携帯から、いつの間にか上條さんのデータが消えて……」
「俺がやった」
「どうして……」
「俺はそいつともう一人を家に上げただろう。結果お前は怒り哀しんだ。だからだ」
「でも麻衣、……麻衣が悪いの、せっかく親切に言ってくれたのに誤解したから……」
「麻衣は悪くない。俺がお前をやっていかせてもうすぐ目覚めると知っていたのに家に上げた。電話で済む用件だったのに」
「政人は、おれがわるいとか言っちゃだめって言った……」
「分かった。
 だったら麻衣、その、世話になった者と話がしたいか」
「うん、謝りたい……」
「だが俺は麻衣以外は興味がない、個人情報なぞ当然知らん。しかし話をしたいというのなら、麻衣の元上司に訊いてみてはどうだ。知っているかもしれんぞ」
「……うん、そうだね……」
「だが今は相互理解の時間だ、後にしろ」
「うん」
「症状の話に戻す。お前には、自分には何の価値もないと感じる無価値感があるな。ないとは言わせん、私はなにも出来ない、なにもして上げられないと言ったんだからな」
「……」
「これまたこの病気の典型的な症状だ。気分が落ち込んで嫌な毎日で、自分には存在している価値などなく、死にたい、そうまで思ったな」
「……あの」
「なんだ」
「死にたいなんて、思ったことはないけど……」
「似たようなことは思ったな」
「……うん。でも」
「なんだ」
「もう麻衣、そんなふうには思ってない。だって麻衣、出来るもん。政人のそばにいるんだもん。政人のこと愛して上げるんだもん。麻衣にしか出来ないもん。政人のこと独りにしない。ずっとそばにいる。
 だから麻衣、その、なんとか病じゃないよ……」
 そう言われなければ、俺はもっと問い詰めた。お前は何をしても面白くなく、物事にとりかかる気力がなくなり、何もしていないのに疲れてしまい、考えがまとまらず小さな物事さえも決断できないだろう、とな。
 だがこの症状は、一旦“ああ自分は精神病患者だ”と思うとそう思い込み、治りはしないとまで思ってしまう。
 文字通り精神の話。麻衣がそうでないというならそうだ。俺はもう、この話題に触れるのは止めにした。
「ああそうそう、上條さんの話が出たから訊くんだけど」
「なんだ」
「上條さん、前政人の部下って言ってたの。そう?」
「違う」
「……そうなの?」
「課も係も一緒になったことはない。俺の課長時代は臨時の専門職だった、さらに言えば日本向けの職じゃなかった。
 現在は専務で、強いて言えば確かに部下かも知れんが直属じゃない。
 そいつが、どこでどうしてそう言ったか覚えているか」
「……うーん」
「覚えていなければ、別に構わんが」
「でも麻衣、気になる」
 そうか、嫉妬か。
 嫉妬という言葉を教えてやってもいいが、どう考えても麻衣のキャラじゃない。
 全てを言う必要がどこにある。もっとも、麻衣の思っていることは全て言ってもらう。麻衣の聖域とて全て俺のものだ。
「うーん、うーん」
「後でもいいが」
「ううん、後だと忘れる。今」
「そうか」
 俺は今度はコーヒーを淹れに行った。クリームを添えて。
「確か病院……ああそうそう!」
「なんだ」
「前、麻衣どうして病院へ行ったの?」
「お前が家のど真ん中で、血を流して倒れていたからだ。仕事中、偶然家に寄って偶然発見した。俺は医者じゃないが非常事態とは分かった。急いで搬送した。そしたら、医者からは生理の血だ、近くにモップが転がっていたのならおそらくそれに引っかかって頭を打ったのだろうと言われた。俺はずっと付き添うつもりでいたが、そうすれば仕事をまたさぼったかと麻衣に心配される。医者からは脳波に異常はない、安静にしていれば大丈夫と太鼓判を押された。だから俺はあの場にいなかった」
「……そうなんだ……」
「部下がどうという話はどうした」
「あ、えっと……
 そうそう。その、その時いた看護婦さんに向かって課長の部下ですとかなんとか……」
「それ以外は思い出せるか」
「えっと……」
「その時いた看護婦さんとは、婦長のことだ。婦長とは、医者で言えば院長。要するに、看護師のなかで一番偉い者だ。会社で言えば社長」
 麻衣子は目をぱちくりさせた。そんな偉い人だったのかと。
「江口総合病院の院長が俺と同大学の同年、友人だ。披露宴にも来ていた」
「……そうだったの?」
「そうだ。だが生理の話となれば対応は女性がして当然。そこで経験豊富、その道三十有余年の大ベテラン、婦長においで願った、という訳だ。
 麻衣の思い出した内容では全て判断出来ないが、俺の聖域を看る者といえばぺーぺー看護師ではなく一番偉い者。そう思ったのかも知れん。要するにそいつは、一番偉い者に会うため、手っ取り早く俺の名を出した。
 と思われるな。情報が揃っていない、推察になるが、どうだ」
「……ああ、なんかそんな感じ……」
 推察ではあるが、妥当な線だろう。
「俺の、現在思いつく誘導尋問は以上だ。なにか気になったことはあるか」
「うーん」
「だったら次は、俺の初めてとはなにか、だ。
 一気に言うぞ、全部覚えなくてもいい、そんなにあるのかと思ってくれればいい」
「う、うん」
「恋。幸せだ、狼狽える、気が狂う、判断出来ない、声を聞きたい、逢いたい、月曜朝になって欲しくない、、金曜五時に早くなれ、後ろ髪を引かれる想い、矛盾、笑顔が見たい、過保護、理解不能、茫然自失、早とちり、配性、放心、盲点、迂闊、難問、気分は親鳥、目に入れても痛くない、セックスで感じる・いく・誘惑される・犯される、内緒、なんとなく、吹き出して笑う、独占欲、逢いたい病、怯えること、焦ること」
 呆然とする麻衣。当然だ。どうせこの先も未知なお初がまだまだあるに決まっている。
「感想は」
「……びっくり……」
「お前は俺がなぜ恋をしたのか今でもまだ疑問かも知れんが、俺に言わせればこれだけお初な心境に陥らせておいてくれて、まだ理解出来んとはどういうことだ、と言いたいんだが」
 視線を彷徨わせる麻衣。
「分かったか。理解したか。飲み込めたか」
「……あの」
「なんだ」
「感じるとかいくとか、どうせ……」
「嘘など言っていない。生まれ変わる前のなど、全員単なる性欲処理対象者だ。お前に初めてフェラされて初めて感じた。初めていった。まだあるな、思わず喘ぎ声を出したことだ。俺のあんな声などお前以外誰も聞いていない」
「……そう?」
「そうだ。腐るほど抱いて来て、なにが性技に精通しているだ。俺に言わせれば、お前の方こそセックスが上手い」
「えーーー!?」
「えーじゃない。俺を毎度いかせているんだ、上手い以外のなんだ」
「……麻衣、いつもいかされているんだけど……」
「俺もいっている」
「……知らないもん」
「お前がいった直後にいつもいっているんだ。気持ちよ過ぎて気が狂って昇天してその度少々眠っている。お前もだな」
「……うん」
「どうだ。いかに俺がお前に恋い焦がれているか分かったか。分かったと言えいい加減」
「う。……うん。分かったの。政人は麻衣に恋しているの。愛してるの。ずーっとずーっと、いっぱい」
「そうだ。では次、腹筋背筋その他」
「うん! 見たい!」
 恋をした、というのもそこまで目を輝かせて肯定して欲しいがまあいい。
 一旦麻衣と離れて。
「これが腹筋」
 ボクシングジムではよく見る光景、あれを麻衣に見せる。さて感想は。
 麻衣は拙く拍手した。前された時は後ろにいたから見えなかったが、今回は表情まで見える。そのさま、獲物を捕らえた親鳥を感心して見る雛鳥そのもの。
「次に背筋」
 多少古いが、世界一のホームランバッターがやったあの往年のやり方で。
「……政人」
「なんだ」
「……どうして、おなかが浮くの?」
「背筋だからだ」
 麻衣は完全によく分からないモードに突入している。
「次に腕立て伏せ」
 面倒なので両腕ではしない。逆立ちして左手親指だけで体を支えるいつものでさっさと。
 麻衣は、というと。
 ぽろっ、と涙をこぼした。
「……何故泣く」
 体を元に戻して麻衣を抱き締める。麻衣は緊張で抱かれなどしない、それは最初のあの時だけ、今はもう。
 腰に腕を回してくれる。俺の胸板に顔を埋める。いやいやする麻衣。
「どうした。何が哀しい」
「……」
「麻衣」
「……これが」
「なんだ」
「隠し事……」
「なんだ」
「政人は……」
「なんだ」
「……別世界の、ひと……麻衣はほんとうは、……飽きて捨てられるだけの」
 キスをして言葉を止め、指をぶち込んで胸を揉みしだいて濡れさせすぐに挿れた。愛している麻衣と言い続け、抜かずベッドに連れて行き、だいすきだいすき離れない、そばにいる、と叫ばせるまで犯した。
 麻衣子が気付いた時、夫の体温が近くにあった。
「……?」
 視野の狭い麻衣子が、それでも状況を確認しようとする。普段ならキスで起こされ。でも、今は違う。
 しばしの時を経て、麻衣子が理解した状況とはこうだった。まず、麻衣子はとにかく飛行機の中。そして、夫の膝の上に乗っている。夫はというと、麻衣子を抱きながら椅子に座り、一台のパソコンに向かって打鍵している。耳にはイヤーセットとか言われるもの。複雑複数の異国語を操っている。
 お仕事中だ……
 でも、麻衣子には分かる。パソコンが一台しかない。多分、全開じゃない。
 ずっと聞いていた。誰にも出せないようなそら恐ろしい早さの音を。I love you以外の意味の異国語を。
 麻衣子にとってはあまりに非現実過ぎて。政人は麻衣子を恭しく、優しく抱いてくれるから。
 もしあの部屋に呼ばれた時、こうだったら?
 ううん、もう、そんなこと考える意味はない。考えることも必要ない。ただ、愛されていればいいの。
 ただ、愛してあげればいいの。そばにいてあげればいいの。
 広い胸板に体を預け、護られるまま音を聞いた。しばしそうして……
「麻衣。愛している」
 逢ったあの日から言われなかったことなどない、息するのと同意語が耳元で囁かれる。甘いバリトン。
 そんな麻衣子のほほに、政人はキスをした。ほっぺにキス。
「……」
 麻衣子は照れた。
 麻衣子の全身は、中も外も政人の指舌くちびる政人自身でいっぱいである。だから、ほっぺにもいっぱいされたが、こうして単発では初めて。そりゃ照れる。ぽっと赤くなって、思わず手をほっぺにやって、感触を確かめた。そりゃあそりゃあ幸せだった。麻衣子も、政人も。
 だからこれが、仕事中で、その音声は相手先に筒抜けという、ちょっと考えなくても思いつく事態だなんて麻衣子には分からない。いつもおばか。
 またも政人に体を預け。なんとなく、胸板に顔をすり寄せねぶねぶする。腕なんかいつの間にか腰に回していた、全くいつも。しばらくそうして……
「麻衣。愛している」
 ほっぺにキス。麻衣子照れる。ほっぺに手。
 これを都合数回繰り返すと、おばかとその正反対以外の第三者、つまり仕事の相手先が反応する。当然である。
「Imamura-----!!!」
 麻衣子はびっくりした。夫以外の声を二人っきりの時聞くことになるとは思わなかったからだ。それに、いくら麻衣子でも何語でも、イマムラと言われりゃ分かる。ああ、麻衣のこと?
 声はどう聞いても怒っていた。これに何語は関係ない、そのくらいはおばかでも分かる。麻衣、なにかしたっけ?
「麻衣。愛している」
 ほっぺにキス。照れた麻衣子は、ここでようやっとおぼろげに、現状を理解する。あれ、今仕事中じゃあ……ってことは、まいあいしてるがみんなに聞かれているんじゃあ……
 なんてボケた感想を仕事先が持つ訳がない。いい加減アタマに来たようだ。当然。
「てめえ今村! なにしてやがる、仕事しろ!!」
「しているが」
 仕事先はぐっと言葉に詰まったようだ。
「いや、そりゃ分かるが……っつーかその、愛してる止めい! 仕事中だろうが、後にしろ!」
「想ったことを口に出しただけだ」
「分かったから仕事しろ! 口に出すのは聖域と二人っきりの時だけにしろ!」
「二人きりだが」
「だーかーらァ!!」
 麻衣子は困った。要するに、仕事さぼりの要素を作っていると同様に、仕事先にこんなことを言わせる要素まで作っているらしい。そんなふうには思われたくない。
 声を出せば聞かれる。だから麻衣子は視線で熱く夫に語りかけた。分かってくれるもん、だって最初からだもん。
 まさと。だいすき。だからそれ、後で言って? 麻衣、分かってるから。
 すると麻衣子の目に、政人の瞳はこう語っているように思えた。
 分かった、麻衣。愛している。
 確実にそう言っただろう。なにせほっぺにキスが来た。またも照れる麻衣子。
 その後政人の口から麻衣子がどうのは出なかった。分かってくれた、そう思ってほっとする麻衣子と仕事先。
 多分着陸っていうのかな、まで、仕事するだろう。ぶち込まれた体、とうに上げた切り離せない心で政人にもたれた。眠くなった。
 もうそろそろまぶたが落ちそう。そんな時に。
「麻衣。愛している」
 ほっぺにキス。
 ……。
「てめえしばらく黙ったと思ったらそれか! あのなァ!」
「納期が三日後とはどういうことだ。明日だ、さもなくばB社に」
「っだーーー!! 厳し過ぎだ、女房に怒鳴られる!」
「お前のところはそれしきか」
「さりげなく惚気るな! 仕事、って……だから明日は厳しい、分かってるだろ、物理的に無理だ!」
「そうか。お前との友誼もこれまでだ」
「わーーーーちょっと待てぇ!!」
「これまでの友誼に免じて、こちらが着陸するまで猶予をやろう」
 麻衣子はなんだかよく分からないが、政人ってえらいなあと思った。おばか。
 政人は接続を全て切る。途端止まるウィンドウの文字。
「麻衣。愛している」
 次に来るのはほっぺにキスじゃない。そんな可愛い雰囲気ではないと、麻衣子ならば分かった。スカートをおろされ、乳房の部分だけ露出され。政人は少し腰を浮かし。あ、脱いでる……
 いつものように。場所がパソコンを前にしているってだけ、重厚な一人用椅子の上ってだけ。
 二人、モニターに向かって。だから麻衣子は手をついた。キーボードの上に。
 耳に囁かれる愛の言葉。すぐにやって来る快楽の海。激しく下から突き上げられながら。腰を力強く掴まれ、縦横無尽に犯されながら。
 後ろから、体のど真ん中に容赦なくぶち込まれながら、麻衣子は喘いだ。小振りな乳房がその通り揺れる。
「あ、ぁ、ア、あ!」
「麻衣、麻衣、麻衣、愛している」
 キーボードは、主の意味のない打鍵全て拾って、ウィンドウに意味のない文字の羅列を作る。
 椅子がぎしぎしと激しく揺れた。
「ん……ん」
 キスで起こされた麻衣子がいる所は車中だった。多少内装は違うがいつものリムジンのようだった。もう飛行機からおりた模様。
「政人……」
「起きろ麻衣。もうすぐ会社に着く」
 よく見ると、政人の格好はスーツに重厚なコート姿だった。相変わらず似合い過ぎ。一部の隙もなく。
「どうして政人は、そんなにスーツが似合うの……」
「似合うか」
「うん」
「適当に着ているだけだ」
「そう……?」
 麻衣子は社会人経験がほとんどないが、そんな中でもこれだけ板に付いている者を見たことがない。披露宴で、それなりであろう身分の者達のスーツ姿を見たが、誰一人夫に敵う者などいなかった。惚れた贔屓目であるとしても。
「俺に言わせれば、麻衣こそ奇麗だ。何故そんなに奇麗になる」
「え……」
 ここで麻衣子、自分の姿、服装を確認する。淡いブルーのワンピース。その上にもこもこダウンを羽織って。どう見てもよそ行き。
「あの……麻衣……」
「そうだ、一緒に出社する。
 お前は社外の人間になった自分が会社にのこのこ顔を出していいのかと思っているな。確かに日本の会社では風土上だめだったが、ここではいい。さらに言えば、妻を帯同させるとは上層部には言ってある。許可しないのであれば辞めてやると脅してある」
「……もう」
「もっとも、お前はじろじろ見られること、初対面の人間と会い自己紹介し合って名前を覚えなければならないこと、共に苦手だと分かっている。そういう事態にはならない、取締役専用出入り口から俺の執務室たる最上階直通専用エレベーターで行き来する、一般職員となぞ会わん。いいな」
「うん。よかった、そう麻衣苦手なの。それに、ここ外国でしょう、さっきもそうだったけど、英語でもないんでしょう。なに言われてるか分かんないなんて、不安、やだ……」
「分かっている。そんな目になど遭わせん」
「……よかった……」
 車が停まった。どこかは分からないが到着したらしい。政人に横抱きされて車を出た麻衣子は、高層ビルを久々に見上げた。
「行くぞ」
「う、うん」
 どうやらいつものだっこではなく、歩いて行くらしい。腕を絡めとられて行く。なんだか恥ずかしい。
 だっこの方が恥ずかしいんですよ麻衣子。
 なんだか、社会人時代を思い出した。こんなふうに、大きなビル。空間を贅沢に使ったホワイエ。わくわくしたのは最初だけ、職場に行けば吐く思いで……
 ううん、と首を振った。もう戻りはしない過去。そうしてくれた夫に支えられながらエレベーターまで行く。途中、受付に女性二人がいたが、共に頭を下げた状態でおり、麻衣子達をじろじろなど見なかった。
 ダウンを脱がせてもらい、政人に持ってもらって、エレベーターの中で。
「緊張しているな」
「う、うん」
「社内を歩かせればひょっとして、吐いた過去を思い出させるかと思ったが、それでも何故意識あるうちお前をこうして歩かせているかというと、休憩室から外に出し散歩させようと思っているからだ。その時俺は一緒には歩いてやれん。済まんが慣れてくれ。これからは各所でそうなる」
「……そっか」
「その時は、今のような緊張する格好ではなく、お前の好きな上はラフなトレーナー、下はジーンズで歩かせる。いいな」
「うん、よかった」
 ほっとした。今でも麻衣子はこういう高飛車な格好は苦手だ。どれだけ似合う、奇麗だと言われても。
「ここは東京より北に位置する。寒いぞ、ダウンは忘れるな。マフラー、手袋、イヤーマフラーもだ。出来ればマスクもさせたいが、そこまでさせると一見不審者だ、仕方なくそれはしない」
「ん、もう……」
 麻衣子はちょっと笑ってしまった。
「そういえば政人とこうしてエレベーターに乗った時、緊張したな……」
「あの時の俺の心境がどうだったか、もう分かったな」
 麻衣子はぷいと横を向いた。政人は麻衣子のほっぺに手を添え自分に向かせ、キスをせがんだ。