23

「生まれは。田舎で……別に普通の学校を出たの。あの……」
「いい。俺は学歴など気にせん。今となっては麻衣と同じ学校に入りたかった」
「う……うん。それでね。
 子供の頃はよく遊んだけど。それで、披露宴にお招きした人って、その頃の人なの。あとは、麻衣のドジを知っても、それでもいいよ、あたし達だってそう変わらないし。って言ってくれた人、なの」
「そうか」
 いい友人に巡り会えたな、麻衣。その割にあの同クラスとかいう男は許せんが。
「無邪気に遊んでいられるときは楽しくてよかったけど。中学に上がって、制服を初めて着られたはいいけど、途端勉強が難しくなって。算数が数学、それだけで、もうついて行けなかった。小学校のときは一度も勉強したことなかったのに、中学に行ったらすぐしなきゃだめだった」
「部活はなにをした」
 政人が誘導尋問を始める。
「えっと……あの、強制じゃなかったから、別に入らなかった。麻衣根性なしだから、運動部に入って腹筋背筋とかやれなかった。
 あ、そうだ政人! 体鍛えているんでしょう、腹筋背筋出来る?」
 お前の夫の体をなんだと思っているのだ。それどころじゃないぞ。
 とは言いたいが、麻衣子の性分能力では、お子様運動部のお子様運動しか知らないのだろう。
「分かった、後でやる。
 ところで。お前ははっきり言おうか体力なしだ」
「……う」
「これから竜也を身籠る。体力勝負だ。俺としては、お前にこそ腹筋背筋腕立て伏せランニング等体力作りをして欲しいんだが」
 麻衣子は明後日を見た。なんぼおばかでも、政人の体を見たあの日から、いつか来る質問ではないかと思っていたからだ。隠し事そのいくつか、である。
「……麻衣。根性なし」
「知っている」
 こちらを向かせる政人。
「う。……なんか遠慮ない……」
「夫婦だ。相互理解だ」
「……だからその。……出来ません! 一回も出来ないの!! ランニングなんて、体育の授業でマラソンさせられたら途端に筋肉痛になるの!!」
「そうか。だが散歩はしてもらう」
「え?」
 途端にレベルが下がったな。いくら麻衣子でもそう思える。これが政人の常套手段。
「いろんな国の、いろんな景色を見ろ。
 人によっては、十代のうちに異国を見るといい人生を送れるとまで言う者もある。お前は二十三だが、決して遅くはない。竜也の情操教育にもいい。
 散歩しろ。いろんな景色を見ろ。感じろ」
「……」
 麻衣子はあの、新婚旅行先の景色をまざまざと思い起こした。あれを。あんな風景を。
 見るだけで、そう……
「もっとも異国だ、お前を一人でふらふら出す気はない。そこで前も言ったが使用人の出番だ。俺が選りすぐって選んだ初老の女性、後で直接会わせるが、小島という。
 小島を常に付き従わせる。携帯もカードも持たなくていい、委細は全て小島に任せろ。いいな」
「う、うん」
 麻衣子はそう返事をしたが、正直先の話だ、分からない。実感出来ない。
「話を元に戻す。中学時代、他に思い出は」
「ああ、校舎の裏の桜が奇麗だったな。麻衣、桜好き。そういえば会社で、来年の花見の場所取りはお前達にやってもらうぞーとか、言われたな」
「桜並木なら今村の本家にある」
「えーーー!?」
「見たいか」
「見たい!!」
「なら本家に住め。この間の、俺達の両親に対する仕打ちを反省し、親父とお袋は既に本家を出ている。今度は世界旅行で抜かずの旅だと」
「でも麻衣……」
「分かっている。あのマンションにも顔を出そう。ただし」
「?」
「あのマンションの階下に、まだ予定だが、二組知人を入れる」
「……?」
「あのマンションは五階建てだ。一番上を俺達が使っている。空きの四つは、お前に対し失礼な事を絶対しないと確信を持っている家族に、タダで貸してやろうと思っていた。どうだ」
「うん、いい! まさとすごい、ただなんてふとっぱら!」
 政人はまたしても吹き出した。腹を出したことなどないんだが。
「中学時代の思い出は以上か」
「うーん……勉強に追われて、でも友達と話して……そんなかんじ」
「高校に上がってからは」
「えっと。まず、受験が大変だった」
「そうか」
「でもなんとか受かって。それはいいんだけど、さっそく試験とかあったなあ。中学より難しかった。また勉強に追われちゃって。部活なんてしてられなかった。それでね」
「なんだ」
「怒るかなあ」
「俺が怒ったことは?」
「ん、ない」
「続けろ」
「結構、……告白とかなんぱとかされました」
「麻衣は可愛い。当然だ。俺など逢ったら即連れ帰ったぞ」
「……うん」
 嬉しくて照れた。
「どう断った」
「えっと。そんな余裕ありませんごめんなさい」
 それでよく逃げ切れたと思う。言っちゃ悪いが田舎万歳だ、これが都心の渋谷だどこぞでやられたら……
「高校時代の思い出は」
「中学より楽しかったよ。中学の頃はいじめとか周りであって。麻衣はあんまりそんな思いしなかったけど、ちょっと周りと浮いただけでいじめられて。可哀想だった。でも、高校に上がるとみんな大人だね。ぴったり止んだよ。ああいいとこだって思った。
 中学では、男の子と話するだけで付き合ってるんだろ、なんて言われていやだった。麻衣は政人だけしかすきじゃないし、誰とでも友達になりたかったから。高校に上がってやっと男友達が出来たな」
 これが、大嫌いと言われても許容する政人でなければ、他の普通の男に言ったら確実に嫉妬されると、麻衣子に分かる訳がない。政人は普通に聞いていた。妬くつもりなどさらさらない、だったら自分は何なのか、である。
「喋ってもへんな目で見られないし。あの頃の男の子って、もうほら、好きな女の子にこそいじめるとかそんなのなくて、もう大人でしょう?」
 だが実際は、中学の頃から引き続き、頭の中はセックスで一杯なんだが。とは、政人は言わなかった。
「勉強は大変だったけど。いい思い出だよ」
「大学はどうだった」
「……もう、入試が辛くて……」
「そうか。最低でもその頃逢いたかった、俺が教えた」
「うん。……政人教え方も上手そう……」
 なにせセックスは我ながら上手いからな。とは思うが、マスターほどド短気ではないものの、この麻衣に教えると言ったらさて……いや待て。俺は親鳥だ。雛鳥に教えなくてどうする。
 と、政人は思ったとか思わなかったとか。
「大学はどうだった」
「まず、講義を自分で選択しなきゃいけないでしょう。それで困った。その講義をきちんと受けなきゃいけないのも困った。高校までなら全員強制だから、むしろその方がよかったんだけど。麻衣、考えるの苦手で……」
「考えただろう。俺に。俺を許してくれた」
「……うん……」
「考えることはもうほとんどない。ただ俺に愛されていろ」
「……うん……」
「趣味は」
「えっと……あんまりない。入社試験では読書とか、音楽鑑賞とか言ったけど、読書ってまんがだし、音楽鑑賞って洋楽のR&Bとかだし。いつもそれ突っ込まれて、それで試験落ちたの……」
「特技は俺のそばにいること。そうだな」
「うん!」
 他の特技なぞなさそうと、よくよく分かる政人。いつもの通り先回りして即断する。
「さてこれからが訊きたいことだ。お前はなぜ、俺達の会社を選んだ」
「あの……」
 とはいえ政人はもう分かっている。調べたからだ。まず麻衣子は、地元の、家に近い所から就職試験を受けて行った。だが全滅。すると県内の県庁所在地あたりも探して行った。それも全滅。するとあとは公務員試験、もしくはどーんと都会に行って一旗揚げること。
 一旗はともかく、他に道はないと思ったのだろう。しかし結果は惨敗、たった一つだけ残されたのがあの会社。
「いっぱい受けてもだめで。駄目元とかそんなんじゃなくて、手当たり次第に受けたうちの一つから、やっと合格通知が来たってだけなの」
「そうか、麻衣。俺は嬉しい。よく俺の会社を受けてくれた」
 政人はぽんと雛鳥の頭に手を置いた。雛鳥はよく親鳥になついた。
 もしお前の体調が少しでも悪くて、お前の指がひとつでも動いて、たった一問違った回答を出しただけで、もう俺達は出逢わなかった。
 奇跡と偶然の神に、ありがとう。
「あのね、政人。麻衣ちょっと訊きたいこと、思いついたんだけど」
 なんと珍しい。はっきり言や千載一遇のチャンスである。
「学校で、文化祭とか体育祭とか修学旅行とかあったでしょう? どうだった?」
 なるほどな。そういえばそういうものもあったか。
「麻衣も言うから。政人も言って」
「分かった。まずは文化祭だが。
 こう見えても手先が器用でな。中学の頃、小物を作ったり持ち込んだりして売店を開く、なぞが確かにあったが。俺が作ったのは、さっさと売れた」
 麻衣子はその内容にびっくりした。そして、やっと歳なりの言葉が聞けて喜んだ。なにせ麻衣子は、政人の完成された姿しか知らない。なんとなく、詰め襟を着ていた頃を想像出来る。
「麻衣、買いたかったな」
「欲しいか」
「うん!」
「分かった。ならこれが、来年の誕生日プレゼントだ。今年のノエルは残念ながら仕事だ、時間がない」
「? のえる?」
「クリスマスのことだ。麻衣の家ではどうしていた」
「ああ……その時だけはケーキを食べたかな」
「分かった。焼いて持って行く、おやつで食え」
「うん。あれ、……政人は……」
 でもなんとなく、いやな予感。
「クリスマスと盆暮れ正月、バレンタインと俺の誕生日は、麻衣の聞きたくないことをしなかった」
 麻衣子はほっとした。
「なぜなら、そういう記念日になにかをすると麻衣の聞きたくない先が煩くてな。さっさと本家に帰った。これ以上は言わん」
「う、うん」
「文化祭か。あとは面倒なのでなにもしなかった。ただ、喫茶店を開いていた時、俺はなんでも出来そうなのに、茶もコーヒーも淹れられんのかと周囲に訊かれたときは、そういえばそうだなと思った。それで大学に入りマスターと知り合い、教えて貰った」
「そうなんだ……」
「体育祭では」
「うんうん」
 麻衣子のお目々が光り輝く。この目。さぞ政人がぶっちぎって活躍しただろう。そう期待している。
「期待ほどの活躍はしなかったぞ」
「……え?」
 そんなはずはない、麻衣の自慢の旦那様が。
「とにかく名が通った学校にばかり行った。スポーツ専門校じゃない、早い話が頭でっかちだ。そんな者達と一緒に走って、多少トップでゴールを切っても自慢にはならん」
「ん、もう……見たかったな……」
「アルバムがある、見せてやる」
「え!? そんなのあるの!? 見たい、見たい政人!」
「会社の休憩室でだ。ひとりだと時間が余る」
「う、うん」
「俺は、麻衣の分はとっくに横流ししてもらった。全部見た」
「えーーー!?」
「えーとはなんだ」
「……ずるい。まさとだけずるい……」
「横流ししてもらった、と言ったぞ。お義父さんから言い出された」
「……そうなんだ……」
 お父さん。麻衣の結婚に反対してたのに。
「修学旅行だが、どこも行ったことのある所ばかりだった。時間制限もあった、つまらなかった。あとは言わん」
 やっぱりなと麻衣子は思う。そして、やっぱり詳しく訊かないのは正解だと思った。聞けば正直、そばにはいられない。
 政人は麻衣子をぎゅっと抱き締めた。細すぎる体に不安を一杯詰めて。どれだけ愛してもこの先吐き出してくれるかどうか……
「麻衣の文化祭と体育祭、修学旅行は」
「……ん。えっと、文化祭は。
 確か中学の頃は、割烹着を作らされたな。それでミシンを踏んでみたんだけど、思った通りドジで手を縫って」
 この時の政人の心境は、まさに生母みゆきのあの通り。麻衣子がこの場にいなければ、さて誰を怒鳴り飛ばしたか。
「痛かったか。どの指だ」
「んっと……」
 と言っている間に政人は麻衣子の指十本全部舐める。政人は、舌だのなんだの使うとただのそれにはならない、全部愛撫になる。
「ン……ン」
 しまったと政人は思う。今は相互理解の時、ついやるところだった。
「……文化祭について、他に思い出は」
「ン……お化け屋敷とかお芝居とか……」
「内容は」
「お化け屋敷はおっきな黒い幕を作って……あ、ドジしなかったよ、縫わなかった……」
「芝居は」
「裏方さん。舞台に立たなくてよかった、麻衣緊張して台詞間違えちゃいそうだったから」
 もし麻衣子がシンデレラを演るというなら、性分ではないが王子様のひとつも演ってやろうと思う政人。もっともそんなことをすれば、麻衣子が聞きたくない輩が煩くてかなわないのだが。
「体育祭は」
「ああ……麻衣、びりじゃなかったな。それだけで、あとは別に……ああ、お母さんがお弁当持って来てくれるのが嬉しかった。それだけで、運動会好きだったなあ」
「修学旅行は」
「えっと……」
 麻衣子はちょっと下を向いた。
「一緒に回ろうと男の子に言われたんだけど、麻衣それが付き合っている証拠って分からなくて、直前までそうしようと思ったんだけど友達に、あの人と付き合ってるの、とか言われて、ううんそうじゃないって言ったら、好きでもないのに一緒に回るなんて失礼だよって言われて……お断りして女の子と回った」
「そうか」
 政人は別に構わなかった。藤村が言った通り、二十二になるまでお付き合いもまだなんて正直政人でも思わなかったから。こんなに可愛いのだ、清らかな処女のまま目の前に現れてくれたことそのものが一番の奇跡なのだから。
「楽しかったよ。景色をいっぱい見てって政人言ったよね。うん、そんな感じ。確かに時間制限あって、もっと見たかったけど。政人、麻衣にいろんな国の風景、見せてくれるんでしょう?」
「ああそうだ。世界中な。見て回ろう。楽しもう。旅行先でしたように写真を撮って。竜也に見せてやろう」
「……うん……」
「大体、見合いの席はおわったが」
「ん、もう……」
 麻衣子もにっこり笑った。ほんとに見合いの席だ。出たことはないけれど。
「俺は麻衣に、頼みがある。願い事だ。聞いてくれるか」
「う、うん」
「麻衣にしか出来ん。麻衣にしか望まん」
「う、うん」
 いつになく、でも最初からだけど、真剣な表情。
「俺は時折聖域という言葉を使う。それは主に、俺にとっての麻衣、という意味だが」
「……うん」
「別な意味もある」
「?」
「自分にある、どんな他人にも決して渡さない、絶対不可侵の領域を言う。俺にも聖域はある。それが麻衣だが」
「う、うん」
「麻衣にとってはそうじゃない」
「……?」
「麻衣は、俺と逢ってから少しずつ、その領域を俺にくれた。だが、まだまだ貰っていない領域がある。
 それをくれ。
 麻衣をくれ。麻衣そのものをくれ。ありったけの、麻衣を。
 麻衣は時々思いついてはお出かけ先、欲しいものを言う。あんな風に、俺にくれ」
 ああ、それならと麻衣子は思う。
「あの、……思いついた時でしか、言えないの……」
「分かっている。俺は可能な限り誘導尋問しているつもりだが、その言葉がお前の領域に届いていない。
 くれ」
「あの……」
 麻衣子は困った。なにせ天性の考えなし。麻衣子自身もその時が来るまで分からないのだ。
「思いついた時でないと言うが、聞きたくないことは以前から訊きたかったはずだ。そうだな」
「う。……うん」
「たくさん隠し事をしていることも知っている」
「う。……うん。でもあの……」
「なんだ」
「この間の……嫌な人から言われたことが、大体の隠し事……」
 やはりな。
「そうだと気付いていた。俺の口から直接言えば、麻衣に離れられると怯えていた」
 怯えもお初だ。なんでも来いだ。
「あの……」
「なんだ」
「……うん。直接言われたら、……ごめんなさい。そばにはいられ」
 キスをした。たまらなかった。分かっていた。たとえ麻衣が言う通り手順を踏んで付き合っても、俺の最低な過去は糊塗出来ようはずもない。もし麻衣に男性経験があったら多少理解してくれるかも知れんと、この場合だけは思うが、自分のことだけ棚に上げ、俺は麻衣を他の男となぞ共有するつもりはない。
 俺ですらそう思う。それが世慣れない麻衣ならなおさらだ。訊けないなぞ当然、隠し事をして当然。多少歯向かわれはしたが、藤村からの提案は悪くなかった。そういう意味ではあの二人と交遊させても構わんと思うが、麻衣はもう、会いたくもないだろう。
 いかれてしまっては相互理解の時間がなくなる。仕方なく舌をほどく。麻衣はいやだと心で言い。
「麻衣。頼む、俺のそばから離れないでくれ」
「……あの」
「言えば拒否されると分かっていた。だから手順の全てを無視して抱いた。せいぜい名前だけを名乗り、返事も待たずに処女を奪った。俺は卑怯者だ」
「違う!!」
「なにが違う」
「だって麻衣は、政人がすきだもん!!」
「何故好きだ。俺の顔か。体か。セックスか」
「……」
「何故だ。言え。これが俺の隠し事だ。お前はセックスの最中に俺を好きと言った。俺は性技に腐るほど精通している、処女でも痛がらせず最初からいかせて感じさせて快楽を得させる方法をよく知っている。だからか」
「……」
「だからだな」
「……あの」
「なんだ」
「……なんで、すきって、言ったのか言うと」
「言うと。なんだ」
「……そう想ったから」
「俺はバカだ。その説明ではとても分からん。理由を言え」
「……あの」
「なんだ」
「……突然、そう想ったから」
「お前に経験がないとは聞いたが、誰かを好きになったことくらいあるだろう」
「ないもん。政人だけ」
「なら何故だ」
「突然そう想ったの」
「説明しろ」
「……じゃ、どうして麻衣に恋したのか教えてくれたら、言う」
「んなもん分からん」
「え?」
「俺が訊きたい。確かに処女もドジも世間知らずも腐るほど抱いた。だが誰の名前も個も認識せず、例えて言うなら商店街のくじびきのように、さっぱり見えない中から適当にひっつかんだらそれがそういう者だったというだけだった。誰でも数回で飽きた。
 麻衣だけだ。他にはなにも見えなくなり、頭の中はそれでいっぱい、まともに話しもしていないのに四六時中麻衣を犯し、ドジを見て幸せだと想ったのはな。恋をしたと想ったのも、人に指摘されてようやっとだ。
 こんなものに後付けの理屈なぞ要るか」
「……あの」
「なんだ」
「……あの。そうなの。麻衣も、理屈じゃなくて……ああ、そう」
「なんだ」
「政人が、恋に苦しんでいるって、分かったよ。だから」
「そうなのか」
「うん。こんな、完成されたかっこいい完璧な人が、片想いとか、気が狂いそうだとか……ああ麻衣のことほんとに想ってくれてるんだなって。それで麻衣、すきになりたいなあって、想ったの。
 政人がすき。溢れて止まらなかった。だから、そう言ったの。
 これじゃだめ?」
「最高の回答だ。麻衣、愛している。頼む、俺のそばから離れないでくれ。決して言わんが、俺にでも、なにを言われても、この先なにがあっても。
 うんと言ってくれ。頼む」
「……あの」
「麻衣に離れられれば、俺は本当になにもせん。どんな脅し文句でも使う、頼む、麻衣」
 焦っていた。こんなものすら初めてだ。俺は、麻衣の前では何も知らない、愚かな行為だけ繰り返した、酷い男だ。
「麻衣。愛している」
「……あの」
「麻衣。麻衣。麻衣」
「……あの、ね。……そういうこと、もうしないなら、うんって言っていいよ」
「しない。決してしない。四月一日以前の過去には決して戻らない。俺には麻衣だけだ。麻衣だけだ」
「……じゃあ」
「なんだ」
「もう、昔のこと、いいじゃない。忘れるっていうか、なかったことにしようっていうか。
 そうだなあ……生まれ変わろう? 麻衣は吐いたことなんてないの。政人は麻衣だけなの。
 まっさらに、生まれ変わろう? 真っ白なウェディングドレスみたいに。タキシードみたいに。
 逢ったあの日が、麻衣と政人の誕生日。生まれ変わろう、政人、麻衣と一緒に……」
 俺の恋する
 愛しい拙い魔法使い
「政人。……泣いてるの?」
 知らず涙を落としていた。これすら初めてだった。
 滲んで前が見えない。
「ん、いいよ。政人、麻衣が泣いても、一度も泣くななんて言わなかったもんね。うん、泣くとね、きちんと泣き終えるまで、泣かないでって言われても止まらないの……」
 よく抱き締め、一生分の涙を流した。麻衣は俺の腰に腕を回してくれて、だいすきだいすき言ってくれた。決して離れないと。
 そばにいると言ってくれた。
 涙も涸れると、麻衣が俺にキスしてくれた。こうなりゃまぐろは卒業させるか。
 だが麻衣は、やはり、能力なしで……マスターに言わせりゃ、だが、おばかで、……どう見ても犬で、雛鳥で、ずぼらでドジがいい。ろくな言葉も知らず俺を振り回し、俺を狂わせ、恋に落とす。
 それがいい。
「あのね政人。麻衣、お願いがあるの。今言わないと忘れそうだから、一気に言うから忘れないでね」
「任せろ」
「うん。えっと。誘導尋問して。政人が初めてってなに? 腹筋背筋やって」
「以上か」
「うん」
「よく言ってくれた。さすが麻衣だな、よく考えた」
「そう? 嬉しい」
 親鳥は雛鳥をよく褒めて、頭をなでなでしてやった。
「まずは誘導尋問だ。
 麻衣は俺の、全開の仕事姿を見たい、そう想っているな。
 そうだ、俺は人生に、のんびりぼけーっとした時間などない。それを言えば麻衣に吐かれる離れられると思って嘘を吐いた。これは気付いていたな」
「……うん。そう。やっぱり?」
「ここは環境が揃っていない。後で見せる」
「うん」
「俺は生まれ変わる前、言わんようなことばかりした。要するに、それと比べて麻衣のあばらの浮く体のどこがいい。そう想っているな」
「……全部分かってるんだ」
「生まれ変わらなければ言えなかった」
「……うん」
「結論から言うと、麻衣ならなんでもいい。ピンキリで抱いたからな、特段これと思った体はない、もちろん麻衣以外。これで答えになったか」
「……あの」
「なんだ」
「グラマーなひとがすきとか、そういうのなかったの?」
「ない。はっきり言えば、俺は偏った趣味を持ちたくなかった、持たせないよう徹底的に鍛えられた。あらゆる事態を想定し、あらゆる事態を打開するため、あらゆる知識を取り入れろ、ひとつふたつにかかずるな、とな。麻衣以外、俺のスタンスは全てこうだ」
「そうなんだ……」
「これで答えになったか」
「うん、大体」
「大体か」
「……生まれ変わったもん」
「そうか。
 次に、お前を最初に抱いた時、優しくすると言ったのに首筋に噛み付き、以降必ずそこに舌を這わせるのは何故か、だな」
「すごいなあ、もう……」
「恋に落ちたからな」
「うん。……それで?」
「麻衣はキスマークというもの、それの意味、を知っているか」
「……麻衣の体にいっぱいある、赤いののこと?」
「そうだ。これはな、それを付けた人物はつい最近愛の行為を行った、よって誰かの所有物だ、と、見つけた誰にも知らしめるためのものだ。
 俺は麻衣を翌週月曜出社させ、皆に見せつけ、俺の女だと声に出さず声高に言うつもりでいた。だが」
「だが?」
「麻衣は俺の執務室に呼ばれたことで、周囲に何故と詮索されたな」
「……うん」
「俺と逢った後キスマークを付けて出社すれば、当然相手は俺、ということになる。するともっと酷く詮索される。
 退職させたのはそれより後だが、麻衣が出社出来なくなることは、俺と逢えば自動的に確定されていた。
 麻衣、済まん」
「?」
「せっかく努力を重ねて狭き門を通ったのに、お前の意見も聞かず辞めさせた。済まん」
「ああ……あの、ね」
「なんだ」
「麻衣、安心したよ」
「……そうか?」
「だって麻衣、……仕事したくなかったの。そうしなきゃ生きて行けないって分かってたけど、でもいつまでも学生気分で。いつまでも両親に養ってもらえるって思ってて。ごはんも作ってもらうの当たり前、せいぜいちょっとだけ家事を手伝えば生きて行けるの当たり前、そう思ってたけど……
 でも、社会人になれば違うでしょう。お給料悪くなかったけど、家賃は高いし物価は高いし。初めてお金を切り詰めなきゃ生活出来ないって知った。こわかった。
 それが、政人働かなくていいって、専業主婦していいって、麻衣を養ってくれるんだって……
 安心したの。
 もう麻衣、働きたくない。誰にどうののしられてももう、麻衣あんな思いしたくない。
 ぼーっとさせて。もうなにも考えたくないの。政人にただ愛されたいの……」
「任せろ。一生養う。一生愛する」
「うん。……任せたからね……」