22

 麻衣子が目覚めたのは、今村家プライベートジェットの中でだった。ここはつい数日前にいた所、だから分かる。キスで起こされ。
「ん……まさと、だいすき」
「俺もだ麻衣。大好きだ」
「ん……」
 拙い視野で周りを見ると、ふかふかソファに座っているようだ。政人のじき隣で腰に手を回され。
「飯だ。食え」
「うん」
 麻衣子はぱっくり食べると、なんか嬉しくなった。そういえばさっき、ずっと心に抱えていたことを吐き出せてすっきりした。
 おばかだからはっきりそうと分からないが、味が違う。政人に失礼なことを言っているわけではないが、この感覚、どこかで。
 そう、あの悪友の元の板がこの食事をつくっていた。
 政人は、これからはずっとそうだが、出された食事を研究していた。なるほどこれで麻衣は太るのか、と。
 政人は麻衣子に、嫌いなものをはっきり口に出してもらわなければ分からなかったが、あそこまで超一流の板となるとその人物を見ただけで好き嫌いを見抜く。昔は、旅籠と呼ばれる宿屋の板は、客が脱いだ靴のにおいでそれすらも、また体調その他すらも見抜いた者がいたという。超が付く者とはそういうものである。
 食べおえ、歯を磨き、体重を量って。さっそく効果があった。これは是非恩を返さなければならないが、あの方法はしばらく出来ない。要するにあの悪友は、恩を返すなんて考えなくていいぜ、テレくさいじゃん? と言ったのだ。あの悪友は政人のために動いたのではない。麻衣子のために動いたのだ。さすがは俺の聖域と、政人は食事以上に嬉しくなった。
 いつもならやりまくるが、到着後すぐに仕事をしなくてはならない。休暇は年末年始の二日しか取れない予定。その前に、茶と恋の先生に言われた通り、相互理解しようと思う。
「麻衣。相互理解をしよう。セックスで伝え合うだけではなく、言葉できちんと。いいな」
「……うん」
 と返事したはいいが、麻衣子の最も苦手とする分野である。行きたいお出かけ先すらその場の気分でないと思いつかないのに。
「分かっている。俺から質問する。それと、俺の最低な遍歴の内容は一切言わん。いいな」
「……うん」
「まずは俺から話そう。俺がどういう人間か。生まれは。どう育ったか。趣味その他はなにか。……見合いの席のノリだな」
 今更だな、と思い政人は少しくちびるの端を上げた。あ、笑ってる。そう思うと麻衣子は嬉しかった。
「多少聞いたかも知れんが、俺の家の家系図はとにかく室町時代まで遡れる。真偽のほどはともかくな。なぜそれが、名門だのなんだのご大層に言われるのか、というと。
 俺達今村の男は代々、惚れた今村の女に、ただ一人、男児だけを身籠らせる。狙ってそう出来る。だからだ」
 麻衣子に理解出来るわけがなかった。
「返事はいい、ただ聞いてくれ。
 どの時代でも不妊に悩んだ。どの時代でも家督を継ぐ男児を欲しがった。出来ない家庭もあるのにな。それを尻目に、俺達は必ず遺して来た。羨望されたと。当然だな。
 だから俺達今村の男は全員性欲が強い。……遍歴の言い訳には、ならないが」
 麻衣子がすりよって来た。政人は麻衣子の腰をより強く抱き締めた。
「どう育ったか、だが。これは竜也にもする、いくら麻衣が白と言ってもこの場合は黒だ。地獄の谷底まで突き落として育てる。甘えは許さん、一切だ。授乳もさせん。
 今村の女が、今村の母になるのは出産前後のせいぜい数ヶ月だけだ。それ以外は俺の女だ、竜也といえど渡さん。返事は聞かん」
 麻衣子は、政人の腰に回した腕を強めた。
「生まれてからこの方、別に日本にいなくてもよかったが、今村の家を守れという、いわばDNAか、は働いていて、それであの国に留まっていた。今から思えばこの世の誰か、この際神と言ってもいいか、誓ったからな。が俺に言っていたのだろう。麻衣がいる、離れるな、さっさと見つけろと」
 麻衣子はその体勢のままで、こくんと頷いた。
「それで俺はあのでかい家で生活した。学校は幼稚舎から大学に至るまでいわゆる有名どころだ。別にどこでもよかったが、そういうものはいくらでも調べられる。仕事で実力を出せばいいだろうとは思うが、学歴ごときがないだけで周囲を説得する必要がある、それが面倒と思ってわざと有名どころだけ行った。
 ガキの頃から性格はこの通りだ。言い方も、直せと言って来た者もいたが全部無視した。面倒だ。これ以外は我ながらキャラじゃない」
 今度は麻衣子こそが吹き出した。ぷくくと笑っている。
「おもしろいか」
「うん。すごく」
「そうか。そう言われたのは初めてだ。俺は麻衣を見初めたあの日から、お初なことだらけだ」
「?」
「まあいい、後で言う。
 この通り育てられたんでな。いわゆる普通の同級生とやらとは、さっぱり話が合わなかった。会話が成立しない。勉強は同レベルだったが、俺は勉強なぞ趣味じゃない、どうでもよかった。その他の、一芸に秀でるといえばいいか、という者でなければ面白みがなかった。国籍問わずそういう者を探した。探せばいる、たくさんな。友人はいい、そう思うだろう」
「……うん」
「趣味を持つ前に、腐るほど習い事をさせられた。こう見えても武道十八般、スポーツ、博打・賭け事、セックス、バイク、車、ヴァイオリン、ピアノ。他、一通り出来る。悪友に言わせれば諸芸百般だ」
 麻衣子、目が点になる。さっぱり内容に頭が追いつけない。いつもおばか。
「その中でも、強いて興味を持ったものといえばボクシングだ。ライセンスを持っている」
 麻衣子、首をかしげてぽかんとする。
「なんにせよ、さっさと職に就き自力で稼ぎたかった。バイトだけはさせて貰えんかった。今村の男たる者どうと言われ。麻衣、お前は俺がコンビニでバイトする姿を想像出来るか」
 いかな麻衣子といえどきっぱり首を横に振った。
「そうか。コンビニはともかく、肉体労働の深夜道路工事はやりたかった、体を鍛えられる」
 麻衣子にはよく分からなかったが、なんとなく、政人の趣味ってこういうものなんだろうなあと思えた。
「いい神様のお陰で、俺はあの会社に入社した。麻衣、お前がずっと思っていて訊けなかったことを答えよう。俺がなぜお前の入社式に顔を出したか」
「う、うん! ききたい!」
「気まぐれだ」
「へ?」
「この俺でも六年前はこの場にいて、なにも知らないペーペー以前だったかと思うと感慨深くてな。人事の情報はデータ上は知っていた。だが人とは会ってみなければ分からない。そこが楽しいんだが。
 六年ぶりにあの場に行った。麻衣がいた。
 以降現在に至るまで、死ぬまで俺の頭は麻衣でいっぱいだ」
「……あの」
「なんだ」
「麻衣のどこがいいの」
「ドジなところだ」
「だって……欠点だよそんなの……」
「可愛い。麻衣は愛嬌だ」
「……おんなはあいきょう?」
「俺にとって女など、麻衣だけだ」
「……あの、おかあさまは……」
「あれは親父の女だ」
「……もう」
「納得したか」
「うーん……」
「俺は人を見る目があると自負していた。あの場に行ったのは、書類だけでは分からない、めぼしい者が誰かいないか、と思ったからだ。俺達の会社はとても厳しい、さっき人事部長が言った通りだ。わずか数パーセントの狭き門をくぐってそこにいる。だがそれだけではだめだ。さらに飛び抜けてめぼしい者。それを探しに行った。二・三人いればいいと思った。
 誰もいない。外れか。そう思って……麻衣がいた。他はなにも見えなくなった。肌は真っ白そうでなめらかそうで……俺は前、嘘を言った。逢ったその場でものにする気はなかったなど大嘘だ。麻衣を見初めたその時、自覚だけはしなかったが、もう既に頭の中で、麻衣と愛し合っていた」
「あの、ね……まさと」
「なんだ」
「麻衣、夢を見たの。こんな夢。
 あの場に、誰かが来てたの。とってもかっこいい人。セクシーで色気ぷんぷんで、お仕事出来そうで。
 同期のみんな、なんでここにあんな人いるのかなって思ったの。あんな人が社長さんならいいのに、実際の社長さんは壇上で長話してて。誰もそんなの聞かなかった、ただそのかっこいい人を見てた。
 入社式がおわってもその人の話題で持ち切りで。麻衣も当然そう思って。憧れたの。
 だから麻衣はあの会社にいられた。どんなに叱られてもあの人が同じ会社にいると思えば出社出来た。いつか逢える、そう想って……初恋、あれが……」
「そうか。俺も麻衣が初恋だ。俺達の恋に終わりはない。そうだな」
「……うん……」
「会社に入って、仕事して体を鍛え……麻衣が聞きたくないことをして。六年後麻衣に逢う以外は予想通りだった。だが歳を食い、四捨五入して三十ともなると周囲が煩くなった。遊ぶのもいいが血を遺せ、断つつもりか、とな。なにせ麻衣を見つけられなかった俺は……そこらの者に、そう思っていた。母親面されては敵わん、生んでくれれば捨て」
「ひどいこと言わないの。怒るもん」
「……分かった。
 まさか二十八歳と数ヶ月でようやく人生の春が来るとは夢にも思わなかった。悪友やマスターを始め、俺を知っている誰もが思うだろうが。前も言ったがこのまま行けば、俺の人生はさぞつまらん、遊んだ罰だ。そう後ろ指を指されただろう」
「……そんなこと……」
「文字通り春が来た四月一日からのことを話そう。なにせそれ以前はもう、俺にとってはなんの意味もない」
「……もう。そんなこと言わないの」
「麻衣を見つけられた俺は要するに、幸せだった。自覚するのに三週間掛かったがな。幸せ過ぎて、千鳥足で仕事した」
 麻衣子はどう突っ込めばいいか分からなかった。あなたにお笑いのセンスはありません。
「同じフロアに配属になってくれた。今だから思うが幸運の神にありがとう、だ。それで毎日見られた。さぞ怒るだろうが、お前がドジをする度俺は幸せだった」
「……ふんだ」
 どうせ麻衣は、麻衣は、などと麻衣子はぶつくさ言った。
「まさか吐いていたとは夢にも思わず、独り幸福に浸っていた。俺の友人知人はお前のことをいろいろ調べたが、逢ったあの日のことはともかく半年間吐き続けた事実だけは突き止めていない。突き止められれば俺は全ての立場を捨てなければならない。この歳で専務職も。今村の男である事も、お前の夫であることもなにもかも」
「……そんな!」
「それが現実だ」
「……」
「人を見抜けるなど大ボラを吹いていた俺は、お前が定刻に出社し定時に帰宅するのを幸せ一杯で眺めていた。緊張していたのだけは分かっていたから、五時だぞさっさと帰って家でのんびりしろ、と思っていた。麻衣がフロアからいなくなっても、俺は幸せ一杯で仕事していた。週末お前は二日休める、どうかどこかに出掛けて気分転換でもしてくれ。そう思っていた。これが第一週。
 二週目になって、お前と久々に逢った。まあ、同じフロアにいただけだが。やはりお前がいると仕事に対する張り合いが違う。張り切って仕事した。頭の中はずっと麻衣でいっぱい、これがどんな感情かとも、分かろうともせず。
 確かその頃だったか、お前が聞きたくない先専用の電話をそういえば放置していたなと気付いた。面倒だから壊した。それだけだとただ「電話に出られません」となるので解約した。指先一本でやった。そういえばそんなことをしたなと、今思い出したくらいだ。
 ただそんなことをすると知り合いからの問い合わせが多くなった。なんだ今村、麻衣が嫌がることをさっぱりしていないじゃないか、ついに見つけたかと言われた。
 見つけた? それはなんだ。そう思っていたら、聖域がどうのと言われた。そこで俺ははたと気が付いた。聖域。これはと想う女のこと。
 女、か。残念ながらあの小娘はまだまだ女じゃない、どう見てもお子様だ」
「……もう。どうせ麻衣は、麻衣は……」
「幸せに浸っている俺に、周囲はさらにやかましくなった。四月一日から遊びを止め、翌日家を買い、その週のうちに引っ越した俺が聖域を見つけたのは間違いないと確定させてな。その通りだったんだが、事ここに至るまで自覚出来なかった。周囲に対する言い訳は、ろくな女がいない、日本の女は食い尽くした、だったか」
「……もう。言わないでって言ったのに」
「丁度その頃、課長へ就任する話が出ていた。課長課長というが、たとえば人事課長などではない。あの会社の状況をなんとかさせようとこしらえた臨時の専門職だ。もっと言えば、本来四月一日から就任予定だったが、あの会社の状況を悪くした元凶であるじじい共に妬まれた。それで三週間遅れた。いくら今村の男とはいえ、自分達はこれだけ貴様を妨害出来るんだぞ。と思っていたらしいが残念だったな、俺は幸福の絶頂だ」
「……もう」
「肩書きを上げれば麻衣が喜んでくれる、ひょっとしたら褒めてくれる。そう思って、早く就任させろと思っていた。専門職だから専用執務室を与えられると分かっていたつもりが分かっていなかった、麻衣と離ればなれになるということを。それすら気付かず、なにひとつ思いつかず、四月も三周目を迎えた。
 昇進し、あの部屋の主になった俺は、これで麻衣が俺に憧れてくれると思い込み、さらに張り切って仕事した。さすがに集中した。気がつくと夜の十時だった。
 さてそういえば、あの娘は? そう思ってはたと気付いた。やっとな。そう、麻衣と離ればなれになる、なっている、これからもだ、と。
 さらに俺は、あの日が日本にいられるさいごの日で、これから会社の状況を建て直すため明日早朝から世界中を駆け回らなければならないことを、ようやく理解した。時間を見た、十時過ぎ、麻衣がいるわけがない。
 逢えない。ここでようやっと、俺が抱いた初めての感情のうちの一つに気がついた。狼狽えていた。俺が。状況をなに一つ判断出来なかった。この俺が。今までの人生は、あの地獄は一体なんだったんだ? 全く分からなかった。
 思いついたことは、いい友人に相談すること。だが、聖域を教えろと詮索して来た者に頼ることは出来ない、こんな話だ、電話でなく直接。この条件を満たす者は、たった二人しかいなかった。お前も知っているマスターと、宿屋の若旦那だ。あの二人だけが国内で俺に聖域の件を問い詰めなかった。別に問い詰めた者は悪いと言っているわけじゃない、俺もその立場になったらそうする。
 とにかくこの気持ちを誰かに吐き出さなくては、と思った。抱えるにはあまりに重過ぎた、理解出来なさ過ぎた。焦っていた。相手は女のこと。マスターは初恋一回、あとは女房と結婚出来た。女とのことなら若旦那の方が経験回数は多い、だが距離が遠かった。ビジネスジェットすら待てなかった。車で行った。よく事故らなかったと思った。
 それでマスターに話すと、的確に俺の気持ちを言葉にしてくれた。この気持ちに名を与えられたことで、俺は勇気を持った。その足でお前の家に行ったが……日付が変わる頃だ。お前のアパートに灯りはなかった、当然だ。
 早朝出国しなくてはならない。朝靄の中呼び鈴を押した所で不機嫌で出られるだけ。女性の朝は忙しいだろう? 邪魔はしたくなかった。もう一日必要だ、そう判断した俺は急いで各方面に電話した。用事を山ほど作り、これをこなす必要があるからもう一日日本に残る、とな。
 そんな俺が出社し、最初にやったことと言えば、あの人事部長にお前の元上司を呼ばせることだった」
 ずっと話を聞いていた麻衣子は、これは麻衣の出番? と思ってちょっと突っ込んでみることにした。
「主任のこと?」
「そうだ。俺達の大事な主賓だ、お前以外唯一女性と呼んでもいいな」
「……うん」
 それはもう。やきもち焼くとかそういうレベルの恩人ではない。
「彼女の素性も少し話そう。彼女も実は東大だ」
 いくらなんでも驚いた。契約社員と言っていた……
「そして、俺達の会社にひけを取らない大会社に主席で入社した」
「あ、待って!」
「なんだ」
「しゅせきって……ひょっとして、政人もでしょう」
「まあそうだ。だがどうでもいい。話を続けるぞ」
「う、うん」
「そんな彼女は、なんと三年程度で会社を辞めた。クビにされたがどうのじゃない、向こうの会社はいきなり辞めるなんてどれだけ業務に支障が出るか、誰も君の後など引き継げない、頼むから思いとどまってくれと懇願したらしいが彼女は躊躇いなく辞めたそうだ。それから各所をいろんな立場で転々とした。たとえそれが臨時のバイトでも、どこでも、そんな風に懇願されて辞めたそうだ。
 はっきり言えば気まぐれだろう、俺達の会社に入ったのは。当然、当時の人事部長は契約を更新したがった。いち契約社員に対してでありながら、更新は必ず人事部長室で行わせた。毎度懇願し続けたそうだ」
「……すごい……」
「よって、麻衣の上司といえば彼女しかいない、と判断した。正しいと分かるな」
「うん!」
「しかし彼女の経歴はこうだった。正社員はもちろん、他のなんの肩書きにも興味のない女性だ。そんな彼女の首を縦に振らせるため、俺の執務室ではなく、彼女にとってはいつもの場所、人事部長室に呼ばせた。彼女にしては迂闊も迂闊、言っちゃ悪いがのこのこやって来た」
「……もう」
「そこで言った、中川麻衣子を守れと。彼女は当然なぜだと質問して来た。即答した、私は麻衣子に恋をしていると」
 麻衣子は照れた。おばかな犬はぽっと赤くなる。
「俺がいつも麻衣が聞きたくない先に言っている常套句を言えば断っただろう。だが俺のキャラに合わず恋と言ったからな。それで彼女も納得したようだ、命令に従う、そのための情報をくれと言って来た。それが、麻衣の上司が時期外れの異動をした内情だ」
「……そうだったんだ……」
 政人は、麻衣子の前の前の上司のことは言わなかった。思い出して欲しくもない。
「来たばかりの上司に、どう言われて写真を撮られた?」
「あ! え、えーーー!? あれって、ひょっとして!?」
「そうだ」
 政人は笑った。大笑いではなくとも、ここで笑わねばどうすると言いたげに。
「あ、あの、就任に際して部下の顔を覚えるためとか、なんとか……」
「彼女は事前にあのフロアの全社員の履歴書を見ている。情報は全て頭に入っている、そんな必要のない女性だ」
「じゃ、じゃあ、……あの後も麻衣のこと撮ってたのは……」
「全部俺に横流し、ということだ。見るか」
「え」
 政人はどこから出したか携帯を取り出し、操作する。
「わ、やだ、へんな顔ばっかり……」
「可愛いぞ。暇さえあれば眺めていた。あまり時間はなかったが」
「……もう」
「特にこの笑顔。緊張した顔もいいが、そういえば俺はそれしか知らなかった。多少ぎこちないがこの顔を見た時、今日お前の家に行って連れ去ってやると意気込んだ。だが失敗した。ここで質問だ。
 お前は上司が代わった夜、七時だぞ。なぜ眠っていた」
「え」
「定時に退社。一時間掛けて帰宅、これで六時。飯を食って風呂に入り、これでも七時。そんな時間になぜ寝ていた」
「……?」
 麻衣子は困った。政人以外、昨日のことでも忘れるのだ。おいおいあなたは一体何歳ですか、健忘症なんて早過ぎるぞ。
「俺は山ほど用事を作ってしまったため、自業自得で泣きながら仕事をした。こんなことなら五時前からお前の家の前で張っていればよかったか、いや、お前の職場に行って家に連れ帰ればよかったかと後悔した」
「……ごめんなさい、覚えてない……」
 だろうなと政人は思う。別に今更残念には思わない。自分のこと以外、鮮明になど覚えていて欲しくない、特に監獄と侮蔑されたあのアパートでのことなど。
「お前の携帯に番号をころころ変えて電話したが、出なかった。これは覚えているな」
「う……言われる予感はしてたけど……」
 なんと麻衣子にしちゃしゃらくさい。
「うん。そうなの。そういえば主任がいてくれた頃からへんな電話……ご、ごめんなさい」
「いや、いい。俺以外の不審電話に出られても困る。続けろ」
「う、うん。それでその……ごめんなさい、かなり怖かった」
「だろうな。済まん」
「……ううん。いい」
「それで泣く泣く出国だ。麻衣の上司に頼み込み、麻衣から俺に電話して貰おうとも思ったが、そうすると電話の先は一体誰、という質問が出て当然。すると俺は麻衣が聞きたくない経歴の持ち主だ、とバレる。それは避けたかった。だからお前から俺に電話して貰う手は使えなかった。こっちからの電話も無効。なにが携帯、なにが現代の利器だ。実につまらん」
「う。あの……」
「頼みの綱は麻衣の上司から贈られて来る写真だけだった。その際お前の様子も聞いたがな。また叱られています、ですが単純作業しかさせていません……俺はそれを聞き、慣れれば大丈夫だ、待ってろ麻衣。としか思わなかった。
 ……転職はさせたくなかった。今村の家に言って麻衣の隣に着席させるような者を配置するのは簡単だが、親父の力を借りるなど真っ平ご免だった。知人にそうさせてもよかったが、あの時でも俺は聖域を見つけたとはマスター、お前の上司二人にしか言えなかった。麻衣の上司はあの通りだ、信頼出来る、この調子で行けばどの職場に行っても叱られる、なら俺と同じ会社の方がいい、そう言い訳して……お前の病状を知ろうとも思わなかった。
 詫びて詫びきれるものではない。麻衣、お前がもし、俺のそばを」
「いや!! なんてこと言うの!!!」
 麻衣子は政人にまたがって、想いっきり腰に腕を回して泣きついた。のどの下に頭をくっつけ、いやいやする。
「もしそれ以上言ったら、麻衣泣き止まないから! なんて言われても政人のそばにいるんだから!!」
 政人はゆっくり、麻衣子の腰に腕を回した。あの日のように。宝物を護るように。
「……分かった。なら、聞け」
「うん……」
「六月のある日。お前は上司に呼ばれ、電話機に向かってお疲れさまと言わされたはずだが。覚えているか」
「……!? あれ、……あれが……!?」
 麻衣子は顔を上げる。覚えていたか。
「そうだ。あの電話の先に俺がいた。お前の言葉以外、もうなにも耳に入らなかった。確かに出国して以降休みはなかった、お前に早く逢いたくて時間を切り詰め仕事をし、睡眠時間などないも同然だった、多少は疲れていた。
 だがあの声で、そんなものなど吹き飛んだ。以降現在に至るまで、これから先も、俺は疲れなど知らん」
「……そっか……」
「お前の上司は俺達の大いなる恩人だ。後で返そう」
「……うん」
「声を聞けた俺は、たまらなくなって、無理矢理用事を作りまくって七月、日本に一時帰国した」
 麻衣子は思う、ああこれが、あの嫌な人が言っていたことかと。
「自分が作った仕事に邪魔され自業自得で間抜けな俺が」
「もう。そんなこと言わないの。政人、前に自分を卑下するなって言ったでしょう。言ったらもう、麻衣泣き止まないもん」
「……分かった。
 いずれ俺は五時にお前のアパートに行けなかった。遅れて行った。そしたらな」
「な?」
「お前がアパートでシャワーを浴びていた時に行ってしまった。その音を聞いて俺のどこがどうなったか、まさか分かりません、など言わんだろうな」
 はい、言いません。と麻衣子は心の中で思った。ちょっと視線を逸らしてしまった。
「さらに言うなら。そんな時ドアを蹴破られ、その気満々な見知らぬ男に襲われたらどう思った。
 そうだ、徹底的に嫌った。いくら俺でも逆の立場ならそう思う。それで麻衣の裸を拝めなかった。死ぬ想いで音が止むのを待った。これでもタイミングを計ったつもりだったんだがな。お前は出なかった。
 何故だ」
「う」
 はいそうです、忘れてます。
「……まあ、不審人物の呼び鈴になど出はしない。しっかりしているな麻衣、と褒めながら」
「ながら?」
「出国の機内、ここで、だが。オナニーしまくった」
「?」
「自慰行為だ。フェラをお前の口と手ではなく、俺の手でやった。お前にされていると想ってな。これ以上空しい行為はこの世にない」
「……」
「もうする機会はない。そうだな」
「……うん」
「電話もだめ、直接逢えもせず。お前はいくら言っても俺に電話を掛けてくれない。そろそろ、いくら上司とはいえ毎度部下の写真をアップで撮るのもおかしな話と言われ顔も見られず。言っただろう、半年間狂いそうだったと。みっともない片想いだったと。こんなことが俺の知人に知られれば、さっきも言ったが立場全てを返上だ。間違っても他言するな」
「……しないもん」
「俺からの長話も、これで仕舞いだ。
 俺達がやっと逢えた九月第一金曜日の朝、お前は早朝と言える朝七時に出社していた。何故かは予想が付くがな。覚えていないとは言わせんぞ。何故だ」
 麻衣子はぷんと横を向いた。
「言え」
「……分かってるくせに」
「お前の口から聞きたい」
 麻衣子は観念した。
「そうですドジです! 朝の五時を見事八時と間違えたの! 急いで支度してお化粧もほどほどに行ったの! 早朝で、電車も空いてて人ごみもないこと全然気付かなかった! もう、ばかーーーー!!」
 麻衣子は回した腕に力を込めた。親鳥の政人は麻衣子の頭を撫でた。雛鳥の麻衣子は叱られなくてほっとした。
「そこで俺は朝すれ違ったと言ったんだ。まあ、俺におはようとあいさつしたことは覚えていないだろうが。どうだ」
「えっと……あの日……」
「そうだ」
「……そういえば。なんとか間に合ったと思ったら七時で、時計壊れたと思って……なのに、そういえば一階ロビーにひとだかり出来てたな。あれがそう?」
「おそらく」
「あの、麻衣だってペーペーだから、挨拶は自分からしなさいって、ほら習うでしょう? それで言いに行ったんだと思う。ごめんなさい、政人がいたって分かんなかった」
「人だかりに囲まれていた、認識出来ないのは当然だ。
 とにかく、お前と久々に逢えて声も聞けたという二重の喜びに浸った俺は、今までで一番集中して仕事を片付けお前に逢いに行った、という訳だ。後は全部教えたぞ、お前に、その体に、その心に。
 そうだな」
「……うん」
 政人は一旦麻衣子を離し、ソファに座らせて茶を淹れに行った。長話をされて麻衣子が疲れているだろう、そう思って。なにせこれから麻衣子のあの拙い口から、自分のことを語ってもらわなくてはならない。
 ゆっくり飲んでもらいながら。
「お前のことも話してもらう。この飛行機が着陸すればすぐに仕事だ、しばらく休めん。お前も言いたいこと、訊きたいことがあるだろう。思いつかなければ言えないこともあるのは分かっている。俺が誘導尋問する、言え」
「誘導尋問って……」
 いくら麻衣子でも知っている、刑事がやっているあれであろう。
「麻衣はどういう人間だった。生まれは。どう育ったか。趣味その他はなにか。俺のように、最初から言ってみてくれ」
「えっと……」
 言うならいい、考えるのはもう疲れた。