21

「Oh, my god……えーっと。答えろ、だったな。
 今村夫人。僕でよろしければどのような問いにも応じます。誠心誠意」
 ジョーンズは、へたな自己紹介をしなかった。この唐突な電話に、和やかな会話は必要ないと判断してのこと。
「えっと……えっと……」
 すでになにを訊けばいいのか忘れるおばかな麻衣子。マスターは思う、今村はこんな所に惚れたんだなあと。ただし俺なら待てなくて怒鳴るが。
「ま、まさと、まいなんて訊けばいいんだっけ……」
 ジョーンズに筒抜けである。おばかの正反対なジョーンズ、こんなところに惚れたんだなと、マスターと同じ感想をすでに持った。
「披露宴に出た者達は、麻衣を」
「ああ……あの、まいって……やっぱり、蔑まれているんでしょうか。どんな……なんだっけ、極上の名門の美人でなきゃまさとほんとはいけないのに……」
 話が少々違って来ている。
 しかし、そうと分からぬジョーンズではない。
「お答えしましょう。ただし。
 それは、今村夫人が自分で考えた、思った言葉ではありませんね?」
「……はい」
「どなたがそんな失礼なことを? よろしければ言った者の名を。ああもちろん、内緒にしますよ」
 内緒にするつもりはないと、言外に政人に言っている。政人は止めなかった。自業自得だから。
「えっと……ふじむら……なんだっけ」
「ひょっとして、今村と同じ会社の者ですか?」
「えっと……そうです」
「よろしい。では答えましょう。あの場にいて、直接あなたをこの目で見た者としての、正直な感想を」
「……はい」
「まずは大前提。あなたは今村の過去のご乱行を知った上で結婚しましたね?」
「はい」
 拙い即答に、政人はもうなにも言えなくなった。せいぜい名前だけ名乗って、返事も待たずに抱いたあの日。
「そのご乱行は、あなた側の客はともかく、今村側の客は全て知っています。これが前置き。ここまではよろしいですか?」
「はい」
「今村から聞いたとは思いますが、被りますが、それでも言わせてもらいます。我々今村の友人は、四月一日からびったりご乱行を止めたと聞いて、ついに聖域が出来たかと思ったのですよ。よろしいですか?」
「はい」
「しかし今村は、それが誰かを、さっぱり言ってくれませんでした。訊きたかったですが、なにせ絶対不可侵の聖域話。こちらにもそういう存在はいます。突き詰めれば、調べ上げれば、逆に同じことをされてしまう。調べているつもりが調べられている。この心理、聞いたことはありますか?」
「……そういえば……」
 大学だったか、どこだったかで、新聞だったかな、聞いたような。
「当時今村は、あの会社の惨状を救うため、世界中を飛び回っておりまして。聖域を帯同させる暇もありませんでした。それは周囲も分かっていた。だから、日本に戻った時、それがあなたに逢うためとは分かっていましたよ。要するに、我々は焦らされておりました。情報を知りたいのに教えてくれない。分かりますね?」
「はい」
 正直、前半部分は分からなかったが、教えてくれないという心理は分かる。
「だから我々は、ご乱行ばかりを繰り返し、一人の女性を真に愛することがなかった今村が、あなたに対しどう接しているか。どう愛しているか。そこを知りたかったのですよ。それが名門での女性であろうが橋の下で生活している女性であろうがこの際どうでもよろしい。そんなものは後でいいんです、なにせ我々は焦らされておりましたから」
「……そんなものでしょうか……」
「あの披露宴で。もし、相手が名門の女性なら。今村はきっと今までと変わりない、冷静一徹の表情で、腰に手を回すことなく、トーチも持たず、お前なら出来るだろう勝手にやれ、と言わんばかりの態度で相手を連れ回ったでしょう。ですが、それでは我々の考慮の範疇内。はっきり言います、つまらない」
「……そうでしょうか……」
「それがまあ、あなたに対する態度と来たら……あの場にいた全員、びた一名欠けることなくこう思いましたよ。こんな今村は初めて見る、と。
 いいですか。あの今村が。君を愛しているなど嘘を言い、誰に対しても避妊を欠かさず、数日経てば飽きて捨てまくった今村が、ですよ。心配し、体調を気遣い、過保護な態度で、濡れた瞳であなたを見た。
 これがどういう意味か、お分かりですか?」
「……?」
 正直、分からない。だって心配されるなんて三食ごとにいつもだから。体調を気遣うのもいつも通り、過保護なんて最初から。いつも一人で歩かせたがらない。うぬぼれを言って構わないなら、濡れた瞳でなんてプロポーズしてくれたあの日からずっとだ。
「お答えいただけると、ありがたいのですが」
「……あの」
「はい、なんでしょう」
「あの、それ……」
「はい」
「あの、……いつもです……」
 今度はジョーンズが黙らされる番だった。どう聞いても見ても人生経験のなさそうな、なにをやらせても拙そうな麻衣子の、渾身の、大のろけ。
「……そこまで素直に当たり前に言われると、こちらも結構、クるのですが……」
「はあ、そうですか……」
 会話成立してないぞ、とその場の男二人は思った。
「まあとにかくその……そこまでお惚気を聞かされるとは思いませんでしたが、……今村にそういう態度を取らせる女性はあなたしかいませんよ。よくぞ見つけた。よかったな、多少遅かったが。それが我々の、嘘偽りなしの、感想です。蔑まれている? なんでしょう、そんな言葉。今村は、そんな女性を愛しはしない。もう、あなたにも分かっていますね?」
「そうかな……」
 するとすかさず政人が麻衣子にキスをした。さっきよりもさらなるデラックスバージョン、音声付き映像でお見せ出来ないのが至極残念。
 音声しか届かなかったが、その聞き慣れたにしてはバージョンアップされまくった唾液の音と喘ぎ声が生々しくて、いくらジョーンズといえども絶句した。
「ああ悪ぃ、こいつら現在最中だ」
 マスターが携帯を横取りしてジョーンズに助け舟を出した。
「で、俺はちょっとした第三者だ。サンキュー、あんがとよ。後で今村から結果報告があると思うから待っててくれ」
 マスターは電話を切って上げた。すぐに、まだ話はおわってねえからその辺で止めとけ、と言った。でなきゃすぐに昇天だ。コーヒーを淹れつつ、政人が麻衣子の舌を離すのを待った。
「今村いちいちキスすんな、お客さん昇天するだろ」
「せずにはいられん」
「そーかいそーかい。で、次はなんだ。人事のおエラいさんに電話か」
「それもいいが」
 麻衣子はまだまだ余韻に浸ってうっとり中。
「マスター、お前が言ってくれ」
「は? 俺? 自慢じゃねえがサラリーマンやったの数年だぞ」
「それでももう、分かるだろう。俺は麻衣の喘ぎ声を誰にも聞かせる気はなかったが、もう二人も例外を出している」
「……そーかいそーかい。あのさあ、お客さん。起きろっつの」
 麻衣子がどうやって目覚めたのかはもはや面倒なので割愛。
「はい、なんでしょう」
「いいか。どんな会社でも、人事っつーのは極秘扱いだ。事前に情報が漏れりゃ、その社員に最悪辞められちまう。
 藤村ってペーペーなんだろ? そんなやつが、どうして極秘な情報を知れた? 嘘だよ」
「……でも」
 下を向く麻衣子の首筋に政人が舌を這わせるだけで、麻衣子は小さく喘いであごを上げた。
「じゃあ決定打。あのさあ、さっきのアメリカンなニーチャンが言ってただろ、調べるつもりが……ってやつ。つまり、あんたはある程度調べられているんだ。あ、気味悪がらなくていいぞ、ある程度だ。深くはされていねえ、そんなことしちゃ今村に殺される、分かるな」
「……はい」
「で、どんなことを調べたかっつーと。多分な、履歴書とか、学歴とか、学校の成績とか」
「……全部わるかったです。やっぱり麻衣……ン」
 政人がキスして麻衣子が昇天寸前で、マスターが諌めて以下同文。
「……言い方悪かった。つまりだな。あんたの入社試験の内容も調べられてるって言いたかったんだ。
 でさあ。藤村の野郎が言う通りの内容だったら? あの今村が? そう思われるだろ。
 だが今村は躊躇いなくあんたと結婚した。その理由のうちの一つ。あんな大会社に、あんたは実力で入ったからだ。たとえぎりぎりの成績だったとしても」
 麻衣子はそんなこと、自信を持って「そうですよね」なんて言えない。またしても下を向き、泣きそうになる。すかさず首筋に舌を這われて。
「あんたに嘘っぱち言って、その反応を見て愉しむような最低の男に、あんな大会社のエリート集団な人事部の人間がぽろぽろ情報漏らすと思うか? ちゃんちゃらおかしいぜ。
 いいか、あんたは実力で入社したんだ。でなきゃ今村はあんたに惚れていない」
「……」
「あんたの努力を、今村は買ったんだ。誇っていいぜ。よくやった」
 麻衣子は静かに涙を落とした。今度こそは、政人はそれを舐めとった。
「なあ今村。やっぱ人事のおエラいさんに電話してやれよ。がつんてさ、言って貰ってくれ」
「がつんなど言わせん」
 とか言いつつ、政人は人事部長に電話した。マスターの会話でもういいと思うが、駄目押しだ。
「これは今村専務。今頃機上の人では?」
 衛星電話の番号ではなく、国内の携帯番号から受けたからの問い。
「私の妻が泣いている」
「これはこれは……私はどうすればよろしいので?」
「人事が間違えて妻を入社させたと、どこかのペーペーにチクられ泣いている」
「ほう……そう、そうですか……。
 今村夫人、そこにいらっしゃいますね」
 スピーカーオンで話されているので、麻衣子にも聞こえた。
「あ、はい」
「人事が間違えて、と言われたのですか?」
「……はい」
「どこのペーペーか、教えていただけますか、専務?」
「営業三課、藤村茂樹」
「ほう……あの……
 今村夫人。いいですか。もうお分かりのことと思いますが。仕事でミスをした。であれば叱られる。これは、いいですな」
「……はい」
 なにせそれが毎日だった。
「しかし我々人事の仕事と言うのは、ある意味最もシビアです。なぜならあなたの場合でもそうですが、そのたった一つの選択が、人ひとりの人生を多いに狂わせるからです。または多いに幸せにするか。
 私はあなたの試験成績を、それはシビアに見ましたよ。その上で判断し、合格とさせた。これに嘘偽りはありません。でなければもう、バレていますよ。間違いなく、当時のどこかの課長あたりに。そう、思いませんか?」
「……あの」
「シビアに見た上で判断しなくては、不合格とし、人生を狂わせた者に示しが付かない。申し訳も立たない。これは分かってくれますね」
「……はい」
「そんな、神経を削って毎日仕事をしている我々人事の者が、部外のペーペーに極秘情報を漏らす? そんな会社はないですよ。論外もいいところだ。もしあなたが中川の性を名乗っていた頃にそう言われれば、誰に向かって言っているのかと、失礼ながら叱りましたよ」
「……う」
 社会人時代が思い出される。すかさず政人が麻衣子の首筋に舌を這わせる。
「このままでは私の気がおさまりません。藤村でしたね、早速クビに」
「いや!!」
 麻衣子はまたしても目をぎゅっとつむって叫んだ。回した腕に力を込め、涙まじりに。
「いや、いや、いや!! そんなことしないで、いやぁ!!」
 その場の男三人は、全く以てと黙らされた。こんなに非力でか弱くて、能力なしの麻衣子に、自分達が、と。
「……私はどうすればよろしいのですか専務。とても気がおさまりませんがご夫人の意向ではないようで……」
「その通りだ部長。私は妻が黒と言えば白でも黒だ」
 あなたはどこの○ーさんですか。
「妻が泣く。私の聖域のためだけに、そのペーペーとやらを終身雇用しろ」
「ご命令通りに」
 そこで電話はおわった。
 政人は思う。麻衣、お前は分かるまい。分からせもしないが、お前が下した判断こそが最も残酷だ、と。
 分かることなどないだろう。これで、藤村は唯一の救済の道を断たれた。いくらペーペーだろうとあの会社に入れたのだ、四年も勤めたのだ、多少生活レベルは落とすことになるだろうが、次の職も見つかるだろう。むしろ、これを契機に、金のかかる付き合いを止め、身の丈に合った生活をしようと思えればよかったのに。こんな経緯で、人事部を怒らせた人間に昇進など有り得ない。それが終身雇用など、人生の全てをペーペーのまま使い切るということ。つまり、終生針のムシロ。
 政人は全て分かっていた。上條は避けて藤村を社長室に単身呼んだ、呼ぶと決めたときから既に。麻衣子のこの反応も織り込み済み。これが政人の制裁の仕方。殴るも命を奪うもすぐ出来る。そんなつまらない策は採らない。真綿で首を絞めるように。実力または自覚さえあれば簡単に抜け出せるように。
「次、突出した分野がないってか。ホレ今村、あんたしかいねえ、出番だぞ」
 政人は恋する妻に熱く語りかけた。
「麻衣にはある。麻衣にしかない、突出した分野が」
「え……」
 ある訳がない。言われた麻衣子は、いや、ずっと前からそう思っていた。それをただ、その通り藤村に指摘されただけだった。政人だってそうだと分かっている。そのはずなのに。
「俺に見初められること。俺に愛されること。俺と恋に落ちること」
「……」
「他の誰にも出来ん、誰にも誇れる麻衣にしかない突出した分野だ。だがそうとは、俺達だけが分かっていればいい。それが出来ないからといってロクに見もせず聞きもせず、自分の鬱憤を他所で晴らすだけしか能のない他人になにが分かる」
「……あの」
「そいつは好いた相手がいるそうだな。なのにそいつの話はほとんどせず、所詮は他人の俺達のことばかりを言った。それは、そいつこそ突出した分野がないからだ。
 それがある、お前を妬んだだけだ」
「……」
「もしあれば、とっくに相手と上手く行っている。そう思わんか」
「……あの」
 麻衣子は反論したかったが、出来なかった。確かに、あればもう上手く行っているだろう。上條に恋していると言いながら、話の主文は全く違い、自分達を別れさせようとしている、それだけだった。
 いくら麻衣子でも、それは不審に思っていた。
「……麻衣。ちゃんと、そういう分野があるって想っていいの?」
「いい。俺が一生保証する」
「……よかった……」
 親鳥は雛鳥の頭をなでた。雛鳥は安心して眠くなった。マスターはやっぱり親と娘だなと思った。
「次、欠陥人間。ホレ言えよ今村」
 麻衣子が眠りこけないうちに。
「麻衣に出逢わなければ、俺こそが欠陥人間だ」
「え?」
 麻衣子は驚いた。自分に逢おうが逢うまいが、政人は完成された素晴らしい、極上の男だ。
 その政人が? ううん、そんなこと有り得ない。
「どうして?」
「お前は仕事が出来ないから自分を欠陥人間と思い込んでいただろうが、入社してわずか半年で、会社の仕事を完璧に出来ると言える人間なぞいるわけがない」
「で、でも! もし何年いても、麻衣」
「仕事が出来る出来ないで欠陥人間とまでは、誰も言わん。そんな自信満々な人間ばかりでこの国が溢れている訳じゃない」
「でも!」
「共稼ぎの多くなった今でも専業主婦はたくさんいるが、彼女達は仕事をしていないぞ。それを欠陥だのと言うか」
「……」
「本当の欠陥人間とはな。惚れた相手を見つけられないことだ。いいから聞け。
 老人となり、死んで葬式を出される時に。可哀想に、この人は連れ合いすら見付けられなかったんだって。独り寂しく墓に入れられるんだよ。お前はこうなっちゃだめだよ。
 そう、誰にも後ろ指を指される人間に、俺はあやうくなるところだった」
「……」
「死ぬ際に、誰が仕事が出来る出来ないの話題を出すか。ひたすら、独りで死んで可哀想、そう同情されるだけだ。なぜなら人はみな、誰かに恋をして一生を終えるからだ。
 お前を見つけられなければ、俺はどうなっていたか。身震いする想いだ」
「……あの」
「なんだ」
「……でも、麻衣は仕事出来なくて……」
「俺が教える」
「え」
「海外転勤後は専用執務室隣に休憩室を設けてお前にそこにいてもらうが、たまに出て来て俺の手伝いをしろ」
「……でも」
「確かに、重要な判断などは俺がやる」
「うん、でも麻衣、コピー取りとかでもろくに出来なくて……」
「ちょうどいい。単純作業から、一から教える」
「……え」
「俺に教わるのはいやか」
「……あの」
「お前の夫が、いつ細かいことにケチを付けた。そんなことをする男か」
「……ううん」
「必要がある時、誰か逐一執務室に入れるなど面倒だ。それとも麻衣、お前は自分の夫がお茶汲みコピー取りをする姿を想像出来るか」
「……あ。できない」
「だろう。手伝え。お前にしか頼まん」
「……うん!」
 すっかり気分が軽くなる麻衣子。おばかでよかったね。
 目の前の夫婦を見て、これはもう大丈夫と安心するマスター、仕舞いの言葉を。
「さて、次がさいごかな。情婦に過ぎねえ、だってさ。どうだお客さん。ここまで聞きゃいくらあんたでも、言われた途端に「あ・こいつ嘘っぱちばっか言っている」って分かったな」
「……」
「うんって自信持って言ってやれよ。今村、すげえ喜ぶぜ」
 麻衣子は政人に視線で訊いた。そうなの? と。
 政人は視線で麻衣子に答えた。そうだ、と。
「ま、そういうこった。
 以上でこないだの話はおわりかな。えー、時間は……」
 三時だった。
「あのさあ、お二人さん。もしよかったら、俺のヨタ話も聞いちゃくれねえか」
「?」
 麻衣子は素直に顔にハテナマークを出したが、政人はそんな態度に出るはずもなく。
「なんだ」
「お客さん、聞きてえ? どっちかっつーとあんた向けなんだが」
「どうする、麻衣」
 もう判断出来る。そう思っての問い。
「ん……お時間あるなら聞いてみる」
「そうか。じゃ、ちょっとした……懺悔だな。はは」
 三人はそれぞれ飲んで、一息ついた。
「じゃあ一気に言うぜ。ツッコミは後にしてくれ。
 まず、俺がお客さんをバカだと言ったのは理由がある。まず俺は乱パをしていた。カミさんがいる。これはどういうことか。
 つまり俺達の家庭は、この点だけについてはあんた達と同じってことさ。なのにお客さんは一切気付かず、今村をどうこう言う資格のない俺の話をただ聞いた。だからだよ」
 ああそうか、と麻衣子は思う。なにせ政人の前歴の話に気を取られ過ぎた。
「で、俺の場合。
 俺だって結婚に際してカミさんに、事前に言うべきだった。だが言えなくてさあ。今村どころかどこのどなたさんのことも言えやしねえよ。ホントに悪かった、お客さん。こんなこと言われたって気ぃおさまらねえだろうけどさ……
 まあとにかく言えずにプロポーズしちまった。さらにはだ。その日のうちに返事も待たず無理矢理役所に連れて行って利き腕引っ掴んで婚姻届に署名させた」
「えーーー!?」
 いくらなんでも、麻衣子でも反応する。こんな優しげな、いかにも愛妻家、ってひとがそんなこと?
「その足で家に連れ込んで抱いたさ。取って食うからここにいろっつってよ。何度も嫌だと、離れてと、怖いと言われたよ。そんでも抱いた。はは」
 麻衣子は、この人に関する態度を改めた方がいいのかな? とさえ思えた。
「その場で幸せとは言われたけどさ。実を言うと、好きって言われたの、最近なんだ。何年も経ってようやっと。どうだ、あんたら以上だろ?」
 頷くしかなかった。
「今村。どう思う」
「負けを認めろとでも言うか。残念だったな、俺達の恋に終わりはない」
「そーかいそーかい。
 さてメインイベントだ。俺のご乱行がいつカミさんに知られたか、だが。
 逢って三日目だった。どっかの、俺の腐れ縁な野郎が突然沸いて出て来てぺーらぺーらくっ喋りやがった。けんもほろろに俺の過去をよ。
 それまでは、俺の特攻が効いたか、カミさんは長く勤めていた会社を辞めてくれる気になっていたようだし、実はアパートの部屋が隣同士だったんだが、越してくれる気にもなってくれていたんだけどよ。「仕事は続行別居は当然」と来たもんだ。当たり前だな」
 麻衣子はうんうん頷いた。
「離婚だけはなんとか免れた。で、好きと言われたのが最近って寸法。あったり前だぜ、性急過ぎて相互理解が足りなかった。
 ところでお客さん、相互理解ってなんだか分かるか」
 麻衣子はむっとした。そりゃバカだが、それはないんじゃない? と思ってしまう。
「相手のこと。自分のこと。どんないいことでもいやなことでも、根気強く言葉にして、きちんと伝え合うこと。
 出来てるか?」
 うんなんて言えなかった。
「分かってるって。今村の過去のご乱行、薄々気付いていたけど訊けなかったから、他も深く突っ込めなかったんだろ」
 さすがに頷いた。
「それが相互理解足んねえ状態だって言ってんの。だが、もういいな」
「……はい」
「じゃあもう行きな。俺だって、これ以上お邪魔虫したかねえよ」
「麻衣、行くぞ」
 さすが政人、決断は早い。
「うん」
 夫婦二人、抱き合いながら店を出ようとする。その背に向かって。
「おいお客さん、ツケの払いはどうした」
「あ!」
 おばかな麻衣子、言われなきゃ気付かない。
「ま、まさと、まさと」
「分かった」
 政人はカウンターにとって返し、麻衣子を恭しく、優しく椅子にそっと置く。麻衣子は服をまさぐり、なんとか札と小銭を見付けると、にこっと笑ってゼニを置いた。どうだ、と言わんばかり。マスターに言わせりゃその様子、初めてのお使いなおこさま以下。まさに雛鳥。
「あんがとよ。じゃな」
 マスターは、その言葉を麻衣子ではなく政人に言った。十年来の付き合いな政人、分からない訳はない。すぐに麻衣子にキスをした。今度は昇天用の激本気バージョン。ったくどこまでなんだか、上限ねえなこいつ。と、マスターは思った。
「でさあ」
 いった麻衣子を恭しく、優しく抱き締める政人に。
「まずは返すぜ」
 マスターは、おこさま麻衣子が置いたゼニをあごで指し示す。麻衣子が汗水垂らして稼いだ尊いものに、触れる権利はないと言わんばかりに。
 政人だって分かっていた。だから麻衣子をいかせた。さっそく回収。
「で。当然、藤村とかいうクソ野郎に挨拶したんだろうな」
 この場合の挨拶とは制裁を意味する。
 政人は、事の次第を述べた。
「そっか……結果的に、お客さんは自分自身の手で仕返しした、ってことになるな。さすがだぜ今村。
 にしてもあの野郎、なんだって突然手のひら返したんだ? ここでお客さんの話題を何度か出していたが、人の目があったからかも知れねえが、純粋に心配してのものだったぜ」
「俺へのコンタクトも全てそうだった。だが前歴の話だけではなく、余計な吹き込みをするというのも分かっていた」
「……何故だ。お客さん傷ついたぞ。いくら抱いても消せねえかも知れねえのに」
「麻衣がずっと、そうではないかと思っていたことだ。なのに俺に閉じ込められ、王様の耳はロバの耳とも叫べず、ずっと抱えていた。自分で吐き出せる能力が麻衣にはない。誰かに言って貰うしかなかった。俺は当然除外だ。だとすれば事情を知った第三者、すなわちあの男しかない。
 あの男も分かっていた。だからわざと、俺に否定して欲しいことばかりを言った。それで会わせた。でなければ今あの男は五体満足で息などしていない」
「は……その通り、だな。よし分かった、もうなにも心配することねえな」
「済まん、しばらく売り上げに協力出来ん」
「確かにそうは言ったが……止せって」
 本日は、実は休店日である。
「俺は知っての通り、味でこの店に来て欲しいんだよ。そりゃチョーシよく勝手に臨時休業するし、喫茶店にしちゃ週休二日、盆暮れ正月も長く休む、だけどさあ。
 そんないい加減な経営の店でも、味だけで、それだけで来て欲しい。
 俺のダチとかがお情けで、ここの売り上げに協力してくれとか言っているのは知ってるさ。ありがたいんだけど、はっきり言やメーワクだ。んな営業がなくたって、俺は味だけで生きていてえ」
「それでこそ俺の先生だ。ありがとう」
「だからなんでそう素直なんだよ……」
 これさえ済めば、政人はもう、この国にしばらく用はない。とはいえ麻衣子のことを考えれば。異国を転々とするこの先、麻衣子の根城、いわゆるルーツというものはない。いずれ日本に帰してやらなければ。全ては麻衣子のため。
 麻衣子が政人の存在理由。
 それでいいと、自覚させて貰った思い出の場所を出る。また来よう、今度は親子三人で。竜也にこの店の味を覚えてもらおう、出来れば聖域にそれを披露させて。そうしてその子へと……
 後に、政人がジョーンズに電話すると、やはり藤村に憤慨していた。政人が、自分はもう手を打った、麻衣の意向だと言っても聞き入れず。絶対不可侵に手を出したのだから、こちらもそうさせて貰う、でなければ示しが付かないと言った。政人は麻衣子と同名の女など、面倒だという認識しかない。よってジョーンズを止めなかった。悪いようにする者ではないから。