20

 翌朝、暗い寝室で、麻衣子は気怠く起きた。あれ……
 と想ったら、間違いなく夫の体温が近くにいた。ん、明かり、明かり。
 ベッドサイドの、バスルームのと統一されたレトロなデザインの明かりを点けると、途端腰に手が回った。
「ん……起きてたの?」
 ゆっくり引き戻される。掛けふとんは、今麻衣子が起きたからだからだろう、はだけていて、政人のあの体が上半身むき出しになっていた。
 何度見ても凄い体……
 その腕で、片腕でやわらかく抱き締められただけで、簡単に麻衣子はいるべき位置に戻される。
「麻衣。もう一度」
「やだ……もう」
 夕べ何度言われたか。
「ん……まさと……だいすきだよ……」
 どれだけしたって下手だろう、それでいい。麻衣子は政人のくちびるめがけて近づいた。いろっぽ過ぎてもう死にそう。
 ちょっと触れて、恥ずかしいからすぐ離れるのに、5mmもしないところで引き戻されて舌を差し入れられる。後はもう、最初から最期まで、政人の想うがまま。体勢を変えられる、麻衣子が下で政人が上、もどかしげにキス、深く熱く激しく、それから首筋に、それから……
 遅い朝食の時、こう言われた。
「麻衣。今日の午後五時、日本を発つ。しばらく戻れん。声を聞きたいと思う者に連絡を入れておけ」
「う、うん……そうなの?」
「そうだ。お前にはもう少し、この国を見せてやりたかったが」
 というからには、しばらくというのはかなり掛かるということだろう。日本に残っていたのは、全て麻衣子の為だと言った政人。
 えっと、お父さんお母さん、あっこちゃん……
 あれ?
「あ、あの!」
「なんだ」
「喫茶井上のマスターさんに、その……借金しちゃったの! お金返して!」
 政人は、今度こそ吹き出した。拙過ぎて泣けて来る。
「……なんで笑うの。どうせ、どうせ麻衣は……」
「いくらツケて来た」
「……えっと。ココア二杯」
「俺が払う」
「いや! 麻衣が払うの! お金返して!」
「金ならたんすにある」
「麻衣のお金!」
「少し待て」
 政人は食事中ではあったが、立ち上がった。
「ど、どこにあるの?」
「内緒だ」
「えーーー!?」
 政人の口から内緒なんて言葉が出ると思わなかった麻衣子、とことこ政人の後を付けて行く。するとあの、荷物置き場に向かっているようだ。
「ここにあるの?」
「そうだ。お前の持ち物だからな」
「ふうん……」
 すると政人は、たんすの上から二段目を開けた。中の、本革のバッグを開ける。
「ここにある」
「よかった、これで電車に乗れる!」
 政人はまたしても吹き出して笑った。そのさま、なんだかまるで学生さんみたい、と麻衣子でも思えた。なんだかちょっと、子供に見えた。
「ココア二杯なら千二百円だ。これだけ持て」
 政人からお金を持たされた。
「飯が冷める」
「うん」
 麻衣子はお金を握りしめ、政人に抱え上げられた。だいすきだいすき囁きながら。
 食事の後、麻衣子は各方面に電話した。政人がすぐ後ろにいて、抱き締められながら。舌は首筋に這われるし、手は麻衣子のおっぱいをゆるく揉むし、止めてと言っても聞かないし、じゅわっと濡れるし、体は火照るし、かなり困った。
「麻衣。少しだけ、会社に顔を出す。それからツケを返しに行って出国だ。待っていろ」
「ん……行ってらっしゃい政人。あいしてる」
「愛している、麻衣。そう時間は掛からん。行って来る」
 麻衣子はくるまる用のふとんを被せられ、今度こそはぼけーっと夫の帰りを待った。
 その頃営業三課の藤村は、特段変わりなく仕事をしていた。間違いなく向こうからコンタクトがあるだろう。
 藤村のフロアの扉が開かれた。それだけなら誰もなんとも思わない、だが。
「三課の藤村君、いらっしゃる?」
 その声に、まず男性社員が振り向いた。なぜなら声の主の女性は当社男性陣(除く政人)憧れの、華の秘書課美女の中でも群を抜く一番の美人だったから。
 彼女の脇にはもう一人いた。秘書課No.2。
 この二人を両手の華として引き連れた、中心の人物。
「副社長……」
 このフロアの、誰もが注目する。なにが起こった?
「さすがだねえ、藤村君とやら。この私が使い走りだよ。何十年ぶりかな?」
 藤村は、腹のあたりがどくどく鳴った。フロア中の、疑念に満ちた視線が一斉に集まるのが分かった。
「不破社長がお呼びだ。ついて来たまえ。いや、おいで下さいと言った方がいいかな?」
 藤村は無言で席を立った。何度もつばを飲み込む。営業畑四年、色々な狸狐と会って来て、丁々発止をやり合った。だが。
 このフロアに戻れた時、現実を思い知るのだろう。藤村はそう思った。
 最上階へ通じる専用エレベーターの中。
「ところで私も、事情を知らないのだよ。今朝一で社長に呼ばれてねえ。何故かな?」
「……分かりません」
 美女二人に、なにをしたのかしらねえこの人は、という目で見られる。よかったこの二人には手を出さないで。
 エレベーターが止まる。
「ここには私と言えどこの二人と言えど、逐一許可を得なければ一歩も入れなくてね。ここで失礼……致しますな?」
 藤村は地獄の三丁目へと足を踏み出した。重たそうな、一見一枚の樹木で作られた扉、その実防弾仕様。二人の警備員が恭しく観音開きの扉を開けた。その先には。
 そういえばと思う。藤村は、まあ大多数の社員がそうだが、社長の顔なんて直に見るのは一度だけ、入社式の時だけだ。どんなツラだったっけ。
 その主は、こちらに背を向けていた。あんなんだったっけ、ジーサンだろ、ハゲてても……
 後ろ姿でも、髪の毛が健在であることは容易に知れた。あんなんだったっけ……
 ゆっくりと振り向く人物と目が合うのと、後ろの扉が閉じられるのは同時だった。
 藤村は、その場にへたり込んだ。
「はぁ……」
 藤村は、一生分のため息を使い果たしたような気がした。
「……なんであんたが、ここにいるんだよ……」
 部屋の主は答えない。ただ真正面を見ているだけ、その先に藤村がいるというだけ。
「……どうせ、上手く行ったんだろ、家内円満、いいことだろうが……」
「今度私に会う時は、実力で来い」
 一言だけ。あとは、再び豪奢な椅子ごと後ろを向いた。つまりはもう、会うことはない。タメ口もこれでお終い。上條にも言っとけ、そういう意味。
 てっきり殴られるかと思った藤村は、まだ、己に課された重過ぎる運命に気付かない。立ち上がって、わざとらしく尻を払い、あの名刺をその場に落として。
「失礼します、今村専務」
 途端背後の扉が開く。出て行くと、ばたんと重い音がした。
「麻衣。今おわった。すぐ帰る」
 エレベーターでおりた藤村は、職場たるフロアの扉を開けた。すぐ仕事がしたかった。そういえばあそこのネーチャンから誘われていたから、仕事にかこつけて……
 あれ?
 誰も反応なし。あんな所に行ったんだ、誰かからツッコミの一つあったって……
 よく見れば。顔はそのままだが、全員、視線がこっちになかった。
 いやな予感がして、歩いて自席へ戻る。前に課長室へ三度行った時はその度質問が来たのに。
 しょうがないから、藤村は上司の元へ。
「武蔵商事に行きたい……」
 んですけど。と言おうとしたら、上司は視線を全く合わせず、それどころか顔を背け、
「どうぞ」
 と言った。
 上司が部下にどうぞ……
 素早くくるりと振り向くと、全員がこっちに注目していたようだ。だがそれも一瞬、全員がばっとそれぞれのパソコンに視線を戻す。どう見てもフリだけ。
 自席へ戻って、隣の、藤村並に軽くて調子のいい同期の男に声を掛ける。
「あのさあ、あそこの」
 ネーチャン尻軽いよなあ、といつもの軽口を叩こうとしたら、すっと席を立たれ、どこかに行かれた。
「……」
 またしても素早く後ろを向く。するとまたしても、さっきと同じ。こちらを見ていたはずなのに、全員顔を背ける。
 ……待てよ。
 こんな会社に入ったのだ、麻衣子のようにおばかではない藤村、営業畑だ、頭も回る。考えた。
 これ以上、どうやっても、周囲の反応は変わらないだろう。問題は、何故みんながこんな反応をするのか。
 社長室に呼ばれたから? そりゃすげえが、俺、前にだって三回もあんな所に行ったんだぜ。その時にはみんな、すげえなあとか、いよいよ出世かとか、どんなプロジェクトに参加してんのかとか。むしろ好意的。
 なのに。
 たまらずフロアを出る。休憩所へ行って、一服しようと。
 そしたら、道行く社員までもが、あんな態度だった。一瞬だけこちらを見て、誰かを識別出来ると皆顔を背けた。
 茫然自失。腹のあたりの心臓がうるさい。
 思わず携帯に手を伸ばす。こんな時、助けてくれる人間と言ったら同社内の、
「上條、ちょっと」
「あらどうしたの? 社長のお庭番」
「……は?」
 好いた舞子の意図が分からなかった。こんなことは初めてだった。
「そうなんでしょ?」
 だが藤村はおばかではない。
「はァそうか、そういうこと。バカじゃねえ? どこのお庭番が使えているご主人様の身分を明かすか。隠密にしてこそのお庭番だ、分からねえお前じゃないだろ」
 なるほどな、それで皆のあの態度か。社長に呼ばれたことでそう思い込んだか。自分達の行動が逐一社長に報告されていた、あいつは危ない、だから関わり合うなと誰かに……まああのヤローだろうが……言われたんだろう。
 だがその手は通じない。言ったように、お庭番なんて、そうバレりゃ用はないのだ。バカバカしい。
「あたし、結構前から気付いていたわよ?」
「ハァ!?」
「ひとぉーーーつ。なんでさあ。今村当時の課長室へ通じるあの専用エレベーターの守衛さん。あたし達通してくれたのかなぁ? あの当時からだって、無用のペーペーを通すなって言われたはずなのによん?」
 え?
「あの場面。あたしが先頭切ったのは、執務室に入ってから。その前はあんたがあたしを連れて行った。そう、あたしのツラを見てパス、じゃない。あんたのツラを見て守衛さんはパスしたのよ。そうよね」
「……違う」
「ふたぁーーーつ。あの都内有数な大病院の、仕事用じゃなくてプライベート用の婦長様の番号を知っていたのは、なぁぜ?」
「……」
「みぃっつぅーーー。今村専務の自宅の警備陣は、あんただから通した」
「……違う」
「じゃ二つ目は?」
「……」
「よっつぅーーー。非人道的で女には絶対思いつかなくてキツイ話、は嘘」
「……嘘じゃねえ」
「女どころか男でも思いつかない。つまり、事前にあの策を知らされていた」
「……違う」
「あんたは不破社長の内線も番号もとっくに知っている」
「違う」
「今村専務の個人情報も全て」
「違う」
「いつーーーつぅ。今村夫人の情報。あんたが一番知っていた」
「だからそれは……」
「愛情の視線? バッカじゃないの、何千人と女抱いて来たあの人が、何十人か程度のあんたにバレるようなヘマ、する訳ないじゃん」
「……」
「よっ、社長のお庭番。あたしに気があると見せかけて、何人も女食って来たことくらい知ってるわよ、それであんたになびかないなんてトーゼンでしょ? でも実態は違った。
 そうやって女食いながら。探ってたんでしょ?」
「……違う」
「悪いけどさ、もう話し掛けないでくれる? あたしってば、やっと最近愛人疑惑から抜け出せたのに、今度はお庭番とツーカー疑惑持たれちゃってんの。メーワク。じゃね」
 電話はぶっつりと切れた。すぐに掛け返したが、着信を拒否された。
 藤村は、やっとここで思いつく。そう、いくらそうじゃないと言ったって、一旦疑惑を持たれたら最期、止めようがないのだ。人の噂も七十五日というが、少なくともその間はあんな視線に耐えなくてはならない。
 だが営業職だ。他の職でもそうだが、二ヶ月以上も除け者にされて仕事なんか出来るわけがない。
 退職する? まさか、この会社は大会社、やっと、あんな思いで入れたのに。このステイタス、手放すつもりは毛頭ない。そのために、ノルマを達成するためにどんな女とでも寝て。TOEICの点数を維持するため、どんなに飲んでも勉強して。外見を維持するため服だのなんだのに金をかけ。女の前で見栄を張るため金がいる、この会社のサラリーでなければ持たない。転職したって四年でもペーペー、よほど上手い話でもなければ間違いなく給料が下がる。
 我慢しよう。それしかない。
 藤村はフロアに戻った。誰もこちらを見ない、見えない視線が針のムシロ。
 これから二ヶ月以上、こうか。
 我慢しよう。事実は違う、社長の顔さえ覚えていないのが事実、それを言い続けるしかない。
 藤村は甘かった。政人を見くびっていた。その理由。殴られなかったからだ。声を荒立てられたわけでも、クビと言われたわけでもなく。
 だから、こんな事態も切り抜けられるとたかをくくった。愚かである。ただ単に、現在は社長職に就いている者に、定期的に……そう七十五日ごとに藤村を呼ばせれば、噂どころではなく確定として、こんな事態は続くのだと。
 それすら見抜けず、藤村は資料を持って会社を出た。
 上條が言ったその一は完全に間違いである。あの場面。椎名は麻衣子が最初から吐いていたことを見抜けなかった件で政人に激しく叱責された。あれだけ協力したのに、君にはもう任せられんとまで言われたのだ。それで、後になるまで麻衣子と椎名は会話を許されなかった。自責の念に駆られていた椎名の元にやって来た人物、それが上條。誰が聞いても純粋に麻衣子のことを心配していた。椎名に麻衣子が休んだと確認後、すぐさまフロアを出た上條を見て、これは政人に直接談判しに行く、純粋に心配してのもの、そう判断し、通してくれと椎名は政人に懇願したのだ。それであの場面だった。守衛は藤村ではなく上條を見て通したのだ。
 その二はともかく、他もほとんど間違っている。これがあの二人の限界。見抜いていると思いながら実態はこの通り。だからまだまだペーペーで、後輩にすら抜かれそう、それがあの二人の現実。
 その頃政人と麻衣子のマンションでは、二人が、しばらく見納めとなる、三ヶ月一緒に暮らした空間を名残惜しんでいた。繋がりながら。
「麻衣。麻衣。よく見ろ」
「……ン、……ン」
 玄関で。二人、扉に背を向けて。
「よく見ておけ、俺と、麻衣の」
「……ン、……ン」
 卑猥な水音、ぶつかる音、ひとつになり、炎に灼き尽くされるように燃えながら。
「麻衣。麻衣。愛している」
「ア……、ア……」
 場所を変えて、黒塗りの後部座席で。政人は下着もスラックスも膝上あたり。麻衣子のショーツは片足の腿の辺りで止められ、スカートは下、乳房だけ中途半端に露出され。
麻衣子は政人にまたがって、でも麻衣子は腰を打ち付けるなんて出来ない、なにせ政人の腰の動きはいやらし過ぎて、麻衣子のそれなんてとても追いつけない。麻衣子の細すぎる腰を掴み、縦横無尽にいたぶり尽くす。弓なりの麻衣子の頭をこちらに寄せ、キスを。深く、熱く激しく。
『ン……、ン……』
 停まるたび、車が揺れた。
「らっしゃい」
 喫茶井上のマスターは、実は濡れ場を見慣れている。乱パ以前に、とっくに。
 だから、政人から今日二時にそちらへ行く、貸し切りで頼むと言われた時、そういう状態で来るだろうなと予想はしていた。
 マスターは聖域持ちを他にも知っているが、皆情熱的で、皆聖域に甘い。政人とて例外ではなかった。
 ぐったりした麻衣子を抱え、政人が入店する。それは構わない。要点はこの三人がきちんと目を覚まして会話をすること。起こして貰らわにゃ困る。
「マスター、ダージリンを二つ」
「ツケのトイチは願い下げ。っつうか起こせよ、時間ねえんだろ」
 はたしてこの聖域持ちは、どのように起こすか。
 茶を淹れながら観察すると、深い深ーーーいキスだった。マスターは思う、さすが今村、今まで見た中で一番だぜ。ただし自分が誰かとしているのを除き。
「麻衣、起きろ。美味い茶だ。飲め」
「ん……」
「飲めはねえだろ飲めは」
 今度の話は真剣勝負、目をきっちり覚まして貰らわにゃ困る。特に、麻衣子には。
 一杯分、のったりして貰って、マスターは口火を切った。
「さてお客さんよ」
「……?」
「俺の昨日の説明に、納得したか」
「はい」
「だからあんたはバカなんだよ」
「……どうして、ですか……」
 聖域をバカと言われても、政人は普段通り冷静だった。これは、本当に麻衣子がバカだと思っているからではない。ひとえにマスターが言ったから。
「今村。あんた自分の口から過去のご乱行、言ってねえな」
「言っていない」
「言えよ今、直接」
 すると突然麻衣子が叫んだ。
「いや!!」
 隣に座っていたのに、政人の膝に乗り、首に腕を回し、顔を埋めて、いやいやするかのように金切り声で。
「絶対いや!! 言わないで!! 言ったら麻衣泣く! 泣き止まない!!」
「麻衣」
「いわないで……」
 ぶるぶる震えて。涙声で。
 こんな状態の女性に、追い打ちを掛ける男は最低である。
 しかし、言わなくてはならない。有耶無耶もまた最低。
 だが同時に、全てを言えばいいというものでもない。例えば戦争に征った夫の顛末を「見事玉砕されました」と聞いたとする。あまりに美辞麗句過ぎる、実態はそうではないと誰でも分かる。だがそれ以上、どう言えばいい? まさかあなたの亭主は味方がいる背中から何十発も銃弾を受け、両の目玉を飛び散らかせ、脳味噌内蔵を飛び散らかせ、心臓を味方に踏まれて死にましたなんて誰が言えよう。美辞麗句でいいではないか。死を美しい思い出に変えるとまでは言わないが、未亡人とて未来がある、そのためには過去に区切りをつけなければ。
 言えばあちらが立たぬ、言わねばこちらが立たぬ。典型的な複合問題。
 麻衣子はここまで考慮出来ないだろう。だが躊躇いなく片方の道を選択した。決して交わらぬ道を、誰に教わることなく、自分で考え。
「分かった。言わん」
 政人は即断した。だが、実際麻衣子の口から聞いたマスターはそうは思わない。
「今村!」
「いわないで、言っちゃいや、いや……」
「今村。あんたの意見も、お客さんの意見も尊重したい」
 マスターは、自分が部外者であること、昨日の麻衣子の質問にも答えてはならない立場であることを覚悟の上で言った。マスターとて三十前、充分生きて来た。家庭もある、甘えなど許されない。自分の置かれた状況をよく弁えて。
「だがちゃんと相互理解しなきゃだめなんだ。有耶無耶にしていいことはなにもねえ。ここで一丁大ハジ掻いて、バリっとさっぱりアト仕舞い。それでいいんだ、いいから言え!」
「いやぁ!!!」
 麻衣子の両腕に力が入る。とはいっても、政人にとってみればほんの少しの加減。だが分かる、麻衣子は怒っている。
「大丈夫だ麻衣。言わん」
「……それで気が晴れるのは、愚かな行為をし続けた俺達男だけだ。立場の弱い女はいつまでも泣き続ける」
 麻衣子はただいやいやして、もう言葉を出さなかった。
「……お客さんよ。今訊かなきゃだめだ。なんで部外者の俺がいる場で今村が喋っていると思う。それはな、聞かされたあんたをその場で助ける人間が必要だからだ。これから日本を出るんだろ。そうなったらもう離ればなれにならねえんだろ。もう機会ねえぞ。今訊かなかったら、もう二度と訊いちゃならねえんだぞ。
 それでもいいって? だめだ、そしたらあんたは吐き出せなくて抱える。抱え続ける。俺の初恋の君がそうだった。どんなふうになったと思う……外見上一切歳を食わないまま、溜め込んで……命を削っているんだ……」
 麻衣子の動きが止まった。
「短命だとよ。この星一番の医者に診せてもそう言われたと。あんたもそうなりてえのか」
 麻衣子はそれでもいやいやした。そんなの知らない、そう言わんばかりに。
「マスター。もう言うな。麻衣が考え、決めたことだ。俺達は、惚れた女に哀しみの涙を流させてはならない。そうだな」
「……そうだ」
 マスターは、一旦店の奥へ引っ込んだ。すぐに出て来て、手に持つそれを政人に渡す。
「ほれよ。まず涙を拭え。話はまだおわっちゃいない」
 温かいお湯で濡らされ、固くしぼられたタオルだった。政人が舌で麻衣子の涙をなめとってもいいが、今だけは違う。ちゃんと目を覚まして、言ってもらわなくては。
 麻衣子は、少し政人から離れる。だが少しだけ、顔を上げただけ。もう涙でぐしゃぐしゃ。それを夫に拭き取ってもらう。恭しく優しく。政人は麻衣子を隣の席へ戻した。麻衣子は嫌がった。
「さっきの件はあれでバリっと仕舞いだ、もう言わねえ。
 で、次の件なんだが。あんた藤村の野郎に、他にもなにか言われたな。これは隠さず全部言って貰うぜ。たとえどんなに泣かれてもな」
 政人が優しい目で、麻衣、言えと伝える。いつも交わる愛情の視線、麻衣子も分かったと伝えて。
「えっと……あの……」
 しかしとことんおばかな麻衣子。たった二日前のことなのにもう忘れている。なにせ毎度だが行為が凄過ぎる。
「……ったく。ほんとにバカだな。じゃ最初からだ。思い出せよ根性で。あんた大学出だろ、甘えてんな」
 バカはその通り。残念、根性ないです。大学は運と偶然で受かっただけです。政人に逢ってから甘やかされっぱなしです。
 そんな麻衣子は、もうとっくに過去のものとなったあの会話を反芻する。
「えっと……ボク、まいこに恋してんの」
 マスターは思う、バカかこいつ。
 しかし、この様子では逐一ツッコむと肝心の案件をころっと忘れられそうだ。喋らせるままにしておこうと思った。さすが生まれた時から接客業、分かってらっしゃる。
「びっくりしたんですけど、同じ名前のまいこらしくて。上條さんだそうです。でも、上條さんの話が出たのはこれっきり」
 やっぱりな。政人とマスター、同時に思う。さらにマスターは、そういやあいつ営業だったな、女を誑かす軽口はお手のもの、か。
「それで、いかに政人がひどいことをしていたか言いました。麻衣がそれ知らなくてそういうことされたんだろうって。でも、省略します。麻衣聞かないもん」
「……それで?」
 相槌はマスターが打った。
「……そんな、いっぱい女の人知ってる政人が、なんで麻衣みたいなちんちくりんと結婚したのか不思議でならない。すっごい美人とでも結婚出来るのに麻衣にした、披露宴に出た人びた一名欠けることなくみんなそう思っている、麻衣は蔑まれている」
「……それで?」
「予想はしてましたけど。……麻衣の入社は偽物だって。人事さんが間違ってたって。……やっぱりって、思った」
「……それで?」
「えっと……だから政人に言われる前に別れろ離婚しろ。政人は、……なことが一番お好みだから、って。それで帰らされました」
「待てよお客さん。まだ言えていない部分があるぜ。欠陥人間ってなんだ。突出した分野がないってなんだ。俺はあんたと喋ったのは数回だが、それでもそんな言葉、あんた自身で吐きはしないと分かるぜ。その辺はどうよ」
「えっと……」
「じゃ、まず欠陥人間ってなんだ」
「えっと……なんだっけ……それどころかあなたは類稀なる欠陥人間だ、突出した分野もない、だから、ひとめで、麻衣と政人が合わないと分かった。あなたもそう思うでしょ」
「……そうか」
 合わないなど、正直誰でも言うだろう。政人でさえ……
「そういえば、あなたは政人の一時の情婦に過ぎない、とかも言ってたな……その通り、ン」
 政人はたまらなくて麻衣子にキスをした。今までで一番激しく熱く深く。さっきのは起こすための、人前用のキス、でも今は違う。
 さすがのマスターも、こりゃ敵わないか? と思えた。
「おいおい話はまだ続くぜ。その辺で止めとけ」
 仕方なく政人は舌を解いた。麻衣子は既に卒倒寸前。
「でえ。お客さん、話はそれで大体いいか」
 麻衣子、上気した表情でもはやノックダウン寸前。
「まあいい、かなり喋れたようだな。上出来みてえだ。さて今村、出番だ」
 お鉢の回って来た政人は、麻衣子を膝の上に乗せる。軽過ぎて辛かった。麻衣子は、自分が政人の首に腕を回していることをもう自覚出来ない。
「俺が言えば身内贔屓だ。そこで、実際披露宴に出た者に麻衣の質問に答えて貰う」
 政人は、どこから出したか七百枚の名刺を裏返して扇状にし麻衣子に見せる。あなたはマジシャンですか? っていうか、そんなの出来ます?
「どれでもいい。一枚引け」
 おばかな麻衣子、
「……これ、トランプ?」
 などと訊いた。頭が小学生以下である。
「そうだ。どれでもいい、引け」
「うん」
 こうやって見ると、さっきの濃厚ラヴ・シーン見なきゃ父親と娘だぜ、とマスターは思った。残念、親鳥と雛鳥です。
 麻衣子はテキトーに引くと、政人がその名刺をくるっと裏返し、麻衣子に見せる。
「名はなんと書いてある」
「えっと、とみー・じょーんず」
「電話番号は」
「えっと、010-212-523……なんだろこれ。どこの携帯?」
 おばかである。
 政人が電話すると、相手は出たようだ。へろーいまむら、と麻衣子には聞こえた。よく分かったね。
「ジョーンズ、今から俺の聖域の声を聞かせる。心して答えろ」
 相手は、ほわい? などと言ったようだ。麻衣子は携帯を持たされた。困った、英語出来ない。
「は、は……はろー、まいねーむいずまいこいまむら……」
 よく言えました。えらい麻衣子。
「……今村夫人か!?」
 相手は途端に流暢な日本語を喋った。こうでなくては政人の友人は務まらない。
「え? えっと、はいそうです」
 あれ以外の英語なんて、あいらぶゆーしか知らない麻衣子。日本語っていいなあと実感する。全くおばか。