19

 麻衣子は着替えて家を出ると、とことこ歩いて門の外に。車に乗る。しばらくして停まると、扉が開けられる。麻衣子は車をおりた。
「こちらの二階、奥の個室です」
 運転手の、初老の男性に言われて麻衣子は向かう。携帯とカードを持って。
 麻衣子はこういった高くない居酒屋は嫌いではない。いつも高飛車な所に連れ回され度胸がついている。そうと自覚せず、扉を開けた。
「やーコンバンハ。久しぶりー、今村夫人。幸せ?」
 藤村はすでに飲んでいたらしい。でかいジョッキが二つ空だ。
「あ、はい……」
「まあまあ、立ってないで。座ってよ」
 麻衣子は藤村の向かい、空いている上座に座った。
「なに飲む?」
「えっと……弱いので……」
「ウーロンハイでいいかな」
「……お願いします……」
 目の前の男性は上機嫌のようだった。
「門限とかある?」
「……? 聞いてないです」
「じゃ。今八時だから……そうだね、さすがに人妻だから、日付が変わる前だな。ちょっと付き合ってよ。実はさあ、ボク舞子に恋してんの」
「は!?」
 さすがにこれだけは。すぐに麻衣子は立ち上がった。驚きで二の句が継げない。
「あの、麻衣は……」
「ああ、上條舞子のこと」
「……かみじょう……?」
「あなたと喫茶井上で会ったじゃない。あの上條だよ。下の名前、舞子っていうの。あなたと同じ」
「……知らなかったです……」
「うん。俺達わざと下の名前名乗らなかった。理由はそういうコト。お分かり?」
「はあ……」
 麻衣子は座った。
「ちなみに俺って藤村茂樹。呼べとは言わないが覚えといてよ」
「はあ……」
「ということで。俺がね、あなたを知ったのは忘れもしない、七月八日のことなんだ」
「……」
「なんでかっていうと。当時あなたと俺は同じフロアに勤めていた。あなたはあの頃なんの余裕もないようだったし、課が違う、俺には好いた舞子がいた。歳も離れている、眼中になかった。悪いけど、いいよね」
「……はい」
「でさ。その日、当時の課長、現在のあなたの夫が緊急一時帰国して、執務室以外の、用もないはずの元職場たるあのフロアに顔を出したって、覚えてた?」
「え?」
「この先の話。聞きたい?」
 麻衣子はこくこくと頷いた。
「これねえ。あなたの夫にも言ってないの。言うには勇気がいるなあ。交換条件があるんだけど」
「な、……なんですか?」
「俺の話をさいごまで聞くこと。真剣な相談なんだ」
「……はい。分かりました」
「女に二言はないね?」
「……はい」
「じゃあ言おうか。俺が、あなたの夫の、あなたに対する恋心を知ったのはあの日だ。まず、あなたの夫の女癖は最低だ」
 言葉も出なかった。
「まさか知らない、なんてことないよね。よくよく説明された上で、それでもいいから、と本心から承知して、抱かれたんだよね」
 どう態度に出せばいいか分からない。
「俺はもちろんそう思っていた。上條が課長の最低な女癖を聞いていたかは確認してなくて分からないけど、薄々は知っていただろうさ、ただし薄々は、だけど。
 で。そんな俺達があなたにこの話題を一切振らなかったのは、さっきも言ったけど、あんなの事前に知らせるべきだから、もうとっくにあなたが納得済みだと思っていたからだ。その上で惚れたと。その上で幸せなんだと。だから、あなたの家にお邪魔した時も言わなかったんだよ。純粋に、親切に忠告しに行ったって、それだけだ。それにしては随分誤解してくれやがったようだけど」
 謝れもしなかった。
「なにも、知らなかったんだね」
 頷くしかなかった。
「そう。知らされてなくて、会っていきなりその日にやられたか。さすが最低男」
 麻衣子はもう、言葉に出来ない。
「じゃあまず、あなたの夫のご乱行ぶりを教えて上げよう。直接見た訳じゃないが、知らない人なんて各方面に、さて何人いるかなあ。もちろん、あなたの尊敬する椎名係長も熟知している。さぞ言いたかっただろうな、あなたは課長に惚れられている、でも酷過ぎる女癖だから、きっといつもの通り、一時の情婦と思われているって」
 青ざめ始める麻衣子。思いつく節はたくさんある。
「聞いた話によると、初体験は中学に上がってすぐだって。すごい早いよ。でもね、今村の男なら当然と大豪語だって。笑っちゃうよね。後はもう手当たり次第。下はドブスの大貧乏、上は名門、世界一の美女、大金持ちまで。複数同時。全員短期。ほとんど毎日だって。当時から勉強だの、あの体を鍛えるだのに忙しかったはずなのに」
 ウーロンハイの氷がからんと鳴った。
「七月八日、そんな予定じゃなかったはずなのにうちのフロアに来て、一瞬だけ視線をあなたに送った。間違いなく性欲に濡れた目だった。俺だってそういう目で上條を見ていた。だから分かった。あなたはあの男の一時の情婦に過ぎないとな」
 麻衣子の心臓は重かった。さっきからどくどく言っている。いつもの高鳴るとはほど遠く。
「可哀想に。それが俺の感想。なにせあなたに興味がなくて、止めようと思わなくてね。ごめんなさいね?」
 返事などするわけもない麻衣子。
「多少興味を持って翌日も、あなたの様子を見たけど。変わりなし、いつもの通り誰かに叱られて。俺の感想、ああやられまくって知らされて、捨てられてしょげてんだな、ってね。違ったかなー?」
 藤村は追加のビールをあおった。
「今村家ってね。室町時代から続く名門だってさ。あなたの現在の夫はそこの御曹司。どうもその様子じゃ、それすら聞かされていないようだけど。
 俺はね。あなたがあの男に、と知った時。正直こう思ったよ。合わないって。そう、思ったね?」
 無意識に、麻衣子は頷いた。
「なぜなら、あなたは突出した分野、というものがなにひとつない。それどころか類稀なる欠陥人間だ。聞いちゃったんだー、人事に。あなたに出した合格通知、間違いだってさ。もっと上がいたのにケアレスミス、あなたに送ってしまった。大会社だから醜聞を恥じて公表出来ず。どうせそのうち辞めるだろうと放置。予感はしてたでしょ?」
 藤村はビールをあおった。
「今でもなぞ。どうしてあの、何千人と女を抱いて来て、どんな極上の名門の女だって知ってる今村様があなたを選んだのか。披露宴に出た人達、びた一名欠けることなくそう思ったよ。お分かりでしょ?」
 藤村はビールをあおった。
「あなたは蔑まれている。今でも、これからも。
 別れた方がいいと思うけどなあ、言われないうちに。誰より、今村政人本人から」
「そんなこと……」
 か細い声だった。
「ありません……」
「今村様は卑猥な乱交パーティーが一番お好きだって。知ってる? 多数の男女が一室に集まって、相手ころころ変えてやりまくるんだぜ。壮絶な愛欲図だよ。想像出来る?」
「……」
「3Pって知ってる? それどころじゃないんだろうけどさあ。女がね。アレ咥えて、同時にアソコにぶち込まれて。ついでに言うなら前後の穴同時にぶち込まれて。全然見たこともない男複数に。そういう行為。想像しな」
「……」
「それをさらに卑猥にしたのが乱交パーティーっていうの。それが、一番のお得意技だって。事前に聞いてたらあなた、ぜーーーったい、あの男に股開かなかっただろうなー」
「……」
「なのにわざと言わないでその日にものにした? ケッ、人間のクズだ。
 あんたから離婚しなよ。あの男のモノは何千人もの女の愛液でケガれている。それに毎日犯されてるんだぜ。いやになっただろ?
 さあ帰りな。あのマンションじゃない、実家にだ。親に泣きつけ、俺に言われた通り伝えろ。即離婚だ、安心しろ」
 藤村はそう言うと、まるで動物にするように麻衣子の襟ぐりをぐいっと掴んで立たせた。麻衣子は無抵抗。
 居酒屋の外にはリムジンが停まっていた。
「というわけですから。ご想像の通り、今更事実を知ったんで。中川を実家に帰していただけます? さあ乗れ、元の人生に戻れ」
 麻衣子は目を開けていたのに、なにも見えなかった。
 知らぬ間に乗ると、誰かがいた。
 びくっとした。この嵐。
「麻衣」
 いつもは甘く優しく激しい言葉。でも。もう、そうは思えない。
「……いや……」
 麻衣子は必死になってドアに向かい、開けようとした。でも、未だあの外車のドアの開け方すら知らない。取手すら見つけられない。
 そうこうしているうち、背後の嵐が近づく。逃げられない。
「いや、いや、いや……!」
「麻衣」
 逃げられない。抵抗の仕方も知らない。おおきな手が腰に回される。卑猥な舌の気配が耳元でする。
「いや、いや、離して!!」
「麻衣」
「いやぁーーーッッ!! いや、いや離して、帰して、大嫌い、大嫌い、大っっっっ嫌いーーーーッッ!!」
「なにを吹き込まれたかは知らんが」
「いや!! いや、いやあ!!」
「おおむね、その通りだ」
「いやぁーーーーーッッッ!! 離して、離して、大っ嫌いーーーーー!!」
「そばにいろ」
「いや!! 離して、帰る、もういや、帰してッ!!」
「それでもそばにいろ!」
 麻衣子は今まで政人に命令されたと思ったことはない。声を荒立てられることもなく、詰問されたこともなく、叱られたことも怒られたこともない。ただ激しく愛されて。でも今のは違った。
 政人は後ろから麻衣子の腰に腕を回し、ゆるやかに抱き締め続けた。麻衣子は泣き叫び続けた。疲れるまで、気力を失うまでそうした。
 目が覚めると、そこは寝室だった。慣れた空間、慣れたにおい。いつもは汗と愛液精液でべとべとなのに、さっぱりしていた。見るとパジャマをきちんと着せられ。
 躊躇いなく起きて、躊躇いなく脱ぎ捨てた。今の麻衣子にはこれしかない、体一つで荷物の部屋へ。昔の、安い下着を。綿のシャツ、安いジーンズを穿く。
 シャツはともかくジーンズはゆるゆるだった。
 今は十二月、外は寒い。これから長距離を歩く。荷物をひっくり返し、コートを取り出す。携帯を探し出して実家へ電話。迎えに来てもらうために。
 でも、繋がらなかった。
 まあいい、と思う。また迷って、でもどこかに交番はあるだろう。歩いているうちに繋がる。麻衣子は躊躇いなく家を出た。その身一つだけ、あとはなにも持たず。振り返らず。
 門の外に出るとあの黒塗り。無視して、とことこ歩いた。
 すると黒塗りは、麻衣子の歩調に合わせてゆっくり進む。
 無視して歩き続けた。
 だが、ほどなく私有地を出ると一般車道。なのにこんなでかいのが悠々とゆっくりとそばを付き従う。道行く人に、奇異な目で見られる。
「……」
 麻衣子はいっとき、止まった。するとすぐ、運転席からあの初老の男性がおりて来て、ドアを開けた。
「どうぞ」
「……中川の実家まで、乗せて貰えますか」
「お言葉のままに」
 目をつむる。ありありと浮かぶいつもの行為。
 夕べは、まるで宝物を護るように抱き締められ。
 麻衣
 愛している
 麻衣
 首を振った。これからは、もう。
 ……どうして乗ってしまったんだろう……
 車が停まった時、実家だと思った。躊躇いなくおりる。
「喫茶井上……」
 そういえば、あれからほどなくだった。時間の掛かる実家に着いたわけがない。
 あのマスターは俺と同い年だ。一緒の学校にも、一緒の会社になったこともないが、人づてに知り合った。
 入ってみることにした。
 からんとドアを開けて。
「らっしゃい」
 店内には、他に人がいなかった。麻衣子はふらふらカウンターに座った。
「……あの」
「なんだい」
「……お金持ってないんです。だから、……お話だけ、訊いていいですか……」
 ずっと下を向く麻衣子。マスターはカウンター内のウェイターに視線をやる。ウェイターは心得たとばかり店外に出て、クローズの看板を下げ、そのまま帰った。
「店は仕舞いにした。もう誰も来ねえ。なんでもいい、訊けよ」
「……あの」
「ココア飲むか」
「……お金……」
「そういや前、ココア頼んで金払わなかったな」
「……ごめんなさい!!」
「と、思うんだったら後で払いに来てくれ。必ずだぞ」
「……はい」
「んじゃこれもツケにする。利息は取らねえ」
「……はい、ありがとうございます……」
 出された甘い飲み物を飲んで、人心地。でも、重い心は変わりなく。
「でさあ。なに訊きてえ?」
「……あの人……のこと、ご存知ですよね……」
「今村だな? ああ、ダチだ」
「昔のこと……聞きました……」
「ふーん。そっか」
「知って……たんですね……」
「知ってたよ。俺も乱パの一員だったから」
 麻衣子の手が止まった。
「今村はともかく。俺の場合はさ。高校上がってすぐ、淡いあわーーい初恋、したんだ。桜の木の下で。今でもよく覚えている。
 その日告りゃよかったのに、いろいろあってさ。出来なくて。そのうちその子はいい人見つけて、幸せになって。
 でも俺は、諦め切れなかった。その子がそいつしか見えていないって分かっても。二年も続けて同じクラスでさ。諦めるにしちゃ毎日目に入って。辛かった。
 高校三年からは道が別になった。それでも諦め切れなかった。男って哀しくてさ、溜まるんだよ精液ってやつ。出さなきゃだめでさ。自分でやりゃあいいものを、空しくて女に抜いちまったんだ。それが乱パに手を出した切っ掛け。そこに今村がいたって寸法。
 ところであんた。ひょっとして、男、今村しか知らねえ?」
 麻衣子は拙く頷いた。
「でもさ。分かっただろ、今村がどんだけ女に慣れてたか。最初でもう」
 頷く。
「だったら訊くべきだった。まさかあんた、その歳にもなって、相手が言ってくれないからあたし知らなかったんだ、なんてシラ切るつもりじゃねえだろうな」
 真っ青になる麻衣子。そんなこと思いつきもしなかった。
「今村のこった、逢ったその日にプロポーズしただろうが。あんたには、断るチャンスがいくらでもあったはずだ。抱かれた後でもな。今村は断られりゃ素直に引くさ。それともあんたんち、厳重に鍵が掛けられていたか」
 弱く首を横に振る麻衣子。
「今村はあんたに選ばせたんだ。いつかは知らねえが、多分籍を入れるまで。そして式を挙げるまで。逢ってから、時間があった。そうだろう。その間、たっぷり考える時間もあったはずだ。違うか」
「……ちがい、ません……」
「はっきり口に出して言われなくても知っていた。知らされてもなお、あんたはそうやって、結婚指輪を填めている。なぜだ」
 はっとして、左手薬指に触れた。
「今村はあんたの質問を拒否したことあっか」
 なんでも言え、全部答える。
「……いいえ」
「今村はあんたに普段、いや、いつもなんて言っている」
 前に訊かれたこと。忘れることなど一生出来ない言葉。
「……麻衣、愛してる……」
「他には」
「飯は……」
「他には」
「風邪、引いてないか、具合は、気分は、……」
「他にもあるな」
「……俺のそばにいろ……」
「全部言えよ」
「一生、俺のそばに……なにがあっても、誰になにを言われても、……麻衣がそばにいないなら、もうなにもしない……」
「それにあんたはどう答えた。どう答えている。どう想っている」
「……だいすき……まさと……あいしてる……しぬまでそばにいる……」
「なのに別れるってか」
「……」
 下を向く麻衣子の胸元を、マスターはぐいっと掴んだ。
「え!?」
 いくらなんでも驚く。瞠目する。まさか、こんな優しげな人が暴力!?
 明らかに喧嘩を売られていた。男が男にすべきそれを、か弱い麻衣子に。
「あんたどこの最低女だ!!」
 直近で。つばを飛ばされる勢いで大声で。怒声、脅し。脅迫。恫喝。女が最も恐れるもの。
「式でなんと誓った」
 言葉が出ない。がたがた震える。
「俺も誓ったよカミさんに、病めるときも健やかなるときも永遠に愛しますってな! 誓ってそれか! どこの最低女だ!!」
 涙も出なかった。
 突然、掴まれた胸ぐらを離された。自然椅子に座る。この事態がなんだか分からない。
「四月二十一日午後十一時、今村から電話が入った。相談があるとよ。あいつは東大、ライセンスまで持っていて、女関係は全部やっている。茶もコーヒーも淹れ方はとっくに教えた、俺が聞けることなんてあるわけねえとすぐ思った。だがこんな時間にダチから入電、断れるわけねえだろ。閉めた店開けて、待ったよ。
 まずは開口一番、昇進したと言われた。そりゃすげえなおめでとうとは言ったが、本題じゃねえことは明らかだった。訊いたさ、どうしたのかってな。
 四月一日から女断ったとよ。信じられなかった。
 あんた、今はともかく幸せの絶頂って想った時、半年もあいつに逢えねえ声聞けねえって、出来たか」
 もっとゆっくり、麻衣子は首を横に振った。
「とにかく、なんでだと訊くと。今日初めて分かったんだが、その日からずっと頭を離れねえ娘っこと、今日初めて会社で逢えなくて、そういや昇進しちまってこれからもそうで、そうと分かって、それでうろたえてここにいるんだと。
 娘っこって誰だか分かるな」
 確かに、初めてのあの日、そんなふうなことは言われた。
「すぐにピンと来たさ。で、言ったよ。
 恋には終わりがあるぜ」
 麻衣子は、聞かなければならなかった。
「俺が初恋を終わらせたのは俺の女房、カミさんに逢えてようやっと。延々十年も掛かってだった。だから言った。
 必ず終わらせなきゃならないんだ。もう、彼女を見てはいけない。逢ってもいけない。関わってもいけない。出来るか。
 今村は即答した。出来ないと。俺は言った、それが恋だと」
 麻衣子に恋をしていたのだと知った。
 あんな、恋愛にとことん慣れていそうな人が。愛ではなく、恋と言った。十代の若者が使うような淡い言葉を、あんな人が。
「すぐにあんたに逢いに行け、連絡しろと言った。あいつはすぐ出て行ったさ。どんなツラだったか見せてやりてえよ」
 なにも言うことが出来なかった。
「言っとくけどな。今村は腐るほど女抱いて来たが、避妊具を着けなかったことは一度もねえ。誰の中も知らねえよ。あんた避妊されたことあっか」
 麻衣子は力弱く首を横に振った。
「あんただけなんだよ」
「でも!!」
 麻衣子は立ち上がった。
「私……欠陥人間です!! なにもいいとこありません!! 根性なしで」
「そうみてえだな」
「なんの取り柄もなくて」
「みてえだな」
「それの、どこがいいんですか!?」
「バカかあんた。悪いとこ好きになっちゃいけねえのかよ」
「……え?」
「いいとこばっか見ろってか? 違うだろ。悪いとこも知って、それでも惚れる。そっちの方が凄え。違うか」
「……」
「でなきゃ結婚なんかしねえよ」
「……私……」
「なんだよ」
「なにも、……突出した、分野とか、ない……」
「だからバカなんだよあんた。じゃあなんだ、恋するのに相手は世界一でなきゃだめなのか?」
「え……」
「俺のカミさんは美人だが、上はいるさ。でもまあ、俺にとっちゃ世界一の美人だけどな。
 そんなもんだ。恋すりゃ相手は世界一だ。今村にとってあんたがそうだ」
「……」
「あんたさあ。昔を聞いたって、ひょっとして今村本人からじゃねえだろ」
「……」
「随分あくどいこと吹聴されちまったようだなあ」
「……でも、……あの人は、おおむねその通りだって……」
「おおむねだろ。全部じゃねえ。聞く限り、随分悪意を持って吹聴されたな。ちなみに誰だ」
「……ふじむらさんって……」
「ハァ、あの男か」
「知ってるんですか?」
「知ってる、ここによく来る。好いた女がいるくせに、何人もの別な女と付き合っている。よくここで口説いてるよ」
「……」
「男はみんなバカだ。悪いけどさ、そんなもん。
 それでもいいって想ったんだろ。
 それともあんた。今村が、これから、また昔みてえなご乱行してもいいっていうのか」
 これも前に訊かれたこと。
「いやだろ。もう、あんたにも芽生えているはずだ。独占欲ってやつ。誰にも見せたくねえ。誰も見るな。自分だけを見ろ。自分だけを愛してくれ。そうだな」
 その通りだった。
「確かに今村の昔は酷かった。だがな。
 あいつの過去は要らねえのか」
「……」
「他の女のもののままでいいのかよ」
「……よく、ないです……」
「だったら帰るんだ。タクシーで真っ直ぐ、あとは自分で考えな」
 マスターが店の扉を開けてくれた。からんと音がした。外にはあの黒塗りがあった。初老の男性は無言でドアを開けていた。
 麻衣子は、そういえばと思って後ろを振り返った。
「あの! あの……ありがとうございました!」
 想いの限り、頭を下げた。
「応。ツケ返すの忘れるなよ」
「はい!!」
 麻衣子は涙を滲ませて、躊躇いなく車に乗った。後は目をつむって、言われた通り考えた。
 とうの昔に持っていかれた心。引き裂きたい、そうしろと言われたのに。
 出来るかなんて……そんなこと。
 家に帰ると、予想通りというか、お腹が鳴った。ぐー、だって。やだな……。
 とことこキッチンへ歩く。鍋に二つおかずが。冷蔵庫を見る。サラダとドレッシング、お鉢、デザート、おやつが二つずつ。二食分。時間は午後二時。
 どっちのお鍋にしようか。てきとうに決めた。あとは温めて。お味噌汁も温めて。
 ぱっくり食べた。美味しかった。
 歯を磨き、体重を量ってそこらにメモした。
 今は、他になにもする気がない。ひとつだけ、ただひとつだけ。今は電話もメールも受けたくない、したくなかった。考えなきゃいけないから。
 くるまる用のおふとんを被って、ソファに座る。うとうともせず考えた。ない頭で考えた。今だけは無駄ではなかった。
 目をつむって考え続けると、ひとつ思いついた。
「あ、おやつ!」
 時間を見ると五時。我ながら、意外と集中したなと思う。シュークリームを。
 これに日本茶って合わないんだけど、コーヒーも紅茶も淹れられないし……
 牛乳とかジュースとかにすりゃいいだけである。
 麻衣子はまたまた考えるため、歯を磨いて体重を量ったあとソファでふとんを被った。しかし、一見、というか誰の目にも、ただぼーっとしているようにしか見えなかった。
 おやつの前にあらかた考えおえたし、一息ついてから夕飯にする。鍋と冷蔵庫の皿を全部空け、食器はその辺に転がし、歯を磨いてお風呂。
 初めて着せてもらった、白い綿のパジャマを着る。
 そういえばこれって結構布が薄いから、夏用なんだなと想う。逢ったのは九月初め、まだ夏と言っていい。
 髪の毛を乾かし、梳いて、化粧液を施す。あとは居間に戻った。
 とくとく心臓が鳴っている。これは、一旦意識すると止まらない。
 とくとく。とくとく。
 ふと、左手の袖を見る。おっきい。折らないと腕時計が見えない。その先の薬指。
 二つ共に、落とされたくちびる。
 さらにとくとくが増した。
 こんな風に待つのは、呼ばれたあの日以来じゃないかな。
 麻衣子はそう想った。あの日はほんとに緊張した。がちがちに固まったっけ……
 目をつむって待った。
 どれだけ経ったか分からない。
 静かに、ドアが開く音がした。もう、時計は見なかった。
 駆け寄ると、つま先立ち、政人の首に腕を回して自分からキスをした。とはいってもなにせまぐろ、ただくちびるを合わせただけ。
 これがあの麻衣子の、おばかな能力なしの、考えた全て。
 くちびるを離すと、政人の表情は、今まで見たことのないものだった。
「もう一度」
「え……」
「麻衣。もう一度」
 麻衣子は恥じらって下を向いた。いまので精一杯、自分の限界。それがもう一度なんて。
「麻衣」
 政人は恭しく、優しく麻衣子のほほに手を添える。あの日のように。顔を上向かせ、視線を合わせる。
「麻衣。もう一度」
 政人はその表情のまま、ゆっくり目を閉じた。あとは、麻衣子の意一つ。
 麻衣子も目を閉じた。
 ふたたび二人の陰が重なると、麻衣子は恥じらってすぐに離した。政人は再びもう一度と言って、結局それが何度も続いて。
「許しを得られた、ということでいいか」
「……」
 ずるいと思う。そんな顔、絶対他で見せて欲しくない。
 独占欲と同時に、やっかいな病気にも罹る。逢いたい病。逃れられはしない恋の病。
「……もうしないで」
「許して貰ったな」
 後はいつもの、大人の情熱的な激しいキス。それからそこで、あとは寝室で……