16

 政人の友人として呼ばれた中に、二人だけ、麻衣子は知人を見つけた。その内の一人、喫茶井上のマスター。
「よう、お客さん。おめでとう」
 差し出された名刺で、麻衣子はやっとこの男のフルネームを知った。
「あ、ありがとうございます」
 もう何百回目か分からないけれど、一回ごとに心を込めて。
「今村も俺んち来いよ。夫婦仲良く売り上げに協力してくれ」
「分かった」
 もう一人はあの悪友。マスターの隣に座っていた。
「ハーイ花嫁さん、お疲れー」
 悪友も名刺を渡した。この男はサラリーマンをやったことがなく、そういったものを作ったことはなかったが、今日のために生涯一枚ぽっきり作って麻衣子に渡した。
「あ、ありがとうございます」
「確か家、パリだっけ? 寄る用事あるからさ、飯こさえに行くぜー」
 この言葉に、周囲の客全てが驚きざわめき、また、嫉妬の目を向けた者すらいたことを、麻衣子は知らない。この男の腕は、もはやこの国内には留まらないから。誰にどんな大金を積まれても、あの宿で板場に立つことすら稀なのに。
「あ、お、お願いします」
「ムラ。今日は目方をビタ1gも落とさないでやるぜ。有り難く思えよなー」
 ムラとは今村、政人のことを言うらしい。
「ありがとう」
 その頃最末席の椎名はいやな予感がしまくっていた。席を立たなくてはいけない、今すぐ。
 さっそく実行すると、誰かが彼女の両肩に手を置いた。
「え?」
 振り向くとそこには、呼ばれたこの場の政治家の中で、最も上の肩書きを持つ、目もくらむような古狸が。新聞テレビでこの国の誰もが知る人物だった。
「座りなさい」
 テレビから流れる声そのままだった。その、思いのほか力強い手に押され、椎名は無言で着席させられた。
「今村は貴女が主賓と言った」
「主賓は……不破社長、が……」
「新郎新婦から一人ずつだ」
 主賓とは正客。出席者の中で一番おもだつ客。新郎新婦をよく知る人で、上司、恩師、恩人がなることが多い。
「今村はこの席を一番と思っている。見なさい」
 そう、今村夫婦はこの席を一番最後としてキャンドルを持って回っている。それは、椎名にも、いやな予感とともに分かっていた。
「貴女が一番の功労者であることは、この場の誰もが知っている」
 正確に言えば、麻衣子の客を除き。
「今村はもうすぐ三十になるというのにあの通り。まさか血を絶やしはしないだろうな。誰もがそう思っていた。
 あの娘では荷が勝ち過ぎるが、それでも選んだ。貴女のお陰だ」
「違い、ます……」
「会社に戻ったら七百通のメールが入っている。全てに返事をしなさい。貴女の出世の役に立つ」
 名状し難いほどの複雑な、空恐ろしいほどの複数の事態が、椎名を襲っていることを、ようやく彼女は自覚した。
 果たして今村の男女はやって来る。たった一人を除き全てを終え。
「主任……」
 麻衣子は、今日のこの晴れの舞台、一度も泣かなかった。なのに椎名の顔を見た途端に涙が溢れた。政人は止めることも、舐めとることもしなかった。
 誰もが椎名を注視する。花嫁を泣かせられる唯一の人物と、七百数十対の視線に刺されれば、いかな椎名とて正常心ではいられない。だが目の前の、頼りない、華奢な元部下は、狼狽する椎名など知らない。今までで一番、心を奮い立たせて、起立し、胸を張り、椎名は言った。
「おめでとう、今村夫人。よかったわね。今村専務、あとをよろしくお願いします」
「最高の祝辞です、椎名係長」
 会社に帰ったら。いえあの時、今村の男に昇進を伝えられた時、すでに人生が変わっていたのだと、椎名は心の底から痛感した。
 最上席への挨拶をおえると、政人はもう待ってはいられなかった。友人にトーチを預け、麻衣子を恭しく、優しく抱き上げる。麻衣子は残された気力で政人の首に腕を回した。一言囁いて、あとはもう、眠ってしまった。
 政人の友人知人に下らない余興をする趣味のある者はいなかったし、麻衣子側の客は萎縮しまくってその余裕がなかった。
 両親への花束贈呈は全て政人がやった。麻衣子は高砂の席でくーくー眠っていた。
 両家の代表、今村将が謝辞を述べる。新郎新婦の謝辞はもちろん政人。よくぞ麻衣子を生み育ててくれました、ありがとうございますと。
 長い長い披露宴もお開きとなり、出口に並んで客を見送り、引き出物を贈る新郎新婦と両親。麻衣子は眠ったまま政人に抱き上げられて。
 政人側の客は異口同音に、花嫁にお疲れさまと言ってくれ、今夜はほどほどにしておけよ、後でもっと詳しいなれ初めと、本当の所を聞かせてくれと言った。麻衣子側の客はこのくらい時間が経過してやっと体がこなれて来て、政人に会うのもこれがラストチャンスとやっと分かって、みんな政人の姿を携帯に収めていた。
 全てがおわった時、時間はもう夜だった。
 二次会はなし。政人はもう、最初から決めていた。ここまで体力なしと知らない前から。
 恋を自覚したあの時から。
 今村の男女は、日本一のホテルのロイヤルスイートに、そのままの姿で向かった。服を脱がせ、髪を戻し、化粧を落とすなら政人でも出来るから。
 ただ、この衣装を麻衣子が纏うのはこれが最初で最後。政人は麻衣子の一言一句、そのあらゆる姿を一瞬でも見聞きすれば忘れることなどしないし出来ないが、それでも、一秒でも長く見ていたかった。
 けれどその衣装が麻衣子を締め、その化粧が麻衣子の肌呼吸を妨げ、その髪が麻衣子に重くのしかかっている。よくよく目に焼き付け、あとは戒めを解いた。
 今が新婚初夜。だが、政人は麻衣子を起こす気はなかった。なくなった。疲れ果て、疲労困憊で眠り込む麻衣子。悪友の助力がなければさて何キロ落としたか。また三十キロ台へ逆戻りは間違いなかった。
 豪奢な寝台へ麻衣子を横たえる。これだけは、と思って首筋の刻印へ舌を這わせ、吸う。麻衣子はうーん、と反応した。
 当初の、月曜の朝出社させて所有されたと見せつける作戦は不発におわったが、それも今日で挽回。麻衣子は未だキスマークの意味も知らず、白無垢・色打ち掛けから首筋の刻印を隠すこともせず全員に見せて回った。政人の男心は大いに充たされた。
 今日はそれでいいと思う。
「ん……」
 麻衣子の体中をマッサージしてやる。想わずキスを落としそうになったが、自制した。
 その後じっと見ていると、百面相とは言わないが七変化な寝相。
 うとうとする時ふとんにくるませているが、この分ではふとんを蹴飛ばしているのでは……
 恋を自覚した四月二十一日、深夜。即座に麻衣子のアパートへ行ったはいいものの、時間が遅すぎて。当然のごとく明かりは消えていた。叩き起こすなど出来なかった。
 本来であれば翌早朝出国しなくてはならなかったが、無理を言って、言い訳を重ねて夜八時にフライトとさせた。このために、会社の経費から出る一般ジャンボのファーストクラスをキャンセルし、今村本家のプライベートジェットを出させた。本家を出た四月頭からずっと、使用人もなにも連れず、一人で生活して来た政人にとっては、高過ぎるプライドを曲げてのこと。
 言い訳したために作ってしまった仕事の前に、やらなくてはいけないことがあった。死ぬほどありがたく思っている人事部長に電話を入れる。朝八時にそちらの執務室へ行くと。
「こちらにですか? いえ、私が」
「そちらに呼んで欲しい人物がいる」
 政人は時間丁度にその部屋の扉を開けた。室内には二人。部屋の主の人事部長と、会社の都合だけで契約延長させられ続けて来た当時は契約社員、椎名玲。
 人事部長はすぐさま自室を出た。政人が室内の応接間の上座に座る。
「こちらへ」
 椎名は、人事部席の前で起立したままだった。
「ご用件は」
 椎名は、正社員でもないのにこの部屋に何度も来させられていた。ここで契約更改させられていた。そろそろこの会社も潮時か、と思っていた所だった。出勤前とはいえ呼ばれたのは残念ながらいつもの部屋。それで来てしまった。
「本日付けで正社員登用、同時に庶務一課主任を命ずる」
「お断りします」
「中川麻衣子を守れ」
 椎名は社内で勤務する人間のおおよそは知っている、政人のそれも。だから、もし今村課長室になど呼ばれれば即座に辞めていただろう。
「理由を」
 社内の個人データのおおよそを知っている椎名でも、麻衣子と政人の接点など見いだせなかった。あの女癖の政人。入社したばかりの麻衣子。
 しかし、守れというならもしかして……
「私は麻衣子に恋をしている」
「承知しました。任務遂行のため、情報を」
 全ての情報は口答で一度だけ伝えられた。椎名が部屋を出て行くと、人事部長が入室して来る。政人は、元庶務一課主任のクビを飛ばすと自分の執務室へ向かった。麻衣子に逢うことだけ考えて。
 昼の時間となり、いくら政人でも食事はする。そんな時、携帯のランプが点滅する。このパターンは椎名からのもの。早速? だが。
 メールだった。題名は「心置きなく出国して下さい」内容は文章なし、添付ファイルが二通。
 予感に心臓をどくどくさせ、開けた。
 一通目の麻衣子は緊張していた。誰が見てもそうだった。何故自分を撮るの? そう言っていた。
 二通ある。とすれば一体どんなものが……
 二通目は、多少ぎこちなくではあったものの、拙くではあったものの、笑っていた。笑顔だった。
 初めての笑顔だった。
 政人は、いや麻衣子も、以降椎名に全幅の信頼を寄せることになる。
 とはいえこのまま出国など出来はしない。夜七時、麻衣子のアパートへ。今度は明かりが点いていた。ほっとした。
 壁だろうがカーテンだろうがガラスだろうが何枚隔てられても気配で分かった。……眠っている?
 この機会を逃せば何ヶ月もここに来られない。たまらなくて呼び鈴を鳴らす。起きてくれ、麻衣子。
 それにしてもまさか七時にとは。もっと早く来たかったが、今日だけは、政人をしてこれが限界だった。
 起きる気配はない。もう一度押してみた。だが変わらず。ドアを叩き壊せば誰でも不審がる、それも出来ない。
 携帯も、麻衣子の番号などとっくに知っていたが、掛けても見知らぬ番号になど出ないのは当然。現代の利器はこういう時役に立たない。それでも、政人は何度か麻衣子の携帯に電話していた。気まぐれでも間違いでもいい、出てくれと。
 何度も同じ番号が表示されたら気味悪がられる。だから、何度か目からはもう出来なくなった。
 出国後は何ヶ月も帰国出来ない、同じ空気さえ吸えない仕事漬けの毎日。政人が待っていたのは、椎名からの報告だけだった。
「本日も定刻に出社しました」
「様子は」
「残念ながら本日も、イージーミスの連続です」
「叱っているのか」
「いいえ、私は」
「止めろ」
「単純作業しかさせていません。出来なければある程度はやむを得ません、お分かりでしょう?」
 それは分かっていた。
「写真を贈ります、お改め下さい」
「ありがとう」
 贈られて来る麻衣子の、携帯で撮られた写真。暇さえあれば眺めていた、と言いたい所だが暇がない。
 友人達が、執務室にやって来る。
「おい、いい加減教えろよ、誰なのか」
 五月に入った。一ヶ月も女が切れるなど、今村の男なら聖域を見つけたと大仰に言っているようなもの。
「忙しい」
「と言って零時回ったら女遊びを欠かしたことのないお前がか? 俺に嘘吐くなよ」
「この会社の惨状は、多少は知っているな」
「多少? 俺を誰だと思っている、全部だ」
「だから仕事だ。一週間で三時間だ」
 睡眠時間が。
「その三時間のうち女遊びが一時間で、体を鍛えるのも一時間で、残りの一時間で睡眠がお前だろ」
「忙しい」
「……まあいい、だったら調べてやる。手ぇ出してやっからな」
「忙しい」
「後悔するぜ。見てろよ」
 その実態は、当人すら麻衣子に逢っていない。
 ほどなくして、友人達の反応はこうなった。
「お手上げだ。さすが今村、この通りだ。という訳で教えてくれ」
「手を出す予定は」
 政人自身を、ではなく、かよわき聖域の方を卑怯にも付け狙うなどしたら最期、命はない。誰もがかよわき聖域を持っている、他者のそれを奪えば自分のそれも奪われる。
 それを分かっていて、手を出すと言うとはな。政人はまさか友人知人を睨むなどしないが。
「悪かったって、本気じゃねえよ。こっちにもいるんだ、お前を差し置いて聖域に手は出さない、絶対の鉄則だ。だから教えてくれよ」
「忙しい」
「こんなに下手に出てやってんのにかよ!」
「忙しい」
「……分かった。そこまで言うなら、言える時期になったら俺に一番に教えろよ」
「忙しい」
「……このヤロー……」
 言い訳しか出来ない政人。当人曰くの通り、心の中は逢いたい、その一心。声すら聞けず。気が狂いそうだった。
 六月、日本時間月曜午前九時半。いつもの電話がやって来る。
「本日も定刻に出社しました」
「様子は」
「少々お待ち下さい」
 いつもと反応が違う。
「中川さん、ちょっと」
 椎名はこの電話ではなく、別の方向に向かって言っている。政人の心臓は、まるで地獄から天国へ一気に駆け昇るかのように破裂した。
「この電話機に向かって、お疲れさまって言ってご覧なさい?」
 壊れた心臓がうるさくて、次に聞こえるだろう福音を聞き取れなかったらどうしようかと思った。
「え? えーっと。あの。……お疲れさま?」
 椎名は、はいありがとう、席に戻ってねと言っていたようだったが、政人は拙いこの言葉以外その日、誰の声も覚えていない。
 七月、ようやっと政人は一時帰国する。だがこの時期はもはや、あらゆる友人知人の誰の目にも「見つけたが、隠している」と思われていたために、聖域に逢いに帰国したと見抜かれていた。なにせ女遊びが止んだ四月一日は日本にいたのだ。だったらお相手は日本人。そう思うのが当然である。
 誰にどう思われても、もうどうでもよかった。いずれ知られることだ。
 椎名に電話する。
「今日午後四時半、そちらのフロアへ」
「まさか直接ですか? お止め下さい」
「何故」
「あの子は人の目のある社内恋愛には向いていません」
「連れ帰る」
「出社出来ません」
「今村の女は」
「それは知っています。しかし、まだ再生プロジェクト進行中のはずです。あと二ヶ月は掛かるのでしょう? その間、独りですか」
 ぐうの音も出なかった。まず、仕事場の国に連れてもいいが前述の通りの忙しさ。本家に連れ帰る手もあるが、あの父母である。世慣れない麻衣子にいきなりあれはない。使用人とだけ話をさせるという手もあるが、いずれ孤独を感じるだろう。
 そして、逢う時間、プロポーズする時間はあるが、時間内に返事を貰えるかどうか。元々帰国しなくてもいい所を無理矢理である、四時半には行けても六時半には出国しなくてはならない。
「あの子はあなたを知りません。教えるにしても、業績はともかくその酷い女癖を私にどう説明させよと?」
 問題はまだある。椎名の口から政人の輝かしい業績だけを上手く説明させるのはいいとして、他者から政人のいかがわしい女癖を好き放題耳に入れられたら。その可能性の方が高いのだ。
「以上をもちまして、短時間では色よい返事は得られません。出来れば帰国自体なしにして下さい」
「無理だ」
「ですがまだ時期では」
 誰にどう言われても、麻衣子のフロアに足を向けずにはいられなかった。ここで藤村に見抜かれる。
 その時の麻衣子は、またしても下を向き、暇さえあれば叱られていた。政人が入室して来たということで、藤村はもちろん、フロア中の誰もが政人を意識する中、麻衣子だけはこちらを見ない。
 二時間あるが、二時間たっぷりこのフロアにいて、二時間たっぷり麻衣子を見つめることは出来ない。視線を流せたのはわずか一瞬。実物を目に焼き付け、あとは躊躇いなくフロアを出た。すぐに椎名に電話する。
「出国前にアパートに寄る。定時に直帰させろ」
 こうなったら、返事を貰えなくてもいい。とにかく直接逢って知ってもらいたい。
「……しかし」
 椎名をなんとか納得させ、カモフラージュに別なフロアにも寄り、あとは執務室に戻った。
 時間から言ってこの二人、アパートのじきそばで鉢合わせするかもしれなかった。もしそうだったら麻衣子は即今村家、または本家どちらかに監禁されていた。
 だがその日の麻衣子はなぜか、いつも行くスーパーに寄らなかった。単純作業しかやることはない、だから政人が思った以上に早く帰宅した。
 政人はというと、自分が作った用事なのだから全てこなさなくてはならなかった。手間取りはしなかったが、帰国する相当の理由だと言って作った仕事である。早々に会社を後にするなど出来なかった。だから政人の方が遅れて麻衣子のアパートに到着した。
 その頃麻衣子はシャワーを浴びていた。政人は薄いドア越しに、水が流れる音、浴びる音を聞いた時、はっきり勃った。喉が鳴る。
 鍛え上げた腕力で、こんな薄壁今度こそ、今すぐ叩き壊して侵入し、襲いたい。どれだけそうしようかと思ったことか。しかしそれをやったら最悪麻衣子に嫌われる。へたに鍛えていたことが仇となり。今呼び鈴を鳴らしても出るわけがない、むしろ警戒されてしまう。
 今、こんなボロい壁一枚向こうで、顔すら見たくて仕方がないのに、さらには一糸纏わぬ無防備な全裸の麻衣子がすぐそこにいる。焦燥の想いで、音が止むのを待った。
 タイミングを計って、はやる気持ちを抑えてベルを押す。時間は刻々と迫っている。今度は最初からプライベートジェットを予定してある、時間がない。
 出ろ麻衣子。出ろ。
 麻衣子は出なかった。
 なぜあのドアを叩き壊さなかったのか。自分を慰めながら、機内で一生分後悔した。
 八月。写真は溜まるが直接逢えず、声も聞けず、友人知人はうるさい、仕事は佳境。いつ狂ってもおかしくない政人の心をつなぎ止めているのは、椎名からの電話とメール。
「本日も定刻に出社しました」
「私の電話番号を伝えて欲しい」
「番号と名前と業績だけ、ですか」
「そうだ」
 こうなったら声だけだが、電話で口説いてやろうと思っていた。それでも落ちた女など腐るほどいる。
「なぜ自分にそのような情報を伝えるのか。そう訊かれたら、どのように返答すればよろしいですか」
「気があると」
「あの子は自分に自信のない子です。あなたほどの人物の情報を、なぜ自分にと、にわかには信じません」
「お願いする」
「あの子があなたの女癖をすでに耳にしていたら? 口先だけでは信じません」
「調べて欲しい」
「承知しました」
 ほどなく電話は鳴る。
「知らないようでしたので、名は伏せ、業者の担当者ということにして番号を伝えました。後はお願いします」
「ありがとう」
 今度こそと思って電話しても、麻衣子は一向に電話に出なかった。現代の利器の悪点。たまらず椎名に電話する。
「電話に出ん。私の名を伝えろ。知らんのなら肩書きは言うな」
「承知しました」
 だが麻衣子にとっては、肩書きなしなら業者と大して変わらない。要するに、椎名に言われても登録するのを忘れていたのだ。元より高まるプレッシャーとストレス。知らない番号が会社でも自宅でも鳴る。麻衣子はそれを不気味がり、むしろ椎名に相談して来た。
 椎名としては、喉のここまで、貴女は今村課長というとんでもない人に見初められたのよ、だから出なさい、電話を掛けなさいと言いたかったが、いつ麻衣子があの女癖を耳にするか、しているかはいちいち訊き出さねば分からない。毎度訊いては麻衣子に不審がられる。それに、上司が部下の写真を毎度社内でアップで撮るのもおかしな話。椎名は、電話は逆効果、お止め下さい、出来れば麻衣子へは直接逢った後別な番号で。写真も毎度は撮れません、としか言えなくなった。
 うるさい友人達が執務室にやって来る。
「で、どっちのフロアの女だ?」
「忙しい」
「そういうこと言うんなら、今から日本へ行って手当たり次第口説きまくってやるが?」
「忙しい。今が佳境だ」
「ふーん。じゃあ電話でセックスか? それじゃ足りないよな。もう連れ込んでいるのか?」
「忙しい」
「よーし分かった、ちょっと今からお前の体液を調べてやる。すぐ外に女いるからやれ」
「忙しい」
「……待てよ。この五ヶ月、お前どうやって抜いてんの?」
「忙しい」
「って……今村ともあろう男がまさか自分で?」
「忙しい」
「そうだよな、有り得ないよな……ってことは、やっぱ女食ってんだな、それまで秘密主義になったのか? お前女は常にオープン主義じゃん。撤回したのか?」
「忙しい」
「うわ……遊びまで隠すのか……お前、どうしたんだ?」
 やっと会社を軌道に乗せ、待ちに待った帰国日、あの九月第一週金曜日、朝七時。プロジェクトを終えたことで、ビル一階受付フロアでこんな早朝から早速政人を取り囲む社員達。それらから報告を受け、指示命令を出していた政人の元に、ひとりの女性社員が寄って来た。麻衣子だった。
 そうと気付いた時に、政人の心臓はまた駈けた。これまでがなければ社員達の声が耳に届かぬほど。
 恋を自覚し五ヶ月間。一度だけ姿を目に収めた七月、あれからも二ヶ月経っている。写真は途絶えたまま。なのにこれはなんの奇跡かと、政人は思った。もし周りに人がいなければ、この瞬間に政人は麻衣子を抱き上げ自宅に連れ帰っていた。
 一見、なんの気なにし社員とやりとりしながら。それでも麻衣子は確実に、政人を目掛けてやって来る。
 やはり俺を知っていたのか。耳にしたのか。だからか。お前も俺を……想って……
「おはようございます」
 それだけで、麻衣子は去って行った。
 その後政人がやったことと言えば、週末の休みを取るため猛烈に仕事をすることだった。なにせこの五ヶ月間休みなし、会社の惨状を救ったこともあり、社長からもそろそろ休みたまえと言われていた。渡りに船である。
 待ってろ麻衣子。今日お前をものにする。
 間違っても出向いた時、社外に用事で出掛けられてはたまらない。椎名へ電話。
「今日午後三時過ぎ、そちらのフロアへ」
「退社後向かわせます」
 やっと待ち望んだ言葉が聞けた。もう障害はない。だが。
「待てん、そちらへ行く」
「お待ちしております」
 時刻となって、躊躇いなく執務室を出た。向かうはあのフロア。途中、奇異の目で政人を見る社員達。
 扉を開けてすぐ麻衣子の元に行ったらいくらなんでも下心がばればれ。それでもいいが、政人の方からここへ来てしまった以上、麻衣子は最低一回はここに戻る必要がある、その時煩い社員にたかられては麻衣子が可哀想だ。だから、麻衣子に誰かがからんでいると見えてもすぐ助けに行くことは出来なかった。椎名の元へ。
「あちらに」
 それだけ。言われなくても分かっていたし、言う前から分かっているだろうと思われていたが、どうしても必要な、意味のない会話だった。
 それから麻衣子に。この会社に制服はない、あの朝の服のままの後ろ姿に。
 本当は、その細い腰に手を回すつもりだったがこれまた下心、そこは回避。ひたすら麻衣子のために、自分の恋心を周りに悟られるわけにはいかない、仕方なく肩に手を置く。まさか肩叩きなぞ思われないようにして。
 当時から、顔を見たらその場で押し倒す自信があった。だから顔は見ないように。
 上手く言って連れ出す。さっさとこんなフロアを離れる。それでも身長差がある、麻衣子に合わせてゆっくり歩いた。心では、すぐに執務室へ抱き上げて行きたいのを抑えて。背後に、緊張の風を纏った恋する人の気配を感じながら。もう、とっくに幸せだった。
 専用エレベーター内で二人っきりになる。麻衣子は、ずっと見ていた通り下を向いたまま。緊張して、こちらを見ない。
 どんな処女でもがばがば女でも、政人の前に出ればうっとり見上げた。それすらなく、むしろこんな狭い空間で、出来る限り距離を取りたい、そう全身で言っている。
 俺を知らないのか。いや、女癖だけ聞いたのか。
 仕事姿を見せること。ドジを直接見ること。名刺を渡すこと。フリだけだが携帯の番号を訊くこと。これらさえこなせばよかった。もう麻衣子は俺のものだ。決して離しはしない。
 執務室に初めてペーペーを呼んだことで、いよいよ露見するだろうが、いずれ知られること。今日ものにする、問い合わせが来たら今度こそ堂々と言えばいい。ただし、この週末は誰の電話にも出ないが。
 麻衣子はこの後、心ない社員どもに問い質されるだろう。それは止められない。椎名にまた助力を仰ぐしかない。
 麻衣子を心ならずも職場に戻し、あとは窓に寄ってビルの外をひたすら見た。麻衣子の姿が見えたらその時即電話しようと。
 今度こそ出てくれ、麻衣子。
 出なかったら今度こそ、あのアパートのドアを叩き壊した。
 電話する。携帯の音が、そら恐ろしく心もとなく感じる。出ろ、出ろ麻衣子。
「はい、麻衣子です」
 あの週末が政人にとっては久々の休日。周囲は聖域にこの時逢っていると分かっていたので、それが麻衣子だと確定出来た。よってあの週末は遠慮した。だから翌月曜、出社した政人への問い合わせはそれはすごかった。だが実態はあの通り。その日、別なペーペーが政人の執務室に入室したという。この際藤村は除外される。だったら上條が? ということになった。しかも上條はこの後も立て続けに二度入室している。ということは、女遊び再開か? と誰もが思った。だから、友人達が政人の聖域の情報を確定出来たのは籍を入れたあの日だった。記録がきちんと残されたから。
 ちなみに言うと、上條と藤村が政人の執務室で受けた電話は全て政人の聖域に関する質問だった。中には当然、君がそうなのかという内容もあったが、会話が成立しなかった。それで「電話番は最低だな」と言われたのだ。
 麻衣子の七変化な寝相を見ていた政人はたまらなくなり、後ろから抱き寄せ、ふとんを被り、目を閉じた。
 そのつもりだったが、衛星電話のランプが灯る。このパターンは本家からの直通電話。
 こんな時間に。今日この日に。
 政人の両親からなど出たくはないが、この間大きな借りを作ってしまった。仕方なく出る。
「最中か」
 まただ。第一声はこれしか言わない。声も似ているなと政人は苦々しく思う。
「違います」
「何故犯らん」
「麻衣は疲れ切っています。そう見えませんでしたか」
「ああ、確かに」
「中川の両親をお願いします。借りは返しました」
「待て。お前、ただのジャンボなぞに乗せると聞いたぞ」
「麻衣は国外線に乗ったことがありません、ですから」
「だからお前は馬鹿者と言われる。機内で犯れ」
 それで切れた。変更されたか。