15

 椎名には立場がある、早退ではなく私用外出としていたので職場に戻った。ペーペー二人は分厚い扉の先で今村の男女を守った。三時間後、その場を離れる。今村の男女は離れはしなかった。
 結婚式二日前まで、麻衣子は夫の膝を枕として過ごした。問題は藤村指摘の通り排泄だったが、そこは政人がなんとかした。発覚するわけにはいかないので、食事は一人分を均等に分けた。麻衣子の体重は確実に減った。
 後日、上條は言った。
「あんなのジョーダンよ」
 藤村が返す、
「どこまで本気なんだか」
 麻衣子を引き取る為、立場のある、と周囲に思わせ椎名が初めて今村課長室に入室した。藤村曰くスーパー切れ者達は誰も椎名に妬かなかった。
 麻衣子は椎名に付き添われ、守られて、久々だった前職場を後にする。執務室から専用エレベーターで役員専用駐車場へ向かったので誰の目にも触れなかった。そこからリムジンで自宅マンションへ。そこには連絡を受けた中川父母が待っていた。あとは三人でマンション最上階へ向かった。
 中川父母の荷物は多かった。麻衣子は、この二人がいると言ったら結婚式当日までだと思っていたのだが。
 まず母からは、
「家に食べ物なにもないって婿さんに聞いたから、買っといたよ」
 と、スーパーからであろう買い物袋三つを見せられ、父からは、
「婿さんから、結婚式おわったら東京見物したらどうだって言われてな。お前だづが旅行さ行ってる間家さ泊まるぞ」
 と言われた。持っている荷物は二・三日分だけではない着物の着替えのようだ。
 中川父母は、すでにエントランス内でその豪奢さに目をむいた。つい口をぽっかーんと開けていた中川父母、またも娘にゆり起こされて意識を戻す。
 田舎のボロな一軒家暮らししかしたことのない中川父母は、エレベーター内のボタンが二つしかない意味が分からない。また同時に、最上階の意味、最上階に玄関が一つしかない意味も。
 そうこうしている内に家に着く。中川父母は、あの婿さんの家っつーんならどんなんだべ、と思っておそるおそる玄関を開けた。
『はぁーーー……』
 二十二年間、この親子は一緒に暮らした。だから分かる。この家は、麻衣子のためにだけ存在すると。
 麻衣子でさえ、しょっぱなから萎縮しなかった。だから中川父母も、かなり広いというのをのぞけば泡を吹いたりしなかった。
 中川母はさっそく台所へ。調理する者が見れば分かる、揃った品で腕前など。
 豊富過ぎて、ラベルを見ても中国語だったり外国語だったりして読めず、もはやなにがなんだか分からない調味料の数々。どう使いこなせばいいか分からない調理器具の数々。値段の桁がいくら違うか分からない、研ぎすまされた種類の違う包丁が何本も。扱う食材によって分けられているだろうまな板が何枚も。ちりひとつ落ちていない、整理整頓完璧な、ぴっかぴかの台所内。
「……麻衣子。お前料理してねえだろ」
 そりゃ分かる、ちょっとでも料理をした者になら。
 麻衣子は明後日を向いた。
「このおばかたれめーーー!! お前よく三行半突きつけられなかったなーーー!!」
 その頃居間では中川父が、テレビのリモコンの使い方が分からなくて四苦八苦していた。
 ささやかな食事の後、親子三人は揃ってのんきにテレビを観た。でっけえなあ、すげえなあ婿さんは。というのが両親の感想。うん、でももう慣れちゃった。それが娘の答え。
「お前……まだ漫画なんか読んでんのが」
 見つけられてしまったらしい。麻衣子は明後日を向く。
「あの婿さんに漫画……合わねえ……」
 その通り。
「あ、あのあの……どこか出掛ける?」
 麻衣子は話をそらすために言ったが、
「このおばかたれめ! もうすぐ結婚するって女がほいほい出歩くな!」
 ということで、室内で話が進んだ。
 中川父母は、政人から二人分の携帯電話を持たされたが、操作が分からないので娘にどうすればいいか訊いた。
 操作を教えて貰いながら、中川父はぼそっと、政人から、自分が養うから仕事を引退してくれ、と言われたと娘に伝えた。
「そうなんだ……」
「まあなあ。おらだづも歳だし。いづまで稼げるがなあどは思っていだ。年金ったってどうせ国民年金だ、何万も貰えねえ。まさが娘に養ってもらえるわげもねえしな……」
 麻衣子、明後日を向く。
「そしたら息子が突然出来でなあ。今でも合わねえどは思っているが、まあ……婿さんの言葉に甘えるごどにするわ」
「そっか……」
 中川母は言う。
「婿さんからはな、田舎引き払ってこっちさ住んでもいいぞって言われたんだ。マンションどがって言うんだべ? 部屋あっから来いってさあ。んでもまあ、東京なんておっかねえし、やっぱ田舎がいいわ」
「うん……」
 それは、麻衣子もそう思っている。直接危機を感じたことは今までないが、昨今のこの国はあまりに危う過ぎる。
「んだがらなあ。おめえ、ふらふら一人で出歩ぐんじゃねえぞ」
「うん、あの……いろんな人に言われた」
 やっぱりなと思う中川父母。それでこうして結婚出来たとはいえ、なんでこんな危険地帯へ一人で就職させてしまったのか。
「ところでおめえ、婿さんと上手くやってんのか」
 ひとしきり、携帯の使い方を教えた後で。
「うん、まあ」
 下を向く麻衣子。父母から見ても奇麗になったと思う外見とは裏腹に、表情は暗い。
「……なんだその煮え切らねえ返事は。こないだのあれはなんだったんだ」
 なにせ爆音響くヘリコプターに家の近所に乗り付けられ、都会然とした立派そうな社会人三人が娘を攫って行った。事前に連絡を受けていたとはいえ、その切っ掛けが中川父当人の電話とはいえ、田舎暮らししかしたことのない中川父母にとっては、結婚の話を受けたあの日からずっとであるが、驚きの連続である。
「だってさっき言ったじゃない。麻衣と政人は合わないって」
 そりゃあ確かに言った。
「正直、いつまで続くかなあ、って、思ってる」
 否定出来ない中川父母。
「いいんだ、いつでも……もし政人の目が醒めて、……そういう日が来たら麻衣、帰るから。部屋空けといてね」
 その時、携帯から音が聞こえた。
 今、ここには三台の携帯がある。だから、慣れない中川父母は、すわ自分のが鳴ったか、と思ったが、麻衣子はさすがに分かる、自分のが鳴ったと。
「あ、麻衣のだから。えっと」
 麻衣子は携帯をかぱっと開くと待ち受け画面を確認して、
「麻衣だよ」
 と言った。
「うん、みんなで食べた。飲んだよ、歯も磨いたし」
 と言う娘の言葉からして、おそらく相手は婿さんだろう、と父母は思う。
「あ、今量る」
 と言って娘は居間から別室へ向かった。戻って来て、父母の前に座った娘は言う。
「えっと、41.3kgだよ」
 母は、なんの話かと思った。
「うん、引いてない」
 父は、なにを引くんだと思った。
「うん、してない」
 父母ともに意味不明。
「お仕事して」
 やっぱり相手は婿さんだと思う。そこで娘は電話を切った。
「麻衣子、なんだ今の、婿さんか」
「うん」
「ちゃんと仕事してるってが」
「うん」
「いつもそうやって電話してんのか」
「うん。ご飯の度に来る」
「……忙しいんでねえのが」
「うん、そう思うんだけど、電話しないでなんて言えないし」
 父は思う。三日で二時間しか暇のない男が三食ごとに電話とは。
 どれだけ惚れられて……
 なのに目の前の娘は今でも自信がないと言う。ほんの少しのことがあれば、泣いて今すぐにでも実家に戻って来そうな。
「さてと。夕ご飯まで時間あるし、どこにも出掛けないんだったら、なにする?」
 のんびりするわ、昼寝するわと父母が言うので、麻衣子は客用寝室へ案内した。麻衣もお昼寝する、と言って、のんきな親子は夕方まで眠った。
 深夜になって。中川母がぐうすか寝る隣で、中川父は慣れない、娘とそっくりな拙い手つきで携帯を操作した。分かりやすいようにらくらくフォン。電話帳には数件しか登録されていない。
「いまむら、まさと……と」
 相手はすぐに出た。
「あーおれだー。悪いなあ婿さん、こんな夜中に」
「いいえ、お義父さん。いつでも構いません」
 中川父は麻衣子にそっくりな表情で照れた。なにせ子供は一人、娘しかいなかった。それが、電話越しでも分かる腰が砕けそうなセクシー満点甘いバリトンでおとうさんと来たもんだ。あんなんでも娘をつくってえがったなあと思う。
「というわげでなあ。おらの娘なもんだがら、今でも不安らしくてなあ。婿さん、がつんと言ってやってけろ」
「がつんとは申せませんが、心を込めて愛を伝えます。この命ある限り」
「やあやあ……」
 さすがに照れを通り越してなにかがかゆい。
「麻衣子に飽ぎねえが?」
「有り得ません。麻衣はいつも、私を新鮮な気持ちにさせてくれます。麻衣の前では、私はなにも知らないただの男です」
「やあやあ……それ、麻衣子に言ってけろな。喜ぶがら」
「仰せのままに。麻衣をよろしくお願いします」
「はぁー、病院さ連れでって健康診断させればいいんだべー。任しとけー」
 翌朝麻衣子は、今日ぐらいは麻衣が作るなどと言って朝食を用意した。しかし。
「……お前。まだ、おかず目玉焼きしか作れねえのか」
 母の当たり前の指摘に明後日を向く麻衣子。
「……あのやあ。納豆っていうのはな。入ってた入れ物から出して鉢に移して醤油とからしを混ぜて出すもんだ。お前、婿さんに入れ物のままで出してんのか」
 顔を元に戻せない麻衣子。
「……分がった。婿さんが飽ぎだっつったらさっさと帰って来い」
 麻衣子は泣いた。当たり前。
 わびしい食事の後、中川父が麻衣子に、病院さ行くぞと言った。
「え? 具合悪いの!?」
「違う、おめえに健康診断受けさせろって婿さんがよ」
 思いつくふしがあり過ぎる麻衣子。まさか事情を言えるわけもなく、うん分かった、政人が言うならその通りにする、とだけ言って両親とともに家を出た。門の外へ。
 中川の父母は、目の前にでかくて長くて黒いものが停まった時、なんだこれ邪魔だなあと思った。
 次に、自分達と同じくらいの歳の男性がどこからか現れ、そのでかいのをすっと開けた時、あれ、これって開くんだなあと思った。
「お父さん、お母さん、乗って?」
 と、娘に言われた時、乗るってなんだと思った。
「あの。これ、車」
 車と言ったらぽんこつの軽しか知らない田舎者二人に、それは酷な言葉であった。
「広いから、乗って?」
 そういう問題ではない。
「えっと、政人どこの病院だとか、言ってなかった?」
 そりゃ言われた。中川父が呆然としながら言った。
「あー……えぐちがどうの……」
「ああ、あそこ。うん、分かった」
 麻衣子は運転手に行き先を告げる。娘に促され、両親はびびりながら車中の人となった。
 麻衣子は珍しく、院内の道を覚えていたので、真っ直ぐあの看護婦のところへ行った。すると話が通っていたらしく、本来時間が掛かる人間ドッグは比較的短くおわった。
 帰りの車中、娘は母に、お昼ないからお母さん作ってと言った。
「なんだお前、あんな朝ご飯だけかひょっとして作れるの。待で、お前一体今までどうやって食ってた」
 麻衣子はずっと外を見た。
 今度は中川母の出番であった。慣れない拙い手つきで携帯を操作、婿にことの次第を問い質すと、
「私は両親に、聖域と定めた恋する妻には愛して貰う以外、なにもさせてはならないと教えられて育ちました」
 さらっと言われた。
「なのに家政婦も執事も主治医すら置かず、麻衣には苦労させました。申し訳ありません」
 そんなこと言われても。
「大いに反省しまして、海外転勤後はきちんと使用人を」
 いや、あのー。
「あのような狭い所ではなく、きちんと庭付きの家を用意しました。もう、なにも不自由はさせません」
 させなさ過ぎんのと違う?
「お義父さん、お義母さん。よろしければ海外に来ませんか。ヨーロッパだけではなく、出来れば世界中。もちろん、一ヶ月や二ヶ月程度の短い期間ではなく。心置きなく悠々とお過ごし下さい」
 いや、あのー。そもそも麻衣子がずぼらだと言いたいんですが。
 その頃、ずぼらな麻衣子はいつもの通り、居間にぼけっと座ってちょっと遅い昼を待っていた。当然、母には怒られた。おばかである。
 結婚式当日の朝。麻衣子は四時に母によって叩き起こされた。
「麻衣子! 起きろーー!!」
 のんびり起き上がった時はともかく、起こされた時の麻衣子の寝起きはすこぶる悪い。都合二十二年間、麻衣子はこの声によって朝起こされて来た。よって、ぐずぐずであるが目を覚ます。
「んー……なによお母さん、あと五分……」
「このおばかたれめーー! 今日はお前の結婚式だぞ!!」
「なによまだ四時じゃない……」
「だからおばかたれって言われるんだ! 花嫁は支度がいっぱいあるんだ、いいから起きろ!!」
 本日は十二月二日。永遠の記念日たる今日、都内に雪など降らないが、寒いことは寒い。外もまだ暗い。
 麻衣子はぶつくさ言いながら母の言う通りにした。それにしても「あと五分」という二度寝のあの恍惚とした心地よさは久々である。もっと味わいたかった、などとおばかなことを考えた。
 親子三人、リムジンに乗る。まだまだ慣れない父母と違い、麻衣子は普通に乗っていた。
「そういえばお前。結婚式の準備って、なにやった」
 明後日を向く麻衣子。
「……あのやあ。結婚式の準備っていやな。その途中、いやになって仲違いするってほど、大変なんだぞ。それ、あの忙しい婿さんに全部任せてたなんて……」
 麻衣子はずっと外を見ていた。
「分がった。このまま田舎さ帰るが?」
 リムジンは粛々と決められた道を通った。
 控え室に行くと、麻衣子にとっては見知った顔があった。いつもの、あの美容院の人達である。
「こんにちは」
 麻衣子はにっこり挨拶すると、ヘアメイク、メイク、ネイル各アーティスト達はにっこり笑顔を返した。
 この三人に、ウェディングドレスを着付けする女性も加わって四人が麻衣子の世話をした。中川母は、さっきの説教を忘れて、奇麗に変身して行く、今日で嫁ぐ娘をずっと見守った。
 定刻となる。娘は母から、父へと。父は純白の衣装に身を包む娘の手を取り、約束の場所まで連れて行く。
 聖堂の扉が開かれると、そこには光り輝く美の神がいた。そして言った、
「美しい、麻衣」
 花嫁はもう、他になにも見えず、聞こえなかった。自分の手が父から離され、美の神へと託されるのも、よく分からなかった。
 一生に一度の、アイルを歩く。拙い足取りを、一生添い遂げるだいすきな夫に支えられながら。
 麻衣子は、雲の上を歩いていた。まさに夢心地。地に足がつかない。ただ聞こえるのは、だいすきな夫の言葉だけ。
「俺と一緒に誓え、麻衣」
「……うん」
 共に声を揃えて。これだけはと、前日両親に教えられた通りに。
『私達は、夫婦として、順境にあっても逆境にあっても、病気のときも健康のときも、生涯、互いに愛と忠実を尽くすことを誓います』
 多分ちゃんと言えたと思う。そしてベールアップ。美の神の表情がよく見えて、最初からそうだったから、最初から教えられたから、その通りした。目をつむり、口を愛する夫の舌の分だけ開けて。あとは見ている周りも濡れちまうような極上ラヴ・シーン。いつもである。
 指輪の交換を。麻衣子はやっとここで気がついた、俺がいいと言うまで外すな、の意味を。そう、あれは婚約指輪。結婚指輪と一緒には出来ない。
 新郎・政人がリングピローから指輪を取り、新婦へ。
 優美な手つきで填めた、その白くなめらかな薬指へ。
 次に新婦・麻衣子が拙い手つきで、新郎へ。
 拙い手つきで填めた。その長い、熱く激しい薬指へ。
 震える麻衣子の左手を優しく取り、政人は自分達の、填めたばかりの薬指同士を重ねる。それへ、二つの指輪ごと、政人はキスをした。くちびるで銀の輪を確かめるように。熱く激しい舌で、搦めとるように。
 その表情。お互いだけを見つめて。
 麻衣 俺のそばにいろ
 うん 政人のそばにいる
 政人は麻衣子の手を護るように、ふたたび手袋を着けて上げた。それから結婚証明書に署名を。もう籍を入れてはいる、法的な拘束力はないけれど。
 麻衣子は一生懸命拙い字で書いた。夫の字は、教科書に出て来そうな文句なしの楷書だった。
 ライスシャワーとブーケトスをおえ、聖堂をあとにする。披露宴のため、日本一のホテルに。
 リムジンの車中では、新郎と新婦がずっと熱いくちづけを交わしていた。もう、何日もしていなかったから。
「ん……ん……ん……」
 生涯ただ一度の、純白の衣装を身に纏う、恋する妻と逢うのは久々過ぎて、政人は自分の感情をコントロール出来なくなった。一生とっておくとはいえ、この姿を見られるのはあと少し。キスもいいが、目を開けて、よく焼き付けておこうと思う。
 透明な糸で繋がれたくちびるを、名残惜しげに離して。
「麻衣」
「政人……」
 やっぱりだめだ。こんな表情の、麻衣子を、全て。
「麻衣。俺は」
「……ん?」
「お前に逢うのが久々過ぎて、狂いそうだ」
「だって……二日前……」
「二日も逢っていない」
「ん……」
「もっとお前をよく見せろ」
「いいよ? 麻衣も、よく見たい……」
「そうか」
「うん……まさと、かっこよすぎて、麻衣、くるっちゃいそう……」
 もう、ここで犯したい。たまらなかった。この欲望に逆らえたことはなく、この炎に灼き尽くされなかったこともなく。
「麻衣……」
 政人は麻衣子の首筋に舌を這わせ、
「政人……」
 麻衣子は政人に腕を回し、
 あとはいつものように、これからも……
 衣装も化粧も髪も全て直さなくてはならないが、こんな麻衣子をもう誰にも見せたくなかった。だが披露宴に是非呼べと友人知人に言われまくっていた。ことの始まりはあの四月一日。その日からばっさり女を断った為、数日を経ずして政人の性癖を知る友人知人ほぼ全員からついに見つけたかと連絡が入った。ただし当時の政人はまだ恋と自覚しておらず、仕事が忙しいからだとだけ言った。しかし忙しいのは前後変わらず。それでもなお体を鍛え、女と遊んでいた政人の言い訳など、誰も額面通り取らなかった。見つけたのだと誰もが思った。すぐに探りを入れた友人達。だが相手は杳として知れず。誰もが思った、さすが今村、聖域をこの自分達からすらも完璧に隠したのだなと。その実態はああである。今村の男は即断実行、友人なら誰もが知るところ。なのに結婚式はあの日から九ヶ月も経ってようやっと。聖域が誰かを調べることが出来たのはつい三ヶ月前。誰もが今日、麻衣子に会いたがっていた。
 もう離れることは出来なかったので、互いの衣装を整えリムジンを出た政人は、麻衣子を抱き上げ一緒に控え室へと向かった。麻衣子は白無垢、政人は紋付袴に着替える。
「ヘーイ花嫁さーん、なんか食わなきゃだめだぜー」
 新婚の空気濃厚で、新郎新婦の世話をする係が当てられて困っているさなかを気にもせず、マイペースに入室して来たのはあの悪友、宿屋の若旦那。晴れの日の今日、政人のたっての願いで、政人と麻衣子の二人分だけ披露宴の料理をつくっていた。このホテルは日本一、イコール御前料理を出す栄えある板場。唯一、客に頭を下げなくていいと言われる総料理長を差し置いてである。
「あ、あの、お久しぶりです」
「ハイ久しぶり。ってなワケで、食べたら」
 悪友が持って来たのは、一見簡単につまめるものだった。
「あんたが主役で一番タイヘンなんだからさー。ここ出りゃそうそう食えない。今のうちに食べとけって」
「はい」
 たったの二口・三口で、緊張の連続ですでに疲れているはずの麻衣子の表情に輝くばかりの笑顔が戻った。この男にだけは政人は妬けなかった。これは、悪友を知れば大多数の男が思う感情。
 披露宴会場では七百数十人からの客が主役を待ち構えていた。その一番末席に座っていたのは、麻衣子の元上司・椎名。
 彼女は、ここに来る資格が充分ありながら、心の中では直前まで、着席を躊躇っていた。その理由。麻衣子側の客はともかく、政人側の客が問題なのである。会社関係では同業ライバル卸業者得意先、とにかく様々だが、その肩書きがまあすごい。全員一部上場企業の取締役以上。新聞ニュースを賑わす有名政治家、芸能人、スポーツ選手も。多国籍な友人はほとんどが大会社のこれまた取締役以上。勤め人でないならば、誰もが一芸以上に秀で、その分野でつとに有名で。
 頼むから一番の末席にしてくれと言った時、貴女の頼みならばと言われてどれだけほっとしたか。
 椎名としては、政人はこの際除外だ。とにかく麻衣子さえ見られればいい。おそらく各席をくまなく回るだろうが、こちらに来たら退席しようと思っていた。
 麻衣子は、聖堂でもそうだったのだから、もう政人しか見えなくて、自分が根性なしであること、本来こんなところに一人で来たら、こんな衣装を着させられたら即ゲロしちまうはずであること、などは全部頭からころっとすっ飛んだ。後日になっても建物内がどうだったかなんて覚えていない。ただ目の前の、美の神だけしか認識出来なかった。
「まさと……すごい、かっこいい……」
 今村の紋付袴姿の新郎をうっとり見上げた。
「麻衣こそ美しい。もう、誰にも見せたくない」
「うん、分かる、麻衣も……」
 その華奢な体に、どうしても重くなる衣装は耐えられるだろうか。一生見ていたいが、今すぐ脱がせて楽にさせてやりたかった。
 共に、披露宴会場に向かう。まぶしいスポットライトが当たって、麻衣子は目をしかめた。
「では、いよいよおふたりのご入場です」
 プロ中のプロによる司会で、二人は高砂に向かう。麻衣子はまた、雲の上を歩いていた。夢心地で、地に足なんかつかなかった。
 どう見ても、一分一秒が麻衣子の負担になっていた。政人は、この日を待ちわびながら、麻衣子のこの姿をずっと見ていたいと思いながら、早くおわってくれと願った。恋を知ってから始まった数々の矛盾、もどかしさ。今村をもってしてもいかんともしがたい現実。
 媒酌人による新郎新婦の紹介が始まった。政人は友人知人に、どういうなれ初めか言わなかったので、ここで初めて明らかにされた。時期は予想通り四月一日。入社式でと説明されると、誰もが「なぜ今村ともあろう者がペーペー揃いのそんな場に行ったのか」と思った。そしてすぐに、椎名が言ったように、その日以前に知り合ったのではないか、と考えた。しかし、女遊びがその日に止んだのは周知の事実。これは後でもっと訊き出さなければと誰もが思った。
 乾杯のあと、政人がサーベルを持って見事なシャンパン・サーベラージュを披露した。麻衣子はまたまた夫に見とれた。
 ウェディングケーキ入刀は、麻衣子の様子を考えれば止めておけばよかったかと政人は思ったが、なんとあの麻衣子が知識として知っていたらしく、ケーキが嫌いなくせに嬉しそうに入刀作業を行っていた。政人はまたまた妻に見とれた。差がある割には似たもの夫婦である。
 ここでお色直し、出席者は食事を開始する。お色直しとはひたすら花嫁のためにあって、要するにトイレとかしておけという意味もある。あとは、なにせ主役で忙しいので、この合間にまたなにか食っておけということ。控え室では、またまた悪友がやって来ていた。
 会場出入り口付近に、新郎新婦の両親の席がある。田舎者の中川父母は、ここで初めて政人の両親に会った。
「あ、あの、このたびは麻衣子が、その……」
 引退した今村の男女がここまで長時間抜くのはこの行事ぐらいなものである。まさかそうとは知らない中川父母。
「初めまして。私達の娘を生み育てて下さって、ありがとうございます」
 今村に言われて、中川父母はほっとした。あんなに合わない麻衣子が息子を誑かしたのかとか、まさか言わないべなとは思っていたが、この様子では歓迎されているようだ。
 新郎新婦がお色直しして出て来た。キャンドルサービス、政人を知る、麻衣子を知る出席者が待ち望んだ瞬間。
 麻衣子は誰が見てももう一杯一杯である。なのに七百数十人全員の相手をしなくてはならない。政人は、必要とは分かっているが披露宴を催したことを力一杯後悔した。
「だ、だいじょうぶだから」
 なんて言われたって信じられるわけがない。元々心が折れていた麻衣子。こんな人間に、頑張れという言葉を用いるのは最低である。
「あ、あの、まさと、みんなまさとにあいたがってたの、だから、ね?」
 政人に出来ることは、トーチを持ち、麻衣子の腰に手を回し、支えてやることだけだった。
 まずは新婦側の席を回る。やっぱりとは思うが、全員政人を見て固まっていた。写メは何枚も送ったし、一瞬だったが実際見せても、こんな格好の実物はやはり格別。歳の差以上の、人間として月とすっぽんの差は歴然である。本来友人達は、政人にどうやって、なぜ麻衣子を見初めたのと訊きたかったはずだった。だが、会場が日本一のホテルという段階で皆足がすくんだ。皆衣服をどうすればいいか困り果てた。ようよう着席すればこの通り。結局、この席の人間は誰も一言も発せず。一切余裕のない麻衣子は性分能力の通り事情を一切察せず、みんなよろしくね、とだけ言って、一生懸命政人について行った。
 麻衣子側の客の反応は予想通り。問題は政人側の客の反応である。四月の初めから詮索されていた。だったら実物と直に話してやる、披露宴でな、と全員に言われていた。まさかその通りにする訳にはいかない。だから政人は、事前に手を打っていた。
 政人側のとある招待客が、すっと名刺を差し出す。麻衣子は、誰もが自分ではなく、政人に用があるもんだと思っていた。が、どうも自分に対してのようだ。
 麻衣子には社会人経験が致命的に欠けている。だから、名刺交換の仕方すらろくに覚えていない。未来の夫のですらあの通りだった。よって、麻衣子は「これなに?」としか思えなかった。
 だが政人の客とくれば人生経験あり過ぎの、いずれ劣らぬ狸か狐。麻衣子のこの反応で、そういったことを見抜けぬはずもなく。
「花嫁さん、あなたにです。僕は」
 と、自己紹介し出したのは政人の友人。そうと麻衣子には分からなくても、なんとか政人以外に目線を向けると、どうもこの人物は金髪碧眼ハンサムだ。
 えーっと……日本語うまいなあ。
 全くおばかな感想しか抱かない麻衣子が、出された名刺を珍しく見ると、こう書かれてあった。
“トミー・ジョーンズ
 住所 アメリカ合衆国ニューヨーク州某
 電話番号 某
 メールアドレス 某”
 某はともかく、その名刺は日本語で書かれてあった。また、顔写真まであった。
 さすがの麻衣子も、外国の人の名刺といったら、その国の綴りで書かれるのが普通じゃない? と思えた。それがカタカナ表記。
 実情はもちろん、麻衣子の能力に合わせてのもの。調べりゃすぐに分かること。性分は分からなくとも。
 名刺は、政人の客全員が顔写真付きのものを政人にではなく麻衣子に差し出した。どんな国籍の者であっても全員流暢に日本語を喋り、日本語で麻衣子に挨拶し、麻衣子が読める名刺を出した。増え続ける名刺を麻衣子が上手く持てるはずがなかったので、麻衣子が目を通したあとは政人が持った。
 誰もが麻衣子に訊いた。
「あなたは今村にどう愛されていますか?」
 誰もが訊かなかった、政人に、なぜ今までの女ではなく、麻衣子を選んだのかを。政人の性分を知っていればこそ、そんな質問は出さなかった。
 麻衣子は困った。どうって、あれを言えって言うの?
「えっとえっと、あの……」
 麻衣子は真っ赤になって恥じらった。でも、客にとってはこの反応で充分。そこまで愛されているか。あの今村が、今まで誰にも抱かなかった独占欲を持ったな? やっとか。
 誰もが麻衣子を微笑ましく思った。皆に訊かれ、しどろもどろになっている麻衣子を、それはそれは心配し、過保護な態度で見守る政人を見られたのにも満足した。なにせ政人は、自分から君を愛していると女に迫ることもある割にはその文頭に、他にも大勢いる、数日しか続かなくても良ければ、と必ず足していたのを知っていたから。
 麻衣子は疲労が蓄積していた。疲れた、重い……なのにみんな政人ではなく麻衣子に話し掛ける。これが日本語以外で来られたらむしろ楽だった。だが全員日本語。応えないわけにも行かず。長い、長い時間だった。