13

 金曜日。政人は家に帰ると、夕飯を食わせて歯を磨き、風呂に入って、それから麻衣子をやったが、夜通しはしなかった。だから、麻衣子は翌朝八時、割と普通に起きた。政人のキスで。
「ん……」
「起きろ麻衣。今朝の八時だ」
「ん……」
 なんだか、懐かしかった。
「なんようび……?」
「土曜日だ」
「あれぇ……?」
 土曜の朝八時なんて、抜かずされているのに……
「飯だ。起きろ」
「ん」
 麻衣子は政人が自分を横抱きするのと同時に、政人の首に腕を回した。
「麻衣。カレーは好きか」
「大好物!」
 政人は思わず吹き出しそうになった。これもお初。
「そうか。俺のカレーは時間が掛かる、昨日からつくっているが明日の夜まで待て」
「……?」
 麻衣子は、本式のカレーがそんなに日数を必要とするものであるなどまるで知らない。
「あの……麻衣でも、カレーは作れるんだけど……」
 そんなのはキャラ的にもう分かっている。どうせレトルトに毛が生えた、小学生が遠足で作るようなカレーだろう。
 とは言わなかった。政人は麻衣子の作った飯を食いたいと思わないでもないが……
 家事は、もはや埋める余地などないほど二人の間には完璧に差があり過ぎる。これはもう、政人はそのままにしようと思った。
「ビーフカレーだ。出来るか」
「……。ごめんなさい」
 麻衣子はさっさと白旗を上げた。その方がいいぞ麻衣子。
 朝食の後、シャワーを浴びながら一発、それから寝室に入って一発。その後、少し休憩を取った。
「起きろ麻衣。今土曜の正午だ」
「ん……」
 麻衣子は常に寝ぼけている。
「ぬかないで……」
「その前に飯だ。起きろ」
「ん……」
 昼食を摂りながら、麻衣子はいつものごとく唐突に、脈絡のないことを訊いた。
「あの、この間喫茶井上のマスターさんとお話したの」
「そうか。どんな話だ」
「あのね、麻衣、コーヒーは胃に悪いものだと思い込んでいたの。でもマスターさんは、そんなこと思われちゃ商売上がったりだって」
「そうか」
「うん。それでね、政人はコーヒー淹れられる?」
「飲むか」
「うん!」
 恋する妻の望みを叶えるべく、食後に政人は空いた食器を持ってキッチンに向かった。
「麻衣も手伝う」
「麻衣。今村の女は?」
「う。……政人にやられる以外しちゃいけない……」
「そうだ」
「でも、政人がいない時は麻衣が……」
「食器ならその辺に転がしとけ」
「そんなのやだもん」
 豆が挽かれる音がする。するとすぐに、コーヒー豆の香しいにおいが漂った。
「……どうして政人は、麻衣に最初、コーヒーじゃなく紅茶を淹れたの?」
「なんとなくだ」
「ふうん……」
 政人にしてはあやふやな返事だと思った。
 だがこれは事実だった。政人は片想い中、ただ麻衣子を横目で眺めるしか出来なかった。想いが募り、麻衣子のあの六畳一間のアパートに行っても、何度呼び鈴を押しても、出てはくれなかったから。
「麻衣。クリームを入れて飲め」
「……うん」
「ひょっとしたら麻衣は、甘いものが苦手か」
 政人は、おそらくそうではないかと思っていた。まず、連れて行ったスーパーで、甘いものには全く視線を向けなかったこと。紅茶を何度淹れても添えたシュガーを使わなかったこと。高い店へ飯に連れて行っても、食後のデザートには一切手を付けなかったこと。そして元からの、この痩せやすい体質。
「っていうか、嫌いなの」
 やはりか。
 女性はまず甘いものが好きだ。飯の代わりに食っているという人間すらいる。どれだけダイエットをしてもケーキの前に自滅した、そんな例はたくさんある。
「あんなの砂糖がただいっぱいあるだけ。甘ったるいの麻衣嫌い」
「俺がケーキを作ってもか」
「……そんなことも出来るの?」
「調理師免許を持っている」
「えーーー!?」
「俺にはいろいろな友人がいるが、中には悪友と呼べる者もいてな。俺が料理を習ったそいつは、今度連れて行く旅館の若旦那だ」
「……いろんな人、知ってるんだね……」
「この歳になればな」
「ふうん……」
「麻衣。俺のケーキなら食うか。砂糖は出来る限り減らす」
「……うん。食べてみる」
 死ぬほど食わせてやろう、飯は高カロリーなものを出そう、こうなったらぶくぶく太らせてやる。政人はそう思うのであった。
 やりまくらずしっかり飯を食わせた後の月曜日。朝も、政人は麻衣子に飯を食わせた。
 そういえば、初めてじゃないのかなあ。と、麻衣子はぼんやり考えた。
 それにしても夕べのカレーは美味しかった。お店で出て来るカレー以上。調理師免許まで持ってるなんて。
 すごいな、麻衣の旦那様は。麻衣子は心底嬉しかった。
 朝七時半に政人を見送る。政人からは、うとうとする時はふとんだ、忘れるなと言われた。その通りにする麻衣子。犬でよかったね。
 昼になり、政人から電話が来た。
「麻衣。昼だ、飯を食え」
「うん。今から」
「食ったら体重を量れ。それから電話しろ」
 ひとつ増えてる。
「……うん」
 犬なので、その通り食べる。食器はその辺に転がせと言われたのでこれまたその通りに。さらには体重計に言われた通り乗る。全く犬。
「政人。食べたよ。体重は……」
「言え」
「あの。……女の子は、すきな人に、体重が何キロかなんて言いたくないものなんだけど……」
 なんとあの麻衣子にしちゃしゃらくさい。
「他に誰に言う気だ」
「う。……40.1kgでした」
「殺す」
 ひえー。まだ言われるの?
「よし、四十キロ台になったな。もう三十キロ台になどせんぞ。会社でケーキを作るから何十個も食え」
「……あのね。いくら麻衣でも突っ込むの」
 いつからお前はエセお笑いに。
「あの会社のどこに台所があるの。そんな暇ないでしょう。何十個も食べられないの。甘いものいやだって言った」
 社食があるのでそこで作れますが?
「だったらデザートを食え。冷蔵庫にある。野菜ジュースも飲め、それから歯を磨け」
 野菜ジュースって結構カロリーあるんですよ麻衣子。
「……それでさっき歯を磨けって言わなかったの?」
「そうだ。いつも飯は温めて食うものだと思っているだろうがこれからは冷たいものも食い飲みしろ」
「あの。季節はこれから冬に向かっていると思うんだけど……」
「なんだ。俺達の家はそんなに寒いか」
「……ううん。麻衣、寒いとか熱いとか思ったことない」
「なんだ。俺に抱かれている時熱いと思ったことがないのか」
「……それは。いつも、熱いよ。政人」
「俺もだ。麻衣はいつも熱い」
「……うん」
「風邪は引いていないか」
「うん」
「隠し事はしていないか」
「う。……してない」
「他になにか言いたいことは」
「お仕事して下さい!」
「殺す」
 もう、それで電話切らないで……
 夕飯は青椒肉絲だった。見るからに高カロリー。
 でも、中華は食後にジャスミンティーとか飲むから、そんなに油が胃に溜まらないんですよ麻衣子。
 デザートの皿は今日の二食分きっちりあった。こんな、繊細な盛りつけのものをいつ作ってるんだろう……
 お前がいかされた後に決まっている。
 夕方、政人から電話。
「麻衣。飯は食ったか」
「うん」
「デザートは。ジュースは」
「食べたし、飲んだ」
「歯は」
「磨いた」
「体重は」
「……。40.1kgで……なの」
「増えなかったか。だったら」
「待って! 麻衣、もうおなかいっぱい!!」
「麻衣は果物が好きな割に甘いものは食わないんだな」
「う。……あの。うち、あんまりお金持ちじゃなかったから、家族揃って高いケーキとか年に一回二回しか食べられなかったの。そうこうしているうちに味とかに馴染まなくて」
「俺は金持ちだ。死ぬほど食え」
「そんな言い方ってないと思う……」
「風邪は引いていないか」
「……うん」
「隠し事はしていないか」
「し。してない」
「他になにか言いたいことは」
「お仕事して!」
 翌日十時、藤村は内線電話を受けた。
「はい、営業三課のステキな藤村君でーす」
「お前ともう一人に。俺達の式にも披露宴にも来るな」
「……へいへい。おいでなすった……」
「知ってはいるが、念のためお前の携帯番号を」
「……へいへい。090のー。ところでさ」
「なんだ」
「上條にこの電話、回さなくていいのか?」
「そんな者は知らん」
 それで切れた。
 ……へいへい。
 政人はもう一度内線電話を掛けた。
「はい、庶務一課の椎名です」
 麻衣子の元上司、あの主任だった。
「今村だ。いい加減、私の執務室に来て欲しいのだが」
「ご冗談を。この電話で結構です」
「では私がそちらへ」
「それだけはご勘弁下さい」
「どうやったら、貴女の恩に報いられる」
「そのお気持ちだけで充分です」
「麻衣共々、それだけでは済まない。何故式には出ないと?」
「披露宴だけで充分です」
「麻衣が泣く」
「それは、許せませんね」
 分かっている。主任は、政人がなんらかの事情で麻衣子を複数回泣かせたと見抜いている。この女性を侮るなど、政人は一度もしていないが。
「麻衣は貴女を慕っている。これからも宜しくお願いする」
「承知しました」
 政人は家に寄った時、麻衣子の携帯を勝手に操作して上條のデータを全て消した。気付くまい、そう思いながら。
 今度の金曜は飯を食ったらすぐ京都へ行く。そんな頃、政人は自覚していた。結婚式の直前一週間、麻衣子に逢えないと言った自分の言葉に。無理だと。
 しかも麻衣子は片道二時間も離れた所へ行く。確かに約三ヶ月前は、我慢出来ると自信を持って言った。だが今は?
 乱パの友、あの悪友、宿屋の若旦那にはこう言われた。
「ってなワケでー。二泊三日、完全貸し切りの予約承り。お代は当然九ケタ、いつもの通り現金ニコニコ一括前払いで」
 全く、このマイペースが崩れる時はあるのだろうか。
「相談がある」
「そ」
「部屋は一室でいいが、結婚式前の一週間、空いていないか」
「ふーん。あんただったら、あの空き部屋があるけど」
「雪の間か。あの男に殺されるぞ」
 雪の間とは、あの宿屋にある最上級の特殊な部屋で、たった一人の客のために作られた。あの男とは、政人と気が合わない同門・同い年の人物。雪の間に泊まれる唯一の人物とは、その男の聖域である。
「返り討ちするに決まってんじゃん」
「そうか。予定時刻を知らせてくれ、是非見物したい」
「ところで理由訊いていい?」
「節介か」
「そ」
「光栄だ。俺の聖域、麻衣は家事能力が一切ない。放っときゃ同じ飯を何度でも食う。モップにすら蹴躓きぶっ倒れ頭を打って昏倒だ。外に出せば迷子になりナンパされ断れもせん。面倒を見る人間が必ず必要だ」
「ああ、あんた使用人なしで暮らしてんだもんな」
「そうだ。新婚旅行の時間を作るため、直前一週間は会社に缶詰だ、自宅に寄れない。最初はその間、麻衣の実家に戻って貰おうと思っていたが」
「が?」
「俺のせいで、九ヶ月で10kg近く痩せた。160cm近く身長があるのに三十キロ台に陥った。お前ならそんな目には遭わせまい」
「そりゃそうだけどー。あんたもうすぐ海外転勤だろ。実家に戻した方がいいんじゃない? 俺ん所の方が距離あるんだぜ」
「そこで相談だ。どうしたらいいか迷っている」
「リョーカイ。部屋は空けておく、お代はいい。もう少し考えたら」
「ありがとう」
 正確に言うなら、京のあの宿屋は温泉旅館じゃない。ガイドマップには絶対に載らない超一流の料亭旅館だ。だが麻衣にそれを言った所で今でも萎縮されるだけ。
 全てを言う必要などどこにある。嘘という潤滑油が必要なように。
 金曜夜八時、自宅に戻る。麻衣にキスをして。
「ごはん食べて行くの?」
「そうだ。目的地は遠い、京都だ」
「京都……」
「行ったことはあるか」
「ううん。ない」
 この返事で、政人はやはりあの一週間はあの宿にいてもらおうかと思った。悪友がついていてくれるなら、どんな警備の者よりも心強い。別に自分が揃える警備の者の腕が悪いわけではない。ただ、麻衣子と楽しくおしゃべりしながら警護することは出来ないのだ。だがあの悪友なら。
「京都見物でもするか」
「……いいの?」
 麻衣子の表情。わくわくしている。
 今までのお出かけ先に、風景を見物する、はなかった。ここは都内、星も見えない。ネオンなど見せる気にもならない。だがあの土地なら。
 ゆっくりじっくり飯をつくって、ゆっくりじっくり食わせる。
「あの……京都って、遠いでしょう。新幹線動いてる?」
「ビジネスジェットで行く」
「?」
「飛行機だ」
「……」
「俺のじゃない。悪友が所有している」
「……」
「吐くか」
「……ううん……」
「場所が場所だからな。和服で行く。きつかったらすぐに言え」
「うん……」
 もう時間が遅い。やりまくるのは止めて、キスと愛撫だけで京へ移動。麻衣は足りないと体中で言って。
 ……手放せるものか……
 この旅館へ来るのは政人も初めて。黒塗りを降り、麻衣子を抱き上げ、灯籠に守られたゆるやかな坂をのぼる。その先に、悪友が待っていた。
「おいでやす」
 麻衣子はさすがに、降りて挨拶をしたいようだった。だが政人は離したくなかった。
「メシは」
「食って来た」
「風呂は」
「世話になる」
「そ。お客さん二名様ご案内ー」
 時間はもう、日付を超えそうだった。だから、この宿自慢の飯も、芸妓も舞妓もなく、とにかく風呂に入った。純和風、自慢の檜風呂。成城の実家も広いが、ここも全く引けを取らない。
「まさと……」
 分かっている。麻衣は足りないと想っている。
 俺がお前に、負担など感じさせるはずないだろう?
 それ以上言わせず、望み通り風呂場で。後ろから、最初は前、次は後ろ……
 あとは二階の上室で。久々に日本家屋で、麻衣子を堪能した。なにせ政人は三十年近くこんな部屋で生活して来た。やはり、あの親共がくたばったら成城に戻ろうと思う。
 午前三時で止めにした。あとは麻衣子の真っ白な、なめらかな肌をずっと撫でながら、久々に熟睡した。
 麻衣子はその後、緩慢に目覚めた。お気に入りの時計は防水でもなんでもないから、お風呂に入る前に外していた。それは政人が持っているはず。真っ暗ではないがそれだけで、時間は分からない。
 いつもは意識が戻ると同時にキスが来るのに、今日はない。
 まさかまた……
 ううん、と首を振って横を見たら、夫が寝ていた。
 麻衣子は思わずあっと声を出しそうになった。政人の寝顔なんて、初めて見た。
 ゆっくり顔に近づくと、聞こえるか聞こえないかの寝息。寝ている、確実に。
 いつも家事まで全部させて。いくら今村の女がどうと言ったって、この人は激務なのに。
 夕べははしたなく、お風呂場で誘ってしまった。そういえばここは温泉旅館。温泉に気持ちよくゆっくり入れてあげなくて、なにが専業主婦なの?
 どうして愛してくれるのだろう。どうしてそばにいろといつも言うの? 麻衣のどこがいいの? 欠点だらけって、分かっているでしょう?
「麻衣……」
 いけない、起こした?
 思わず息を止めると、政人は目を開けない。寝言のようだ。
 夢ですら、麻衣を……
 ふとんから覗く政人の体は、それはそれは鍛え上げられていて。どうやったらこんなふうになるの?
 麻衣子はつい、自分の二の腕をつまんでみた。筋肉まったくなし。次にあばら。相変わらず骨が浮き。
 さすがに、麻衣子としても三十キロ台はショックだった。その通り言ってしまえば政人のこと、即会社を辞められそうだったから言わなかっただけ。
 隠し事はしていないか。
 最近になってから、三食ごとに必ず言われるこの言葉。
 してるよ。いっぱい……言えるわけないじゃない……
 麻衣子は二度寝をすることにした。その時、夢を見た。入社式の風景だった。麻衣子は、あの人を見ていた。
 なぜこんな、ペーペー揃いの場にあの人がいたのだろう。それは謎だ。だが、とにかくいた。それだけで、女子社員ほぼ全員の目がその人に釘付けになる。男性社員だって、畏怖とともにその人を見る。その人は誰も見ず、ただ会場を見渡して、それだけでどこかへ消えた。
 麻衣子はそれから、その人が同じ会社の人であると思い込み、出社すれば逢えると信じた。だから会社に行くことは苦痛ではなかった。いくら誰に怒られても、いつか逢える、と。
 ただの憧れだった。そう多分、これが初恋……
「ん……」
 その人のキスが来た。ああ、これが現実。夢でも幸せにしてくれる人。
 麻衣子はこれしかキスを知らなかった。深いなんてもんじゃない極上のキス。歯列を舐め、舌を蹂躙され、吸われ唾液をたくさん飲んで。いくたびも角度を変え、教わった通り鼻で息して。
「麻衣。眠いか」
「ううん……」
「眠いなら、まだ寝てていい」
「ううん……起きる……」
「いい、麻衣。ここは旅館だ、時間は気にするな」
 麻衣子は首に腕を回した。こうすれば政人は……
「麻衣」
 愛してくれるの……
 一発だけで、朝の九時には起こされた。最近までだったら飯も忘れて抜きもせず、だったが、あの件以来、たとえここがのんびりしていい、家事もしなくていい旅館といえど政人は麻衣子を必ず叩き起こす。
「飯だ麻衣。食え」
「うん」
 そこらの旅館と全く違い、一気に皿がテーブル一杯に並べられるわけはなく。
「あんたさー。食えはないだろ食えはー」
 麻衣子は夫の悪友というその人を見た。さっきから、丁度いい、ぴたりとしたタイミングで次の食べ物を運んでくれる人。
「あ、あの。初めまして、今村麻衣子です」
「ハーイ初めまして。俺は」
 名前は割愛。
「あんたの亭主の悪友。ってなワケでー。俺のことは若旦那でいいぜ」
「はい」
 麻衣子はなんだか楽しくなった。
 食べおわると、麻衣子の機嫌は極上になった。ついついキャハハと大笑い。
「ま・さ・と。どっか遊びに行こう!」
「分かった」
 政人は知っている。どれだけ貪欲な自分の向学心をもってさえ、悪友が揃えている自慢の調理場の器具にすら敵わないと。なにせなに一つ、市販はおろか、まともに売られてもいないのだ。それどころか、全ての品がこの国にたった一つ二つしかないという代物。
 本当の美味しい料理とは「美味しい」とは言わせないそうだ。ただ楽しくなり、声まで上げて笑わせるそうだ。
 今の麻衣がそれだった……
 分かっている。少なくともこと料理という分野に関し、あの悪友の背には、近づけもしない。
 政人と気の合わないあの男も料理をし、聖域を雪の間に泊めているが、聞けば投宿後一ヶ月は聖域に料理をつくってやれないそうだ。味を比べられるから。つくっても、味がしないから。
 悪友に言われた。
「あんたの女房体調最悪だな。その程度か。
 2kg増やす。あとはなんとかしろ」
 政人は、有名どころへと行く修学旅行生に混じってキャハハと声を上げながらはしゃぐ、恋した妻をずっと見守っていた。
 宿屋に戻り、夕方入った風呂では、麻衣子は政人にゆっくりして貰いたくて誘ったりはしなかった。しかし政人は麻衣子といると常に欲情する。日中は外にいて、人の目があってやれなかった。たっぷり溜まっていたのだ、政人は麻衣子を遠慮なくずっこんばっこんやった。
 どうしてこうなるの……と麻衣子は思ったが、いやと言えるはずもなく。
 夕飯をキャハハと食べ、余興の時間がやって来た。社会経験も人生経験もない麻衣子のこと、芸妓舞妓遊びなどしたことはないだろう。ここの踊りはただ見せるだけでもいい経験になる。なにせこれ以上はないのだから。
「初めまして……」
 そう言って、今村夫婦が泊まっている二階の上室へやって来たのは当宿自慢のデラ別嬪、女将。
 麻衣子はとにかく驚いた。なんといってもその容姿。今まで見た拙い人生経験上、一番の美人である。そして多分、これ以上の女性は見ないと確信を持って言えるほど。
「ま、ま、政人、すっごい美人! 政人に似合う!!」
 政人はこの場にいる、女将の後ろに控える悪友を一瞥した。女将の存在は知っていた、どれだけデラ別嬪であるかも知っていた、この二人は女将と宿屋の主という関係でありながら同じ場には決して揃わないということも知っていた。
 麻衣子の情報は事前にある程度渡した。この反応は、この業界で右に出る者はいないと豪語する悪友ならばこそ予測し得たはずだ。なのに前例の全てを打ち破って女将をこの場に呼ぶとは。
 確かに女将は前職が舞妓だった。料理の腕も超一流。悪友さえいなければ、彼女こそがこの業界で右に出る者はいないと豪語出来るほど。
「あ、あ、携帯! 政人ちょっとこっち来て、撮るから!!」
 麻衣子は興奮気味。麻衣子の性分能力では、今自分がやっていることが周りに、なにより政人にどう取られるかなど分かるはずがない。
「政人、ね、並んで? すっごいすっごい、まるで王様とお后様!」
 政人が動くわけもなく。
「申し訳あらしまへんが……あてには好いた人がおりますの……」
 女将は声まで奇麗だった。全く完璧な京美人であった。
「あて……その人以外と一緒になりたくないんどす……」
「あ……」
 ここまで極めつけの、今初めて会ったとしても日本一! と思うデラ別嬪にこう言われて、さすがの麻衣子もわがままを止めた。
「あ、あの……ごめんなさい……」
「いえ、気にへんといておくれやす。ほな、余興を……」
 麻衣子は吸い込まれるようにその踊りを見た。絶対に忘れはしない。外見も、おそらく内面も、もうこれ以上のものを見ることはないのだから。
 正確に言えばこれ以上の舞い手はいて、それが後ろに控える政人の悪友であるのだが、悪友と女将は常にそばにいる男女でありながらそういう関係にはなく、また、冷え切っていたので、二人同時に舞うことも、前後して客に見せることもなかった。
 その晩、麻衣子をやりまくっていかせまくって寝かせた後、政人は悪友に電話した。いくらなんでも文句を言ってやりたかったから。
「何故呼んだ」
「いいじゃん別に。どーせあれ以上見ることないって」
「お前の舞いがあるだろう」
「悪いけどー。気が変わった」
「何故」
「なんとなく」
「それで俺が気がおさまると思うか」
「あんた女房のどこがいいワケ?」
「欠点だらけだ。そこがいい」
「そ」
「お前は自分の聖域のどこがいい」
「石頭なトコ」
「そうか」
「男はみんなバカだって」
「確かにそうだが俺の質問に答えろ」
「気分悪かった?」
「当然だ」
「じゃ。二度はない舞いを見せよう」
「なんだ」
「俺と女将で同時に」
 女将の想い人は悪友だった。互いにそうと知りながら、この業界ではなぜあの二人は一緒にならないのかと誰にも言われながら、この二人の関係は冷え切っていた。
 この二人で同時など、雪の間の客も、悪友の聖域すらも見たことはない。
「分かった」
「撮影禁止ー」
 翌日夜のめおと舞いは、間違いなく、この星一番だった。